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銀の夢

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 銀の夢

 外は一面が雪で埋まっていた。まるで銀のカーペットをどこまでも敷きつめたように、冷たく一様な世界がどこまでも続いていた。灰色の空からは相変わらず雪が降り続いており、それがぼやけたカーテンとなって、一切の音を遮断しているようだった。俊は、透明なビニール傘を広げると、大きく息を吐いた。吐息がまっ白に曇って昇り、消える。一歩踏み出すと、ゴム底がまっさらな雪を踏み固め、ぎゅっと鳴った。この時期のために、過保護な祖母がわざわざ丈の低い長靴を買ってきて、俊はそれを履かされていた。防寒対策。上は黒いコートとマフラー、そして手袋。下はブルーのカッパ。そんなおせっかいのおかげか、この雪の中でも寒くはなかった。問題なのは、この果てしない、灰色の世界だ。見慣れたはずの駅までの道のりが、ずいぶん遠くに感じられる。俊は受験がなぜ冬に行われるのか、いぶかしく思った。交通機関や受験生の足に乱れが生じやすいというのに。他の季節にやればいいじゃないか。彼は雪に穴をあけながら、一歩一歩駅まで歩いていた。いつもなら十分で着くところを、今日は何分かかっているのだろう。目の前に白いもやが現れた。マンションの駐車場から出ようとした車が、積もった雪に引っかかり、タイヤを空転させていた。猛獣のようなうなりと怒ったような煙を吐きながら、車は何度も後退しようとしていた。力ずくで雪の塊を乗り越えようとしては、押し返されて戻ることの繰り返し。除雪しない限り、出ることは不可能に思われた。テールライトが真っ赤な顔に見えた。俊は舌打ちをして、先を急いだ。
 深夜から今朝までの間に、雪は実に二十センチ以上積もっていた。俊は一度、空を見上げた。まだ降りそうだ。埋まった足を引き抜くと、自分のものとは別の足音がした。犬を散歩させている中年女性が歩いてくるところだった。目つきの悪い、敵意をむきだしにした雑種で、顔が黒ずんで潰れている。首輪がきついコルセットのように食い込むのを無視して、犬は俊に向かって低く、警告するような声を発した。汚い歯茎がむき出しになった。蹴飛ばしてやりたい、と俊は思った。鼻がつんとした。「こら、こら! こーら!」傘をさした、顔の見えない飼い主が犬を引っぱった。中年女性のようだ。犬は後ろ足で立ったまま、しばらく俊を睨みつけていたが、次第に離れていった。弾丸のような叫びが、雪の彼方へ遠ざかっていく……。俊は寝不足だった。血の巡りが悪く、頭の中にかたまりのような重たい空気が閉じ込められているようで、ひどく気がふさいだ。今日が早く終わればいい。ざくざくと雪を踏みしめながら、彼はついさっき母親が、まるでとっておきの着せ替え人形を愛でるように防寒着を彼に着せ、これで準備万端、気をつけていってらっしゃい、と微笑んだのを思い出した。気のない返事をしたが、それ以外のことはほとんど口にしなかった。父親が死んで以来、そうやって空元気をふるわれるたび、彼は何とも言えない気持ちになった。「あなたなら大丈夫よ」
 今日受験する大学は、彼にとっては挑戦校だった。学部、学科の多彩さを売りにしていて、時折テレビコマーシャルまでやっている。――君の心を熱くする、中海大学――チアリーディングや陸上、科学の実験をする学生たちが次々に画面に映る。三つあるキャンパスには大勢の学生が通っているのだ。俊は特に理由もなく、そこの工学部、情報システム科を志望した。同級生の中にも同じ大学を志望する者は多かった。クラスメートの坂本が、「ここなら俺、楽勝だわ」と、得意そうな笑顔とともに言っていたのを思い出す。ひょうひょうとしていて、気がつけば優秀な成績を収めているような、元テニス部の男だった。彼はロブを打ち上げるような軽やかさで、一年間に五人の女子の間を渡り歩いた。受験期にもかかわらず。俊は彼のことが嫌いではなかったが、彼が苦もなくものごとをやってのけるたび、何か不平等を感じずにはいられなかった。努力せずとも望ましい道に進める人間がいるということを、俊は彼を見ているとよく思った。同じクラスの女子、山瀬夕子など、どれだけ勉強しようとも平均点に乗るのがやっとなのに。彼女の夢は、話を聞く人が真っ青になるような幸福な家庭を築くことだ。「一戸建てに住んで、ペットを飼って、車と子どもはふたつずつ」彼女にとって子どもは所有物らしい。友人にそう話しているのを俊は耳にしてしまった。別に聞きたくもない話だった。もっとも、俊には聞きたい話などなかった。周りが彼女の絵空事に対し、何と答えるか迷っていることにも、当の彼女は気づいていないようだった。女子の一人が、彼女のことをこう言った。「山瀬さんって、何か勘違いしてる」俊は思わず笑ってしまった。たしかあれは、下唇をむくれたように突き出しているのが特徴的な、元バドミントン部の吉田奈々枝が言ったことだった気がする。
 どの場合においても、学校、学級というものは一通りの人間のサンプルを集めた博覧会のような様相を呈する。そこには様々な人種がいる。道化になる者、異性に色目を使う者、まとめ役に、引っ込み思案、お洒落好きに、噂が常に付きまとう者。すべてが揃っている。俊は白銀の絨毯を見つめながら思う。卒業を間近に控えた今、振り返ってみれば、三年三組はまるで統率力のないクラスだった。球技大会は一度勝てれば御の字。HRでは誰も意見を出さない。盛り上がるということを知らない。俊は別にそれで構わないと思ったが、クラスで一人だけ、本来は軽率な仲間と騒ぐのが好きな名取が「このクラスつまんねえ」と言っていたことには同情する。大抵のクラスには空騒ぎする連中が数名いる。彼らはムードメーカーとなり、しばしば男女間の接点として、クラスを盛り上げ、雰囲気を明るくする。しかし三組の場合、そのポジションには名取しかいなかった。サッカー部だった彼は球技大会のサッカーでも活躍するはずだった。しかし、フォワードがワントップなのに対し、守りが十人もいることに失望し、このクラスに見切りをつけたようだ。彼が受験期にもかかわらずよく授業を抜け出し、別のクラスに紛れこんでいたのは、クラス中が承知していたことだった。退屈な一年がそろそろ終わる。この寒空の下では、そうした日常がちょっとした幻のように思えてくる。俊はマフラーを口元まで引き上げた。前を見ると、ほとんど壁のような雪の向こうに、コートを着た人影が消えるところだった。
 冬は嫌いではない。しかし朝は苦手だ。あの、いつも甲高い声で喋る、元気だけが取り柄の幼稚園児みたいなキャスター(いつもあの番組に切り替えるのは母親だ。俊にはあの番組の何がいいのかさっぱり分からない。特にあの局はキャスターの馴れ合いがひどい。一人暮らしすることがあれば絶対に見ないだろう)が場違いな声で告げていた。雪は一日中降るらしい。朝の不機嫌な時間帯に繰り返し接するというだけで、それは嫌悪の対象となりうる。それは携帯電話の目覚ましでも、ニュースでも、新聞の見出しでも、眠そうな妹の顔でも同じことだ。
 駅に着いた。家を出てから十五分以上経っていた。俊は銀の世界から現実に戻ってきた気がした。大雪の日でも、世の中はせわしく動いている。小走りで改札を抜けるサラリーマンを見て、彼は眠くなった。電光掲示板の到着案内を確認し、俊はホームに下りた。まださほど混んでいない。ラッシュアワーまであと一時間半ある。ホームのひさしの向こうで、渦巻くように降る雪を見つめながら、俊はまた真っ白な息を吐き出した。
 雪のためか、電車はすぐに混んできた。途中で、くたびれた、太ったサラリーマンと密着した。青ざめたガマガエルのようなその男は、鼻息荒く呼吸していた。息が顔にかかって不快だった。たるんだ顎に、髭の剃り残しがあった。牡蠣をつめこんだタッパーの中に閉じ込められたような気分だった。なぜか舌打ちをされたので、俊は彼の靴を踏んでやった。男は聞き取れない言葉を歯の隙間からこぼしたが、俊の耳には入らなかった。朝の電車も大嫌いだった。進学したらこれに毎日乗ることになる。そう思うとすっかり参ってしまう。目をつむると、遠くの方から、障がい者だろうか、奇妙な叫び声と、窓を叩く音がした。恐怖を表現した、異端作曲家の音楽のようだった。それがまた乗客の苛立ちを煽った。目には見えない圧力が、電車に乗っている人間の寿命をじわじわと減らしているようだった。いなくなってしまえばいいのに。俊は思った。降りる間際、先ほどとは別の男に因縁をつけられた。チェッ。身に覚えのないことで我々は恨みあっている。
 電車を乗り継ぎ、俊はようやく目的の駅に着いた。この上バスに乗らなくてはならないとは。彼はバスが特に嫌いだった。揺れに耐えられないからだ。もっとも、この世の中にあるものなど、彼にとっては嫌いなものばかりだった。小学校の頃しょっちゅう生徒をひっぱたいた中年女性教師、田舎に行った際、祖父母に車で連れまわされること、親、いつも噂されているような気がすること、家庭科の教師の甲高いヒステリックな声、低血圧、気ちがいのように明るい連中、流行。考えるとまたいらいらした。俊は意識を外に向けた。
 バス停に着いた時、彼は思いのほか人が少ない気がして、しきりに辺りを見渡した。鞄から行程をプリントアウトした紙を取り出し、時間と場所に間違いがないことを確認した。確かに間違っていない。降りつづく雪が、手袋をはずした彼の手を凍りつかせようとする。大丈夫、待っていればバスが来るはずだ。俊は銀色の、小さな穴が整然と並んで模様になっている椅子に座った。一本しか電車の走っていない駅とはいえ、やけに寂しい場所に思えた。バスターミナルはいやに広いが、路線は多くない。時計のある広場には、禿げた背の高い樹が一本と、雪の積もった花壇があるだけだった。俊には、それが三十年以上前に忘れられた里のように荒涼として見えた。〝緑のある町づくり 住みよい暮らしの実現〟という、ありふれているがこの場にそぐわないのぼりがかかっていた。ここには夏にも来た。オープンキャンパスがあったからだ。その時より遥かに侘びしい風景だった。雪のせいだろうか。俊は落ちつかなかった。彼は椅子から立ち上がり、身寄りのない子どものようにあたりをうろうろした。バスが来るまで五分。人が全然並んでいない。彼はまた不安になった。もしや、何か取り返しのつかないような重大な間違いをしたのではないか。会場が違う、日付が違う、時間が遅い……。さまざまな考えが彼の頭をいっせいに駆け抜けた。間違っている間違っている間違っているかもしれない。俊はまた気分が悪くなった。きっと怒られる。幻覚のような、頭のぼうっとする感じ。今朝は、どういうわけか小学校の頃好きだった相手の夢を見た。名前は忘れてしまったが、彼女はクラスの対角線上にある机に座っていて、遠くからピースサインをしてはにかむ。俊はそれに応えようと思うが(それは実際にあったことだった。彼はその時そうしたはずだった)、なぜか身体が動かない。動かせない。動かそうとすると、頭が熱くなってくる。歩いてきた教師に見とがめられ、注意を受けてしまう(これは彼の記憶と異なった)。彼女のほうを見ると、もうこちらを見ていない。彼は大きな間違いを犯した気がしてくる。教師に見下ろされながら、何か恐ろしい罰を言い渡されるのだとびくびくする。すると、足元の床が抜け、彼はすとんと下へ落ちていく。驚くほど速い。暗くなる。場面が変わり、どこかの試験会場に舞台が移る。そこでは分厚い、自動的に剥がされる日めくりカレンダーが、狂ったようにカウントダウンを刻んでいる――365、364、363、362、とにかくすごい速度だ!――急がなきゃ。俊は問題を解き始める。厳格な、黒い槍のように背の高い、眼鏡をかけた試験監督が、恐ろしいほどの早歩きで不正がないか見回っている。俊は『絶対に不正だけはしちゃいけない、絶対に不正だけはしちゃいけない』と心につよく言い聞かせる。息をするたび、心臓が狂ったように百回も鼓動を打つ。マークシートを鉛筆でつよく塗りつぶす。つよく、つよく。なぜだか隣り合ったマークをふたつ塗ってしまう。俊はあわてて消そうとする。しかしもう遅い。試験監督はすべてを見ている。直線的に歩いてきた彼は、血の止まるような力で俊の腕をつかむ。俊はその場に立たされる。教室じゅうの目がいっせいに彼を向く。全員、口が裂けそうなほど笑っている。俊は何もできなくなる。すべてが終わった。脱力――彼の頭は真っ白になり、全身の血がすべて下に落ちる。先ほどより速く落下する。光ははるか上に残され、あとは真っ暗、帰ろうと思っても帰れない。落ちる。落ちる。もう駄目だ! 彼はそこで目が覚めた。ひどい夢だった。起きたあとも、それはにぶい痛みのように彼の頭に残っていた。試験に落ちるのだろうか。朝からずっといらいらしている。
 彼は気がついた。バスが停まっていた。「待って!」彼は手を上げ、慌てて乗り込んだ。
5, 4

  

 バスの中は暖かかった。暖房が利いていた。コートや傘から水滴がぽたぽたと垂れた。彼は前のほうに座り、もう一度鞄から行程表を取り出した。時間を確認し、乗っている路線を確認した。風見ヶ丘経由、唐荘院行き。間違いない。俊はうなずいた。車内はやけに人が少なかった。試験開始までまだ一時間半あるが、早すぎるということもないはずだ。しかしこの人の少なさは気になってしかたがない。でも間に合うためにはこれでいいはずだ。どうして決まった時間に決まった場所にいなければならないのだろう。俊は思った。彼はそういう、社会生活を進める上で必要な期日や時間を守ることにたびたび過敏になった。気がつくと飛ぶように時間が過ぎていて、閉め切りや当日がすぐ近くに来ているということがよくあったのだ。何度か、彼はパニックに近い症状にとらわれたことがある。たとえば二年生の夏休みの宿題がそうだった。彼はどういうわけか、数学の課題だけを丸々残したまま八月三十一日の夜を迎えていた。その時は頭が真っ白になった。しばしば、火花のようにこんな問いがはじけた。今何をしている? どこにいる? どこまでやった? 時間というものはまるで信用できない尺度だと彼は思う。こんな曖昧な基準を前提に世の中が動いているのだとすれば、いつか自分はそれについていけなくなるかもしれない。そう思い、眠れなくなった時期が彼にはあった。時間、時間、時間――それは恐ろしい呪文のように我々の日常を支配する。
 俊は顔を上げた。今はどこにいる? バスの運賃表には、初乗り料金が電光提示されていた。ここから六つ目の停留所で彼は降りる。六つ目、六つ目。しかし彼はこう思ってしまう。もしも降りられなかったら? また頭がぼんやりした。いっそのこと眠ってしまいたい。しかしそうはいかない。時間に余裕がない。また時間か。頬に感じた冷たさに、俊は飛びのいた。窓に顔をつけてしまったようだ。頬をくっつけた場所を丸く残し、窓はまっ白に曇っていた。俊は手袋を外した手で、窓を擦ってみた。しかしあまり変わらなかった。白をこすっても白。斜めに雪が降り、ブラインドのようにきれぎれに町の景色を映し出しているだけだった。反対車線を車が通っていく。慣れない雪のためか、俊が眠いせいか、ずいぶんゆっくりしている。人が全然いない。まるで世界の人口が百分の一になってしまったようだ。やっと人を見つけた。小さい子と母親。黒い竹と竹の子が雪から生えているような感じだった。子は小さなコートを着て、フードをかぶっていた。彼、もしくは彼女はこちらを見た。そして片手を上げ、その手で何かを形づくった。二、三?――何を表しているのか、俊にはそれが判別できなかった。そうしているうちに子どもの姿は遠ざかってしまった。彼は落ちつかなかった。あれはピースだったのか。それとも自分の歳を表していたのか。彼は前を向いた。試験なんてなくなってしまえばいい。山瀬夕子などはほとんど嬉しそうといってもいい顔をしていた。舞踏会に行くシンデレラか。やはり彼女は何かを勘違いしている。たぶん永遠に彼女は勘違いしつづけるのだろう。それは何も彼女に限らない。誰もが何かを勘違いしつづけるのだ。俊の考えはこうだった。大学は新しい世界の入り口などではない。むしろそれは彼の思う「世界」から遠ざかる場所だ。いや、だからこそみなそこに向かおうとしているのか……? 俊はまた顔を上げた。頭が朦朧としてきた。昨晩、落ちつかない腹いせにマスターベーションしてしまったのは失敗だ。
 最初の停留所にバスが着いた。ドアが開き、今にも倒れそうな足取りの老婆が乗ってきた。他に誰も出入りしなかった。単調なブザーを鳴らし、バスは折りたたんでいたドアを閉じた。排気音がし、ぐらりと車内が揺れる。吊り革が揺れ、すべてが揺れる。気持ち悪い瞬間だ。うえ。老婆は座席脇のバーにつかまり、揺れをやりすごすと、ひどく緩慢な動きで座席に座った。彼女は深緑のレインコートを着て、フードをかぶったままだった。なぜフードを下ろさないのか。下ろせよ! 彼は心の中で叫んだ。老婆は置き忘れられたゴミ袋のように、座席に身を縮めていた。時折、痙攣するように両手をぴくっと持ち上げた。その様子にはどこかむかつくものがあり、俊は彼女を見るのをやめた。ガムを食べたかったが持っていなかった。彼は鞄からiPodを取り出し、音楽をかけた。日本語の無気力な歌だった。なぜこんなものを入れたのだろう。彼は過去の自分を蹴りとばしたくなった。それは何も曲に限らない。いま向かっている大学にしたって同じだ。なぜここにしたのだろう。ではこの席は? なぜここを選んだ? 俊は急に、今までの自分が何ひとつ選び取っていないような気がした。今日までにおける自分は、歩いてきたのではない。歩かされてきたのだ。つまり自分は生きているのではなく、生かされているのだ。家畜と同じだ。しかるべきときに殺される。それを知らずに餌を食べ続ける。頭の中で名取が言った。「このクラスつまんねえ」そのつまらない人間のひとりが自分である。彼は今まで、そんなことを考えもしなかった。そして、ここにいることが怖くなった。自分が怖くなり、自分をつくったすべてが怖くなった。iPodを止め、乱雑に鞄の中にしまった。気持ちが悪かった。彼は前の席に頭を押し付けながら、後ろを振り返った。乗客が三人いた。口をあけて眠っている、眼鏡をかけた、魚のような顔のサラリーマン。ブランド物のコートを着て、気だるそうに外を眺めている女。大柄な、頭の禿げた、顔に脂がてかっている男。みな抜け殻のように見えた。「ぼうや」突然、腐敗した粘着液のような声がかかった。目の前に、フードをかぶったままの老婆が立っていた。青ざめた唇と、黄色がかった、やせた頬だけがその下からのぞいている。皺だらけの顔の中央で、血の気のない舌が狡猾な知恵をたくわえた生きもののようにうごめいた。「どうしたんだい、顔色が悪いよ」老婆は言った。俊は逃げ出したくなった。しかしそれはできなかった。老婆はちょうど座席の真横に立ち、彼の退路を塞いでいた。「大丈夫です」押し出すように彼は言った。「本当に大丈夫ですから……」「そうかい」老婆は時間をかけて自分の席に戻った。間もなくバスが二つ目の停留所に着いた。今度は誰も乗ってこなかった。二度と誰も乗ってこないのではないかと俊は思った。暖房が利いているにも関わらず、ひどい寒気を感じた。あの老婆が、彼の体温をまるごと吸い取ってしまったような気がした。先ほどの腹立たしさはすっかり失せていた。バスの中が異様に広く感じられ、四角ではなく丸く引き伸ばされているように思えた。彼は深呼吸したが、空気が余計に逃げていくだけだった。鞄をあさり、俊は予備校で使っているノートを取り出した。物理の公式や法則の載った図を眺めていると、少し気分が落ちついてきた。そう、この公式が世の中を形作っている。大丈夫、大丈夫だ。彼は言い聞かせた。勉強はしっかりやった。昨日までに受けた試験にも手ごたえがある。たとえ今日失敗しても、すべてが駄目になるわけじゃない。彼は自分に言い聞かせた。そして、「皆さんの健闘を祈ります!」という、予備校講師の声が頭に響いた。笑うと目が糸のように細くなる、気さくな、道化のような講師だ。とても巧みに講義を行い、内容も分かりやすかった。しかし俊には今、それが教室を長期間使った催眠術の一種であったように思えてきた。「いいですか、要点を覚えることです。身体に取りこむことです。そうすれば物理学は決して難しいものではありません。なんといっても、皆さんの世界を支配している法則なのですから。難関大の問題であろうとそれは同じです。当日、皆さんは分かっている問題を解いてくるのだ、という心構えで、とても冷静に会場に向かうことができます。間違いありません……」来る日も来る日も彼らは教室に向かい、そんな催眠術にかかっていたのだとしたら? 俊はノートを凝視した。そこに書いてある文字がさらさらとこぼれおち、ともすれば消えて白紙になってしまいそうだった。三つ目の停留所に着くと、暗示が解けたように目を覚ましたサラリーマンが降りていった。乗ってくる者はいなかった。単調なブザーが鳴り、ドアが閉まる。その間際、切り取られた隙間から。路面に降り続ける雪が見える……。彼はここから出ていきたいとつよく願った。しかしそれは叶わなかった。俊は声を出せなかった。無情にもバスはまた走りだす。俊はノートを閉じ、目をつむり、前の席にもたれて下を向いた。僕は何も選ばなかった。バスは勝手に決められたルートを進んでいく。結局そうすることしかできない。死ぬまでずっと。
 短い間に、彼はまた夢を見た。死んだ父親の夢だった。中学一年の頃、彼は両親と試験の結果が元でちょっとした喧嘩になった。定期試験の結果が落ちたことに関し、ついうっかり彼は「手を抜いた」と言ってしまったのだ。ほとんど口が滑って起きたことだったが、長い間それは彼の記憶に残っていた。直接両親と衝突したわけではない。しかし目に見えないしこりのように、それは長い間残っていた。自分が座ると席を立つ父親。バスの中で漂いながら、彼はそんなことを思い出した。嫌なことばっかりだ。彼は思った。父親が死んでいなかったらどうなっていただろう。

 バスが急に止まってしまった。道の先で大きな事故があったらしい。道路が封鎖され、交通が一時的にストップしてしまった。ブランド服の女が不満の声を上げた。バスがしばらく動きそうにないことを知ると、彼女は痩せすぎた山羊のようにめえめえわめき、料金も払わずにバスを降りていった。禿げ頭の男はげらげら笑って頭を叩き、「ハハ、こりゃまいったな」とやけに楽しそうに言った。酒を飲んでいるようだった。まだフードをかぶったままの老婆は、両手をこすりあわせ、念仏を唱えていた。俊はすっかり嫌気がさした。彼は席を立ち、バスの運転手にたずねた。「いつ復旧するんですか。僕、この後試験があるんです」運転手はどこにでもいそうな眼鏡の中年男性だったが、その眼差しはいやに冷たかった。彼は同情するふうもなく俊を見た。「試験? そりゃ大変だよね。でもしばらく動かないよ。駄目なものは駄目なんだ。いつだってそうだよ。君には分かるかな」他人事のようだった。俊は前方を見つめた。巨大なワイパーがせわしく往復するガラス越しに、雪の世界が見える。もう夕方になってしまったような気がした。玩具のような車の列が、ライトをちかちかと点滅させ、動けなくなっている。道の先は雪に消え、どこへ続いているか定かでない。俊は、果たしてこのあたりはこんな場所だったろうかと思った。何もかもまっ白で、その外には何もないように思われた。まるで田舎の山中にいるようだ。とてもじゃないが、こんな場所を歩いていく気など起きなかった。「あとで遅延証明を出してもらえるんですよね」彼は言った。運転手はハンドルにうなだれていたが、顔を上げ、手のひらでこすった。「まあ、必要ならね。だけど、その頃には試験なんかとっくに終わっているんじゃないかな」その通りだと俊も思ったが、だからといって諦めるわけにもいかなかった。「たぶん会場に向かう人はみんな遅れていますよ。大丈夫」半分は自分に言い聞かせていた。しかしいっぽうで、もしかしたら自分だけがこんな目に遭っていて、あとの人はみな、今頃会場で試験を受ける準備をしているのではないかとも思った。そう考えるとまたいらいらした。「そういう運命だったと思って諦めれば、いっそ楽になるんじゃないかなあ」運転手は言った。この男は何を言うのだろう、俊は思った。「まあ君くらいの歳の子に言っても無理か」運転手はへたれたジャッキのような音を立てて笑った。俊は座席に戻った。そして考えた。このままではまず間違いなく遅刻するだろう。時間繰り下げにならないだろうか。後日、再試験なんていうのは嫌だ。遅れている、という感覚が俊は大嫌いだった。放っておいても遅れてしまうからだ。老婆はまだ両手をこすっていた。何かにとりつかれているようにも見えた。その姿を見ると俊は意気消沈した。彼は席に戻ると、大きなためいきをついた。ブランド女はどこへ向かったのだろう。この雪の中ひとりで歩いていくとはずいぶん大胆だ。しかし、実のところここは山道でも田舎でもないはずだった。歩いて行けないわけではない。彼は携帯電話を取り出した。家に電話すべきか迷ったが、母親や祖母の顔を思い出し、ポケットにしまった。停留所はいくつ通過したんだっけ。時間は八時半、あと三十分で試験が始まってしまう。試験科目は物理、数学、英語。いちおう第一志望だ。いちおう。特にそこへ行きたい理由もないけれど。
 十五分ほどそのままだった。時折誰かの怒鳴るような声や、慌ただしく道路を走っていく足音、パトカーのサイレンらしき音が聞こえた。それらは夢の中の喜劇のようだった。禿げ頭の男は眠り、いびきをかいている。老婆は、そのまま昇天してしまうのではないかと思うほど熱心に念仏を唱えている。俊は、この状況はまさに自分を表していると思った。道筋の決まったバスという乗り物に閉じ込められ、周りの景色も見えず、成り行きに身を任せ、特に意志もなく、事態が解決するのをただ待っている。きっとこれからもそんな風に生きていくのだろう。そう思うと、何もかもどうでもいいような気になってくるのだった。あの運転手の言うとおりかもしれない。そういう運命。彼はよく大事なところで何かを失敗していた。今通っている高校は、本命の受験日に腹痛をこじらせ、病院に運ばれたから行くことになった併願校だ。中学の頃にやっていたバスケでは、最初の試合で骨折し、ふてくされて幽霊部員になった。持って生まれた星回りがあるということは、俊がこの頃感じていることだった。どのように生きていても起きてしまう必然。たとえば坂本が簡単にいい成績を取れたり、山瀬夕子が勘違いしっぱなしだったり、名取にとって三年三組がクソつまらないクラスであることと同じだ。絶対に起きる。それに逆らおうとすることは無駄な悪あがきであるような気がした。俊はもう一度バスの前方まで歩いていった。運転手までも眠っていた。俊は彼の肩を揺すった。

 俊は雪の中を歩いていた。「この天気の中を歩いて行くのかい? 若いねえ。私ならそんなことはしないよ」運転手の言葉が頭に引っかかったまま、彼は黙々とまっ白な歩道を歩いていた。町はほとんどが白一色で、ゴーストタウンのようだった。寒さは途中から気にならなくなっていたし、受験しに行くという目的も、もはやどうでもよかった。ただ、俊は何としても目的地に、それも自分の力で到着したいと思っていた。なぜなのか、自分でもよく分からなかった。あの運転手の言葉が癪に障ったからかもしれないし、本当は第一志望の大学に行きたいと思っているからかもしれない。目的地までどれくらいあるのかということも分からなかった。ただひとつ言えることは、今この時の彼は、何かに腹を立てているわけでもなければ、流されているわけでもなければ、諦めてもいないということだ。このわけがわからない世界の中で、ただそれだけのことが彼に居場所と満足を与え、孤独や虚無から救ったのだ。

〈了〉
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