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 腕のない肉体に戸惑うように、少女はバランスを崩して私の胸元に倒れこむ。俯いた頭をすりつけるように寄せ、吐息は不安定に鋭く揺れていた。
 これは現実なのだろうか。
 腕を失い、体温を持たない少女の身体。あるいは一番最初から夢なのか。
 最初から?
 どこが最初だ?
「腕がない」
 少女が切迫した調子で囁く。
「腕がない。どうして?」
 震え続ける少女に、少し迷ってから言って聞かせるようにつぶやいた。
「海に流したんだ。僕たちで」
「どうして?」少女の呼吸は荒い。「どうしてそんなことをしたの? ひどい」
 彼女の喉が震え、現実の空気に波を作る。それは今までとは違う響き方をして、知らない声のように聞こえてしまう。
「私はどこに居るの? どうしてこんなに寒いの?」
 少女はぎゅっと身を固めて、今では歯が鳴るほどに震えていた。その身体を抱きしめていいのかどうか迷う。せめて寒くないようにと、かばうように身体を包んだ。
 そうやって彼女の震えがおさまっていくのを待った。風に揺られた枝のざわめきが静かに消えていくように、ゆっくりと時間をかけて、乱れた呼吸が落ち着いていく。少女は何かを追い払うように強くため息をついた。
「ごめんなさい。少し驚いただけなの」
 理性を取り戻したその声はむしろ冷たいくらいに落ち着いていた。違和感を覚えるほどに。それから彼女は身を起こす。起こそうとする。でも腕がないせいでそれはうまくいかない。その背中を軽く支えると、彼女は膝を曲げて体勢を変える。
 立ち上がろうとしているのだ。でも少し腰を浮かせたところで身体がふらついてしまう。私の足や肩に寄りかかり、それでも彼女はなんとか立ち上がる。新しい重心の取り方を慎重に探りながら。
 そしてふらふらと、海の方へ向かって歩く。ほんの二、三歩。
 でももうそこは岩場の端だ。
「ちゃんとわかってる。指と腕は海に流した。お葬式のため。私がそうしてって頼んだ」
 聞き慣れない声で彼女は言う。こちらに背を向けたまま。
「ずっと考えてた。どうして私がこうなったのか。死んだはずなのになぜ意識が残っているのか。ここは死後の世界ってやつなのかな、とか。でももちろん答えは出ない。私にわかるのは、私が自分を完全に殺しきれなかったらしいってことだけ」
 そう言って彼女は首を傾ける。その向こうにある満月が彼女の後ろに細長い影を作り、その影もまた少し首を傾げていた。
「ただ、私って何も知らなかったんだって、わかった。クラシックがどんな風に聴こえるものなのか。人が人を、人のかたちをしているだけで十分だってくらい強く想えることも。誰も教えてくれなかったし、見かけたことだってなかった。それを知っていたら私はまた別の方法を考え付いたのかもしれない。でももう全部が遅いの。それは変わらないものごとだから。知らない方が良かったのかどうか私にはわからない」
 彼女は顔だけを少しこちらに向けた。肩までの不揃いな髪に囲まれた横顔が少しだけ覗く。その目は開いていた。瞬きをして上下する睫毛までが奇妙なくらいはっきりと見えた。口元は動き、言葉を形作っていた。それが少女の顔だった。私が初めて見る、生きた少女の顔だった。
 その輪郭に、確かに見覚えがあった。
「でもね、痛いの。腕の付け根が痛い。全身がとても痛い。本当に、耐えられないくらい痛いのよ。どうしてもう一度こんな風にならなくちゃいけないんだろう。何か意味があるの? わからない。でももうこれ以外の方法は思いつかないから、だから」
 ありがとう。
 そう呟いて、彼女は足を進める。ふっと糸が切れたように身体が不安定に傾いた。海に向かって彼女は崩れ落ちる。私は反射的に立ち上がり飛びつくように手を伸ばす。ワンピースの裾を掴もうとする。でもそれは僅かなところで届かない。闇の塊のような海の水の中に少女が飛沫を上げて飲み込まれていくのを、不思議なくらいゆっくりとした時間の中で見届けた。それから、自分の眼前にその水面が迫ってくるのも。私は目を閉じる。衝撃と水音が響いてすぐに、重苦しい水の塊が鼻や口に流れ込んでくる。身体はなぜか縛られたように動かない。闇が意識を掠めていく。


 沼のような闇だ。
 ぬめりを帯びた何かが、身体中の穴という穴から私の内側に侵入してくる。毛穴の隙間から染みこみ、手足をぐったりと重たくさせる。そこには光がない。音がない。風がない。ただあらゆるものを吸い込んでいく闇だけが満ちている。
 意識はまとまりを失いほどけかけていた。自分がなぜここにいるのか、あらゆる因果を見失っていた。
 けれどそこで音が鳴った。聞き覚えのある音だ。何かしら意味を帯びた塊だ。
「どうして来たの?」
 女の声だ。その声に懐かしさを覚えた。誰の声だろう。でも反響がひどくて音をうまく聞き取れない。少し低く、あるいは少し高く。声は虚ろに響いては瞬間ごとにまるで違う色彩を帯びている。
「ここはあなたの場所ではないのに」
 声はもう一度言う。私は言葉を意識する。発話したいと願う。そうすると、どこかで何かが震えて音が生まれる。
「君は誰だ?」
 訊ねる。
 そう、君は誰だ?
 その声はしばらくその闇の中を探りまわるように響き、やがて吸い込まれて消えていく。
 近くで、微かな光の球が明滅していた。ゆったりとしたリズムでぼんやり光っては、また静かに消えていく。鼓動のように。波のように。
「私は誰なのかしら?」
 その光の辺りから、彼女の声がする。
「ねえ、私は誰だと思う?」
 声は揺れ、共鳴し、和音のように重なり響く。
 私は誰だと思う?
 問いは増幅し、幾重にも繰り返す。その声は少女のようにも、あるいは成熟した女のようにも聞こえる。
「君なのか?」
 私は言う。声が響く。消えるまで時間がかかる。
 それから深海のような沈黙。
 明滅する光は呼吸するように膨らんでは萎む。それは何かを思考しているようでもあった。
「私よ」
 その声は言った。
「もしあなたがその答えを求めているのなら」
 目の前で揺れる不確かな光以外は、私の意識には何も存在しなかった。他の何もかもは闇だった。視界という概念はなく、ひたすらに拡大された意識の隅々まで神経が張り付いて、直に全てを知覚していた。だから「目を閉じる」ことはできない。
 その意識の暗がりで、ひらめくように記憶が湧き溢れた。それは駆け巡るようにしてほとばしり、閃光のように意識を一瞬で満たす。時間が無理矢理に膨らみ、記憶の海が瞬時にあらゆる平面に接し、めまぐるしく回路をつなげていく。

「ねえ、家族の話をして」彼女が笑う。「一番幸せで温かいやつ。とっておきの」「それから飼っていた犬の話」「初めて好きになった女の子と、初めて付き合った女の子のこと」「最初にお酒を飲んだのはいつ? 煙草は?」無邪気な質問たち。彼女は長い時間をかけてそうやって私の輪郭をたどっていったのだ。「バイクで事故をしたのはいつだっけ?」「何回も読んだ本の話をしよう」「一日で一番好きな時間帯について。お互い譲れないものがありそう」「誰かを殺したいと思ったことはある?」「夜眠る前いつも何を考えてるの」「この世で一番好きなものは? ……ねえ、変な気を回さないでね」「ここ、本当に一人になれる場所なの。あなた以外の誰にも教えたことない」

「じゃあもう僕が知っているから、一人にはなれない」私は言う。意識は瞬時にそこにたどりつく。強い潮の匂い。強烈な夕焼けが海をオレンジ色に染めて目に痛い。風が強く、髪がかき乱される。彼女はそれを手で押さえながら笑う。
「そうね」
 でも私は知っている。彼女はここで海に向かって身を投げた。この岩場で。海と空以外何もなく、人も寄らないこの寂しい場所で、一人きりで。

 笑っている。泣いている。頭をかきむしっている。つまらなさそうに煙草を吸っている。気だるげに投げ出された文庫本はかつての義務の残骸のようだ。腕の内側のみみず腫れのような細い傷跡。もう少しで骨の浮きそうなまっ平らな胸に、まっすぐな手足。肩先までの短い髪。それから彼女の顔。いつも闇に包まれていた彼女の表情。横顔。同じだ。
 夜の海で、満月に照らされていた少女の横顔と。


「君なのか?」
 私は訊く。
「私よ」
 彼女は答える。
「もしあなたがその答えを求めているのなら」


 記憶は静かに巻き戻る。一番最初だ。
 私は部屋で煙草を吸っている。暇つぶしに古い文庫本を広げて、ソファに足を投げ出している。一人が長くなるほど、時間を潰す方法には困らなくなっていく。余計な物事を考えなくても済むように。
 電話のベルが鳴る。
 その音を聴くのは随分と久しぶりのような気がする。私はゆっくりと立ち上がり電話の方へ向かう。三回、四回。ベルは鳴り続けている。途切れる気配はない。何かを必死に呼び寄せるように、小さな親鳥が雛を守るため威嚇するみたいに、身を縮こまらせて鋭い音を周囲に放つ。
 受話器をとると、ベルは死ぬ。
 耳に当てる。ささやかなノイズ。向こう側にはざらついた空間が広がっているようだ。
「もしもし?」
 こちらから訊ねる。息を呑む気配がする。それから小さな咳払い。
「死体が届くわ」
 少し幼さの残る女の声だ。
「死体?」私は驚く。「どういうことですか?」
「助けて欲しいの。あなたに」
「僕に?」
「そう。あなたに」
「身に覚えがないな。頼まれるような理由が見つからない」
「ねえ、ただ、お葬式をしてくれればいいの」
「葬式? うちは葬儀会社じゃない」
「知ってる。大丈夫。どうすればいいのかは私がわかってるから」
「もしもし?」
「助けて。お願い」
 そこで電話が切れる。私はしばらく受話器を耳に押し当てている。けれど電話は死んでいる。信号音さえ聞こえない。

「電話をかけたのは君自身だったんだ」
 私は言う。光は静かに漂っている。
「どうやって電話をかけたんだ?」
 問う。その言葉はすぐに闇に吸われる。彼女が言う。
「言ったでしょ。繋がっているんだって。全部が繋がっているの。時間も空間も超えて。だからあなたのところに繋がった。ただ思うだけでベルが鳴るの。知らなかった? 私もそっちに居る間は知らなかった。知っていたらまた違っていたのかもしれない。でも知らないだけで、わかってはいたのね。きっと。だって私とあなたは繋がっていた」
「でも君は居なくなった」
 まるで繋がりを無理に絶つように。
「ごめんね」
 声は言う。あくまで軽やかに。この世にはない鮮やかな諦めを滲ませて。
「手を離したくなかったの。だから永遠にしたかったの。それが間違っているとしても。いつか痛みがやってくることに、私は耐えられそうになかったの」
「痛み?」
「そちら側では、何もかも留まってはいられないから」
 光は一瞬膨らみ、ひらめいて、それから消える。
 そして完全な闇が来る。

 思うだけでベルが鳴るの、とどこかで誰かが囁く。


 生きて繋がることはできないのか。
 生きて、人のかたちをしたままで、触れ合い続けることはできないのか。
 頭の奥で私は誰かに向かって叫び続けていた。
 この世が美しいから生きるんじゃない。生きることでこの世が美しくなっていく。誰かを求めることでそれがわかる。愚かにも繋がろうとすることで、その儚さに破れながら、美しさを知る。一番醜く暗い影にうずくまっているような美しさを。崩れ落ちるようなところにしか存在できない強さを。痛みの中でだけ時折ひらめく喜びを。
 君はいつも存在の全力をかけてそれを生み出していたのに。


「心配しないで。お葬式は終わった。あとはイルカが私を連れて行ってくれる。暖かい海へ。腕を失くした私の代わりに、足を引いて、泳いでいくの。私の肉は波で剥がれて、血は洗い落とされる。清潔な白い骨だけになっていく。柔らかな月の光で満たされた美しい海の中で。痛みのない場所で。そこでは誰とでも会える。あなたが望めば。私たちは海を通じて繋がっている。例え忘れてしまっても、何も失われるものなんてないの」

 遠くに小さな光が見える。それは遠くから闇の隙間を縫うように、なめらかに身をくねらせて近づいてくる。流線型の柔らかな肢体はこぼれるように光を纏い、彼らは気持ちよさそうに目を細め、波に身体を預け、滑るように泳いでいく。私のすぐ前で身を翻し、そしてまた泳ぎ去っていく。
 高い高い、空間に微かな溝を刻み込むような音が響く。誰かを呼ぶような、何かを請うような、沈むようで伸びていく声だ。遠く懐かしい何かを求める声だ。孤独な海の中で彼らは互いを呼び合っている。それは水を通して伝わっていく。繋がっていく。声は広がり、繋がり、共鳴し、増幅し、吸い込まれて消えた。

 目を開けると、満月がそこにあった。
 それは涙に滲んでいた。
 私は一人だった。
 周囲には波音だけがあった。
 海が鳴っている。それは遠くへ繋がっている。イルカの泳ぐ喜びの満ちた遠くの海と。光のない深海と。
 一番綺麗なものを教えてくれてありがとう。
 耳の後ろで小さく声が言った。風に混じり誤魔化されそうなくらいの囁き声だ。それがその声を聞いた最後だった。
「忘れないよ」
 私は言って、一度目を閉じた。


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