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第五話「Can't stop」

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 スネアの透き通った音色が一発、二発と鳴り響く。彼女はこちらをちらりと見てから、表情を変えず、姿勢を正すと、右足のペダルを踏み込んだ。
ドスン、と胸を打つような音が四つ、テンポよく打ち込まれていく。
 初めて聞くドラムの生音に圧倒されながらも、私は彼女のプレイをまじまじと見つめる。ハッキリとした輪郭をもったバスドラムの音に、カツカツとハイハットの音を絡め、一定の数毎にスネアの音が打ち出される。硬質で力のある音とは対照的に、彼女の表情は涼しげで、いたって自然体で叩いている。
 初心者でもよく分かった。彼女のドラムはとても巧い。きっと蜜柑のように、音楽が好きで、音楽に全力で打ち込んできたからこそ出せる妥協のない音なのだと思った。私なんか比に及ばないくらいの人間。
――貴方と蜜柑は釣り合わない。
 まるでそう告げているかのように、彼女のドラムの音には感情が籠っていた。合わせられるなら合わせてみろ、とでも言わんばかりに数々のフレーズが繰り広げられていく。
 安定したリズムとは裏腹に、視線は次第に敵意を表に出し始める。それだけで、私に対して好意的ではないことは容易に分かった。バッグをぎゅっと両手で強く抱きしめ、唇をかみしめながら、私は理由を探す。
「安藤さん、ベース、アンプに繋げて」
 かけられた声で私は我に返った。蜜柑はにこりと柔らかい笑みを浮かべると、それからマーシャルの前に立つと、自らのギターとアンプをシールドでつなぎ、つまみをいくつか捻っていくと、最後にマスターの音を上げていく。
 彼が弦に手をかけるごとにじりじりとした音がアンプから漏れ出す。彼はそれから彼女のプレイを暫く見た後、目を閉じ、指版に指を置くと、ピックをゆっくりと下した。
ドラムに隠れない、けれども耳に痛くない奇麗な音が室内に響く。
 蜜柑はそれから私を見て、手招きをした。音を出そう。そう彼は言っている。
 すっかり委縮する私を見て、蜜柑は苦笑した後、ギターをスタンドに立て私に歩み寄ると、耳元に口を近づけて、それから言った。
「練習してきたんだろう? 大丈夫、音楽は正直だから、音を出せば君がどんな人かきっと彼女も分るよ」
 そう言うと、彼は戻っていった。
 私が分る。
 そんな言葉に戸惑いながらも、ベースを取り出し、アンプに挿すとボリュームを上げる。設定はフラットに。これは彼に教わったことだ。音が分らないならフラットにすればいい。基準となる音にしておけば変になることは絶対にないのだと。
 ボン、ボン、と低音がスピーカーから鳴り出す。その音圧を聴くとなんだか落ち着けた気がした。私は一度深呼吸をしてから、弦に指を引っ掛け、弾く。それから親指の腹を、弦におもいきり打ちつける。
 硬い、だがニュアンスの違う二つの音が、ドラムとギターの間を抜けるように響いた。
 自分でやりたいと思ったのだ。誰かと合わせる快感を味わってしまった。ベースとドラムは「リズム隊」として、最も音をからめなければならない間柄にある。
――なら、ドラムに合わせた時は、どんなに気持ちが良いのだろう。
 萎縮していた感情を好奇心が包み込んでいく。左手も、右手もしっかり動く。大した実力派ないかもしれないが、私の全てを見せようと思った。今の限界でできるだけの音を、ドラムに重ねたいと思った。
 私の音が入ってきたことに気づくと、二人は演奏を止め、互いの顔を見合わせてから、四カウントをハイハットで刻む。
――一、二、三、四。
 ベースのルート、ドラムのスネア、ギターのフレーズが重なる。
 着々と力強くなっていくスネアの音に合わせるように、私も弦を強く弾いていく。タイミングを見計らいつつ、私は頭の中で弦を打ちつけ、弾くイメージを繰り返す。
 最高潮にまで入ったスネアと、ベースがブレイクした。
 蜜柑は微笑むと、弦を引き千切るかのように力強いピッキングで、全ての弦をストロークし始める。緊張と高揚感の中で、私は親指の背を四弦に当てて、タイミングを計る。

――べち。

 四弦を親指で叩く。サムがうまく入らなかった時のあのつぶれた音が、アンプから響いた。私は慌てて体制を立て直そうとプルを二回入れ、再びサムを入れるが、どうしても奇麗に入る気配はない。
 結局こんなものなのかと、そう思われたくなかった。何が彼女の気に障っているのか知らないが、私は私なりに音楽を好きになろうとしていることを伝えたかった。
 既に蜜柑の歌も始まっている。ドラムの適格なリズムキープと、小気味の良いギターのカッティングがよく絡んで、心地の良い音楽を作り上げている。そんな中で私はどうすればいい。うまく音の鳴らないスラップに苦戦しながら、引きずられていくように二人についていく。
 ふと私がドラムの方を見ると、彼女は酷く落ち着いた視線でこちらを見つめている。
 駄目だ、と思った。
 私はいびつなベースの音を響かせ、ただ居心地の悪さを感じながら、スタジオの隅でベースと格闘し続けた。

   ―――――

「人と合わせられて良かったわ」
 斉藤さんの言葉にこちらこそ、と蜜柑はにこりと笑って返す。スタジオを出てから彼女はすっかりご機嫌だった。蜜柑と合わせることがとても楽しかったのだろう。私はバッグをぎゅっと握り締めながら、楽しげな二人の中に私が入れないことを悔しく思った。
「それじゃあ、蜜柑と……安藤さんだっけ? また学校で会いましょう」
 それだけ言うと斉藤さんは店を出て行ってしまった。ドラムから離れると途端に小さくなる彼女の姿に、私は不思議な感情を覚える。あんな私と変わらない華奢な身体のどこからタイトなリズムと力強い透き通ったスネアの音が生まれるのだろうか。
「今日はごめんね」
「え?」
「あいつ、根は良いんだけど楽器のことになるととてもストイックになるから……。安藤さんは初めて間もない。彼女に惑わされないで、自分のペースでステップアップしていこう」
 その励ましが、また私を悔しくさせるのだ。蜜柑はとても優しいから、絶対に相手に対して強く求めることはない。けれども、そのフォローが逆に自分の今現在の立ち位置をはっきりとさせてしまう。
「まだまだだね、私」
「自分の実力を自覚するのも、大切なことだよ」
 彼はそう言うと、私の頭に手を置き、思いきり髪をかきまぜる。ぐしゃぐしゃと髪のぶつかり合う音に一瞬驚いてから、撫でられる感覚が少し心地よくて、私は俯いたまま唇をきゅっと噛む。
「少し、行ってくる」
 この優しさに応えるには、どうしたら良いだろう。
「どこへ?」
「斉藤さんのところに」
 巧くなるしかない。彼が合わせていて楽しいと感じるベースを、目指したい。そう心から強く思った。
 私は一つ深呼吸をして、店を出ると、彼女の向かった方向へと駈け出す。まだ出て行って間もなかったから彼女の後ろ姿はすぐに見つけることができた。
「斉藤さん!」
 私は精いっぱい叫ぶ。彼女は振り向き、それから私の姿を見て少し驚いたようで、目を見開いた。
「何、どうしたの?」
「あの、その、ええと……」
 言いたいことが、うまく言えない。人当たりが良いだけでは、成績が良いだけでは、うまく伝えたいことが、感情が伝わるようにはならない。今まではそうやって当たり障りのない浅い場所だけで私は満足しようと思っていた。だから感じていたのだ。物足りなさを。
「今日は、ありがとうございました……」
 蜜柑の歌を聞いた時、その感情の強さと、伝えたいという力強さに憧れたのだ。私も音楽でなら、何か強く訴えかけられるかもしれない、私という存在を表現できるかもしれないと。
「いいよ、突然誘った私がいけない」
「もっと、上手くなって、貴方のドラムに合わせることができるようになりたい」
 自然と漏れ出た言葉だった。緊張でどこか声が裏返っていた気がする。でも、その一言が全てだった。なんとか絞り出せた言葉にほっと安堵をおぼえながら、私はじっと斉藤さんを見つめる。
 彼女はこちらを暫く見た後、左右に視線を揺らす。
「私さ、学校でのあんた、嫌いなの」
「うん、なんとなくわかった」
「すごく八方美人に見えてさ、なんでそんな評価されたがるんだろうと思って、目立ちたがりだと思ってた」
 実際その通りだ。私は自主性のない、ただ「なんでもできる」という言葉を盾にして生き続けてきた人間だ。いつのまにか背負わされた評価を下げない為に、その為だけに生きていた。
「……あんたのベース、運指も汚いし、指弾きもミュートもぎこちないし、スラップに限ってはサムの音すら鳴ってない」
 とことん言われて私は苦い顔をした。歯に衣着せぬ物言い。けれども彼女に対して嫌悪は感じないし、むしろこれだけはっきり言ってもらえることが、どこか嬉しかった。
――できないことを認めるって、いつからできていなかったのだろう。
「でも、好きだな、って思った。こっちが素なんだと感じたし、彼女も必死になれる部分があるんだなって思ったら、そんな嫌な感じにはならなかった」
 斉藤さんはそう言って微笑むと、私の頭を撫でる。彼女の視線は、まるで妹を見る様な、そんな感じがした。
「私、演奏にはうるさいし、人当たりも悪いからさ、やっぱり結構怖がられることが多いんだ」
 その、と斉藤さんは少し恥ずかしそうに目をキョロキョロさせた後、ぎこちなく笑った。
「またおいで」
「はい」
 彼女の内面に、少しだけ触れられたような気がした。それがとても嬉しくて、いつもとは違う人との接し方に新鮮さすらあって、私の胸が高鳴った。
 歩いていく斉藤さんの背中を眺めながら、私は今の自分が、この居場所に強く魅力を感じていることに気づく。そして、できることならこちらが日常であってほしいとすら思った。

   ―――――

 目が覚めて、クローゼットの中のベースを触れるまでそれが現実の一部であることを理解できない。もしかしてただの夢で、私は今も当たり前の日常を過ごしているのではないかと考えてしまう。それほどに今の私は、それまでは考えられないほどに充実感を得ているのだ。
「奈津、起きた?」
 扉が開いて、母はこちらを覗く。
「うん、おはよう」
「おはよう」
 母はそうして笑みを浮かべると、開いたままのクローゼットに視線を向ける。
「何?」
「なんでもないよ」
 そう言うと私の頭を撫で、それからリビングへと向かう。その一連の行動がなんだか不思議で、それでいて母の顔を見た手前、そのクローゼットの先の、私の新しい日常を溶け込ませるのが怖くて、扉を閉める。
「お母さん、今日から三日ほど家に帰れないから、ごめんね」
 うん、分ってる。体には気を付けてね。もうちょっと自分を大切にしてね、私は大丈夫だから。自分でやれるから。
 口から言葉として吐きだすことができなかったそれを胸にためながら、私はただ一言、うん、と言って頷く。壁にかけられた制服をぼんやりと眺める。昨日アイロンをかけたから、シワはすっかり伸びているし、リボンもぴんと張っている。大丈夫、いつもの清潔な私の制服だ。
「いってきます」
 リビングの方から聞こえてきた声に、私はいってらっしゃい、と返してから、制服のかかったハンガーを手に取り、じっと見つめる。とても清潔だ。日に当てれば光を返すほど純白で、シミ一つなく、手触りも良い。
 だからこそ、私はこの制服が、とても嫌いだった。
「……」
 時計を見ると、私がいて当たり前の登校時間までそう時間がない。私は寝間着をベッドに脱ぎ捨て、下着を身につけると、それから制服を着た。
 優等生を着て、完璧な私を身に付けて、それから家の鍵を閉めると、私は学校へ向かった。

――This life is more than just a read thru

 私の人生は多分、ただの通読でしかない、ニセモノの人生でしかないのだろう。レベルが足りなくて、弾くことができなかった曲を口ずさみながら、そう思った。

   ―――――

「安藤さん、斉藤と一緒にいたって本当?」
 担任に頼まれた仕事をようやく終え、昼食を食べようと教室に戻ってくると、そんな言葉を女子からかけられた。彼女の奥を見てみるとじっと私たち二人を見つめる視線が幾つかある。どこかで見られたのだろう。けれども、何がそんなにおかしいことなのだろうか。
「何故?」
「あの子軽音学部でしょう。気をつけた方がいいよ」
 女子生徒は軽蔑するかのように首を振ってそう言う。そういえば蜜柑も戻るつもりはないと言っていた気がする。なにか、部内で問題でも起きているのだろうか。そして、そんな中で斉藤さんも何かにかかわってしまっているのだろうか。
「安藤さん、優しすぎるからちょっと声かけてあげたんでしょう。でも、あいつらとかかわると大抵良いことなんてないから。安藤さんが可哀そうだよ」
 私が可哀そう、何故彼女はそう思うのだろうか。斉藤さんと言葉を交わしていて、何の問題があるのだろうか。
 勝手な彼女の正義感に多少不機嫌になりつつも、ではこれに対してどう返せばいいだろうか、と私は思考を巡らせる。
「ね、話すのはよしておくべきだよ」
 精一杯首を振ろうとして、ふとよぎったものに私は凍りついた。例えばここで首を振ったとして、私はどういった人間になるのだろうか。誰にでも人当たりのいい人間ととられるのだろうか。それともこの作り上げてきたイメージにマイナスをもたらすのだろうか。
 そう疑問に思ってしまうと、答えがどうしても見つからなかった。なるべく、どちらにも当たり障りのない言葉はないか、そんな風に考えてしまう。
「……うん、そうなんだ。気をつける」
 良かった、と女子生徒は漏らす。
「あんなのと絡んでたら安藤さん、評価下がっちゃうもん。あんな部活に安藤さんの名を傷つけさせたくなかったから」
 そう言って、誇らしげに彼女は胸を張ると、満面の笑みを浮かべる。そんな彼女に対し、憤りは覚えたが、それでも結局自分のイメージを壊せずに終わった自分が情けなくて、開いた口から言葉はなにも出すことができなかった。
 結局私は、私という人間を壊せずにいる。楽器を持っているときの私を、時折夢のように思ってしまうのは、このせいなのだろう。
 ふと顔を上げると、目の前の女子がしまったという顔で私の後ろを見ている。首をかしげながら振り返ると、騒がしい廊下の通りの中で、斉藤さんがじっとこちらを見つめていた。その視線は、あの時の恥ずかしそうな斉藤さんでもなく、楽器に対して熱をもった斉藤さんでもなく、初めの私を軽蔑するような、冷やかな視線だった時の斉藤さんだった。
 彼女は無言で私を数秒見つめ、結局何も言葉を発しないまま再び歩きはじめた。女子生徒は安堵に息を洩らしたが、私の胸は後悔と焦りで高鳴り、そして思わず教室を出て彼女の後を追った。
「斉藤さん」
 彼女の背中に声をかけると、少し残念そうな、そんな表情で私をじっと見つめる。なんて言えば良いのだろうか。どうしたらいい。そう考えていた時。
「言ったでしょ?」
 斉藤さんの口が開いて、それから嘲笑うように鼻で笑ってから、続けて言った。
「貴方のこと、嫌いだって」

――止まることができない。時間になったら教えてくれ。

 私は、どうしたら止まることができるのだろうか。
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