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 上空惑星紀行

 エラ・マリンスノウのラジオ「氷河(フィヨルド・)漂流記(ダイアリ)」が流れている。音声だけのラジオなど、聴いているのはこの惑星でもごく少数だろう。
『ハロー! みんな元気かしら? 私、エラ・マリンスノウの送るフィヨルド・ダイアリ! この番組は有志によるアマチュア放送です。っても今時ラジオ会社なんてどこにもありませんけど。さ、BGMはちょっと古い音楽。ラスター・スタンダード・トリオで「ムーンライト・スウィング」知ってますか? ジャズっていうのはずっと前、西に大陸があった頃人々が生み出した音楽で、もともと楽器なんて全然弾けない人たちが始めたんですって。すごいわよね。さて――』
 このラジオがかかっている数少ない家にコウ・タカシマはいた。彼は聴こえてくるピアノの音色に耳も貸さず、目の前の気晶モニタに映る仮想世界(ウェブ)に没頭していた。そこでは美しく咲き乱れるハシバミやタンポポ、サクラが彼を迎え、どこまでも続く草原が夢と希望をもたらせた。コウはもうすっかりこの世界に入り浸っており、どこに何があるのかも隅々まで知っていた。
『やあコウ、西のギルドが国王の出したハントに成功したらしい』
「そりゃ結構なこった。僕はそこまで大金がほしいとは思わないけどな」
 ウェブフレンドにコウは答えた。
 ディスプレイには思念チャットによる文字が絶えず浮かんでは消える。それはどれだけ離れた場所にいる人とも意思疎通を可能にする手段だった。コウは引き続き思念を飛ばす。
「誰もかれも何だってそんな金に執着するんだ?」
『そりゃウェブも現実も同じだよ。誰だって生きてりゃ豊かな暮らしがしたいのさ』
「豊かな暮らし、ね」
 ウェブのコウは仰向けに寝転んだ。ヒスイ色の空が微細なグラデーションをともなって青色に変わっていく。コウは夕方が近いことを知った。ここでの時間は現実とシンクロしている。
『ま、お前さんみたいにただ生きてりゃいいって連中もウェブじゃ珍しくないけどな』
 コウのフレンドは隣に腰を下ろして言った。
 ウェブは現実とほとんど変わりない世界だ。違いといえば、現実にいる自分があらゆる意味で「動かない」ことだけだ。
「コウ!」
 呼び声がした。画面の中からではなく、外から。
「ああもう、またウェブに入り浸ってるのね」
 快活な少女の声だった。しかしコウはまるで答えようとしない。
『コウ、聞いてるか人の話』
 フレンドが言った。コウは気を取られてウェブでの話を聞き逃していた。
「すまない。ちょっと邪魔がはいって。でも気にしなくていい。放っとけば――」
 そこで会話は途切れた。
「コウ!」
「何するんだヒバリ!」
 現実のコウは振り返って言った。ウェブを表示していた気晶ディスプレイが、部屋の壁とコウの間に消えた。半円形の家の内部はこざっぱりして、生活に必要な家具や器具以外はほとんど何も置いていなかった。いくつかある丸窓はすべて閉め切られており、室内には電気による明かりだけがついている。
「うふふ。技師資格一級もちの私にかかればこのくらいちょろいものよ」
 ヒバリと呼ばれた少女は、茶色がかったボブカットを軽やかに揺らせて言った。コウは真顔で、
「何したんだ」
「さあーてね。何でしょうね。知らないわ。引きこもってばかりのあなたに想像する力がまだ残ってるかしら? ん?」
 ヒバリはハードウェア技師が使うハンド・カスタマイザーを手に笑った。コウはヒバリを睨みつけたまま、
「マスタ電源をぶっ壊したのか」
「ブブー、近いけどハズレ。正解はね」
 ヒバリは指を鳴らした。非常灯だった明かりが元に戻る。
「停電を起こしたのよ。古い言い方をすればブレーカを落としたの。私がマスタ破壊なんて野暮な真似するわけないでしょ。さ、続きに戻るならどうぞヒキコモリくん」
 再起動したモニタを示してヒバリは言った。コウは聞こえるようにため息をついて、
「どうせまた消すんだろ。ふざけるな」
「あら、よく分かってるじゃない」
 ヒバリはいたずらっぽく笑った。彼女はコウの幼なじみだ。この惑星に生まれてから、コウが最初に覚えている記憶にもヒバリが出てくる。
「んで、用件は何だ」
 コウはぶしつけに言った。ヒバリは満足そうにうなずいて、
「外に行きましょう。今日もいい天気よ」
「やなこった」
「あ、それじゃ今度こそマスタをエレガントにぶっ壊してさしあげようかしら?」
「分かった行く」
 コウはしぶしぶ立ち上がった。細身のわりに緩慢な動きだった。
「運動不足もいいところね。見てて愉快なくらいよ」
「お前さ、誰に対してもそんななのか?」
 コウがヒバリを睨むと、
「そんなわけないじゃない。普通の人には親切よ」
「僕はその『普通の人』には入ってないのか」
「一日中、いえ、一ヶ月、ああ、一年中ウェブなんてものに没頭してる人にどうしたら普通なんて呼び名がつくのかしら? さ、カモンカモン」
 ヒバリは軽やかに部屋を出た。コウは重い足取りで後に続いた。
 海洋惑星メトロ・ブルー。
 温暖化により海面が著しく上昇したこの星では、海上に設けられた居住区で人々が暮らしている。居住区には集合住宅であるビルドと、半球形の一軒家であるドームがあり、コウは街はずれの海辺にあるドームで暮らしている。
 もうずいぶん昔から、この星の陸地がしだいになくなっていくことは懸念されていた。が、人々はついに海洋化をくい止めることができなかった。その間、文明だけは飛躍的な発展を遂げたものの、引き換えに多くの生物が絶滅した。
「あいかわらず海しかないな」
 コウがつまらなそうに言った。ヒバリは背伸びをして、
「でも私はこの星が好きよ。だってこんなに綺麗だもの」
 ドームから街へ至る桟橋の上。一面の海を眺めつつ彼女は言った。
 時おり水上高速船や小型飛行船が行きかう、青と緑の惑星。ヒバリはこの星を愛し、コウは嫌っていた。
「何にもないじゃないか。ムダに数の多い魚がいなかったら、この星は本当に終わってる。外へ輸出できるものなんか他になんにもないし」
 メトロ・ブルーは近隣の惑星と交易協定を結ぶことで経済的に安定していた。何もない惑星に恒久的平和があるというのは皮肉な話だった。
「魚かあ。陸地の生きものがほとんどいなくなってしまったのは残念よ。種が絶えたらもう蘇ることはない。クローンは作れてもね」
 ヒバリは遠くの海上に浮かぶ大樹を見つめた。海の上に巨大な樹木があるのはメトロ・ブルーにおいてよく見られる風景だ。
「止められなかったのかしら。大量絶滅に、海洋化」
 コウは失笑して、
「無理だね。人間は結局堕落する運命なんだ。それは今この時代においても同じなのさ。ってわけで僕は帰る」
「お待ちなさい」
 立ち去ろうとするコウの襟首をヒバリはひっつかんで、
「ウメおばあちゃんの家に行くわよ」
「ああ?」
 ヒバリは笑って、
「お手伝いに行くの。あとナオトのグラインダーが調整終わったみたいだから。それ見に」
「手伝いなら機械がいくらでもやってくれんだろ」
「本気で言ってるの? 機械に人間の代わりはできないわ。それに話し相手にはなれないもの」
「近頃の人工知能と会話プログラムはかなり優秀だと思う」
「いいから来なさい」
 ヒバリはコウをひっぱり出し、電気エネルギー式小型海上船に押し込んだ。
「ちゃんとシートベルトしなさいよ」
「勝手に押し込んどいてよく言うぜ」
 しぶしぶコウはベルトを締めた。
「よろしい」
 ヒバリは満足そうに言うと、運転席に座ってキーを回した。
 水上を滑走する船の中から、気晶ディスプレイによる浮遊広告や森林住居などが見える。
「ほんとに相変わらずだな。広告がなかったら相当退屈な風景だ」
 コウは過ぎ去る風景をぼんやりと眺めていたが、
「あ、グラインドやってる!」
 ヒバリは海上を飛ぶ少年たちを見つけて歓声をあげた。単独飛行機械(ソロ・グラインダー)を操ってレースしている。
 グラインドレースはこの星系における代表的なスポーツだ。グラインダーと呼ばれる小型の飛行機械を操り、空を舞う。年に数回、メトロ・ブルーをはじめとするいすれかの惑星でレースが行われる。ヒバリをはじめ多くの人がファンだった。
「楽しみだわ。きっと今年も白熱すること間違いなし」
「あんな曲芸飛行の何が楽しいのかさっぱり分からない」
 水を差したコウにヒバリは、
「あら、スポーツに熱くなるのは陸地があった頃からの人間のたしなみよ」
「たしなみね」
 弧を描いて自由に飛行する少年少女をコウは恨めしそうに眺めた。
 青く輝く海の上を二十分ほど走ったコウたちは、やがて半球形(ドーム)の小さな住居に到着した。街から大きく外れた場所にあるので、近くには他の家や木々がほとんどない。
「相変わらず何にもないところだな」
「相変わらずの減らず口ね」
 ヒバリは船を停泊させると、コウをしっしと追い出し、自分も降りた。
 簡素なドアをノックしながらヒバリは、
「ウメおばあさーん、ヒバリでーす」
 直後、どたどた走る音が中から聞こえ、
「ようヒバリ!」
「あら、ナオト。こんにちは」
 出てきたのは二十代の青年だった。短い髪に、少し日焼けした肌。爽やかな笑顔に八重歯がのぞく。
「来てくれたのか。ばーさんも喜ぶぜ。さ、上がってくれ。ん?」
 ナオトはヒバリの後ろにいたコウに目を留め、
「おうヒキコモリ少年、お前も一緒だったか」
「別に来たくなかった」
 コウは視線を落として言った。ナオトは笑い、
「は。いつも通りだな。まあいい入れ」

 家の中は床張りで、年季の入った木目が褐色の模様を作っている。だいぶ昔に流行した様式だった。
「おお、よく来たね。若いの二人」
 テレビを見ていた老婆がコウとヒバリに気づいて言った。ウメばあさんだ。高齢で、足の自由が利かない。代わりに意志と言葉は今でもはっきりしている。
 ナオトはウメの孫で、ヒバリとコウとは小さい頃から仲がよかった。面倒見がいい近所のお兄さんだ。
 自動車椅子を動かしながらウメは、
「さ、適当に座んなさい。ナオト、何かいれておくれ」
「あ、私がやります」
 歩きかけたナオトを制してヒバリがキッチンに駆けた。残ったコウは居心地が悪そうにしていたが、
「ほら座りなさいぼうや。遠慮はいらないよ」
「別に遠慮なんかしてない」
 そう言うとコウは楕円形のテーブルまでずかずか歩き、一番奥に座った。
「まだ口答えする元気があるだけマシだな」
 ナオトが言って、コウの向かいに座った。キッチンからヒバリの声がする。
「みんな何飲むの? コーヒー? 紅茶?」

 十分後。
 ヒバリが入れた紅茶を飲みながら、コウは落ち着かなかった。ウメばあさんの家に連れてこられるたび、似たような気持ちになる。
「どうしたんだいぼうや」
「何でもない。つうかいい加減その呼び方やめてくれよ」
「おや、ぼうやはぼうやじゃないか? 今日もヒバリに引っ張ってこられたんだろう。でないとあんたみたいなもやしっ子が外に出るはずないからね」
「う、うるさい」
 コウは頬杖をついてそっぽを向いた。窓の外には海と空しかない。他の惑星から来た旅行客であれば賛嘆する景色も、コウにとっては退屈でしかなかった。
「ほらぼうや、糖蜜クッキーがあるよ。お食べ」
 ウメはクッキーの入った受け皿をさし出した。
「子ども扱いすんな。いらない」
 コウは皿を押し戻した。ウメはふっと息をつき、
「まだあのまやかしの世界に浸ってんのかい? まったく世話ないよ」
 ウェブのことを言っているのだとコウにはすぐに察しがついた。
「ぼうや。あんたみたいなのが自分の世界に閉じこもっちまうとね、自分でも気づかないうちにどんどん屈折しちまうのさ。まだヒバリが世話焼いてくれるだけありがたいと思うんだね」
 ウメの説教に対して、コウは苛立たしげに窓の外を見ているだけだった。遠くに薄い青色をした雲がかかっていた。スコールが降っているのだろうとコウは思った。
「おばあちゃん。その話はいいって。コウも毎回聞かされたんじゃちょっとかわいそう」
 ヒバリが言った。ウメは、
「おや、説教されに来たんじゃなかったのかい。残念だねえ」
「いつも放っといたって聞かせてくるくせに」
 コウがぶつくさ言うと、ウメは「ほっほっほ」と笑った。
 ヒバリはクッキーをひとかけかじった。
「それよりナオト、今度のレース出るんでしょ?」
 ナオトは袖をまくった上腕二頭筋をふくらませ、
「ああもちろんだ。今度こそあのルイの野郎から優勝をもぎ取ってやるぜ」
 そう言って立ち上がり、
「ちょっと上まで来いよ。グラインダーの調整がちょうど終わったところなんだ。見せてやる」
 にかりと笑うと階段を駆け上がっていった。
「あっ、待ってよ」
 反射的にヒバリも立ち上がった。
「コウは。行かない?」
「行かない」
 ヒバリは少し迷ったが、一人で二階に上がっていった。
 コウはそのあともぼんやりと窓の外を見ていたが、
「この星じゃ何もしなくたって生きていける」
 そうつぶやいた。ウメはコウを見て目を細め、
「その通りさ。だがね、あたしやあんたみたいな木偶の棒でも生きていられるのは、もっと昔の人たちがたくさんの苦労を重ねたからだ。ぼうや、利口なあんたならそれくらいは分かっているだろう?」
 コウはふたたびため息をついた。ウメの家に来るたび、こうして説教を聞かされる。
「この星は人種がすっぱりと二つに分かれちまった。あんたのように嘘の世界に閉じこもっちまうものと、こんな海しかない星でもちゃんと人の役に立とうとするもの」
 ウメは冷凍乾燥(フリーズドライ)の葉からいれた緑茶をすすり、
「でもね、ずうっと昔はそうじゃなかったんだよ。あたしが生まれるよりももっと前さ。大陸と呼ばれるものがこの世界に存在していた頃。その時代の人らは、ちゃんと一人一人がつながりを持っていた。それがどうしてこんな世の中になっちまったのか、それはあたしにはわからない。何せウェブはあたしが子どもの頃にもあったんだ。小さい頃はずいぶんとはまったものだよ」
「そうなのか?」
 コウは訊いた。意外だったらしい。ウメはゆっくりとうなずいて、
「ああそうさ。わたしゃ人づきあいがはっきり言ってヘタだった。何か逃げ込める場所がほしかったのさ」
 ウメはクッキーをつまむと、指先で砕いてから口に入れ、茶を飲んだ。
「でもダメさ。たとえあの画面にいるのが同じ人間でも、ちゃんと隣にいて、ほんとうの姿が見えて、触れることができないんじゃあね。いつかねじまがっちまうよ」
 コウは黙っていた。ウメの部屋を見渡すと、普通の家にはあまり置いていないようなものがちらほらあった。CDプレーヤー。将棋盤。クラシックギター。コウはかろうじてそれらの名前を知っているだけだった。使い方が分からないものもたくさんある。
「せっかく来たんだ。上にも行っておいで。あんたにはナオトやヒバリがまぶしく感じるかもしれないが、だからといって避けていたんじゃ何にもならないよ」
 ウメはそう言うと、リモコンで気晶モニタのスイッチを入れた。ローカル局のテレビ番組が古いドラマを映していた。
「でないとあんたもこんな偏屈な年寄りになっちまう」
 しぶしぶコウは階段を上がり、二階のデッキに出た。
2, 1

  

 ウメとナオトの家の二階。ドーム型の家の半分ほどが開放され、鮮やかな青に染まる空が見えた。
「お、来たのか少年」
 ナオトが爽やかに言った。たいして歳も違わないのに少年はない、とコウは思いながら、
「飛ぶのか?」
 ちょうどコウとナオトの間に、ソログラインダーの機体があった。
 グラインダーは一人、あるいは数人で乗る小型飛行機械で、百年前にスカイウェイ社が「次世代の散歩手段」として発売した。
 もともと移動用の機械だったが、いつしかレースや曲芸を披露する文化がめばえ、今ではメトロ・ブルーをはじめとする近隣の惑星でもっとも愛されるスポーツとなった。
 競技用のグラインダーはエンジンが内蔵された搭乗部(ステップ)とウイングからなる。通常ステップに立って乗り、手元まで伸びたアームを握って飛行する。このアームにぶら下がって逆さまに飛ぶことが人気で、アクロバット飛行などで頻繁に使われる。政府は交通時におけるこの乗り方を禁止していたが、あまりにも違反者の数が多いため、ついに黙認せざるをえなくなった。
 ナオトはステップに立った。コバルトブルーの機体が白い日射しを受けてまぶしく輝いた。
「六年前のトリブライト社製グラインダー、『ツバメ』だ。デリケートな機体だったがようやく調整が終わった」
 メットゴーグルをはめたナオトは重心を腰とともに落とし、
「飛翔(フライ)!」
 次の瞬間には空に舞い上がっていた。
 上空八十メートルまで一気に上昇すると、ナオトはそのままグラインダーから飛び出した。ナオトが宙返りする間、アームから延びたロープワイヤーでつながったツバメは、旋回して真上に飛び上がる。ロープが縮み、ナオトはツバメをぶら下がり飛行の体制でキャッチした。そのまま滑空し、螺旋を描きながらこちらへ戻ってくる。背後に夏の入道雲が白い山のように盛り上がって、印象的なシルエットを作った。
「すごいわねー、さすがメトロ・ブルーが誇るグラインドのプロ」
「あのくらい準備運動だろう、あいつは」
 コウが言った。ナオトの飛行は小さい頃からずっと見てきた。年々まぶしくなっていく。
 戻ってきたナオトはデッキのへりにグラインダーを静止させ、
「次こそは優勝してやる」
「頑張ってね。勝ったら何かごほうびをあげるわ」
 ヒバリが言うと、ナオトは首をかしげた。
「はて。こっちがリクエストしてもいいのかい? それは」
 ヒバリは口をUの字にして、
「そうね。優勝できたらそれでもいいわ」
 クスクス笑った。ナオトはグラインダーの出力を切って、
「そういやコウ。お前、一級情報士はもう目指さないのか?」
 コウは固まった。ナオトに悪気がないのは知っていたが、不意に言われたので心構えができなかった。
「受けない。あれはもういい」
 コウはヒバリが所在なさそうにしているのを感じつつ、
「それよりナオト。レース頑張れ」
「おう。まかしときな」
 コウは一階に下りていった。ナオトはコウの背中を見つめていたが、
「変わらないな。あいつは」
「ええ。もう一年以上あんな状態」
 ヒバリはうつむいた。
「高等プログラムを受けてたときはあんなじゃなかったのにな」
 ナオトは言った。
「落第してから閉じこもっちまった」
 ヒバリは何も言わなかった。青いグラインダーのウイングを見つめていた。
「コウは臆病なのよ。傷つきやすい。そのくせ自分に甘いから」
 コウとヒバリは国の義務教育による選択式プログラムを受けて育った。コウは情報系で、ソフトウェアの開発などを行う。ヒバリは技能系、ハードウェアの開発を行う。
 中等部まではコウのほうが優等生だった。しかしコウは高等部から大学部に上がる過程で必要な一級情報士の資格試験を落とし、以来ふさぎこむようになった。一方、ヒバリは資格を取得し、今は学生をしながらボランティアとして働いている。
 メトロ・ブルーは魚類の輸出とグラインダーレースによる惑星振興で栄えたため、働かずとも生きることはできる。そんな環境からか、コウのような落第者とヒバリのような学生・社会人との二極分化が進んでいた。社会問題と言われてすでに長い時間がたった。
「でもコウならきっと元に戻れるわよ」
 ヒバリは言った。ナオトは息をついて、
「それ、会うたんびに聞いてる。俺にはあいつが誰かのために何かするようになるとは思えないな」
「そんなこと」
 しかしヒバリの言葉は続かなかった。彼女の迷いと裏腹に、デッキの上空はどこまでも澄んでいた。

 その後、コウはヒバリに片づけを手伝わされた。ウメの家は二階建てのドームで、あまり広くはない。しかしウメは希少な本や雑貨を取っておくので、部屋によっては定期的に整理が必要だった。
「ああもう、掃除用ロボットでも買えばいいのに」
 床に積まれた本を収める棚を探しながら、コウが言った。三方を本棚で塞がれているウメの書斎は、すでに多くの書籍であふれ、片付けるのが困難になっていた。
「入りきらないのは処分するから持ってきてっておばあちゃんが」
 ヒバリがハードカバーの本をプラケースに入れて言った。
「すごいわね。こんなにたくさん本がある」
 埃をかぶった表紙をなでてヒバリは言った。コウは、
「こんなのウェブにいくらでも閲覧可能な状態で保存してあるだろう」
「おばあちゃんは電気を使ったものがあまり好きじゃないのよね。普段はできるところだけ自分で掃除してるって。ほんとはあの自動車椅子も使いたくないみたいよ。ナオトがそれじゃ心配だからって買ったらしいけど」
「全部機械に任せりゃいいだろ。あー疲れた。帰っていいか」
 コウは本を投げ出して樫の椅子にへたりこんだ。ヒバリは半開きになった本を丁重に持ち上げて、
「たまにはやる気にならないの? いつもそんな感じじゃない、あんた」
「こんなの無意味だ。本なんか重いだけだろ。今さら買い取ってくれる人もいないだろうし」
 ヒバリはケースに拾った本を収め、蓋をした。
「さ。これ持つわよ。こっち来て」
「ナオトはどうして手伝わないんだよ」
 コウが腹立ちまぎれに言うと、
「レースが近いから余計なことをさせたくないの」
「レースね。惑星代表ともなると日常業務はおざなりで構わないってわけか」
「コウ、そんな風に言うものじゃないわ」
 ヒバリがたしなめても、コウはまるで聞く耳を持たなかった。
 二人がケースを持って居間に戻ると、ウメが、
「おおご苦労だったね。本当は処分しないのが一番いいんだが、この古い家はあまり大きくないからねえ」
「本当はこんなの持たないのが一番いいと思う」
 コウが言うと、
「ぼうや、本の優れた点はね、ウェブなんてものに繋がなくても読めるってことさ。電気を必要としないものが、今のこの星でどれだけ貴重か分かるかい?」
「分かる必要を感じない」
 コウは冷たく言った。しかしウメは意に介さない様子だった。
「いずれ分かる日が来るよ」
 夕方になる頃、二人は帰途に着いた。
「ウメおばあちゃん、元気でよかったわ」
 小型船を操舵しながらヒバリが言った。
「あのばーさんならあと百年は生きてる気がする」
 コウが言った。窓の外、遠くの水平線に夕陽が沈もうとしていた。オレンジ色の海をヒバリの小型船が静かに走っていく。
「あんたも見習いなさいよね。少しはそのナヨッとしたのを直しなさい」
 コウはヒバリを見た。目と目が合った。
「お前、どうしてそんなに僕のことを気にかけるんだ?」
「何でってあんた。それは……」
 ヒバリは頬に手を当てたが、コウはなぜなのか分からなかった。
「バカね。私がいなかったらあんたなんて、どこにもいかなくなっちゃうじゃない。あ、そう、母親みたいなものよ。ほっとくわけにわいかないじゃない?」
「そうか」
「そうよ」
 まもなく二人とも静かになった。ヒバリは沈黙に耐えかねたか、
「ラジオでもつけましょう」
 自分で改造した小型船のツマミをひねって周波数を合わせる。しかしラジオなど放送している人は惑星全体でも数えるほどしかいない。
「んー。あれやってないのかしら」
 ヒバリはツマミを745の位置で止めた。しばらくノイズが鳴っていたが、やがて音楽が聞こえてきた。
「ん」
 コウがスピーカーに目をとめた。
「知ってる、この歌」
 それはシンプルな曲だった。アコースティックギターの弾き語りに、エレキギターでフレーズを少し添えただけの、情緒あるラブソング。
「いい歌ね」
 窓から射す西日に目を細めながらヒバリが言う。
「旅をしているような気分になるわ」
「昔、世界中で聴かれていたバンドだ。今知ってる奴がどれだけいるだろうな」
 コウはウェブを通じて、古い作品に触れるのが何より好きだった。この曲もそうして知った。やがて短い曲はシンプルなコードバッキングとともに終わりを告げた。
 ラジオの向こうから少女の声がする。
『すてきな歌。タイトルも歌手も私は知らないけれど、すごくよかった』
「やってたみたい。氷河(フィヨルド・)漂流記(ダイアリ)」
 ヒバリが言った。彼女もまたこのラジオの愛聴者だった。
『はい。私、エラ・マリンスノウのお送りするフィヨルド・ダイアリ。たった一人でも聴いているのならその音楽やこの放送にはちゃんと意味がある。私はそう信じています』
 DJエラはフリートークを始めた。
『知っていますか? このラジオの番組名になっているフィヨルドとは、山岳地帯に氷河が侵食してできた湖のこと。昔、このメトロ・ブルーにはそうした場所があったの。でももう存在しない。陸も氷もまるでなくなってしまったから。そんなふうにしてなくなったもの、場所、生きもののことを時折考えます。ねえ、生命にはどんな意味があるのかしら。あなたには分かりますか?』
 ヒバリとコウは静かに放送を聴いていた。小型船は水上をすべるように移動する。
『なんて、少しアンニュイでした。でもね、私こうも思うの。そんな風に意味があることばかりとは限らない。何となくそこにいて、何となく過ごしている。それでも別にいいじゃない。さて、次の曲です。これも古い曲。ノスタルジックで私は好き。それじゃどうぞ』
 短い前奏のあとで歌が始まると、ヒバリが、
「エラって何歳なのかしらね」
「さあな。若いんじゃないか? 言ってること聞いてるとそんな感じがする」
 コウは淡々と、
「動かない人生に意味なんてない」

 海の星が夜に包まれる頃、家に帰ったコウはウェブに没頭していた。名もないフレンドが思念チャットによるメッセージを送ってくる。
『暇?』
「まあな」
 コウが回答すると、ウェブ内の二人はアンティークタイプの椅子に腰掛けた。目の前には春の草原がどこまでも広がっていた。
『早速で悪いけど、鬱な話していい?』
 相手が言った。ウェブはいつだって自分たちと無関係な場所の話で賑わっている。
「どうぞ」
『エノ・スターって星知ってるか?』
「知らない」
 コウの無愛想な調子にも構わず、相手は、
『まあ遠いからな、知らなくても無理はないか。その星は経済的にはまあまあのとこだが、四六時中働かないといけないとこでな。そのくせ報いなんて全然ないし。なのに寿命だけは無駄に長い。どう思う?』
 コウはモニタを見ながらふっと笑った。
「皮肉な話だな。寿命が長ければいいってものでもないだろう」
『俺もそう思うぜ。ま、生まれる星によって人生なんて変わるよな。俺はリトル・フォレストだがあんたは?』
「メトロ・ブルー」
 フレンドは仰天の仕草で、
『うお! ついてるなぁ。好き放題暮らせるじゃねえか』
「満たされすぎると人はかえって無気力になる」
『それどういうこった?』
「特に意味はない。気にしないでくれ」
 相手は両手を上向けた。
『メトロ・ブルーかあ。いいなあ。でもそのあたりは大抵の星から遠いんだよな。よそからじゃ永住権なんか到底得られないしさ。それに行くだけでもすげぇ金がいるぜ』
 ゲストとの会話をほどほどに切り上げたコウは、ウェブをスリープモードに切り替えて目を閉じた。
「……」

 物心ついた頃から親の記憶はない。
 生きるのに不自由のない星に生まれ、教育プログラムを受けて育ち、落第して堕落してここにいる。これからどうなるわけでもなく、何を得るでもない。ならばいっそ死んでしまってはどうか?
 コウは薄目を開けて左手首を見た。ウェブの裏マーケットで買った自殺注射(フェードアウト)を打った跡が今も青いアザになっている。死のうと思ったのは半年ほど前のことだ。このまま生きていて何になるのだろう、そんな思いで注射した。
 あの時もヒバリに助けてもらった。目が覚めることなどないと思っていたら、すぐ傍に幼馴染の泣き顔があった。それ以来ヒバリはほとんど毎日のようにコウの世話を焼くようになった。中央公園やらウメの家やら紺碧(ブルー・)博物館(ミュージアム)やら、しょっちゅうコウを連れ出す。
 それが厚意によるものだと本当はコウも気づいている。ヒバリがコウに何を望んでいるのかも分かっているつもりだ。
 しかしコウは動けなかった。ただ、この時代と世界に対する途方のない無力感だけが彼を包むすべてだった。
 コウは引き出しの鍵を開けた。「フェードアウト」がもう一セットある。最近取り寄せたものだ。いずれこれを使って消失する必要があるだろう、とコウは思った。今度は失敗しないように。
4, 3

  

 数日後、コウはヒバリに連れられて「命樹恩寵公園」に来ていた。メトロ・ブルーでも有数の大樹が枝をはり、その下には草花、泉や小川がある。
「私この場所が好きよ。来ると気持ちが静かになる」
 ヒバリはそう言って、この前ラジオで聴いたラブソングを口ずさんだ。
 コウは特別反応を示すこともなく彼女についていった。どれだけ断ろうとヒバリはコウをひっぱり出す。ひどい時など時限発火装置を投げ入れて「三分以内に出てきなさい」と言った。
 園内を漫然と歩きながら、コウはすれ違う老夫婦や家族連れを見ていた。ヒバリには思い入れがある場所でも、コウにとってはただの大きな公園だった。
「ナオトのレースっていつだっけ?」
 ひとしきり観察を終えたコウがぽつりと言った。
「二週間後よ。近隣の惑星から人が集まってくる大イベントなのに。さっぱり覚えてないのね、あんた」
「グラインドレースなんかに興味はない」
 コウがそう言うと、ヒバリは大げさに首を振り、
「信じられないわ。そんなのこの星系じゃ千人に一人もいないわよ、きっと」
「んじゃ僕はその稀有な一人なんだよ」
 ヒバリは頬を膨らませて「あっそ」と言った。ヒバリとコウの意見が割れるのは日常茶飯事だった。
「せっかくだし『命樹』も見ていくわよ」
「まだ歩くのかよ」
「そのために来たんだから。動かなきゃ人はダメになるの」
 コウは聞こえるようにため息をついた。しかしヒバリは無視した。ウェブのほうがよほどましな風景が見られると思いながら、コウはヒバリに付き従った。遊歩道は咲き乱れる花の中を曲がりながら続き、小川を渡り、少しずつ上り坂になる。
 メトロ・ブルーには局所的にしか植物がない。草花はみな「命脈」と呼ばれる、地面の底に堆肥がある場所にしか根を下ろせないからだ。それゆえ、命脈のない場所には人工物と海しかない。街はおおむね大きな命脈の近くにある。この恩寵公園の周囲もまた有数の大都市だった。
 大樹の周囲をらせん状に登りながら、コウは多くの人とすれ違った。そのほとんどが朗らかに笑っていることに、コウは心底うんざりした。おそらくここにいる人は「外の人」だろうと思った。ウェブに閉じこもる「中の人」に対し、普通に生活している「外の人」。そのような呼称が長い時間の中で生まれていた。
「いで」
 頬をつねられてコウは声をあげた。行きかう人が何人か振り向き、また通りすぎた。
 頬をつねっていたのはもちろんヒバリだった。
「何するんだ」
「そういう目をしないの。クサクサしたその目。別に、あんたが思ってるほど他の人とあんたは変わらないわよ」
 コウはヒバリを睨んでいた。ヒバリは真っ向から視線を受け止めた。
「別に、んなこと考えてない」
「嘘ね。あの時もそんな目をしていたもの。忘れないわ」
 あの時がいつを指すのか、コウにはすぐ分かった。フェードアウトを試みた日だ。
 コウはしばらくヒバリと睨みあっていたが、やがて自分から目を背けた。
「思い過ごしだ」
 そう言ってコウはヒバリより先にスロープを登りはじめた。ヒバリは立ち止まったまま、コウの背中を見つめていた。

 今日もよく晴れていた。「命樹」の頂上付近は展望台になっていて、公園と市街が見渡せる。商業地区や居住区で、豆粒のように小さい人が行き来する姿や、グラインダーが悠然と飛ぶのが見えた。街の外は青一色の海で、唯一の公共交通機関である世界(ワールド・)鉄道(レールウェイ)のモノレールが白い道のように走っていた。この鉄道を使うと、メトロ・ブルーの主要都市間を高速で移動できる。
 ふてくされていたコウだったが。この場所に来ると心が落ちつく気がした。
「いい景色ねー」
 ヒバリが言った。コウは少しためらって、
「ウェブでも似たような風景がいくらでもある。そっちの方がよほどマシだ」
 減らず口にもヒバリは腹を立てず、
「そうね。でも私はここから見える景色がそのどれよりも素敵だと思うわ。たとえ海ばっかりでもね」
 そう言うとヒバリは、
「何か飲みもの買ってくる」
 展望台の休憩所まで駆けていった。コウはぼんやりと街の景色を見ていた。ところどころで、命脈から栄養を得た木々が鮮やかな緑色の葉を茂らせている。呼吸をしていると、生命力に満ちた匂いが身体を満たしていく。
「いい風景ですな」
 しわがれた声がした。コウが隣を見ると、腰の曲がった老人が街を眺めていた。
「こんにちは」
 老人は言った。コウは頭を下げ、
「どうも」
「ときに若い方。この惑星が昔はもっと多くの草花や生物で満たされていたことをご存知か?」
 老人はコウの方を向いた。薄い色の瞳には、たしかな意思の力が宿っていた。
「ええ。まあ。知ってます」
 コウはうなずいた。教育プログラムで知識として覚えた事柄だ。
 老人もうなずいて、
「そうか。じゃがな、知っているだけではいかん。昔の民は同じように、気温の上昇や陸地の減少について知っておった。それなのにくい止めることができなかったのじゃ。世界の人口もずいぶん減った。多くの生物が絶滅した。さてなぜじゃろう?」
 コウは真剣に考えるふりをして、
「人は甘えがちです。問題があると分かっていても、簡単には今を変えることができない。だからじゃないですか」
 コウが言うと、
「ほう。若い方。ならばなぜ変えようとしないのじゃろう?」
 老人は街を見下ろして、
「人間は長いあいだ、よりよい世界を作ることに専念しつづけてきた。多くの犠牲を伴ったが、結果的に文明はめざましい進化をとげた。しかし、発達すればするほど失うものもまた大きい。わしはそう思う。この星はそれを物語っておる。かつてあった陸地や、太古の遺産、昔の暮らし、それらはみな永遠に失われてしまったのじゃ。わしらは記録をもとにそれらを空想することしかできぬ。悲しいことじゃ」
「コウ!」
 ヒバリが帰ってきた。リサイクルカップ入りのコーヒーと紅茶を手に持っている。
「あれ。そのおじいさんは?」
 老人は表情をわずかに緩め、
「っほ。ただの通りすがりじゃよ。さて、ばあさんを探すかの」
 背を向けると静かに歩きだした。コウが老人を見ていると、
「コウ? どしたの。ぼけっとして」
「何でもない」
 コウは老人の言ったことがしばらく胸に残っていた。

 ヒバリとコウはあたたかいお茶を飲みながら、ベンチに座って街を眺めていた。遠くの空には、星間飛行用の宙航旅船(フライヤ)がおぼろな影のように見えた。
「平和ね」
「そうだな」
 会話になるほど言葉が続かなかった。断りようがないため、コウはヒバリの誘いにいつも応じていたが、だからといって話すことがあるわけでもない。学生時代ならまだしも、今となっては。
「知ってる? 昔は七十億以上の人がメトロ・ブルーに住んでいたのよ。人種も今よりずっといっぱいいて」
「知ってる。僕もお前も途中までほとんど同じプログラムを受けてたんだから」
「あ、そか。そうよね」
 ヒバリは自分の頭をつついた。近くを小さな子どもが走っていった。
「それだけたくさんの人がいたら楽しいんだろうなぁ。今のこの星はグラインドレースの時しか賑わわないし」
 コウは幾分イライラしながら、
「でも問題は山積だった。貧富の差なり食糧問題なり環境問題なり。結果ほとんどが海の底だ。それでも文明だけ進歩したけどな。僕には何が一番いいのか分からない」
 ヒバリはうつむいて、
「それでも……やっぱり私は人のいる世界がいい。そうでなければダメになっちゃうもの」
 コウは空を見ていた。今はもう人間しか空を飛ばない。ずっと昔、翼を持っていた生きものたちは、もうそこにいない。
 夜、家に戻ったコウは、ウェブをスリープモードにしながら、浅い眠りについていた。イメージが脳に送りこまれ、仮想世界で夜は過ぎていく。
 コウは妖精(エルフ)の国をさまようのが好きだった。ずっと昔、空想物語(ファンタジー)が多く生み出されていた頃。エルフはあらゆる作品に登場した。永遠の生を持ち、欲望にとらわれず、美しいものを愛でる。
 白く輝く花の道をエルフは歩いていく。まるでこの世のものとは思えぬ優雅な足取りで、一歩一歩。
 ウェブには強力な制約が一つあった。それは「他の種族にはなれない」こと。製作者の強い意図らしかったが、コウはそれ以上のことは知らない。それゆえ、コウはエルフを見ることができてもエルフとして生きることはできない。
 その反作用だろうか。コウは自分がまったく別の何者かになることをしばしば夢見た。たとえば魔法使だ。千年ぶんの知恵を持ち、常人ならざる業を持って人を導く。そんな強い存在であれたら。
 たまに、ウェブでそれを実行してしまった人々を見る。NPC(ノンプレイヤーキャラクター)であるはずのエルフやマーピープルに、違法なハッキングをしてなりすましてしまう。それは、発覚すればウェブを永久追放される重大な違反行為だ。
 しかしコウには彼らの気持ちがよく分かった。きっとコウと同じように、現実世界からドロップアウトしてしまった人たちだろう。仮想世界くらい好きにふるまわせろ、ということだ。

「起きて」
 明瞭な声がウェブの耽美な夢をつんざいた。
「またお前か」
 コウは頭痛を抑えるような気で言った。いつの間にか朝になっていたらしい。声の主はもちろんヒバリだった。
「今日は教育プログラム高等部の同窓会があるのよ。あんたやあたしの年の」
「それで?」
「案内がウェブにも来てたでしょ」
「あれか。二秒で削除した」
 コウは目を閉じたまま顔を背けた。
「行くのよ」
「何でだよ」
「あんたが現実を認識するためよ。さ、朝ごはん食べて」
 コウはしぶしぶ目を開けた。ヒバリはベーグルとハムエッグの乗ったトレーを差しだした。
「何だよこれ。お前が作ったのか?」
「そ。あとこれ着替え。新しいの買ってあげたわ。ありがたく思いなさい」
 ヒバリはこじゃれたジャケットとパンツ、シャツ、ブーツを一式差しだした。
 おせっかいにもほどがある、とコウは思い、
「気持ちだけ受け取っておくよ」
「行きましょうよ。逃げちゃダメよ」
「別に逃げてない」
 きりがないコウの言葉に、ヒバリは大きく息をついた。
「じゃあそうね。今日行ったら当分あんたを連れまわしたりしないわ。約束する。だから来て」
「当分ってどのくらいだよ」
「三か月野放しにしてあげるわよ」
 コウはしばらく考えていた。ぐう、とお腹が鳴った。
「断ったらその朝飯はもらえないのか?」
「もちろん」
 そよ風とともに、朝の日差しが窓から入り込んできていた。コウはウェブをシャットダウンして、
「わかった」
 ベーグルをくわえた。

 会場はウェストサイド・シティのパークホテル内で、日ごろ結婚式など催しものをする際に使われるホールだった。
「何もこんな場所を予約しなくたっていいだろう」
「幹事は私じゃないもの。それに久しぶりなんだからこのくらい豪華な場所を使ってもいいと思う。さ、行きましょう」
 一年と少し前まで同窓生だった顔ぶれを見るのはコウにとって苦痛でしかなかった。当時はそれなりに友達がいたし、普通の生徒としてすごしていたが、今のコウにとってそんなことは関係なかった。
 礼服で集まる同窓会ではなかったが、誰もが相応にしゃれた格好をしていた。コウは一年という時間の経過を感じていた。
「あーヒバリちゃんひさしぶり!」
 まだ幼い印象の残る女子がヒバリに話しかけた。コウは名前が思い出せなかった。よくヒバリと一緒に休み時間など過ごしていた子だ。
「ほのかちゃん! 元気だった? 全然会えなくなっちゃってごめんね」
 ヒバリとほのかは手と手を取りあった。日頃まず目にしないヒバリの表情に、コウは目をそむけたくなった。
「コウか?」
 後ろからコウを呼ぶ声がした。
「ああ。トウジか」
 さすがに仲が良かった相手の名前は思い出せた。くせ毛の男子。
 トウジはコウが当時いちばんよく話した相手だった。高等部の頃は三年間通じてだいたい一緒にいた。グラインドが好きで、部活に入っていた。そっちのほうではさっぱり話が合わなかったものの、互いに気を遣わない相手なのでコウにとっては心地がよかった。
 トウジは日に焼けた肌によく似合う笑顔を浮かべ、
「うおー、ヒバリちゃんと一緒か。その後どうなんだよお前ら、え? もう入籍でもしたんじゃないかと思ってたところでさ」
「再会したばかりで絶交しなきゃいけないのか、残念だ友よ」
 コウが背を向けると、
「待てって冗談だよ!」
 トウジがコウの肩に手を置いた。以前と変わらぬ笑顔があった。学生の頃であれば、そんなやりとりが日常だったのに、コウはなぜかイライラした。
 コウはトウジを見て、
「お前こそどうなんだ? 前はずいぶん彼女をとっかえひっかえしてたけど、その悲しいサガは今でも直ってないのか」
「な。なかなかいいボディーブローじゃねえかコウよ。俺の先制パンチに勝るとも劣らぬいい一撃だぜ」
 トウジは脇腹に手を当てるジェスチャーをした。
「今のはジャブだ」
 トウジは「相変わらず切れ味鋭いツッコミだ」と言いながら、
「まあそうだな。変わっていない。職場でかわいい子を見つけるや、俺は一週間以内にその子にアプローチすることを目標にしてるぜ。口説き文句の十八番はグラインダ―だ。あれに乗っている様を見せればそりゃもうこっちのもんよ」
 コウは当時のトウジもこんな奴だったと思い出した。ダウナーとアッパーのコンビだったから馬が合ったのだろう。
「とりあえず乾杯といこうぜ。親友同士の再会にな」
 トウジはコーラの入ったグラスを突き出した。
「あと一年経ってれば酒が飲めたのになあ」
 とトウジは悠長に言った。コウはしぶしぶ烏龍茶のグラスを当てた。
「そんでコウ。お前は今どうしてんだ?」
 のん気にコーラを飲みながらトウジは言った。コウは一口で飲むのをやめて、
「何も。ただ一年、時間が過ぎただけだ」
「え?」
 そう言ってから、トウジは表情を変えていった。コウのことを思い出したのか、
「ああ、あー。そっか。そういやお前技師資格……ああ、悪い」
 コウは手を振って、
「いや、いい。怠けてた僕が悪いし」
「でも再受験したんだろ?」
 コウは答えるのが面倒になってきた。
「してない」
「じゃあどっかで働いてんのか? お前すげえ優秀だったし」
「してないよ」
「え。そうなのか」
 トウジは空になったグラスを大きな丸テーブルに置いて言った。
「んじゃ今何もしてないのか。まるっきり」
 コウは胃がむかむかした。
「だから言っただろ。毎日あっちに入り浸ってるだけだ」
 あっち、がウェブを指すことは誰でも知っていた。「外の人」にとって、ウェブは便利なメディアではあるが、時間の大半を過ごす場所などではなかった。いま、コウは「中の人」であり、トウジは「外の人」だった。
「そうか……。でもお前なら探せばすぐ見つかるぜ。何なら俺が」
 意気込むトウジをコウは制して、
「いいって。僕のことは放っておいてくれ。これ以上訊くな。もしも僕といるのが嫌なら、他の奴と話してこい。お前なら当時の女の子が無限にいるだろ」
「な、何だよそれ。コウ、お前いったいどうしちまったんだ?」
「どうもしてない」
 トウジはうろたえていた。しかし、コウから離れたりはせず、
「分かったよ。この話はやめだ。とりあえず飲んで食おうぜ!」
 落ち込んでもすぐに元に戻るのがトウジの長所だった。コウはそんな旧友を懐かしく思った。
6, 5

  

 コウが技師資格一級を落としたのは一年前の春だ。
 高等部を卒業する際、生徒はみな就職か資格取得による大学部への進学を選ぶ。割合はだいたい半々だった。コウやヒバリは資格取得試験を受け、トウジは就職した。
 しかしコウは試験に落ちた。そんなこと考えもしていなかった。ぼんやりしながら、コウは就職も再受験もせずに過ごした。その間、高等部の頃から興味があったウェブに時間のほとんどを費やした。
 名目上は百パーセントの生徒がめいめいの進路を見つけたことになっているが、じっさいのところ、ウェブにはコウのような落第者や、仕事をやめて閉じこもったものがあふれている。彼らはウェブの中では自分の身上を語らない。代わりに自分以外の、たとえば遠くの星の災難などを話しては娯楽のタネにする。
 コウには分からなかった。いったいなぜ勉強や労働をするのか?
 これまではただ何となく過ごしていた。それなりに勉強していればテストでも相応の結果が出た。しかしそれは他に目的があるからではなく、ただ要求されたからそうしていただけのことだ。その先にあることなど考えもしなかった。働かずとも生きることができる惑星に住んでいるから、なおさらだ。
 高等部にいる頃からそのような感覚がコウの中にはあった。たとえば、同級生が当たりまえのように自分の進む道を選ぶことに、コウは疑問を持つことが多かった。もちろん彼らは迷いながらではあった。しかし最後にはちゃんと決定をしたし、そこで立ち止まったりしなかった。
 いっぽう、コウは受験前にこんなことを思った。
 なぜ自分は進学するのか?
 その疑問に突き当たると、いつもコウの胸にわだかまりができた。そしてそれはコウから少しずつ、まるで深い谷底からの引力のようにやる気を奪っていった。それでは困ることになると頭では思ったが、どうにもならなかった。

 コウが回想にふけっていると、知らない間に同窓会が始まって一時間ほど経っていた。
 コウは誰にも気づかれずに帰る方法を考えはじめた。
「ヒバリちゃん、勉強とボランティアを両立するのは大変じゃない?」
 すぐ近くでほのかが言った。ヒバリは「うーん」とうなって、
「大変だし疲れるけど、でもやりたいことだから」
 ヒバリが言った。コウにはそれが偽善のセリフに聞こえることがよくある。そのたびに、幼いころから一緒にいた彼女のことがあらためて分からなくなる。
 それとも、一年の間に自分が変わってしまっただけだろうか?
「お、コウじゃん久しぶり」
 コウに別の男子が話しかけた。
「ハヤセ」
 と言うのが彼の名前だった。コウとは最終学年の同窓で、たまに話したことがあった。
「元気?」
「そうでもない」
 コウは言った。ハヤセはトウジとはまた違うタイプのお調子者だった。相手の反応を見るために軽口をいうタイプで、コウは席が近かったから話していたが、あまり親密ではなかった。
 ハヤセはまるで自分が大人だと主張するかのようなこぎれいな格好をしていた。
「そうかい。そういや君はそんな奴だったな。俺にとっては不思議くんだった。今何してるんだ?」
「何も」
 コウはぶっきらぼうに言った。ハヤセは鼻から息を吐いて、
「何もしてないなんてことないだろう? まさかあれか。『中の人』にでもなったのかい?」
 コウは言葉の節々に悪意を感じた。もしかしたら、この男は知ってて言っているのではなかろうか。
 コウはうなずいて、
「そうだ。不毛な毎日を消費してる」
「おいマジなのか。そりゃ驚いた。そんな奴が本当にいるのかよ」
 ハヤセが声を大きくした。嘲笑するような表情が浮かんでいる。にわかに周囲がざわついた。ヒバリも気がついたようだった。
「悪いか、ほっとけ」
 コウが言うと、ハヤセは気取った仕草で肩をすくめ、
「別に悪くない。君の人生だし好きにすればいい。でもまさか、いやあ、本当にいるんだな、こういう奴」
 コウは立ちあがってハヤセの胸倉をつかんだ。視線と視線がぶつかる。コウはハヤセの目に歪んだ光を見た。
「おっと。俺何か言った?」
 ハヤセは両手を上げた。
「おいコウ、やめとけって」
 トウジがコウを押さえつけた。コウは目の前の相手を一発殴らずにはいられない気分だった。
「コウ!」
 ヒバリがコウを呼んだ。コウはハヤセをテーブルに突き飛ばすと、いきり立って会場から出た。
「おいコウ!」
 トウジはコウを追いかけた。コウは早足でどんどん歩いていく。しかし日頃運動していないので、足取りは遅い。トウジにすぐに追いつかれた。
「コウ待てよ!」
 トウジがコウの手首をつかんだ。コウはかまわず歩こうとする。
「放せ」
 コウは下を向いていた。とてもじゃないが親友と顔を合わせる気分じゃない。
「おい。あんな奴どうだっていいだろ。前からしょうもない奴だったよ」
 トウジが言った。コウは首を振り、
「僕のほうがよっぽどしょうもない」
 そう言うと立ち止まった。勢いに任せて歩いているうち、コウは会場の外まで来ていた。アートオブジェを配置した庭園になっている。
 来るべきじゃなかった、とコウは思った。
 本当は同窓会の告知にはひととおり目を通していた。そのうえで削除した。行っても気まずい空気になるのは目に見えていたからだ。
「コウ!」
 ヒバリが追いかけてきた。息を切らせながら。
「ヒバリちゃん」
 トウジが言った。ヒバリは、
「ありがとうトウジくん。捕まえといてくれて」
「いいや、こんなの何でもないよ。それよりコウ、気にするなって」
 トウジはコウの背に声をかけた。コウは振りむく気にならず、下を向いたままでいた。
「コウ。あれは相手が全部悪いわよ。絶対知ってて言ってきたもの」
「原因は僕だろ。来なきゃよかったんだ」
「コウ、そうじゃないわ」「お前は悪くないぜ」
 二人がかける言葉に、コウはいい加減耐えられなかった。
「やめてくれよ」
 コウの言葉に、二人は黙った。コウは手首を振ってトウジの手をのけた。
「帰る」
「コウ」
「ほっといてくれ。頼むから」
 そう言うとコウは出口に向かって歩き出した。

 トウジもヒバリも追いかけることができなかった。トウジがその背を見つめながら、
「ヒバリちゃん、コウはずっとあんな感じなのか」
 表情に友人を気遣う色があった。ヒバリは胸を押さえながら、
「ええ。そうよ。言えば言うほどあんな風になって。どうすればいいのか私には分からない」
 ヒバリは言った。うつむいて、
「トウジくんありがとう。あんな奴だけど心配してくれて」
 トウジは首を振って、
「前はもっと明るかったよな、あいつ。口は悪いけどさ、あんな風じゃなかったよ」
「ええ」
 ヒバリは疼痛がした。こんなはずじゃなかったのに、と彼女は思った。
「本当なら私がコウを元気づけて、立ち直らせなきゃいけないのに」
「ヒバリちゃんは頑張ってるよ。俺、あいつにもっと早く会っておくべきだった。こんなことになってたなんて思いもしなかったよ。この一年、自分のことばっかりだった」
 ヒバリは声にならなかった。一年間、コウと衝突していた記憶がよみがえった。体内に重りを下げられたかのように、苦しくなった。
「ありがとうね、トウジくん」
 ヒバリはやっとそれだけ言った。
 家に戻ってから数日、コウはあらためてウェブに没頭した。適当な話題を見つけては、全然自分と関係がないその場所ででたらめに長い時間を過ごした。何も考えたくなかったし、誰にも責められたくなかった。いったい何がこんなに自分を苦しめているのか、もはやコウには分からなかったし、そんなことはどうでもよかった。
 同窓会からしばらくの間、ウェブにトウジから連絡のコールがあった。しかしコウはそれに一切答えなかった。友人の優しさは分かっていても、これ以上巻き込むわけにはいかないとコウは勝手に決めつけた。
 ウェブは今日も自分と無関係の世界の話で盛り上がっている。
『おい聞いたか。チリィ・プラネットの気温が上がってるらしい』
『そうなるとあっこの星は氷の惑星じゃなくなっちまうな』
『生態系が狂うだろうなあ』
『まあそれはそれで面白いんじゃないのか? 見ものだよ』
『お前ちょっとはそこに住んでるやつらのこと考えたらどうなの?』
『そういうお前は考えてるのか? いや考えてても何か実行してないんじゃアウトだからな』
『願っておけばいつか届くかもしれないじゃないか、氷が溶けませんようにってな』
『それじゃやっぱ何もしてないんだなお前』
『ほっとけよ。まあ飲もうぜ、乾杯』

 ヒバリからもしばらく連絡がなかった。
 このまま何者からも見放されればいいのだ、とコウは闇雲に考えた。日頃参加しないモンスターハントに加わっては、手当たり次第にタスクを消化した。その不毛さが今のコウには丁度よかった。
 コウはもういいと思った。自分は欠陥品で、存在する必要などまるでない。ヒバリもこのまま来なければいい。自分に関する記憶など、すべて忘れてしまえ。
 長い間ウェブに没頭していたコウは、本当にそうなったかのように思えてきた。それでいい、とコウは言い聞かせた。このまま、何もなかったことになればいい。
 しかし、ある日ヒバリがやって来た。今までのことなど何事もなかったかのように、
「ナオトの練習を見にいきましょう」
 窓をほとんど閉め切っているにもかかわらず、ヒバリの口調は太陽のように燦々としていた。
「やなこった」
 コウはドアをロックしていた。誰の顔も見たくなかった。
「行くのよ」
 ヒバリはどんどんとドアを叩いた。
「断る」
「行かなきゃまた電気落とすわよ。ウェブだって元のエネルギー断ったら無になるんだから。じゃなきゃこのドアを無理やりにでもこじ開けて」
「またそれか」
 コウは椅子に座ったままため息をついた。コウにしてみれば、ヒバリがなぜそこまで自分を気づかうのか分からなかった。
 コウは乱暴に、
「ほっとけよ。幼なじみってこと以上は何の関係もない他人だろ、僕とお前は。もうやめてくれ。何のつもりなんだ? 僕を助けて、自分は哀れな人間に救いの手を差し伸べてますとか悦に入ってるんだろ。いい加減にしろよな。その偽善的行動」
「な」
 ヒバリは口をぱくぱく動かして、
「何よ、それ」
 コウは早く終わってくれと思いながら、
「そのままさ。お前は僕の家族でも親戚でもない。ただ昔から一緒にいるだけだ。ほんとなら、僕が指図されるいわれは何一つないはずだ。いいから帰ってくれよ。ついでに二度と来ないでくれ」
 ヒバリが外で傷ついているのがコウには分かった。
「あんた、私やウメさんやトウジくんがどれだけ……」
「心配してくれなんて言った覚えはない。勝手に裏切られて傷ついてるだけだろう。もうそういうのうんざりなんだよ。だから僕のことは忘れろ」
「本気でそんなこと言ってるの、コウ」
 ヒバリは言った。指先が小刻みに震えていた。コウはうなずいて、
「本気さ。ほんとならあの時に僕はこの世から消えてるはずだったんだ。それがお前に邪魔されたからこんなことになった。僕が死んでればお前もばあさんもトウジも余計な心配しないですんだだろ。もういいから帰ってくれ! 二度と来るな! うんざりだ!」
「コウ……」
 ヒバリはあふれてくるものをじっとこらえた。自分がどれだけ願っても、それはコウに届かないのだと思った。
「もういいわよ。勝手にすればいいんだわ。あんたは誰も必要としないし、誰にも必要とされないのよ。そんなの、いてもいなくても同じだもの」
 コウは答えなかった。
「バカ」
 ヒバリはそう言ってコウの家から立ち去った。小さな窓から射していた光が、わずかな陽の傾きとともに、消えた。
 しばらくコウはぼうっとしていた。苛立ちだとか、憂鬱だとか、そんな感情も起こらなかった。コウはウェブに思念を飛ばす。
「僕は今生きているだろうか?」
 しかし答えるものはなかった。そんな疑問を口にするものなど、ウェブではろくに相手にされない。コウはもう一度思念を飛ばす。
「誰か答えてくれ。僕は今生きてるのか?」
 しかし返事はなかった。やがて、コウはウェブをスリープモードにして、まどろみの中へ沈んでいった。
 ウェブで長いあいだ動かずにいると、いつしかその身は傀儡のようになる。心は霧の中へ迷いこみ、うつろな歩みに出口はない。無限の時間、存在しない時間だけが音もなく過ぎてゆく。それは薄い色のもやを手でかき分けて進むような、あてのない彷徨だ。
 いつからこうなったのだろう?
 いつか、自分にも意志があったはずなのに。
 どうしてだ。どうすればここから出られるんだ。
 誰か助けてくれ。誰か。誰か。

「――で、ヒッキーくんは結局来なかったってのか?」
 ナオトが言った。
 グラインド飛行の練習用指定地区。ヒバリはナオトの練習を見に来ていた。会場に観客席と、空中にはコースループがある。
「ええ。なんとかして連れてきたかったけど」
 ヒバリはうつむいた。ナオトは眉を上げて、
「ヒバリ。君は昔っから誰かの世話を焼くのが好きだったな。変わってない」
「だってコウはこのままじゃあ」
 ナオトはグラインダーの微調整をしながら、
「あいつだってもう十九だ。このままウェブに行っちまうか、戻ってくるかはあいつが決めることだ。君がどうこうできる問題じゃない。よっと」
 ナオトはそう言うとグラインダー「ツバメ」に飛び乗った。
「ま、俺は世の中ってあいつが考えてるほど絶望的でも窮屈でもないと思うけどね」
 グラインダーの駆動部にエネルギーが集まっていく。
 鮮やかなブルーの光が灯った瞬間、ナオトは空に舞い上がっていた。なめらかな曲線軌道を残し、ツバメが飛んでいく。どこまでも遠く、高く。
「ナオトの言うことは間違っちゃいないよ」
 ウメが言った。自動車椅子に座り、風雨保護シールドを展開させている。
「おばあちゃん」
 ヒバリが言うと、ウメは静かにうなずき、
「ただしあのぼうやが考えてるほど甘いものでもない。この星は辺境さ。たしかに生きるぶんには何やったって困りゃしないが、人間であるためにはしなくてはならないことがある。ヒバリ、あんたは分かっているだろう? あんたはあたしのとこ以外でも人の助けになろうと頑張ってるそうじゃないか。それが大事なのさ」
 ヒバリは何も言えなかった。空を見上げると、高いところでナオトは自由自在にカーブを描いていた。彼女の迷いと対照的に、ナオトの飛行はどこまでも爽快だった。
「ぼうやは利己的だ。人のために動こうとしない。だから簡単に屈折しちまうし、一度折れるとなかなか元に戻らない。あんたなら分かるだろう?」
「コウだって本当は」
 言いかけてヒバリは下を向いた。ウメはナオトの軌跡を静かに見つめながら、
「あたしにだって分かるよ。昔はあの子の比じゃないくらい曲がって、塞ぎこんでいたからね」
「そうなんですか?」
 ウメはうなずいて、
「ああそうさ。何をしても無駄だと思ってたよ。救いようもないくらい自己中心的だった」
 ウメはそれだけ言ったあと、少しむせた。
「おばあちゃん!」
 ウメは首を振り、
「大丈夫さ。あんたたちが近くにいるだけあたしはまだ幸せってもんだ。誰が傍にいるでもなく、孤独に老いてくじじばばは昔っからいるもんだ」
 ウメは遠くの空を自由自在に舞うナオトの機体に目を細め、
「ぼうやには足りないものがある。それは口で言ってどうこうなるものじゃない。あの子は自分でそれに気がついているはずだ。ヒバリ、死のうとしたぼうやをあんたが助けた日、あの子はあんたに何か言ったかい?」
 コウがフェードアウトを計った日。
 ヒバリは胸が苦しくなった。あの日、ヒバリは涙ぐんでコウに死ぬなと言った。それなのにコウは、
『助けてくれなくてよかった』
 と言ったのだ。
 ウメはヒバリの表情を見ていた。
「その様子じゃろくに礼も言わなかったんだろう。でも本当は感謝しているはずさ。たとえろくでなしでも、気にかけてくれる存在がたった一人でもいれば落ちずにすむんだ。ヒバリ。あんたのしたことは間違っちゃないよ。後ろめたくなったりしなくていい」
「おばあちゃん……」
 ヒバリはウメに近寄った。ウメは防護シールドを解除した。老婆の胸の中、少女は小さな声で泣いた。
 それから、ヒバリとウメはナオトの飛行を一緒に眺めていた。
 ヒバリは思った。ナオトはどうしてあんなに高く飛ぶことができるのだろう。どうして世の中に対して無垢でいられるのだろう。私たちとは住む世界がちがうのだろうか。
 海の上で、ずっと遠くにかかる雲がスコールを降らせていた。
8, 7

  

 コウとヒバリはしばらく会うことなく過ごした。ヒバリは来る日も来る日もコウのことが心配でたまらなかった。しかし彼のもとに行くことがどうしてもできなかった。自分が行けば、反対にコウは心を閉ざしてしまうのではないか。そう思った。
 一度、トウジからヒバリに連絡があった。
『ヒバリちゃん、ひさしぶり。その後コウはどうだ? 俺のほうから連絡しても反応がなくてさ。たまには遊びたいんだけどな、あいつと』
 ヒバリは何と言うべきか迷った。真実をそのまま伝えるのは彼女にはためらわれた。
「うん、大丈夫だと思う。あの後私に謝ったしね」
 ヒバリは嘘をついた。トウジは電話越しに安堵して、
『そっか。それならよかった。もしかして何かあったんじゃないかって心配になってたとこで。ああいや、ごめん。平気ならよかった』
 トウジは気を遣っていたが、ヒバリはむしろつらくなった。
「ごめんね、心配してくれてありがとう。今度またみんなで会いましょう」
 それだけ言うのが精一杯だった。早く通話を終えたかった。ヒバリは嘘をつくのが得意ではない。
 また連絡する、と言ってヒバリは電話を切った。どうすればいいのか彼女には分からなかった。
 いっぽう、ナオトはレースに向けて順調にコンディションを整えていった。ナオトにはナオトで考えていることがあったが、誰にも言わなかった。
 やがてナオトの出場するレース当日になった。しかしコウは会場に現れなかった。
 グラインドレース世界大会の幕が上がる。

 澄みきった大気に真っ青な海が広がっている。今日もよく晴れていた。
「ご覧ください! 見渡す限りの青! 天気は快晴、死角なし! 奇跡の惑星メトロ・ブルー! グラインドレースワールドカップ、司会はわたくしウェストサイド放送局DJ、ラッキー。解説はおなじみBBことボブ・ボガネット!」
 海上のメインスタジアムに割れんばかりの拍手が響く。
「ようお前ら! 元気にしてたかぁ! がはははは」
 たくましい男、BBは両腕を突き上げて拍手に応えた。
「さあいよいよですねBB。年に一度のレース! どうですか今の心境は」
 司会のラッキーが上げる軽快な声に、BBは山に轟くような大音声で、
「がはは最高だ! 俺っちは昔を懐かしんでたところでぇ。グラインドのあの疾走感! 高揚! ようお前ら、盛り上がってるかあ!」
 数万の人でひしめく観客席がわいた。世界中、星系中から人が集まっていた。この時期だけメトロ・ブルーは渡航費用が安くなる。
「ご存じのように、BBはかつてのグラインドレースワールドチャンピオンであります。奇跡の三惑星制覇を成し遂げたのは後にも先にも彼だけでありましょう!」
 ラッキーが一息に言いきった。BBは、
「最高の瞬間を最高にご機嫌な奴らのレースとともに過ごせる幸福よ! 俺はこの時間に感謝するぜ! お前らはどうでぇ!」
 また観客席がわいた。それぞれに応援する選手の光子迷彩(フォトンカラー)や、トレードマークのあしらわれた帽子をかぶっていた。
「さあ今回のレース、なんといっても注目は二つの若き流星、ウィングとナオトでありましょう。ともに優勝候補ですが。ボブ、ほかに注目の選手はいますか?」
 ボブは興奮に息をあげて、
「俺としちゃ惑星ガイア・レイのミツキに注目だ。奴ぁえれえべっぴんな女だが、どっこい腕前は確かなもんよ。おめえらあいつの飛行に惚れんじゃねえぞ! 後はなんといっても前回王者のルイだ。奴の技巧、しなやかさ、卓抜した強さには誰も近寄れねえ!」
 会場が割れんばかりの大歓声にわいた。どちらの選手にもファンが多いことを物語っている。
「総人数一万人の大レース、参加するだけでも一生語れる話のタネとなります。さあ、それではここで前回の王者ルイ・ミルトンによるデモンストレート飛行です!」
 鳴りやまぬ歓声をぬって、緑の軌跡がすっと空に伸びた
 軌跡は海上に一本のあざやかなラインを描く。ひきつけられた観客たちは、水を打ったように静かになった。
 はじめ、人々はそれがグラインダーだと気づかなかった。深緑色のグラインダーは、やわらかなリボンのように弧を描き、くるくると回って上昇する。
 王者ルイの飛行は流麗だった。まるで天が人の姿をとって踊っているかのようだ、と観客の一人は思った。ゆっくりと飛んでいるかと思えば、いつの間にか速度を増して、驚くほど高く、遠くへ行っている。
 ふいに、ルイは空中で静止した。
 風が凪いだ。
 あらゆるものが息をひそめる。時間すら止まったかのように、誰もがじっと彼を見ていた。

 それはウェブにおいても同じだった。
 グラインドワールドカップの模様は、メトロ・ブルーや近隣の惑星のあらゆるメディアを通じて生中継される。
 コウは表情を変えずルイの飛行を見ていた。ウェブ内の都市、サクラシティでのことだ。
『すげえなあ。俺もここ、ウェブの中でならあのくらいできるのに』
 隣にいたフレンドの一人が言った。別の一人が、
『ふふ。そりゃここならたいていのことは思いのままだもんね』
 コウは特にチャットに加わることもなく、漫然とルイの飛行を見ていた。画面では分からないが、ここ数日でコウはずいぶんとやせ細っていた。目に光はなく、意識もおぼろだった。
 コウの口数が少ないことに気づいたのか、フレンドが、
『おいコウ、このところ元気ないな。もともとお前はダウナーだけど、最近ちょっと心配になるぜ。何かあったか?』
「……僕のことは気にしないでくれ」
 コウは儀礼的に思念を飛ばした。
『そうかい。ならいいけどさ。ま、ウェブの住人なんて誰でも何かしら問題抱えてるだろうし』
『そういうあなたはどうなのよ』
 女の子が言った。男のほうが肩をすくめ、
『さてね。それじゃ君は? 何なら僕が相談に乗ってあげてもいいけど』
 フレンドたちはレースの観戦もほどほどに談笑していたが、コウはもう長らくそうした輪に加わっていなかった。ちょうどヒバリが来なくなった日から。
 画面の中、王者ルイ・ミルトンによるデモンストレート飛行が終わる。

 拍手喝采が会場を包み込んでいた。
「ブラボー! すばらしい飛行だ。どんな飛び手もお前の繊細さにはかなわねえぜ」
 BBがルイの飛行をたたえた。誰もがうっとりする飛行だった。やまぬ興奮の中、
「さあ、レースは三十分後にスタートです。それまでの間、前大会のハイライト映像でお楽しみください」
 ラッキーがアナウンスすると、ホームスタンド前の超大型気晶モニタが映像を映し出した。

 ナオトは一番高い、関係者専用のデッキから会場の様子を眺めていた。
「相変わらずあっぱれな奴だな」
 ナオトがつぶやくと、それを待っていたかのように後ろから声がする。
「だが、グラインドレースは何が起こるか分からない。俺やお前が勝つ見込みも十分にある。そうだろう?」
 親友でありライバルのウィングだった。片側を刈り込んだ特徴的なショートカットは、一見すると女性にもみえる。彩度の高いカラーで縁取られた眼鏡の似合う親友。その笑顔にナオトは、
「もちろんだ。勝つつもりで来たからな」
 片腕でガッツポーズをつくった。ウィングは満足そうにうなずいて、
「あいにくだが勝つのは俺のほうだよ。お前はあのルイを適当におちょくってくれりゃいいの」
 自信をのぞかせる笑みを浮かべた。
 ナオトとウィング。同い年の二人は小さい頃からひたすら空を飛んで生きてきた。
 もっともグラインドに打ち込んだ時期など、一日のうち空にいる時間のほうが長かったくらいだ。ともに十代で惑星代表の座を射止め、今ではワールドチャンプの座を狙うまでになった。
 ナオトの武器はなんといってもスピードだった。青い弾丸と呼ばれる飛行は常にエネルギッシュで、疑うことなく大空へ飛び出していける。誰もが彼の無垢な飛行をうらやんだ。
 一方、ウィングの長所は変幻自在の器用さにある。それゆえ、コースを選ばず安定した力を発揮できる。今回の下馬評でも、ウィングのほうがナオトより優勢との予想だった。
「ま、どっちが勝っても恨みっこなしだよん」
 ウィングが言った。
「簡単には勝てねえよ。俺がいるからな」
 ナオトが笑った。

 五分後。
 無数の選手がアップをすべく周囲を飛び回る中、ナオトは観客席に向かっていた。
 関係者席の前のほう、ヒバリがウメと並んで座っていた。その隣に空席があることに気づき、ナオトは頭をかいた。駆け寄るとそこに座り、
「よう」
 ヒバリの肩をぽんと叩いた。ヒバリは驚いて目を見開き、
「あ。え、ナオト!? 今来て大丈夫なの? レースまであと二十分くらいでしょ」
 ナオトは首を振り、
「問題ない。朝早くから十分に温めてあるからな。それよりも」
 と自分の席を指さして、
「あいつはやっぱり来てないのか?」
 ヒバリはうつむいた。静かにうなずいて、
「来てない。あれから一度も会ってないもの」
 二人の会話を聞いていたウメが、
「あの子自身がほんのわずかでも変わらないと今のままさ。しかしそれにはきっかけがいる。こっちから強いたってダメなんだよ」
 ヒバリは誰の目にも分かるほど落ちこんでいた。
「私、どうしたらいいか分からなくて。このままだとまたコウがあんな風に」
 言いかけて下を向いた。ウメがヒバリの肩に手を回すと、ヒバリはふるえだした。
「俺にできるのはこのレースで勝つことだけだ」
 ナオトは言った。
「ウェブにも中継がいくからな。嫌でも見てるだろう。ウィニングランのあと、あいつにインタビュー越しで訴えてやるよ。目え覚ませこの野郎! ってな」
 ナオトはまだ何か言おうとしていたが、
「ヒバリ、君もあんまり気に病むな。いつものように笑ってるのが一番いい」
 立ち上がり、観客席から歩き去った。近くでファンからナオトに写真撮影を求める声がした。しかしナオトは答えなかった。
「さあ、さあ! いよいよレースの幕が上がります。BB、準備はいいですか?」
「俺の準備はいつでも万端よ! だがラッキー、その前に必要な説明ってものがあんだろう?」
「そうでした。コースとルールの説明をしなくてはなりません。観客のみなさん、はやる気持ちは分かりますが、いましばらくのご辛抱を!」
 観客が待ちきれないとばかりブーイングした。
 メインスタジアムのモニタにグラインダーのモデル映像が浮かび上がる。
「まずはグラインダーの説明です。これは惑星を取りまく電気エネルギーをエンジンに凝集させることで爆発力とし、空を舞う乗り物で、惑星に電気を使った文明がなければ飛ぶことができません。この惑星メトロ・ブルーは海のはるか下に巨大な電機システム『エターナル』を有しているため、通常の惑星よりもエキサイティングな飛行ができる、いわば飛行のメッカなわけです。そもそもグラインドの起源とは百年前にさかのぼります。次世代の移動手段として開発されたグラインダーは――」
「おいおいラッキー。そのまま何もかも説明してたんじゃ日が暮れちまうってもんだ」
 BBの茶々に観客が吹きだした。ラッキーは咳払いして、
「し、失礼。それではコース説明に移りましょう! メトロブルーホームスタジアムを出まして、ピラミッド記念公園、命樹恩寵公園、ワールドコンベンショナルタワーの三か所にあるチェックポイントを順に回るコースであります。なお、今回のルールはリングチェイス制。随所にボーナスリングがあり、くぐるとゴールタイムから一か所につき十秒マイナスすることができます。ゆえ、一番にゴールした者が勝つとは限らないのがこのルールの醍醐味と言えるでしょう」
 モニターは近隣大都市を巡回するコース映像を映していた。トライアングル・ビッグオーシャン。
「なお、選手に対するあらゆる妨害、暴力行為はNGであり、行った選手は一発で失格、退場となりますのでご注意を!」
「昔みたいにそのへんのルールをゆるくしたほうが俺ぁ面白いと思うんだがな!」
 BBが言った。歓声とブーイングが半分ずつ起こった。ラッキーは若干困惑して、
「しかしそれが政府とグラインド協会とのぎりぎりの譲歩地点であります。グラインドレースの歴史については諸々の遍歴が今に至っており、度重なるルール変更のもと、こんにちようやく――」
「ラッキー。お前さんはここの観客を明日まで眠らせとく気か?」
 また笑いが起きた。ラッキーは苦笑しながら、
「失礼失礼。それではまいりましょう! 第八十七会グラインドレース世界大会! 選手入場!」
 たちまちのうちに、空にあざやかな色の粒が飛びだした。
 プロのグラインダーたちが思い思いの飛行で弧を描く。会場の熱気はたちまち最高潮に達する。気に入っている選手の名を呼ぶ声がひっきりなしに聞こえてきた。
「引き続き一般選手の入場です!」
 数千のグライダーたちが、光栄と言わんばかりの表情でいっせいに空を舞った。まるで雌雄を決する戦いに赴く勇者たちを激励がするかのような、希望に満ちた光景だった。
 歓声と興奮がやまぬうち、号令の笛が鳴る。選手たちは高台にいくつもしつらえられたスターティンググリッドへ降り立った。
「さあ見てくださいこの空を! この選手たちを! 果たして今年の覇者は誰か。そしてワールドレコードは生まれるのでしょうか!」
 中空にホログラム映像のシグナルが現れる。
 会場が静まりかえる。たった数秒であるはずの沈黙は、いつまで続くか分からないほど緊迫した空気を生む。
「それではレディ――、」
 3、2、1、
 赤信号の色が青に変わり、空に溶ける。
 一万人のグライダーたちはいっせいに大空へ舞い上がった。そのほとんどは上空を目指し、残る一部は海上の低いところを滑るように移動する。
 会話もままならぬほどの歓声に負けないよう、ラッキーの大きな声が、
「ピラミッド記念公園が最初のチェックポイントとなります! 地上八五〇メートルのところにあるポールを回り、次の場所を目指せ! なお、途中『風の岬』と呼ばれる強風域があります。どの乗り手も注意してください!」
「振り落とされんじゃねえぞ! 風を味方につけろ!」
 ラッキーのアナウンスに続いてBBが大声をあげた。会場の大音響をものともしない声量だった。
 瞬間、真っ青な機体が閃光のように天をついた。
「おーっと、ナオトだ! 疾風の乗り手がまずはトップに躍り出た!」
「昔の俺もあいつのスタートダッシュにゃついていけねえ」
 ナオトはまっすぐに上空の、にわかに雲のかかった青空を目指した。はるか遠くの海が、白い陽光を受けてまぶしくきらめいた。追従するように、数千のグラインダーたちが、縦横無尽に思い思いの飛行で加速していく。
「ナオトの後方、少し遅れたところにウィング。遥か下、海上スレスレを王者ルイが悠然と滑っています!」
 BBは深くうなずいて、
「賢明な選択だな。今日のこの星は荒れてるぜ。上空じゃいつ煽られるか分からねえ」
「上空からは遠くの景色が眺望できますゆえ、よほどの猛者でないかぎり、まずは高度を保つのがグラインドレースのセオリーですが、今日のこの星ではとちらが吉と出るか! さあ! 先頭集団はスタジアムから早くもエリア51にさしかかっております。ここはかつて、人類が海上埋め立てを行った区画。生態系を乱し、多くの動物を苦しめた過去を我々は忘れてはならないでしょう。コーラルリーフが西へ虹の道を描いているのがなんとも美しい場所です!」
 BBは机をガツンと叩き、
「昔はよくこの場所をハニーとドライブしたもんだぜ。西日が最高でな!」
 豪快な笑いでBBは満悦の表情を浮かべた。解説席から押し出されそうなラッキーが
「ボブの恋人の話はまた後日聞くことにして」
 海上が笑い声に包まれる。
「ウィングがナオトのあとをぴたりとマークしております。その後方をネハン、スパークと有力選手が追随する!」
 日差しが海原をまばゆく染める。選手たちのシルエットは、まるでかつて遠くまで空を飛んだ渡り鳥たちのように見えた。
 先頭の選手たちは互いにフットワークよく飛びかい、牽制しあう。螺旋を描くように、七色の軌跡が見事に海上に尾をひいていく。客席が一気に興奮を高めていく。
「さあ見事なチェイスだ!」
 抜きつ抜かれつの攻防が続いていく。
「見ろラッキー」
「どうしましたBB?」
「ルイの少し後ろ、海上にもう一匹蛇がいるぜ」
 BBの指摘に、カメラが低空の映像をモニタにうつす。一定速度で飛ぶルイの後方、黒い髪の女性が静かに飛んでいた。
「おっと、ミツキですね。BBが注目していた選手、惑星ガイア・レイのミツキが水上二位につけております! さながら海をゆく可憐なシャチのようだ!」
「さあ野郎ども! おっとレディもいるが。風に身をゆだねて嵐を起こしやがれ!」
 モニタのスピーカーから音楽が流れ出す。アップテンポのクラブジャズ。
「さあBGMはジャバグルーヴで『白銀ターボ』!」
 ドラムスの裏拍がハイテンポのビートを刻む。
 ツッタッツッタッツッタッ、
 ハイテンションの音楽をバックに、ラッキーのアナウンスがジャミングする。
「海洋に伸びるはピラミッドへの道! 誰が最初に到達するのか!?」
「忘れちゃいけねえぜ。ここは途中にチェックリングがあるはずだ!」
 選手たちはエリア51を安定した飛行とともに駆け抜けていた。水上をゆくグラインダーの翼が、水面から白いしぶきをあげた。観客はしばらくこのままの順位が続きそうだと思いはじめていた。
「さあ見ているだけで気持ちがいい飛びっぷりであります。このままの順位でチェックポイントまで運ぶのでありましょうか!」
 突如、南から急な風が吹いた。
 それは海上を一掃するように吹き抜け、観客の髪をなびかせる。グラインダーの乗り手たちは、軒並み煽られて体勢を崩す。少なくない乗り手たちが、海まで一気に落ちていく。

「突風!」

 ナオトも煽られた。両翼を傾けた矢先、魔手のような風に絡めとられた。一時的に制御不能になり、みるみる高度が下がる。
「あーっとナオトが風の餌食になったあ!」
 間隙をぬって、後ろにつけていたウィングが上空一位に躍り出た。ナオトは高度を半分まで下げて踏みとどまったが、順位が三つ落ちた。興奮の歓声がメインスタジアムに満ちた。
「見事だウィング! 驚異のバランス感覚!」
 BBが豪快に笑った。ラッキーが冷静に、
「今の突風で後続のグラインダーたちからは少なからず失格者が出ております。序盤から大きく動くこのレース、いったい誰が制するのか!」
「この星はグラインドの時期だけやたらうねりやがる。昔っからそうだった」
 BBのつぶやきと共にまたBGMが切り替わった。軽快で哀愁のあるクラブジャズ、「ブライト・ダンス」。
「どこまでも飛んでいきやがれ野郎ども! そこに必ずお前の目指すもんがある!」
 突風をものともせず、水上一位をキープしていたルイが速度を上げた。
「おっと王者ルイ、貫録のアタックフライ!」
 ラッキーが声を張り上げた。
「目ざとい奴ならヤツの進行方向に何があるのか気づいてるはずだ」
 にやりと笑うBBの声に、カメラと観客がルイの前方を注視した。
 ルイの直線上、ボーナスリングが金色の輝きを放っていた。
 俄然乗り手の熱が上がっていく。
「チェックリングだ! さあこのリング、一人がくぐると三十秒消えたままになります! 先頭集団のうちボーナスポイントを得るのは王者ルイなのか!?」
 ルイがますます速度を上げる。観客がそれまで最高速度だと思っていたルイの飛行は、まだ限界ではなかった。
「なんという速さでありましょう! 風をものともしない伸びのよさ! さすがは王者だ!」
 誰もが、このままルイがリングをくぐると思っていた。
「これは無事リングをくぐり抜けそうだ……っとお!?」
 稲妻のような青い閃光が走りぬけた。
 リングをかっさらったのはナオトだった。通過した金色のリングは高速回転したのち、色素を失って一時的に消滅する。会場がどよめいた。
 その影響でルイは軌道がわずかにそれた。体勢を崩しかけたが、一度回転して元に戻る。
「お見事ナオト! 若き牙が王者のマントに穴を空けたか!」
「やるじゃねえか、疾風のナオト!」
 BBが豪快に笑った。会場は拍手喝采。
 飛び手たちの先頭、ナオトは振り返って笑った。ルイは表情を変えることなく、まっすぐにナオトの視線を受け止めた。
「さあまもなくピラミッド記念公園のあるデザイトシティです!」
 海が陸地に変わる。上空も海上も、先頭の飛び手たちはみな中空に集まってきた。
「障害物が多いこの都市。ビル風やちょっとした油断が命取りになりかねません!」
 デザイトシティは高層ビルの林立する近代都市だった。高いビルの窓や屋上から、応援に身を乗り出す人々が見えた。
 ボーナスリングを無視することで先頭に位置していたウィングが、地表付近まで高度を下げた。
「おっと、どういう作戦でしょうかウィング! ここで高度を下げるとは。よもや血迷ったか?」
 しかしBBは首を振った。したり顔で、
「やつぁ高度を思い切り下げてビル風のリスクを減らす作戦だ。アクシデントに足をすくわれるより、自分のミスでリタイアになるほうがまだプライドが許せるんだろう。まあ見てな。大した野郎だぜ」
 ウィングの機体についたカメラが主の飛行を映す。ウィングは高度を下げたのち、建造物の数々を軽やかな動きでかわしていく。右。右。左、フックをかけて真っすぐ。また左。ビル間の連絡橋をくぐり、右。右。上下動、スピンして左。
 ざわめきが起きた。会場はスタンディングオベーション。
「見事な飛行であります! あの速度であの障害物を切り抜ける乗り手は、宇宙広しといえどそうはいないでしょう!」
 拍手と口笛が鳴り響く。会場の熱気は上がる一方だった。
 ウィングは都市の網目を見事にくぐり抜ける。まるで神経の発達したモグラのようだった。
 高揚感に包まれる中、ラッキーのアナウンスが響く。
「さあ、先頭をゆく飛び手の遥か向こう、四角錘のピラミッドが見えてまいりました! かつて石造りだったこの建物は、今はブルーチタンでできています」
 都市を抜け、国立公園の緑を抜けた先、真っ青なピラミッドがあった。その先端、赤く長いチェックポールがある。
「ここを回ると第一チェックポイントクリアとなります!」
 ラッキーが言った。それと同時に、強いビル風が乗り手に襲いかかった。
「ビル風だ! 激流に流されるな勇士ども!」
「予想通り強い風が吹いております。なお、ビルに接触した際も着地とみなされ失格になりますのでご注意を!」
「んなこた全員知ってらぁ!」
 BBの笑いに会場がうねった。
10, 9

  

「すげえレース展開だ」
 隣でフレンドが言った。コウは思わずうなずいた。
 レースが始まってから、息つく間もない緊迫した展開に、コウたちは思わず見入っていた。
 そしてコウは考えていた。
 今まで、ナオトのレースにこれほど釘づけになったことがあっただろうか?
 あらゆる記憶をさぐっても、コウにはそんな覚えがない。小さい頃からナオトが飛ぶ様は見ていた。しかしコウ自身、ナオトの飛行に関心を持っていたとはいえなかった。
 ナオトは確かにすごい飛び手だ。努力はもちろんだが、生まれ持ったセンスが抜きんでている。グラインダーを乗りこなすには、まず何よりも天性の恩恵が必要だった。だれもが憧れる。しかし誰でもなれるわけではない。
 だからコウは斜に構えていたのかもしれない。才能でどこまでも優雅に飛ぶナオトを、うらやましく思っていたのだ。この一年は特に。挫折した自分に対し、いつまでも自由に空を飛ぶナオト。あまりに対照的で、コウはナオトがなすことから目をそむけていた。
 しかし、コウは画面越しに実感した。
 これは天性だけでできる芸当ではない。たとえ同じ舞台に、同じ力を持った人間が立ったとしても、その別人はあらゆるプレッシャーに負け、たちまち潰れてしまうかもしれない。あのビル群など、あれだけ速く飛んで衝突したら、とてもじゃないが怪我ではすまないだろう。
 その違いが何なのか、コウは悟った。
 彼らは本気なのだ。
 命を懸けているのだ。
 だからこそ、あそこまで速く、自由に飛ぶことができる。
 だから人を惹きつける。
 なぜそのようなことが、命がけの飛行ができるのか?
 自分のためだけに彼らは飛んでいない。応援してくれる人、応援したい人がいて、彼らははじめて飛ぶことができる。もしもあのレースが誰にも必要とされないものであったなら、彼らはあそこまで本気で飛ぶことはできないかもしれない。
 コウはウメの言葉を思い出していた。自分がこれまでどのようであったか。
「あんたは独りよがりだ」
 確かにその通りだ。いつまでも変われない。自分から動けないし、誰一人喜ばせることができない。あげくふてくされて閉じこもり、今こうして、誰とも会わずに不毛な時間を潰している。
 コウはナオトと何もかも違っている。しかし、それでも同じ時代に生きていて、互いに知り合いだった。しかもその知り合いは、こんなにも多くの人を魅了し、力を与えている。
 何もナオトだけではない。コウのまわりにはヒバリやウメもいた。この前はトウジも自分を気遣ってくれた。誰もが、それぞれに自分のできることを頑張っているではないか。そして、ヒバリたちは自分のことをあんなにも気遣ってくれた。
 それは素晴らしいことだった。
 今、自分はたしかにここにいる。
 それに、心配してくれる人たちがいる。
 なのに、いったい今まで自分は何をしていたのか? 彼らにどんなふうに接していたのか?
 コウはウェブの中継映像を眺めたまま、長い間考えていた。画面の中、選手たちはデッドヒートを繰り広げている。
 彼らのようではなくとも、今、コウが真っ先にしなくてはいけないこと。
 コウは席を立った。重たく沈もうとする身体を引っぱって、緩慢に歩き出す。

 レース会場ではまた順位が入れ替わっていた。
「さあ! 一位でピラミッドを通過したのはルイであります。さすがの貫録! チェックポイント手前で一気に首位を奪還した! それに続くは力技で風を切り抜けたナオトだ! 一か八かの捨て身の飛行は誰しもを惹きつけてやみません!」
「ルイ。今回もヤツが優勝するか? いや、まだ分からねえ。風はどんな飛び手にだって味方する!」
 BBがにやにやしながら言った。
 二番に順位を落としたナオトは、ルイに追いつこうと加速する。しかし思うようにその背をとらえることができない。
 その時、前方のルイがこちらを振り返り、不敵に笑った。
「くそ、あの野郎」
 ナオトはアームを握る手に力をこめた。そのすぐ後ろでは、ビル群を切り抜け、風によるアクシデントを回避したウィングが追いついた。残りの選手はビル風に煽られ、あるものは順位を落とし、あるものは失格した。いま、先頭に位置しているのはルイとナオトとウィングだけだった。以降の選手とは距離が開いている。
「さあ、次は命樹恩寵公園を目指します! 距離がある道のりには、霧の海域が待ち受けている!」
「ここぁ毎回ロクなことが起こらない魔の海だ。事故らねぇよう気いつけな」
 遥か彼方の会場に、まっ白い霧が立ちこめていた。ナオトは機首を上方へ向けて、速度を上げる。

 主のいない部屋。消し忘れた気晶モニタには、グラインドレース中継のCMが流れる。
「さあワールドカップ、お楽しみいただいてますか! 二十秒で分かるサンライズ社製グラインダー『ブライト』の紹介です。赤い翼に小柄な機体、どこまでも飛んでいけるエンジン。これで君もスターだ! 大空へ羽ばたこう。真っ赤なサンライズのグラインダー、『ブライト』!」

 五分後。霧の中を選手たちは飛行していた。
 グラインダーについた方位磁針は目的地を示していたが、きちんと前へ向かっているか、そもそもちゃんと進んでいるのか、ナオトには分からなかった。
 霧の中に入る前は二位だった。前方数百メートルの位置にルイ、後方にいたのは親友ウィング。しかし今、両者がどこにいるのかナオトには定かでない。
 不気味な予感が霧とともにナオトの身体を包みこむ。このあたりは過去にも何度か飛んでいたが、ここまで不吉な気にさせられるのはこれが初めてだった。
「何だろう。イヤな感じだ」
 ナオトはまとわりつく霧を払拭すべく速度を上げる。

 メインスタジアムではラッキーのアナウンスが続いていた。
「さあ、霧の中ではいったい何が起きているのか! 追従カメラもそこまで撮影することはかないません!」
 ラッキーのアナウンスを聞きながら、ヒバリは不安そうにまっ白なモニタを見つめていた。
「レースの行方が誰にも分からないのは、画面が映っていようといまいと同じことさ」
 ウメが言った。
「何があろうと心配はいらないよ」
 しかしヒバリは祈らずにいられなかった。両手をあわせ、ナオトと、そしてコウのことを想った。霧は画面をまっ白に覆いつくす。その画面にたびたびノイズが入ることに、誰一人気がついていなかった。

 まっ白な画面を見ながら、コウもまたナオトの無事を祈っていた。
 世界(ワールド)・鉄道(レールウェイ)の中にコウはいた。メインスタジアムはコウの家からさほど遠くない。電車を使えばほんの数駅だ。コウは家を出た足で列車に駆けこんだ。
 列車の窓からは快晴の大海原が見えた。この空のもと、グラインドレースが行われているのだとコウは思った。今この瞬間、世界にはたくさんの人が生きている。
 車内モニタはまっ白な霧の海を映していた。そこには言いしれぬ気味の悪さがある。
「ナオト、頑張れよ」
 コウはつぶやいた。その画面にもノイズが走っていたが、コウはモニタの調子が悪いのだろうと思い、特にそれ以上考えなかった。
 霧の海をゆくナオトは異変を察知していた。
「どうしちまったんだ」
 一分前から様子がおかしかった。霞に目を凝らしてよく見た結果、速度計のメーターが出力低下を示している。
「おかしい。あれだけ念入りにメンテナンスしたってのに、どういうことだ?」
 そう言う間にも、グラインダーの高度が徐々に下がりはじめていた。ふいに、ナオトは動力が一切絶えるのを感じだ。一気にグラインダーが落ちていく。
「なっ」
 アクセルブースターを強く踏み込んだ。しかし反応がない。出力は下がる一方で、とうとう飛行不能領域に割り込んだ。
「くそ、どうした!」
 ナオトは加速しようとあらゆる手を尽くしてみた。一度滑空してから機首を上げたり、出力を切ってから再点火したり。
 しかし、結局グラインダーのエンジンはつかなかった。高度をさげた機体は、最後には完全に飛べなくなって、海上に着水した。
「な」
 着水の感触とともに、体中から力が抜けていく気がした。
「何てことだ。こんなことがあっていいのか」
 海の上を滑るグラインダーから、水面に波紋が広がる。
 しばらくの間、どういうことなのかナオトには理解ができなかった。
 こんな何もない場所でリタイアしたことなど一度もない。障害物にぶつかったことならあるが、それとはわけが違う。
「何が起きたんだ?」
 ナオトは、はじかれたように機体の総点検をした。しかしグラインダーには何一つ異常がなかった。それなのに、いくらエンジンをかけてもまるで反応がない。
 こんなことはナオトの飛行人生において初めてだった。信じがたい事態だ。運が悪かったのだろうか。それとも、整備不良が残っていたのか。いや、そんなはずはない。この二週間、万全を期して点検と操縦を行った。むしろかつてないほど調子がよかったともいえる。
「じゃあどうして?」
 ナオトは速度計を拳で叩いた。0km/hを指す表示は、ぴくりとも動かない。
 しかたなく、ナオトは緊急用のレシーバーを取り出し、運営本部に連絡する。
「あー、聞こえますか? こちらグライダー、ナオト。マシンがストップしちまった。うんともすんとも言わない。リタイアだ。返事をくれ」
 ざあっとノイズが鳴った。しかし応答はない。
「もしもし? 聞こえていたら返事をくれ。こちらナオト。リタイアだ」
 本来あるはずの返事がなかなかかえってこなかった。そのまましばらく待ってみたが、やはり何も起こらない。どうも混線しているらしかった。他者のものと思しき音声が聞こえては消える。
「どうなってる」
 やむなくナオトはグラインダーの海上運転装置を作動させた。エンジンはどうせかからないので、手動運転モードにする。グラインダーの尾翼が櫂に変わる。
 ナオトはハンドルを握り、左右に振って反動をつける。霧の海から、ボートをこぐ要領で外へ。まとわりつく霧をふりはらうように、漕いで、漕いで、漕いで。
「何がどうなってるんだ、こりゃあ」
 手動運転などグラインダーに初めて乗った頃くらいしかやっていない。それも緊急時の練習だけで、実際に使ったのはこれが初めてだ。
 ナオトの脳裏にヒバリとの約束がよぎった。約束、というほどのものではないが、優勝してコウを激励するという自分の計画もパアになった。表彰台から声を発してはじめて意味がある。ナオトはそう思っていた。
 まる十分進んだナオトは、突然まっ白い霧の外に出た。
 一見すると海は何事もないようだった。空は晴れわたり、青い水面は水平線まで続いている。しかし、振りかえったナオトはそこに異様な光景が広がっているのを見た。
「何だよ、これ」
 まるで虹色のドットをでたらめに散りばめたように、海上に鮮やかな色の川ができていた。
 ナオトはすぐにそれがグラインダーによるものだと気がついた。あまたの乗り手たちが、ナオトと同じように海上で難破していた。
「よう相棒」
 聞き慣れた声がした。すぐ隣にウィングのグラインダーがやってきていた。ウィングまでリタイアしていることにナオトは瞠目した。ウィングもナオトと同じく、グラインダーを手動運転モードに切り替えている。
「こりゃいったいどういうこった?」
 ナオトの質問にウィングは首を振って、
「さあ、分からないね」
 手のひらをくるりと回して、
「こんなの前代未聞だよ。何百人かリタイアするのはグラインドの名物だけど、全員墜落なんてのは初めて見た」
 ウィングは遠くのピラミッド記念公園の方角を眺めて、
「まあ間違いなく全員だろうねえ。この様子じゃさ」
「いったいどうしてこんなことに?」
 ナオトの疑問にウィングは肩をすくめた。それから思い出したように、
「そうだナオト。君、マシンはどうだい? 無事かな?」
 ナオトは速度計に目を落として、
「ああ。いや。機体は傷一つないし、無事は無事だけど。一切エンジンがかからない」
 ウィングは何かを納得した様子で、
「やっぱりそうか。俺もだよ。だいたいお前がこんなところで落っこちるはずないもんなあ」
「それじゃ、一体何が原因なんだ?」
 ウィングは片手をひらひら振って、
「分からない。前例がない事態だってことだけかな、はっきりしてるのはさ」
 先頭にいるナオトたちの背後には、まっ白な霧が、まるでしのびよる前兆のように忍び寄ってきた。

 ナオトとウィングから遥か遠くのメインスタジアムはどよめいていた。
 すべての選手が水上、あるいは地上に落ちたらしいという知らせが届いてから、すでに三十分が経過していた。
「ただいま原因究明中です。しばしお待ちを!」
 司会のラッキーは一本調子にそれを延々繰り返していた。
「いったい何が起きたの?」
 ヒバリが言った。会場にひしめく他の観客たちとまったく同じ反応だった。
 何より現地からの映像が一切ないことが不安をあおっていた。霧の海に限らず、ピラミッドやエリア51からも映像が届かない。会場の特大気晶モニタはふっつりと消えた。
「珍しいことになったようだね」
 ウメが言った。混乱のさなかにあっても、彼女はまったく動じない様子だった。
「ナオト、大丈夫かしら」
 ヒバリが言った。ラッキーのアナウンスによれば、今はここから出ることもかなわないらしい。強引な客は出ていってしまったようだが、ヒバリにはそれでこの事態が収拾するとも思えなかった。
 ウメは持参したポットから緑茶を注いで、
「あの子なら大丈夫だ。それより気がかりなのはこのおかしな現象のほうさ。こんなことはあたしの記憶にもないよ」
 ウメが一口茶をすすると、
「何が起きたんだ?」
 少年の声がした。ヒバリは反射的にふりむいた。
「コウ!」
 ヒバリは立ちあがった。たちまち瞳に涙が浮かぶ。
 コウが会場に到着した。その表情には色濃い疲労が浮かんでいた。
「コウ、どうして……どうしてここに」
 ヒバリが胸いっぱいになりながら言うと、コウは唇を噛んで、
「来たくなった」
 それからコウは深く頭を下げた。騒いでいた近くの観客が、いったい何事かとコウを見た。
「ヒバリ、心配かけてほんとうにごめん」
 言葉を選ぶように、
「ひどいこと言って悪かった。いくらでも罵ってくれ。何回だって謝る。言うことだって何でも聞くよ」
「コウ」
 コウはずいぶん長い間頭を下げていた。そののち、言葉につまるヒバリの隣にコウは腰を下ろした。
「疲れた……」
「ぼうやか。よく来たね」
 ウメは茶を飲んだ。バッグから二人分のカップを取りだすと、茶を注いでヒバリとコウに渡した。
「お飲みよ。熱いから気をつけな。まずは落ち着くことだ。ヒバリ。もう大丈夫だからね。涙をお拭き」
「おばあちゃん」
 ヒバリは目をこすった。気持ちが高ぶったせいか、顔が赤くなっていた。
 ヒバリが座ると、コウはうなずきかけた。それからウメに、
「いったいどうなってるんだこれは。ばあさん」
 ウメは目を細め、
「ぼうや、電車は動いてたのかい?」
 コウは首を振り、
「途中で止まった。だからそこから線路の上を歩いてきたんだ。近いところまで来てたからまだよかったけど、ヘトヘトだよ」
 コウはざわめく会場を見渡しながら、
「世界鉄道が止まるなんて聞いたことがないぞ。それに、レースはどうなってるんだ? 中止か?」
 場内の混乱をよそに、メトロ・ブルーの空は穏やかに晴れていた。ウメは空気が漏れるようなため息をつき、
「停電さ」
「停電?」
 コウはつぶやいた。ウメはうなずきを返す。
「停電」
 ヒバリも繰り返した。コウは思い出して、
「停電、って。たまにヒバリが僕の家にしかけてたイタズラか? あの電気を落とす」
「そうさ、こりゃ永久機関(エターナル)が止まったね。それ以外に考えられない」
 コウとヒバリのきょとんとした表情に、ウメは愉快そうに笑った。
「なに、大昔のこの星じゃ珍しいことじゃなかった。停電、ってのはね。ほんとうはこんな風に、ある地域の電気がいっせいに使えなくなる現象のことを言うのさ。都市の人間はその頃から電気に頼って生活していたからね。それは今も昔も同じことだ。永久機関(エターナル)なんてシステムが作られたから、停電って言葉の本来もつ意味が失われただけのことさ」
「停電……」
 ヒバリは言った。そして、何百年も前の人々の暮らしを思った。
「見ていてごらん。これから大混乱が起きるよ」
 ウメはまるで未来を見ているかのような確信に満ちた様子だった。コウとヒバリは年長者の言葉に息を飲んだ。
12, 11

  

 ウメの言葉は見事に的中した。
 地中にある電気エネルギー発生装置、「永久機関(エターナル)」が停電を起こした。グラインダーが全員リタイアしたのは停電によるものだった。
 その日から、メトロ・ブルーの都市群は主要な機能のほとんどを失うことになった。
 まず交通機関。移動手段のうち、電気エネルギーによる動力を必要とするもの(グラインダー、鉄道、水上船、小型飛行船など)は、ほとんどが使用不能になった。
 代替手段として、帆船(といっても、大型のものではなく、グラインダーに即席でマストを張った簡素なもの)や、自転車(骨董品のうち、まだ動いたもの)が使われた。しかし当然のことながら、今まで動力による交通に頼ってきた社会がそれだけでまかなえるはずもなかった。
 惑星全土に及ぶ空前絶後の大停電に対し、ただちに近隣惑星による保護政策が施行された。
 メトロ・ブルー外の惑星から派遣された大型飛行機械が、当面の臨時移送手段となった。大混乱の中、観戦に来ていた他の惑星に住む人々は、一週間のうちにおおむね帰省をはたした。
 しかし、大型飛行機械を私用で使うことは困難だった。メトロ・ブルーに住む、移動手段を持たぬ人々は、数日の間必然的に自宅近所に閉じ込められるような形となった。
 メディアも機能しなくなった。ほぼすべてが電子化されていたので、唯一にして絶対のエネルギー源だった永久機関(エターナル)が、原因不明の停止をした「運命の日」から数日は、何一つ情報が入ってこなかった。

「停電ね」
 ナオトはつぶやいた。街で配っていた号外をテーブルに投げだして。
 前代未聞の中止となったグラインドレースワールドグランプリから、一週間が経っていた。
 ウメとナオトの家にヒバリとコウは来ていた。この一週間、補給物資の運搬やらで、ほとんど四人は一緒に暮らしていた。
 あの日。一万人近い選手全員を救出するのに、日暮れを過ぎてもまだ時間が足りなかった。レースの中止にすっかり落胆しているナオトが、コウたちと合流したのは夜になってからだった。大型帆船に乗って家に着いたのは翌朝に近づいてからだ。
 以来、今度はナオトが機嫌を悪くしていた。なにせ電気がなければグラインダーは一切空を飛べないのだ。それは鳥が翼を奪われたようなものだった。
 ナオトは大仰な仕草で顔を覆って、
「何たることだ! レース中止? こんなこと今まで一度もなかったぞ。ただの一度も!」
 テーブルを両手で叩き、
「おまけにグラインダーが動かないときた。俺に死ねとでも言ってるのか! ああもう、ちくしょう!」
「ナオト、落ち着いてよ」
 ヒバリが言った。一週間、ナオトはずっとこの調子だった。
「永久機関(エターナル)が落ちたんだ。何が起きても不思議はないよ」
 ウメが普段と変わらぬ調子で言った。この一週間、これだけ落ち着いている人をヒバリは他に見たことがなかった。
「落ちるって、そんなこと本当にありうるのか?」
 コウが言った。ウメほどではないが、彼もまたこの一週間を冷静に過ごしていた。彼自身、そのことが不思議だった。
 ウメは「ああそうさ」と言って、
「ぼうや、いくら文明が進んだって、『永遠』なんてものは存在しないんだよ。あたしらはどこかにそういうものがあるような気がしてるがね。ほんとうはそんなものどこにもないんだ。分かるかい?」
「まあ、こうして起こったからには認めないわけにはいかない」
 コウはテーブルに頬杖をついた。
 エターナルの停止にともない、メトロ・ブルーにおける仮想世界(ウェブ)は完全に消滅した。この数日、そちらに浸りきっていた人たちが亡霊のようにこちらへ帰ってきている。そんな話をコウは耳にしていた。彼らはまともに話もできないらしい。
「ウェブに行っちまってた連中は抜け殻のようさ。ぼうや、その意味じゃあんたはだいぶマシだ。こうやって普通にしているからね」
「そりゃ光栄だ」
 つっぱねたコウにヒバリは、
「ちょっとはその減らず口も直るといいんだけどね、この機会に」
 コウは、
「感謝してる。ヒバリも、ばあさんも、あとナオト。本当にありがとう」
 ヒバリの意外なことにコウは礼を言った。この一週間、コウはことあるごとに三人に対して礼を言っていた。言葉だけじゃなく、態度にも変化が表れた。物資の運搬に家事に、三人のためにできることならコウは何でもしていた。
「ねえコウ、あんた頭でも打ったの?」
 戸惑うヒバリにコウは首を振り、
「ずっと礼を言おうと思ってたんだ。でも難しかった。時間が経てば経つほど、止められないくらい僕はねじ曲がっていった。でも、ほんとのどん詰まりに行った時に、ウェブでナオトの飛行を見た」
 思い出しながらコウは宙を見つめ、
「すごいと思った。今まで僕はナオトの飛行を何も見ていなかったんだって。こんなに素晴らしい飛び手が身近にいたんだって」
 コウは手の平を見つめ、
「その時、不思議な感じがした。つながってないと思い込んでた世界に、僕もちゃんと存在しているんだと思った。そして、こんな自分でも生きていられるのは、他じゃないヒバリや、ナオトや、ばあさんやトウジや、色んな人のおかげたと感じたんだ。うまく言えないけど。頭でじゃない、身体でそれが分かった。僕が今までどれだけみんなを心配させていたか。それでウェブをやめて、僕は会場に向かった。そしたら途中で電車が止まった。海の上で停止したから、乗ってた人たちはみんな混乱した。でも僕はとにかく会場までいかないといけなかったから。電車を降りて、歩き続けた」
 窓辺で空を睨んでいたナオトの後ろ姿に、コウは、
「お前のおかげだ、ナオト。ありがとう」
「年上にくらい敬語を使え。あほ」
 ナオトは頭をかいた。それを聞いていたウメが、
「さてね、世の中にはプラスとマイナスがある。何が正で、何が負か。ほんとうに見極めるのは難しいが、それは全体で釣り合ってるもんだとあたしは思う」
 言いつつ、ウメはラジオの周波数を合わせた。ノイズに混じって聴きなれた声がする。ウメは、
「ラジオってないいもんだね。こういうあわただしい時だって、ちゃんとあたしたちに聞こえる音を届けてくれる」
『はーいみんな。私、エラ・マリンスノウの氷河(フィヨルド)漂流記(ダイアリ)。まさかこんなことになるなんて思いもしなかったわ。電気がなくなる? それで私たちはどれだけ小さな存在か知ったのかもしれません。さあ、それではまた古い曲です。ゴールデンオールディーズ』
 ノスタルジックな曲がかかる。それは秋の陽だまりのように、やさしくコウたちを包みこんだ。
 テレビすらつかない未来都市の時間は、とてもゆっくりと過ぎていく。ウメがとっておいた紅茶とわずかなクッキーを食べながら、四人は思い思いの時間を過ごす。
「いいもんだね。普段からうるさいのを遠ざけて暮らしてるが、今のこの時間はいっとういいよ」
 ウメが言った。
 古い曲が流れるあいだ、四人はそれぞれに懐かしい話をした。機嫌のあまりよくないナオトや、まだ素直になりきれないコウも、小さかった頃を思い出して、楽しい時を過ごした。
 やがて日が西に傾き、夕闇が海の端を染める頃。ウメは、
「あたしが若い頃の話をしよう」
 そう言って、ふるいランプと燃料で明かりをつけた。
 薄闇にぼうっと浮かぶ四人の顔は、ウメだけが静かに笑みをたたえていた。あとの三人は、まるで不思議を求める子供のような様子だった。
「あたしが今のぼうややヒバリと同じ歳の頃だ」
 ウメは長年開けていない引き出しから宝物を探しだすように、慎重に、
「ぼうやと同じように、そのころのあたしもまたウェブにはまっていた。見ての通り、この星にはなんにもないだろう? いや、当時のあたしはそう思ってたのさ。あたしの頃はまだ没入者――いまは中の人と呼ぶんだったね――がそれほどいない時代だったから、余計にあたしみたいなのは非難の的になったし、それがあたしをますますねじ曲げさせた。
 じっさいほとんどの者は仕事をしていた。まだ生活のために仕事が必要な時代だった。あたしは竹細工の最後の職人のところでささやかな身銭を得ていたが、ちっとも乗り気じゃなかった。誰も継ぐ者がいないから誰でも雇ってくれるんだがね、どうして誰も必要としない細工物なんかせっせと作らなきゃいけないんだい? あたしはそう思っていた。
 師匠ははじめの数日であたしにやる気がないことを見抜いていた。そりゃああれだけ卑屈だったんだ。無理もない。でも簡単なことからひとつひとつ教えてくれた。決してむやみに押しつけるようなこともない。たまにあたしがほんの少し機嫌がいいと、その時は外に散歩に出ようと言って連れていってくれた。そのあとで製作するとずいぶんとはかどった。でも当時のあたしはそれをちっとも嬉しがったりしなかったのさ。
 その頃、あたしはウェブの見知らぬ相手に恋をしていた。自分の迷いを全部聞いてくれたし、当時のあたしがほしがっていたような言葉をかけてくれたからね。ウェブで話を聞いてもらったり聞いたりしているとほっとしたものさ。虚構のモンスターハントやらゲームに熱中してるものもいたが、そういうのには興味が向かなかった。
 あたしはウェブの彼に次第に惹かれていった。今にして思えばその相手も何か問題を抱えて逃避していたに違いないんだが、あの時のあたしにはそんなもの見えやしなかった。聞き役になってもらううち、あたしは彼に会いたくなってしまった。若気の至りとでも言えばいいかね。ウェブの相手には他の惑星の住人もいるわけだから、仮に打ち明けたところで叶わぬ願いかもしれない。それでもあたしは気持ちを伝えたかった。……この話は退屈かい?」
 ウメが三人を見て言った。三人とも首を振った。熱心に耳を傾けている。
「そうかい。そりゃよかった。ばばあの昔話なんてつまらないかと思ったもんでね。それじゃ続きだ。
 あたしが彼に思いを打ち明けると、彼は喜んでくれた。できることなら力になりたいとも言ってくれた。
 彼はどうやら三つ向こうの星に住んでいるらしかった。仕事が忙しくて向こうから来ることはできないって話だった。でも、来てくれれば面倒を見てくれるとも言っていた。今思えばあやしいもんだが、愚かなあたしは全部を投げ捨てて彼のもとへ行こうと思ったのさ。そうすれば嫌なことがすべて吹っ切れそうだった。そんなこと起こらないのにね。
 決心を固めたあたしは、師匠に仕事を辞めることを伝えた。あたしは唯一の弟子だったから、それはこの星における竹細工の伝承が途絶えることを意味していた。それでも師匠は了解してくれたのさ。それどころか旅立つ資金までくれた。最後の日に、師匠はあたしにとっておきの細工品を渡してこう言った。
『これは私が生まれて初めて満足できた作品です。今見れば稚拙さは残りますが、それでも今までのどんなものより情熱がこもっています』
 たしかに見事な作品だった。竹のしなやかな曲線が繊細に絡みあい、優美な螺旋を描いていた。『自由の橋』という名前だった。たくさん作って市販するにはあまりにも手が込んでいた。
 何十年も前に作ったものが、いまでもその魅力を失わずにいることにあたしは感動した。その時だけ、自分はここに残るべきじゃないかと思ったよ。しかしそんな気持ちを表にはできなかった。師匠はあたしにこう言った。
『あなたがつらい状況に追いこまれた時、きっとこれがあなたを守ってくれます。私がそうだったように』
 あたしは師匠に礼を言って、準備していた道具とともに家を出た。そのときは二度とこの星に帰るまいと思っていた。
 ところがその日。あたしがこれから出立しようっていうその時に、三つ向こうの星に渡航禁止令が出された。原因は内乱の勃発。貧富の差が大きい星で、貧困層にはお金が、富裕層には時間が足りないという格差が広がっていたらしい。人々の反乱が起きて、それで政府が潰れた。
 あたしは行く場所を失っちまった。むこうに渡ることも、師匠のところへ帰ることもできなかった。放心したまま、あたしはメトロ・ブルーの別の町に移り住んだ。その後ウェブを探し
 たが、意中の彼には二度と会えなかった」
 ウメはランプをゆすった。かすかにはぜる音がして、炎がゆらめいた。
「師匠のところにどうして帰らなかったんだ?」
 コウが言った。ウメは頭を振って、
「戻れなかったよ。どの面下げて会えるってんだい? でもね、それから何年か経って、あたしは師匠の葬式に行った。そして『自由の橋』をそっと棺に入れた。こんなできそこないにはもったいない品だったからね」
 心地のいい沈黙がウメの家を満たしていた。
 夜の明かりは小さなランプひとつ。何百年も前、電気がなかった時代のように。
「その後、あたしはとにかく誰かの役に立とうと思ってまじめに働いた。ほんとうに人に喜ばれていたかはちょっとあやしいもんだがね。自己満足もあったかもしれない。でも、あの時の出来事があたしをほんの少し変えたのさ」
 コウは真剣にウメの話を聞いていた。自分と重なる部分があったのかもしれない。
 ウメはぽんと両手を叩いて、
「さ、夕食の準備をしよう。お前さんたち、昼間は街まで行ってくれてありがとうね。混んでいただろう」
 ウメが言うと、ヒバリとコウは立ちあがって、キッチンに向かった。コウはまだウメの話について考えていた。

 翌日も、コウとヒバリとナオトは物資の調達に街まで出かけた。
「よーし行くぞっ。つかまれ乗組員」
 ナオトのグラインダーとヒバリの小型船を連結させ、マストを張った簡易帆船で、三人は一路ウェストサイド・シティを目指す。
「帆を張れーっ」
 ナオトの声にコウが
「張ってます」
「面舵いっぱーい!」
「いやまっすぐだ。舵はいらない」
「それじゃ錨を上げろーっ、出発だ!」
「ロープならほどいた。さっさと行ってくれ」
 ナオトは半眼でコウを見て、
「あのなコウ。もうちょっと何かないわけ? 気分を盛り上げて行こう的なさ。ただでさえ飛べないお兄さんは、もうすごく気が滅入りそうなんだけど」
「大丈夫だ。このくらいの船なら僕とヒバリだけでも操舵できる。気分が悪くなったら休んでて構わない。けど街に着いたら荷物持ちよろしく」
「準備いい?」
 ヒバリが最後部から声をかけた。コウは親指を立てて、
「大丈夫だ」
 まもなく船が動き出した。連結しているうえに、帆も簡素なものだったので、思いのほかゆっくりとした進行だった。
「はあーっ」
 ナオトががっくりと肩を落としてグラインダーのアームにうなだれた。
「よもや俺のツバメがこんな運搬船になっちまうとはな」
 海は今日もよく晴れていた。スコールを別にすれば、メトロ・ブルーは悪天候になることがほとんどないのも特徴だった。
「あんまり落ちこむな。僕たちには荷物持ちという崇高な使命がある」
 ナオトは恨めしそうな目でコウを見て、
「本当なら今頃ワールドチャンピオンになって時の人扱いされてたはずなんだけどなぁ。何がどうしてこんなことになったんだ」
 動力が使えればものの十分で着くところを、まる一時間かけて、途中でコウとナオトが船酔いになりかけながら、何とか三人はウェストサイド・シティに到着した。
「役所に行きましょう。隣の市民会館に物資が来てるはずよ」
 ヒバリが案内した。コウとナオトはよろめきながら後に続く。
「あいつ三半規管強いな。やっと陸にたどりついた」
 ナオトが言うと、
「吐かなかっただけ偉いじゃないか。僕はもうダメかもしれない」
「空ではなんともないのに、海はダメだ俺も」
 ナオトは天を仰いだ。コウは地面にくずおれて
「すまないナオト、僕のぶんまでしっかり……」
「おいしっかりしろ、コウ! 死ぬなぁ!」
「バカやってないでさっさと来なさいよ」
 ヒバリが呆れた顔でコウとナオトを見た。しかしどこか楽しそうでもあった。
「何か嬉しそうじゃねえかヒバリさん」
 ナオトが酔拳を使うような足どりで歩いていると、
「別にっ。ただ、こういうの久しぶりだなあって思っただけよ」
 ヒバリはそう言ってくすくす笑った。コウはヒバリがそんな風に笑うのが新鮮に思えた。
 ウェストサイド・シティはコウたちのように救援物資を受け取りに来る人々でごった返していた。噴水広場では新しい号外が配られていて、コウはふらついてぶつかるついでにそれを受け取った。
「お、号外か。どうなんだ、エターナルはいつ復旧するんだ?」
「まあ落ちつけ」
 ナオトを制し、コウが半紙一枚きりの号外に目を落とすと、
『エターナル復旧作業なお継続中我々がその存在を忘れかけていた永久機関は、長い時の中でたえず電気を惑星に供給し続けてきた。グラインドレースなどはその恩恵を受けた最たるものであり、惑星が発展するうえで欠かせない文化のひとつだ。なお復興にはまだまだ時間がかかる見通しで――』
「グラインドの名を出すなああああ!」
 ナオトが頭をかきむしった。行きかう人がナオトに気がついた。中にはサインを求めるものもいた。
 コウは次から連れて来ないほうがいいかもしれないながら、号外の続きを読む。
『――復旧には時間がかかる見通しで、技師の手が足りない状態が続いている。局長のクローディア・マクスウェルは「とにかく作業量が膨大なものになっている。人海戦術ではないが、三級資格者以上のものならばどんな人の手も借りたい」としており、現地セントラルシティの中央塔ではボランティアスタッフの急募が続いている。詳しくは――』
 コウはその案内を仔細に読むと、号外をたたんでポケットに入れた。

「はい、こちら食料と物資の普及窓口でーす。列に並んで住民証明を提示してくださーい。人数分の支給になりますが、必要ないぶんにつきましては辞退してくださってもけっこうですので、その旨お伝えください」
 役所の局員によるアナウンスがあった。
 ヒバリたちは役所の隣にある大きな市民ホールにやってきた。大きな体育館のような館内は、おもに食料や飲料水を求める人でごったがえしていた。
「すごい人ね。地区の人みんな来てるのかしら」
「配給時間は指定があるから、全員が来てるってことはないはずだ」
 コウが人並みにもまれながら言った。ナオトは、
「でもすごい人数だぞこれは。はぐれんなよ君たち。お兄さんについて来なさい」
 ナオトは上背があるため、人ごみの中でも遠くまで見渡すことができた。
「しっかし電気が止まったってだけでまるで大災害があったみたいな有様だなあ。今までこの星はこんなこと起きなかったのにな」
「それでも起きたんだ。たったひとつの原因がこれだけの混乱を引き起こすってことは、それだけ僕たちが今までの暮らしに依存してたってことじゃないのか」
 コウはナオトの袖をつかんでいた。ヒバリはコウの袖をつかんでいる。三人は、連なって受付を済ませると、また人ごみのなかを進んで物資を受け取らなければならなかった。
「ヒバリ、君は持たなくてもいいぜ。俺とコウで四人分持って船まで戻るよ」
「おい待てナオト。僕にそんな力があると思ってるのか」
 ナオトの勝手な提案にコウは反論した。
「あらそう? じゃあお言葉に甘えようかしら。この人ごみ……進むだけでも大変だし」
「ヒバリ。笑ってるぞ顔」
 コウが言うと、
「あらそう? さてどうしてかしらね。今のコウくんならきっとこの可憐な乙女のために荷物を運んでくれるに違いないもの」
「薄情ものめ」
 結局コウとナオトだけで物資の入ったケースを船まで運ぶことになった。ヒバリはその間、役所の臨時電話を使い、学校の窓口へ連絡を入れることにした。
 コウは物資を受け取る前に、傍らで膝を抱えてうずくまっている少年を見た。彼はコウより五つくらい年下に見えた。目はうつろで、どこかここではない場所を見ているようだった、コウは彼が中の人だと見抜いた。
「なあ君」
 コウは彼に話しかけた。少年は自分が呼ばれていることに気がつかないようだった。しかたなくコウは少年の肩をつついた。少年は驚いて顔を上げ、
「な……何?」
 おびえるような声を出した。コウは彼が中の人だったのだろうと思った。隣に腰を下ろし、
「君は不安かい?」
「ど、どうしてさ」
 少年は話すのがわずらわしそうだった。コウはついこの前までの自分を見ているようで、胸が痛かった。
「僕は不安だ。今までずっとウェブにいたし、こんなことが起きるなんて思わなかったから」
 少年はコウを見た。コウは静かに笑って、
「でも大丈夫だよ。君はひとりじゃない」
 肩に手を当てると、コウは立ち上がり、
「ここからでも頑張れるんだ」
 少年は不思議そうにコウを見た。まもなく後ろから、
「おいコウ! 早くしてくれ!」
「今行く!」
 ナオトの声にコウは答えた。
 
 この日も、ヒバリとコウはウメの家に泊まった。
 コウは浅い眠りについていたが、夜中に目が覚めた。起きたついでにトイレに向かうと、窓辺でナオトが空を見ていた。コウは気づかれないようにそっと近づいて、
「よう」
 ナオトの肩を叩いた。ナオトはあやうく叫びそうになりながら、
「うおっ。何だコウ、起きてたのか」
 コウはうなずいて、
「ウェブにさんざん没頭してたせいで眠りが浅いんだ。直さないといけない」
「そりゃあんだけ引きこもってたんだ。無理もないな」
 ナオトは笑ったが、どこかぎこちない笑顔だった。
「どうして起きてるんだ? 真夜中だぞ」
 コウが言うとナオトは、
「ああ。ちょっとな。この頃寝つきが悪い」
「お前も実はウェブにどっぷり浸かってるんじゃないだろうな。経験者が言うと、やめといたほうがいい」
 ナオトは両手を上向けて、
「そんなわけないだろ。まあちょっとした考えごとだ」
「考えごとね。あまり似合わないな」
「何だとこんにゃろう」
 二人は笑って、静かになった。沈黙が気まずかったのか、ナオトが、
「そういやさ。ばあちゃん、あんな過去があったとはな」
「知らなかったのか?」
 コウが訊いた。ナオトはウメと十年ほど一緒に暮らしている。
 ナオトはうなずいて、
「知らなかった。意外とさ、長い間一緒に暮らしてるとそういう話ってしないものなんだぜ。これが母親とかならまた違ったのかもしれないけど。昔からばあちゃんは俺の話ばっか聞きたがる」
 コウは不思議だった。ウメは、コウに対しては色々と過去の話を聞かせてきたものだった。特にこの一年、二人で話しているときは。
「ばあさんにも若い頃があったんだよな」
 コウは言った。ナオトはうなずいて、
「普通に恋する乙女だったとはなあ。まあ、でなきゃ俺はここにいないんだけどさ」
 ナオトは頭をかいた。
 夜空は日中と同じくらいよく晴れていた。遠くにうすく光を放つ星がまたたいていた。
 コウがそろそろ寝ようかと思い始めた頃、ナオトが、
「なあ。バカらしい話だけどさ」
「ん?」
 ナオトは床に視線を落とした。表情が曇る。
「このまま飛べなくなったら。俺どうすればいいんだろうな」
 ナオトは言った。彼の怯えるような表情をコウは初めて見た。
「何言ってるんだ。いずれ復旧するだろ。今日の号外に作業が進んでるって書いてあったし」
 しかし、ナオトは顔色を変えなかった。
「でもさ。万が一、このままグラインダーが使えなかったらって思うと、俺怖くなるんだよ。だって、グラインドは俺が生まれてからずっと続けてきたことなんだ。飛ばなかった日なんて一日もないしさ。それがこんな突然なくなっちまうなんて。そりゃケガとか事故ならまだ分かるけど、こんな理由で飛べなくなるなんて。想像したことすらなかったんだ」
 ナオトの声は震えていた。夜の青白い光が、がっしりした胸元に反射する。
「空を飛んでいられるから俺はどこへだって行けた。空の上なら何だってできた。プロとか、惑星代表なんてそのおまけみたいなもんだ。でも、あれがなかったら俺なんて何の役にも立たない。コウ、お前のほうがよっぽどマシだよ」
 コウはしばらくナオトを見ていたが、
「そりゃ買いかぶりってものだ。誰でも不安だよ、今は」
 静かに首を振った。
「でも俺……、このまま飛べなかったらって思うと」
 ナオトはそれ以上何も言えなかった。コウは黙ったまま夜空を見ていたが、
「昼間、さんざん時間かけて街まで行ってきた時にさ、技師の資格者募集の告知が出てた」
 ナオトはコウを見た。コウが何を言おうとしているのか分からなかった。
「地下のずっと深いところにある永久機関(エターナル)の故障を見るために、なるべくたくさんの技師が必要らしい」
 ナオトはコウを見ていた。コウの顔つきが今までと違うことにナオトは気がついた。
「僕はそれに応募してみるつもりだ」
「コウ」
「ナオト、お前の飛行は本当にすばらしかった。今までまぶしくて目を背けてたけど、この前の大会で実感したよ。あんな素敵なものが失われたままでいるのは惜しい」
「ああ、でもそれは」
 コウは首を振り、
「大丈夫だ。きっと復旧するし、お前も元通り大空にはばたける。だから待っててくれ。僕は二級しか持ってないから、大したことはできないかもしれない。でもやってみたいと思ってる。こんな風に思ったのは初めてだ」
 ナオトはぽかんとした顔でコウを見ていた。コウは深いグラデーションに染まる夜空を見上げて、
「僕の知らないところにもいろんな人がいて、知らないうちにその人たちに助けられてる。なら今度は、それを返しに行かなくちゃならない」
 空のはずれでまばゆい恒星が光を放っていた。コウはそれをまっすぐに見つめていた。
 やがてコウはナオトに向き直り、
「あとナオト。お前らしくないからその湿っぽいのはやめたほうがいいと思う」
 ナオトは吹きだして、
「な、何だとこの野郎」
 コウは淡々と、
「鬱経験者だから言うけどな。無駄に時間と青春を浪費するから、あんまり落ち込まないほうがいい」
「さ、さすがヒッキーだな。言うことが違うぜ」
「だろ?」
 ナオトは笑った。今度は固さのない笑顔だった。コウは口の端で笑い、
「ってわけで行ってくるから待っててくれ。その間はそうだな、体力づくりのために筋トレでもしてたらどうだ? 身体を動かせば迷いとか吹っ切れるだろ。まったく動いてなかった僕が言うのも何だけど」
 半分冗談のつもりだったが、ナオトは、
「そういや最近何もしてないな。体力落ちてるかもしれない」
 袖をまくって力こぶを作った。コウは自分のひょろっとした上腕二等筋と見比べた。
「僕より千倍マシだと思う」
14, 13

  

 数日後。コウとヒバリは定期船を乗りついでセントラルシティにやってきた。
 セントラルシティはメトロ・ブルー最大の都市で、惑星人口の二割がこの地域に住んでいる。
 高層ビルや地下鉄、娯楽施設に公園、空港などひとしきり並んでいて、惑星中枢都市としての機能を十分に果たしていた。グラインドワールドグランプリの際は、この都市が玄関口となり、星籍を問わず多くの人で賑わっていた。
 しかし先日の停電以来、都市の建造物はほとんどが休館しており、居住区のない市街はさながらゴーストタウンのようだった。
「いつもはあれだけ賑わってたのに」
 ヒバリが言った。商店の並ぶ通りは魂が抜けたみたいにひっそりしていた。
「そりゃ店がやってないんじゃな。来る意味がほとんどなくなる」
 コウが答える。
 二人は街の中核たるセントラルタワーに向かっていた。タワーは街の中心部にあり、政府の機関や星系にまたがる大企業で上から下までうめつくされている。今は世界中から技師が集まり、地下にある巨大な心臓部、永久機関(エターナル)を一日も早く復旧すべく働いているはずだった。
「まさかこの塔に入る日が来るとはな」
 コウがつぶやいた。セントラルタワーは各教育プログラムの首席を取るような人材ばかりが集まる場所で、いわば「名誉の塔」だった。
「私たちがやることなんてほとんどお手伝いでしょうけどね」
 ヒバリが言った。
「お前はまだマシな仕事が与えられるんじゃないのか。僕はさしずめお茶くみ当番か」
 ヒバリは首をかしげ、
「どうかしら。地下何キロも潜るんだから、お茶くみだってたいそうな仕事だと思うけど」
 海辺から塔に向かう道にはまばらに人の往来があった。そのほとんどが技師だ。ヒバリやコウはもっとも若い部類なので、彼らより年上の人ばかりだった。
 十分後、ヒバリとコウが塔に入ると、二人を警備員が呼びとめた。
「あーちょっと待った。君たちは?」
 警備員は机のむこうから首を突きだして尋ねた。やせたカメのようで、コウは少しおかしかった。
「私はヒバリで、こっちがコウです。一級と二級の技師です。エターナルの復旧作業に来ました」
「ああ、はいはい。それじゃ技師免許の提示をお願いします。なにせ毎日のように新しい技師さんが、それも星系じゅうから集まってくるものだからね。参ってるよ」
 二人を呼びとめた警備員の他にも、二十名ほどがエントランス受付に陣取っていた。新参と思しき訪問者を呼びとめては身分証明を求めている。しかしどうも臨時業務に戸惑っているような雰囲気だった。どこかから机を持ってきて付け足している。
 本人確認には時間がかかった。普段なら技師のIDカードを認証すればものの数秒で済むが、
 電気が使えない今、コンピュータもほとんどが稼働しない。復旧プロジェクトには他の惑星から電力資源を積んだ大型飛行船が来て、優先的にエネルギーをあてていたが、それでもまだ足りないとの話だった。やがて警備員が引っ込めていた首を伸ばし、
「OKです。エレベータホールから地下へ降りてください」
 右手をまっすぐ横に突きだした。
「エレベータが動くんですか?」
 ヒバリが訊くと警備員は、
「最初のほうは使えなかったんですが、二日前から動くようになりました。それまでは下とここの行き来だけでも一苦労でしたよ。……はい、これが仮の通行証です。今日のはたらき次第で本通行証に替えますので」
 ヒバリとコウはそれぞれにパスを受け取った。二人の後ろを、金髪の男性が本通行証をかざして通り過ぎた。警備員は彼にうなずいた。
「あとこれがヘルメットです。地下は地肌がむき出しの個所もありますので。くれぐれも気をつけてください。制御室に着いたらはずしてけっこうですので」

 エレベータホールには二十以上のエレベータがあったが、稼働していたのは二つだけだった。ヒバリが階数入力パネルに地下三十と打ちこむと、エレベータは静かに降りていく。
「あら、初めて見る顔ね」
 二人を誰かが呼んだ。見ると、黒髪に眼鏡がよく似合う女性が二人に笑いかけていた。
「こんにちは。あなたたちも技師?」
 ヒバリはうなずいて、
「ええ。失礼ですがあなたは?」
 ヒバリの問いに女性は麗容な笑顔で、
「私はミツキ・クレセント。惑星ガイア・レイの星間技師です」
「ミツキさん?」
 ヒバリは何か思い出しかけた。すぐに手を叩き、
「あ。もしかしてあの……グラインドレースの?」
 コウもピンときた。先日の世界大会でBBが注目していたグラインダーだった。
 ミツキはすっと伸びた眉をわずかに上げて、
「よく分かったわね。初対面で気づかれることってあまりないんだけど」
 ミツキはつややかな笑みを浮かべた。コウは不覚にも心拍数が上がるのを感じた。
「たしかに、レースの時とは雰囲気がだいぶ違いますね」
 ヒバリが言った。ミツキは長い髪を揺らすと、人さし指で下を示して、
「本業はこっちなのよ。グラインドはどちらかというと趣味。あのレースには私の星の政府から依頼されて出ていたの」
 ヒバリは顎に手をあてた。
「依頼ですか? それってどういう」
 するとミツキはヒバリに近づいて声をひそめた。
「大きな声では言えないんだけどね。メトロ・ブルーの電力調査とでもいえばいいかしら。この星は特異だから。これだけグラインド飛行に適した星もないし、グラインダーを使って電力のモニターをしてきてくれっていう、本当なら秘密の依頼だったわ」
 そう言うとミツキは二人から離れ、また穏やかに笑う。
「いろいろあってポシャったけどね。そのおかげでここの手伝いを言い渡されてる。ほんとならとっくに帰っているはずだったのよ。この星は嫌いじゃないけど、なんか不遇よね」
「どのくらいの人が働いてるんですか? 今回の件で」
 エレベータが止まって、ドアが開いた。ミツキは先をうながしながら、
「千人以上。でもまだ全然手が足りてないわ。『エターナル』はあまりにも巨大な機械だから」
 地下三十階からは無機質な内装の道が延びていた。その先にはさらに下へ続く階段がある。
「ここからはエレベータが通らないのよ。セキュリティのためと、あとはエターナルが完全な装置だったからというのが理由らしいわ」
「完全な装置?」
 歩きながらコウが訊いた。エターナルについては「あって当然のもの」という認識しかなかったので、ともすれば他の惑星の住人よりコウには知識がない。
 ミツキはうなずいて、
「そう、完全な装置。二百五十年前に、ただひとりの天才、ガウス・レインブルーが基礎工事と設計図を残してつくりあげたものなのよ。メトロ・ブルーの気候から生まれるエネルギーを変換し、電気に変える。そのうえ有害な物質や環境を汚染する毒素はいっさい排出しない。おまけに完成すれば数百年は手を加えずとも動き続ける。じっさい、ガウスの死後五十年かけて完成してからこっち、今まで二百年もの間動き続けたんだから、脅威としか言いようがないわ」
 コウは思い当たって、
「ガウス・レインブルーか。それなら聞いたことがある。ずっと昔から今まで使われてるプログラム言語の創設者だ」
 コウが言うとミツキはうなずき、
「他にも彼は五つの功績を残してるわ。どれも後世まで残る偉大なものばかりよ。後にも先にも彼のような天才は現れないでしょうね。この星はグラインドではなく彼によって栄えたと私は思ってる」
 夜の湖面のようにひんやりとした口調でミツキは言った。
「でもね、どうして永遠の心臓が止まったのか、私には分からない。ほんとうなら彼のもくろみ通り、あと数百年は動き続けたはずよ」
 三人は階段をどんどん降りていった。深いところへ潜っていたが、コウはさほど息苦しさも寒さも感じなかった。円形のトンネルのような道は、さながら地下鉄の駅のようでもあった。しかしこんなに深くは潜らないだろう。コウがそんなことを考えていると、
「あ、ここだけ段差になってるから気をつけて」
 ミツキが注意した。見ると、まっすぐな道を横切るように、むき出しの地肌のトンネルが交差していた。かなり大きく、下にはレールが走っていた。
「鉄道?」
 コウがつぶやくと、ミツキはうなずき、
「ずっと昔のね。まだ陸地がじゅうぶんにあった頃、今の都市は周囲にもたくさんの街を持っていた。移動手段として列車が用いられたけれど、陸地の面積には限界があるし、モノレールは高いわ。だから近場の移動に地下鉄が今よりたくさん使われていたのよ」
「よく知ってるんですね」
 ヒバリが言った。ミツキは、
「ここに来る前に調べさせられたからね。歴史や地理ともなるとさすがに技師の仕事の範疇を超えてると思うけど」
「その時のままレールが残ってたのか」
 コウは驚いていた。昔の人々がどのように暮らしていたかなど、ろくに考えたこともなかった。せいぜい知識として知っていた程度で、それが実際にあったことだと思いもしなかった。
「この星は海の底にあらゆるものが沈んでいると私は思うわ」
 ミツキが言った。くすりと笑って、
「あるいは沈めたかったのかもしれないわね」

 警備員から通行証を受け取って三十分ほど経っただろうか。ようやくコウたちは技師が集まる巨大な制御室にたどりついた。
「ここにエターナルがあるのか」
 コウが言った。しかしミツキは首を振り、
「いいえ。エターナルはもっともっと深いところにあるの。そして誰もそこへは行けない。メインプログラムやサブプログラム、その他のシステムがこの部屋にある。エターナルが心臓だとしたら、ここが脳よ。ダウンしたのはこっち」
 制御室――部屋というより大型のホールのようだ、とコウは思った――では何人もの技師が忙しく立ち働いていた。男性のほうが多かったが、女性もいた。ミツキの話では、彼女のようにメトロ・ブルー以外からも技師が派遣されているらしい。
「局長に会うといいわ。私にも持ち場があるから。会えたらまた後で会いましょう」
 そう言ってミツキは歩き去った。コウはあらためて制御室をながめた。
 巨大な制御室にはいくつもの階層があった。その各階に計器が整然と並び、すべてにキーボードがついている。旧型のものらしく気晶タッチパネルではなかった。ほとんどすべての席に誰かが座っていて、その後ろにも技師がいる。話し合いながら作業しているらしかった。
「コウ、こっちみたい」
 ヒバリがコウの服を引っぱった。よろけそうになるところを踏みとどまって、コウはヒバリについていく。
「すげえな」
 制御室は意外にも明るかった。中央に採光窓があり、そこはどうやら地上に通じているようだった。集められた光が均等に室内に行きわたるようになっている。
 一階の壁面にドアがあり、その向こうに別の小さな部屋があった。そこが局長室だった。
 技師が行きかう制御室を、迷惑にならないようそっと横断したコウとヒバリは、ドアをノックした。
「誰もいないのかしら」
 室内は事務室のようになっていたが、人は誰もいないようだった。
 ヒバリが所在なさそうにしていると、
「ん。君たちは?」
 後ろから声がした。コウとヒバリが振り向くと、背の高い中年男性が立っていた。ブロンドの髪と、口元にそろえたヒゲがしゃれた印象を与える。しかしシャツはくしゃっとしていて、格好いいと言いきることはできなかった。
「私はヒバリで、こっちがコウです。一級と二級の技師で、臨時職員としてボランティア公募に来たんですが」
「ああ。上から連絡があったよ。そうかそうか。なにせ本当に手が足りないんだ。歴史上の大天才に凡人が束になって挑んでいるような感じだよ。こちらは優秀な人材ぞろいなんだがね。まあ入って」
 局長はドアを開けると、急ぎ足で中に入った。
「そこに座るといい。なにせ忙しいからな。なるべく手短に済ませよう」
 椅子をすすめ、自分は机向こうに腰を下ろした。
「簡単に説明したいところだな。ふむ」
 局長は神経質に両手を揉んだ。
「エターナルはどうして止まってしまったんですか?」
 ヒバリが訊いた。コウも真っ先に訊きたいことだった。
 局長は指先で頭をかいて、
「まずシステムがほぼすべてダウンしている。いつもはタワーで働いている先遣隊がここに来た時には、非常電源を使って再起動する必要があった。そこから我々の長い戦いがはじまったわけだが……あー、まあざっくり説明すると」
 局長は二人のところまで歩み寄ると、目の前の客用テーブルに紙とペンを出して図を描き始めた。丸を描いて、その中央寄りに小さな丸。
 大きな丸を指でさした。
「これがメトロ・ブルーだとすると」
 小さな丸を指でさして、
「これがエターナルだ。心臓部。ここは今も問題なく動く状態にある」
 局長は小さな丸の傍に四角を描いた。小さい丸と四角を線で結ぶと、四角を示し、
「ここが今我々のいる制御室だ。ブレーン。こっちが全部停止している。行ってみれば脳死状態だ。だからこのメトロ・ブルーは生きながら死んでいるような状態になっている」
 局長は背もたれに身を沈めて、
「復旧度は三割だ。この二週間全力で取り組んでこの結果だ。今日まで、地上じゃあらぬ論争が起きている。君たちは知ってるかい?」
 コウは新聞で読んだ記事を思い出し、
「他の星からのテロだとか、天才に頼りすぎた星の終焉だとか、そういう噂ですか?」
「その通り」
 局長はペン先で空をついた。
「いまや政府は非難の的だ。ものごとがうまくいかなくなった途端に人々は自分の外にあるものを責めはじめる。ずっと快適だった星が、不意をつかれてこんなことになった、とね。その責任が誰にあるのか? まず自分を棚に上げて周囲から攻撃すべき対象を見つける。こっちにしてみればあきれた話だがね」
 所長は静かに息をはきだした。
「まあそれはいい。我々の責務はシステムの復旧だ」
 左手で顎をさすりながら、
「エターナルのブレーンは膨大なプログラムから組成されている。天才ガウス・レインブルーが二百五十年前に構築したいしずえだ。そして困ったことに、今回我々はそれらをひとつひとつ書き直さなくてはならない」
「書き直す?」
 コウが言った。そうだ、と局長はうなずき、
「ガウスの挑戦、と我々は呼んでいるが。復旧時にすべてのプログラムを別の形に置き換える必要がある。そのためのモデルはあらかじめ用意されているが、その作業はすべて人の手でひとつひとつやらねばならない。復旧用の自動生成プログラムがないんだ。ガウスが開発した独自の言語を使っているからね」
 局長は首を傾げた。なぜこんなことをしなければいけないのか解せない様子だった。
「どうしてそんなこと。ガウスが用意していたんですか?」
 ヒバリが当意即妙に言った。局長は、
「おそらくそうだ。あんなものを用意できる酔狂な人物は他にいないだろう。もしかしたらこんな日が来ることを予見していたのかもしれないな。それでガウスはわざとそんなものを残したんだ。だが一体何のために?」
 話が終わると、コウとヒバリは局長に案内されてそれぞれの持ち場へ向かった。
「あー、君は二級だったね。すまないが、わりあい単調な作業をやってもらうことになる。かまわないかね」
「大丈夫です。そのために来たので」
 ヒバリと別れたコウは、二階フロアに並ぶブースの一角に案内された。
「彼の手伝いをしてくれ。あー、ガヴェイン」
 ブースにいた白髪の初老男性が振りかえった。局長を見て、
「何ですか。クローディア局長」
「ガヴェイン、彼はコウだ。君のアシスタントをしてくれる」
 ガヴェインと呼ばれた男性は立ちあがった。柔和な笑顔を浮かべるとコウに握手を求め、
「よろしく。猫の手も借りたい状態だから、助かるよ」
「よろしくお願いします」
 コウは深々と礼をした。
 間もなく局長は立ち去り、コウはガヴェインの指示のもと、復旧作業の手伝いをすることになった。
 ガヴェインはセントラルタワーで働く星間技師で、かれこれ三十年この職についているという。コウは一年前まで受けていた授業での勘を取り戻しながら、ガヴェインの手伝いをはじめた。
「いや若い人でよかったよ。歳が上の人になると少なからず衝突もあるからね。なるべく余計なストレスがたまらないほうがいい」
 ブース内のメインコンピュータに言語入力しながら、ガヴェインは言った。
「すいません。手こずってばかりで」
 コウは言った。サブコンピュータを扱うコウは、思いのほか知識が飛んでいることに焦っていた。
「いやゆっくりでいい。話を聞くに、君は実地は初めてだろう? 慣れてから速度があがるぶんにはかまわないが、今むやみに急いでバグを残されては問題だからね。大丈夫だ、自分のペースでやるといい」
 ありがたい言葉だったが、コウはもどかしかった。
 一時間ほど作業に没頭していると、ガヴェインは、
「ガウスの残した大いなる問題だ。このような仕事に従事できるのは名誉だが、しかしなぜ彼はこんなものを用意したのか。それを話すのがもっぱらこの制御室での共通話題でね。君はどう思う?」
 気が散る質問だった。しかし、焦ってばかりいても仕方ないと思ったコウは、一度手を止めた。
「天才の酔狂。と言ってしまえば簡単ですが、星ひとつの命運をそんなことで振りまわしたりはしないでしょうね」
 コウはガヴェインを見て、
「きっとこれまでの人類がどれだけ苦労して今を築きあげたのか、当たり前に存在するものがなくなった時、どれだけ困るのか。それをあらゆる人に実感させたかったんだと思います。じっさい、いまの僕たちは本当に困っています。僕の友人はグラインドレーサーなんですが、あんなに落ち込んでいる彼を見たことがありません」
「ほう」
 ガヴェインも手を止めた。コウの席を振り返り、
「すばらしい答えだ。君のような若さでそのような考えに至るとはね。他にも若い技師がここにはいるが、ただの気まぐれだとか、天才の自己顕示欲だとか言うものもいたよ」
 ガヴェインはふたたびキーボードを叩きながら、
「私も君と同じ考えだ。我々は歴史の中であまりにも多くのことを忘れてきてしまった。もっと時代が進んでいれば、このガウスの宿題すら解けなくなっていたかもしれない。だからガウスは我々を試しているのだろう。システムの復旧作業という、考えるための時間を与えてね」
 それから数時間、二人は作業に没頭した。会話はほとんどなかったが、共有している空気は心地のいいものだった。

 昼は時間をずらして交代で休憩をとることになっていた。食事をとるためには一度上まで戻る必要がある。また二十分かけてタワービルディングの一階に上がったコウは、エントランス脇の食堂に入った。そこにはガウスの問題に取り組む星系じゅうの技師たちが集まっていた。
 コウがあまり品数のないメニューから注文をすませると、窓際のテーブルでヒバリとミツキが話しているのが目に入った。
 食事を受け取ったコウは二人のところまで歩き、
「よう」
「あ、コウ」
 ヒバリは自分の隣をコウに譲った。コウがそこに座ると、ミツキが笑いかけた。
「お疲れ様」
「どもっす」
 女性二人はすでに食事をあらかたすませていた。ヒバリはコウに、
「どう、調子は?」
「ちょっと疲れたけど、まったく役に立たないわけじゃないみたいだ」
 コウが言った。窓から降り注ぐ光を見ると、気持ちが落ちついた。
 ミツキが両手を組んで、
「いまの見込みだと、あとひと月はこの体制を維持する必要があるそうよ。二人にその気があるのなら、たぶん残りの期間雇ってもらえると思うわ」
 ミツキは二人にウィンクした。コウはまともに受け止めるのが恥ずかしくなって、視線を落とした。
 食堂では多くの技師が談笑しながら休憩を楽しんでいた。緊急事態ではあるが、だからこそこのような時間が大事なのだろう、とコウは思った。
 ミツキはタワービルディングのエントランス方面を見て、
「この近くに技師の臨時宿舎があるわ。ほんとは旅行客用のホテルらしいんだけどね。ここから近いことと、都市が機能していないことを理由に使わせてもらえるみたい。部屋の掃除は自分でしないといけないけどね」
「そうなんですか。よかった、ここまで通うのは遠いから助かります」
 ヒバリが言った。コウはパンをほおばり、宿泊費がかかるのだろうかと考えていた。
 コウも食事を食べ終わる頃、
「しかし、たったひとつのシステムにこの星の機能がほとんど懸かってたとはな」
 午前中はずっとそのことを考えていた。コウにとっては当たり前になっていた日常が、どれだけ脆いものだったか、彼は感じていた。
「それなんだけど」
 とミツキは言って、
「この星は本当に恵まれていたわ。昔は資源が豊富だったようだし、環境は今でも抜群。だからこそひとつの仕組みに依存することができたのかもしれないわ。惑星によっては大気汚染で居住区の外に出られない場所だってあるのに」
「そうだ。ミツキさんの星はどんな場所ですか?」
 ヒバリが言った。ミツキは、
「私の星? そうね」
 と言ってテーブルを指でとんとん叩き、
「あそこはすべての人が生きやすいとは言えないかもしれない。機械文明がとても発達しているけれど、日々の変化が速いから。歳を取ると別の惑星に移り住む人が多いわ」
 ミツキはカップに残った紅茶を見つめ、
「ここも私の星もそうだけど、文明が発達しているからといって、必ずしも人々が幸福になるとは限らないのよ。あなたたちにも思い当たるふしはない?」
 と言ってミツキは二人を交互に見た。
「ある」
 コウが言った。
「便利になりすぎると、自分が生きてることの実感が薄くなったり、意味を感じなくなったりする。そのうえ、自分がどうしたらいいか分からなくなるんだ」
 ミツキはコウに真剣な目を向け、
「そうね。ひとしきり栄えた星ではたいていそんな現象が起こるわ。皮肉なものよ」
 両手を合わせると、ミツキは窓辺に咲く小さな花を見た。
「こういう機会がないと、私たちはどのように生きるべきか、それを忘れたままになってしまうわね」

 その後の時間は緊張感とともに過ぎていった。コウはガヴェインのアシスタントをしながら、時折ミツキが言ったことについて考えていた。
 どのように生きるべきか。
 それは受け身ではなく、おのずから何かすることを指している。
 今までのコウはいつも受動的だった。教育プログラムも、何となく選んで、何となく資格を取った。だから勉強するべき時に立ち止まってしまい、一級試験に落ちたのかもしれない。
 しかし今、ここでガウスの問題に取り組んでいるのは、コウが自分からしたいと願ったことだった。
「ありがとう。だいぶ助かったよ」
 やがて定時がきた。人によってはこれから働いたり、残って作業を続けるが、コウとヒバリはひとまずこれで終わりだ。
「こちらこそ。自分に手伝えることがあってよかったです」
 ガヴェインは背伸びをして、
「明日も来るのかい?」
「はい。そのつもりです」
「よろしく頼むよ」
 ガヴェインは手を差し出した。コウはかたく握手した。
 コウとヒバリは局長室に再度立ち寄ると、局長に翌日以降の勤務継続願いを出した。
「助かるよ。ありがとう。他にも技師の知り合いがいたら連れてきてほしいくらいだからね」
 クローディア局長は冗談交じりにそう言った。コウはトウジのことを思い出したが、今はひとまず自分のことに集中すべきだと思い直した。
 二人は地上への長い道のりを通ってタワービルディングを出ると、宿舎の方角へ歩きだした。日はすでに暮れ、薄闇の空に星が見えた。
「疲れたわ。くったくたよ」
 ヒバリは肩を回して伸びをした。
「おばんくさいぞそれ」
「うるさいわねっ。別にいいじゃないの。あんたは疲れてないわけ?」
「このまま路上に寝られるくらい疲れた」
「それじゃストレッチしたらどう? 身体が軽くなるわよ」
 言われてコウも伸びをした。身体じゅうの疲れがふっと軽くなる気がした。
 ヒバリはしめしめとばかりに笑い、
「じじくさかったわぁ、今の」
「そういう作戦かよ」
 コウは思わず笑った。ヒバリも笑った。
16, 15

  

「そういうわけだから、しばらく俺もヒバリも家を留守にする」
『ちょっと待てよ』
 セントラルタワーから徒歩五分のところにある宿舎ロビー。臨時回線による電話越しにナオトが言った。
『しばらくってどのくらいだ? エターナルはいつ復旧しそうなんだ?』
 ナオトの様子からはグラインダーに乗りたくてたまらないという気持ちがうかがえた。
「こっちの人の話だとひと月。場合によっちゃもっと」
 コウは言った。ナオトは深い深いため息をつき、
『マジっすか』
「マジです」
『窒息しそうなんだけど、俺』
「なんとかしろ。そうだ、ためしに海で泳ぐとかどうだ。空飛んでばっかだったし、いい気分転換になりそうじゃないか。潜水したら新しい魚類とか発見できるかもしれないだろ。電気止まったし新種がいるかも」
 電話越しのナオトは見えない圧力をコウに向けて放ち、
『いっそ死ねというのか、コウよ』
「冗談だよ。とにかく待っててくれ。ヒバリに代わる。ん」
 コウは隣にいたヒバリに受話器を渡した。
「もしもし。ナオト? 私よ。元気にしてる?」
 ヒバリがナオトと笑い話するのを聞きながら、コウはホテルの広さに驚いていた。部屋数は千近くあるらしい。セントラルシティ最大の規模だという。
「これタダで泊まれるのか」
 基本的な生活にほとんどお金のかからない星だったが、宿泊や旅行となると話は別だった。本来、ここに泊まるのならばきちんと働いて得た金銭を払わなければいけない。
 しかしミツキの言った通り、現在は技師の臨時宿舎なので利用はタダだった。その代わり今回の仕事に給金は出ない。ガウス問題に着手する技師はみな、なかばボランティアとしてここにいる。
 コウは不思議な気持ちだった。自分から何か始めた途端に新しい景色が開けるような。もちろん臨時でここにいるだけで、期限つきではある。しかしそれでもコウは嬉しかった。
「――なにナオト、もしかして泣いてるの? あなたそういうキャラだったっけ?」
 ヒバリの声が聞こえてきてコウはわれに返った。ヒバリは頭を抱えながら、
「コウの次はあなた? ちょっと待ってよ。私二人の母親じゃないのよ? ……だってじゃないわ。ナオト、大丈夫よ。大丈夫だから、そうね、気晴らしに筋トレでもして待ってて。お願いよ」
 コウは少し前の自分がこんなにグズグズだったのかと思うとため息が漏れた。
「もう少ししっかりしよう」
 コウは自分に活をいれた。まもなくヒバリは電話を終え、
「大丈夫かしらナオト」
 そう言って肩をすくめた。
「ばあさんがいるし平気だろ。というかそう思わせてくれ。あまり電話向こうのナオトの姿を想像したくない」
 コウは頭を振ると歩き出して、
「さて部屋取ろう」
 コウとヒバリがロビー受付に向かうと、明らかにここの従業員ではない男性が二人を出迎えた。
「やあ。君たちは技師かい?」
 見ると男性は胸証を下げていた。「惑星リトル・フォレスト星間技師 シュン・アセラム」とあった。
「ええ。これ、仮の入館証なんですが。明日から正式なものに変わります」
 と、コウとヒバリはそれぞれに貸与された胸証をさしだした。シュンは、
「ちょっと待ってて。今空いてる部屋の確認をするから」
 手元のパソコンで検索を開始する。
「あの、あなたも下で働いてるんですよね?」
 シュンはうなずいて、
「そ。いちおう役職なんだけどさ。仕事増やされて大変だよ。これもそのうちのひとつ」
「大変ですね」
 ヒバリが言った。「大変なのはみんな一緒さ」とシュンは言った。
「あー。ちょっと待ってね」
 受話器を手に取ると三回プッシュし、
「もしもし? シトラス、僕だ。シュンだ。あのさ、もしかしてシングルって今満杯なの? ……ああほんとに。そうか。うん、わかった」
 シュンは受話器を置いて、
「すまないんだけどダブルルームしか空いてないんだ。いいかな?」
「ダブルルームですか?」
 コウが言った。シュンはうなずいて、
「それであの、実のところそっちも空きが少なくてね。ちょっと訊きたいんだが、君たち赤の他人?」
 ヒバリとコウは顔を見合わせた。
「いや、赤の他人ってほどじゃない……ですけど」
「ええ。つき合いは長いです」
 ヒバリの言葉に男性は胸をなでおろし、
「それじゃ相部屋でいいかな? そのほうが助かるんだ。そろそろ部屋が足りないから、別の宿舎を探さないといけないところでね」
「あ、相部屋ですか?」
 コウが言った。ヒバリとは確かに長いつき合いだが、この男性は何か意味をはき違えている気がする。
「いや無理にとは言わないけどね。でもほら――」
 受話器が鳴った。シュンは急いでひっつかみ、
「はいこちらシュン。あ、局長ですか? どうも、連日お疲れ様です。……いえいえ、このくらい何でもないですよ。いい気分転換です。え? 新たに四人来るんですか? ああー、はい。まだ空きはありますけど。けっこう厳しくて。ええ、ええ」
 コウはヒバリをちらりと見た。目があったヒバリは唇を妙な形にひんまげていた。何となく心境が読める気がした。
 まもなくシュンは通話を終えた。仰々しく咳払いして、
「あー。できればと言ったが、ぜひお願いしたいんだ」
 両手を合わせてお辞儀した。コウがどうしたものかと考えていると、
「わかりました!」
 ヒバリが半ばやけくそ気味に言った。
「行きましょうコウ。今さら恥も何もないわ。小さい頃は一緒にお風呂とか入ったし!」
 ヒバリは受付を離れると、ずかずかと歩き出した。
「ちょっと待てよおい」
 コウが追いかけようとすると、
「ああ待って、君!」
 シュンが呼びとめた。
「はいこれ鍵。オートロックだから出るときは肌身離さず持っててね」
 コウは礼をすると、
「ありがとうございます。おい待てよ、ヒバリ!」
 返す足でヒバリを追いかけた。

 普通の宿泊体制だったらこんなことはありえない。コウはそう思いつつ、階段を上っていた。
「ヒバリ、そんな先に行くなよ。おい!」
 三十階に彼らの部屋があった。エレベータは動かないので階段を上るほかない。コウは最近、少しは外出するようになったので、以前に比べれば体力がついていきていた。しかし、それでもずんずん駆け上がっていくヒバリには追いつけなかった。
「何号室?」
 上のほうから腹立ち声でヒバリが言った。コウは鍵についたルームナンバーを見て、
「ええと3008号室。うげ、これ上り下りが骨だな」
 コウは気が重くなった。
「先に行って待ってるから。さっさと来なさいよね!」
 ヒバリはそう行ってさらにスピードをあげたようだった。
 やっと階段を登りきったコウが、よろめきながら部屋まで行くと、
「三分待ったわ」
 ヒバリが腕組みしてドアにもたれかかっていた。
「さ、先に……行くからだろ」
 コウはあえぎながらヒバリに鍵を渡した。ホテルの廊下はドアが整然と並んでいたが、ランプは点っていなかった。
 ヒバリが鍵を開けた。部屋の中はそのままホテルのダブルルームだった。窓の外は夕闇に染まりはじめている。
「あー。そうか、電気つかないのか」
 スイッチを押したコウが落胆して言った。疲れが増した気がした。
「別にいいわよもう。それより着替えとかシャワーのほうが心配だわ」
 ヒバリはバスルームに入ると、蛇口をひねった。しばらく待ってから、
「あ、お湯は出るみたいよ。よかった」
 コウにとってはわりとどうでもいいことだったが、ヒバリにしてみれば大事らしい。
 「運命の日」以降、政府に届いた山のような要望で一番多かったのが電気。次に食料、その次が交通。その次がお湯(あるいは火)の使用だった。電気が使えればまったく問題ないことだが、いまだに止まったままなので、旧式のガス湯沸かしを場所によっては使っている。たとえばウメの家がそうだ。聞いた話では、ガス式のバスタブを持っている稀な家は、臨時の公衆浴場になっていてありがたがられているらしい。
「全部屋お湯が出るんだとしたらかなり恵まれてるぞ、このホテルは」
 オール電化たるコウの自宅は、運命の日から湯が出ない。この数日はウメの家で風呂に入っていた。
 ヒバリは洗面所から出てくると、
「着替えは今日はしょうがないわね。今度一回取りに行きましょう。この様子なら洗濯できる場所がありそう」
「お前があそこで飛びださなきゃそのへんのことをシュンさんに訊けたのにさ」
 ヒバリはまた口をわななかせて、
「う、うるさいわね。あ、ほらコウ。そこに電話があるわよ。使ってみたら? もしかしたら下におりなくても連絡できるかも」
 コウはベッドとベッドの間にある電話に歩み寄ると、受話器をつかんで耳に当てた。しかし何も聞こえなかった。コウは受話器を戻すと、
「ダメだ。やっぱり政府にそこまでムダなエネルギーを使う気はないらしい」
「まあいいわ。何にせよ夕飯食べにまた降りなきゃいけないもの」
 コウは息を飲んだ。そういえば昼から何も食べていなかった。
「ぐ。また降りて登るのか? それなら僕は夕飯抜きに」
 ヒバリは即刻否定して、
「ダメよちゃんと食べなきゃ。せっかく他の星が食料最優先で支援してくれてるんだから。この星は今、まともに漁業もできないみたいだしね」
 結局コウはヒバリに負けた。ふたたび下までおりると、品数の少ないビュッフェ形式の食事をとった。部屋に戻る頃にはもうすっかりくたびれていた。
「このまま寝る」
 ふらふらになりながらコウはベッドになだれ込んだ。一日中慣れないことをして、ずいぶん疲労がたまっていた。身体が地面に沈んでいくような感じだ。
「私はシャワー浴びるわ」
 ヒバリは洗面所に向かった。ドアを閉める間際、思い出したように顔をつきだし、
「覗いたらそこの窓から叩きだすからそのつもりでいなさい」
 コウは目を閉じたまま、
「この心地いい疲労感を幼馴染の裸なんかで濁したくないな」
「あっそう!」
 そう言うとヒバリは洗面所のドアを思い切り閉めて鍵をかけた。
「鍵かかるんじゃないか。何考えてるんだか」
 つぶやいて、コウは天井をぼんやり見つめた。
 部屋はすっかり暗くなっていた。受付のシュンから受け取ったオイルランプだけが室内を照らしている。
 下で問い合わせたところ、洗濯はまとめて一階のサービスコーナーに置いておけとのことだった。洋服も多少なら貸し出せるとも言っていた。コウとヒバリはシュンに礼を言った。
 シュンは笑いながらこう言った。
「何、僕だけに感謝することじゃないよ。今はみんな困っているからね。助けあっていかないと」
 コウは人の順応力と生命力について考えてしまった。どんな状況に陥っても、そこから生きようとする力があらかじめ人には備わっているのだ。それはむしろ危機に際して発揮される本能で、生活に心配がなくなるほど力が弱くなる。
「何がいちばんいいんだろうな」
 コウは寝返りをうった。
 昔の人々も同じような問いを抱いたのかもしれない。日々便利になる暮らしの中で、反対に不自由になる心。
 どうすれば豊かになるのか? 
 幸福とは何か?
 まどろみながらそんなことを考えていると、バスルームのドアがノックされた。
「コウ。ちょっと」
 ドア越しにヒバリの声がする。
「どうした女王様」
 コウが眠い目をこすりながら言うと、
「誰が女王よ。それより、ねえ、そのへんにバスタオルない?」
 言われてコウは薄暗い室内を見渡した。整然としているので一目了然だ。
「ないな」
「クローゼットとかちゃんと見た?」
 見ていなかったので、反論する前にコウは中を確認した。二人分のバスローブとタオルが積んであった。
「従業員マジでいないのか。こういうの風呂場に置かないか、普通」
 コウはバスタオルを一枚とって洗面所のドアをノックする。
「あったぞ。ノブにかけときゃいいか?」
「待って」
 ややあって、解錠する音がした。ドアの隙間にヒバリの細い腕がのぞく。
「かして」
「ん」
 コウは一応中を覗かないように気をつかい、腕を伸ばした。
「ありがと」
 ヒバリとコウの手が触れた。まだ濡れたままだった。コウは不意に胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
「押し入ってきたらけっ飛ばすからね」
「分かってるよ」
 沈黙があった。
 ヒバリが身体を拭いている気配がする。コウはますます心拍数が上がってきた。どうしてこんな反応が起きるのか、彼には分からなかった。
「ねえコウ」
「なんだ」
 緊張をさとられないようにしながら、コウは言った。
「昔はよくお泊まり会とかしたよね。誰かの家に集まってさ」
「よくそんなこと覚えてるな」
「なんか急に思い出したの。その頃よね、一緒に」
 言いかけてヒバリは口をつぐんだ。コウは、ヒバリがさっきフロントでシュンに言ったことだと思い当たり、
「そんなこともあったな。でもお泊まり会ならつい最近もばあさんの家でしてただろ」
「あ、それもそうね。はは」
 また二人は無言になった。ドアの向こうのかすかな物音だけがコウに感じられるすべてだった。
「ねえコウ、最後までできそう?」
「何の話だ?」
 コウは指先がぴりぴりした。長らく忘れていた感覚だった。
「仕事。ボランティアとはいえ初めてじゃない?」
 ヒバリの声が少しやわらかくなった気がした。
「ああ、なんだ。そのことか。うん、まあ何とかなるんじゃないか」
「何それ。もうほんとにそういうとこ変わらないんだから。ちょっとは甲斐性ってものを持ちなさいよ」
 元に戻った。
「わるい」
「珍しく謝ったわね」
 ヒバリは笑った。コウはなぜか安心した。
「謝らなきゃいけないことばっかしてきたからな」
 コウは言った。それが正直な気持ちだった。
「今までありがとう、ヒバリ」
「コウ」
 また間があった。のち、ドアがゆっくりと開いた。
 服を着たヒバリの笑顔があった。コウは心臓が止まりそうなくらい驚いた。ヒバリが初めて会った相手のように感じた。コウが動揺していると、
「!」
 ヒバリはコウを抱きしめた。突然だった。勢いあまって、コウは後ろの壁に背中をぶつけた。
「いって」
「コウ。バカ、ばかばか。私が今までどれだけあなたのこと……」
 ヒバリはコウの胸に顔をうずめた。濡れた髪が薄明かりに照らされた。コウは戸惑った。どうしていいのか分からなかった。
「ひ、ヒバリ?」
「ずっと心配だったんだもん。わたし……また、コウが」
 その声が震えていることにコウは気づいた。唇を真一文字に結ぶ。
 ヒバリはコウに頭を押しつけたまま下を向いて、
「また……今度はほんとうに死んじゃうんじゃないかって、レースの前までずっと、ずっと」
 ヒバリはコウの服がくしゃくしゃになるくらい強く抱きしめた。身動きもできず、どぎまぎするコウに、
「何か言いなさいよ。ばか」
「ごめん。悪かった。ほんとに」
 コウがなんとかそれだけ言うと、
「そんなんじゃ足りないもの。バカよ。大馬鹿だわ。私だけじゃなくて、ナオトもおばあちゃんも心配してたんだから、ほんとに」
 泣いているのを隠しもせず、ヒバリはコウをなじった。コウは自分までもらい泣きしそうになるのをこらえねばならなかった。
 その時、コウは気がついた。
 自分は今まで、ずっと感情を押し殺していた。
 落第してから今まで。まわりの意見などまったく耳にも入れず、ただただ目の前のことから遠ざかって生きていた。
 ほんとうはそんなのは生きているとも言えない。苦しくて、つらくて、やるせなくて。でもそんな自分を認められなかったから、何も感じていないふりをするしかなかった。
 しかし、本当はずっと打ち明けたかった。
「ヒバリ。僕は怖かったんだ」
 コウは声が震えるのを抑えもせずに、
「なにもかも怖かった。このまま世の中の全部に置いていかれるような気がして。ずうっと怖かった。ヒバリが今まで僕に言ってたことだって、ほんとうは胸に残ってた。でも何も言えなかったし、できなかった。……ごめん、謝ってすむようなことじゃないけど、ごめん」
 一気にそれだけ言うと、コウはじっとこみあげてくるものに耐えた。それ以上何か言ったら、もう持ちそうになかった。
 ごまかす代わりに、コウはヒバリを抱きしめた。いままで感じたこともないような温かさがそこにはあった。
「ばか」
 胸の中でヒバリが言った。そしてコウは気がついた。
 コウはヒバリが好きだった。
 どうしようもない自分をこんなにも思いやってくれる。何にも見返りがないのに。ただ幼馴染というだけで、こんなに心配してくれる。
 思えば昔からずっと好きだったのだ。今までの大切な記憶にはすべてヒバリが登場する。それをこの一年あまりの間に忘れてしまっただけだ。
「ヒバリ」
 コウは名前を呼んだ。ヒバリはコウを見上げた。涙に透ける瞳に、オイルランプの光が幻想的に反射する。
 ヒバリは目を閉じた。コウは唇を近づける。
 ふたりの唇が重なろうとした、その時、
「だめ!」
「うおっ!」
 ヒバリは両手で思い切りコウを突き飛ばした。遥か昔の国技、「スモウ」を彷彿とさせる見事なまでのツッパリだった。頭をぶつけたコウは、まるで星間飛行するような酩酊感をおぼえた。
 ヒバリは両手で赤くなった頬を押さえながら、
「私ったら何雰囲気に流されてるのよ。コウ! あんた甘いわよ。何言ってんのアホって感じだわ。たった一日手伝っただけじゃない。まだまだこれからよ。労働のしんどさと尊さを身をもって知ればいいんだわ!」
 おほほほほ、とヒバリは笑った。コウは一気に今までの感情が引いていくのを感じた。
「やっぱりヒバリはヒバリだ」
 コウは後頭部をさすりながらそう言った。
 翌日からも、コウとヒバリは熱心に働いた。
 ガヴェインのもと、慣れない仕事をするのは大変で、コウは毎日のようにつまずいた。しかし投げ出すようなことはしなかった。何より、誰のためでもなく、人の役に立つことをしているのだという実感がコウを落ち着かせた。定時が来ても、コウはすすんで残業をした。勝手が分かってくると、たまに楽しく感じることすらあった。
「ああ」
 コウは声を発した。自分の技量ではどうしても解決できない場所に行き当たった。
「ガヴェインさん。ちょっとここを見ていただきたいんですが」
「どれ」
 ガヴェインは席を立ってコウのモニタを覗きこんだ。
「なるほど。確かにここは難所だ。一級を持っているものでも長い間経験を積んでいなければ解けないね」
「この頃はこういう個所が多い気がします」
 コウは言った。ガヴェインはふっと息をついて、
「そうだな。我々の担当領域が思いのほかはかどっているからかもしれない」
「あ、そうなんですか?」
「そうだ。君はよく気がつくし、一度失敗したことはもうつっかえない。優秀だね」
 そう言いながら、ガヴェインはキーを叩く。
「しかしこれはガウスがわざわざこのように不規則な配置にしたのかもしれないね。復旧作業者たちが意思の疎通をせずには解決できないように」
 コウは目から鱗が落ちるような気になった。
「そうかもしれません」
「何にせよこの復旧作業には彼の個人的な思惑を感じるよ。いつか停電になった時に、我々が混乱する様をあらかじめ思い描いていたかのようだ」
 そう言ってガヴェインは入力を終えた。コウは画面を睨みながら、
「これは到底僕にはできません。見ても何が書いてあるのかさっぱり」
「いずれ覚えられるよ。これでも私は君より長く生きているからね」
 ガヴェインは柔らかく笑った。
 それから二人はまた各々の作業に没頭した。コウは手が止まる箇所も多く、そのたびガヴェインに指示を仰いだ。
 コウは一年間何もしていなかったことへの悔いを初めて感じた。同時に、また勉強を再開したいとも思うようになった。それは彼にとってみれば驚くべき変化だった。
 やがて定時が近づいてくる頃、
「君は仕事に対しとても実直だね」
「そうですか?」
 ガヴェインはうなずいて、
「ああ。何かこう、しなければならないという義務感だけで動いていない感じだ。ちゃんと意思がともなっている」
 コウはなんだかこそばゆい感覚で、
「これまでずっと止まっていたので。少しでもいいから何か役に立つことがしたかったんです」
「ほう」
 ガヴェインはコーヒーを飲んだ。このごろは物資の支援も行き届いてきて、嗜好品も回ってくるようになった。
「セントラルタワーには有能な職員がたくさんいるがね、必ずしも人のために動いているものばかりではない。地位や名誉のために労働するのを責めはしないがね」
「自分のためだけに生きているとすぐに限界がきます」
 コウは言った。頭の中にウェブにいた頃の風景が浮かんだ。快適なだけで、他に何ももたらさない場所。そこにコウは長い間閉じこもっていたのだ。
 ガヴェインはカップを置いて、
「そうだな。我々は助け合って生きている。それは時代とか場所にかかわらず、いつだってそうだ。しかしそれをいつも心に留めおくことは難しい。私は疲れているとつい妻と口げんかしてしまう。そんな気はなかったはずなのに。いつもは多くのことに感謝していたはずなのに。そして翌朝になって思うのだ。ああ、ゆうべはひどいことを言った、とね。だから私は謝る。それが昔は素直に言えなかったものだよ」
 そう言うと微笑した。コウは、それまでただ上司だと思っていた人の厚みを見た気がした。
 ガヴェインは視線を上げて、
「ここでの経験もきっと君の役にたつだろう。いままで立ち止まっていたと言っていたが、それだって今の君をつくっているんだ。月並みな言葉ですまないが、無駄なことではないんだよ」
 コウは胸が熱くなった。
 どこかに残っていた塊が溶け、冷たく灰色だった日々が、淡い色彩にいろどられていく気がした。
「さ。作業を続けよう。今から一級技師の範囲も扱ってもらいたいんだが、挑戦してみる気はあるかね?」
「いいんですか?」
 ガヴェインはうなずいて、
「普段の仕事であればこんなことはできないが、これは臨時の業務だ。アウトプットがよければ過程は問わないんだよ。それに何にせよ私がチェックするし、今後の君のためにもなるだろう」
「ありがとうございます」
 コウは嬉しくなった。
「さ、それじゃ始めよう」
 ガヴェインはよく似合う笑顔とともにうなずいた。

 その日の夕方、食堂で夕食をとっていると、ヒバリとミツキがやってきた。
「ご一緒してもいいかしら?」
 ミツキの問いにコウはうなずいた。スープを飲んだコウは、
「そういやヒバリ、ミツキさんといることが多いよな。ブース近いのか?」
「近いもなにも、彼女が私の上司だもの」
 ヒバリは丁寧な仕草でミツキを示して言った。
「ああ、そうなんですか。すいません知らなくて」
「いいえ。忙しいものね」
 ミツキは笑って、「とても優秀な職員さんで助かってるわ」
「やだミツキさん。そんなことないですよ」
 ヒバリは手を振った。コウは目を半開きにして、
「どう考えてもお世辞だ。真に受けないほうがいいと思う」
「うるさいわねっ、受けてないわよ! それに私あんたよりは百倍マシだと思うのよね」
「それは認める」
 ミツキは声を立てずに笑い、
「二人ともいつも仲がいいわよね。ずっとそんな感じなの?」
 コウとヒバリの視線がミツキのもとで止まった。二人の顔がじんわりと赤らむ。
「そんなことないですよ。ただ腐れ縁なだけです」
 ヒバリは言った。続けてコウが、
「腐れ縁すぎて、彼女は引きこもってた僕をこうして外に連れ出してくれました。今では心から感謝してます」
「そんなこと言ってよく恥ずかしくならないわね」
「僕のために泣いてくれる人なんてヒバリさんくらいのものです。心から感謝してます」
「わーわかったわかった私が悪かったからやめて!」
 ヒバリは耳をふさいだ。ミツキはくすくす笑って、
「うらやましいわ。私にもそんな相手がいたら楽しかったでしょうね」
 コウはミツキに片手を差し出して、
「何なら今からでも僕が相手になりましょうか」
「コウ!」
 ヒバリがテーブルをげんこつで叩いた。ミツキは笑いを押し殺しながら、
「遠慮しておくわ。ヒバリさんより似合いの相手にはなれないと思うから」
「それは残念です」
 コウが分かりやすいため息をつくと、
「コウ、あとで楽しくお説教してあげるわ」
 ヒバリは指をぱきぱき鳴らした。

 そうして、セントラルタワーでの日々が過ぎていった。コウにとっては一日一日が濃密だった。大変だったが、充実していたし、楽しかった。
「よく働いているようだね」
 ひと月近くたったある日。コウが休憩室で一服していると、クローディア局長に会った。
「ええまあ」コウが言うと局長は、
「おかげさまでもうじき復旧できそうだ。あまりにも膨大な物量だったから、当初はどうなることかと思ったが、案ずるより産むがやすしだった」
「そうですね。僕もそう思います」
 コウが来た後にも百人以上の技師がタワー地下にやってきた。
 星も年齢も性別もさまざまな人々を見ているうち、コウは今までの自分がいかに小さな世界に住んでいたのかを思い知った。
 何人かとは話もした。コウが今までの自分のことを話すと、彼らはみなコウを責めずに「それも経験さ」とか「大したことじゃないよ」と励ましてくれた。
 クローディア局長は煙草の灰を携帯灰皿に落として、
「どうだった? ここでの生活は」
 ようやくめどがついたからか、局長には安堵の表情が浮かんでいた。コウはうなずいて、
「大変でした。毎日、仕事が終わるころにはくたくただし。ひさびさにやったことばかりで思い出せなかったりして。ガヴェインさんは僕にできるとことから回してくれたのでとても親切でした。本当に感謝してます」
 局長はゆっくりとまばたきをして、
「そうか。それはよかった。やっぱり辞めてしまうものも少しいてね。これだけ多くの星の技師が集う機会もそうないから、いい経験になると思うんだが」
「その人たちは別の場所で別の経験を必要としているのかもしれません」
 コウが言うと、局長はうなずいた。
「そうだといい。つまらないから辞めてしまうとか、そんなことで自分を閉ざさないでほしい」
 それから、局長と二言三言交わしたコウは、礼をして仕事に戻った。

 エターナルが復旧する――。
 メトロ・ブルーに住む人々の期待が日を追うごとに増していった。人々は「やっと電気が使えるようになる!」とか「今回の教訓を戒めておく必要がある」とか、「そもそもどうして永久機関が落ちたんだ?」とか、それぞれにささやきあった。
「やっとグラインドできるんだな!」
 そう言ったのはナオトだった。
「もう死ぬかと思ったぜ。一カ月間の俺の苦悩を日記にして綴ってたくらいだ。読むか?」
「いらない」
 コウはにべもなく言った。
 休日をもらったコウはウメの家に来ていた。急務とはいえ、何日も続けて働くのは健康に悪い、と局長はすべての技師に最低週一日は休むよう言いきかせていた。
 コウに断られたナオトはがっくりと肩を落とし、
「この前ヒバリが来た時も同じリアクションをされた。君たちそろいもそろって冷たいじゃないか! お兄さん悲しいぞ!」
 ナオトはこの一カ月間、いい具合にねじれていた。コウのようにふさぎこむのではなく、誰かれかまわず話しかけるというのがナオトらしかった。噂ではかなり迷惑な存在になっていたらしい。有名な乗り手だけあって話し相手には困らなかったが、さんざんスト―キングするのであやうく補導されかけたとコウは聞いていた。
「俺いっそウェブに自叙伝でも出そうかな。『空飛ぶ苦悩よ、こんにちは』ってタイトルで。どうだコウこのネーミング」
 ひらひらと手を振ってコウは返事に代え、テラスから室内に戻った。
「ばあさん元気か?」
「ぼうや、あたしの心配は必要ないんだよ」
 ウメは窓から吹くそよ風にあたっていた。
 電気が止まってナオトがいじけてからというもの、ウメは前よりむしろ元気になったとコウは聞いていた。
 うなずいたウメは、
「元気だとも。おっきいぼうやが今度はダメになりかけたからね、説教してる間にここまで来たようなもんさ。おちおち老いてもいられないよ」
 足の不自由なウメだったが、昔ながらの車椅子で軽快に動いていた。
「電動なんてのはあたしには必要なかったね。防風シールドも同じさ。自分の身は自分で守るよ」
 コウは思わず笑っていた。ウメはその表情を見て、
「ずいぶん明るくなったじゃないか。ちょっと前からは考えられないような顔をしてるよ」
「おかげさまで。迷惑かけました」
「これからもかけるんだから、かしこまった挨拶は抜きにしとくれ。あたしに言わせりゃ、あんたはまだ始まってすらないんだよ」
 ウメは手を振った。
「さて、お茶でも入れようかね」
 どこからか調達してきたガス式のコンロに水入りのポットを置くと、ウメは火をつけた。パチパチいう音が、静かな部屋に心地よく響く。
「ああぼうや。ラジオをつけておくれ。いつものだ」
「はいはい」
 コウは周波数を745に合わせた。ノイズに混じって、聞きなれたDJの声がする。
『はい。こちらエラ・マリンスノウのラジオ、氷河(フィヨルド)漂流記(ダイアリ)です! みんな元気かしら? もうすぐ電気がかえってくると聞きました。みんなはこの一カ月どんなふうに過ごしましたか。 いつもよりずっと不便だったけれど、私はこのひと月を忘れずにいようと思います。だって、大事なことがたくさん分かった一カ月だったから。それじゃあ聞いてください。「夏の庭」』
 ピアノソロによる軽快なポップソングが流れ出した。コウはこんなに素敵な音楽がこの世の中にあったのかと思った。
 コウはポケットから注射器を取り出した。フェードアウト。取り寄せておいた予備は、もう彼には必要のないものだった。
 コウは大きく振りかぶると、海の向こうまで思い切り注射器を投げ捨てた。
18, 17

  

 そして、その日がやってくる。
 セントラルタワー地下、永久機関(エターナル)制御室。
 すでに帰省した者以外、すべての技師たちが集まっていた。みな中央にある大型液晶モニタを見つめている。
「さあ、諸君」
 クローディア局長が両手を合わせた。
「いよいよこの時が来た。一カ月半もの間、皆ほんとうによく働いてくれた。こんなに多くの技師と仕事をするのはこれが最初で最後かもしれない。いや、記憶に残る素晴らしい日々だった。大変だったが、なんとかここまで来ることができた」
 すべての作業は完了した。昨日、局長が最後のプログラム工程を終えると、制御室には果てしない安心感が広がった。
「すべては今日これから、永久機関(エターナル)を再駆動させることではじまる。これは今回の我々の仕事の終わりではあるが、同時に諸君と、惑星メトロ・ブルーの新たな日々のはじまりでもある。これを機に今までの生活を見直してみるのもいいだろう。私としてはもう少し休暇を取りたい。今度リトル・フォレストあたりに避暑に行こうかと思っている」
 技師たちが笑った。局長はコンソール盤まで歩み寄ると、
「それでは永久機関(エターナル)、起動!」
 制御室内の臨時電源が消えた。室内がまったくの無音になると、液晶モニタがほのかに光りだす。
 ――DATE 03/16 3150 AM10:25
 ――METRO BLUE ENERGY SYSTEM『ETERNAL』
 ――PROGRAM READY
 コウとヒバリは息を飲んで行方を見守っていた。一年以上前の技師試験結果を待っている時よりよほど緊張した。
 画面がふっと消える。室内がざわついた。
 失敗したのだろうか? とコウが思っていると、画面が青く光りだした。間もなく、コウはそれが海と空を映したものであることに気がついた。
『――聞こえているだろうか、未来に住む人々よ』
 高い声が聞こえた。
『私はガウスだ。ガウス・レインブルー。この装置、エターナルの創設者だ』
 制御室内がどよめいた。
「ガウスか!」「まさか肉声が聞けるとは」など、技師たちはそれぞれにささやきあった。
『映像は私がいる2895年のメトロ・ブルーだ。すでに海洋化は取り返しのつかないところまで来ている。我々はこの事態をもはや止められそうにない』
 コウはモニタを食い入るように見つめていた。カメラ映像はセントラル・シティの周囲を撮影したもののようだった。今より命脈が太かったのか、陸地が多かったのか、緑がより多く残っている。
『私は絶望している。この先にどんな未来が待っているのか。そこにいる人々は幸福なのか。私は多くの時間、未来の惑星の行方について考えている』
 ハンディカメラの映像らしかった。一度揺れて、室内に入っていく。低い位置から、数百年前の映像がうつされる。研究室のようだった。
『これが開発中のエターナルだ』
 そこには小さな心臓のような、赤い光があった。とくとくと脈打つように、人口の光が明滅している。
『私はいま迷っている。他でない、この装置を実用化することについてだ』
 室内はざわめいていた。技師たちは互いに意見を交換しているようだった。クローディア局長は、黙ってモニタを見つめている。
『この映像を君たちが見ているということは、結果的に私は装置を世に放ったことになる。おそらくその場合、メトロ・ブルーは他の惑星が追いつけないほど暮らしやすい場所になるだろう。エターナルは複製が利かない。今後いかなる星もこのようなエネルギー源を有することはかなわない、私はそう確信している』
 ガウスはふたたび外に戻った。高層マンションの上から、遠くに青い海が見えた。
『この星は依然として美しい。それはこれからも変わらないだろう。しかし、人々がこの星に住み続けても、明るい未来があるとは限らない。私はそう考えている』
 ガウスはテラスのテーブルにカメラを置いた。椅子に座るような音がして、
『豊かになれば、人は反対に何かを失う。私の時代においても、その傾向は多々見られる。私はあえてこの言い方をするが、すでにネットの侵食によって、ものによる文化はほとんど終わりに近づいている。すべてを電子化することがどれだけ危険であるか。ある者はそのことに気がついているし、あるものは見過ごしている』
 ガウスは一呼吸おいて、
『結果として、人々は情報化するほうを選んだ。流れに身を任せたのではなく、たしかに選び取ったのだ。あらゆるものは質量を失い、データに置き換わった。作品は無限の収容空間をもつネットに放りこまれた。それはブラックホールだ。一度入ると出てこられない。引力に吸い寄せられ、人々はその中で新しい文明を生み出すかもしれない』
 コウはウェブのことを言っているのだと思った。
『それを進化と呼ぶものもあるだろう。しかし私はそう思わない。人間は決して観念の海に住んでいるわけではないのだ。物質による世界にいてはじめて生がある。意識のみが溶けだした場所に、いかなる価値もない』
 コウはうなずいた。まさしくその通りだと思った。
『ゆえ、私は悩んでいる。この装置を世に放てば、情報化、観念化はすさまじい速度で進むだろう。そして人々は忘れていく。かつて人間の暮らしがどのようであったかを。何が起こり、何が失われたのかを。それは忘れてはならないことだ。失くしてしまえば、もう取り戻せず、引き返すこともかなわない』
 ささやきはいつの間にかなくなっていた。誰もがじっと、ガウスの言葉に耳を傾けていた。
『私には考えがある。この迷いに対するひとつの回答だ。もし私がエターナルを世に放つ場合、この考えを実行しないわけにはいかない。それが人々のためだと私は信じている』
 ガウスは再びカメラを持つと、立ちあがって歩き出した。彼がいるのは、どうやらセントラル・シティのはずれにある高層ビルのようだった。
『それは次のようなものだ。エターナル駆動後、一定の期間……数百年が経った際に、エターナルのシステムをすべてダウンさせる。おそらくその頃にはこの星の生活はほとんどがエターナルに依存したものになっているはずだ。人々は大混乱を引き起こすだろう』
 室内がどよめいた。
「何てことだ」「ガウスがやったことだったのね」と声があがった。
『しかしそれは必要なことだ。その時人々が、ダウンプログラムを仕組んだのは私だと知れば、彼らは私をののしるかもしれない。それまで数百年生きた地盤を作ったのが私であったとしても』
 確かにそうだろう、とコウは思う。このような事態が起こらなければ、間違いなく今までの暮らしが続けられていたはずだ。コウはここに来ることもなかったし、ミツキ、ガヴェイン、クローディア局長や他の技師と話すこともなかった。ウェブにいた人も、そのまま閉じこもっているに違いない。
『しかし、私はエターナルを完全に停止させるつもりはない。プログラム再構築の手段を残すことにする。膨大な作業が必要になるが、人に善なる意思が残っていればやり遂げられるはずだ。そうだな……この映像は復旧完了時に流れるようにしておこう』
 ガウスは立ち止まった。彼のいる高層マンションからは、今よりずっと前のセントラル・シティが眺望できた。映像の中では夕方が近づいていた。
『とすれば、今これを見ているあなた方は復旧を無事に終えたはずだ。まずはおめでとう』
 ガウスはベランダのへりに、内側を向けてビデオカメラを置いた。そしてその前に立った。
 制御室から一番の驚きが起きた。
 ガウスは少年だった。それも、まだ十歳くらいにしか見えない。
「子どもじゃないの」
 ヒバリが言った。同じような反応がそこらじゅうであった。
『復旧には長い時間がかかったはずだ。その間、あなたがたは互いに助け合わなければ生きていられなかったと思う』
 ガウスの金髪が風になびいた。コウは彼の表情に、憂いのようなものを感じ取った。
『私の発明を使えば、ずっと快適に過ごすことはできる。しかし、それがない時間のほうが、多くの不自由はあるものの、より人間的で、精神的に豊かでいられるはずだ』
 室内にいる技師たちから深いため息が漏れた。嘆くというよりは、考えているような。
『エターナルは復旧する。これが終われば、あとはもう寿命が来るまで動き続けるはずだ。しかしどうか忘れないでほしい。ながい時間の中で、我々が何を得て、何を失ったのかを。これはただ一度の機会なのだ。私は人々が光を取り戻すと信じている』
 ガウスは礼をした。
『さらばだ。永久機関(エターナル)、再起動』
 間もなく室内に電気がともった。ガウスの映像をうつしていたモニタは、「OK」の表示とともに正常状態に復帰した。
「やったぞ! 元に戻ったんだ!」
 制御室にいる人々から賛嘆の声があがった。あるものは握手を、あるものは抱き合って復旧の喜びを分かちあった。
「戻った、戻ったわ! コウ!」
「うわっ」
 ヒバリはコウを抱きしめた。
「おい、ちょっ。ヒバリ!」
 コウは衆目を気にしたが、祝賀ムードの室内では大きく目立つこともなかった。
「だって嬉しいじゃない」
「そりゃそうだけどな。正直……恥ずかしい」
 ヒバリはコウを解放すると、両手を取って、
「よく頑張ったわね」
 コウの頬にキスをした。コウは耳まで真っ赤になった。

 エターナルの復旧はたちまちのうちに惑星中の電気をよみがえらせた。ものの半日で、電気が必要なものはほぼすべて元通りになった。コウが昼食をとりに食堂に上がる頃には、セントラル・シティの空を嬉しくてしょうがない様子のグラインダーたちが飛んでいた。
「興味深いビデオテープだったわ」
 ミツキが言った。ヒバリとコウとともに最後の昼食をとっている時のことだ。
「ガウスが少年だったというのもそうだけど、あれだけの功績を残した人物が葛藤していたなんてね」
 しかしヒバリは首をひねって、
「でもどうなのかしら。この一カ月とても多くの人が困っていたし、他の星にもずいぶん助けられたわ。そうなることが分かっていて停止プログラムを仕掛けるなんて、私には理解できないわ」
 コウはどちらとも言えなかった。確かに、街に出ればヒバリのような意見をたくさん耳にしそうだった。しかしガウスの言っていたことはコウにとってもっともだった。
 ミツキは長い髪を揺らせて、
「何にせよ、今後考えるべき課題でしょうね。特にこの星はウェブによる退廃化が問題になっているでしょう」
 三人はそれぞれ物思いにふけった。
「ガウスは今の時代をおおよそ見通していたみたいだな」
 コウはつぶやいて、
「そのうえで停止プログラムを組み込んだ。復旧不可能にすることもできたはずなのに、出口も残した」
 ミツキはうなずいて、
「とてもエゴイスティックな行為ではあるわ。今回のことで無視できない経済被害や負傷者だって出ているもの」
 そう言って笑い、
「それでも、私は彼の思想に心打たれた」
 ミツキとはその後で別れの挨拶をした。母星での仕事が山積しているらしく、至急帰省しなければならないとのことだった。
「また会いましょう。あなたたちを見てるのは楽しいしね」
 そう言い残すと、彼女は移動専用のグラインダ―に乗って颯爽と飛び去った。
「かっこよかったなぁ、ミツキさん。私もあんな風になりたいわ」
 ヒバリが言った。コウは、
「まず性格矯正からだな。幼馴染を罵倒するクセを直すところから始めたらどうだ」
 ヒバリはコウの頬をぎゅうっとつねり、
「どの口がそんなこと言うのかしらねー。これかなぁ?」
「いだだだ」
 地下のブースにはもう下りられなかった。エターナルが復旧した以上、もう閉め切って立入禁止にしてしまうらしい。コウが少しだけさみしく思っていると、
「ああ、いたいた。コウくん」
 ガヴェインだった。食堂の外でコウは呼びとめられた。
「ガヴェインさん。すいません。探したんだけどなかなか見つけられなくて」
「いや構わないよ。何にせよ私のほうから連絡したいところだったんだ。コウくん、ものは相談だが、君はこれからの予定がもう決まっているのかい?」
 コウは何の話だろうと思いながら、
「いいえ。とりあえず仕事を探さなければと思ってますが」
 ヒバリも不思議そうにガヴェインとコウを見ていた。ガヴェインは顔をほころばせ、
「それでは私の弟の事務所で働かないかい? 二級資格があれば最低限の仕事はできるからね。君は自覚がないかもしれないが、仕事の飲みこみがずいぶん早かった。弟がどうもアシスタントを募集しているようなんだ」
「ほんとですか?」
 コウより先にヒバリが言った。コウは何となくタイミングをずらされて、
「あの、いいんですか?」
 ガヴェインはうなすいて、
「はじめは契約職員という形になるがね。続けていれば正式に雇ってもらえるはずだ。私としては一級資格にまた挑戦してほしいと思っている」
 コウはガヴェインを見た。しばらく考えていたが、
「よろしくお願いします」
 コウは片手をさし出した。二人は握手した。互いの連絡先を交換すると、その場はひとまず別れることにした。
「やったじゃない、コウ」
 ヒバリがコウをつっついた。コウは、
「まだうまくいくか分からないだろ。でもまあ、頑張るよ」
 照れくさそうに笑った。
 その後、二人は復旧したエレベータで今度は上がって、クローディア局長に胸証を返しに行った。
「ご苦労だったね。いや、本当に。誰の力がなくてもここまで来ることはできなかっただろう。予定より時間こそかかったが、それ以外の結果は申し分ない」
「局長もお疲れ様でした」
 クローディアは首を振り、
「もう局長ではないよ。もともとここのタワーの情報室長だったんだ」
 そう言うと窓際にあるデスクから立って外を眺め、
「ひとまず、元通りになってよかった。ここからの景色から人の活気が消えるのはさみしいからね」
 眼下の街から世界鉄道が走り出した。遠くには試運転中の旅客飛行船が見える。
「君たちはこの一カ月どうだった?」
「とても大事な期間でした」
「私もです」
 コウとヒバリは言った。
「そうか。それはよかった。君たちには未来があるからね、どうかそれを重荷と思わず、胸を張って歩いていってほしい」
 クローディアは席に戻ると両手を組んで、
「そういえばコウくん。君はウェブに長い間浸っていたらしいが」
 コウはぎくっとした。不意に言われると、やはりまだ後ろめたさがある。
「ええ。この一年くらいは」
「そのウェブのことなんだがね……実はまだ復旧させていないんだ」
「そうなんですか?」
 クローディアはうなずいた。気晶モニタを立ち上げると、
「それを通じて、さきほどのガウスのテープを流そうかどうか、政府が決めかねていてね。やるとすれば復旧時がベストだ。何せ内外の人口分離は放っておけない問題だ。私としては君の意見を聞きたい」
「あのテープ、残ってるんですか?」
 クローディアはまたうなずき、
「そうだ。ガウスの性格からして抹消するのかと思っていたんだがね。ごていねいにログ抹消の選択肢まで残して保持してあった」
 コウは考えた。さほど迷わずに結論が出た。
「流すべきだと思います。でなければ人々は簡単に今回のことを忘れてしまうかもしれません」
 自分が忘れないためにも、とコウは思った。クローディアは手を叩くと、
「そうか。それでは私は賛成票を投じることにするよ。ありがとう」
 クローディアはコウとヒバリのそれぞれと握手して、
「また会おう。私は別れの挨拶は好きじゃないからね」
 そう言うとウィンクをした。コウとヒバリは大きくうなずいた。

「ひゃっほう! 二人とも迎えにきたぜ!」
 セントラルタワーの外に出ると、間もなくナオトが飛んできた。まさしく飛んできた。ツバメに乗って踊りながら。
「二人とも、この一カ月俺の飛行が見られなくてもどかしかっただろう! 物足りなかっただろう!」
 コウとヒバリは半眼になってナオトを見た。
「ええ、まあ」
「そりゃそうだけどさ」
「そうだろうそうだろう!」
 ナオトは横向きに8の字を描いた。タワーから出てくる技師がいったい何事かとナオトを見た。それが疾風のナオトだと分かった者は、よせばいいのに歓声を上げた。
 ナオトは両手を突き上げて、
「ありがとう! ありがとう! グラインダーは俺の嫁だぜ! 俺は空と生きていく! たとえこの命尽きようともっ!」
 ナオトはやたらとレベルの高いアクロバットをいくつも決めた。コウとヒバリはすっかりあきれて、
「先行きましょうか、コウ」
「そうだな」
 二人でタワーを後にした。ナオトが気づいたのはその三十分後だった。

 それから一カ月。コウたちはそれぞれの生活を続けている。
 ナオトは以前にも増してグラインドの技に磨きをかけ、ヒバリは学業とボランティアの両立を続けている。コウはというと、ガヴェインの弟が経営する小さな事務所で、奮闘しながらアシスタントをしている。地下で復旧作業をしていた時以上に分からないことが多く、毎日のように失敗しているが、コウは簡単にめげたりしなかった。それはひとえに、あの空疎だったウェブでの日々や、その間のヒバリたちの励まし、そして何より、地下でのエターナル復旧作業に従事した期間のおかげだった。
 ウェブはコウたちが家に帰った次の日に復旧した。今や遅しと待っている「中の人」たちの前で、例のガウスのテープが流された。おそらく、メトロ・ブルーに住む人なら全員が目にしたことだろう。天才の独白は、現代に住む人々に警鐘を打ち鳴らした。ある者はウェブで「目を覚まそう、外に行こう」キャンペーンを展開し、ある者は労働に対する意欲を刺激された。もちろん何も変化しない者もいたが、コウはこんな風に考える。
「それぞれに人生があって。たとえそれがどんな道になっても、きっとどこかで光が射すようになっている。たぶん、チャンスは一度じゃないんだ。大事なのは、ふてくされて救いの手を払いのけないことだと思う。絶対に助けてくれる人はいるんだから」

 運命の日から半年がたったある日。
 メトロ・ブルーがほこる青い青い海洋は、どこまでも晴れ渡っていた。ニジトビウオの群れが、今日という日を祝うかのようにリズムよく跳ねていく。
 人々の歓声が聞こえた。メトロ・ブルーの次年度代表を決めるグラインドレースが開かれるところだった。
「さあBB! 急転直下のワールドグランプリ中止から半年が経ちました。エターナルが停止するという前代未聞の事態に、一時はどうなる事かと思いましたね」
「だがしかあし! 俺たちはここにこうしてふたたび集まった! 見ろ野郎ども! 今日のお天道さんはあの時よりよっぽど見事じゃねえか!」
「その通りであります! まるでこの場に集う私たちを讃えているような空! さあそれでは盛り上がってまいりましょう! 来年の代表は誰か! チャンピオンへの一歩を踏みしめ、大空へ羽ばたけ! ガウス・ブルー記念杯、メトロ・ブルーグラインドグランプリ、開幕です! 選手入場!」
 無限大の歓声が海の星を包み込む。

 その間、氷河(フィヨルド)・漂流記(ダイアリ)は数少ないリスナーに今日もメッセージを伝えている。
『今ごろグラインドレースの大会が行われている頃ね。そんな時にこのラジオを聴いているあなたとの出会いに、私エラ・マリンスノウは感謝します。それでは今日の音楽。命の喜びに笑うすべての人々へ。サザンカリブ・ボッサ』
 南国を思わせる幸福なリズムが、風のそよぐ室内に鳴り響く。
「さて、あの子たちが自由に飛ぶのを、あたしはここから見させてもらおうかね」
 ラジオのついた部屋で、ウメは一人そうつぶやいた。
 窓の外に、青く美しい惑星の風景がどこまでも続いていた。

 〈了〉
20, 19

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