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Cat Back

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空気が温い夜。白く輝く半月は既に天頂を通り過ぎ、後数時間もすれば太陽へと地を照らす役割をバトンタッチするだろう。ただただ空から地を見下す月にとっては、眼下で起きていることなどたまにある事でしかなかった。
色とりどりに塗られた海上コンテナがジェンガの様に積み上げられた港。既に港は開港時間外であり、車両の出入り口であるゲートの詰め所に居る警備員以外は誰も港には居ない。
はずであったが、港の出入り口であるゲートの鋼鉄製の門は、何者かが車両を通すために開門されていた。門ただただ侵入者が来ないかを見張る警備員が詰め所に居るはずだが、外からは一人も見えない。どこへ消えたのか。
エンジンの駆動音が静かな湾岸にかすかに響く。やがて数台の高級車が縦隊を組んで施設内へ原則せずに進入していった。そして十数分後、今度は古いバンが縦列を組んでのろのろと施設内へと進入していった。
開港時間外である以上、不法侵入なのは明らかだ。しかし車両を止めようとする警備員はそもそも詰め所にすら居ないため、進入を静止されることは有り得なかった。数分経ち、更に一台の青いスポーツカーがブレーキも掛けずに施設内へと進入していった。
複数のブロックに分けられた港内のある一角に先ほどのセダンの隊列が止まっていた。セダンに乗っていたであろう複数の人影が、車両の後ろにある海上コンテナの谷間の闇へと消えて行く。
そして先ほどの古いバンの隊列がセダンの前にばらけて停止した。側面のスライドドアが勢い良く開き、中から共通の軽装をした男たちが銃器を抱えてぞろぞろと現われる。彼らもまた、谷間へと消えて行く。そして、火薬の炸裂する音がコンテナの山の中から夜空へと響いた。
約25メートルという短い距離で銃撃戦が始まった。黒いスーツを着た男たちはコンテナの陰に隠れ、上着の内側から拳銃やサブマシンガンを抜き出す。
薄暗いコンテナの谷の中、互いの先に見える敵を狙い打つ。月の輝きは僅かしか差し込まず、25メートル先にぼんやりと人影が見えるほど暗い。
赤い閃光。漂う白煙。弾け散る火花。凹む鋼板。砕けるコンクリート。地に滲む赤い水。
距離を詰めようにも弾除けできそうな隙間が1つも無い。それ故、どちらも接近できずに膠着状態に陥った。銃声が暫し止む。
軽装の男が挟撃作戦を思い付いたのか、仲間に後ろを取る様に遠回りをしてこいと指示を出した。3人ほどがその場から別方向へと走り出す。
スーツの男たちも同じことを思いたいのか何人かがその場から離れる。そして別の場所でまたしても銃撃戦が開幕した。

青いスポーツカーが港のコンテナ置き場の広い通路をゆっくりと走っていた。車両には2人の男女が乗っていた。片方は黒髪をオールバックに固め、トレンチコートを羽織り、黒い手袋をしてハンドルを片手で握って運転している。もう片方はゴスロリのような黒いワンピースを着ている。風で靡く黄金色の長髪から姫様のような雰囲気が見え隠れする。
「なあ」
運転手がブレーキを掛けてギアをロー側へと落としたコンテナの傍に車両を寄せるとそう呟き、
「猫探しのはずなのになんでこんな事になってる」
と助手席に座っている女に呆れた様に問いを投げかける。
「たぶんとても高級な猫なんじゃないの。私はただの猫って依頼主に聞いたけど」
女はそう答えて、スカートをたくし上げ、自身の太ももに括りつけてあるサイホルスターから拳銃を引き抜き、スライドを引く。金属がぶつかる音が鳴り、弾薬が装填される。
「本当に『猫』なのか?」
「私は依頼主からは『猫』としか聞いてないもの」
「こりゃとんでもない依頼にまた関わっちまった訳か」
男はそう言いながら、コートの内側に腕を突っ込みショルダーホルスターから大型の拳銃を引き抜く。既に撃鉄は下りている。が彼はセーフティーは下ろさなかった。
「にしても、めんどくさい事になったわね」
女はそう言うと、右手に拳銃を握ったままだるそうに座席に凭れ掛かり夜空を眺める。銃声が遠くで幾重にも重なり絶え間なく響いているのが聞こえた。
「こんなに銃撃戦が続いてると死体の1つや2つどころか、両手で数えられるほどありそうね。」
「問題はこんな状況からどうやって『猫』を探して持って帰るかだ」
男はそう言いながら拳銃を握ったまま頭を左右に動かして辺りを見回す。銃声が響いているというのに警備車両が来ない。
「着た時には既に門は開けっぱなしだった。警備員も今銃撃戦をやってる奴らに殺されたか」
「さあどうかしらね。とりあえず『猫』が居る場所を探さないと」
女はそう言いながらスカートを再びたくし上げてホルスターに拳銃を戻した。男も脇の下のホルスターに得物を仕舞い、アクセルを力強く踏みハンドルを切りだす。
前輪が踏みにじる音を鳴らしながら通路方向へ向き、アイドル状態だった大排気量エンジンが運転手の意思に応じて低く重く大きい唸り声を上げた。いきなりのエンジンの駆動に後輪のタイヤが追いつかず空転して接地面からゴムの焼けるような臭いが混ざった白煙を上げる。男がアクセルを踏む力を緩めると後輪は地面をしっかり掴む。
彼は後ろから押し出される感覚を得た瞬間にクラッチを左足で踏み、ギアの段階を勢いよく上げた。高回転を維持していたエンジンの回転数が少し下がり、数秒足らずで再び上昇し、車両を通路へと弾丸の如く勢いよく放った。車体後部が勢いで左右に触れたが、すぐに安定した。
「相変わらずピーキーな車ね」
「足回りに関しては親友に任せてるから俺に言われても困る」
「乗り回すのはうまいくせにそういう所は無関心なのね」
遠くから聞こえる銃撃戦の音は未だに鳴り止まない。かれこれ30分は経ったはずだが、未だに鳴り止む様子は無い。
男はアクセルを踏み込み更に速度を上げる。エンジンは呼応して唸り声を更に大きくし、回転数を上げていく。
「そういえば、ここのどこに『猫』が居るかのアテはあるのか」
男はふと思い出したかのように女に聞く。
「せいぜいこの港のどこかにいるって事しか知らないわ」
女はサラッとそう答えて、カーオーディオのラジオのチューナーへ腕を伸ばして適当に弄ろうとする。
男は呆れたかのように溜息をついて、
「毎回毎回いつもこうだな。それはそうともうそろそろ曲がるぞ。姿勢戻せ」
と、愚痴るように呟いてブレーキを踏みハンドルを右へと切る。女は慌ててシートへと座り直して、横方向の荷重に体を持ってかれないように体制を整える。
車両後方が慣性で滑り出し、甲高い音を鳴りながら後輪のタイヤのグリップが無くなり掛ける。いわゆるドリフト状態だ。その状態になったまま男はクラッチを踏んでギアダウンし、アクセルを踏み込んで先に見えるT字路の右方向へと車体を滑り込ませた。
勢いのある荒々しい運転に思わず女は悲鳴を上げたが、男は何事も無いようにハンドルを左右へと巧みに動かして慣性を相殺、車体を安定させた。
「相変わらずむちゃくちゃな運転するわね・・・」
「これでも擦らせたり事故起こしたりはしてないんでな」
やがてコンテナ置き場を抜けて倉庫群の間を走っていた。前方に開けた土地がうっすらと見え始める。土地の先は地面が無いのか破断しているように見えている。男はタイミングを計って少し手前でブレーキを踏み、開けた所に出る手前で見事に車両を停車させた。
そこは港の岸壁だった。波の動く音と、港の岸壁に波がぶつかり砕ける音が銃撃戦の音に紛れて響いている。
女が身を乗り上げ左右をゆっくりと見回す。どちら側も岸壁と平行に倉庫が並び続けていたが、右側の果てには侵入防止の鉄条網と防風林のような物が見え、左側の果ては途中で曲がってるのか倉庫の連立が途切れている。倉庫はどれもしっかりと下までシャッターが下ろされており、この時間には誰も居ない事が伺えた。
彼女は座席に座りなおすと、男の方を見て不満足な顔をしながら彼に聞いた。
「なんで止めたの」
「猫を探すアテが無い以上考える時間が欲しい」
男はそう言ってハンドルから手を離し、シートに凭れ掛かる。彼にとって、何よりも依頼主から頼まれた回収対象である『猫』が何処に隠されているかが解らないのが、一番の問題点であった。
この港の地理は内部と外部をつなぐ通り道と外部である岸壁の形しか把握していなかった。積み上げられたコンテナの間など、そもそも通れるわけが無いし、日によってはコンテナの配置が変わるという可能性があるという理由があったからだが。
何にせよ、猫の隠されている居場所が分からない以上は少しでも考えて、何処に隠されているか考える必要性があった。しかし、港自体が大規模である上、『猫』が今日の深夜中にここから消えるという情報も知っていた以上、彼にとっては虱潰しに探す訳にはいかないのが現実であった。
(今居るのは恐らく6番倉庫区から10番倉庫区がある東側に違いない。そしてここは8番倉庫区と9版倉庫区の間だろう・・・1番倉庫は間逆の位置だったか・・・)
一方考えに耽っている男の横にいる女は再び夜空を見上げた。星がいくつか天空に輝き、小さないくつかの雲は横へ横へとゆっくりと動き、月は先ほど彼女が眺めた時よりほんの少し右へと動いている。
遠くから聞こえている銃声の合唱は相変わらず止んでおらず、2人はしっかりと聞いていた。しかし、その合唱を聞いていて彼女は違和感を覚えた。
「ねえ、さっきより銃声が小さく聞こえるのは気のせい?」
「確かにさっきより小さく聞こえる。反対側でやり合ってるのか」
彼女が彼に違和感を訴えると、彼はそう言うとハンドルを握って前方を見つめたまま問い返した。
「回収対象の『猫』、もしかすると依頼主は俺達以外にも回収を頼んでいたんじゃないだろうか」
彼はそう言ってハンドルを握った手で握るような動作を繰り返す。革製の手袋から肌と肌が擦れ合うような音が鳴る。
彼女は意を突かれたのか暫し絶句していた。が、すぐさま問いを投げ返す
「えっと、つまり依頼主が私たちを信頼しきれず別の所に頼んだって事?」
「有り得なくは無いだろう?2人組みと大人数じゃ比べ物にならないだろう?もしこっちの吹っかけた依頼料と同額で大人数で回収作戦を展開してくれるなら尚更じゃないか?」
彼は矢継ぎ早にそう言って、最後にこう締め括った。
「もしそうだとしても、そうじゃなかったとしても、かち合ってる所の近くに猫は居る可能性が高い!」
アクセルを踏んでハンドルを左へと切る。エンジンがすぐさま呼応して爆音を出す。それと同時にタイヤがしばし空転して、滑る音が止まると共に勢いよく車両が飛び出し、滑る音を鳴らしながら角を曲がり加速しだした。彼女はいきなりの出来事にうろたえてながらも座席に何とか座るが、彼はそんなこともお構いなしにすぐにギアアップをして速度を上げる。
「どの道回収する気なんだろう!?」
彼は横でやっと座って落ち着いた女を横目で一目見てエンジン音にかき消されないぐらいの大声でそう問いかける。彼女は「もちろんじゃない!」と大声で答え、
「どの道回収しないと大赤字だもの!」
彼女は両腕を組んで元気良く答える。彼女のその言葉に勝利への確信が篭っているように彼には思えた。
「運転してる分、しっかりと働いてくれよ、ニーヌ」
「そっちこそこっちが事務処理してる分補ってよね!織部!」
青いスポーツカーが岸壁に沿ったコンクリート舗装の道路を駆け抜けていく。目指すは1番倉庫区から5番倉庫区がある反対側の岸壁だ。
温い夜は、まだ終らない。


-PM.7:45- 「St.ポート」駅

目の前にはビル群が乱立するが、そこから歩けば十数分で静かな住宅街が広がりだす。ここは世界最大級の規模の都市「トーチャ・A・ネラ」にある駅、「St.ポート・I・ヴァン」。
駅前の広場に立つ時計は午後7時45分をただ静かに示していた。日は既に寝ていて、月が控えめに代役を勤め始めている時刻。
駅前の人通りはとても多く、帰宅する人々やこれからレストランやバーへ飲食しに行く人も居るのだろうか。それだけの人々が流動し、ロータリーはそれを餌の様に待ち構えるバスやタクシーで入り乱れていた。
そんな喧騒な駅の入り口の角に、1人、男が立っていた。黒髪をオールバックに固め、身長は高めではあったがその肉付きの良し悪しは外装からは計り知れなかった。もうそろそろ夜でも暑くなる頃だと言うのに、上にカーキのトレンチコートを羽織っていた。しかし、ボタン1つすら掛けずに羽織っていたためにその下に着ていた薄い青色のビジネスシャツが垣間見えた。下は厚めの生地を持つ黒のスラックスのような物を履き、入り口の角にある柱に背を凭れている。誰もがやっているような光景だからか、駅前の見回りをしている壮年の警察官ですら声を掛ける気は無く、そのまま彼の前を通って駅の方へと去っていく。
男は何の前触れも無く左腕に着けている腕時計を見ようとした。が、その直後に彼方に見える駅の改札口より先の方から金属が擦れあう音が響いてきたからか、左腕を元の位置と降ろすとたった今到着した車両から降りてきた改札口の人だかりを眺めた。多くの人が改札口に入り口では詰まっては無理矢理吐き出されるように出てくる中、黒いワンピースを着た金髪の少女が自動改札機に切符を入れ、改札を通過する。そして、駅の入り口へと出ようと前進し続ける人込みの隙間を流水のように擦り抜けて先ほどの男の方へと歩いてきた。彼女は男の横に静かに並ぶと、何も言わずに彼の顔を見つめた。
「収穫はあったのか」
男は隣にいる少女の視線に気付くと、顔を少し下げ、少女の視線と自分の視線を少し合わせてから辺りを見回した。人の波はすでに構内から流れ出て、男が腕時計を見ようとする前とさほど変わらないほどに人の数は疎らになっていた。
少女は顔を構内の天井へと何気なく向けると、「残念ながら」と呆れるように言って顔を左右に振った。
「全然よ。流石に今回は手詰まりそうね」
少女は残念そうに言い続けると下を向いて溜息を吐いた。男は柱から凭れていた身を、剥がされるテープの様にゆっくりと離すと駅前の大通りへと歩き出していく。隣に立っていた少女もそそくさと彼の後ろに付いて行った。
「そもそも、前情報が少ない」
「そんなこと言われてもねえ・・・私が聞き出せたのはあれだけだったもの」
「実は聞き間違えたりたりしてるか」
「うっ・・・しっかりメモ取ってたから間違いは無いとは思うけど・・・」
男が苦笑しながら少女にからかう様に喋ると、少女は自身が無さそうに小さい声でよわよわしく返す。2人は歩道をひたすら駅から離れる方向へと歩を進める。男はトレンチコートのポケットに右手を入れて中を探り、その中から煙草の箱を取り出すと、そこから滑り出てきた煙草を左手で摘まむと口へと銜えた。少女は男が煙草を出したのを見るやムッとした表情をしてすぐに嫌味を放った。
「隣に子供が歩いているというのに、良く吸おうと思えるわね」
「がきんちょにしか見えない大人に言われても何とも思わん」
男は左手の指で煙草を挟んで口から離すと、そう言い返して再び口に銜えた。そして煙草の箱をポケットへと投げ入れるように仕舞うと今度は銀色の金属製オイルライターを取り出した。
彼はふと横目で左側に並んで歩く少女を見た。さっきの彼の言い返しに不満があったのか、不満そうな顔をしては頬を少しだけ膨らませている。
流石に言い過ぎたか、と彼は心の中で反省しながらライターを左手に持ち替えては親指でライターの蓋を跳ね上げ、フリントホイールを親指で力強く押し回した。ホイールが回り、フリントが削られ、火花が散り、着火する。ライターが火を灯しているのを確認した彼は、開いた右手でライターの上部を囲うようにしながら火の先をそっと煙草の先に当てる。煙草の先に小さい灯りが現われ、煙が彼の後ろへとゆっくり流れ過ぎていった。
彼は火のついた煙草を銜えつつ、ライターを握っていた左手の人差し指でライターの開いた蓋を弾いて閉じ、煙草を仕舞ったポケットとは反対側のポケットに仕舞いこむ。
彼が煙草を一息吸うと、右手の人差し指と中指で煙草の口側の方を摘まんでは口から離す。そして、煙草を摘まんだ手を下ろしつつ口から白煙を吹きながら歩を進めた。歩き煙草とは何とも悪いことではあるが、取り締まられる訳でも無い以上、彼にそれを止める理由は無かった。
彼の吐いた煙に混じった煙草独特の香りが彼の鼻を衝き、後ろへと流れ広がり消えていく。
「で、これから帰るのか?」
彼は指で挟んだ煙草を地面の方へ下ろしたまま、相変わらず不満そうな顔をしている少女にどうするのかという判断を委ねた。歩行の振動で煙草の先端の燃え滓が歩道の舗装へと崩れ落ち、空中で霧散する。
彼女は腕を組んでむぅと唸り、その場で仁王立ちして歩みを止めた。彼女の動きが止まったことに彼も気付いて歩きを止め、後ろへと振り返り少女の姿をただ見据える。
何台もの車両がステージのバックライトのように彼女の背面から彼女を照らしては、真横を加速しながら通過して彼方へと走り去る。
「これ以上調べても時間を無駄にするだけだし・・・帰る以外にやることが無いからには帰るしかないわ」
彼女は悔しそうにそう答えて早足で男に駆け寄って横に並んで歩き出しはじめる。男は再び口に煙草を銜えると一息吸い、進んでいた方向に体の向きを戻し少女の斜め後ろを着いていく。その2人の後ろ姿は、彼らの背の高さの差とその服装の違いを明確に見せ付け、傍から見ればただの親子に見えたかもしれない。
「それにしても、どんなに調べても情報は掴めないのか」
「提供された情報だけじゃ足り無すぎるし、そこから推測して実際に調べに言って今日のザマだもの。織部の知り合いに情報通の1人や2人はいないの?」
「居なくも無いが、今回の依頼は裏に通じた奴に聞いても知りそうに無い依頼だろう?違うか、ニーヌ」
「そうよねえ・・・どの道地道に探すしかないのねぇ・・・」
ニーヌと呼ばれた少女は無念さから肩を落としながらとぼとぼと歩く一方、織部と呼ばれた男はその様子に気にもせず着いていきながら左腕を手前に上げて、手首に着けた腕時計で今の時刻を確認した。腕時計は技術が発展した今では使う人が少ない電動のアナログ式の物であった。時計の表示面は辺りが暗い中でも、盤面のローマ数字と時針と分針に塗られた蓄光塗料が緑色に輝くことにより、使用者に時刻を何も言わずただ示す。短針は8の本の僅か下に位置し、長針は11と12の間に位置していた。つまり、もうそろそろ午後8時になるというだ。
時間の経過に応じて、月もゆっくりとゆっくりとカメのように天球を上がりだす。
駅前から離れた小さな駐車場に彼らは辿り着いた。織部は駐車場に入ると、銜えていた煙草を足元のアスファルトへと吐き捨て、右足でそれを踏み潰しては更に磨り潰す様に足を動かして、煙草の火を確実にこの世から消し去ってみせる。彼は煙草を踏んでいた足で足元を払うとズボンのポケットに右手を入れては中を探った。軽そうなものがぶつかり合う音がポケット越しに何度も鳴る。
「とりあえずどこかで夕食を済ませるか。腹が減って仕方が無い」
織部はそう言いながら車のキーをポケットから抜き出すと、キーの手持ち部分のスイッチを押して駐車場の奥へと歩き出す。駐車場の奥の方に止められていた旧式の青いスポーツカーのウィンカーが点滅し、鍵が外れる音がドアから鳴る。織部はドアを開けると車に乗り込み、着ていたトレンチコートを脱いでは後ろのスペースへ投げ込んだ。薄い青色の長袖のシャツに黒色のスラックスという身形に変わった織部はシートベルトをしっかりと装着し、ドアを勢い良く閉める。彼はハンドルの根元付近にあった鍵穴にキーを挿して右に捻ると、左手でシフトレバーの下にある円形のスイッチを押した。すると、腹に響くような低音がボンネットから響き、エンジンが騒音を立てながら脈動を始めた。
「もちろん、奢ってくれるのよね?」
助手席側のドアの鍵が外れる音が鳴ると、ニーヌが嬉しそうに言いながら助手席側に乗り込んできた。織部は革製の手袋を素早く両手に嵌め、ニーヌがドアを閉めてシートベルトをしっかりと装着したのを確認すると、両手でハンドルを握って先ほどの彼女の問いにアクセルを踏みながら答えた。
「経費で落としてくれると有難い」
彼はサイドブレーキのレバーを左手で握り、下へと押してサイドブレーキを解除する。アクセルを踏んで駐車場の出入り口まで行き、右のウィンカーを点滅させハンドルを右へと回して目の前で団子のように詰まっている車列へと割り込む。一方で助手席に座っているニーヌは、期待を裏切られたからか舌打ちをすると、ドアのアームレストに右腕を掛けては肘をついて外側の景色を眺めてはじめた。
さすがにまだ午後8時ということもあってか、大通りは駅前から住宅街へ向かう車やバスが隊列を組んでいた。その隊列の密度はバイク一台ですら入れそうに無く、そのせいで速度を上げる余裕が出来ないために道路上に渋滞を作り上げてしまっている。
2人を乗せた車は渋滞の中を大通りに沿ってただただのろのろと走り続けていく。夕食を食べに行くとは言ったものの、何処に食べに行くのかを織部はあまり考えていなかったらしく、惰性で渋滞の中を運転しているようだった。数分経ってやっと交差点1つを超えるペースである。
ニーヌは流れはするものの、走馬灯よりも遅く、スロー映像のように視界に映る光景を眺めることに飽きたのか、ぼそりと呟いた。
「んで、何処で夕食を済ませるつもり?」
信号が赤だったので、織部は左足でブレーキを踏んで車を停止させる。織部は車が静止するとシフトレバーに載せていた左手を動かしてカーオーディオのラジオのスイッチを軽く押す。カーオーディオのモノクロ液晶のオレンジ色のバックライトが点灯して表面が明るくになると「RADIO」の文字が点滅し右から左へと流れるように移動して画面外へと消え、液晶にFMの文字と周波数が表示された。すでに周波数のチューニングは合っており、ダッシュボードの穴に埋められたスピーカーからFMラジオが流れ出す。丁度大手のファーストフードチェーンのCMが流れていた。テレビのCMと何一つ同じ内容のCM。
彼は聞き飽きていたからか選局ボタンを長押しして自動選局モードを作動させた。スピーカーから流れていたCMが作動と共に鳴らなくなった。
静寂の中、表示されていた周波数の数字が0.1ずつ矢継ぎ早に加算されていく。ラジオはFMラジオ放送に使用されている電波帯域で一通り電波を拾い切ると、最初に拾った放送局の周波数を表示してスピーカーを動かしだす。ラジオDJの柔らかなボイスのトークが流れ出す。
未だに変わりそうに赤信号が早く青信号に変わるのを待ちつつ、織部はニーヌに無愛想に尋ねた。
「お前が大好きなハンバーガーショップでいいか」
「別にそれでもいいけど、経費で落とさせないわよ」
交差点の番人である信号機が赤から青へと表示を変えた。織部はハンドルを握りなおしアクセルを踏んで車両を発進させ、
「しょうがないな」
と無愛想に答えてハンドルを勢いよく右へ回して右方向へと曲がる。
《今日リスナーへお届けする最初の曲は・・・今週のメジャーランキング5位のこの曲です!》
ラジオDJが力強くそう言うと、フェードインが掛けられたイントロが流れ出した。ジャズのような爽やかな合奏が車内に響く。
2人を乗せた青いスポーツカーは交差点を曲がり切ると、爆音を鳴らしながら速度を上げていき少し寂れた市街へと走り消えて行った。

-PM.9:41-

月は牛歩しながら天頂を目指す。星が排気ガスで汚れた夜空の中に煌く。漂う大気は、冷たい。ビルやアパートの部屋の窓から漏れる電灯の光の数はすっかりと減り、住宅街にはもうそろそろ静寂が訪れる頃だ。ニーヌと織部が合流した駅前には相変わらず人ごみがあったが、その密度は緩くなっていた。ロータリーにはタクシーが溢れ、大通りの渋滞は殆ど無くなり、トラックが制限速度以上の速さで荷物を目的地へ運びに走り去っていく。
駅前から徒歩15分程にある4階建てのビルの地下駐車場に青いスポーツカーが停められていた。織部がニーヌを乗せて乗り回していた車両だ。
ビルはどの部屋の窓も殆どがブラインドが下ろされスラットが閉じられている上、窓には契約募集の張り紙がされているあたり、部屋はどれも使われている訳ではなさそうだった。
最上階の1つの部屋のブラインドのスラットが半開きになっていた。誰かがまだ業務をこなしているのか灯りがブラインドの隙間から溢れるように漏れている。
その部屋の窓の内側には外側から見えるように「シュヴァルツゴルト事務所」と書かれた白い紙が貼られていた。が、夜分であるが故にその文字はビルの手前の歩道から見上げて見ようにも見えづらい。
ブラインドの半開きのスラットの隙間越しに窓側に背を向けて窓際に両手を付いて立つ人影が見える。その人影が着ているであろう薄い青色のシャツが垣間見えた。紛れも無くその服を着ているのは織部本人以外の何者でもない。
ブラインドの半開きが突然全開へと切り替わった。部屋の明かりが暗闇へと勢いよく流出し、窓に張られていた文字が逆光で完全に読めなくなる。
部屋の窓側の角に織部より小さい人影が見える。その人影は頭にはナイトキャップを被り、上下の服はパジャマを着ている。背丈が低いために窓からは胸より上しか見えず、まるで子供のように見えた。
その子供のような人影がブラインドの隙間から外を見て呟く。
「何度も見ても幻想的というより現実的で呆れるわね、ここから見える景色は」
「そりゃあここは駅から近いから電飾が溢れに溢れてるからな。それぐらいニーヌでも分かるだろう?しかしもっと高い所から眺めれば、100万の価値があるなんて気障なこと言うロマンチストがこの世には居るもんだ」
「その気障なロマンチストも、結局カネの価値に換算してる時点でリアリズムに縛られてるわね」
「まぁその言い方もある意味正しいな」
織部は窓際から両手で体を突き離して凭れるような体勢を止めると、目の前にあるオフィスデスクの上に置いてあったサイダーが注がれている青いガラス製のコップを掴み、その中身を飲み始めた。ニーヌはブラインドのポールを握り、それを捻ってブラインドのスラットを完全に閉じた状態へと変えて、ナイトキャップを被り直した。
「織部、あなたもそういう側の人間かしら?」
ニーヌはそう横目で言いながら隣室に繋がるドアへと歩き出す。織部はサイダーを飲みきり、空っぽになったコップをオフィスデスクの上へと置くと、壁際に置いてある縦長のロッカーの扉を力強く引き開ける。所々凹んでしまっているロッカーの扉が開き、扉と本体を連結している錆掛けた蝶番が軋むような音を出す。
「少なくとも、もしそうだったらお前とこんなその日暮らしのような生活はしない」
織部はロッカーの中にあるハンガーに掛けてあった黒いコートを取り出し、そのコートの袖部分に腕を通して体に羽織るとロッカーの扉を閉める
「・・・違うか?」
織部は間を置いてそう言うとニーヌの顔を見た。先ほどまでの朗らかな表情は無くなり、真剣な眼差しで彼を見ていた。
「確かにその通りね。私が信頼してるだけはあるわ」
ニーヌは先ほどの朗らかな表情でそう言って、隣室の扉のドアノブに手を掛ける。織部はオフィスデスクの鍵付きの引き出しの鍵を開けてその引き出しを引っ張ると、中に仕舞ってあった小型の大口径拳銃と弾倉を取り出して机の上へと置いた。鈍器が落ちたような音が机の上で鳴る。
「それじゃあ、おやすみ」
ニーヌは織部に背を向けたままそう言うと、ドアを開け隣室へと消えて行った。扉が閉まると鍵が掛かる音が静かな事務所に響く。
「おやすみ」
織部は既に隣室に消えた彼女に対してそう言うと、机の上に置いた拳銃と弾倉を腰側面にぶら下げてあるホルスターへと仕舞い、コートのボタンを留めながら事務所の出入り口へ向かった。
スラックスの尻のポケットに差したままだった長財布を引き抜いて中身を確認すると元の場所に戻し、事務所の天井に設置された蛍光灯のスイッチをオフへと切り替えた。事務所の中は途端に真っ暗になり何も見えなくなった。彼は事務所の扉を引っ張り廊下へと静かに出て行き、スラックスのポケットから扉の鍵を取り出して施錠する。誰も居ない廊下に、施錠する音が不気味に響く。
(相変わらずぼかした言い方は嫌いか・・・)
施錠した後、彼は何か考えているのか外の風景をしばし眺めていた。そして地上へと降りる階段がある方へと歩き出す。エレベーターは設置されてはいたものの、9時には動かなくなるように作動時間がビルの管理会社によって定められているせいで今は使えなくなっていた。
「さて、あいつがあの場所に今日も居るといいが」
彼はそう呟きながら、階段をゆっくりと下りていく。数分後、織部は青いスポーツカーに乗って地下駐車場から地上へと出ると、駅前の方向へと道路をアクセル全開で走り去っていった。

-PM10:41-

駅前から繋がる路地に入ったちょっと先にあるビルのような外観の二階建ての家。その家の一階正面にある扉が開かれ、掛けられているドアベルが軽快な音を鳴らして来訪者の入室を部屋の主に伝えた。扉には「BAR SEEKERs」という文字が筆記体で彫られている木製の板が掛けられている。
まだ店が開かれたばかりだからか、客はその来訪者以外誰一人いなかった。
「久しぶりだなぁ、織部」
L字型のカウンターの店員側にレストランのウェイターのような格好をして立っていた初老の男性は、酒瓶をカウンターの後ろの棚に入れながら来訪者の方を見るや久しぶりに見る顔に嬉しそうにそう言った。彼は「SEEKERs」のマスターだ。織部は軸の下側が床に固定されたカウンターの椅子に座ると左右や後ろの席を見て、バーのマスターに声を掛けた。
「相変わらず人がいないな。あと最後にここに来たのは一週間ほど前だモーゼル」
「そりゃあまだ開店したばっかだからなぁ。もう一週間立ったかぁ」
モーゼルと呼ばれた店のマスターは色々な酒瓶を棚に入れ終えると織部の方を向いてそう言って、透明なガラス製のグラスを酒瓶とは別の棚から取り出しながら重要なことを聞いた。
「今日は車か?」
「残念な事にな。サイダー辺りを頼む」
「たまには歩きで来たらどうだい。おっと代金は出してくれよ」
「事務所が近ければ徒歩で来ようとは思う」
織部は無愛想に答えながらスラックスの尻ポケットから長財布を抜いて中から小銭を、モーゼルはグラスを棚に戻すと冷蔵庫からサイダーの入った瓶を取り出し、2人はカウンターの台の上でモノを交換した。
織部はしっかりと冷やされたサイダーの瓶の金属製の蓋をゆっくりと捻る。冷やされてはいるものの気化していた炭酸ガスが、スプレーを使用したような音を立て、瓶と蓋の隙間から漏れ出す。彼は炭酸が抜ける音が止まると一気に蓋を捻り瓶の口から外す。彼は気泡が表面に上がっては消える様を見てから一口だけ飲み、瓶をテーブルの上に置くと再び周囲を見てある事に気付いた。
「今日はあんた1人だけか」
「ヴィオラなら今日は休みだよ。友人と遊びに行くとか言ってたかねえ。」
モーゼルは先ほど織部が出した代金のお釣りを領収書と共に彼の前に置いて、そう答えるとカウンターから出て店の入り口の横に置いてあるイーゼルまで歩くと、イーゼルに立て掛けてあるホワイトボードに書かれている文字を消して新たに書き始める。織部はモーゼルの方に顔を向けて馴れ合うような言い方で問いを投げた。
「今週は何がお勧めなんだ?マスター」
「95年製造の赤ワイン『ピジョンブラッド』。この前ヴィオラが興味示してたから試しに飲むかと開けてみたら前に飲んだ時より風味が良くなっててなぁ」
モーゼルはホワイトボードにメニューを書き終えると、待ってましたと言わんばかりにそう答えてカウンター内に戻り、後ろの酒瓶の置かれた棚からある瓶を取り出した。織部は顔の向きを戻し、その瓶を調べるように全体を見た。
緑色のガラス瓶の中に赤黒い液体が見え、瓶の腹の表面に張られているラベルには「PigeonBlood」と深紅の筆記体で書かれていた。
「それにしても、ヴィオラもよくそんな名前の酒に興味示すな」
織部はその名前に何か嫌な事かなにかを思い出したのか、そう呟くとサイダーをまた一口飲んで酒が置いてある棚の上の壁に掛けられている小さい鳩時計を見た。時刻は50分を過ぎている。
「彼女もまた探求者だよ、織部」
モーゼルは持っていた『ピジョンブラッド』をカウンターの台の上に置きながらそう答えて扉の方を見ると、丁度扉が開いてドアベルが鳴って来訪者が姿を見せた。
「マスターちわーす」
陽気な性格なのか、来訪者はモーゼルの方を見て右手を上げながら挨拶し、横にあったホワイトボードに書かれた「マスターお勧めの一品」を読む。
「いらっしゃい」
モーゼルはそう言うとグラスを棚から出し、お客への品出しの準備を始める。織部はサイダーを飲みつつも、興味を示していないような横目でその来訪者を睨むように見る。
来訪者は自分以外2人しか居ない店の中を一通り見渡すと、織部を見るや「げえっ」と嫌そうな声を出した。
「またお前か・・・」
来訪者はそう言って織部の隣に座る。肩掛けの鞄を持ち、チェック柄のシャツにジーパンという格好の来訪者はズボンのポケットから財布を抜き出す。
「ここに俺が来るってことはお前に用があると解っているだろう。レガス」
織部はサイダーの瓶を持ったままテーブルに肘を突くと、微笑んで来訪者の顔を見た。レガスという来訪者は溜息を吐くと、織部を睨んで恨むように言い放つ。
「お前がここに来たって事は、すなわちまた碌でも無いこと聞きに来たってことだろが」
「分かってるなら尚更だ。モーゼル、すまないがいつも通り隅の席を少しだけ借りる」
織部はレガスに睨まれたことに対して何も感じなかったのか、そう言うと瓶を持ったまま店の奥の一角の席へと移動し始めた。
「あー・・・マスター、今日のお勧めの奴を1本頼むわ・・・」
レガスは彼のあまりにも無関心な言動に何も言えず、暫し絶句してモーゼルに『ピジョンブラッド』を求めた。織部は既に隅の席に座り、コートのボタンを外している。レガスはジーパンのポケットから折りたたみの財布を抜き、紙幣を何枚か抜き出してテーブルの上に置く。
「相変わらず彼には勝てそうに無いねえ。あと織部は今日は飲めないぞ?」
モーゼルはそう言いながら『ピジョンブラッド』の酒瓶のコルクの栓を抜くと、それとグラスをゆっくりとレガスの前に置く。代わりにテーブルの上に置かれた紙幣を手に取ってその枚数を丁寧に数えはじめた。
レガスはモーゼルにそう言われて悔しそうな顔をしていたが、喧嘩に負けたからというよりも、未だに織部に対して押しを決められない自分に対して悔しがっているようだった。
「あいつには色々と恩があるし、何だかんだで頼りにしてる。だからこそ、迂闊に押す訳にも行かないんだ」
「織部は君になら多少反抗されても怒らないんじゃないかなぁ。と、ちょっと待ってくれ、渡す物がある」
レガスはそう言うと酒瓶とグラスを両手に持とうとするが、モーゼルが待ったを掛けて冷蔵庫を開け何かを取り出す。レガスは待ったを掛けられたことに疑問を思ったが、その答えはすぐに理解できた。
「マスターからプレゼントだ。織部に飲ませてみてくれないか?」
「あんたから奢りとは珍しいな。ありがたく貰って置くぜ」
モーゼルがお釣りと共に1つの瓶をテーブルの上に置いた。先ほどモーゼルが織部に渡した瓶とは形状は同じだが、中身が違うようだった。黄色のような液体が透明な瓶の中で揺れている。
レガスはお礼を言うと、片手の指の間に苦労しながらもなんとか2つの瓶を挟み、もう片方の手にグラスを掴んで店の奥の方へと移動していった。
一方、織部はコートのボタンを外しきっていた。コートをゆっくりと脱ぐとコートのポケットに入れてあった手帳を取り出して、コートを椅子の背凭れに無造作に掛ける。
レガスは織部の居る席に辿り着くとテーブルの上に『ピジョンブラッド』とモーゼルが出した瓶とグラスを無造作に置き、空いている椅子をテーブルの内側から引き出して座った。
織部は手帳をテーブルの上に置いて開こうとして、モーゼルがレガスに奢った瓶に気付いた。
「酒じゃない方の瓶は何が入ってる」
「マスターがお前に飲んで欲しいと言って奢ってくれたぜ」
レガスはグラスに栓を抜かれた『ピジョンブラッド』をグラスの8分辺りまで勢い良く注ぎながら織部の疑問に答えた。透き通ってはいるが深紅のような赤さを持つ液体が、勢い良く注がれた所為かグラスの中で陽炎のように波だっている。
織部は手帳の上にボールペンを置いてサイダーを飲みきりテーブルの上に置くと、レガスの前にある瓶を素早く手前へと持ち寄せた。テーブルの表面に、瓶の表面に結露し流れ落ちた水滴が引き伸ばされ、透明な線を描く。
彼は寄せきると金属製の蓋をゆっくりと捻った。サイダーの瓶を開けた時のようにガスの漏れる音がしたが、そのガスの匂いに彼は眉をひそめる。
「この匂い、ジンジャーエールか」
「ああお前ジンジャーエールは苦手だったか」
「苦手ではないが、この匂いが好みじゃない」
織部がその匂いに苦悶の表情をしているのを見て、レガスは笑いながらからかい、そして辺りを見回した。
「お前がこんな時間に来るって事は何か聞きたいことがあるってことだよな」
「そういうことだ。ただ聞きたい事というのが、レガスすら聞いたことが無いことかもしれないと言っておく」
レガスは真剣そうに織部に言うと肩掛け鞄を開けて中からボールペンと大型の手帳を取り出すと、右手にボールペンを握り、左手で手帳を持ってはページを捲り始める。織部は蓋をジンジャーエールの瓶の口から外してそう答えると、釘を挿すような言い方でレガスに二言目を言うとジンジャーエールを飲む。4分の1ほど飲んだところで彼は顔をしかめて瓶をテーブルの上に置いた。モーゼルは彼のその顔をカウンターから見て含み笑いを隠し切れずにいた。
「モーゼルめ・・・何時ものジンジャーより匂いが強いと思ったら、辛目のものを出してくるとは、謀られた」
「謀られたってなあ・・・ちゃんとラベルには辛口と書いてあるじゃねーか」
舌が焼け、喉が沁みるような感覚を覚えながらもモーゼルの方を睨むように見ては、瓶のラベルを確認しレガスの言ったことが本当だったことに織部は気付いた。騙された悔しさの余りか自棄になったかのように更に飲む。
レガスは手帳の白紙のページまでページを捲り終えると、ボールペンのノック部を親指で押して、織部に対して真剣な眼差しを向けた。
織部は飲み終えるとレガスの真剣な目線に気付き、瓶をテーブルの上に置いてボールペンをメモ帳の上から退かしながら静かに聞いた。
「レティ、もしくはレティ・シンシアというワードをだ、ここ最近どこかで見た、聞いたことは無いか」
「そりゃここらへんの住人が使うような名前じゃねーな。ちょっと待ってろ」
レガスは手帳のページを白紙から手前のページへと捲り戻しつつ、記憶を漁っていく。織部はテーブルの上にメモ帳の新しいページを開くと左手にボールペンを握り、クリップ部分を押し下げるとメモ帳の上の枠の部分に日付を書き込む。店の扉が開き、ドアベルの奏でる音が静かな部屋に響くと、団体が入店してくる。モーゼルは団体のリーダーらしい人物と応対するとカウンター近くの席へと案内し注文を受ける。
レガスがページを捲り戻すのを止めて、ボールペンの先を上下に降りながら唸り始めた。
「・・・レティって言ったよな?」
彼は織部に小さい声で聞き直すと、ボールペンを置いて赤ワインの注がれたグラスを持っては中身を3分の1ほど飲んだ。
「その通りだ。面倒な奴らが口にしてたか」
織部は先ほど来た団体を一瞬だけ見てレガスの方を見直した。レガスは持っている手帳の今開いてるページを熱心に読んでいる。どれだけ細かく書かれているのだろうか、友人である織部ですら彼の手帳の中は見た事が無い。
「ああ、面倒な奴らが口にしてた。確か大地に囲まれた海の岸辺の国の連中だ」
「昔に警察と軍に解散まで追い込まれて大分静かになっていたと思ってたが、相変わらずあくどい事を考えてる訳か」
レガスはワインをまた飲んで、手帳に書かれたことから更に記憶を掘っていく。織部はジンジャーエールを一口飲んではメモ帳に彼の言ったことを書き留め始めた。先ほどの団体が酒を飲んで会話を弾ませていた。またしても扉が開きドアベルが鳴る。今度の来訪者は女性同士の2人組だった。モーゼルは来訪者がカウンターの前に座ったのを見るや2人組みの片割れを見て驚ていたが、織部とレガスは気にも掛けない。
レガスは記憶を頼りに小さめの声で話を続ける。
「手帳にメモした日付を見る限り、昨日そいつらが話しているのを聞いた。たしか駅から離れた中規模のダンスホールだ。店の名前は『ゴールドフィーバー』」
「聞いた日は昨日でダンスホール『ゴールドラッシュ』か。本当にレガスの情報網には感謝する。それで、どんな会話をしてたか覚えてるか」
「それほとでもないさ。むしろ少ない情報でも確りと報酬出してくれる織部は大事な客だ。会話は確か・・・」
織部は素早くメモ帳に書き留めつつ感謝の意を示し、カウンターに座ってモーゼルが会話しているであろう2人組を見る。そして片割れの髪色に気付き焦りだす。彼には片割れに見覚えかあった。彼にとっては、今話している事を知り合いにはあまり聞かれたくないという考えもあったのだろう。
「急かしてすまないが、それ以上思い出せそうにないか」
「俺の記憶力を舐めるなよ~?これでも昔はお上の手先として色々な所に遣わされてたんだからなあ」
レガスはそう調子付いて言うと、手帳のページを捲って次のページを開いて上から素早く読んでいく。織部は先ほど書き留めたメモに自推を追記していく。
先ほどの団体客の会話は更に大きく、調子が上がっていた。すっかりと酒に酔っている様であったが、モーゼルはまだ止めるほどではないと判断したのか、先ほどの2人組と会話を続けている。
先ほど織部が見て焦りだす原因となった客がふと店内を見渡して、奥の方にいた織部とレガスを指差して声を掛けようとしたがモーゼルに止めさせられた。
「あの2人が一角で対談してる時は重要なこと話してるから関わっちゃだめだと言っているだろー」
モーゼルは何を知っているのか理解しているからか、彼女に戒めるように言って関わろうとするのを止めさせる。
「どうせなら声を掛けておいた方がいいじゃないですか、マスター」
「どの道止めておきなさい。どっちも仕事の話なんだろうから」
彼女はモーゼルにそう言われて、むぅと唸り沈黙する。隣に座っている彼女の知人の女性がモーゼルに質問した。
「あのー、あの御二方は常連さんなんですか?」
モーゼルはそう聞かれるとどう答えれば良いものかと頭を傾けては悩みながらも答える。
「なんと言えばいいかなぁ。チェック柄のシャツ着てるのは来る度に店閉まるまで居る飲兵衛かねえ、黒いコートを椅子に掛けてるのは店が開いた直後か、閉まる直前に来るんだよねえ。まあ定期的に来るあたり常連ではあるかな。あと言える事は・・・黒いコートの方は万屋というぐらいか」
「万屋なんて余り聞きませんよねー」
「まぁそれもそうだなあ」
知人の女性がそう微笑みながら言うと、モーゼルは笑いながらそう答えると織部とレガスの方を見る。レガスが喋る一方で織部はジンジャーエールを飲みきり、話す内容を素早くメモ帳へと書き止めているようだった。
先ほどモーゼルに彼らに声を掛けようとして止めさせられた女性がふと疑問を言った。
「いつも来る黒いコートの方の人、本当に万屋なんでしょうか」
「どうだろうなぁ。彼からは余り仕事の悩みは聞かないからねえ。それで注文はどうします?」
モーゼルは本当に知らなかったのかすぐにそう答えると2人から注文を取ろうとする。
「私がこの前気になって開けてもらったワイン。今日のお勧めなんですね。」
「まあ実際飲んでうまかったからねえ。それでそれにするのかい?」
モーゼルはそう言いながら、2本目の『ピジョンブラッド』を真後ろの酒瓶が並んだ棚から取り出そうとする。
「ヴィオラが気に掛けたなんて気になるじゃない。割り勘でいいから飲んでみたいわ」
「それじゃあそれでお願いしますねマスター」
知人の女性がそうワクワクしながら言うと、ヴィオラと呼ばれた女性はそうモーゼルに伝えて、織部とレガスの方を再び見る。知人の女性は彼女が彼等のどちらかを気にしていると思ってからかう。
「もしかしてあの2人のどっちかが好きなの?」
「そ、そんな気は無いわ」
ヴィオラは慌てて好意は一切無いと弁明したが、知人の女性はその反応ににやにやしながらあの2人を見て、惚れるのも無理は無いと思った。
「どっちもそこいらでデートに誘ってくる軟派な男よりガタイいいものねー。その上かっこいい。付き合ったらしっかりと守ってくれそうなタイプ」
「まあ黒いコートの方は軍隊入ってたみたいだからねえ。あまり過去の事は語ってくれないけどなぁ」
モーゼルは二人の前にグラスをそっと置きながらそう言うと、グラスにワインを注ぎ始める。レガスのように勢いよく注がず、優しく丁寧に注いでいく。
「さて、これが今日のお勧めの一品です。どんな赤ワインよりも血のように赤いが濁りがない名品でございます」
注ぎ終えると畏まったようにモーゼルは言って『ピジョンブラッド』の瓶をテーブルの上に静かに置く。
「すごい・・・本当に血みたい・・・」
「このお酒の名前の由来でもあるわ。血の様に濃い赤色。でもマスターの言ったように濁りはなくてとても綺麗に見えるの」
知人がその赤さに魅入られている横で、ヴィオラはグラスを持っては零れないように天井のセピアカラーの蛍光電球の光にワインを透かす。その赤さの輝きが増してまるでルビーが溶けているように見えなくも無かった。
「宝石の様に綺麗な赤に見えるからか、それとも血のように赤く見えるからか、どっちを想像して名前が付けられたんだろうねえ」
モーゼルは過去に思いを馳せるように言いながら団体客の方を見た。まだ酔いつぶれている人たちはいないようで、酒に飲まれている様子が無く一安心していた。そして織部とレガスの方を見ると織部がコートを着ながらレガスに対し何かを言っていた。どうやら織部は帰るらしい。モーゼルはカウンターを出て2人のほうへと歩く。
「それじゃあ明後日にまたここに来る。無茶はするな」
「おう。しっかりと報酬は頼むぜ」
織部はそう言いながらコートのボタンを素早く留めていく。レガスは手帳のページを真っ白なページに変えてメモを書きながらそう答え、一旦手を止めてグラスに注がれていた最後の一口を飲め干した。織部はモーゼルが変えることに気付いたからかこちらへと近づいてきたことに気付き、空になってテーブルの上に立っている瓶の口先を片手で掴んだ。モーゼルが笑顔で織部とレガスのいる席に近づいてくる。
「マスターの奢りで出されたジンジャーエールにはどんな感想が持てた?」
「店に出すなら気付け用とでも書いて置けばいいだろう」
モーゼルは織部からサイダーとジンジャーエールの瓶を受け取ると問いを投げる。織部は嫌味まじりに答えて、店の扉へと歩き出す。
「それでは、マスター。また今度」
織部はそう言うとゆっくりと扉を引いて静かに店から立ち去った。ドアベルが扉が閉まる衝撃で激しくなる。レガスがメモを続けるなか、モーゼルは瓶を持ったまま横で寂しそうに呟いた。
「今度は歩きで来てくれると嬉しいなぁ」
「あいつは当分車になるよ、マスター。」
レガスはメモを書く手を止めてその呟きに言葉を続けると再びメモを書き出した。モーゼルはあえて書いている内容を見ようとはせず会話を続ける。
「また、めんどくさい仕事かな。」
「そうじゃなけりゃ俺に色々聞きに来るわけが無いさ」
「仕事が終ったらニーヌちゃんも連れてきてくれるとうれしいなあ。彼女がいると遠慮無く飲めるからねえ」
レガスはメモを書き終えたのか、ボールペンのノック部分を押して先ほどまでメモを書いていたページに挟んで手帳を閉じると、鞄へと投げ込む。そして『ピジョンブラッド』の瓶の中身を、空っぽのグラスへと再び注ぎながら、モーゼルに小さい声で聞いた
「いったいいつまで、相棒と探偵もどきなんてやるつもりなんだろうな」
「彼が彼女とそういうことをやってることには、僕たちが知りも出来ない理由があるに違いないさ」
モーゼルはすぐにそう答えるとカウンターへと瓶を持って戻っていった。レガスは『ピジョンブラッド』を一口飲み、目の前を何も考えずに見続け、静かに呟く。
「誰も知らない理由ねぇ」
そんなことを呟いて、暫し考え込んだ末に今日は久々に何も考えずに飲んでから調べようと決心したレガスだった。

-AM0:14-

「シュヴァルツゴルト事務所」の隣のテナントの部屋に織部は居た。そこは事務所の1つ隣の部屋で、シャツを留めていたボタンを外しただらしない服装でソファーに天井を見ながら転がっていた。木製の机の上にはキーケース、長財布、ベルトに拳銃が入ったままのホルスター、そして一番下には机の上に敷かれるように、先ほど来ていた黒いコートが無造作に置かれていた。
(明日はどうするか・・・)
彼はソファーに寝転がったままそんなことを考えていた。とりあえず依頼に関係ありそうな手がかりはいくつか得ることは出来た。問題はそこからどうやって糸口を広げていくか。相変わらず答えが掴めそうに無い依頼に対して、彼は僅かばかりの苛立ちを隠せなかった。真実を掴みたくても掴めない現実は、情報量が少なすぎる事を意味している。
(明日は裏づけでも取るとしよう)
彼は色々と考えて、考えた挙句、そう決めると体をソファーの背凭れ側に向け、眠りへと向かった。

2, 1

  



-AM9:44- 事務所「シュヴァルツゴルト」

事務所「シュヴァルツゴルト」の朝は取り分け早いわけでもなかった。大抵の企業なら業務開始の時刻は既に過ぎている頃だ。しかし、事務所の扉にぶら下げられた札は虚しくも「Closed」と表記された方が表に向けられており、昇り始めている太陽の光に曝されているブラインドは閉じたままだった。
事務所内には誰も居らず、ただ、外の騒音だけが聞こえている。ブラインドは閉じられていたままで、部屋の中は外の明るさに反抗しているかのように暗い。
そんな暗闇の中で壁に掛けられていた振り子時計の分針が音を立てずに自身の位置を1分進めた。分針の動きに合わせるかのように、虚無感が支配している空間に事務所の側面にあるドアの鍵から開錠される音が響いた。錠に内蔵されている機構が噛み合う音を立てると、ドアがゆっくりと開いて部屋からパジャマ姿のニーヌが寝惚け眼を手で擦りながら現れる。寝る前に被っていたナイトキャップは寝ている最中に外れたのか、綺麗な金髪が肩甲骨の下ほどまでだらしなく垂れ下がっている。髪の毛の先っぽは寝癖が付いてあらぬ方向へと曲がったり反り返ったりしていた。
「織部いるー?」
ニーヌは寝惚けた声でそう言いながらふらふらと事務所の窓側へと歩き出す。起きたばかりだったのか寝癖を直すと言う気はまったく無いようで、大体12時間近くは寝たにも関わらず、それともそれだけの時間寝たからか、あまり眠気が抜けていない様子だった。
「いないのー?」
相変わらず寝惚けながらも、ゆっくりと歩き続けて窓の手前まで辿り着くと窓の前に置かれているオフィスデスクの上にあるリモコン入れからエアコンのリモコンを取り出す。それを上へ向けると共に赤いボタンを軽く押した。もはや習慣なのか、その動きに粗は見えない。
ピッという電子音がリモコンから鳴ると、窓際の天井に設置されたエアコンからモーターの駆動する音が何回かに分けて聞こえるくると、轟音と共に冷風を吐き出し始める。ニーヌはリモコンをデスクの上へと置くと、ブラインドの端へとふらふらと歩み寄る。ブラインドの巻き取り機からぶら下ったポールを握るとそれを力強く捻り回した。シャッターを切るような音がするとスラットが勢い良く開かれ、太陽光が激流のように事務所全体へと流れ込む。瞬く間に部屋の暗闇は払拭され、入り口までが明るくなっていた。
ニーヌの眠気はそれでも吹き飛ばなかったようで、ポールから手を離すとデスクの方へととぼとぼと動き、デスクの上に空っぽのガラス製の青いグラスで抑えて置かれている紙切れに気付いた。紙面には文が何行か書かれているようで、彼女はグラスを押して紙の上から退かしてその紙切れの上の端を摘まむと、顔を近づけて寝惚け眼で文面を小さな声で読み上げた。
「んー・・・昨日レガスに聞いていくつか疑問が出来たので少しばかり出かける。1時前には戻るから事務所に居てくれ。織部・・・」
ニーヌは紙切れに書かれていた文を口に出して読み終えると人形のように暫し固まった。その紙切れは織部が置いていったものらしく、紙切れの一番上には日付が、1番下には「出勤時刻:8時45分」と、彼が出勤した時刻が小さめに書かれていた。ニーヌの紙切れを持っていた手の力が抜けたのか、紙切れがデスクの上へとゆっくりと落ちていく。
「ぷぅ」
先ほどまでの可愛らしい寝惚けた顔が一転し、眠気が吹き飛んだのか不満そうに両頬を膨らませる。
「私も調査に出かけたかったのにぃ」
ニーヌはそう言ってから溜息を吐くと、パジャマから私服に着替えるつもりなのか自室へと戻った。ニーヌの部屋のドアが軋みながら閉まり、施錠する音が鳴ると、誰も居なくなった事務所内にはエアコンの稼動する雑音が虚しくも鳴り続ける。
窓越しに見える空は先ほどまで晴天だったのがいつの間にか雲が流れはじめ、地上にはその影が降り始めていた。

-AM10:09- St.ポート・I・ヴァン市内

「織部だ」
彼は夏だというのに黒のスラックスに茶色のコートをボタンを留めずに羽織り、角ばった折り畳み式の携帯電話を左手に握り、通話しながら歩道を歩いていた。ボタンの留められていないコートの正面から、ワイシャツが垣間見える。
繁華街故か、騒音の中で彼の話すことに気に掛ける人はいない。そもそも彼が小さめの声で話しているからということも起因しているかもしれない。
「今月最後に提出された捜索願いはどのくらい前か教えてもらえるか」
目の前の横断歩道の信号は赤を示していた。彼は歩道と道路の境目の手前で立ち止まると、前方に見える車の往来を傍観しつつも通話相手の言葉を聞き取る。気付けば彼の周囲に同じように横断待ちの歩行者が並びだす。
「4日前か」
彼は空を見上げながらそう言うと、その天候をじっと睨んだ。先ほどに比べ、目に分かるほど雲が増えている。
「その4日前の捜索願、対象はレで始まるか」
織部はそう言うと視線を目の前へと戻した。目の前を横切る道路の信号が黄色へと変わり、やがて赤になると目の前の歩行者用信号が青へと変わった。彼の周りに並んでいた人々は我先にと早歩きで道路を横断していく。しかし彼はその流れには乗らず遅めの歩調で道路を横断していく。まるで彼の歩いている所だけ周りを早足で歩いていく人々とは空気が違うように見えた。
「そうか。・・・いや、いつも通り仕事の用だ。それではまた今度」
横断歩道を渡り終え、彼はその先へと進みながら電話相手にそう伝えると、携帯電話の通話終了ボタンを押して通話を切った。そしてそれを折りたたむとコートのポケットへと投げ込むように仕舞い、先へと歩き続ける。しかし、彼が何処へ向かっているか、ということは誰1人知らなかった。
やがてとあるデパート前の広場のようなエントランスに彼は辿り着くと、そのエントランスの天井を支える柱の1つへと歩み寄る。柱の根元の近くには煙草の吸殻入れが置かれていた。携帯電話を入れたポケットとは別のポケットから煙草の箱を出そうとしたが、相変わらず減ることが無く歩道から別の歩道へとエントランスを利用してショートカットしていく歩行者の数に、彼は吸う事を留まった。
(今月中で最後に提出された捜索願は4日前・・・か)
元々はベージュのペンキが塗ってあったであろうエントランスのコンクリート製の天井はすっかりと色が剥げ落ちていた。織部はその天井を支える何の模様も彫られていない柱に背を凭れながら静かに眺める。限られた情報から導き出される彼の推察はまだ完成しそうには無い。断片でしかない手持ちの情報を冷静に分析し、合理していく。時間が経つにつれ、中々答えが見出せないことに苛つき出したのか、右足が勝手にリズムを刻み出していた。
(とりあえず…今回の一件は警察に任せたくない何らかの理由が依頼主にあるということか…)
彼は柱から突っ撥ねられた様に柱から離れ再び散策しようとしたが、上方に見えた空の色の暗さが彼の次の行動に待ったを掛けた。
空の半分以上が灰色の雲に塗りつぶされていた。先ほどまでの青空はどこへ消えたのか。彼が視界を前方に戻すとそれに合わせるかのように雨が勢いよく降り出した。
再び彼は足でリズムを取り出す。
(雨雲が通り過ぎるまでどこかで暇を潰すか)
彼はそう思いながらデパートの中へと入っていく。通り抜けることぐらいにしか使われないデパートのエントランスの人の数はいつの間にか雨を避ける人々で増えていた。
気付けば灰色の雲はすっかりと空をその身の色に塗りつぶして大雨を降らせ、屋内を照らす電灯の方が明るく見えるほど地は暗くなっていた。

-AM10:15- 事務所「シュヴァルツゴルト」

事務所の窓に大きめの雨粒が何個も何個もぶつかっていた。ニーヌが起床してから30分ほどで空は雲一色に染まり、その雲は楽しそうに雨を降らしている。
「蒸し暑い・・・」
すっかり眠気が抜け私服へと着替え終えていたニーヌだが、デスクチェアの上に胡坐を組んでそう独り言を呟いてエアコンのリモコンを掴んではエアコンの運転を冷房から除湿へと切り替える。事務所の中は先ほどまでは明るかったが、雨雲が出てからと言うもののブラインドを閉じている時の暗さと殆ど変わらなくなっていた。ニーヌは仕方無さそうにチェアから跳ねるように離れると出入り口まで歩いて、壁にある天井に設置された蛍光灯のスイッチを入れる。数度の明滅が起きると、蛍光灯の人工的な白い光が事務所内を照らした。
彼女は壁のスイッチに手を合わせたまま、白く輝く蛍光灯をじっと見ては窓の外へと視線を移す。相変わらず止みそうに無い雨は更に勢いを増したのか、事務所の窓に機関銃で乱射したかのようにぶつかった跡を付けていた。出かける事もままならなさそうな大雨を前に、あまりのやるせなさに溜息を吐く。
仕方なさそうに事務所中央に対に置かれたソファーの片方の上に仰向けになるように転がると、右腕を伸ばして間に置かれている木製のテーブルの上に転がっていたテレビのリモコンを取り、壁に掛けられた薄型の液晶テレビにその先を向けて電源を入れた。本の僅かな間をおいて液晶テレビの表面が輝くと映像が映し出される。
ニーヌは仰向けの姿勢から胡坐を組む姿勢に体を動かすと画面に流れる映像を見る。すでに朝のワイドショー番組は既に終わっていて、主婦向けのバラエティー番組がいつも通り生放送されていた。
「いつも似たようなことばっかり言ってて飽きないのかしら」
ニーヌはそう愚痴るとリモコンの番組切り替えボタンを連打する。連打に応えるようにフラッシュ暗算のように画面の映像が変わっていく。ドラマ、映画、講座、議会中継、そしてニュースの番組が映った瞬間、ニーヌはリモコンのボタンを連打するのを止めて音量調整ボタンを押し続けた。液晶テレビの画面の下側に左端に数字が表示されている細長いバーが現われる。音量調整ボタンの押しっぱなしで数字が大きくなると共にバーの白い部分が増え、右半分を埋めていた透明の部分が白く塗りつぶされていく。バーの白い部分が全体の3分の2ほどまでに増えたところでニーヌは音量調整ボタンから指を離すとニュースを見聞きしはじめた。大きめの文字で書かれたニュースのテロップが入り、男性のアナウンサーが一番上の原稿を一瞬だけ見てニュースを丁寧に読み上げ始める。
《今月初めにポート・I・ヴァン市郊外で起きた、死者9名、負傷者15名を出した玉突き事故について、ポート・I・ヴァン市警察交通事故調査委員会は、「最後尾のトラックがブレーキの整備不良により減速できず、結果、高速度のまま後方から激突し大事故へと至った」とする報告を発表しました。
事故調査委員会によりますと・・・》
アナウンサーの言葉が一度途切れると共に映像が切り替わり、事故現場の処理後らしい映像が流れ始め、そのバックでアナウンサーが原稿を読み上げ続ける。映像に見えたアスファルトにはタイヤのスリップした痕や、衝突の衝撃で車両がアスファルトを抉ったのか、剥がれているところまでもが明確に映っていた。更に場面が変わり、今度は事故直後という生々しい映像が流れ出す。
「もし織部のあのじゃじゃ馬がいきなりブレーキ壊れたらこんな感じに・・・」
一連の映像のバックに流れるアナウンサーの冷静ではっきりとした声に、ニーヌは思わずつばを飲む。
その時だった。オフィスデスクの上にある固定電話からベルのような電子音が部屋に鳴り響いた。ベルの音に驚いたのか、ニーヌは身を一瞬震えさせるとリモコンの音量ミュートキーを素早く押し、ソファーから猫のように素早くデスクへと駆けて慌てながら電話の受話機を取り上げて耳に当てる。固定電話機のディスプレイに表示される電話番号は知りもしないところからだったが、事務所に掛けられてくる電話は大抵そういうことが当たり前だったのか、ニーヌは何の疑いもしなかった。
「お電話ありがとうございまぁす。シュヴァルツゴルト事務所です」
「高めの声で会話するのはあまりよくねえぜ?」
「誰かと思ったら、ノマード、また携帯変えたの?」
「まあそういうところだ。織部は出かけてちまってるか?」
「私にあなたと会ったなんていうメモ残してね」
電話を掛けてきたのは昨日織部が「SEEKERS」で調べごとを頼んでいたレガスだった。レガスの難癖にニーヌは声のトーンを落としていつもの声で呆れるように応えると、レガスはすぐさま本題を切り出す。
「あいつの携帯電話にはなぜか繋がらないし、しょうがないな。今から言うことを伝えてくれ」
「何?そんなに重要なことなの?」
レガスの声から受話機越しでありながら真剣さを感じ取ったニーヌは思わず聞き返す。彼が言ってくれることに、織部の残したメモの内容から大体の予見はしていたが、彼女は彼の話す声に真剣さを感じた所に何か危ないものでもあるのかと邪推した。
「ああ、とても重要さ。報酬の量増やして欲しいぐらいだぜ」
レガスはそう言って一呼吸して間を置いた。ニーヌはすぐさまデスクの上にあるA6サイズのメモパッドから一枚用紙を引き抜いては、ペン入れから黒色のボールペンを手に取ってはヘッドをノックし、受話機を肩と頭の間に挟む。
「織部の悩み事の解決に情報2つ。1つ目は何らかの理由で盗難された。」
ニーヌは聞こえた事に思わずメモを書く手を止め、驚いたような口調で聞き返した。
「ちょ、ちょっとどういうことよそれ」
レガスがメモ帳のページを変えたのか、紙を捲る音がニーヌには幽かに聞こえた。彼女はその音で思わず昂った精神を冷静へと押さえ込んだが、脈拍の上昇だけはなぜか抑えきれない。
「そりゃ物をわざわざ取り戻して欲しいなんて巷の一角の探偵稼業に頼むか?普通なら警察に盗難届けを出すぜ?」
「うちは探偵業というより万屋よ」
遠回りするような言い方にニーヌは苛々を隠しきれなかったのか、握っていたボールペンのプラスチックの軸に亀裂が出来ると共にひびが入る音がしたかと思えば、彼女の手に握られていたボールペンの軸が見事に砕けていた。彼女がその手を開けるとボールペンの無残な亡骸と軸の破片がデスクの上に散らばり、音を立てる。レガスはその音がしっかりと受話機越しに聞こえたのか慌てて話を続けた。
「いやいやいや、飼っていてそれも愛でてるものに名前を付けるのはこっちだって理解できる。だけどよ、取引材料にするなら人を取るだろ?」
ニーヌは先ほどのボールペンの残骸をデスクの端に寄せると、ペン入れからキャップ式の物を引き抜いてはキャップを外して滑るようにメモを用紙に書き込みつつ、疑問を投げかける。
「レガス、確かにあなたの言い方は一理あるわ。でもね、今回の被害者は・・・」
「極普通の中流家庭。誘拐してカネせびった所で、せいぜい数百万が吐き出せる限界だろ。」
「相変わらずそういう所はしっかりと押さえている辺り、行動力は落ちてないのね」
「お褒めの言葉はありがたく受け取っておくぜ。で、だ。確かにシンシア家について調べてみたら、家主のトーマスは市の公共事業部部長と来たもんだ」
「そこまではこっちでも知ってるわ。で、それの何処に関連性があるの」
ニーヌには未だにレガスが何を言いたいのかが分からなかった。相変わらずの遠回しに苛々する感覚を覚えたが、先ほど壊した無残に散らばったボールペンの残骸を視界の端に見て行動に自制を掛ける。
「織部に何処までメモで伝えられたかは知らないが、市の新規事業にめんどいのが絡んでる事を突き止めてな。どうにも土地の売買で揉めてるらしい」
「つ、ま、り、」
ニーヌはボールペンの先で自身の口の動きに合わせながらメモ用紙を叩く。どうやら頭の中にあった靄が消えて透き通る先に答えが見えてきたようだった。
「そのめんどいのは高値で土地を買わせたいわけね。でもやり方が筋違いにも程があるわよ?」
「ご名答。ただそいつらにとっては、兎に角高く買わせたいわけだ」
「その事業はどんなものなのかしら?」
「話が脱線していくが・・・市の郊外に大型の運動公園を造成するんだと。去年の終わりにはすでに市議会で承認済み、デザインも先月に決まって、残るは土地取得だけだ。事業についての着工はだいたい半年後が予定らしい。しかし今時運動公園なんて需要があるとは思えんが・・・って聞いてるか?」
レガスが暢気に言った「話題から脱線した情報」を聞いて、メモを取り続けていたニーヌの動きが発条が切れた玩具のように止まった。彼女は今まで書いたメモを一つ一つ、紙に触れないようにボールペンの先でゆっくりとなぞっていく。いつもの強気の目付きが知らぬ間に真剣な目付きへと変貌している。
「聞いてるわよ。何となく何かが見えてきたのよ。」
「たった2つだけしか伝えて無いのにか?」
「些細な事実も良く考えれば答えの一片よ。まあチェックマーク付けるのは織部にやらせるわ」
ニーヌはメモという点を落書きするように線で繋ぎ、その線の下に推測と補足を書き込んでいく。若干悪意の篭ったような微笑みをしながら紙を見つめ、空白部分に推察を丁寧に書き出す。レガスが一仕事を終えたかのように溜息を吐くのが聞こえる。
「それじゃ俺はもうお払い箱か?」
「それは織部に聞いて頂戴。少なくとも調べたくれって言ったのは私じゃないんだから」
「はいはい分かったよ。それで2つ目だが・・・」
レガスは一呼吸する間を置く。ニーヌの頭の上に、何故間を置いたのか分からないからかクエスチョンマークがぽっかりと浮かぶ。が、間を置くとはよほど重要なことと彼女が悟った直後に彼は第2の情報を喋った。
「シンシア家を良く調べなおしてくれ。それじゃあな」
「また意味不明な事を言うわね。調べなおしてって何がわかるの?って切れてる・・・」
レガスはそう言って締めに別れの言葉を言うと直ぐに通話を切った。ニーヌは閃くように心の中に浮かんだ疑問を問い掛けようとした時には既に受話機からは単調な電子音しか聞こえなくなっていた。怒りを通り越して呆れたのか、彼女は溜息を吐いては受話器を電話機へと戻すと、デスクの天板に片手を付いてデスクの手前から体を捻って奥へと軽々と乗り越える。半袖のシャツに短パンだったからか机の上の物は彼女の体に触れて倒れる事は無かった。
「えーと、依頼主の資料はこの引き出しだったかしら・・・」
ニーヌはそう言いながら膝を曲げて屈むと、表板が1番大きい一番下の引き出しの取っ手を掴んで力強く手前に引っ張る。引き出しを支えているレールが歪んでいるのか、重い物がぶつかり合うような音を立てながら引き出しが彼女の手前へとその身を動いた。その中に仕舞われていた色とりどりのカラーのプラスチック製のフォルダがずらりとその背を見せ付ける。彼女はその中から赤いカバーを持つものを手に取ると、デスクチェアを引っ張ってはその座席の上に胡坐を組んで座り、デスクの上に先ほど取り出したフォルダの一番最後に書類が入れられたページを開いた。そこに見えたのは今回の依頼主の依頼内容と簡単に状況を纏めた書類。ニーヌはそのページをフォルダの留め金から外して、手に持っては自分の視界の正面へ動かす。表を読み終えると、折り目を広げて書類の内側の部分を読み始める。
「調べなおした所でいったい何がわかるって言うのよ・・・」
書類を読み直してもレガスの言うヒントからは答えは見えそうに無かったのか、ニーヌはそう愚痴りながら書類を持ったまま窓側へとデスクチェアの向きを変え、最後のページである裏側を静かに読み始めた。
エアコンの作動する音に紛れて、雨が激しく降る音が聞こえている。空を覆う雲の暗さは相変わらずで、今だに雨は止みそうな気配がなかった。

-AM10:49- デパート「ハンドレット」

デパートの中は止むことの無い雨を避ける人々で溢れ返っていたが、平日であるからか休日の時に比べると少ないようであった。交差点角のエントランスからデパートの中へと入って少し歩けば、公園にあるような時計塔が中央に置かれた広場から最上階の7階の天井まで貫かれた吹き抜けを眺望できるようになっていた。吹き抜けの左右には上下階へと移動できる幅広な足場を持つエスカレーターが設置され、人々がそれに乗っては上へ下へと工場のラインのように流動しているのが広場からしっかりと見えている。
その吹き抜けの広場を、織部は5階から転落防止の柵の上に片腕を載せて身を捩り、僅かに乗り出して傍観していた。恐らく、雨が降っていてまともに動けないがための暇潰しであろう。しかし、眺め続けることに飽きが来たのか体の向きを戻して柵によっかかるような姿勢になると、柵の上に載せていた腕を下ろして茶色のコートのポケットの中の携帯電話を握る。ところどころ傷の付いた折り畳み式の携帯電話の側面のボタンを軽く押すと、それに応えるように小さい振動が2回、握っていたその手にしっかりと伝わった。1回では無く2回の振動に彼は携帯電話をポケットから素早く抜き出すと、それを視界へと持って来ては側面の別のボタンを押して、表面に嵌め込まれた有機ELディスプレイを点灯させる。画面に真っ白な背景が表れると、「レガス」という大きな文字とその下に小さくレガスの電話番号が綺麗に書き表される。どうやら彼が出ることの無かった着信があったようだ。
「10時14分・・・丁度あいつにあった頃か。出られる訳が無い。」
織部は画面に表示された着信時刻を見るとそう不機嫌そうに呟いてその場から離れだす。先ほどまで暇を潰していた彼が何処へ行こうとしているのかは誰にも分からないが、彼の足の行く先は商店が立ち並ぶアーケードのような幅広な通路へと向いていた。彼はその通路の右側を歩きながら、携帯電話の上部と下部の割れ目に親指を入れて開封するように開くと、キーを叩いて着信記録を選び出しては最後の着信であるレガスの電話番号へとリダイヤルを掛け、耳元へと携帯電話を寄せ当てる。しばし電子音が続いたところで「ふぁいもしもし」と着信を取った男の声が応えてきた。
「織部だ。さっきの電話は一体何の用だ。」
「あー・・・織部か・・・ちょっと待ってくれ」
レガスが眠たそうな声で電話に出ると電話機の保留ボタンを押したのか単調なメロディーが流れる。織部は通路の中央に置かれているベンチに大股で圧し掛かるように座り、太ももの上に携帯電話を持った腕の肘を突くと保留のメロディーを何も言わずにただただ聴き続けた。数回リピートされた途中でメロディが切れ、レガスが再び「もしもし」と言い出す。
「何の用か、だったな。とりあえず、ふぁ・・・、お前が出ないから相方さんに伝えたが・・・それでも聞くか・・・?」
「簡単にでいい。」
「はいよ。簡単にね・・・」
欠伸混じりで話す辺り昨日の夜からずっと起きていたのだろうと織部は思ったが口にはしなかった。織部の予想は案の定だったようで、相変わらず眠むたそうな声でレガスは答えて話を続ける。
「まず・・・レティは行方不明じゃなくて誘拐の方が大きい・・・ふぁぁ・・・次はその理由として・・・市の新事業の土地取得予定地が・・・昨日話した愚か者たちの領分だったということ・・・あーねみい」
「なるほど・・・愚かな奴等の事だ、差し詰め土地の売却交渉が思い通りに行かなかったからが恐らく理由にして答えだ。合っているとすれば、数少ない芸も少々下手になった」
「相方さんも似たようなこと言ってたよまったく・・・」
ニーヌに同じ事を話した時の彼女の推察とほとんど同じ推察を織部が言ったことに、レガスは類は友を呼ぶという言葉がぴったりだと思ったが、そこまでは口に出さなかった。しかし、ここまで似た事を言うことに流石に驚愕を隠せない。
「それと、俺はそういう所は詳しく知ってはいないから・・・ふぁあ・・・言われても今一分かりもしねえ・・・」
「冗談のつもりかそれは。それで、他に伝えたことはないのか?」
「あー・・・シンシア家を調べなおしてくれと一言伝えたが・・・」
織部はレガスのその言葉に何かを感じたのか、足元の先に視線を向けている双眸を僅かに細める。
「その調べなおしてくれは、どういう意味で調べなおせと言っている」
「そりゃあお前・・・調べなおせと言ったら全身を丁寧に洗うぐらいにってことだが・・・ふぁ・・・」
「レガス、こっちが求めている意味は大雑把で抽象的な意味じゃない、丁寧且つ具体的な意味で、だ」
レガスののらりくらりとするような言い方に織部は苛立ちを覚え思わず語気を強めた。流石にレガスも二言目で苛立っている事に勘付いたのか慌てて訂正しようとしたが、織部の言葉はそれよりも速く紡がれた。
「いいか、そっちがどうであろうとこっちは明白な情報を、払った分だけに見合う対価を要求している。曖昧な情報は答えを掴みにくくし、時には危険を招く。お前さんだってそれぐらい分かっているだろう。なぜ意味を取り間違える可能性のある言い方をする。東の怠け者の話し方にでも引き寄せられたか?」
苛立ちを通り越した怒りに因ったものか、それともただの苛立ちに因ったものか、表情は目を細めている以外はいつもと相変わらずで答えを知れる所は微塵もなかった。が、織部がそのどちらかの感情に任せて語気を先ほどよりも強く鋭くしていることは明白だった。
「悪かった!悪かった!」
「分かってくれたなら謝りはいらない。それで、どういう意味か改めて教えてもらおうか」
織部の獲物を追い詰めるような物言いにレガスは流石にこのままでは不味いと気付いたか、先ほどまでの眠気は何処知らずと思えるほど大きめの声で二度も謝る。流石に織部も腹の虫の暴れぶりは収めたようで、気付けば目の細まりはその心理と連動したかのようにいつもの状態へと戻っていた。
「なぜ昨日会った時にセカンドネームまで言っておいて、中身は動物探しということが引っかかってな。色々と調べてみたがサツの方に出されてる被害、盗難届けの中で、該当するのは1枚も無かったことは分かった」
「被害届けだと?」
織部は意を突かれたかのような言い回しで尋ねる様に言うと、レガスも同じ心境になったのか似たような言い回しでその問いに答えた。
「おいおいまさか捜索の方向で届けが出てるとでも考えたのか?」
「物を扱う事はあれど動物を扱うような仕事は初めてだからな、そこまで頭は回せなかったとでも言うべきか。しかしその方向で調べても1枚も引っかかる事は無かった」
織部は太股に突いていた肘を離して、携帯電話を耳に当てたまま石膏ボードが打たれた天井を見上げる。事実、今まで事務所に頼み込まれた事の無かった仕事だったとは言え、彼は内心で思考がそこまで広がらなかったことに悔いたのか、呆気に取られたように灰色の天井を見つめ続けている。
「しかし、そういう方向で調べたと言うなら話は早いな。恐らくこっちと同じ考えを持ったと見た」
「レティ・シンシアは動物ではなく人であるとでも言いたいのか」
「まあその通りだな」
「馬鹿らしい。こっちは盗難扱いになると知らなかっただけで、そんな考え方は1つも思いついてすらいなかっただけだ」
織部は視線を天井から足元へと戻すと、太股に肘を突いては珍しくも苦笑しながらレガスの言うことに受け答える。しかしレガスは彼のその言葉を完全に信じきっている様子では無かった。
「お前、実は対象を人間だと半分疑ってるだろ」
「根拠無き指摘は好きじゃあない。とでも言おうか」
レガスの決め付けるような言い方に織部は眉毛を僅かに顰めながらそう言い返す。が、実際の所、昨日の時点で暗にそういう疑いがある可能性は予想していたのは事実であった。しかし、レガスにはそれ以上の事を聞く気はまったくなかったのかそのまま話を続けていく。
「まあ、真偽なんて聞きはしないさ。とにかく、何が言いたいかと、レティ・シンシアは2つ存在するってことだ。どういうことか聞きたくなるだろうが、残念なことに非正規じゃここまでが限界だったわ」
「2つ存在する。だけでは像の一部分に触れる事も出来ない。が、お前がそういう以上、そこまでしか分からないならしょうがない。で、だ、レガス、何処をどう調べ直せと言いたい」
レガスは迫ってくる眠気を堪えながらも間を置くために一呼吸する。思わず織部もその間に張り詰めた感覚を覚えたのか、視線を足元より先へと目を逸らす様に動かす。そして、レガスは問いに緊張感が込められている様な声で答えた。
「シンシア家の中をしっかりと調べ直したら、真実が分かるかもしれない」
「理由も無く言ってるなら、その話に乗る気は消えるぞ」
「残念だが、推測の域だ。だが推測なのは俺の立ち位置が部外者であるがために乗り込めないからだ。という言い訳を認めてくれ。」
織部はそれを聞くと先ほどのように天井を見上げるや落胆したかのような溜息を吐いて脱力し、呆れた様に話し出した。
「いつも思うが、レガス、お前は一度探偵事務所でも開いたらどうだ?流しのような今を生きる生活をするよりは良い生活が出来ると思うが」
「生憎、助手になってくれるようなまともな美人はいねえし、自分の生活を管理する能力も無けりゃ、無駄に博学な訳でもないし、頭は大馬力エンジンのように高回転するわけでもないからな。その上毎晩ふらついて酒飲むなんていう流浪振りだぜ。そんな人間が事務所なんか立てる気になる可能性があるとでも?」
「先ず隗より始めよ。ある意味間違った意味の方で言ったつもりだが、働いてた時は世界中に派遣されてたと豪語するエリートが知らないわけがないがないだろう」
「知ってはいるが、縛られるのは好きじゃないんでな」
「正に今の生活こそ性に合うということか。それで、どういう推測をしたんだ」
「恐らくだが・・・」
「おっと、すまない、少し待ってくれ」
レガスに推測を聞いた直後、織部は何かを感じ取ったのか話す事を止めさせると、携帯電話を耳から話してベンチから素早く立ち上がり左右をゆっくりと見渡す。商店の前を歩いていく通路の端の群衆、通路中央のベンチに凭れている子供、テーブルのイスに座り談笑するグループ、その雑踏の中に織部の違和感の元は現れていた。それに気付いた織部はその違和感の元がある方向を睨むように見つめつつも携帯電話を耳元に寄せ、小さい声で会話を続ける。
「すまないなレガス。詳細な事はこっちにメールか事務所にファックスで送っておいてくれるとありがたい。来客だ」
「あいよ。しかし街中で来客とは面倒なやつらに絡まれたか?」
「面倒な奴ではないが、正直に言えば会うたびに疲れるから面倒だ」
「そいつあ御愁傷様だな。とりあえず流石に眠気が限界だから情報送って寝るぞ。お休み」
「眠そうなのに無理をさせたな。体調はくれぐれも気をつけろよ。それではまた今度」
織部は詫びを入れつつも別れを告げ、通話終了のボタンを押して携帯電話を折り畳むんではそれをポケットへと滑り込ませるように仕舞うと、目を細めたまま先ほどの違和感の元の方へとゆっくりと足音を押さえるように歩み始めた。

-11:09- 事務所「シュヴァルツゴルト」

相変わらず事務所の中ではエアコンの音が響いていた。除湿モードのまま動き続けたからか、部屋の空気は乾き気味になって先ほどまでの蒸し暑さは知らぬ間に姿を消していた。ニーヌの姿は事務所どころか私室にすら見えない。どこへ消えたのだろうか。
人を失った部屋に置かれたデスクの上の固定電話機がひっそりと胴体の下の部分からA4用紙を吐き出していた。しかし、それが誰から送られてきたかは誰にも知る由も無かった。
鍵が回る音が部屋に響く。私室とは別のドアが開いたかと思えば、その中から白い皿を持ちフォークを口に銜えながら鼻歌を歌っているニーヌがドアの先の部屋から嬉しそうに表れた。彼女はそのまま中央のソファーに座り、手前の机の上にカルボナーラの乗った皿を置くと、開いた腕を伸ばしてテレビのリモコンを掴み、テレビの電源を入れては番組を選び始めた。
印刷されたA4用紙は、結局のところ、彼女が自炊したカルボナーラを食べ切るまで送り主を確認される事は無かった。
外で降っていた雨はいつの間に大雨から小雨へと勢いを落とし、気付けば雲の色もそれに合わせるかのように明るい灰色へと変わっていた。


-11:05- デパート「シルバーカウチ」 5F

「これはこれは、またまた会うとは思いませんでした。」
直立不動のような姿勢で通路の柱のそばに立っていたスーツ姿の銀髪のロングヘアーの女は、近づいてくる織部を見るやその緑色の双眸で彼の顔をじっと見つめると、微笑みながらそう言って軽く会釈をした。
織部はいつもの無愛想な表情だったが、その言い回し聞くと僅かながらに眉を動かした。恐らく、彼女の示した動作に苛立ちを覚えたのだろう。
「あいつとの仲だからそこまで畏まらなくてもいい。と、この前も言ったはずだが。あいつもそのように言っていただろう」
「そう仰られましても、上司が良き友と言う以上、私は織部様に対しては失礼の無い様に振る舞わなくてはなりません」
呆れたように織部が言うと、スーツ姿の女はチェーン店のウェイターのように言い返す。織部は内心で、わざと嫌がらせているんじゃないだろうかと疑念するぐらいに、彼女の振る舞いを受け入れる気はさらさら無かった。彼からするとここまで機械的だと逆に嫌悪感を覚えてしまうほど好きではなかった。
織部は周囲を見渡しつつ、目の前にいる女性の何を考えているか分からないような冷徹な双眸から出る視線に目を合わせると、余り大きくない声で苛立ちを内包して言葉を飛ばす。
「とりあえずだ。その言い回しは公の場では止めてくれるとありがたい」
「申し訳ありません。ですが、私は上司からも、織部様からも、…セカンドネームとでも言うべきでしょうか、その部分を丁寧に紹介されていた訳ではありませんので」
スーツ姿の女はそう織部の言う事を除けてみせると、左脇に抱えたブリーフケースをわざとらしく抱え直した。織部は、本当に機械的な女だと思いつつも、そういえば下の名前は教えていなかった、とすっかり忘れていたことに気付いた。どうせならばこの機会に教えようかと思ったが、彼女の動きを見た瞬間にその考えは彼方へと消えた。
彼もまたわざとらしく左腕に付けた腕時計を見る動作をすると、目だけを動かして左右をもう一度見直した。
「こんなところで話すにしても、少々人が多すぎる。静かな所へ移動しようかと思うが、どうだ?」
「いいでしょう。ただ、上司から織部様に渡す物がありますので、その点を考慮していただければ」
スーツ姿の女から同意を取り付けた織部は、踵を返すと少し遅めにエレベーターのある方へと歩みだした。彼女も彼の真横から一歩後ろの部分を維持するように付いていく。何処までも機械的である。
数分も掛からずに2人はエレベーターが3台並んだ場所へと辿り着いた。何人かがエレベーターの前にいたが、彼らの目指す方向と織部の目指す方向は逆のようであった。一番左側のエレベーターのドアが重たそうに開く。プラスチックの指示器の上下を示す三角形のランプは上方向を示していた。織部は目だけを動かしてそれを確認するとドアの側面に立ち、ドアが勝手に閉まらないように、エレベーターの出入り口の枠の端に右手を掛けた。その間にスーツ姿の女がスッとエレベーター内へと入っていく。織部は誰も他に入ってくることが無い事を確認すると、中へと滑るように動いた。スーツ姿の女が壁に埋め込まれた操作パネルの閉鎖ボタンを押す。ドアは再び重い音を立て、エレベーターを僅かな時間、外界から隔離した。
エレベーターのかごが上へ上へと引き上げられていく。かごの中に響く音はワイヤーを巻き上げるモーターの音か、かごがレールに擦れている音か
織部はドアの上に付けられた指示器のランプを見上げた。このデパートの最後の階層は9Fだった。先ほど乗り込んだ5Fの次の隗である6Fのランプがゆっくりとした3拍子で点滅している。
「全階のボタンを押すと助かる。」
「一体何をするおつもりで?」
機械の音が響くかごの中で、織部がつぶやく様にスーツ姿の女に指示するように話した。しかし、彼女にはそれがどういう意味なのか全く予想も理解も出来なかった。が、彼の声のわずかな低さに何かに対する緊迫を得ている事を察したのか、操作パネルをなぞる様に5Fより上の階のボタンを光らせていく。
彼女の動作の直後、古いレジが清算時に鳴らすような甲高いベルの音がかごの中に響いた。かごの上昇が止まり、ドアがゆっくりと開かれる。先に見える待機場のような空間に、上へと行くエレベータを待つ者は誰一人としていなかった。時間制限の限界を迎えたかのようにドアが閉鎖され、再び機械的な音が鳴り出す。
「さっき、何をするかと聞いてきたが、簡単に言うと誤魔化したいだけだ」
「よく、分かりませんね」
織部はそう言うとエレベーターの左側の壁へと体を寄せて凭れると、頭を俯いては独り言を言うように話を続けだす。スーツ姿の女には、未だに彼が何をしたくて、何が狙いで、それ故に何故あのような事を言ったのか、まったく見当が付かなかった。
「余り知らないかも知れないが、ここ最近は目が多い。別に困りはしないが、できるならその目に見えないようにしたい。特にあいつの大切な友人である美人さんには、そんな怪しい目のセクハラを受けて欲しくはない。ここ最近増えた目は無駄なほどに調べたがり屋だからな。見て調べた結果から、何をやらかすか、自分でも分かりはしないことが、とても恐ろしくてしょうがない」
「簡潔に言いますと、私との関係が知られたくない。と、織部様は仰られているのですか?」
織部が淡々とした声で話したことに、スーツ姿の女は思わず疑問を口にしてしまった。直後に、聞かないで黙って従っていた方が良かった。と、彼女は後悔した。
彼女からしてみれば、幾ら上司が信用していようともこの織部という男には、何かしらの恐怖のような物を心中に抱いていた。その口調からは彼の心の琴線はいくつあるか分からないどころか、どの程度の深さに線が張られているかが全く掴めない。ただ、苛付いた時だけは口調が変わるということは前々から分かっていた。しかし、それでも彼女にとっては織部という男は恐ろしかった。例えれば真夜中のジャングルのような存在である。どこに猛獣が隠れているか、どこに毒蛇がいるか、月明かりも入らずただ真っ暗であるが故に、まったくもって危険な存在が分からないところがとてつもなく似ている。
しかし、彼女の恐れからの後悔とは裏腹に、彼女の言葉は織部の琴線に触れなかったようで、彼の口からは先ほどの語り口と同じような声でその疑問の答えが出された。
「正直に答えるとなれば、イエス、だ。こっちとあっちの橋渡しのような仕事をしている以上、出来る限りは触れさせたくはない」
指示器の7Fと示されたパネルのランプが点滅し始める。スーツ姿の女が片足を後ろへと下げ、俯いたままの彼を見た。ブーツのかかと部分から杖を突くような音が鳴る。
「織部様は、本当はとてもお優しい方なんですね」
彼女の声に思わず織部は足元を見ていた顔を上げた。そして目に見えた彼女の顔をその言葉は本心からだと言う事に僅かばかりの好感を覚えた。先ほどの微笑みとは違う、自然な微笑みを表して彼を見ていた。彼からしてもその微笑みは惚れるには悪くないものだった。あいつがこの女を傍に置き続ける理由が何となく分かる。
織部は再び俯いて、賞賛にどう答えようかと考えながら足元を眺めた。埃やら砂やらで床は煤けているようにその視界には写った。今日の清掃担当はいきなりの大雨のせいで仕事はさぞかし大変だろう。
「客人にはできるだけ迷惑を掛けない。それが自分の他人と接点を持つ上でのルールだ。例え友人の部下であろうが、ただの仕事の付き合いであろうが、客人は客人だ」
織部は余り賞賛や好意を余り受けた事がないのか、―と言うよりそういうことが好きではなかったのかしれないが―低めの声で、目の前の女が言う事にそう愛想も無く答えた。スーツ姿の女の方はと言えば、それを聞いて俯いている彼をじっと見ている。その顔には表さなかったものの彼の答えを聞いて内心では困惑していた。下手に返しても、上手く返しても、彼は嫌がるような反応を見せるとしか思えなかったのだ。私よりも彼の方が謙虚すぎる。
しかし、本当に機械的な様をしているのは果たして2人の内どちらの方が上だろうか。
二回目の甲高いベルの音がかごの中に響き、ドアが開放される。織部は横目でドアの先を睨むように一瞥した。エレベーターを待っていたものは誰一人としていなかった。やはり平日故か。だが、何かを見て勘付いたからか彼の口の端が僅かに動いた。
ドアが開放時間を迎え、自動的に閉鎖される。かごはまたまた天へと上がり、その中には機械の動作音が満ちた。
「今日はレンタルカーか何かであいつとここまで来たのか」
「えっと…あ、いえ、鉄道と徒歩で。上司はここには久々に来ると、懐かしんでおられました」
「あいつがそんなこと言ってる様はとても滑稽だろうな。そう思わないか?」
織部の不意な問いに眼前の女が言葉を乱して少し慌てたのを見て、彼の口元が少しだけ笑うように綻んだ。なぜ綻んだかは、分からない。
「確かにあのなりでそう言う事を仰る様は、何も知らない人から見れば確かに可笑しいとは思います」
「自分自身の思うことぐらい遠慮せずに口から吐いてもいい。それとも、陰口のような事は嫌いだったか」
「それは、その…」
彼女の客観的な答え方に苛立ったのか、意識もせずに織部は強めの声で言い返してしまった。先ほどとははっきりと彼の心境が変わっていることに彼女は気付き、思わず視線を逸らしたのは焦ったからだろうか。言い方にも聞こえたのか、どうこの場を切り抜けようかとますます焦っているようだった。
彼に対して媚びを売るようなことを言うのは彼女にしてみればありえない選択だった。彼女にとって、媚びていいと思っているのは恩人でもある今の上司だけである。それ以外の人からは信用を得ようが、此方から媚びようとは一切考えない。それほどまでに上司に対しては忠実な僕であった。
しかし、好感を得るような事を言うことすら媚を売ることに入るだろうか、という悩みが彼女の中に生まれた。そもそもこの男が好感を得るような答え方とは?そもそも彼が好む事なんてまったく知りもしない。彼女の上司が良い友人と言う彼に対して、上司に対する本音を言うべきか言わないべきか。その答えを出すのはとてつもなく難しかった。彼女の上司に対する忠誠は上辺の物ではなく本心から来ていた。そうである以上、上司を侮辱するような事を口に出すのは躊躇われるし、かと言って目の前の男の言う事に答えないという事は、恐らく出来ない。すでに回答の初めは彼女から切り出してしまっている。一定の信頼がある以上退く訳にもいかない。
「ええと…その、余り上司の事は言いたくはないのですが、確かに彼はあのような姿ですから可笑しく見えるとは思っています。ですが、私は彼に5年以上従事し、それもまた彼の魅力であると理解しています。ですから、本当に可笑しいとは思いません」
スーツ姿の女にとって、彼女なりの精一杯だった。上司を蹴落とさずに目の前の男を納得させられる答えはこれぐらいしか思いつかない。上司の魅力の1つは彼女にしてみれば本当に魅力的な部分であったし、その魅力の部分が分からない人からすれば、彼の言う事に違和感や可笑しさを覚えるのは事実であった。
「なるほど…本当にあいつの事を信頼しているようで何よりだ」
内心怯えているような心境であった彼女は、織部の返しにほっとした。何とか場を切り抜けられた。しかしその安堵もつかの間、彼が再び何かを言い出したことに思わず身を引き締めた。
「ただ1つだけ言っておきたい」
「1つだけ?」
もったいぶるように織部は振る舞うと、顔を上げて姿勢を未だに変えようとしない目の前の女をじっと見た。スーツ姿の女は織部が視線を向けてきたことに、というよりもその視線を放つ鋭い双眸に一瞬震えた。闇のように暗い黒い瞳は確実に彼女の目を掴んでいた。睨むようにこちらを見ているその目は間違いなく警告か何かを発しようという意思が、彼女にはしっかりと感じられた。エレベーターの指示器は張り詰めたその状況を気にすることは無く、ただただ次の階のランプを点滅させていた。
そして、8Fという文字のランプの点滅が点灯へと変わると共に、織部は話を続けた。
「あいつがお前さんのことをどう思っているかは、あいつにしか分からない。だからこそ言っておきたい。信用されるようにならないように。と」
エレベーターの上昇が止まり、ドアが重たい音を立てて開く。外で上へ向かうエレベーターを待っていたのか、ジャケットにジーンズの男が節操無いように乗り込んできた。織部はその男を一瞬だけ見るやすぐさまエレベーターのかごの外へと早足で出て行く。彼のいきなりの行動にスーツ姿の女はびっくりして慌ててその後を追いかけた。エレベーターのドアは彼女が抜け出した直後にゆっくりと閉まった。ただ1人、上へと上がるかごの中に残された男は、睨むように閉鎖されたドアを見ては舌打ちをした。
エレベーターがあがりだした頃には2人はエレベーターが並んでいる真横の細い通路へと入っていた。その先に見える銀色に光る扉はしっかりと開放されている。
織部は扉の先へと出ると動きをきっちりと止めた。どうやらそこは階段の踊り場だったようで、そうと言わんばかりに真横の壁の高さ2.5メートルほどの位置に「8」という数字の大きな板が貼り付けられていた。そして、彼の眼前にはペンキが剥がれ落ち、ところどころ錆びた扉があった。上部に張られたパネルには「PARKING」と黒く書かれている。
「面倒くさい奴らだ」
踊り場から伸びる上下の階段を余所見すると織部はそう吐き捨てた。直談判でもした方が早いだろうかと彼は思った――いや、無駄な部分で頭が固い中年どもが受け入れる訳が無い。
スーツ姿の女が彼の後ろから小さい声で恐る恐る聞いた。さっき言われた忠告の意味が今一、彼女には分からないでいた。
「あの…先ほど言った意味は一体どういう意味で忠告されて・・・?」
織部は左足を軸にして右足を一歩だけ下げて90度きっかりに体を回すと、彼女の顔を無愛想に眺めた。先ほどまでの仕事の顔が僅かながらに崩れていることを織部は感じ取った。一体何を恐れているのだろうかという疑問が浮かんだが、深く考えようとはしなかった。
「信用と信頼は似て非なる物だという事だ。信用されるだけなら、いつでもその首を刎ねられるとでも思っておくといい。」
織部は面倒そうに答えながら傾斜の緩い階段を上りだした。足音がホールの演奏会のような余韻を持って空間全体へと響く。物静かな階段の間に響く足音は少しばかり不気味に感じられたが、彼はそんなことは微塵も感じずにゆっくりと昇っていく。
スーツ姿の女もその後を付いていくが、彼の言った意味に戸惑いや恐れを感じたのか歩調が不安定になっていた。何時でもその首を撥ねられる。上司の性格に出会った経緯、その他の要因を客観的に見れば、否定できないという事実が彼女の心を揺らしていた――確かに、あのお方の意思や考えは完全に見透かせない。だから、強く否定することなんて出来ない。
「さっき言ったことだが、受け売りだ。昔勤めてた所のお偉いさんがよく口にしていた。信用と信頼は同じように勝ち取れるものだが、信頼を勝ち取るには信用以上のハードルを越えてみなければならない。と、そこを辞める時までに毎日聞かされて耳にタコが出来たぐらいだ。」
8Fと9Fの間の踊り場まで上がると、後ろにいた女の方を見てそう言って、気付いた。彼女の表情に僅かな曇りが見える。階段を上るその調子が不規則なことにもすぐ気付いた。何か気に掛けたか。と、彼は罪悪感のようなもの覚えながらも仕方なさそうにフォローを入れた。
「…あいつは色々な面で捻くれてる。その証拠に数年前にある会社の役員の首を「面白くも無い」という理由だけで無理矢理挿げ替えた。気紛れと我侭で動いてるようなものだ。だが、そんな奴の隣に長い間立っていられるということは信頼されているということだろう。少なくとも、あいつはお前さんが傍にいる時は楽しそうにしているからな」
織部がそう言うと9階へと再び昇りだす。スーツ姿の女がこっちを見上げたのが前へと振り返る間際に見えた。一瞬だけだったとは言え、彼には先ほどの彼女の顔の曇りがすっかり見えなくなっていた。織部は内心、安堵した。
「そういえば、何で先ほどいきなりエレベーターから出たんですか?」
スーツ姿の女は、つい、先ほど出てきた疑問を織部へと投げかけた。彼女には先ほどの織部の行動が全く予想できなかった。誤魔化したいだけと話してくれたとは言え、あの行動に誤魔化しがあるとは、彼女には到底納得できるようなものではなかった。上司が頼るような人とだから信頼できるとは言え、行動にまでは信頼をもてない。
一方の織部は9階の踊り場へと出るや真っ先に左側を見た。8階で見た銀色の扉と同型の扉がしっかりと道を塞いでいた。
「乗り込んできた男の片耳にサツが使うようなイヤホンが装着されていた。ケーブルを耳の付け根に沿って上から下へと線を通す、隠しやすいタイプだ。それと、ジャケットの左胸ポケットに、隠しているつもりだったようだが無線機のアンテナカバーがはっきりと見えた。相変わらず目はどこかが間抜けてる」
織部は先ほど見た男を嘲笑うような事を織り交ぜて答えると、右側に見えた灰色の扉まで歩み寄ってそれのドアノブを掴み、すぐに捻って外へと押し開けた。大雨で冷やされ大雨で湿った空気が、扉が開かれると共に彼の顔の表面を気遣いもせずに擦っては踊り場へと流れ込んでいく。
彼の言った事に、先ほどの回想を踏まえた上で彼女は内心驚いた。あの時一瞬見ただけでそこまで気付くなんて。そう彼が9階の踊り場から動いたこと気付いて遅れまいと階段を急いで上がった。左脇に先ほどからずっと抱えたままのブリーフケースが勢いで床へと落ちそうになったが、何とか落とさずに済んだ。そして、踊り場に出た時に全身を冷気にくすぐられ、思わず嬌声を上げた。
「あと一ヶ月もすればすっかり暑くなる時期だが、冬の始めのように冷え込むとは」
織部は暢気にそう呟くとそのまま扉の先へと歩き出す。その先には地も天も全てコンクリートが向き出しの世界が広がっていた。大木の様に太い鉄筋入りであろうグレーの柱が何本も等間隔に立ち並び、その間隔の隙間に自動車がまばらに止まっていた。そこはデパートに併設された駐車場。壁と天井の間から冷気が流れ込み続けている。
織部が右から左へとゆっくりと視線を走査している傍にスーツ姿の女が体を震わせながら並んだ。ストレートロングの銀髪が寒風で陽炎のように揺れている。
「北方系の生まれだと聞いていたが」
織部は周囲を見終えると隣に立っていたスーツ姿の女が震えているさまを見て、コートのポケットに手を突っ込んで何かを探しつつそっけなく聞いた――冷静に被って理性を保っても、本能の反応は肉体に浮かび上がるか。こればかりは自分でも抑えられない。
隣にいたスーツ姿の女は寒気で震える中、何とか声を吐き出してみせた。
「確かに生まれは北寄りの地域ですが、家族全員で移住した先は寒い時期でも20度を下回る事が余り無い場所でしたので、寒さ慣れしていないんです」
「そういえば、お前さんの上司であるあいつが住んでいる所も温暖な気候の場所だったか…」
硬い物に硬い物が挟まれたような音が真横からスーツ姿の女の耳にはっきりと聞こえた。何の音かと思わず織部の方を見れば、口に車のキーの先を銜えてコートを脱いでいた。キーの持ち手部分からぶら下ったアクセサリーが雑音を鳴らす。彼が口にキーを銜えていることよりも、何のためにコートを脱いでいるのかの方が彼女には唐突すぎた。冷静を装っていた顔が寒さと意識の薄れで確実に崩れていく。
「えっと、その一体何をしようと…?」
「流石に客人に体冷やしてまで待たせるような、世間知らずではないからな。とりあえず色々詰めてあるせいで重いかもしれないが、寒いなら着ておけ」
織部はコートを脱ぎ終えると片手に掴み、もう片方の手で口から車のキーを離すと、そう言って隣に立つ女の左肩へとやさしく掛けた。彼女はその好意を断ろうかと考える前に左肩に重たいものが乗せられた。寒さに震えている以上その好意はありがたく、断わる理由も無かった。そして、寒さに弱いと言う事を知られるのが少し恥ずかしかった。頬の紅潮を抑えようにも、熱くなっていく感覚が止まらない。幸い、気づかれたとしても寒いからと嘘を言える余裕があることに彼女は少ししてから気付いて安堵した。
しかし、一体何がコートの表面と内側の生地の間に詰められているのだろうか。いきなり掛けられた重さに彼女は左へとバランスを崩しそうになったが、崩す前にブリーフケースを抱えた左腕を内側へと寄せて、開いている右腕を背面へと動かしてコートの縁を掴んで何とか羽織った。だが、両肩に重みを分散させてもやはり重たく感じる。鉛の板がコートの裾にでも縫い付けられているのだろうかと彼女は思ったが、コートの内側に残っていた温もりに幸福感を覚えるやそんな考えはすぐに吹き飛んだ。
そして、コートを脱いでビジネスシャツとスラックスの姿になった織部を見ては申し訳無さそうに訪ねた。
「コートを貸してくださってありがとうございます…えっと、織部様はコートを脱いでも寒くは感じないんでしょうか…?」
織部はそう聞かれると思わず苦笑し、車のキーに付いていたアクセサリーのリングに人差し指を差し入れてくるくると回し始めた。
「ここまで冷えると気になるのも無理はないな。ちょっと前までは冬になれば北方で色々やらされた。そのせいかこれぐらいはまだ暖かく感じる」
北方と言えど、北の果てか、それとも中央大陸の高緯度地域にでも毎年行っていたのだろうかとしか思えないほど、訪ねた本人にとってはその答えは信じがたい事実だった。どこまで常人離れしているのか。
そして、あることが気になった。この寒さより遥かに寒いであろう地域に、何の仕事を請けて、毎年出かけていたのだろうか、と。
しかし、聞く気にはならなかった。彼女もまた、織部は過去の事を詳しくは語りたがらない事を知っていた。彼女の上司ですら聞こうとしない。何故だかは未だに知りも分かりもしなかったし、上司も聞こうとする理由も言わない。
何より、その上司に釘を刺すように言われたのだ。「彼の過去のことは、何があっても、何を思っても、あまり深く聞かないでね」と。あの上司ですら敬遠するように言っている点は彼女にとっても同義であった。
「とりあえず車を持ってくる」
織部は簡潔にそう伝えると、足早にその場から離れた。コートを羽織って温まっていたスーツ姿の女は何か言おうかと思ったが、止めた。彼の言っている目から逃れるなら無闇に横槍を入れない方がいいと今更思った。それにしても暖まるように配慮してくれたのは嬉しいけども、このコートは私にはやっぱり重い。織部様はいつもこれを着て散策しているんだろうか…?
数分も立たないうちに駐車場に爆音が響いた。突然響いた重低音に織部が車を持ってくるのを待っていた女は身震いした。その宜しくない重低音は織部の所有する車のエンジンの唸りだった。駐車場を構成するコンクリートに音がぶち当たり反響を起こし伝播したのだ。アクセルを踏んで吹かしているのか、二度も同じ音が響いた。
コートを羽織っている女はその低い音に慣れていないのか、その音が聞こえるたびに気分が悪くなった。今では大排気量を持つエンジンの唸る音は、昔以上に珍しい音だった。そういうエンジンを積んでいる「旧車」と呼ばれる自動車を仕事の移動で使おうとするものは今はほとんどいない。せいぜい休暇前に整備に出して、休暇の時に運転するというぐらいである。超低燃費車両が現われ、更には電気自動車などが溢れかえった現代の認識からで言えば、爆音を轟かせ、与えられたガソリンをすぐに飲み干すような内燃機関を持つ車を乗り回すことは、道楽どころか愚行であると思われるほど嫌われている。
もちろん、そのような車は未だに軍事用車両に存在し、生産されている。しかし一般となれば、幾ら好きになっても保持をする様な数寄者は中々いない。織部はその「保持をしている」という少数派であった。
織部が車をゆっくりとした速度で運転してきた。銀髪の女の前でしっかりと止めるとドアをゆっくりと開いて降車した。通路に堂々と停止するのは少々非常な気もするが、他に動いている車が見えなかったからだろう。
「寒い中待たせた。済まない」
「5分も立ってないのに待たせたなんて」
彼は無駄に謙虚だ。銀髪の女はそう訝った。それとも、あくまで彼の客人に対する対応の仕方なのだろうか。ここまで謙虚だとこっちが申し訳ないぐらいだ。と彼女とも思った。砕けて話している時とそれ以外の時の差が余りにも大きい。恐らく、今の彼の心理は後者の方で固まっているだろう。しかし、他人に厳しい人間かと思わせておけば今のように些細なことでも謝ろうとする。善人を装っているのか、それとも本心からか。そんなことは他人に分かる訳がない。
「とりあえず宿まで送る。流石にスーツだけの格好で帰るのは寒くて大変だ」
織部が降りたドアと反対側のドアを開けるために、反対側へと移動してドアを開けた。
「そ、そんなわざわざ配慮していただかなくても…」
「遠慮はするな。それに気がすまなくなる」
流石にそこまで言われると言い返す訳にはいかなかった。銀髪の女は仕方無さそうに反対側へと歩いて織部の車へと乗りこみドアを閉じた。革張りのシートエンジンの動作で僅かに揺れる響く車内にびっくりした。普段上司を乗せて乗り回す車もこんなに五月蝿くはないのに。時代錯誤。と、否定的になる。
「こんなに老いた馬は乗った事がなかったか」
織部が彼女が驚いているのを見透かしたのか、からかい混じりに言いながら車に乗り込んでドアを閉めた。外界から切り離されたからか、車内に響くエンジンの音がわずかばかり大きくなった。
「なぜ織部様はずっとこのような車を使われて?」
銀髪の女は聞いた。どう考えても、スマートで振る舞うこの男が、こんなに荒々しく動く旧車を使いたがるとは思えない。
「電気の方は確かに昔に比べれば大分進化した。進化はしたけど、相変わらず迫力と爽快感がない。それに無茶に耐えられないことが貧弱で好きじゃない。おっと、シートベルトはしっかり装着してくれ。コートを脱ぐなら後ろに投げ込んでおいてくれればそれでいい」
「はぁ…私はこういう古い型の物は運転したことがありませんでしたので」
織部はそう言いながらエアコンのつまみを弄る。ラジオの受信機の電源は入っていなかった。銀髪の女は理由を理解しつつも、それでも彼の振る舞う様やあまり着飾っていない外見と、この車の警戒し奮い立つ虎のような荒々しさは、やはりミスマッチしているように見えた。相方様の低身長の女性の趣味かもしれない、と彼女は訝しげたが、よく考えるとその女性もあまり派手に着飾らない――前に会った時はゴシック&ロリータ調の服装だったが、派手な色合いでもないし、少女に見えるその外見とは裏腹に淑女のように口調は丁寧で謙虚だった――とりあえず、コートを脱ごう。全身に幽霊のように被っていた重たいコートを右からゆっくりと脱いでいく。
織部はエアコンのつまみを弄っている最中に、本の一瞬だけ銀髪の女の方を見た。ブリーフケースを太股の上に置いて、コートを丁寧に右から左へと脱いでいた。コート右側はすっかり脱げ、元々のスーツ姿が現れていた。おそらく下着で抑えてはいるのだろうが、しっかりとラインの分かるバストに細めの腰は彼ですら扇情的に見えた。彼とてやはり1人の人間以前に1つの雄である。
銀髪の女は織部から渡された重たいコートを脱ぐと丁寧に折りたたんで後ろの座席へとやさしく置く。そして、言われたとおりにシートベルトを横から引き出して装着する。織部はエアコンの調整に関わるつまみを全て回すと、体を上げてシートへと凭れつつ、ドアのアームレストのインパネルを操作した。直後、鍵の掛かる音が重奏された。
「さて、やっと聞きなおせるな。渡したい書類というのは、テラスで会ったときに聞いた事の詳細か?」
「ええ。ご要望された部分に該当するものをいくつか」
「漏洩する可能性を恐れないのに驚きだな」
銀髪の女はそういうとブリーフケースのロックを外し、何枚かの書類を取り出そうとした。織部は老婆心からなのかそう感嘆すると、シートベルトを装着してサイドブレーキを解除した。
「その点については私も聞きました。上司曰く、事が事なら来月には意味が無くなるから問題ない。との事です。そして、これらの書類が件の物になります」
「事が事なら来月まで、か。誰にも知られないように管理には注意はしておこう。」
銀髪の女が取り出した書類をそう言いながら織部へと向ける。織部は片手で受け取ると、手前に持って来て重なっている書類を扇状に広げた。一番上の書類の一枚目に書かれている大文字の列を読んで目を疑った。これはますます扱いに気を付けないと、目に触れれば不味いことになる。
「あいつがなぜ部外者にこんな情報を外へ出してもいいと考えるのか全く分からないな。裏切りはいつでも起きる可能性を孕んでいるというのにな」
織部はそう口から呆れるように吐くと、銀髪の女はブリーフケースを閉じながらそれを聞いて思わず笑った。
「何時の時にか、上司が言っておられました。織部様は自他に厳しいから友人を裏切るようなことはしない、と。私よりも信頼されているように思いますよ」
彼女がそう明るく言うと、織部は一瞥して苦笑した。そこまで信頼されるほど貸しを作ったつもりも覚えもないが、そう思われているならそれはそれで嬉しい限りだ。
「あいつに信頼されるほど厳しく思われてる。か。役に立たない役人に頼られるよりは遥かにマシな事だな」
織部はそう言いつつ公務員の事を―恐らく一時間前に電話していた相手である警察のことだろう―を嘲笑すると、広げた書類を束ねてては助手席のダッシュボードの取っ手部分に書類を持っていた手の小指で引っ掛け、ダッシュボードを開けた。銀髪の女はいきなり体の先に彼の腕が動いてきたことに思わず後退るようにシートへと身を押し下げた。彼の腕が体に触れると思ったからだろうか。しかし織部はそんな動きも気にせず、書類をダッシュボードへと投げ入れるとそのまま閉じた。
「それで、泊まっているホテルはどこだったか」
「1番街のイクシードホテルです。貴重な時間を割いて送って頂けるとは、本当にありがとうございます」
「なぁに、暇を潰すのが通常業務だ。無駄に余った時間を潰してるだけだ」
織部はラジオのコンソールの上に固定されていたナビゲーターの画面に触れると、画面を幾度か軽く叩いた。電子音が鳴ると彼はドリンク入れに入れてあった無線式の片耳のみのヘッドセットを取り出して装着した。ヘッドセット側面の細いラインに動作中の証である青い光が走る。再びナビゲーターに手を伸ばし、くすんだ銀色の外装の側面の側面のスイッチを弾くように下方向へとスライドさせた。
「にしても、あのホテルとは相変わらず没落する気配は無いということか」
「そこまで心配するものですか?」
「杞憂に終ろうが、気になる時はいつも突然だ。それじゃ御送りしますよ、レディ」
織部は声の高さを僅かに上げてそう言うと微笑するや、片手でハンドルを握ると同時にもう片手で素早くギアをパーキングから動かす。そして、アクセルを力強く踏んだ。
大排気量のエンジンが咆哮で呼応する。エンジンの咆哮が車体を震わせ、駐車場に満遍なく響くと後輪に力が注がれ車が前進する。
車内にも響いた咆哮と力強い振動に、銀髪の女は身震いする。直後に後ろから勢いよく押される感覚を覚えた。彼女は一連の体感に、隣の真意が見えない男が話していた、未だに旧車に拘る理由の根拠を見出した気がした。
車は駐車場の角まで少し速い速度で走り続けると、天井から下がった案内板どおりに角を左へと曲がる。やがてその先にある丁字路の手前で車は減速すると、右方向に見えた下へと向かう通路の入り口へとその身を捻った。織部は大型トラック二台分は通れそうな半円状の幅広の通路をゆっくりと余裕を持って曲がり下層へと降りる。前や左から車が一切来ない事を確認し、後ろに見えた通路の入り口へと車を旋回させ、また下へと降りる。降りては止まり、旋回してまた降りる。このプロセスが5回以上も続いた。
銀髪の女は何度も繰り返される旋回で体を寛がせる暇がなかったためか、疲れを覚えた。ふと、時計を見ようとダッシュボード中央部分を見たがラジオの電源は入っておらず見ることが出来なかった。
織部に点けて貰うべきか、断って自分で点けようか考えたが、その前に織部がラジオの電源を入れてしまった。
オレンジのバックライトでモノクロの液晶が照らされると、そのラジオの製品名らしい文字列が流れ、時刻とFM放送の周波数が表示された。音量つまみはそれの白い線がつまみの円周上に書かれた「Min」という部分に向いていた。
時刻は11時19分。もうそろそろ昼食の頃合だな、と織部は横目で見ては素直にそう思いながら最後のプロセスを終えた。
出口の手前にある自動精算機の所で車を一時停止させる。出口を塞ぐように頑強なポリカーボネートの太い管が下ろされている以上、どの道進めない。車の動きが止まったことに、銀髪の女は思わず安堵した。止まっている時間は短いだろうが、体を休める余裕がある事は素直に嬉しい。
織部はスラックスのポケットから長財布を引き抜くと、それの2面の間に挟んでおいた磁気カードを取り出す。ドアのウィンドウを下ろして腕を外へと出すと精算機の投入口へと丁寧に差し込んだ。精算機がそれに反応してカードを吸い込む。磁気カードに刻まれた情報を処理した結果がディスプレイに表示される。駐車時間分の料金を織部は投入した。精算機のディスプレイの金額が「0」と書き換えられ、釣銭払いのところへと領収書が虚しく落下してきた。
織部はそれを拾い上げて財布へと入れると、ハンドルを再び握って目の前を見た。ポリカーボネートのバーがゆっくりと上がり、進路が開放されていく。
「眠たそうだな」
織部はそう呟いてアクセルを軽めに踏み込んだ。ゆっくりと車が前進し、駐車場から大通りへと抜け出す。銀髪の女は不意の一言に意識が冴えた。
「そう見えますか?」
「少なくとも自分にはそう見えた。眠いなら着くまで寝ているといい」
織部はそう言って大通りの手前までくるとハンドルの後ろにあるレバーを上げて左側のウィンカーを点滅させた。銀髪の女は、正直エンジンの音が聞こえているようじゃ眠れないだろうと思いつつも、言葉に甘えることにした。シートの傾きを僅かに変えて全身を軽く伸ばすようにする。
大通りを通過する車の群れが途切れる。その切れ目を待っていたのか、織部はアクセルを踏んでハンドルを左へと切った。上手く大通りへと乗り込むことが出来たことに安心する。ここは深夜にもならない限り車の車列が中々途切れない大通りで、それ故、交差点以外の道から入り込むのは少々面倒が生じるところでもあった。
次の交差点までどのくらいだっただろうか。と考えつつも、織部は車の流れにただただ流されていくように大通りを走り続ける。エンジンの振動にアスファルトの路面の凹凸が加わり、更にエンジンの回転する単調な音が、彼の眠気を呼び覚まそうとしていたがヘッドセットに流れた音声が眠気を殺した。
トラックの一両すらいないお陰で交差点の信号が遠くに見えた。輝く色は赤。前方の車列のブレーキランプが次々に点灯するのを見て、織部はブレーキを掛けて停車した。渋滞のせいで時速40キロメートルどころか30も出せない。こんなんじゃこいつの心臓も腐れるだけだ、と彼は内心で苛立っては愚痴を零した。
この通りの渋滞は一度起きると中々解消しないところだった。しかし、目的地まで行くにはこの通りを使うしかなかった。
彼は停車している間にラジオの時刻表示を見る。デジタル時計のような表示は45分を過ぎている事を示していた。やれやれだ、と思いながら、ふと、織部は銀髪の女の方へと目を向けた。運転中何にも話しかけてこないのが不思議だったからである。
案の定、すっかり寝ていた。先ほどまでの業務の顔はすっかり寝顔に変わっていた。冷静そうに見えた顔は一転し、高貴さの残る寝顔になっていた。
(慣れてないと言っていたから眠れないだろうとは思っていたが)
織部は予想とは違った結果に驚いたが、口には出さずに内心に留めた。規則的な寝息をしているあたり深く眠っているはずだろう、と思いつつ前方へと視線を戻す。
彼方に見える交差点の信号は青へと変わっていた。前の車が動きだすとアクセルをゆっくりと踏んだ。嬉しく無さそうにエンジンが車体を動かす。やがて交差点の手前までくると、前方の車はスピードを上げてその先へと突き進んだ。余り横暴な運転は出来ないな、と心に留めつつアクセルを更に深くゆっくりと踏み込んで交差点を超える。大通りをゆっくりと進みつつ、再度銀髪の女の寝顔を一瞥した。こっちの相方ももう少し成熟してれば彼女ぐらいに魅力的だっただろうな、と後悔するように溜息を吐いた。
動いては止まっての繰り返し、目的地に何時ぐらいに着くかをナビゲーターは静かに表示していたが、織部はそれを見てまたしても溜息を吐いた。
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