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○記憶の断片

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 暗い部屋で、裁ちバサミの刃が外灯の光を受けて鈍く銀色に光る。小学校のとき裁縫セットに入っていたハサミ。捨てる理由もないからずっと使い続けている。持ち手の白い部分はうっすら黄ばんでいて小さな名前シールさえついたままだ。
 もう多分二十分くらいはずっとこうやってハサミを眺めている。捕まえられたように目が逸らせなくなってしまった。ごく普通のハサミだ。ステンレスで出来ていて、刃先は丸く加工されている。手にとって刃を開く。金属の擦れる硬質な音がする。刃を閉じる。何かを断つための硬い響き。決定的な音だ。それは暗闇の中に妙に大きく広がって、部屋の外に聞こえてしまうのではないかと心配になる。
 そして私はハサミを眺め続けている。
 意味もなく刃を開閉して音を聞く。リズムを刻む。開くときには少し遅く、閉じるときには素早く。刃の内側がセロテープか何かで汚れていて少し開きにくいせいだ。
 もう、ずっと、あるひとつの可能性だけが私の中でうごめいていて、それが脳の輪郭をじわじわと浸食して、私の目をハサミに釘付けにさせている。
 ああでも段々と、それに抗うのも意味がないことのような気がしてきた。
 片方の手で自分の髪をすくい取る。根元に指を差し入れて漉くと、髪は指の間をするすると滑っていく。胸の下まで伸びた、黒くて、まっすぐで、なめらかで、ひとつも痛んでいない、私の髪。自分に付随しているものだとは思えない。そうやってしばらく指先で髪の感覚を楽しんでみる。
 でも目はずっとハサミを見ている。
 刃を開く。一房の髪を引っ張って、そこに刃をあてがう。これで少し力をこめれば、簡単に髪の毛なんて切り落とせてしまうのだ。本当に一瞬のこと。でもそれはなぜかとても良くないことのように感じられる。何か後戻りできない種類のものごとへ踏み出してしまうような。
 心臓がときめいて速くなる。手が少し震えている。
 聞きたいな。音。ハサミが髪を切り落とす音。それでしか満たせない穴がぽっかり空いているような気がする。それを聞いたら、心のどこかが満足する気がする。気のせいかな。なんの意味もないのかな。でも長い髪の毛なんて私にはもうふさわしくないんだ。こんなに綺麗で女の子そのものみたいなものなんて、私についているべきじゃないんだって。これは媚態。醜い生き物には似つかわしくないもの。
 迷いながらじっと刃先を見つめている。脳がちりちりするくらいにぎゅっと縮まっていく。呼吸が乱れて熱くなる。興奮しているみたい。なんでだろう、ものすごく甘い感覚だ。
 してみたい。
 一瞬、足がぴくりと震える。身体全体が期待している。
 ダメかな。だって家族が変に思う。どう言い訳しよう。自分で切ろうとしたなんて変だよね。きっと変。明るく笑ってれば大丈夫かな。でも、笑えるかな? 自信はない。嘘っぽい笑いになるかもしれない。でもあの人たちには見抜けないと思う。何も言わないかもしれない。私のことなんてどうでもいいんだから。
 色々考えながら、私は右手に少しずつ力をこめていく。刃先がじりじりと狭くなり、髪の毛の最初の一本を捉える。ほんの少しの抵抗。
 そこで手を止める。どきどきする。あとほんのちょっと。もう、すぐそこ。
 一気に力を入れて握る。
 決定的な音が脳にひらめいて、私は強くため息をつく。
 ざりざりとした、無数の何かが千切れる手応えの連続。髪を引っ張っていた手が抵抗を失い、そこにはついさっきまで私と繋がっていたものがぐったりと垂れている。それは何かの死骸みたいに見えた。
 私は自分がすごくすごくすごく何かを成し遂げたみたいな変な気分になっているのに気づく。
 興奮して、次々に髪を切っていく。思っていたよりそれは少しずつしか進まない。一度にハサミに入る量は案外少ない。じゃりじゃりと奇妙な音が部屋に響き、手元と頭皮に独特の振動が伝わる。
 髪を切ってはゴミ箱にその死骸を捨てる。うまく長さを揃えられなくて不ぞろいな長さの束が出来上がっていく。
 今の自分は馬鹿みたいに見えるんだと思う、明日どうするつもりなんだろう、誰が見ても変な髪形になっているはずだ、わかっていたけど、でもそんなの全然関係なく、自分からこの変なものの死骸を切り取ることで精一杯になっていた。じゃきん、ばさっ。それから自分の吐息。部屋に響いている。どうしよう、止まらない。胸元まで切ってしまうと、それでも物足りなくて、次は肩先くらいの長さになるように切っていった。小さなゴミ箱が黒い髪の毛でいっぱいになった。周りの床にも散らばっている。
 切り終わった頃には肩で息をしていた。しばらく呆然と、その切り落とした髪の毛たちを眺めていた。
 殺してやったのよ、と思う。
 それから実際に声に出して言う。「殺してやったのよ」
 死骸はゴミ箱で沈黙している。
 私はそれを見つめている。
 薄暗い部屋。鋭い時計の音。自分の吐息。
 ふと気がついた。
 私、死にたいんだって。
 それは静かな覚醒だった。今までだって自殺することを想像したことがないわけじゃない。電車に飛び込んだら、学校の屋上の柵を越えたら、手首の内側を切って水に浸しておいたら。色んなことから、自分自身から、逃げ出せると思っていた。
 でもそうじゃない。どこかへ逃げたいんじゃなくて、殺してしまいたい。救われたいんじゃなくて消滅させたい。それが義務だという気さえする。自分って生き物が汚くて気持ち悪い。多分もう無根拠に気持ち悪い。そのことが、何をしたって崩せない決定事項にしか思えない。どんな善意もそれを覆せない。重苦しくて醜く、異臭を放つ汚いものの全部が宿命的に私にのしかかっている。圧倒されてしまう、無視しきれない、このまま中途半端で浅薄な見苦しい笑い方をして生き続けていくの? どうやってみんなはこういうものに耐えてるんだろう、どうしてそんなに人間がうまいの、私はもう、自分が気持ち悪くて、無理。
 ほんの一瞬で、それを理解した。
 自分の手を見た。それがまだ生きているのを不思議に思った。
 そしてこういうものがとても静かだということに少し拍子抜けした。


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