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蜘蛛と私

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夏の通り雨。泥に汚れたスニーカーを眺めながら、新しいスニーカーなんて履いてこなければよかったとため息をつく。
父の里帰りに連れてこられた私。父の育った場所は、愛知と長野の境目にある老人ばかりが暮らす都会から忘れられたような村落だった。

祖母とは、これまで二回しか会ったことがない。最初は、私が幼いころに田舎から祖父と共に東京にはるばるやって来た時で、その頃のことは覚えていない。
二度目は昨年、祖父の葬式に参列するためにここに来たときで、長年連れ添った夫との死別に直面しながらも、気丈に振る舞う祖母の姿が印象的だった。「昔から気の強い人で、父さんは頭が上がらなかった。」と父が言っていた。
しかし、一年の歳月は祖母をすっかり老けさせてしまった。やせ細った足で立ちながら、彼女はバスタオルを持って私たちを出迎えた。
「風呂沸かしたから、さっさと風呂に入りな」と、父曰く「父より怖かった」というかつての厳格な母の面影はあったものの、見た目はすっかり小さくなり、おとなしい老人となっていた。

父の帰郷を聞き、祖母の家には村の人々が集まった。祖父の葬式では、私はほとんど村の人たちと話すことはなかったが、話すと気さくでいい人ばかりだった。「勉強はどうだ。」とか、「ばあさんの若いころに似て美人だな」とか。他愛のない話で盛り上がったが、やがて会話は村人たちと、父との思い出話へと移っていき、昔のことを知らない私は内輪話についていけなくなった。
「こんなおっさん、じじばばばかりのところにおったって、みゆきちゃんもつまらんでしょ。」と誰かが言った。
「そういや、みゆきちゃんと同じ年くらいの子がおるから、会って遊んだらどうじゃ。ここにはけっこう長くおるんじゃろ?」やって来た村人の一人が言う。「それがええ。」と祖母も頷く。「だが、今日は早く風呂入って寝ろ。」

翌朝、私は外へ出かけた。家には今日も村人たちが父に会いに集まっている。父はどうやら村の人気者だったらしい。年老いた祖母ともども、その対応に追われている。
村には一週間滞在する予定だった。しかし、このように毎日村人が父と昔話をするために来るようでは、私は退屈すぎて死んでしまう。折角の夏休みと田舎の滞在がそれで終わっては寂しい。
「山の天気は変わりやすい」という格言通りに、昨日の雨が嘘のように今日は快晴だ。青空は暇を持て余す私を誘っていた。スニーカーの泥を払い、私は外へと飛び出した。
祖母の家の玄関は空と繋がっていた。太陽が近くに見えた。目のやり場に敷き詰められた看板も、囲いように建てられたマンションもない。そよ風、小川のせせらぎ、土の香りのする畑と、そこで育つ夏野菜。そして蟻の行進。東京に忘れられたこの村には、東京が忘れてしまったたものがまだ残っていた。
しかし、東京の低地に慣れた私には、山の太陽は些か近すぎたようだ。日焼け止めは焦がすような光から私の肌を守ってくれたが、眩すぎる光から私の瞳を守ってくれるものはいなかった。サングラスを持ってくるべきだったと後悔した私の目に映ったのは、広いブナの森だった。
木々は高く伸び、葉が傘のように茂っている。あの森はきっと私を守ってくれるだろう。日光が当たらない分涼しいはずだ。ノースリーブのワンピースをひらめかせながら、私は森へと足を踏み入れる。
思った通り、森の中は幾分涼しく、焦がすような日の光も当らない。かといって真っ暗ではなく、頭上に多い茂る葉っぱと葉っぱの間から、優しく木漏れ日が注ぎ込んでいる。足場が悪いことを除けば、都会育ちの初心者が冒険するにはぴったりな場所だった。
狭い散歩道を私は歩く。蝉の合唱が鳴り響き、鳥が木管のような声で歌う。BGMまでご丁寧に用意されていた。冒険者冥利に尽きる歓迎に、私の心は知らず知らずのうちに躍っていた。今頃私の友達は、ディズニーランドで疑似的な冒険をしているだろう。里帰りと重なっていけなかったことは残念だったが、こちらには待ち時間がないことを考慮すると、若干が得をしているはずだ。

しかし、ダンジョンにはトラップがつきものだ。おろそかだった足元に、蜘蛛の巣が絡んでしまった。よく周りを見渡すと、蜘蛛の巣は森のいたるところで張り巡らされている。そのうちの一つの、まだ若いブナの木の上に張られた蜘蛛の巣の上に、一匹のきれいなアゲハチョウが羽をもがいて囚われていた。
幸か不幸か、蜘蛛の巣には肝心の主が不在だった。今逃げれば、きっと蝶は食べられることはないだろう。蝶を不憫に思った私は、そっと彼女に手を伸ばす。しかし、巣は私の手の届かない場所にあった。軽くジャンプして、落ちている枝を使っても、届くことのない距離。
行きの父の運転する車のステレオで聴いた、槇原敬之の歌を思い出した。センチメンタルなラブソングに混じっていた、不気味で悲しい蜘蛛の歌。森も同じだった。美しい自然の中には、残酷さが隠れている。都合のいい奇跡が起きない限り、蝶は食べられてしまうだろう。絶望。為す術のない私は、自然の残酷さから目を背けるように、蝶のもとを去って行った。

その先を進むと、小さな小屋があった。小屋というよりは廃屋。人が住んでいる形跡はない。蝶を助けられなかったことに気が滅入っていた私だったが、小屋の発見は再び私の好奇心に火を灯した。
四畳半とちょっとくらいの小さな小屋。小屋の裏に込み、かつて戸口のあった場所へと足を踏み入れると、小屋の中には一人の少女が地面に腰を下ろしながら本を読んでいた。
私と彼女はこのようにして出会ったのであった。
少女は、日の当たる窓際(正確には窓のあった壁際)に、もたれるようにして本を読んでいた。どうやら彼女が、昨日村の誰かが言っていた私と同じ年くらいの子のようだ。よく見ると、彼女の読んでいた本は漫画だった。
「あ、気にしないで。入っていいよ。」と彼女は小屋の入り口で立ったまま中に入ろうとしない私に言った。しかし、声をかけながらも彼女の関心の向き先は私ではなく依然漫画だった。「ひかりのまち」というタイトルの、私の知らない漫画。
表情一つ変えず、しかし食い入るように少女は漫画を読み続けていた。目にかかる長い前髪を時折り振り払いながら、まるで本に吸い込まれているかのように、彼女は漫画を読み続ける。
少女の肌は、小麦色に焼け、青地のタンクトップの裾からは細長い腕が健康的に伸びていた。白のショートパンツからも同様に、細い足が伸びている。前髪が伸びすぎていることを除けば、髪は全体的に短く、パッと見では男の子と間違えてしまうかもしれない。鼻筋の通った顔立ちで、目はくっきりとしていた。
一見、男の子と間違えてもおかしくない少女を、私が女の子と認識できたのは、タンクトップの襟首から覗く、彼女のかすかに膨らんだ乳房が見えたからだった。それは、少女がこれから女になる証。しかし、彼女はブラジャーを着けていなかった。乳房の上では、形のいい小さな乳首が露わになっている。
それにも拘わらず、彼女は一心不乱に漫画を読み続けている。そこには、きっとこの先彼女の身に何が起ころうとも、構わずに漫画を読み続けるような無防備な危うさがあった。雨が降っても、雷が鳴っても、男の人に無理矢理犯されそうになってにも、きっと彼女は漫画を読み続けるだろう。何事もなかったように。

そう、たかを括る私に、少女は突然声をかける。
「ねえ、さっきからじろじろ見てるけど、そんなに気になる?」
「な……何を……?」
「私のおっぱい。」
少女は、話しながらも少女の視線は漫画から離れない。それどころか、ここに来た時から彼女は漫画以外のものに目線を移していないのだ。ありえない一言に、私は戸惑った。
「私さ、ブラジャーつけるの嫌いなんだ。窮屈だからね。最近膨らんできたから、おばさんにつけなさいって言われるけど、邪魔くさくってありゃしないから外してるんだ。」
「でもね、つけないでいるのは駄目だと思うの。」
「乳首まで見えちゃうから?」そういうと、少女は読んでいた漫画を地面に置き、立ち上がって私の方を向くと屈み、襟首から徐に彼女の胸元を見せる。
「……!!……ちょっと!!」私は、少女の行動に驚き慌てふためいた。無防備かと思えば、恥じらいがない。それどころか、困惑する私の顔を見て笑みを浮かべている。
「恥ずかしくないってのは嘘だけど、女同士だし……ね?男の人に見られるのは嫌だけど、普段はつけてるし、ほら。」といいながら、どこからか水玉柄のブラジャーを手に取り私に見せつける。ゆっくり、私の方へと近づいてくる。
「どう、ちょっと可愛いと思わない?パンツもおそろいなんだ。」
「だから、何?」
「いやさ、さっきからジロジロ見てくるから、見たいのかなって思って。」
「ジロジロなんて……」私が彼女の胸を見たことは事実だ。とはいえ、やましい気持ちは一つない。人のタンクトップの襟首から、乳首が見えていたら男の人でなくても気になってしまうだろう。
「今だって、見てるくせに」私の前に立つ少女のタンクトップ越しから、彼女の乳首が透けて見えた。本来、ブラジャーが覆い隠すべきものが。
「見たくなくても見えちゃうから、ブラつけたほうがいいんだよ。」私は私の視線を棚に上げ、彼女の無防備さへと矛先を向ける。「そういうの見て、男の人はムラムラするんだから。」
「じゃあ、君は?」そう言いながら、少女は小悪魔のような笑みを浮かべ、片方の乳房を左手でつかむともう片方へと寄せた。私の様子を楽しむように。
「私はレズビアンではないし、女の子の胸を見てそういう気にはならないから」少しいらだった声で私は言った。
「そんなこと一言も言ってないけど」と彼女は笑う。少女は私のすぐ目の前に立っていた。座っていたときは、長い手足だなと思ったものの、目の前に立つとそれほど背は高くない。むしろ、私より数センチ小さいくらいだった。

すると突然、少女は右手で私の胸をつかんだ。「おかえし」と、無邪気な笑顔を見せながら。そして、彼女のもう片方の腕は私の肩を抱き寄せる。
私は声をあげようとしたが、遅かった。「あなたは捕まえられちゃったのよ」と少女は息も聞こえるような間近な距離で私に囁く。彼女の黒い瞳に、私の怯える表情が映る。
「君のこと知ってるよ。みゆきちゃん……だっけ?別に関わるつもりはなかったけど、君の方から来たんだもん。」彼女の手は私の胸をすっぽりと掴んだ。私は彼女の手首を掴んで彼女の手を胸から引き離そうとしたが、彼女の細い腕は見かけによらず力があった。
「私は、こんなことされるつもりじゃなかった。」私の抵抗に構わず、少女の手はなめらかに関節を動かして私の胸の柔らかさを確かめる。
「やめてよ。村の人に言うよ。」会ったばかりの少女に胸を揉まれ、私は恥辱に打ちひしがれていた。気が付けば、涙が流れていた。
「女の子同士、ふざけ合ってこういうことしない?」少女は、意地の悪そうな声で言う。
「あなたとは、女の子同士という気がしないもん……だから、嫌だ……」
「そうね」少女は、そういうと急に私の胸から手を離し、肩を抱きかかえていた腕をほどくと、私から数歩離れた。「ごめんなさいね。私は女の子であって、女の子じゃないから。」
彼女の言おうとしていることは、理解できた。「でも、その気がない人にこういうことするのはいけないと思う。」私の言葉を、少女は黙って、悲しげな笑みを浮かべてながら聞いている。
「私、帰るから。あなたにされたことは誰にも言わない。代わりに、私の前に姿を現さないで。」そう言い、私は小屋から走り去って行った。

帰り道、蜘蛛の巣に捕えられていた蝶の姿はなかった。代わりに足の長い毒々しい色をした蜘蛛がものを言わずに私を眺めているのが目に映った。
2, 1

  

祖母の家に帰ると、すでに客人は皆帰った後だった。細く衰えた足で、後片付けをする、祖母と、それを手伝う父がいた。帰るなり父に手伝うように言われたが、祖母は「みゆきにやらせんでも、お前がやればええ」と父だけをこき使った。
客に出した茶碗を片付ける背中で、「外はどうだ」と祖母は私に尋ねた。
「きれいだったよ」と私は半分嘘をついた。

夕飯を食べ、私は祖母に急かされるように風呂に入らされた。田舎らしい、昔ながらの薪で沸かす風呂ではなく、割と新しめのガス給湯器付きの風呂だった。
風呂の中には、大きな鏡があった。曇る鏡に、生まれたままの私が映っていた。私は、早熟だった。中学のクラスメイトと比べると、丸みを帯びた大人びた体つきをしている。ブラジャーを初めてつけたのは小5の時だった。初潮はその半年前だった。胸は時が経つにつれて膨らみを増し、ヴァギナを隠すように毛も生えそろった。背も同年代の女子と比べると、頭一つ抜けている。鏡に映った姿だけを見れば、きっと五つも十も年上と思われてもおかしくないだろう。
私の発育した乳房は、たまに親しい友達にふざけ半分で触られることがある。もちろん、触るのは女友達だ。多少の抵抗はあるものの、小屋の中で日に焼けた少女に触られたような不快感はない。あくまでも、それはおふざけだからだ。しかし、私の身体が性の対象として見られたときに、私は強い不快感を覚える。
それに気づいたとは、小学校のプールの授業の時だった。そこで、クラスの男の子たちが、スクール水着に身を包んだ私を、普段とは違う目で見ていることに気づいてしまった。それは、私の肉体が他人から大人のものとして見られていることを知った瞬間でもあった。私の友人の中には、すでに付き合っている男の子との初体験を済ました子もいた。彼女は、その行為に彼の愛を深く感じたと言う。しかし、私は、性欲というものをよく理解できない。恋愛感情すら実は誰にも抱いたことがない。肉体は女に近づいても、私の心は女というものを理解できない。例えそこに愛があったとしても、肉体を求めるという概念が、私には未だに理解できない。ましてや、その先に快感があるということは、想像もつかない。そんな私の身体が、誰かの性欲の対象として見られていると考えるだけで、私は底知れぬ恐怖を抱いた。
小屋にいた少女は、女でありながら私を男の子たちと同じような目で扱った。彼女の欲望を具現化するように、その手は私の胸を掴んだ。未だかつて味わったことのないような恐怖と屈辱だった。しかし彼女の瞳は、私の性への恐怖心の正体を同時に教えてくれた。彼女は私ではなく、私の肉体を見ていたのだ。私という存在の一部でしかない私の肉体だけが求められるという恐怖―――私の心が不在の肉体的なつながり。

風呂上り、私は寝床の天井に張られた蜘蛛の巣と、その中心に佇む蜘蛛を見た。昨日は気付かなかった。突然私の目の前に現れた蜘蛛が気味が悪かったので、父を呼んで捕まえてもらった。「蜘蛛がそんなに怖いのか」と父は呆れていた。
「ところで、みゆき。明日、父さんが昔お世話になった会社の先輩がやって来るんだ。若くして退職して、今はここで隠居してるんだけどね。先輩と、先輩に預けられているっていう親戚のお子さんも来るらしい。お前と同じ年の女の子だそうだ。」捕まえた蜘蛛をティッシュで包んで潰しながら父は言った。
私は、はっとした。彼女だ。
「あんまり詳しい事情は知らないけど、彼女、学校でいじめられて登校拒否になっちゃって、親ともどうやら仲がうまくいかないらしくて、それで親戚の先生が預かってるらしいんだ。なあ、みゆき。ここにいる間仲良くしてやってくれないか?」
「えっ……」
私はどういう言葉を言えばいいか分からなかった。昼間のことが思い浮かぶ。もう彼女には会いたくない。そう言いたかったが、彼女の事情を大まかながら知ってしまうと、ノーとは言えなかった。ましてや、彼女に穢されそうになったなんて、言えやしない。それを抜きにしても、父に彼女にされたことを言うのは、怖かった。
「うん。」
私は静かに頷いた。もはや我慢をする他になかった。
それから蜘蛛の巣があった天井を見上げながら、私は床に就いた。避けても私の目の前に現れようとする少女が、蜘蛛のように思えた。あの長い腕がまた私の肩を抱き、その手が私の肉体を貪ると思うだけで、震えが止まらなかった。
翌日、空は昨日の晴天から打って変わり、灰色の雲が一面を覆った。雨が、降ろうとしていた。
「洗濯、せんほうがええだろうな。」祖母は空を見上げて言った。
「母さん、夜は土砂降りらしいよ。」新聞の天気欄を読みながら、父は答えた。
「先輩、じゃったっけ?今日おいでるの?せっかくいらっしゃるというのに……」
「全くだ。」

小雨が降る中、父の職場の先輩と少女がやって来た。父の先輩というものだから、男の人
だと思っていたが、会ってみると女の人だったので驚いた。背が高く、凛々しく若々しい髪の長い女性だった。
「みゆきちゃんだっけ?こんにちは。あなたのお父さんと昔一緒に働いていた山岸和子です。よろしくね。」
「娘のみゆきです、初めまして。」
「そしてこの子が……」と言うと。和子さん短い少女の方を向く。
「和子さんの家でお世話になっている、尾野揚羽です。はじめまして。」
少女は、礼儀正しく、儚げな声で名乗り、嘘をついた。尾野揚羽―――オノアゲハ。
私の目の前にいるのは、確かに昨日森の中の小屋で会った少女だった。日に焼けた、蜘蛛のように細長い腕で私を辱めたあの少女だった。

和子さんと父は思い出話に花を咲かせた。職場での息子の様子に興味があるのか、祖母も交えて大人たち三人は大いに盛り上がったが、内輪話がとにかく好きな村人たちとは違い、和子さんは私に話を何度も振り、私の知らない職場での父をおもしろおかしく教えてくれた。彼女は父の働く商社の営業部では、常に優秀な成績を上げていたという。稼ぎも良く、昔からある程度蓄えたら仕事を辞めて田舎暮らしをしてみたいと思っていたらしく、築70年の空き家を購入し、以来この村で暮らしているという。

「みゆきちゃんのお父さん、若かった頃に飲み屋で酔って大暴れしてさ、ほかのお客さんに絡みだしたんだよ。それがお得意先の部長さんだと気づかずにさ。」
「それ、和子さん言わないで下さいよ!」
「交渉が台無しになるところだったけど、私がうまく取り入って無事に契約をまとめたんだよ。菅野は手の焼ける後輩だったよ。」
父が女の人に苗字で呼び捨てにされるのを見るのは初めてだった。和子さんは父の職場での良き姉貴分だったらしく、他にも面倒をかけるようなことをしていたらしい。
「でも、この村を紹介してくれたことで、恩返ししてくれたのかな。」と和子さんは目を細めながら笑った。「もっといいフォローはないんですか!」と父はたじろいでいる。
話し上手で嫌味もなく、村に住んでから祖母とはこれまで道であったら挨拶をし合う程度の付き合いだったらしいが、この一時間で数年来の付き合いのように打ち解けてしまった。父の面倒を見たもの通し、シンパシーを感じるのか。父の威厳はこの日なくなってしまった。
揚羽は、話には入ってこなかった。静かに和子さんの横で、時折大人たちの言葉に愛想笑いを浮かべていた。彼女の事情を知ってか知らずか、父も祖母も揚羽に無理矢理話を振ろうとはせず、ただ少女がこの場にいることを許すのみだった。

五人で昼食に祖母が作った冷麦を食べたあと、和子さんを気に入った祖母が二人に晩飯も食べていかないかと誘った。「それじゃあ、お言葉に甘えて」と和子さんは承諾し、揚羽も首を縦に振った。
しかし、五人分の食糧は祖母の家にはなかった。土砂降りが降る前に、村から車で片道一時間の町中のスーパーマーケットに買い出しに行くことになった。祖母は車を持っておらず、父の車で行くことになった。
当然私もついて行くものと思ったが、父と和子さんに揚羽と一緒に留守番をしてほしいと頼まれてしまった。皆は言わなかったが、「揚羽と仲良くしてほしい」と言うことだろう。彼らは、昨日の出来事を知らない。私は彼女と二人きりでいるのは嫌だったが、揚羽の事情を聞かされてしまった後では断りきれなかった。もし、何かされたら今度は精一杯抵抗して逃げようと思いながら、父たち三人を見送った。

「猫かぶるの、うまかったでしょ。」
大人たちがいなくなると、揚羽は昨日のように生意気な口調で話しだした。私は彼女を無視しようと思ったが、彼女は学校で虐げられていたことを思うとなかなか無視を決め込めず、曖昧な口調で「ええ」と一言返した。雨脚が強まりだしたのか、ザアザアと外から聞こえてくる。
「大人しくしていれば、私はここでは可愛そうな子でいられるからね。いっつもああしてるんだ。」
「そうなんだ。」と私は愛想なく返した。話しかけないでほしいという私の態度に気づいたのか、揚羽は再び黙り込んだ。

揚羽は今日はブラジャーを着けていた。アディダスのロゴが入った白いTシャツに、黄色い下着のラインが汗で透けて見えていた。自ずと彼女の胸元に視線が向いたことに私ははっとしたが、揚羽はここではない何処かを見るような目で、沈黙を保っていた。
雨は段々と激しくなり、その轟音だけが家の中に響いた。私と揚羽は、ちゃぶ台一つを隔てて言葉もなく長い時間向き合っていた。
揚羽は何もしてこなかったが、いつ彼女の手が私を汚らわしく触るかと思うと、私は怖くてたまらなかった。しかし、親の手前、私はこの場を離れることができなかった。彼女と黙って向き合うことが、私にとって最大限の妥協だった。

夕方、父たちは帰ってきた。米を急いで炊き、店屋物の揚げ物とサラダを、祖母の漬けた茄子と一緒に食べた。
団欒の中、和子さんが「みゆきちゃん、揚羽とは仲良くなった?」と聞いてきた。顔をあげて応えられるはずがない質問だった。
「うん、仲良くしたよ。一緒に音楽聴いた。」
私がどう答えたらいいか考えている間に、揚羽が助け船を出すように、「これ」とiPodを見せながら和子さんに答えた。イヤホンからは、槇原敬之の曲が漏れて聴こえていた。
4, 3

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