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 雨はそれから三日間、強くなったり弱くなったりしながら降り続けた。時々ヒステリックな悲鳴のように風が鳴った。台風が近くを通り過ぎていったのだ。
 古い建物は強風のたびに小さく震えるように揺れた。窓が鳴り壁が軋む。私と少女は夜になるたびフランク/ドビュッシーのレコードを聴き、とりとめないことを語り合った。こういう雨のとき野良猫はどうしているのだろう、とか、私の生活についての詳細な質問だとか。昼間は黙々と仕事をし、眠くなれば昼寝をした。なにせ少女は昼間眠っているわけで、話をしているうちに気がつくと深夜になっているのだ。日付が変わってしばらくすると向こうの方から「眠い」と言って話を打ち切ってくれるのはたぶん気を遣っているのだろう。
 四日目の朝、世界中を洗うような激しい雨は突然消失した。あまりに潔い止み方だった。
 朝のシャワーを済ませたあとで、久々の晴天の眩しさに目を傷めながら買い物に出かけた。生鮮食料品が底を尽きていた。もうほとんどガタが来ている古いホンダアコードで山道を下る。街までは車で三十分ほどなのに、この辺りは感心するくらい山が深い。海も近く風が強い。道のあちこちに風で折れた枝が散らばり、台風の痕跡を残していた。
 大手チェーンのスーパーで魚や卵、野菜、果物を買い込む。午前中のスーパーには奇妙なモラトリアムが漂っていた。棚に並んだ商品たちは寝起きのまま、買われていくことの心構えができていないように見える。主婦達は無表情で買い物籠に品物を放り込み、すれ違いざまに怪訝な目つきでこちらをじろりと見た。午前中からいい年をした男がスーパーにいることに警戒しているのだ。彼女らの領分を乱さないよう、私はなるべく手短に買い物を済ませた。
 車に荷物を運び入れてから、ふと思いついて少し離れた場所にある中古レコード屋に足を向けた。気温は随分涼しくなっているし少しくらい寄り道しても食料品は傷まないだろう。
 レコード屋は奥まった道沿いの小さなテナントビルの二階にある。狭いコンクリートの階段を昇り、経年で黄色くくすんでしまったガラス張りのドアを開けると、黴臭さが鼻を突いた。狭い店内は薄暗く、陳列棚は人がやっと通れるほどの幅を空けて所狭しと並んでいる。店主はカウンターで商品のレコードを並べて一枚ずつ盤のチェックをしていた。まぶたの垂れた眠たげな目をちらりとこちらを向け、軽く頭を下げる真似をすると、また作業に戻る。
 そのカウンターを通り過ぎ、棚の隙間に入り込む。澱んだ空気で満ちた細長い通路は修道院の書庫のような静けさを湛えていた。昼の光に埃が透けて漂っている。ジャケットの細い背に描かれた古い書体の英字を眺めて歩く。ねずみ色の古い鉄製の陳列棚まで含めて、なにもかもが色褪せていた。
 目に付いたレコードを取り出そうとしてひどく苦労した。誰かに取り出されることなどまるで期待せずに詰め込んだのだろう。クロード・ドビュッシー、ピアノ作品集。ピアニストは知らない名前だったが構わなかった。小さくついたタグに「盤の状態:良」と記されている。カウンターまで持っていくと、店主は点検の手を止めて黙ったまま会計をしてから、それを四角い大きなブルーの袋に入れた。異常な撫で肩をした無表情な男だ。五十代半ばくらいだろうか、以前来ていた頃よりも少しくたびれていた。今まで一度も喋るところを見たことがない。何かを訊ねられればさすがに口を開くのだろうが、特に話しかける内容も思いつかなかった。
 ぬるい透明なゼリーの詰まったような店内を出て外の風を浴びる。ようやく時間を取り戻したような気がした。帰り道を運転しながら、そういえば以前あのレコード屋に行ったのはいつだっただろうと考える。
 一年前? いや、もっと前だ。いつだったか。
 思い出そうとすると、眉間の奥がざわざわと奇妙に揺れた。うまく思い出せない。別に構わない、大したことじゃない。とりあえずあの親父がもう少し若い頃だ。私はハンドルを切り、台風がなぎ倒して行った背の高い雑草たちの成れの果てを見やりながら山道を登っていく。


 部屋に戻り、食料品を冷蔵庫に収めてから昼食をとる。それから簡単に部屋の掃除をして洗濯物を干した。仕事に向かう気が起きないので午後中読書をして過ごし、少し早めに夕食の準備にとりかかる。茄子と厚揚げの煮物、味噌汁、鯵の塩焼き。それからトマトを薄く切って並べ、ごま油と醤油をかけて白胡麻と刻みねぎをふる。簡単なものだがゆっくりと時間をかけて作った。この三日間に比べると随分と良心的な食事だ。
 食器を片付け終わる頃には完全に日が暮れていた。直に少女が目を覚ますはずだ。買ってきたレコードを取り出して、ターンテーブルに乗せる。小さくボリュームを絞り込む。余り大きな音で聴くのは好きじゃない。そもそも大したオーディオセットでもないのだ。
 ピアノの細い音が溢れるように鳴った。とてもゆっくりと、とても静かに。「月の光」だ。クラシックに詳しくない私でさえ知っている。ソファで寝転び煙草を吸いながら、少女が目を覚ますのを待った。やがて「月の光」が終わり「ノクターン」が始まる。二本目の煙草に火をつける。
「起きている?」
 試しに声をかけてみるが、返事はない。
 煙草を灰皿に置いて立ち上がり、ベッドの傍に行く。遺体は今までと同じように少しも痛む気配を見せず静かに横たわっている。
 そこにあるあまりの静けさに、声をかけるのが躊躇われた。それは間違いなく死体なのだということを私は改めて認めた。もはや音楽の支配を受けない領域のものだ。私はしばらく彼女の様子に見入っていた。まぶたは今にもそっと開きそうなくらい頼りなく閉じられ、口元さえ花の蜜で軽く封をしただけのように見えた。ただ全てから血潮の気配が去っていて、それが動的な可能性を完全に剥ぎ取っている。無機質で青白くつめたい。触れれば頼りなくぐにゃりとくぼむ肉体。
 少女の黒いまっすぐな髪は肩口でばっさりと切られていた。毛先は不揃いで、適当に切り落としただけのように見える。その髪に指先でそっと触れた。それは肌とは違い、生きているものと同じ手触りをしていた。少し冷たく、けれどすぐ体温を含んで温まる、つややかで硬質な手触り。生々しい感触に驚いてすぐに手を引いた。シーツを換えるために身体を抱えたときは何も思わなかったのに。
 足音を殺してソファに戻る。煙草を吸いながら、彼女がもしもう目を覚まさないとするのならどうするべきなのかを考えた。一番簡単な方法は、このまま自分で少女の遺体を処理することだった。燃やすなり埋めるなりして。葬儀会社は身元不明者の葬儀くらい心得ているだろうが、警察が黙っていないだろう。事情を説明したところで信用されるわけがない。自分でやるしかない。でもそれはあまり気分のいい想像ではなかった。
 あるいは少女は「目覚めている」時間帯が少なくなっただけなのかもしれない。それならばまたそのうちにふと目を覚ますだろう。ひとまず待ってみようと思う。いつまで待つのかはわからない。きっと限界が来るまでこうやって引き延ばしていくのだろう。
 考え事をしている間にレコードが終わる。その日の夜は早めに眠ることにした。電灯を消す前に少女に話しかけた。
「レコードを買って来たんだ。ドビュッシーが気に入るかと思って」
 でもそこで黙り込んでしまう。だからなんだというのだ。
 少なからず動揺している自分に気がついて、思わず口元だけで笑う。少女などそもそも存在しておらず、単なる幻聴だったのかもしれないのに。眠ろうと目を閉じる。待ち構えていたかのようにとりとめのない考え事が降ってくる。その中に昼間の中古レコード屋の光景が混ざっていた。眠たげな目をした喋らない店主。黴臭く古ぼけた店内。あのわかりにくい場所にある店を私はどうやって知ったのだろう。以前あそこに行ったのはいつだったか。思い出せない。なぜこんなことが気にかかるのだろう。どうでもいいことのはずだ。そう、だって、あのレコード屋を気に入っていたのは私じゃない。
 そう考えたところで思わず息を止めた。
 では誰が気に入っていたんだ?
 うまく思い出せない。記憶の糸をたどろうと目を細めると、脳の表面がちりちりと痛んだ。そこにないものを無理矢理引きずり出そうとしていることに苦情を訴えるように。でも違う。大脳皮質は私を騙そうとしている。なぜかそう直感した。私は何かを忘れている。でも何を忘れているのか思い出せない。
 なぜ私の部屋に詳しくもないクラシックのレコードが置いてあるのか、思い出そうとしても思い出せなかった。他のレコードはちゃんと覚えている。自分で買ったもの、友人が置いていったもの、プレゼントされたもの……ただクラシックだけが思い出せない。なぜ今までそのことをを考えもしなかったのだろう?
 暗闇の中で、心臓の動悸が鋭く鼓膜を打つ。背中に冷や汗が滲んでくる。身体が記憶の欠落について明らかな動揺を見せていた。私は目を閉じたまま自分の中の暗がりを見つめようとした。それがどれだけの大きさの穴なのか、どのくらい致命的な綻びなのかはわからなかったが。

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