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第一話「Heaven and Hell」

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 私が音楽に興味を持ったのは、本当に偶然だった。
 それまで適当に流行りの曲を流し、お洒落に興味を費やし、人当たりが良くて、そこそこ成績が良ければ学生というのは適当に暮らしていけるものだと考えていた。それは今でも思っているが、その生活に戻るかと言われれば、私はノーとただ一言答えるだろう。

 ただの四つの重たい音によって、すっかり私は壊れてしまったのだ。

   ―第一話「Heaven and Hell」―

 「安藤奈津」はそろそろ限界が近付いていることに気づいていた。

 いつもより少し遅い時間に帰宅することになってしまった私は、数か月ぶりの一人での帰宅を味わうこととなってしまった。下駄箱で靴を履いてから外に出てみると、空は紺色が朱色を食べ始めているし、校門の先にある街頭は一つ一つが光り始めている。
 こんな状況になったことに私自身の責任は何一つとしてない。全ては担任が突然手伝ってほしい仕事があると私を誘ったせいなのだ。いやぁ安藤が手伝ってくれて助かったとか、いつも助かると言われたが、何一つとして嬉しくはない。
 けれども、断ることもできない。私はこの学校では優秀で何でもソツなくこなす女子として生活している。この立場になるためには、交友関係から学業に徹底的に生活を費やし、自らを磨き続けなくてはならなかった。恋愛も趣味も適度にこなし、誰とでも話が合うようにする。自らの否定はいらないのだ。その時その時の友人に合った答えを探しては返答し、相手の気分を持ち上げる。
「安藤先輩、お疲れ様です」
 校庭から走ってきた男子生徒は私を見つけるとそう言ってお辞儀をする。私も微笑んで軽く礼をしてから、足早に校門を出て、それからいつもの帰路から少し外れた小道に駆け込むと胸元のリボンを外して大きくため息をついた。
 初めはただ安定した位置を手にするために行っていた八方美人は、一か月、半年、一年と時間が経過するにつれて私の逃げ場をなくしていった。
 誰にでも仲良く、何事も効率よく、突出するほどはせずにちょうどいいところを手にする。
 そうやって自分の首を絞め続けてきたのだった。
 暫く歩いているうちに見つけた自販機で炭酸飲料を買い、傍の公園のベンチに腰かけた。暫くプルに手をかけては離し、両手でコロコロを弄り、またプルに手をかけてやめる。ぼんやりとその繰り返しを行いながら、今までの完璧だった生活を思い出そうとしてみる。
 けれども、全く出てこない。
 充実しているように過ごしてきた筈の生活は、私の中に何一つとして印象を残していないのだ。数日前にこの感覚を覚えてから、怖くなって必至に何かある筈だと考えてみるのだが、何も出てこない。下手をするとどんな人とどんな出会いをしたのかさえ覚えていないのだ。
 いつも帰りはどこかしらの女子グループに誘われて帰宅することが多い。適当に話を合わせていればどのグループにいても浮くことはなくて、学校でも孤独を感じることはなかった。
 けれども、その中に友達と呼べる人物がいるかと聞かれたら、多分いない。休日も遊んでいる筈なのだが、誰と遊んでいて、どこに行っているのか、それすら思い出せないのだ。
「安藤って帰り道、こっちだったか?」
 突然かかった声に驚いて私はあっと大きな声を上げてしまった。それから声のする方を見てみると、ジャージ姿で犬を連れた短髪の男性が困惑した表情で私を見ていた。
「そんな驚かれるとなぁ……。ただ声をかけただけなのに」
 そう言って男性は頭を掻きながら視線を私から逸らした。
「ごめんなさい、ええと……」
 動転した状態で必死に彼が誰なのかを考えてみるが、中身のない記憶だ。出てくるはずはなかった。
 暫く彼の顔を見つめながらあの、その、と小さな声で呟き続けていると、彼は残念そうにしながら私の隣に座った。
「園田蜜柑。珍しい名前で、一応同じクラスだから、何度か会話もしたことがあるはずなんだけど……」
 俺がそう思ってただけだったか、と蜜柑と名乗った彼はため息を吐き出した。多分それは事実であるのだろうが、私にとってそれは大した出来事ではないと認識されてしまったのだろう。
「ごめんなさい」
「いや、そうは言っても二、三度くらいだし、君ってとにかく色んな人といることが多いから忘れるのも仕方ないんだろうね」
 彼はそう言ってほほ笑んだ。
「それで、確か安藤って道、こっちじゃなかったよね。よく集団で帰ってるところ見てるけど、こんな小道に入る姿見たことないし」
「園田君は?」
「ああ、俺は散歩。この小道、人があまりいないから。あとうちの犬がこの公園を気に入ってるからっていうのもあるんだけど」
 そう言って彼は子犬を指差す。尻尾を振りながらつぶらな瞳をこちらに向けて、はっはっ、とかわいらしく息を吐いている。
 その姿に癒された気持になり、少しだけ気持ちが和らぐ。
「何かあったんだっていうのは予想がつくんだけど、ほら、安藤って無敵なイメージが強いから。ここでため息ついてるなんて意外だなって思ったんだ」
 無敵で、何事も完璧な安藤。
 その言葉に、私は更に溜息を吐いた。蜜柑はその反応を見て少し申し訳なさそうに頭をかくと、じゃあ、と言って私の前に立った。
「気分転換しないか。俺いい場所知ってるんだ」
 彼はそう言うとにこりと笑みを浮かべた。すごく顔立ちが良いわけではないが、その笑みは温かみがあって、それでいて心地よさを覚えた。私の上っ面の笑みとはとても違う、素敵な笑顔だ。
「そんな、気にしなくてもいいよ。明日になればまた元気になってると思うから。今はちょっと充電中で――」
 彼は私の腕をつかむと、ベンチから引きはがし立ちあがらせた。それから変わらずの笑顔で私を見つめる。
「じゃあその充電に付き合うよ」
 そう言うと彼は私の手をつかんだまま、歩き始める。初めまでは少し抵抗気味に力を入れていたのだが、次第に無意味なことに気づいて、最後には諦めた。
 いや、少しだけその手の感覚に小さな感情を抱いていたのかもしれない。異性と触れたことなんてそれほどなかったし、誰かにこうしてもらうことなんて一度もなかったから。大抵は私がみんなを引っ張っていたから、こうやって引っ張られることが、なんていうか、とても新鮮で……。

   ―――――

 蜜柑が連れてきたのは、一点の小さな喫茶店だった。
「ここは?」
「俺のお気に入りの店」
 それだけ言うと彼は扉を開ける。私も恐る恐る後について店に入っていった。
 洒落っ気のある内装、というわけではないがシンプルで落ち着いた色合いになっていて、更にそろそろ年のいった人たちが多く、そこがまたこの落ち着いた空気を造り出している一因ともなっているようだった。
「蜜柑、今日も来たのか」
「どーも」
 店員のいたずらな笑みに無愛想な表情で彼は返事を返すと、適当に窓際の席に座った。
「ここ、俺のお気に入りなんだ。というか、趣味が合うやつが多いからっていうのもあるんだけど……」
 彼は恥ずかしそうにそう言うと、アイスコーヒーを二つ注文し、ついでにパンケーキも頼んでいた。お腹は空いているか、と聞かれたが私は首を振った。本当は空いているのだが、なんとなく初めての場所で、あまり絡んだことのない男子といるということが私の緊張を高めさせているようで、空腹にあまり気持ちがいかない。
 店の内部を眺めていると、奥の方に小さなステージがあることに気づく。三人立てるか立てないかくらいの台。上には椅子が一つ、ぽつんと置いてあり、天井には幾つかの照明が取り付けられている。
「あれは?」
「ああ、俺がここを気に入ってるのは、あのステージが理由でもあるんだ」
 そうだ、ちょっと待ってて。彼はそう言うと立ち上がってからカウンターに行くと、会話を始める。その姿をぼんやりと見つめているとアイスコーヒーとパンケーキがやってきた。パンケーキは異様に大きくて、私が暫く見つめていると料理を運んできた女性の店員がにっこりと笑みを浮かべながらすごいでしょう、と言う。ふっくらとした丸みがあって、柔和な表情が私の緊張を少しだけ解いてくれる。
「うちのパンケーキ、大きすぎるのが売りなの。変よね、ただ大きいってだけで店長、これがアピールポイントだ! って言うのよ。一人じゃ食べきれない量をいつも出すから、片付けるの大変なのよ」
 その話を聞いて、彼が何故そんなパンケーキを頼んだのか、大体理由が分かった。私は一切れ切り分けるとシロップをかけて口に運んだ。じわりとシロップとパンの甘味が口の中に広がる。しつこくなくて、とてもあっさりした味に驚いた。
「おいしいです。とっても」
「それは良かったわ」
 彼女がもう一度笑ったところで、奥の明かりが若干落ちたことに気づく、カウンターの方を見てみると彼の姿は消えていて、話していた店員は腕を組みながらステージの方を見ている。
「まーた始まった」
 そう言うと彼女はふくよかな体を揺らし、腰に手をあてて呆れたしぐさをとる。けれども表情は相変わらず笑っている。
「何が始まるんです?」
「あの子、うちの店を見つけて以来しょっちゅうあそこ使うのよ。まあ見てればわかるわ」
 そう言って彼女はステージの方に行ってしまった。なんだか取り残されたような気持になりながら、パンケーキをもう一口食べた。アイスコーヒーには砂糖もミルクも入ってなくて、口にした瞬間あまりの苦さに飛び上がりそうになっってしまった。甘いものを食べたせいかもしれない。
 ステージの照明が、一つだけついた。
 椅子が照らされ、目の前にスタンドとマイクが用意される。周辺に座っていたおじさん達がざわざわと騒ぎ始める。
「今日もか」
「最近しょっちゅうだな。今日は何やってくれんだ小僧」
「あいつの選曲はポップだったり渋いのだったりよくわからん」
 そう言いつつも、ステージを見ているのだ。その声色や表情は、鬱陶しさというよりも、期待に目を輝かせているように見えた。私はこれから起きることに胸を高鳴らせながらステージ上を見つめる。
「やあ皆さんごきげんよう」
 蜜柑は、アコースティックのギターを手にし、空いている手でテーブルの方に手を振る。誰もそれに対して返しはしないが、それでも歓迎されているのだという空気は十分に伝わってきた。
「それじゃ、今日もね、一曲やらせていただこうかと思うんですよ」
「ここ最近ビートルズ続きで飽きたぞ」
「そんなこと言わないでくださいよ。好きでしょ皆、世界的に有名っすよ」
「バリエーションだよ。I’ve got A Feelingを三日とか、同じ曲連続でやられたら流石に飽きる」
「モノにするまで時間かかるんすよ。ほら、俺歌下手だし」
 おじさん達が陽気に笑う。無駄口を叩きながらも彼はギターの先をいじり続ける。何をしているんだろう、これからギター弾きながら歌うということに期待していた。
「じゃあね、今日は俺の大好きなthe whoからやろうと思います」
 そう言ってから、彼は弦を鳴らした。心地の良い温かみのある音が店内に響き渡る。
「それじゃあ聞いてください。Pure and Easy」
 ギターの音が響き始める。歯切れのいい音で、柔らかな音だ。彼は気持ちよさそうにギターを弾き、それからマイクに向けて歌い始める。
 英語の唄で、何を歌っているかはあまりわからない。少なくとも私のウォークマンに入っているような曲とは違う。
 彼の歌は力強くて、それでいて透き通った声だった。落ち着いていながら、激しくなった時は感情に任せて叫ぶように歌う。
 その歌声に、なぜか魅力を感じたのだ。パンケーキを差してたフォークは持ったまま止まっていて、視線は彼に固定されたまま動かなくなった。
 終盤にいくにつれてギターが激しく掻き鳴らされていく。同じフレーズを繰り返しながら、力強く彼は叫び続ける。

――There once was a note,listen

 彼はそう叫び続ける。繰り返し歌われたことでかろうじて分かった歌詞だった。
 演奏が終わっても、暫くの間店内は静まり返っていた。感情を込めすぎたのか、蜜柑はしばらくその場から一ミリも動く気配がない。
「……ありがとう」
 やっと体を起こして言った一言に、歓声が沸いた。ギターを弾いて、声を張り上げるようにして歌って、全力を尽くしたことに対する称賛の声。
 それが、なんだかとても素晴らしくて、うらやましくて、私が今まで経験したことのないものを彼は毎日のように、行って、感じているのかと思うと、それがとても悔しかった。
「ごめんね、突然」
 戻ってきた彼はそう言って恥ずかしそうに笑った。
「さっきの歌はね、自分の内面を見つめる歌だって、どっかで聞いたことがあって、それからずっと好きな曲なんだ」
「内面?」
「うん、自分の内面を見つめるんだって、そんな風に言われているように感じるんだ。この曲を聴くとね」
 そう言って彼はやっとアイスコーヒーを飲み始める。氷が解け始めているせいで薄まっているが、彼はおいしそうに飲んでいる。私は自分のグラスを除き、からん、と氷を回した。
「なんていうか、いいなって感じたの」
 私はそう呟く。自分の好きなことをして、気の合う人と楽しくやっている彼が、とても魅力的だと思った。それに比べて私は、と目を瞑る。
「なら、君もやる?」
 突然彼の言った言葉に、私は目を見開いた。今、彼はやるか、と問いかけてきた。楽器すらわからない私に向けて、だ。
「俺が教えるよ。これでもギターはガキの時からやってるし、なにかのきっかけに弾くのが楽しいと感じてもらえるのは、すごく嬉しい」
 私は、顔を伏せた。伏せたのだけれども、自分の表情はすっかり彼に見透かされている気がして、なんだか恥ずかしかった。
 わくわくしたのだ。やりたいと、そんな風に思ったのだ。ギターを弾いてる彼がとてもかっこよくて、私もあんな風にカッコよくなりたいと、自分ではっきりとそう思えた。
「決まり、じゃあギターについてとかいろいろ教えるよ。好きな曲とかある?」
「私、そんな知らなくて。君が弾いてた、ザフーがちょっと気になったけど……」
 じゃあフーをやろう。彼はそう言った。
「そんなに難しいギターでもないし、弾き語りならやりやすいよ」
 そう言って彼はウォークマンを私に手渡す。
「ちょっと色々聞いてみてよ。パートとかもあるし、説明しながら教えるから」
 二度、三度と強く頷くと、私はイヤホンをつけて、再生のボタンを押した。客の歓声と共に、様々な音が響き渡る。
そして、聞こえたのだ。その音が。

 ベン、ベン、ベン、ベン。

 たった四つの、低い音。
 私はイヤホンをとると興奮気味に蜜柑に声をかける。
「このボンボン言ってる音かっこいい。これやりたい!」
 その言葉に首を傾げた彼は、ウォークマンの画面を見て、それから笑った。
「それ、ベースの音だ」
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