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旅の踊り子

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 旅の踊り子

 西の空が朱色に染まっている。すでに大部分が紺色の天蓋に覆われ、まるで宝石のかけらを散りばめたように、星が瞬いていた。夜が近い。列車が走るがたごとという音に、僕はただ耳を澄ませていた。旅に出たのは五日前だ。しばらく過ごした町を離れ、どこか遠くへ行きたかった。誰も僕を知らない場所がいい。居心地がよかったのだろう、前の町では三年暮らした。知り合いも何人かいたが、誰にも次の住所を知らせるつもりはない。
 僕はコンパートメントの一室に座っていた。小さい造りで、あと一人座ればいっぱいになってしまう。窓から見えるのは深い緑の草原と林、時折思い出したように現れる民家だけだ。田舎の風景が延々続いていた。突然、ぴしゃりと音がして、コンパートメントの扉が開いた。戸口に、無精髭を生やした男が立っていた。ぼろきれをまとったような格好だったが、よく見るとそれは長らく洗っていない、黄色くくすんだ服であることが分かった。銀色の、細かく連なった鎖を首にかけていて、その下には汗ばんだ、浅黒い肌があった。どうやら、先ほど停車した駅で乗ってきたらしい。男は向かいの席に視線を飛ばした。その目は細く、暗い光を宿していた。鼻は尖り、口は真一文字に引き結ばれ、周りにはシダのような髭が生えている。その姿は病にかかってやせ細った馬を思わせた。男は「座っていいか」と言って向かいの席を指さした。自由席なので抗議する理由もない。僕は頷いた。男はふっと安堵したような息をつくと、扉を閉め、背負っていたぼろぼろの荷物入れを肩から外した。しぼんだ風船のように、ほとんど何も入っていない。脇にポケットがあり、そこから壜が突き出ていた。男は荷物を棚の上に放り上げると、どっかりと座った。口元をぼりぼりとかき、首を回してうめくような声を出した。酒の臭いが漂っていた。僕は相席になったことを少し後悔した。
「俺はガートルードってんだ。あんたは」女の名がついた男は、そうしないと落ち着かないとでも言いたげに、短いあごひげを指先でわしわしといじっていた。
「カナメだ」僕は言った。ガートルードと名乗った男は、左目を糸のように細めた。
「妙な名前だな。外国人か」彼は鼻を強くつまみ、ふんと鳴らした。
「いいや。しかし遠い国の血を引いている。名前の由来はそこからだ。大事なこと、という意味らしい」自分の名前はあまり好きではなかった。
「なるほど。まあいいや」ガートルードは言った。彼は腰のホルダーから、先ほどとは別の細い茶色い壜を取り出し、一口煽った。「あんたもどうだ、出会った記念に」瓶を突き出し、彼は言った。僕は首を振った。強い舌打ちが返ってきた。
「つまらねえ奴だな。まあいいけどよ。何でもいい。俺の人生何でもいいからな」
 しばらくの間、我々は無言で時を過ごした。コンパートメントには列車の走行音だけが響いていた。緑の影のような風景が、鉄砲玉のように後ろへ流れていった。ガートルードは舐めるようにして、少しずつ酒を飲んでいた。すっかり飲み終わってしまうと、彼は瓶を窓辺の小さなテーブルに置いた。沈む間際の夕日が、その先端をきらめかせたが、すぐに光は消えた。
「あんた、女はいるか」出しぬけに男は言った。バケツを引きずっているような、がらがらした声だった。
「いません」僕は外の風景を眺めたままそう答えた。ぶしつけにそんな質問をされ、いい気分ではなかった。ちらりと見ると、男は口の隙間から歯茎をのぞかせて、僕を観察していた。
「兄ちゃん、なかなか見られる顔してるじゃねえか。その面なら、町に行けば女の一人や二人ひっつかまえられるだろう。ちょっとばかし気の利いたことでも言や、もうねんごろってわけだな。かあ、いいねえ。美男子ってのはよ」ガートルードはげらげら笑った。僕は彼を無視した。「つれない兄ちゃんだな」彼は言った。「女の前でもそんななのか。わざわざ損な役にまわることもあるめえよ。そんな無口じゃ、来るもんも逃げっちまうぞ」
「普段はもう少し話しますよ。知らない人を相手に無闇に話さないだけです」
 ガートルードはにやついた。頬の皺が脂っこく光った。「そんな風に格好つけるのがいいと思ってんならやめちまえよ。自然体だ。ありのままでいたほうがうまくいくからな。何なら、俺が口説き文句を教えてやろうか。こちとらお前さんみたいに育ちのいい坊ちゃんじゃねえからよ。女引っかけるのにも一苦労だ。俺の技をあんたが使えば怖いものなんかねえってもんだろ。え?」ガートルードは一方的に、最初に口説いた女の話をした。行きつけの酒場によく来ていた女で、ふとした瞬間に見せる表情に惹かれたと彼は話した。何度となく口説き、心を開かせたのだという。「もうずいぶん昔の話だ。まあ悪くなかったな。いや、むしろありゃいい女だった。見かけによらず一図でな。最後にはこっちにぞっこんよ。でも俺は振ってやった。分かるか。叶っちまったらそこでおしまいなのよ。あとはごろごろ坂道を下ってくいっぽうだろ。だから俺はいつもそこでおさらばする。丁度山のてっぺんでな。あばよ(彼は手を振った)。男らしい生き方だと思わねえか?」ガートルードは濁流のように不透明な笑い声をあげた。
「真似できそうにありませんよ」僕は言った。窓の外が暗くなってきた。
「そんなものは思いこみだな。もう一回言うが、お堅いのは損だ。こっちがへらへらしてればあっちも緩んでくれんのよ。ま、中には馬鉄みてえにかちかちの、つれねえレディもいるがな。そんなのはほっとけ。大体がつまらねえ女だからな。高嶺の花だかなんだか知らねえが、手に届く場所にあるから意味があるってもんだ。なあ?」ガートルードは急にむせた。気管支がひゅうひゅう音を立てた。僕は聞いていることを示すべく頷いた。ガートルードはまた笑った。彼には歯が何本かなかった。
「次の駅で酒場に行こうや。別に奢ってくれなくていいぜ。そのくらいの持ち合わせは俺にだってあるんだよ。俺は兄ちゃんに女を落とす手ほどきをしてやる。そいで、兄ちゃんはそれを試す。どうだ、それだけでいい酒の肴になるだろ。あ?」彼は無骨な銀の指輪をした手を開いた。肉がなく、指の関節がいやに飛び出ていた。
「あなたがやればいいじゃありませんか」僕は知らぬ間に男の話につきあっていた。
「お前は馬鹿か」彼は急に癇癪を起し、壁を殴った。窓枠ががたがた震えた。「とっくに飽きたから人に伝授するんだろが。利口な顔してちっとも頭が回らねえんだな」ガートルードは歯茎を見せ、鼻を突き出した。「ま、心配すんな。酒場に着いたら俺が手ほどきしてやるから、な?」
 我々は再び沈黙した。窓の外を、ひっそりとした森が流れていった。夜の闇が深まり、遠くにある景色を少しずつ吸いこんでいく。ガートルードは眠っていた。列車の音より大きいいびきをかいた。僕の気分は台無しになっていた。本当のことを言えば、旅立った町には知り合いの女性がいて、僕はその人のことに好意を寄せていた。花屋で働く、笑顔の儚げな人だった。しかし、細い筆でささやかな生計を立てることしかできない自分の身の上を思うと、これと言って何をすることもできなかった。彼女は僕に親しくしてくれたが、それは好意というより、ごく一般的な親切心だった。目の前の男に話せば笑いそうな話だ。
 やがて、列車は田舎の町にある小さな駅に停車した。懐中時計の時刻は午後九時を指していた。列車はこの駅に夜更けまで留まるようだ。ガートルードは相変わらず眠っていた。僕は少し迷ったが、彼の肩を叩いた。彼はうめくような声を出し、薄眼を開けこちらを見た。「ああ? 誰だおめえは」
 鼻が曲がりそうな酒臭い息が顔にかかった。「カナメですよ。僕とあなたは先ほど乗り合わせ、飲みにいく約束をしたところです。忘れましたか」
「おう、そうだったな」ガートルードは酸欠の犬みたいな音を立て笑った。「起こしてくれるたぁ驚きだ。お前は俺をほったらかしにすると思ったからな」彼は立ち上がり、首を回した。また鼻をつまみ、ふんと鳴らした。「それじゃ行くか。まあ兄ちゃんにたかったりしねえから安心しろや。こう見えて俺ぁ貸し借りにゃきっちりしてるんだ。前にそれで痛い目見たからな」ガートルードは笑った。長年牢で過ごす囚人のように卑屈な笑顔だった。
 我々は連れだって列車から降りた。遠方へ向かう乗客たちが、しばしの休息を得るために、改札を抜け、町へ出ていくところだった。あたりはすっかり夜の闇に包まれていた。黒い影のような梢が風を受け、ざわざわと音を立てた。駅の端には小さなランプが灯っていた。それはぼんやりとした光を放ち、揺れた。まるで死者の街にでも来たようだった。
「行こうや兄ちゃん。えれえひっそりした町だが、酒場くらいあんだろ」
 改札を出ると、二百メートルほど向こうにはもう町の出口が見えた。開拓時代の名残のような、侘びしい小さな町だった。木造の家ばかりで、そのほとんどは修繕もされずに朽ちかけていた。商店の看板は塗装が剥げ、文字もほとんど読めなかった。風をうけて飛んできた枯れ草が足に引っかかり、闇に消えた。生物の気配が薄い場所だった。いつの間にか空は曇り、星は消えていた。まるで悪夢の使者が黒いカーテンで街をすっぽりくるんでしまったようだった。
「おう、想像以上だな」ガートルードは言った。「俺のような人間にふさわしい村だ」
 彼の言うように、村と呼ぶほうが相応しかった。列車の乗客以外は誰も歩いていない。町の両側は闇に消え、その外側には何も存在してないように思えた。我々はそぞろに歩き、古びた酒場に着いた。腐りかけたような古い木造の店で、外には水を張った鉄の桶があった。誰かの吐瀉物が近くに撒かれていた。まだ生乾きだった。自分一人だったらこんな場所には絶対に入らないだろう。
「っへ、小汚ねえ場所だ。いまだに跳ね扉なんて使ってやがる」そう言ってガートルードは扉を押し開けた。蝶番がきしんで、狂ったような音を立てた。高い天井から吊り下げられた電燈が照らす店内は、むっとするほど埃っぽく、酒臭かった。僕はたちまち気分が悪くなった。村にはここしか酒場がないのか、客は妙に多かった。封印していた悪霊の箱を開けたような気分だった。若者はほとんどいない。みな中年以上の、柄が悪い、陰気な客ばかりだった。片隅で筋肉質の男が連れの女にキスをしていた。女はくたびれた笑みを浮かべ、こちらへ気のない目を向けた。僕は目を背けた。客が入ろうと誰も構わなかった。「いい店だ」ガートルードは言い、店の端を指さした。「あすこの席が空いてるぜ」
 我々はカウンター席に座った。黒ずんだ肌の小汚い老人たちが、聞き取れない言葉で呪文のように何かをつぶやいていた。空調のプロペラはおそろしくゆっくりと動いていた。時折止まるが、しばらくするとまたゆっくりと動きだした。まるでそれが時の流れをおかしくさせているようだった。片隅には忘れられたようにアップライト・ピアノが置いてある。色あせた木製の蓋がぴたりと閉じられていた。黄色いほこりが店内に充満しているようだった。
「旅の人か」カウンターの向こうで、水分の抜け切った藻のような白髭を生やした老人が眼光を飛ばした。僕は頷いた。
「ついさっき知り合った道連れでな。出会いの記念に一杯やろうってわけだ」ガートルードがそう言って注文をした。僕は面倒なので彼と同じものを頼んだ。
「ああ、こりゃ見事な店だ」ガートルードはカウンターを両手で撫で、満足そうに言った。「俺にぴったりだ」
 僕は入り口を振り返った。列車の乗客と思しき人の足が戸口に見えたが、踵を返し去っていった。この酒場にいる列車の乗客は僕とガートルードだけだった。僕は一人だけ取り残されたような気分になった。永遠にこの町から出て行けないような錯覚にとらわれた。どしんと音がして、カウンターに酒が置かれた。何もかもがぼやけた店内で、ジョッキだけが透き通っていた。琥珀色をしたビールが入っている。
「乾杯」ガートルードがジョッキを鳴らした。鈍い音がし、すぐに消えた。彼は喉を鳴らし、三分の一ほど飲むと、袖で口を拭った。僕も飲んだ。店は汚かったが、酒は悪くなかった。やけに強く、魔力的に身体を燃やすような味だった。
「これじゃ碌な女が来ねえ」ガートルードは言った。「あいにくだったな」彼は笑った。僕は首を振り、またビールを飲んだ。胸の奥に熱が絡みついた。「まあそういうこともあらあな。ところでおめえ、女を口説いたことはあんのか」ガートルードはげっぷをした。
「ありませんよ」僕は言った。「そういうのは苦手で」
「は。そんなものは最初だけだ。場数だな。場数さえ踏めば誰だろうと似たようなもんだ。でもな、大事なのはその女を正しく理解できるかってことよ。結局のところ連中はちゃらちゃら着飾って、口説かれんのを待ってるわけだ。あいつらにも好みはある。だがな、言い寄られるのが嫌ってわけじゃねえのさ」彼はビールを豪快に飲み、排水溝に水が吸い込まれるような、ごぼごぼという笑い声を上げた。
「そういうものですか」
「ああそうよ。女に関しちゃ俺はお前よりましな目を持ってる。他の知識じゃ赤ん坊といい勝負だがな(ここで彼は鼻をつまんで、また息を吐いた)。肝心なのは情熱だ。それだけあればあとは何もいらねえと言ってもいい。でも勘違いしちゃいけねえのは」ガートルードは目を細めた。彼の言葉はしばしば一貫性を欠いた。
「こっちがぺらぺら話すんじゃなくて、向こうの話を聞いてやるってことだな。いいか、おめえさんが話すのは初めだけでいい。あとは聞き役になる。真面目な聞き役だ。相手の目を見て、聞いている内容をきちんと理解するこった。大事なのはその女が何を話してるかじゃなく、何を感じているかだ。分かるか兄ちゃん? この違いがよ」ガートルードはこちらに身を乗り出した。僕は分からないと答えた。
「女の考えってのは野郎には理解が及ばねえところだ。うかつに入りこむと手足を切っちまう。藪の中みてえにな。だから丁寧に入っていく。すると目のくらむ花が咲いてる場所がどっかにある。それは薔薇かもしれないし、リンドウかもしれない。必ずどっかには咲いてる。だけどもな、世の中それを見つけられない奴ばっかりよ。土足で踏んじまう。たいていは下心しか持ってねえからな。どっこい俺は違う。こう見えてそのへんは並の男より筋が通ってるのよ。分かるか?」ガートルードはまた僕のほうを見た。時折そうやって確認するのが彼の作法らしい。目には茶色の、奇妙な光が宿っていた。誰も訪れない洞窟の奥深くで輝く水晶のようだった。彼はたわしのような髭をかいた。
「そういうこった。単純だが難しい。何人かにこの話をしてきたが、まあ分かってない。そういう奴は女とも碌なつき合いをしないんだ。世の中ってのはそういう風にできてる。よう親父、もう一杯くれや」いつの間にかガートルードはジョッキを空にしていた。カウンターの向こうで亭主は「あいよ」と言って準備にかかった。しばらく僕とガートルードは黙っていた。やはり、店内には黄色い靄のようなものがかかっているようだった。それを吸いこむと頭がくらくらし、身体が沈んでいった。やがてガートルードはこう言った。
「ついでだ兄ちゃん。俺ぁ今日いい気分なんだ。だから特別に、俺が会った中でもとびっきりの女の話をしてやる。今まで、この話を人にしたことはねえからな」
「そんな話を僕に? 大事な思い出なんじゃありませんか」僕はビールを見つめた。半分以上残っている。店のランプの光がその中に閉じ込められていた。少し酔ってきた。
「その通り、大事も大事だ。でもな、俺ぁあんたの、人を見た目で軽蔑しないところが気に入ったのよ」ガートルードは二杯目のビールを受け取った。「乾杯だ」
 僕らは再び杯を交わした。どこからか現れた、楚々としたドレスを着た女性が、店の片隅にあるアップライト・ピアノを弾き始めた。時の彼方から聴こえてくるような、埃をかぶった、沈んだ音色だった。「悪くねえな」機嫌をよくしたガートルードは、つぶやくように話を始めた。
「さっきはああ言ったがな。俺もたった一度だけ『高嶺の花』ってのに手を伸ばしたことがある」ガートルードは眠そうに目をこすると、また鼻をつまんで鳴らした。「ありゃ成人して間もない頃だった。その時、俺は流れ者の町にいた。どうしてそうなったかってのは、話すと長いからな、詳しいところは省かせてもらうがよ」ガートルードはまたビールを飲んだ。「俺は昔から根なし草だ。もともと天涯孤独よ。宿もなければ友もねえ、ってな。そいでだ。俺はその頃旅の身で、荒れ放題の町にいた。粗野でいかれた連中ばっかりのところだ。四六時中、強盗や喧嘩に巻き込まれる。毎日のように殴りあってたな。口の中はしょっちゅう血の味がした。金なんてものは何の役にも立たねえ。かっぱらうか、よくて物々交換だ。常識とか法律なんざ存在しねえ。欲望をぶつけあっているうちにでき上がったルールがすべてだ。その頃、俺は長らく女と関わってなかった。つうのもな、前の女が裏のでけえのとつるんでて、ずいぶん痛い目を見たからだ。ほれ」ガートルードは口を開けた。歯が二本ない。
「もっと欠けてたのよ。金がねえから全部は埋められなかったんだ。前は食うのにも困るくらいだった」彼はあざけるように笑った。「当分女とは縁を切っていたかった。だからあの時はもっぱら、その日隣にいた奴と飲み明かす毎日だった。俺みたいにはなっから破綻してる人間は、同じようにいかれた連中と一緒にいるほうがいいのさ。何軒も酒場やショー・パブを渡り歩いて、ツケを溜めちゃ踏み倒し、こっぴどい仕返しに合うってな。持ってた物はみんな盗られちまった。どぶで顔を洗う毎日さ。別にいつ死んでもよかったからな。でたらめだが楽しかったぜ。世の中じゃたいていの奴が何かしら面倒なものに縛られて暮らしてるだろ。でもあの町にいる奴らにはそんなもん存在しなかった。まず町長が見事なまでに狂ってた。悪法だけがまかり通ってる。やられたらやり返せってなもんだ。風の噂じゃ、もう今あの町は潰れちまったらしい。言ってみればロスト・パラダイスだ」ガートルードはジョッキを煽った。客のかすれた話し声と、遠い世界から聞こえるようなピアノの旋律が重なって聞こえた。現実味の薄い時間だった。
「ある日のことだ。俺はとあるショー・パブで飲んでいた」彼は口についたビールをぬぐった。「そこにはステージがあった。芸を持った連中が、身銭を得るために得意の業を披露する場所だ。そんな一部の場所ではまだ金を使った取り引きが成り立ってたのよ。どいつも面白いことが好きな連中だからな。それを見るためならちょっとばかり大人しくしてようぜってな」ここでガートルードは口をつぐみ、慎重に記憶をたぐるように、目を細めた。「そこで見たのがローズだった。奴ぁ踊り子でな。若かったが、大した力を持ってた。ステージにあいつが上がるだけで、その場が別世界になっちまうっつうかな。例えばこんな酒場みたいなしけた場所でも、しいんとして、まるで秋の朝みたいに静かになっちまうんだ。あいつが踊り終えるまで、客の視線はいつも釘づけでよ。帰るときにはもっぱらあいつの話で持ちきりだった。『あの女の周りには光が見えた』とか『ありゃ極上の女だ』とか、そんな風に騒いでたっけな。あながち間違いでもねえ。確かにあいつは、光とか護符とか、そんな言葉で褒めたくなるくらいの何かがあった。ただ踊ってるだけなのにな。どういうわけか見入っちまう。天性ってのものが地上に存在していることを知るんだったら、まずはあいつの踊りを見るのがてっとり早いな」ガートルードはまた鼻をつまんで鳴らした。「あいつはまるで笑わない女だった。いつも冷たい顔をしててな。なんぜ極上の踊り手だからな、人に愛想をふりまく必要ってのがなかったんだ。それがまたそそるのよ。思い出すだけで震えちまう。ああ、俺はほんとにあいつとつき合ってたんだな」ガートルードは上唇をなめ、またビールを飲んだ。のどぼとけが上下に動いた。「なんつっても、あいつはまず美人だった。それに、大抵の女が自分のと取り換えたくなるような見事な身体つきをしてた。細すぎず、太すぎず。背も低くないし、高くない。それが踊ると抜群のシルエットになるのさ。男だったら、誰もが最後まで見ないわけにはいかなくなるくらいにな。あいつはまるでダンサーになるために生まれてきたような女だった。風の影が運んできたみたいに、ある日突然あいつは町に現れたんだ。そしてその日から、あいつのいるパブがトップになった。だいたいの奴は熱狂したが、問題の種にもなったな。隣の店なんざ、一度わけのわからねえいちゃもんつけて殴りこんできたくらいだ。まあそんなもんはローズの虜になった奴らが火みたいに怒って追っ払っちまったけどな。ローズが踊ればいつも、それを見た野郎どもはまるで子供に返ったみたいに口開けて見とれちまう。求婚した奴もずいぶんいた。てめえの身の上なんぞ一切気にしないでな。愚かなもんだ。もちろんそんなもんはあいつの相手にされなかった。『遊戯に興味はないの』なんてあいつは言うのさ。相手の本質ってものを一目で見抜いちまう。何年もステージから客を見ていたからかもしれねえ。ともかく、俺の知ってるとこじゃ、あいつに言い寄った男どもは誰一人相手にされなかった。中には力ずくで薔薇を摘みとろうと手を出した奴もいたが、どいつも棘が刺さって血を流した。どういうわけか、ローズを強引に連れ出そうとした奴は怪我をした。それもかすり傷じゃねえぞ。長いこと動けなくなったり、一生残るくらいのひどいのをな。しまいには自殺する奴まで出てきた。あいつをものにできないと知って、頭がおかしくなっちまったんだろうよ。あいつの踊りは見るものを心底惹きつけるが、それと引き換えに何かを奪っちまうんだ。心がどっかに飛んでっちまうんだな」
 ガートルードはピアノを弾いている女性に一瞥をくれ、またカウンターを見た。
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