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bonus trak「Don't Stop Believin'」

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 澄んだよく伸びる歌声。特にオープンコードと相性の良い声だ。
 簡単な造りの照明に照らされながら、少年は気持よさそうにギターを弾き、大きく口を開いて歌っている。あんな顔をするようになったのは、いつからだったろう。
 カウンター越しにその顔を眺めていると、ふと向かいに座った客が声を掛けて来た。
「あの子、随分と若いけど良い声だね」
 彼はジン・ライムを口にして、それから奥のステージから聞こえる声に耳を傾けている。随分少年の事を気に入ったようだ。
「うちの看板だよ」
 そう口にすると、彼は笑った。
「間違い無い。なんとなくこの店に来たんだが、こんな良いヴォーカリストに出会えるとは思わなかった」
「初めて来たのか」
「なんとなくいつもとは違うバーを探していたんだ。どうやら俺は運が良いらしい」
 そう言って微笑む彼を見て、俺も不思議と嬉しくなった。
「息子さんだったりするのかな」
「いいや、赤の他人だよ」
 へえ、と彼は言葉を漏らし、興味深そうに俺を見つめる。
「じゃあどうして?」
 そのどうしての理由に答えようか、少しだけ迷う。別に特に何か問題がある話ってわけでもないが……。
「折角だから聞かせてほしいな。あの子とマスターの出会いをさ」
 溜息を一つついて、それからしょうがないと言った風に肩を落とし、それからステージ上で歌う少年に目を向ける。
「そういえば、彼の名前は?」
 尋ねながら酒を呷る彼に俺は言った。
「蜜柑……園田蜜柑だ」

   ―――

 少年は窓際の椅子からずっと外を眺めていた。
 俯きがちで、目が見えないくらいに前髪を伸ばしていて、正直な所初めてそいつを見た時は苛立ちすら感じる虚ろで弱々しい雰囲気。それが少年に対して抱いた初めの印象だった。
「なあ、あいつはなんであんなに哀しそうなんだ?」
 そう言ってカウンター越しに園田さんに尋ねると、彼は「難しい年頃なんだ」と答えた。
「学校でもあまりいい感じでは無いらしくて。中学生になって何か変わるかとも思ったんですが、どうにも」
 彼は憂鬱そうな顔をしていた。
 園田さんは最近になってうちに来るようになった常連だ。昼は喫茶店、夜は簡単なライブの出来るバーのうちを「こんな所に入り浸るのが夢だった」と気に入ったようで、仕事終わりには大体来るようになったし、常連達と馴染むのも早かった。
 音楽の好みもそうだし、世間話だって上手い園田さんと比べると、どうも似ているようには見えない。暗くて、声のかけづらい少年だ。
 食器を洗い終え、タオルで手を拭うと、俺はカウンターから出て少年の向かいに座る。
 彼は向かいの俺を見て下唇を噛み締めると、みるみるうちに小さくなって、すっかり塞ぎこんでしまった。その態度に苛立ちながらもなんとか堪え、テーブルの上に頬杖をつくと少年を覗きこむようにして睨みつける。
「名前は?」
 少年がより一層縮こまるのが分かった。
「名前を聞いてんだ。さっさと教えろよ」
 少年が退いた一歩に踏み込むように、俺は言葉を繰り返す。
 彼は俯いたまま目を横の窓に逃し、それからあのぅ、そのぅ、と小さな言葉でぶつぶつと呟いた後、ボリュームの下がったままの声量で、ぼそぼそと「……みかん」と呟いた。
「女みたいな名前だな」
「ちょっとマスター、息子をあまり苛めないでやってくださいよ」
「苛めてねえよ、名前聞いてるだけだ」
 俯いたままの「みかん」の両頬を俺は掴むと、顔を強引に上げる。若干の抵抗は感じたが構わなかった。
 みかんは俺とほんの一瞬目を合わせてから、やがてすっと滑らせるようにして視線をズラすと、ごめんなさい、とだけ一言呟いた。
 ごめんなさい?
 ごめんなさいとはなんだ。何か悪い事でもしたのか。謝ることで俺が気を良くするとでも思っているのか。ふつふつと吐き出したい言葉がせり上がってくるのを感じながら、しかしその言葉たちをグッと飲み込む。こいつに罵倒したってどうせ返ってくるのは「ごめんなさい」だ。
 その場しのぎでなんでも解決できると思ってやがる。
 動かなければ一生その場所に居る事をこいつは理解していない。

 思いっきりひっぱたいてやった。
 頬に一発。

 時間が止まって、場がしん、と静まる。
 右側の頬を赤くしたまま呆けているみかんが目の前にいて、カウンターには園田さんと、丁度出てきた妻が顎でも外れたみたいにだらしなく口を開けてこちらを見ていた。
 俺は構わずみかんの頭を掴むと、強引にこちらに目を向けさせた。
「ようみかん、俺の声が聞こえてるか?」
 みかんは目元に涙を溜めながら何度も何度も頷く。さっきの冷めた顔よりは幾分良い顔になったじゃないか。まあ情けない泣き顔ではあるが。
「よく聞け、お前、そんなんで人生楽しいか?」
 返答は無い。俺は構わずに続ける。
「そんな俯いてばっかりいる奴は駄目だ。糞みてぇな奴にしかならねえ」
 目を逸らさず、しかし怯えを抱いたその目を見ながら、俺はそう怒鳴りつけた。
 別にこれで来なくなるならそれでいい。こんなうじうじした奴がいても店の空気が悪くなるだけだ。別に儲けなんて考えていない、俺や妻が死んだらそれまでの趣味みたいな小さな店だ。今まで稼ぎ続けた金をつぎ込んでやっている壮大な趣味。それに好き好んで客が来てるだけ。俺はその客を喜んで受け入れて、一緒に馬鹿騒ぎしてるだけ。
 だから、欲しくない空気を持ってくるな。目を細めてみかんを睨みつけると、奴は下唇をぎゅっと噛み締めて、それからその細い手を握り締めて俺に向かって振った。遅いし、ただ振り回しただけの拳は少し身体をずらせば避けられる貧弱な拳だ。
 が、俺は敢えてその拳を受けた。まるで痛くも痒くもない、何時だったか妻に殴られた時の芯に響くような衝撃だって無い。
 ただ、その一発を受けて、俺はすっかり目の前の虚弱な少年のことを気に入ってしまったようだった。やりゃあできるじゃねえかと呟くと、少年が小さく震えるのが分かった。
「蜜柑」
 俺が呼ぶと、目の前の少年は身体を震わせ緊張させた。
「この店、父親からはなんて聞いてる?」
「……昼は喫茶店、夜はライブができるバー」
「その通りだ。楽器を片手に、唄って騒いで酒を飲む。最高の夜を作れる場所さ」
 機嫌良く喋り始めた俺を見て、蜜柑はまだ俺の意図を掴めていないようだった。
 俺は疑問を目一杯抱える目の前の少年の頭を撫で、それから蜜柑の襟を掴んで強引に手繰り寄せると、未だ怯える虚弱な少年に顔を寄せて言った。
「ギターを弾け、歌を歌え。これからお前はあのステージで『ライブ』をやってもらう」
 俺が言い終わると同時に、蜜柑は恐る恐る奥の幕の降りたステージに目を向けた。それほど大きくはないが、バンド編成でもどうにか行けるくらいの広さはある。生憎爆音で暴れる事は出来ないが、ゆっくり愉しむには丁度良いくらいの設備は整っている。
 俺はそこに、たった一人ギターを片手に歌う蜜柑の姿を想像する。恥ずかしさと緊張で青くなったり赤くなったりしながら必死に演奏する姿は、酒の肴には丁度いい。
 そう思いながら蜜柑を再び見て、俺は驚いた。
「あそこで、皆唄ってるの?」
 怯えていた筈の目には、好奇心が滲んでいた。俺は再びステージに目を向けると、ただ一言ああと口にして頷く。
「上手い?」
「どうかな、音痴な奴とかリズム感が無いやつもいるし、チューニングすらできてない奴もいるから、日によって当たり外れはあるなぁ」
 でも、と口にして、俺は頭を掻く。別に技術なんてどうでもいいんだ。別に選別する気は無い。ただ、出たければ俺は出すし、そこに一つだけ納得できる理由さえあれば構わない。
「でも?」
 俺は再び蜜柑を見る。全くどこに食い付くか分からないもんだ。
「どいつも音楽が好きで好きで堪らないから、見ていて飽きない」
「おじさんは……?」
 問いかけられて、俺は暫く腕組みをして悩んだ後、指を一本立てると、壁掛けの時計に指先を向ける。木枠に収まった時計は、昼過ぎを示している。
「夜になったら来てみろ。俺がお前を楽しませてやる」
 そう言ってにやりと笑ってみせると、蜜柑は少しだけ、表情が柔らかくなった気がした。

   ―――――

 昼と夜の合間に挟む一時間の中で、妻と準備をしながら今日出会ったあの貧弱な少年の事を考える。
 気の早い所が駄目なんだと妻にぐちぐちと言われるのが習慣化していて、園田さんが帰宅した後もまた説教かと正直うんざりしていたのだが、珍しく妻は何も言わずにいた。
 テーブルのクロスを掛けながら、俺はふと思い立って、カウンターで酒のチェックをしている妻に声を掛けてみた。
「今日は怒らないのか?」
 その言葉に彼女はちらりと俺を見て、それから小さな微笑を浮かべる。
「説教されるのが分かっててやったの?」
「う、ぐ……まあ、そのな……。頭に血が昇ってしまってな」
 痛いところを突かれて俺がクロスを整えていると、カウンターから「今日は許す」と柔らかい声が聞こえた。うんざりも、怒りもしていない。むしろどこか機嫌が良さそうにも聞こえる声に、正直な所、動揺した。
「ステージを見てる時、彼すごく興味を持っていたから。あんな顔最近見ていなかったって園田さんも言ってたの」
「あんな笑顔ですら、ねえ」
「昔は元気一杯だったらしいんだけどね。元気すぎて手を焼いちゃうくらい活発な子だったらしいわ」
 妻の声と共に、グラスがからんと打ち合う音がした。ついついやってしまったようで、彼女は驚いた後ヒビが無いか確認してから、ほっとして布巾を掛ける。
「幼い頃通っていたお稽古場が、才能を伸ばすことに熱心なところだったらしいの。とにかく優秀な生徒を輩出したいって」
「それはまた熱心な事だ」
 数少ない神童と言える少年少女を探し出すことに躍起になるところは多い。才能という言葉に取り憑かれて他には目が行かなくなってしまう。
「あの子は神童では無かったわけだ」
 言葉は返って来なかったが、俺はそれを肯定として受け取った。
「何故自分はこんなにも出来ないのか。そんな風に自分を追い詰めて、でもどうしても前に進めずまた気落ちしての繰り返し。自分が悪いを繰り返し続けたそうよ」
「やめさせようとは思わなかったのか?」
「何度も切り出したらしいのよ」
「ほう」
 濡れた手を拭いながらカウンターを離れると、妻は俺の整えていたテーブルに座った。俺はそれを見てカウンターに向かうと、洗ったばかりのグラスを二つ手にとり、オレンジージュースとコーラを注ぎ入れた。それから二つを彼女の座るテーブルに持って行くと、向かいに座る。
「無理やり辞めさせるまでの三年間、結局彼は辞めるとは一度も言わなかったらしいの。でもその気持ち以外はどうしてもついていけなかった。ストレスが酷くて、最後はボロボロだったそうよ」
「成程、いい根性は持ってるな」
 コーラを差し出し、俺はオレンジを飲む。
「なら、怒鳴っても問題なさそうだ」
 冗談で言ったつもりだったのだが、妻は小さな笑みを浮かべると、コーラを一息に呑み込んで、一人グラスを手に立ち上がって行ってしまった。あんな炭酸がキツいものよく一気に飲めるもんだと思いながら、俺は窓の外を眺めながらグラスに残ったオレンジジュースをちびちびと飲む。
 商店街の奥にひっそりと佇むこの店の周りは、酷く静かだ。そういう所を狙ったのもあるわけだが、それでもやはり寂しいものは寂しい。
 どの店もシャッターが目立つし、テナントが入ってもわりとすぐに消えてしまう。数年前にショッピングセンターが出来たのもあるのかもしれない。幸い俺の店は友人付き合いのお陰でこうして好き放題やっていられるが、それもあと何年続くかわかったものじゃない。
 蜜柑は今日、俺に殴られて何を思っただろう。怒っただろうか、恨んだだろうか。偏屈なじじいだと思っただろうか。
 ただ、あの一発の後、そしてステージを見た時のあいつに、何かを俺は期待したくなった。
「なあ、園田さんとこの息子は、何をやっていたんだ?」
 その問いかけに、奥に引っ込んでいた妻は顔を出すと、淡々とした様子で言った。
「子役見習い、って言えば良いのかな」
 成程、ステージに憧れるわけだ。

   ―――――

 店の中は夜の客で賑わっていて、どうにも騒がしくて敵わない。いや、それが好きで始めたが、自分の楽器の手入れをする時くらいは静かで落ち着いていて欲しかった。
 店の外、少し歩いた先のもう使われなくなったバス停のベンチで俺はアコースティック・ギターの調弦をしながら、ぼんやりと寂れた街を眺めていた。陽も落ちて、数少ない街灯が等間隔で路上を照らしているが、正直あってもなくても同じようなものだろう。遠く商店街の先に見える目に悪そうな灯りに比べたら、まあ謙虚さがあって良いのかもしれないが。
 E弦、A弦、D弦……と全ての弦を聴きながら整えて、最後に全てを鳴らした。粒の揃った音が、空洞の中で震えて、ふわりと広がっていく。もう十数年の付き合いになる相棒は、今日も機嫌が良いようだった。爪弾く時の弦の感触が心地よくて、アルペジオを適当に繰り返しながら鼻歌を歌う。名前も歌詞も無い適当な歌を。
「おじさん、それは何の歌?」
 かけられた声に俺は思わず笑ってしまった。結局来ないんじゃないかと心の何処かで思っていたのだ。俺みたいなのにまた会いたいなんて思うはずがないと。
「よう、蜜柑。来たか」
 蜜柑は後ろ手に手を組みながらそっぽ向く。
「来いって言われたし、あそこで何をやってるのか興味はあったから」
「そうか」
 それだけ口にして、俺は再びギターに目を落とした。
 蜜柑は言葉に困って暫くもぞもぞと目の前で動いていたが、俺が少し座る位置を詰めると、そこに座ってギターを爪弾く俺を見ていた。
「楽しい?」
「ああ、楽しいぞ」
 俺は間髪入れずに答えた。
「その歳になっても続けたいものなの?」
「そうだな、死ぬまでやってるだろうな」
「死ぬまで?」
 頷いてから、コードを抑えていく。和音の塊に耳を傾けながら、今日やる曲の事を考える。
「楽器や歌には、人の心を擽れる力がある。クラシックもロックも、ポップス、カントリー、ヒップホップからレゲェ。どんなものにもだ。そんな最高にクールなものを見つけたら惹きこまれないわけがない」
「おじさんは、誰かの心を変えたいの?」
「確かにそれもどっかにあるかもしれないが、聴いてもらうのが楽しい。愉しんでもらうのが楽しい。弾いているのが楽しい。それだけさ。そんな単純な理由で好き勝手やっていたら仲間が増えて、終いにはこんな店を建ててしまったっていうだけの話だ」
「ふうん」
 蜜柑はそう言うと、それっきり黙り込んでしまった。俺は構わずにギターを爪弾き続ける。別に慰めて欲しいとか、そういうのでは無い。恐らくそんなことを望んではいない。
「楽しめよ少年」
「何?」
「何があったとしても、精一杯楽しめた奴の勝ちだ」
「そうかな?」
「情熱を注げる何かを見つければ、自然と楽しめるもんさ。結局のところ俺達はそういう風にできているからなぁ」
 俺は立ち上がると、店の方を見る。盛況とまではいかないが、恐らくいつもどおりのろくでもない奴等が集まっている事だろう。
 そんな中で、俺はふと今日歌うつもりの曲を口ずさむ。
「ドンストップビリーヴィン」
「え?」
「信じることを止めるなよ」
 そう言って笑うと、蜜柑は少し首を傾げ、それからにっこりと笑った。
 なんだ、ちゃんと笑えるじゃないかと気分を良くしながら、俺は彼を連れて店に戻る。
 子供、作っておくんだったなあと今更の後悔をしながら、しかしまあこんな出会いがあったなら別に問題は無いかもしれないと胸の内でぼんやりと呟いた。

   ―――――

 カポがしっかり付いている事を確認してから、俺は改めてコードを確認する。もう何度もやっている曲だが、たった一人、それもアコースティック・ギターだけで歌うのは初めてだった。
 Journeyの「Don’t stop Believin」は、本来ならピアノの際立つ曲だ。それに歯切れの良いベースのリフと力強いリードギターにパワフルなヴォーカルの声が乗る。力強い一歩を示すような曲だ。
 久しぶりに緊張している。何度も何度もマイク越しに声を出す。バーカウンターではいつもの面々がにやにやとこちらを見ている。すぐにでも言って一発づつ殴ってやりたかったが、それよりも演奏だ。俺は深く深呼吸をした。
 店内に掛かっていた穏やかなエレクトロニカの曲が止まって、照明が俺を照らす。ステージ上にはたった一人俺だけ。
「ああ、うちの店をいつも利用してくれてありがとう」
 いつもどおりの言葉を口にしながら、俺は店内を眺める。隅の方のテーブルで、蜜柑は父親と共に座ってこちらを見ていた。真っ直ぐに見つめてくるその瞳を見て、俺は応えなくちゃいかんなと気持ちを引き締めた。
「まあ、いつもどおり楽器を弾くのが楽しい奴等を集めたから、酒や飯と一緒に愉しんでいって欲しい。そろそろ俺の前座は見飽きたかもしれないがね」
 店の方から軽い笑いが上がるのを見て、俺は高揚する気持ちを深呼吸と共に抑え、マイクに向かった。
「Just a small town gil…」
 コードを鳴らしながら、俺は歌い始める。感情を抑えて、穏やかに、穏やかに、柔らかなギターの音と共に。
 珍しい選曲だときっと皆は思っているだろう。大抵俺がやる曲は決っているし、前座の俺が歌うザ・フーから始まる事が慣習化していた所もあった。
 だが、今日ばかりは俺の楽しいだけで済ませたくはなかった。たまには誰かに何かを伝えるのも悪くはないだろう。音楽は人の何かを帰ることの出来る力を持っていると、言ってしまったからにはそれを俺自身が信じなくてはならない。
 そして、その為にうってつけの曲があるのなら、俺はそれを歌わなくてはならない。
「stranger,waiting…」
 弦をかき鳴らしながら叫ぶ。突き抜けるような高音を腹の底から引っ張り出して、引きちぎれそうな血管の痛みを心地よく思いながら。
 思えば遠いところまできたものだと思う。ただ好きだからと始めたら、こうして似たような趣味の奴等が集まるようになって、そして今度は俺からしたら赤ん坊みたいな少年までやってきた。
 蜜柑はじっとその目を俺に向けていた。

――誰かが勝つ、誰かが負ける。誰かが、ブルースを歌う為に生まれた。

――映画は終わることは無い。それは続く、そして続く、続く……。

 果たして、俺はこの映画の主人公だったのだろうか。長い時間を掛けて歩んだこの俺という映画は、この先どんな終わりを迎えるのだろう。
 だが、なんとなく思ってしまうのだ。主人公じゃなくても悪くはないな、と。例えばあそこで食い入るように俺を見ているあの貧弱な少年が主人公なら、それでも構わないんじゃないかと思う。
 俺は今、楽しいよ。
 なら、そんな楽しい気持ちを原点に始まる映画があってもいいだろう。俺はプロローグで良い。そこから何かすごいことが始まるなら、俺は構わない。
「Don’t stop believin’ Hold on to that feelin’ streetlight people」
 街灯の人々よ、信じることを止めるな。その気持ちを持ち続けろ。
 弦の感触が心地いい。どこまでも伸びていく自分の歌声が広がって、多くの人に染み渡るのが分かる。俺は、誰かの心の一部として、記憶の一部として残って、これからも彼らの頭の中で歌い続ける。
 小さな幸福と笑われるかもしれない。
 だが、俺はそれでいい。そうして誰かの中に大きな波を起こせたら、その波がまた誰かの心に波を起こしていくのなら、それは素晴らしいことじゃないか。
 園田蜜柑は、これから何を見て、何を歌い、誰と出会って何を感じるだろう。
 俺は、それが楽しみで仕方がないよ。

   ―――――

 たった一曲で汗だくになってしまう自分に衰えを感じながら、達成感と共にビールを飲み干す。健康の問題から歌の後一杯だけ許された俺の幸福の象徴だ。頭に響くような冷たさに目を堅く瞑りながらそれを飲み下すと、大きく息を吐き出した。
「伝えたいことは全部乗せたの?」
 カウンターで働く妻の言葉に、俺は頷いた。そう、と彼女は言うと俺の頬にキスをして、それから仕事に戻っていった。
「おじさん」
 振り向くと、蜜柑が立っていた。
「どうだった?」
「カッコ良かった」
「だろう?」
 得意げな顔をしてそう言うと、蜜柑は両手をぐっと握り締め、それからぐっと俺の事を見上げた。
「俺も、あんな風に歌えるかな?」
 彼の言葉に、俺は思わず笑ってしまう。突然吹き出した俺に蜜柑は少し不機嫌そうに眉を潜めたが、俺はそんな彼の頭を撫でながら、頷いてやった。
「めちゃくちゃ厳しいぞ?」
 蜜柑は頷く。
「けど、めちゃくちゃ楽しいから期待しとけ」
 そう言うと、蜜柑はにっこりと笑った。
 悪くない、と俺も笑い返してやった。

   ―――

「良い話じゃないか」
 彼は酒を旨そうに飲んでいる。
「まあ、酒の肴には悪くない話さ」
 俺の言葉に彼は笑うと、拍手の起きる店内を見渡して、それからにっこりと笑みを浮かべた。
「俺もあんな風にギターを弾けたら、教えられる子供がいたらなあ」
「結婚は?」
 彼は首を振る。
「娘が一人いたんだが、もう会えないんだ」
「それは、すまない」
「原因はほとんど俺だから、気にしないで欲しい」
 観客の反応に照れくさそうに笑う少年を見て、彼はどこか愛おしそうにしていた。
「娘に楽器をやらせてみるのも悪くなかったかもしれないな」
「遅くはないんじゃないか?」
「暫くは……いや、永遠に会わせてもらえないだろうから、夢のまた夢だよ」
 彼は肩を竦めると、また酒を口にした。随分とペースが早い。若干顔が赤らんでいるのを見ると、大分酔いが回っているようだった。
「いつか、うちに連れてくるといい」
「娘を?」
「あんたが何やったかは知らないし、聞かないが、ここを気に入ってくれた奴に俺は寛大でいるつもりだ。いつか、また娘に会える時が来たら、ここに連れてくるといい。俺が盛大にもてなしてやるよ」
 俺の言葉に彼は微笑むと首を傾いでみせた。
「蜜柑も中年ばかりのここにうんざりしているかもしれないからな。丁度良い機会だ」
 冗談交じりにそう言うと彼は声を出して笑った。
「連れてくる、か……。できたら良いんだけどな」
 そう言って彼は席を立つ。勘定を済ませると、コートと帽子を被り、鞄を脇に抱えて軽く俺と妻に礼をすると、ドアノブに手をかけた。
「名前は? 娘と来るまで覚えてなくちゃならないから教えてくれ」
 彼は横目にちらりと俺を見て、首を振ると扉を開ける。
「また、いつか来るよ」
 そう言って、彼は出て行ったしまった。閉じた扉を見つめながら、俺はそのいつかを楽しみにしていようと、彼の顔を記憶に刻み付けることにした。
「おじさん」
 振り向くと、蜜柑が立っていた。前髪をばっさりと切り落として、短髪の健康的な髪型をした少年は、アコースティック・ギターを片手に満足そうな顔をしている。
 いつもこうだ。必ず演奏が終わると、俺のところに駆け寄ってきて、尋ねるのだ。
「どうだった?」
 俺は蜜柑の頭を強く撫で回しながら、大きな声で笑ってみせると、いつも通りの一言を口にした。
「まだまだ、だ」
 こいつはまだまだ伸びる。なにせ「未完」なんだから。
 完成することの無い大器の将来を楽しみにしながら、俺は笑った。


   了
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