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第七話「Undo nut's」

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 早朝の学校は青くてどこか寂しさがある。玄関前に植えられた花も黄色、赤、白と色とりどりであるが、どれも濃い藍色を塗りこんだようでどこか落ち着いた風に見えた。ふう、と息を吐くと、じわりと体が震える。時期も時期だしきっとこれは仕方のないことなのだろう。赤色のニットマフラーを巻きなおすと、ギグバッグを背負いなおし、深呼吸を一つ。
「安藤さん?」
 玄関に足を踏み入れようとしたとき、ふと後ろから声がかかる。振り返ってみると、この間私に声をかけてきた生徒が立っていた。彼女の顔を見て、ふとあの時の残念そうな表情の斉藤さんを思い出す。
「おはよう、どうしたの?」
 名前を呼ぼうとしたが、さて彼女は果たして一体どんな名前だっただろうか。どうしても思い出すことができない。あの時もそうだったが、完璧と謳っておきながら、声をかけてきた生徒の名前すら全く覚えられていない。所詮その程度の完璧だったのだろう。いわば”張りぼて”だ。
 彼女は後ろで一つに結われた髪を揺らし、明らかに私の後ろのそれをじっと見つめる。その視線はどこか冷たくて、なんだか私自身を否定したがっているようだなと思えた。
「安藤さんみたいな子が、軽音楽ってやっぱりなんだか不自然で……」
 何気ない言葉の節々に、彼女の瞳に映る私が滲む。

――彼女は私のイメージが崩れていくことに不安を覚えている。

 完璧で、頼りがいのある「安藤奈津」であってほしい。かつて私が無理をしてでも目指そうとしたそんな弱点のない「私」であってほしい。その為には自由さ、奔放さ、乱雑さ、いわばロックという反骨の象徴がとても邪魔なのだ。私自身がそのつもりはないと言ったとして、すでに彼女の中にはそういうネガティブな思考による安藤奈津の姿がきっとできてしまっているだろう。
「私がこういうのやってたら、おかしいかな?」
 けれどこれは決して彼女のせいではない。むしろそういった羨望を向けることのできる人物、自らの隙間を都合よく埋めてくれる存在を作り出してしまった私の責任だ。
 女子生徒は口を横一文字に閉じたままその場に俯いている。スカートの裾は握り締める両の手によってすっかり皺が生まれ、丁寧に仕立てられたプリーツは跡形もない。
「でも、ごめんね。好きになっちゃったから」
 上げられた瞳に映った私は、戸惑いのフィルタで仄暗く染まっていた。
 私は玄関へと視線を向け、上履きに履き替えると、おもいきり強く床を蹴って駆け出す。そのまま校舎を駆け回ってやりたい気分だ。背中のベースはとても重いけど、一歩足を踏み出すだけで肩にみしりと負担がかかるけれど、それでも足取りはとても軽い。
 廊下を走ったこと、そういえば小学校以来かもしれないな。教師がこんな私を見たらどう思うのかな。そんなことを思いつつそれでも駆ける足には更に力を込め、つるつるとした廊下を蹴る。
 上履きが時々きゅっきゅっと音を鳴らすのが、なんだか楽器を演奏しているみたいでとても心が弾んだ。

     ―――――

 校内の一番奥に位置する部室棟は校舎と違って随分と賑わいを見せていた。高校指定の地味目な紺色のジャージを身につけた生徒達が、それぞれ談笑を行っている。それまで部室棟に立ち寄る機会があまりなかったため、その光景が少し新鮮だった。
 軽音学部の部室はどこだろうか。それぞれ動きやすい服装をした生徒であふれる中一人制服姿で周囲を歩いて回る。居心地の悪さと、異物のような感覚が歩くたびに私を襲う。元々そういった集団に属さなかった生徒なのだから仕方ない。ただそうやってぬるま湯の中立ち止まっているわけにもいかない。
 汗や泥の臭い、埃の感触、ざらざらと砂利っぽい床を踏みながら、私はギグバッグをちらりと見る。ここまで来たのだから、最後まで達成しないと帰ることはできない。そう自分に言い聞かせ、深く息をした。
「安藤さん」
 そんな決意の深呼吸は、聞き馴染みのあるその声によって遮られ、慌てて振り向く。
「斉藤、さん」
「おはよう。ギグバッグなんて持ってどうしたの?」
 目当ての斉藤さんの姿を見て、視界がぐるりと歪む。それまではっきりと見えていた景色が一滴水を垂らしたような波紋で輪郭を震わせていく。ああどうしよう、緊張で呼吸の仕方を忘れてしまったかもしれない。苦しくなる胸に手を置いて、余った方の手でスカートの裾を強く握りしめる。
 落ち着け、変わると決めたのだろう。そう、変わると決めたのだ。何度も心の中で呟いて、身体に馴染ませていく。
 一つ、二つ、三つ。ゆっくりと思考を稼働させることで呼吸の仕方が分かってきた。そうしてだんだんとぎゅっと胸を掴まれているような感覚が消えていく。波紋が落ち着き、視界が安定していく。それからもう一度深く深呼吸をして、私は改めて斉藤さんを見た。
 茶色のショートヘアー、ビー玉みたいに好きとった瞳、唇もぷっくりとしていて薄く惹かれたピンクが光を口にして艶になっている。体のラインだってちゃんと丸くて出るところは出ている。

 なんだ、女の子じゃないか。

 言動や行動はどこか男の子らしさの感じられる大雑把さが感じられるけれど、こうしてよく見れば、斉藤さんはちゃんと同じ女の子だ。対等な立場であって、それに音楽好きでもある。怖がる要素なんてどこにもないのだ。
「あのね、斉藤さんに用があってきたの」
「用事……?」
 斉藤さんは腕を組み天井を見上げ唸りはじめる。彼女なりに思考を巡らせているようだ。
 ふと組まれた腕を見ると黒の長細い入れ物を右手からぶら下げていて、長さからして多分スティックケースなのだろう。きっと朝からドラムを叩こうと思ってやってきて、私の後ろ姿を見つけて声をかけたのだ。
 暫く唸り続けていた彼女が突然天井から私に視線を戻した。それから歩み寄りこちらをじっと見つめてくる。近くで見ると更に凛とした眼力で、美しさを感じると同時にどこか恐れを抱いてしまう。私は彼女の突如の行動に戸惑い、後退する。が、後ろが壁であるため、それはたった三歩で終わってしまった。背中にぴったりと壁がくっついて、ひんやりとした冷たい感触に二度震える。
 その間も斉藤さんは変わらず私を見つめ続け、煙草一本あるかないかくらいの距離まで近づく。目のやり場に困りながらどうしよう、どうしようと考えていると、斉藤さんはやっと顔を離す。彼女の生暖かい吐息が顔にかかったことで私の鼓動が速度を早め、全身はふつふつと湧き上がっている。とても甘い匂いがした気がして、するりと溶けていくような、そんな感覚が私について離れない。
「まあ、とりあえず部室来る?」
 顔まで真っ赤になっているだろう私を見て微笑むと、彼女は天井を指差した。

     ―――――

 階段を上って、三階に着くと突き当りを右に曲がる。彼女の後ろ姿にただ着いていくだけでその間一つとして会話はなかった。一体彼女が何を考えているのか皆目見当もつかなかった。それまで活気づいていた部室棟も最上階となるとどこか荒んでいて、床の隅をちらりと覗くと掃除が行き届いているのかも正直曖昧な様子で、埃っぽさに二回ほどくしゃみをしてしまった。
 暫く一本道を歩いていくと、最奥の扉の前に到着した。が人の気配は決してない。果たして本当にこんな荒んだ階層のそれも最奥で音楽なんてやっているのだろうか、不安になって視線を上げてみると、しかしプレートには軽音部と印字されている。古くなって所々埃にまみれ、更に字はすっかり掠れてしまっている。多分数十年と手入れも取り換えもしていないのだろう。。
 斉藤さんは鞄から鍵を取り出すと差し込み、ぐるりと回す。かちゃんと小気味よい音と共に鍵穴はいともたやすく私達の来訪を歓迎した。取っ手に手をかけて横に引いてみると、しかし扉の方はあまり機嫌がよくないようで、錆の擦れる音と共に開いた。
「他の部員、いないんですか?」
「ああ、そっか知らないのよね、あなた。てっきりこの学校のことならなんでも知っていると思ってたから意外だわ」
「私なんて何も知らないよ。ただ周囲がしたいことに合わせているだけだから。はじめは完璧でありたいっていう理由があったのに、いつの間にかどこかで間違えていたみたい」
 そう言って自嘲気味に微笑んでみる。でもどうやらその発言があまり気に入らなかったみたいで斉藤さんは少しだけ眉をひそめ、それから私の手をとると部室へ引き込んだ。
 しかし、この階層がそうであったように、部室内もまた最悪の空気だった。小さなスペースに無理やり詰め込まれごった返しのアンプにはどれも指で掬い取れるくらい埃が積もっていた。指先にこびり付いたそれを顔を顰めながら見つめ、それから彼女に向けて首をかしげる。
「蜜柑が辞めた少し後かな、活動停止になったの。まあ大した事件ではなかったんだけどね。それで、今日がその停止解除日」
 壁にかかったホワイトボードの横の小さな釣鐘に鍵を引っ掛け、鞄から雑巾を取り出すと、斉藤さんはドラムにどっかりと座りこんだ。ずいぶんとひどいことになってるなあと苦笑し、それから斉藤さんはたまった埃を除去し始める。ドラムを掃除している彼女の目はどこかやさしげで、まるで数年ぶりに出会えたかのような、そんな待望の籠った目をしていた。
 ふと鍵に目をやると、そこには半透明の薄緑のプレートの付いたチェーンキーホルダーが取り付けられていて、そのプレートの中に一人の男性の写真が差し込まれている。もしかすると彼が部長なのかもしれない。耳と目にかかるくらいの黒い髪で目元はよく見えないが、どこか病弱そうな印象を受ける外見だ。
 横のホワイトボードを良く見てみると消しきれずに残ったインクの跡が残っていて、アルファベットや言葉、重要であることを示していたであろう赤いラインの残骸が浮かんでいる。
「それで、用を聞こうか」
「え、あ……」
「別に軽音学部に入りに来たわけじゃないんでしょう?」
 そう言ってから、斉藤さんは自分の髪を両手で一度後ろに流し、ブレザーを脱ぎ捨てセーター姿で何度か腕を回す。それから雑巾である程度埃の落ちたドラムを彼女は愛おしそうにそっと撫でた。
 バスドラム、スネア、フロアタム、ハイハットにワンタム、シンバルというセッティングのそれは、多分彼女のセッティングで、停部前のままであったことを考えると、最後に叩いていたのも彼女なのだろう。一度合わせた時も確か同じようなセッティングのドラムに座っていた覚えがある。
 少しだけ空気に耐えられなくなって、室内で唯一明かりを投げ込む小さな窓を開けた。
 新鮮で少しは肌寒い空気が吹き込んでくる。でも籠った空気よりは幾分かはましだ。これで埃もカビ臭さもこれで多少は紛れてくれるだろう。

――ッ。

 音がした。
 チューニングがよれているスネアからの一発。私でもあまり抜けの良い音ではないと感じられたのだから斉藤さんもきっとあまり心地よさは感じなかったのではないかと思う。
 古ぼけた、取り残されていた時間を示すような音が続く。
 輪郭のブレたスネアの音が二、三と響き始め、バスドラとハイハットのリズムも加わってエイトビートを奏で始める。力強くて、胸を打つように大きな音。それはそっと私の隙間を埋めるようにこの身に染み込む。目を閉じて、彼女の演奏にそっと耳を傾ける。一音一音が響くたびに、鬱屈した感情が開いた窓から放たれていくような、そんな心地よさがあった。
 彼女は多分、取り残されていた時間を引張り出そうとしているのだ。そうして帰ってきたこと、また君を叩けるのだと精一杯伝えて呼び覚まそうとしているのだ。そうすることで彼が帰ってくることを、きっと彼女は知っている。
 視線をドラムから彼女に移す。ドラムを見据えた彼女は、堪え切れずに歪んだ口元から笑みのこぼれていた。それを見て、蜜柑みたいな人だな、と思った。いや、音楽が好きな人はやっぱり蜜柑や斉藤さんのようになるのだろう。
 私はギグバッグを下ろしてベースアンプに歩み寄り、ツマミを覗き込む。左からゲイン、ベース、ミドル、ハイ、そしてマスターにイコライザーの順で、その下にキャビネットが二つ。私の背丈くらいある高さのそれは、見覚えがあった。
「アンペグ」
 唯一使ったことのあるベースアンプ。ふと周囲を見回してみると、どことなくいつも利用しているスタジオに似たセッティングな気がした。いや、多分似せているのだ。斉藤さんは限りなく近づけた場所であるからこそ、あの「ライラ」を練習場として選んでいたのだろう。
 ギグバッグを取り去ると青い塗装のベースが顔を出す。初めて手にした楽器。練習しているうちにピックアップ近くの塗装がすっかり?げて木目が覗き始めていて、最初はとても残念に思ったが、今では自身の努力の過程を見ているように思えて私はその傷が好きだった。蜜柑曰く、ラッカー塗装であるからとても剥がれやすいのだとか。


 聴き馴染みのあるリズムパターンが聞こえる。今まで教えてもらった中で最も私は辛いと感じたあの曲のリズムだ。斉藤さんの方を見てみると、彼女は落ち着いた様子で私に視線を送り、口元に笑みをこぼしていた。どういう意味か分るでしょうねと、彼女の演奏はそう言っていた。
 ベースのアウトプット、そしてアンプのインプットにシールドを差し込むと、全てのツマミを十二時に動かし、最後にマスターを九時に動かす。初心者に音作りなんてできるわけがないし、フラットで十分。
 人差し指で二度弦を弾いてみた。ドラムの音に負けないくらい、でも彼女の音をつぶさないくらいの音量で四弦の解放音が響く。スタジオよりも床が震える。レールの錆びた扉が軋んでいるのが分かった。
 私は深く深呼吸をして、彼女の「音」に耳を澄ます。

――いち、に、さん、し……。

 親指を四弦に思い切り叩きつける。サムの音は奇麗にドラムに乗った。それから続けて人差し指でのオクターブ上のプルもスネアにちゃんと響いている。あの時失敗した「Can’t stop」の演奏に、あの時混じれなかった演奏に、やっと混ざれた気がした。
 構成だってちゃんと頭に入っている。ぎこちないながらも丁寧にスラップから指弾きへと移行し頭と身体に叩き込んだフレーズを彼女のリズムの枠に収まるように奏でていく。

――ねえ斉藤さん、私決めたんだ。もう顔色をうかがうことはやめるよ。そうやって気づいた完璧が「安藤奈津」なわけないって思ったの。全部じゃなくて、したいことを完璧にしようって思えたの。お母さんを大切にすること、こうやって誰かと楽器を合わせること。

 たった四分半の中に感情と音を詰め込んでいく。指板から斉藤さんに視線を移すと、彼女はじっとこちらを見ている。でも、睨んでいるわけでも、ただ眺めているわけでもない。きっと彼女は知っているのだ。演奏の中でこそ伝わることもあるということを。
 多分、この感情は嫉妬なんだろうなと思った。彼女は一体どれだけの「音」と向き合ってきたのだろうか。蜜柑も同じだ。私にとって初めてのこの感情を彼らはどれだけ味わってきたのか。それが羨ましくて、悔しい。
 私もこれから、追いつくことはできないかもしれないけれど、沢山味わうことはできるのかな。できると良いな。


 演奏が止まる。
 シンバルの余韻が残る室内で、ドラムと合わせられた喜びを一人噛みしめていた。蜜柑の歌声とはまた違った気持ち良さだ。これはきっとリズム隊だからこそ感じられる喜びなのだろう。
 高鳴る鼓動を抑えるように何度も深い呼吸を繰り返す。全身が熱いし、多分彼女からは顔を真っ赤にした私が見えているのだろう。
「はじめたばかりでよく弾けたもんだ」
 斉藤さんの言葉に私は目を向けた。そしてはっと気づく。
 彼女の頬だってほんのりと赤みが浮かんでいる。
「正直、蜜柑の選曲、あれ怒っていいレベルだから。初心者の為とか言いつつ、結局あいつの歌いたいものしか入ってないから」
 私がきょとんとすると、斉藤さんは声をあげて笑った。
「本当に音楽に興味なかったんだね、あなた」
「蜜柑の歌声を聞くまで、音楽がここまですごいって感じてなかったから」
 ただの流行についていく為だけのツールとして考えていた頃の自分が、なんだか恥ずかしくて思わず下を向いてしまう。黒ずみ木くずがところどころ散らばった汚い床が目に映る。
 演奏してみれば分る。これはきっと痕跡だ。幾つもの違った表情をもった人達が音を合わせ続けてきた結果なのだ。
「私は?」
 斉藤さんの問いかけに、私は思わず視線を上げた。
 柔らかな笑みを浮かべた彼女の姿に、思わず心臓が高鳴る。
「私のドラムにも、何か感じられた?」
 私は感じたよ、と聞こえた気がした。
 斉藤さんは言葉を伝えるのが下手だ。いや、たった一つのワードで自身の思っていることを全て伝えられるんだと思っているかもしれない。そんなのは簡単じゃない。そんなのこうやって理解し合えた人にしか伝わらないよ。口には出さずに、心の中で彼女にそう投げかける。
「蜜柑と私と斉藤さんとで、バンド組みたいの」
 でも、私も大事なことは語らないことにした。この一言だけで十分伝わる。そんな確信が、私の中にあったのだ。

     ―――――

 放課後、斉藤さんと共に喫茶店にやってきた。学校に蜜柑がいなかったので、多分ここで一人サボっているだろうと予想してみたが、見事にそれは当たっていた。ギグバッグと私達の姿を見て、彼は大体を理解したようだった。達成感と満足感に満ちた私に蜜柑はそっと微笑んでくれた。
 その笑顔を見て、私の中で喜び以上の何かを抱くことができた。
 喫茶店は今日も静かで、客がいないわけではないが各々が自分の時間を楽しんでいる様子が見て取れた。蜜柑もその一人だったようで、珈琲の横にレコーダー、そして五、六枚ほどのCDケースが積まれていた。
「それで、スリーピースでいく?」
 イヤホンを外すと彼はそう話を切り出した。声だけ聞くと落ち着いているように見えるが、表情が晴々しく、星空を映したような瞳を向けて私と斉藤さんを交互に見ている。
「とりあえずは三人で良いんじゃない? なっちゃんのことを考えるとオリジナルなんてまだ手を出す時期じゃないし、コピーとかセッションをしながら、気の合う奴がいたらそいつ引き込んでいけば良い」
「なっちゃん?」
 戸惑いを込めた目で斉藤さんを見ると、彼女はぎこちないウインクをこちらに放つ。
「斉藤さん、じゃなくて宙って呼びなさいよ。なっちゃん」
 ずっと苗字で呼ばれていたからか、下の名前で、しかも砕けた呼び方をされるのがとても新鮮だった。けれどこの感情をあまり見せるのが恥ずかしくて、誤魔化すように紅茶に手をつける。
「まあメンバーはそれほど悩むとこじゃないさ。俺としては歌に専念したいから、ギターかもしくはキーボード辺り入ってくれたら良いなとは思うけど」
「リード担当ね。了解。それじゃ四人か五人編成を視野に入れた方が良さそうね」
「コピーは何やりたい?」
「レッチリとかフーとか、なっちゃんに力がついてきたらミューズとかもやってみたいけどね。邦楽なら初めはアジカンとかアート、シロップ辺りがいいんじゃない?」
「なんにせよ初めは簡単なのから安藤さんのスキルアップを目指してこうか。」
 二人の会話をただ淡々と聞いているだけだが、それでも着実にバンドが形作られているのは理解できた。きっと私はこれからが勝負なのだと、二人の進む会話を聞いて思った。何をするにしても私の技量が足りない。二人ができるラインに到達するために相当な努力をする必要がありそうだ。
 でも、どうやって練習しようか。初心者向けの教則本を手にしてはみたけれど、基本だけで応用はまだ難しい。スラップを覚えたけれどそれはあの曲のフレーズだからこそで、他の少し技巧的なフレーズが出てきたら私はまだ乗り越えられる気がしない。
「で、ここからが一番大切な議題だ」
 蜜柑の言葉で我に返る。斉藤さん、いや宙も強く頷いている。
「バンド名、どうする?」

     ―――――

 暫く考えてみるも、いまいちしっくりくる名前が出てこない。好きなアーティストの曲名、歌詞から案を出してみたり、英語をいくつか組み合わせてみたり、はたまた文章にしてみたり。
 けれども、白紙のルーズリーフは黒くなるばかりで何も明確にはならない。
「蜜柑ズとかは?」
「それじゃあ貴方だけのバンドじゃない」
「じゃあこの珈琲に入ってるシロップのグラム数で決めよう」
「もういる」
「レフ――」
「殴っていい?」
「凛と咲――」
「もう知らない」
 煮詰まっていく思考とは裏腹に、何も浮かばない状況ですっかりこの席の空気は渾沌とし始めていた。蜜柑も珈琲のおかわりをもう五回もしているし、宙は四つ目のケーキに手をつけている。かくいう私も紅茶をおかわりしすぎたせいでとうとう横にティーポットを置かれてしまった。
「ちょっとあんたら、ここでそんな辛気臭い空気出さないでよ」
 おばさんは苦笑交じりにそう言うと、宙の前に五つ目のケーキを置いた。
「バンド名ってやっぱり大事なんですか?」
 珈琲とケーキに沈む二人を横目に、私はおばさんにそう問いかける。
「納得いくバンド名がつくだけで、モチベーションは違うわよね。あとは、覚えやすい名前と印象的な曲があるだけで聴いてくれるお客さんも増えるし」
 そういうものなのか、と感嘆の声を洩らしながら、私は紅茶を飲みほしティーポットをカップに傾ける。
「安藤奈津……」
「何?」
 低い声で宙に呼ばれて振り返ってみるが、彼女は相変わらずケーキをぼんやりと眺め続けている。
「あんどうなつ……あんどーなつ……」
「ああ、昔よく言われてた。そのまま読むとお菓子になるねって。苛められはしなかったけど」
 特に意図したつもりはなかったけれどと、お母さんに言われた記憶がある。たまにあんどーなつを食べてる子が私を見て悪戯に笑みを浮かべてくることもあった。
 もぞり、とケーキを眺めていた宙が動くと、一か所だけ残った空白にペンを走らせていく。
「Undo Nut's……もしかして、これって私?」
「あんどぅーなっつ。どう? 意味としては『熱中してめちゃくちゃになっちゃえ』みたいなテーマでさぁ」
 なんだか意味合いとしてもマイナスなイメージが強い気がするのだが、宙の表情を見るとどうやら本人は改心の出来であると思っているようで、得意げな顔で五つ目のケーキを平らげていた。
「安直過ぎるというか、私の名前というか……」
「まあ、語感としては悪くないんじゃないかな。それに、このバンドができたきっかけも安藤さんにあるし、俺は賛成」
 蜜柑は珈琲を飲み下し、私に向けてそう言った。宙も私のことをじっと見つめている。ふと横を見ると、おばさんはにやりと笑みを浮かべてこちらを見ていて、その手にはあんどーなつを三つ乗せた皿を持っている。

 どうやら否定する権利は、ないようだ。

 私はため息をひとつ吐きだし、諦めの表情で一度だけ頷いた。
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