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序章 “旅人の雲隠れ”~とあるフリーライターの取材風景~

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 俺はこうして空を見上げる時、どこか遠くの世界へと“旅”に出たナオのことを思うのだ。

 とある日曜日の昼下がり。出先のマクドナルドで昼食を摂っていた俺はふと、窓の向こう側に広がる青空を見上げた。フリーライターをやっている俺が先ほどから目を通していた、取材用のメモ帳に記してあった“旅”という単語に、思いもよらずナオの姿が脳裏に浮かんだからだ。
 こうして青空を見上げる度に、俺はいつもその最果てまで見渡せないものかと思うのだ。この青空のはるか向こう側には、ひょっとしたらナオが旅する“世界”があるかもしれないからだ。
 長い置き手紙を残し、ナオが俺の前から姿を消して“旅”に出てからもう一年は経つ。
 ナオは今でも、どこか俺の知らない世界にいるのだろうか。とうとう俺が知ることの出来なかった、彼女の抱えていた苦しみから解き放つ“宿願”を叶えるための旅路を歩んでいるのだろうか。
 生きていて欲しいと切に願う。健やかならばなおいいが、どこかで生きていてくれているというだけでも十分過ぎる。そして叶うことなら、例え何十年もの時が経とうとも、もう一度ナオに会えるようにとも願うのだ。
 わざわざ言うまでもないことなのだろうが、俺は真剣にナオのことを愛していた。
 洗礼されすぎているくらいに静謐かつ知的な物腰はどことなく現実離れしている印象をすら与えながら、時折見せる朗らかな笑顔と透き通るような声色の笑い声は、それだけで俺の心を溶かした。
 どちらかと言えば捻くれていて、滅多なことでは他人を信用しない俺ではあったが、それでもナオの前では、例え十年来の友人にも言えないようなことも不思議と素直に話せたのだ。ナオもそんな俺の話を控えめに、しかし真摯に耳を傾けてくれた。
 ――トウヤくんは、やさしい人ね。
 十年来の友人にも言えないような俺の話は、決して聞く人を愉快な気分にはしないものだっただろう。しかしそれでもナオは、そんな俺の話を聞き終える度に、必ずやさしい笑顔と共にそう言ってくれたのだ。これに限らず、ナオの言葉によってどれだけ救われたかは数える気にもならないほどだ。色んな意味で褒められた人間じゃない俺にとっては、ナオは本当にもったいなさすぎる程にかけがえのない女性だったのだ。
 俺はただ、もう一度その声を聞き、その笑顔を見たい。そしてそんなナオのことをやさしく抱きしめて「ありがとう」と伝え、「愛してる」と伝えたいのだ。
 俺に温かな感情を抱かせてくれたナオという存在は、彼女の方でも手紙の中で書いてくれたように、まるで一つの奇跡なのだ。
 そして同時に、そんなナオのことを今度こそは守りたいと思うのだ。
 傍目には近寄り難い印象を与えるナオの雰囲気には、どうしても名状しがたい何かを抱えていて、それによって大いに苦しんでいることに由来していることくらいは察していた。だから俺としても、なんとかしてその苦しみを取り除きたいとは思っていたのだ。しかし結論から言えば、俺はナオの抱える苦しみにあまりにも無力だった。俺はナオの苦しみを取り除けないばかりか、その正体の片鱗を掴むことすら出来なかったのだ。俺との会話の中で、ナオは俺にその苦しみを打ち明けようとしてくれたこと自体は何度もあった。しかし、その度にナオはそれを言葉にすることに苦しみぬき、ナオの言葉が意味を持つことはついになかった。
 そしてナオは一年前、とうとう俺の前から姿を消すこととなったのだ。俺が手も足も出なかったナオの問題、その全てを片付ける“宿願”を果たす“旅”に出るために。
 もし今度こそという機会があるのならば、俺は今度こそナオのことを守りたいと願う。
 例えナオが俺のことを愛せなくとも、ナオの抱える苦しみがどんなに残酷なものであろうとも、その今度こそのために地獄に堕ちることになろうとも――何があろうとも俺だけはナオのそばに寄り添い、この身の全霊を捧げてでもナオの苦しみから守り抜くのである。
 何故ならナオは、俺が愛した女性だから。恐らくこれから先、ナオ以上に愛すべき人が現れないことを分かっているから。
 ナオに会いたい――抱きしめたい。
 俺の夢の中には、今でもナオの姿が現れる。ナオはいつでもこちらに微笑みかけていて、俺は泣きそうになりながら手を伸ばすのだが、その手が届いたことはついに一度もない。
 目を覚ますたびに俺はその夢のことを思い、泣きはしないが締め付けられるような胸を押え、今にも絶えてしまいそうな思いで(いっそのことこのまま絶えてしまえばいいのにとも思うことも少なくはない)発作のような荒々しい呼吸をすることになるのだ。
 それがもう一年は続いている。
 そしてこれからも続くことになるのだろう。
 ナオが俺の知らない世界で旅を続けている間は、永遠に。

 そこまで思いを馳せたところで、俺は実に自分らしからぬセンチメンタルを苦笑する。ナオがいなくなってからもう一年が経ち、彼女が永遠に帰らないことを理解していてもこのザマである。俺はますます苦笑いを深めた。
 感傷の時間は終わりだ。実際の時間を生きよう。そう自分に言い聞かせて、俺は再びメモ帳に目を通し始めた。

 ――まずは、ごめんなさい。恐らくあなたはこれから私の書くことにとても傷つくことになるかと思います。
 そんな書き出しの手紙を残してナオが姿を消したのは、先述した通り今からおよそ一年前のことだ。少なくとも表面的にはなんの前触れもない、あまりにも唐突で理不尽すぎる雲隠れだった。その日から今日までナオが俺の前に姿を現したことは一度もなく、手紙にも書いてある通りその機会は永遠に訪れないのだろうとも思っている。
 はっきり言ってしまえば、その手紙の内容は荒唐無稽以外の何物でもなかった。
 ナオがかねてより抱えている苦しみから救済してくれる“宿願”を果たすため、ここではない別の世界へと“旅”に出る。その世界にはRPGのようなおぞましい化物がうようよといて、一度旅に出たらほぼ生きて帰れない。それを分かっていてもなお旅に出てなくてはらなず、果たされることのない“宿願”を思いながら惨たらしく死ぬことこそが、彼女の罪に対する罰である。
 こうして要点を書き出してみると、呆れるくらいにその荒唐無稽振りが明確になるものだ。こんな手紙の全てを真に受けるような奴がいるなら、是非ともその御尊顔を拝みたい。
 そういう俺はと言えば、不吉な予感に背筋を凍らせると共に手紙を隈なく目を通し、筆舌に尽くしがたい絶望感に襲われたのだった。
 今さら言うまでもないことなのだろうが、この出来事は俺の心を深く傷つけることとなった。決して平坦ではなかった今日までの日々を生きてきて俺ではあるが、これほどまでに圧倒的な絶望を他には知らない。
 ナオが消えてから一ヶ月は何もする気になれず、アルコール浸りの淀んですえた世界に逃げ込んだものだった。それから仕事は再開したものの、少なくとも半年間は最低な生活を送るのが精一杯な有様だった。この半年間でフリーライターとしての俺の信頼は失墜し、大切な者を失った不甲斐なさを執拗なまでに責め抜いた。ナオのことは死んでも忘れるつもりはないが、ナオがいなくなった日に感じた絶望感とそれから半年の惨めな生活のことは死んでも思い出したくはないのだ。
 そんな俺が、よりにもよってこの“失踪事件”――“都市伝説”を取材することになるとは実に皮肉なものだと思う。
 もっとも、その都市伝説の当事者に自分の恋人がいる俺は、確かに適任と言えば適任と言えるのだろう。業界内では腕の立つ嫌われ者としてちょっとした有名人だった俺が、心を傾けていた恋人に“逃げられ”たショックで見る影もなく落ちぶれたという噂話は、例の半年間の中で山火事のような勢いで広まっていたのである。
“旅人の雲隠れ”――さらに俗っぽいネット上のコミュニティの間では“リアル異世界召喚ファンタジー”などと騒がれたりもしている――ワイドショーを席巻したりはしていないが、ネット上ではすっかり知らない者がいなくなったと言ってもいいその都市伝説。
 早い話が、ナオのようなことを言い残したり書き残したりして“旅に出た”人間――オーソドックスな“旅人”という呼称以外にも、ネット上の俗っぽいコミュニティの中では“勇者”“召喚獣”などと揶揄されたりもしている――がここ数年でただごとじゃないほどに現れて来ている、というものだ。
 この都市伝説を“事件”として追いかける警察や探偵の頭を悩ませるのが、何よりも失踪者の人的・地域的関連性のなさである。
 若者が中心ではあるが、失踪者の年齢層は十代から六十代までと幅広く、失踪者同士の関連性・共通性もほぼ絶無。さらに失踪者が姿を消した地もバラバラで、一番極端なものになると、同日に宮城県と福岡県でそれぞれ四十代の会社員と十代の高校生がほぼ同じような内容の書き置きを残して姿を消した、という事例が存在している始末だ。
 さらに驚くべきなのは、日本だけでなく世界でもその事例が多数報告されていることだ。各国ごとに細かい内容の違いこそはあるが、その案件数は報告されているだけでも世界でもおよそ五千件――日本国内に限ってもその数は五百にも及んでいる。さらに言えばこれらの数値は内容の虚偽が明らかなものを抜かしたものであり、イタズラ目的のものやこの都市伝説になぞらえて失踪や自殺をした者を含めるとその数倍にも及ぶ。そして――例えば誰にも書き残したり言い残したりしたりしないで姿を消すなどして――報告されていないものを含めれば、さらにその倍の数は見込めるだろうとすら言われている。
 ただの偶然として片づけるには余りにも不可解で、かといって真っ向から事件として扱うには余りにも大規模かつ現実味がない。
 よって、事実上警察が匙を投げたこの“旅人の雲隠れ”が、“都市伝説”として騒がれるばかりになったのは必然と言えるだろう。
 そして、俺が三流雑誌からの依頼で、都市伝説特集の目玉記事として“旅人の雲隠れ”を執筆することになったのも、一つの必然と言えるのだろうか。きっとそうなんだろうと無理やり納得することにしていた。

 昼食を済ませた俺は、仕事用のスクーターを走らせて取材先へと向かう。初夏の気配が漂い始めた陽気とは裏腹に、イマイチ気分は晴れない。先ほどから、ナオが悲しそうにこちらを見つめる姿が脳裏にちらつく。俺だって好きでこんなことをやってるんじゃないんだ。いくらそう思っても、ナオは毫ほども表情を和らげてはくれなかった。
 東京都足立区の外れにある住宅街のアパートの一角。そこに今回の取材先である大月夫妻の住まいがある。この夫妻も“旅人”となった息子を持つ身で、大体の“旅人”の肉親や親友がそうであるように、今回の取材にこぎつけるまで大分骨を折った。ナオの例を挙げるまでもなく、手紙に書き置いて“旅”に出るような奴にはそれ相応の複雑な事情がある場合がうんざりするくらいに多い。
 しばらく大通りを走り、やがて目的地付近に辿り着くと、そこにはイマイチパッとしない感じの街並みが広がっていた。年季の入ったアパートや団地が無機質に広がっていているその一体は、総じて物寂しさを感じさせる。
「確か、事件があった直後に引っ越したんだったっけか?」
 スクーターを駐輪場に停めた俺は、目の前の古びたアパートを見上げながら呟く。
 調べたところ、大月夫妻の息子が“旅”に出る以前は北区に一軒家を構えていたようだ。しかし、息子が失踪したことによるショックと、息子に関する謂れのない噂話(“旅”に出るような奴にはそれ相応の複雑な事情があるのが常だ)が蔓延したことに母親が耐え切れなくなり、一軒家を引き払ったそうだ。
 向こうが承諾したとは言えども、三年前に“旅”に出た息子とのことを穿り返し、それを“都市伝説”の特集記事として取り上げようとしている自分という人間。
 そして、その“都市伝説”の当事者に恋人がいて、そのことで傷ついた過去を持つはずの自分という人間。
 ――トウヤくんは、やさしい人ね。
 やれやれ。
 俺はため息をつきながら、気だるく大月夫妻の部屋へと向かった。
 取材を終えた俺は、近場の公園に腰掛けながら気だるい気分でタバコを吸う。すぐ近くの街路樹では初夏のセミが鳴き、眩しく熱い陽気がむしろ苛立たしかった。
 やっぱり、“旅人”の肉親に取材なんて望んでするものじゃないと思う。しかもこれがまだ二件も残っているのだ。なんていうかもう、いい加減にして欲しい気分だ。
「っとにさあ、嫌々で取材する側の気持ちにもなってみろよ……」
 俺の鬱屈とした呟きは、誰の耳にも届くことなく虚空へと消えた。

 難渋さに難渋さを重ねていたゲテモノをさらに不吉さでサンドイッチしたような予感は的中し、大月夫妻への取材は非常に重苦しい雰囲気の下で執り行われることになった。
 まず、俺が名乗った辺りからもう夫婦の表情が曇ったのである。母親の方は瞬く間に気まずそうな表情になり、父親の方はこちらを睨むように見据えてきた。
 ――おいおい、なんで俺が睨まれなきゃいけないんだよ?
 先ほどまでの苛立ちをぶつけるような思いで、しばらく黙って立っていた。
「あの……やっぱり、今回の話はなかったことにしてもらえないでしょうか?」
 やがて、母親の方がおずおずとした様子でそう言った。死にかけた蚊の立てる羽音のように、消え入りそうな声色。
「あれから色々と考えたんですが……やっぱり雪輝のことを思い出すと……辛くて……」
 やっとといった風にそれだけを口にすると、母親は今にも泣き出しそうな表情で顔を俯かせた。父親の方は相変わらず口を硬く結んで俺のことを睨みつけている。まるで俺が二人の息子を連れ去った張本人だと言わんばかりの態度である。
 なんだよ。これじゃあまるで俺が悪者みたいじゃねえか、ふざけんな。
 俺は思わず顔をしかめて舌打ちしたくなったのをグッと堪えた。
 そもそも俺だって、こんな胸糞悪い取材なんてやりたくねえんだよ。だけどしょうがないだろうが、これが仕事なんだ。俺だってナオに“旅”立たれる前は仕事を選べる余裕はあったんだ。だけどナオがいなくなって自暴自棄になってた間に落ちぶれて、今や飯を食ってくだけで精一杯なんだ。分かるか、辛いのはお互い様なんだよ。
 だからさあ、頼むからさっさと終わらせようぜ、こんな糞くだらねえ茶番はさあ。
 ――トウヤくんは、やさしい人ね。
「私のことを非難されたいお気持ちは本当に良く分かります」
 俺は胸に渦巻く黒い感情を丹念に奥へと追いやると、一介の記者としてあるべき態度で慰めの言葉をかける。
「大事な息子さんが失踪されてから長い間帰っていないというだけでお辛いでしょうに、馬の骨とも知れない赤の他人にその当時のことを思い出しながら話さなければならないというのは、想像を絶する辛さだと思います」
 俺だったら、こんな上っ面な言葉をしたり顔で吐き出す奴の鼻っ面を今すぐにでもぶん殴ってるくらいには。
「しかし、私としても今回の取材を通して、大月雪輝くんを始め、“旅人の雲隠れ”によって姿を消した人々の消息の手がかりを少しでも掴めればと……」
「ただのゴシップ雑誌じゃないかっ!」
 黙って立っていた父親が、むき出しの剣のような敵意を込めて口火を切った。
「あんたらの雑誌見たぞ。あることないことを面白おかしく書いて、それで低俗な連中のウケをとって売り上げを伸ばすことしか考えてないような最低の雑誌じゃないか。そんな雑誌に文章を書くような奴が、雪輝のことを本気で調査しようとしてくれてるなんて、一体誰が考えると思ってるんだ? 我々を舐めるのも大概にしろっ!」
 グウの音も出ないほどの正論だった。
 むしろ、この父親は紳士的だと言ってもいいくらいだろう。例えば俺のように、目の前の憎たらしいゴシップ記者の鼻っ面を殴り飛ばしたりはしない。
 しかし、俺としてもこのまますごすごと引き下がる訳にはいかないのだ。何故ならこれは仕事で、これをやらないことには満足な飯にありつけないからだ。
「我々の雑誌がそのように思われるようなものであることは否定出来ないと思っています……しかし、少なくとも私個人としては、そのような雑誌の中でも、ほんのわずかでも今回の失踪事件の真相を見つけ出すきっかけになればと思い……」
「それで雪輝のことを面白おかしく書くというのか? 冗談じゃない。そもそもあんたらみたいなろくでなしに、真相なんて大それたものが見つけられると思ってるのかっ!」
「ですから、未熟ながらも少しでも真相に近づこうという努力は……」
「努力? はっ、あんたらみたいなろくでなしがどんな努力をするって言うんだ? あることないことでっちあげて雪輝のことを面白おかしく書いて、それで少しでも部数を伸ばそうっていう努力か?」
「っ! 違うっ! オレ……私は……!」
「俺はな、あんたみたいなろくでなしが何よりも嫌いなんだ! あんたみたいに、面白半分でいい加減なことを言いふらして書きなぐって、人の気持ちを踏みにじるようなクズがな! あんたみたいなクズだって、家族か誰かがいなくなってみれば少しは……!」
「俺だって恋人に“旅”立たれてんだよ!」
 ついに我慢が利かなくなった俺は、気がついたら二人に向かって怒鳴り散らしていた。顔を真っ赤にして興奮していた父親も、ひるんだように沈黙する。
「俺みたいなろくでなしなんかに懸命に寄り添ってくれて、俺も本気で一生愛していこうと決めてた、そんな恋人に“旅”立たれてんだ! そんな俺が、どんな思いでこの取材をしてるか分かるか? 少なくとも、あんたらは俺よりは上等な人間なんだろう? だったら分からないなんて言わせねえぞ! それとも、俺みたいなろくでなしの気持ちだったら踏みにじっても構わないっていうのか、ああっ? 黙ってねえでなんか言いやがれっ!」
 もはや仕事とか取材とかそういう公的な意識は全部吹き飛び、身も世もなく自分の感情を思い切りぶつけた。
 しばらくして正気に戻った俺は、二人の表情を見て自分のやらかしたことを認識し、精一杯の誠意を込めて「お見苦しいところをお見せして申し訳ございませんでした」と深く頭を下げた。二人は、何も言わなかった。
「……上がってください」
 気まずい沈黙がしばらく続き、取材の続行は不可能だと悟った俺がこの場を辞しようと口を開こうとしたその時、母親がそう言った。
「緑!」
 父親が咎めるような声をあげたが、母親は「良いのよ」と首を振る。
「だって、他にどうしたらいいのよ? 警察もなにも当てに出来ないっていうんじゃ、縋れるものを選ぶわけにいかないでしょ」
 父親は言葉に詰まらせた風に顔をしかめる。
 俺の方に向き直った母親は、聞いていられないくらいの弱々しい声色で話を続けた。
「私としてももう、どうしたらいいか分からないんですよ。どうしたら、雪輝が帰ってきてくれて、許してくれるのか……今回のあなたの取材で、それがほんの少しでも分かる可能性があるというのなら、私はそれに縋るしかないんです」
 深々と頭を下げる母親。
 実に悔しそうにギュッと目を瞑る父親。
 それらを黙って見つめる俺――ろくでなし。
「だからお願いします。今更、雪輝がどんな雑誌にどう書かれても構いません。ですがどうか……どうか決してこの取材を無駄にはしないでください。雪輝を、他の行方不明になった人々を救い出すためのの肥やしにしてください――あなたの、恋人さんのためにも」
 ――トウヤくんは、やさしい人ね。
 違うよナオ。俺は心の中で強く首を振る。
 俺はなんて最低なんだ。矜持もなにもない、最低な人間なんだ。だからこうして人を傷つけるんだ。こうしないとおまんまにありつけないからという卑しすぎる理由で。
 俺は他にどうしたらいいかも分からずに、ただ一言「分かりました、善処します」と答えるしかないのだった。

「っとに胸糞わりぃ……!」
 俺は先ほどまでの取材のことを思い出して舌打ちをしながらメモ帳を開いた。
 大月夫妻への取材は、少なくとも玄関先での剣呑なやり取りよりは穏便に進んだ。父親はほぼ無言を貫いていたが、母親は俺の質問に対して淡々と、しかし俺の眼を見ながらはっきりとした声色で答えた。それをおよそ一時間。しかし、その時間に見合った内容を得られたかどうかは、はっきり言って疑わしい。
 とり合えずまずは失踪者――“旅人”の基本的なプロフィールを挙げる。
 大月雪輝(おおつき・ゆきてる)。失踪当時は十七歳で高校二年生。続柄は長男で、両親の他に六歳の弟がいる。当たり前といえば当たり前だが、取材時には適当な口実をつけて外に追い出していたために不在だった。
 失踪以前は都内トップクラスの進学校に通っており、学年でも十番内に入るくらいには優秀であったらしい。さらにサッカー部にも所属しており、順調に行けば間違いなくエースナンバーを背負うことになっていただろうとのことだ。まるでマンガの主人公のような話であるが、母親の口ぶりに嘘を言ってる様子は見受けられなかった。
 小学校の頃は気弱でイジメにあうような子どもであったが、小学校を卒業する頃には見違えるほどに逞しく成長し、人間的にも周囲から一目置かれるようになっていた。
 前向きかつ勇敢でありながら、ふと立ち止まって冷静に物事を考えられる思慮深さも持ち合わせている。普通なら逃げ出してしまうくらいに困難なことでも真っ向から立ち向かい、それでいながら弱っている人間に手を差し伸べ、肩を担いで一緒に歩いてあげられる優しさと強さをもつ少年。
 さらに顔写真を見せてもらったのだが、快活で真っ直ぐそうな雰囲気の中にも深い知性を感じさせる、文句なしの眉目秀麗であった。まさにマンガの主人公をそのまま現実へと持ってきたような少年なのである。
「母親の私としても、真っ直ぐに誇らしく思えるような子どもでした」
 母親はどこか悲しそうに微笑みなながら言ったものだった。
 このように、雪輝は非常にできた少年だった。しかし、高校二年生になった辺りで、決定的に道を踏み外すことになる。
 不純異性交遊を始めとした様々な問題行動を起こしたことを理由にサッカー部から自主退部すると、ますます問題行動を繰り返すようになり、ついには学校にもほとんど通わなくなり、家にも帰らないようになってしまった。そして池袋の不良集団と絡むようになり、彼らと共に軽犯罪行為を繰り返す日々を送るようになる。にも関わらず最後まで退学処分にならなかったのは、曲がりなりにも高校屈指の成績を誇っていたことと(問題行動を頻発するようになってからも、学年トップの学力はキープしていたのだ)、決定的な犯罪行為を行わなかったことにある。いや、正確にはそのような行為を行っても、彼だけは決して尻尾を出すことがなかったのだ。彼のグループの構成員が大量に検挙されるような事態に陥っても、彼だけは絶対に捕まったりはしなかったのである。
 このように、家族としても学校としてもどうにも手のつけようがなくなっていた時、全く何の前触れもなくそれらの問題行為が息を潜めることになる。
 一切の不良行為を止め、普通に学校へと通い、家にも帰るようになったのである。
「ごく普通に夕食の食卓の席についた時は、本当に目の前に座る子が雪輝かどうかすら疑わしくなりました」
 母親がそう語ったのも無理がないくらいには、本当に大人しい態度だったそうだ。むしろ、下手な優等生よりもよっぽど優等生らしかったくらいだそうである。
 一度、サッカー部の部員たちに呼び出され、酷いリンチを受けた際にも一切手を出さなかったくらいである。
「ケンカしてる時のゆっきー、マジやばかったっすよ。普通にケンカしてもハンパなくつえーのに、武器なんて持ち出したらマジ手が出せなかったっすね。つえーっつーのもあるんすけど、それ以上に武器使うのにマジでチューチョとかしないんすよあいつ。気絶してる奴をバットで何度も思いっきりぶん殴ってた時なんか、そいつ死んじゃうんじゃないかってマジでビビったっすね。っていうかオレたちが止めてなかったらぜってーコロしてたっすよあれ。殺気ハンパなかったっすもん」
 この後、雪輝がつるんでいた不良グループの元メンバーに当時の話を聞くことになるのだが、雪輝のことを話す彼は本気で戦慄しているようであった。
 そんな彼がいきなり真っ当な優等生へと豹変したら、例え親であっても不気味に思うのが当然だと言えるだろう。
「今から思うとあれは、雪輝なりの罪滅ぼしだったのかも知れませんね」
 雪輝が久々に夕食の席についてから十日後。
 彼は何も言うことなく“旅人”となった。
 感謝と謝罪の意、そして“旅人”になることを書きつづった置き手紙だけを残して。
「母さん、今までごめんな」
 夕食の席を辞する時に言った謝罪の言葉。
 これが母親の聞いた最後の言葉だった。
 文字通り最後の晩餐となったその日の席、彼は大好物であるハンバーグを本当に美味しそうに食べ、そして照れくさそうに母親の分を半分ねだったのだそうだ。それを食べてる時の嬉しそうで――しかし何故かほんの少しだけ悲しそうに見えた表情と、ぼそりと呟いた「すげえ美味えや」という朗らかな言葉が今でも忘れられないのだという。
「雪輝が謝ることなんてなかったんですよ」
 母親は膝の上に置いていた拳を強く握りながら苦しそうに言った。
「私だって親ですから、なんで雪輝がああなってしまったかということは知っていたんです。でも、あの子の苦しみはそんなことじゃ手の施しようもなくて、私なんかじゃどうしようもなかったんです……!」
「一体なにがあったんですか?」
 ただならぬ様子の母親に、俺はここぞとばかりに身を乗り出して問いかける。
「それは……」
「教えてください。それは恐らく、とても重要な情報だと思います。そこからもしかしたら、雪輝くんの行方が……」
「それを知ったところで、あんたがどうこう出来るというのか?」
 ここまでずっと黙り込んでいた父親が咎めるように口を出してきた。
「それともなんだ、その重要な情報とやらで雪輝を面白おかしく書くつもりなのか?」
「そ、そんなつもりで聞いたんじゃ……!」
「あなた!」
 母親の一声で父親は口惜しそうに押し黙る。
「すいません……今でも、あの時のことを思い出すだけで動揺してしまうんです……ですがもう大丈夫です、お話しましょう」
「緑、お前……!」
「いいのよ……それにどうせ、ニュースにも大きく取り上げられたことのある“事件”なんです。私たちが話さなくても遅かれ早かれ知ることになるでしょう」
 父親は唸るように俺のことを睨みつけていたが、やがて舌打ちをしながら顔を背けた。
 母親は俺の方に向き直り、俺の眼をはっきりと見据える。はっきりとした覚悟を決めた人間の目。俺はその迫力に負けないようにグッと腹に力を込めた。
「ですから、あくまで私の見知った限りでよろしければ、その“事件”について全てお話します。それが、雪輝を見つけ出す重大な手がかりになるということを信じて」
「……ご協力感謝します」
 俺は目の前の強い母親に最大級の敬意を払うように、深々と頭を下げたのだった。

“修学旅行中3児童大量殺傷事件”
 それは確かに、一時期――今からおよそ五年前に世間の耳目を大いに集めた事件だった。
 東京都の某区立中学校の就学旅行先である京都の旅館内で、加害女児を含む女子児童五名がナイフによって死亡。加害女児と目される児童は被害者四名を殺害した後、自らの首をかききって大量出血死をとげたとされる。
 事件そのものの衝撃度が高かったこともあったが、それに加えて加害女児が被害者のグループからイジメを受けていたこと、そして就学旅行の日まで不登校だったこともあり、事件直後はイジメ・不登校問題の病理を反映した事件として連日報道される騒ぎとなった。
 しかしここで重要なのはその事実ではない。
 実を言うとその事件の第一発見者は、他でもない雪輝なのである。雪輝は、まさに最後の被害者が加害女児の手によって崩れ落ちていくところを目撃したのだそうだ。
 加害女児、大島晴香(おおしま・はるか)は雪輝とはいわゆる幼馴染の間柄であり――そして彼女は、まさに雪輝の目の前で自らの首をかき切ったのである。
「俺の心の傷なんて霞んじまうよなあ、“旅人”のことを取材するとさあ……」
 俺はうんざりしたようにため息をついた。
 そもそも、命がけで“はるか遠くの世界”へと旅立った人間の背負ってるものなんて、それ相応に重たいに決まっているのだ。そうじゃなかったら、何にも知らないか底抜けに想像力の足りないクソ馬鹿だ。
 しかし、これが“旅人の雲隠れ”解決の決定的な手がかりになったかというと、残念ながら非常に疑わしい。「“旅人”になる人間の大多数は重たすぎる何かしらを背負っている」という今更過ぎる事実への裏づけになったくらいだ。五人に一人くらいの割合で存在する“何にも知らないか底抜けに想像力の足りない”手合いを除けば、凄絶なトラブルとトラウマに満ち満ちた複雑人生の見本市みたいな有様なのである。
「期待、裏切っちまったなあ……」
 父親の怒鳴り声と母親の懇願の声が頭をよぎり、何とも情けない思いが去来する。しかし一方で、取材者のこういう態度に慣れ始めている自分がいる。そもそも、これ以上に気まずく、これ以上に困難な取材をした経験なら大分存在しているのである。要するに、自分自身の心の傷の問題なのだ。
 大体の傷は、時間が経つにつれて少しずつ癒えていく。例えそれがどれほど深くとも、例えどれほど忘れがたくとも。
2, 1

  

 ……いい加減、物思いにふけるのはよそう。
 吸っていたタバコを靴のかかとでもみ消し、ベンチから立ち上がったその時、俺の目の前にサッカーボールがコロコロと転がってきた。
 反射的に足で受け止めて拾い上げた俺は、ボールの転がってきた方を見る。そこには、六歳くらいの少年が少し離れて立っていた。わざわざ言うまでもないことなのだろうが、このサッカーボールはこの少年の物だろう。
「ボールかえして」
 言われなくてもさっさと返すつもりだった。俺は少年にボールを差し出そうとするのだが、ふと少年の顔を眺めた時、思わず手が止まってしまった。
 何故なら、少年の容姿にただならぬ既視感を覚えたからだ。しかも、本当につい最近に見たようなそれ。
 幼さゆえでもあるのだろうが、元気に満ち溢れてるような快活で真っ直ぐそうな雰囲気が漂っていて、それでいながら賢そうなところもうかがわせる、幼さを差し引いても整ったように思える容姿……。
 ――もしかして、この子が……。
「ねえ、ボールかえしてよ」
 少年の苛立たしそうな声。それで我に返った俺は、苦笑いを浮かべながら「ああ、ごめんね」とボールを差し出した。
「ねえ、ちょっといいかなっ!」
 ボールを受け取り、そそくさと立ち去ろうとした少年の背中に向かって俺は呼びかける。振り返った少年は、苛立ち半分胡乱気半分といった表情でこちらを見つめ、「なに?」とそっけなく応えた。
「いや、一人でなにやってるのかなーって思ってさ。サッカーの特訓?」
「……わるい?」
「いや、悪くないけどさー。ただ、サッカーの特訓なら、一人でやるよりもお友達とやったほうがいいんじゃないかなって思ってね」
「きょうはゆうすけのやつ、かぞくででかけちゃったからいないんだよ。ゆうすけじゃないと、あそびになっちゃうし」
「へー、真面目にやってるんだねー」
「……ねえおじさん、もういっていい?」
 いい加減うんざりしたように少年が言ったので、俺は慌てて、
「いやいや悪かったね。ただ、サッカーの特訓をやってるんだったら、おじさんが相手になってあげられんじゃないかなって思ってさ。おじさんこう見えても、高校生の時にサッカーをやっててね、結構上手かったんだぜ?」
 これは出任せではなく、本当の話である。全国にいくような強豪校にいたわけではないが、あまり有名じゃない高校でキャプテンをやっていて、部内では段違いに上手かった。
 相変わらず胡乱気な表情を浮かべる少年に、俺はにっこりと微笑んで「ボール貸して」と言った。
 少年はしばらくこちらをじろじろ見ていたが、やがてライオンに餌を与えるような慎重さで俺にボールを差し出した。
 ボールを受け取ると、俺はその場でリフティングを始めた。なんだか自慢臭くなるので詳細な描写はしないが、それでも久々にやる割には結構何とかなるものだなとは思った。とはいえ、流石に座りながらやったり背中に乗せてコロコロ転がしたり、といった曲芸じみたことは出来ないので、普通に無難なリフティングをやっただけではあるのだが。少年は最初、普通に感心した様子で見ていたのだが、百回目に差しかかった辺りで飽きだしたので、俺はリフティングを止めてボールを地面に置くと、少年から距離を取った。
「よしじゃあ、俺と勝負するか」
 勝負という単語に、少年はピクッと反応して俺の顔を見た。やっぱりこの年頃の男の子は勝負という単語に弱い。
「俺はこの場から動かないし、時間はいくらでも使っていい。反則じゃなきゃ何をやってもいい。だから俺からボールを奪ってみろ」
 挑発するようにニヤリと頬を緩めてそう言うと、果たして少年は俺のことを睨むように見つめてきた。
「……いったね? うごかないって」
「ああ、少なくともドリブルはしない。この場でボールをキープしてるから、お前はただそれを奪いとるだけでいい。簡単だろ?」
「うん、かんたんだね。すげえかんたんだ」
 そう言うと少年はおもむろにこちらに駆け出し、一直線にボールに向かってスライディングをしてきた。ちゃんと俺の足ではなくボールに向かっていて、六歳にしては非常に鋭くて様になった良いスライディングだ。
 ――六歳児とはいえ、流石に“弟”なだけはあるな。
 しかし全くもって想定の範囲内の行動だったし、軌道もいささか直線的過ぎた。だから俺はほんの少しボールを身体ごと横にずらすだけで簡単に回避出来た。
「初っ端からスライディングとはあまり感心しないぞ、少年。今のが試合なら間違いなく抜かれてるぜ?」
 完全に面食らったような表情でこちらを見上げる少年に、俺はニヤニヤと笑顔を向ける。すると次第に、俺に対する敵意のような闘争心が少年の瞳に浮かんできた。
「どうした? ビビッたんならもう止めてやってもいいんだぜ?」
「うるせえ! いまのはこてしらべだ! ぜってーうばってやるっ!」
 そう叫ぶやいなや、少年は俺に向かって猛然と駆け出してきた。今度は無計画なスライディングなんて打ってこないだろう。この子がサッカーが好きというだけの幼児のレベルじゃないことは、さっきのスライディングの完成度で良く分かった。
「そんじゃ、俺もほんの少しだけ本気出してやるよっ!」
 気がついたら俺は自然と笑っていた。六歳児相手とはいえ、本当に久々にやるサッカーにだんだんと楽しくなってきたのである。
 俺はあくまでこれが仕事の一巻であることをすっかり忘れ、しばらく純粋に楽しくサッカーに興じたのだった。

「はあ……はあ……くっそー、ボールにカスりもしねーとかマジむかつくっ……!」
「いや……お前ガキにしちゃ相当上手いよ……はあ……はあ……結構ヤバかったところも結構あったし……ぶっちゃけると途中から本気出した……」
「ホントに?」
「少しだけな」
「“ほんの”がとれただけじゃん……! ……はあ……はあ……」
 気がついたら一時間は経っていた。
 俺と少年はお互いに体力を使いきり、俺はベンチに息を切らしながら腰掛け、少年は地面に横たわっていた。
 ここ数年まともな運動をしていない、タバコと酒に塗れた身体は結構あっという間に悲鳴をあげたのだが、それでもこの疲労と息切れの感覚は悪くない。爽やかにサッカーに身を投じていた頃のことを思い出す。
 結果だけ言えばこの勝負は俺が勝った。
 いや、少年よりもずっと年上で体格もよく、曲がりなりにもサッカー経験者だった俺が六歳児に負けるなんてことはあってはならないのだが。それでも、この少年が相当に上手かったことも事実だ。
 俺の身体の動きに惑わされることなく、きっちりとボールの動きを追おうとしていたし、身体の動かし方もとても六歳児とは思えないほどに本格的で洗礼されたそれだった。結構危なかったという場面も本当にあったのだ。
「でもおじさんホントにサッカーうまいね」
 しばらくして息の整った少年が、屈託のない笑顔を向けてきた。
「くやしいけどてもあしもでなかったよ……あー、おれだってこのへんじゃおれよりずっとでっけーしょうがくせいとかにもまけねーのに……すげーショックだっ……!」
「んなことねーよ。むしろお前の年の奴が俺を相手にここまで食い下がれるのは相当すげーことなんだぜ? マジ自信持っていいぞ」
「マジで?」
「マジで」
「……へへっ、そうかな……?」
 少年は鼻の下を指で擦りながら、とても照れくさそうに笑った。
 目の上の者とはいえ、さっきまで自分のことをコテンパンにしていた人間にも真っ直ぐな笑顔を向けられ、素直な賞賛も出来る。
 改めて、この子は上手くなるなと思った。
 ――そして出来ることなら、仕事抜きでこいつとサッカーがやりたかったな、とも。
「ねえ、ところでキミの名前を教えてもらっていいかな?」
「おれの……? ああ、おれはおおつきはるきっていうんだ」
「大月……?」
 いかにも自然を装った驚きの声。しかし見る者が見ればいかにもわざとらしく見えるのであろう、演技の驚愕。
「ひょっとしてキミ、大月雪輝くんの弟なんじゃないの?」
「うん、そうだよ」
 もちろんこれはそんなことは承知の上の、正確に言えば絶対的ともいえる確信があっての問いかけだった。
「ひょっとしておじさん、アニキのことを知ってるのか?」
「知ってるっていうか……むしろ雪輝くんのことを知りたいのはこっちなんだよね」
 怪訝そうな表情を浮かべた大月少年に、俺は事情を説明する。
 俺はフリーライターで、今回の雑誌に寄稿する記事が“旅人の雲隠れ”に関するものであること。そして少年の兄である雪輝くんがその“旅人の雲隠れ”に関わっている可能性が非常に高いので、さっきまでその両親への取材を行っていたこと。
 つまり大月少年に話しかけ、わざわざサッカーまでやったのはただの酔狂でもなんでもなく、こうして警戒心抜きに雪輝の弟である大月少年に話を聞くためだったのである。
「良かったら、知ってる限りで、雪輝くんの話を聞かせてもらっていいかな?」
 俺は「なるほどなー」と変に感心したように呟いていた大月少年に向かって聞いた。
「はるきくんが最後に雪輝くんを見た時のこととか、それよりも前のこととか……」
「うーん……っていっても、おれアニキのことぜんぜんしらないんだよなあ……おれのとうちゃんとかあちゃんからはなしをきいたりはするんだけど……」
「例えば、どんな話を聞いたの?」
「そうだなー……あっ、そういえばおれのなまえをつけたのはアニキだってはなしはきいたことあるなー」
「そうなの?」
「おれ、かんじかけるぜ」
 必要以上に自慢げな様子で胸を張ると、大月少年は指で地面にその名前を書き始めた。
 大月晴輝。
 率直に、良い名前だと思った。
「なんか、どうしてもこれがいいっていって、つけてもらったらしいんだよね」
「どうしても?」
「うん。なんか、とうちゃんとかあちゃんにないておねがいした、ってきいてる」
「泣いて……? 理由とか聞いてる?」
「うーん……なんか、よくわかんない。きいたこともないしさー」
 ――ふうむ……。
 印象的といえば印象的なエピソードではあるが、これ以上の情報を得ることは難しそうだった。知らないことは、話しようもない。
「他に、なにか聞いてる話とかない?」
「うーん……そうだなー……」
 後の話は、さっき彼の両親から取材で聞いたようなものばかりであった。
 雪輝が失踪したのが三年前、逆算すると晴輝少年は当時三歳だったはずだ。むしろ、何かを期待するほうが間違っていたのだろうと、自分の迂闊さに少しだけ呆れた。
「……晴輝くんが最後に雪輝くんにあったのはいつ? その時のことを覚えてる?」
 だから、この質問にも有力な情報をあまり期待していたわけではなかった。
 しかし、春輝少年から返ってきた言葉は、余りにも予想外なものであった。
「うん、はっきりおぼえてるよ」
「ふうん……え?」
 淡々とメモ帳にペンを走らせていた俺は、その言葉でハンマーで殴られたような衝撃に眼を見開いて晴輝少年の顔を覗き込んだ。
「ねえ、それ本当に言ってる?」
「な、なんだよきゅうに? ホントだよ」
「それ、いつの話?」
「うーんっと……たしかおれがさんさいのときで、アニキはげんかんにいて、どこかにでかけようとしてたんだよ」
 戸惑った様子で後ずさる晴輝少年を尻目に、俺は俺でますます狼狽していた。
 もしかしてこいつ……!
「その時、雪輝くんどこかに“旅”に出るとか、しばらくずっと帰れないとか、そんなことを言ってなかった?」
「うん、いってたよ。“たび”にでるから、しばらくかえってこれないって」
「一緒に雪輝くんについていったりはしていない?」
「してないよ。そのときよるおそくてねむかったしトイレにいきたかったし、そとにでたりしたらかあちゃんととうちゃんにおこられるっておもったから」
「本当にそれが最後なんだね? 本当にそれから雪輝くんを見てないんだね?」
「だ、だからホントだってば。なんだよ、さっきからおじさんこわいよ」
 間違いない。俺は一つの確信に至った。
 晴輝少年は、“旅”に出ようとしていたその瞬間の雪輝のことを目撃している。
「その時の話、出来る限り詳しく聞かせてもらえないかな?」
「うーん……でも、そんなにいろいろとはおぼえてないんだけど」
「いいからっ! すごく重要なことなんだよ、これはっ!」
 俺は思わず晴輝少年の肩を掴んで揺さぶった。しかし、流石に今にも泣き出そうになっていたのを見てとった俺は、慌てて「ああ、ごめんな」と少し気まずい思いで手を離した。
 これですっかり脅えてしまった晴輝少年は、それでもオズオズとながらもその時のことを語り始めた。三年前、しかも当時は三歳だっし、何よりも脅えていたこともあって、大分つっかえたり途中で唸って言葉が止まったりしてあまり要領を得なかったのだが、それでもまとめると大体こうなる。
 その時、小用を催した少年は眼を覚まし、両親を起こそうとしたのだが起きなかったので、一人でトイレに行こうとベットから抜け出した。この家では就寝後は家の明かりを全て消すのだが、この時は玄関の電気がついていて、しかも物音もしたのである。どうしたことだろうと、恐怖心よりも好奇心の方が上回った少年は、眠い意識を引きずりながら玄関に向かった。すると果たしてそこに、今にも“旅”に出るべく家をたとうとしてた雪輝がいたのである。その時、晴輝少年には夢心地に思えたのだそうだ。
「そのときすごくねむくって、なんかよくわかんないけどアニキがぼーっとたってるっていうふうにみえて、なにやってるのかなーっておもってはなしかけたんだよ」
 そして雪輝は驚いたように振り返り、晴輝少年のことをジイッと見つめたのだ。晴輝少年はその時のことを振り返って、まるでお化けを見つけたような表情だったと話した。
 晴輝少年の「おにいちゃん(その時はそう呼んでいたのだそうだ)どうしたの?」という問いかけにも答えることなく、黙って晴輝少年のことを見つめていた。どうやら震えていたようだったと、晴輝少年は言う。
 ――やっぱり、雪輝もそうだったのか。
 俺はその時の雪輝を思うと苦々しかった。
 彼もまた、ナオや数多くの“旅人”たちと同じように、気が狂いそうなほどの恐怖と、それでも宿願のために旅立たなければならない絶望の混沌の中にいたに違いないのだ。そしてそこに、彼の未練――涙を流してまで名づけることを欲した弟がやってきたのである。しかも、“この世界”と“旅人”との最後の境界線と言える、自宅の玄関で。
 そして旅立つ時のナオもそんな気持ちだったんだろうなと思う。手紙を読めば分かる。恐怖と絶望に身を震わせながら誰にも救いを求めることも出来ずに、“旅人”の世界へと歩いていったのである。
「もう少し、その時の様子を聞かせてくれないかな?」
 だからこの質問は、一つの不毛な裏づけに過ぎなかった。「“旅人”になる人間の大多数は重たすぎる何かしらを背負ってい」て、それ故に例え絶対的な死が待っていようとも、わずかに残された“宿願”に向かって旅立つのだという裏づけ。
「すごく怖がってたとか、そういう様子は見られなかった?」
「うーん、こわがってたっていうか……うん。

 なんか、すごくかっこよかった」

 だから、そんな風に晴輝少年がそう言ったのを聞いた時は、心の底から耳を疑ったのだ。
「かっこ、よかった……?」
「うん。なんだかアニキ、すごくどうどうとしてて、ホントにかっこよかったんだよ」
「いや……だってさっき、震えてるみたいだったって……!」
「うん。だけど、オレとはなしてるうちにふるえがとまってね、カチコチになってたかおがすげーかっこいいえがおになったんだよ」
 ――なんだよそれっ……!
 俺は思わず愕然とするやら、憤然とするやら、自分でも良く分かってない激しい感情に襲われざるをえなかった。
 俺の知ってる限り、今までそんな“旅人”なんていなかった。全てを知って“旅人”となったその誰しもが、“旅人”にならなければならないその運命に絶望し、その世界に恐怖せずにはいられない連中だったのである。どれほど強固な宿願があろうとも、自らの旅立つ世界に絶望せずにはいられない。それが、“旅人”になるということじゃなかったのか。
「その時、雪輝くんはなにか言ってたりはしてなかったか?」
「……うん。いって……うあっ!」
「なんてっ! なんて言ってたんだ! 答えろっ! 答えろおっ!」
 気がつけば俺は再び晴輝少年の肩を掴み、彼が六歳の子どもであることを忘れて、思い切り前後に揺さぶっていた。そして、食ってかかるように問い詰めずにはいられなかった。
「やめっ……! わかっ…はな、はなすから……こわ、いた……いたいかっ……!」
 晴輝少年の悲鳴でやっと正気に戻った俺は、真っ赤になっていた顔を青くしながら、「わ、ほ、ホントに悪かったっ!」と、すっかり縮こまった少年を必死になだめた。
「もう一回聞くぞ……その時、雪輝くんはなにか言ってたりはしなかったか?」
 そしてなんとか落ち着いた晴輝少年は、俺の質問に対して堂々とこう答えたのだ。
 先述しておくと、これは「もう帰ってこれないのか?」という主旨の質問に対する返答だそうである。

「この家に再び帰ることはとても難しい。しかし俺は再びここに帰るために、再びこの世界で俺自身として生きるために旅立つのだ」

 もちろん、晴輝少年がこれを一字一句まで正確に覚えていた訳ではない。しかし、少年の話を聞くと、大よそこういうことを言っていたには違いなかった。
「いみははんぶんくらいよくわかんなかったけど……それでもホントにかっこよかったんだ。なんか、せかいをすくいにいくゆうしゃみたいだった」
 勇者。
“旅人”を揶揄するネットスラングの一つ。
 しかし、晴輝少年の見た雪輝の佇まいは、そんな卑下たる意味ではなく、本当に言葉通りの、運命を変革し、宿願を果たすために旅立つ勇敢なる者のそれだったに違いない。
 ――まさにマンガの主人公をそのまま現実へと持ってきたような少年。
 彼は果たして、本当に主人公になれたのかもしれない。“旅人”の宿命に震えていた一少年から、“旅人”の運命に立ち向かい、変革を果たしうる主人公に。
 なあ、ナオ。
 俺は、手紙だけを残し、恐怖と絶望に震えながら旅立っていたナオのことを思わずにはいられなかった。
 なあ、ナオ……いるんだぜ。ナオが、ナオ以外の全てを知って旅立った“旅人”の全てが絶望せずにはいられなかったその過酷な運命を受け入れて、堂々と“旅人”になった勇者みたいな奴がさ……なあ、ナオ、いるんだよ……いるんだよ、ちくしょう……! 誰しもが生きることを諦めたその旅路から、生きて帰ることを固く誓えた奴がさあ……!
 どこか誇らしげに佇んでいる晴輝少年を尻目に、俺はその場に泣き崩れずにはいられなかった。いくら涙を止めようと思っても、胸の中に溢れる思いは止められなかった。
 会いたい、会いたいよ、ナオ……! なあ、絶望する必要なんかないんだ。例えどれほどの恐怖が背後で息を潜めてようとも、それに立ち向かえる人間がいるんだ、いたんだ……だから、お前も絶望する必要はないんだ。そうすれば、お前はきっと宿願を果たせる、人を愛することが出来るんだよっ……! だからお願いだ、お願いだから、前を向いてくれ。俺も前を向くから、だからっ……!
「ね、ねえ、だいじょうぶ……?」
 少年の声で顔を上げた俺はしかし、少年の顔を見ることなく空を見上げた。
 こうして青空を見上げる度に、俺はいつもその最果てまで見渡せないものかと思うのだ。この青空のはるか向こう側には、ひょっとしたらナオが旅する“世界”があるかもしれないからだ。
 そして――俺のこの思いが、かすかにでもナオに届くかもしれないからだ。
 しかし、そんなことはありえない。例え最果てを見渡すことが適っても、俺のこの思いが届くことは適わないのだ。
 絶望と恐怖に震えるナオの姿が浮かび、そしてナオは世界の最果てへと向かって消えていく――絶対的な死へと向かって消えていく。俺はいつも、どうすることも出来ないのだ。
 俺はそれがとても悲しくて空しくてどうしようもなくて、再び顔をうつむかせて泣き咽ぶしか出来ないのだった。
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