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八戸心理に近づくな

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 八戸心理に近づくな。
 取材の過程、この忠告を何度も聞いた。これは決して陰口の類ではなく、むしろ親切な人ほど、他人を気遣う事の出来る善良な人ほど、強く念を押すように言ってくれたのが印象的だった。ある人は伝聞を用いて、ある人は実体験を用いて、八戸心理に関わる事がいかに危険で無謀な事であるかを、本人の耳には届かぬように声を潜めて説いてくれた。
 君子危うきに近寄らず。しかしながら、虎穴に入らずんば、という事もある。実際、彼女の勝利哲学、徹底復讐主義ともいえる行動理念は、彼女自身の性格、生い立ちに深く深く根ざしている所があるので、野球から離れた部分で、現在の彼女を構成していったエピソードはいくつか紹介する必要がある。
 また、冒頭で述べた唯一取材を拒否し、私を妨害する人物とは誰あろう彼女だ。多くの人の忠告の通り、近づいてしまった代償はやはり大きかったといえる。


 不幸にも、彼女の靴を踏んづけてしまった女子生徒がいた。それは全くの事故だったし、その場で何度も平謝りしたが、許される事はなかった。その後、女子生徒の靴は何者かの手によって燃やされ、女子生徒はかわいそうに上履きで帰る事になった。
 新任の教師が相手なのを良い事に、授業中、雑談したりゲームをしたりと傍若無人な振る舞いを行う何人かの男子生徒がいた。彼女はその様子をこっそりと撮影し、まともに授業を受けられる環境を整備出来ないのなら、授業料を返してもらう。と、学校側に訴えでた。
 結局、生徒の両親から謝罪金を受け取るまで彼女の闘争は続き、県議員を巻き込むまでの大騒ぎとなった。大した事のない火種でも、彼女の手に渡れば大火となる。
 その挑発的な目線と、他者を寄せ付けぬ空気から、彼女は時にいじめという陰湿な人格攻撃の標的となる事になる。ある朝、彼女が学校に行くと、彼女の机だけが廊下に出ていた。その日、彼女はいつにも増して不機嫌なオーラを纏って1日を過ごしたが、流石に犯人がわからなければ何も出来ない。
 と、クラスメイトの皆がそう思ったのはとんだ勘違いで、その次の日、クラスにある彼女「以外」の机が全て校庭に出されていた。彼女がその犯人であるという証拠はもちろんないが、もしもそうだとしたら、彼女はたった1人で真夜中の学校に忍び込み、ただ犯人にやり返す為だけにとんでもなく地道な作業をしたという事になる。執念というより他にない。
「それでもまだ、直接攻撃に出ない分、小学生の頃よりはましですよ」
 幼稚園の頃からの幼馴染である芦屋歩(あしやあゆむ)は証言する。
 確認出来る限り、彼女がナイフの携帯を始めたのは小学校2年生の頃からだ。授業中、ほんのいたずら心から彼女にケシゴムの欠片をぶつけた男子生徒がいて、その次の昼休み、彼女は事もなげにランドセルから刃渡り10cm程度のナイフを取り出し、その生徒の後ろに無音で立ち、右耳を人差し指と親指で摘んだという。その場に芦屋歩がたまたまいて、迷う事なく彼女にタックルをかましていなければ、彼女はそのまま少年院に送られていたかもしれない。また、その方が全ての人にとって幸運だったかもしれない。
 掃除を彼女1人に押し付けて帰った男子生徒は、危うく金玉を潰されそうになったし、彼女の陰口を叩いていた女子生徒は、朝一番に良いアッパーをもらって鼻血を噴出させた。
 他にも、窃盗未遂、放火未遂、傷害未遂の類は両手の指では収まりきらないほどの例があり、中には実際に法律に違反し、今でも犯人を捜している案件もいくつかあるというが、これに関しては芦屋歩も多く語ってくれなかった。
 これら八戸心理の異常性を表現する事例はいくらでもあるが、共通して言えるのは次の3つの事だ。
 八戸心理は、危害を加えてきた者に対しては必ず復讐する。
 八戸心理は、復讐に際して手段を選ぶような加減はしない。
 八戸心理は、どこにも所属せずいずれの立場にも立たない。
 最後の項目は、「自分以外は全員敵」という乱暴で明快なスタンスを良く表している。彼女に味方する者は滅多にいないが、仮に居たとしても死ぬまで疑い続けるし、裏切りがあれば必ず報復もある。
 これら彼女の異常性は、大抵の犯罪者がそうであるように、その生い立ちによる責任が重い。彼女を擁護する訳ではないが、世の中には純粋培養の気違いという物が存在するという話だ。


 彼女には6つ年上の兄が居て、彼女の両親が離婚する時、父と母それぞれ別々に引き取られる事になった。ありがちな話だったが、そこで問題が発生した。
 彼女の父は元々勤めていた会社をクビになり、それをバネに自力で起こした会社を成功させ、業界に風穴を開けたリベンジャーで、その教えは非常に分かりやすく「やられたらやり返せ」だった。彼はまだ年端もいかない子供の教育においてもその教えを第一にしていた。食事中に片方が片方にちょっかいを出せば、食事を中断して徹底的にやりあわせる。公園で近所の子供におもちゃを奪われれば、次の日にはその子供の1番大切なおもちゃを奪ってくるように命令する。厳しくしつけ、子供が反発するようにわざと仕向ける。一方で母は父に反感を抱きながらも、子供たちを慰める。当然、兄も妹も母に懐き、父には出来るだけ近づかなくなる。
 離婚の際に発生した問題というのは、兄と妹のどちらが父の方に行くか。という事だった。
 母には選べなかった。とはいえ、兄も妹も母に引き取られる事を望んでいる。通例でいえば、年下の妹を引き取るのが妥当だが、父はあっさりこう言ったという。
「じゃんけんで負けた方を引き取ろう」
 その後の人生を大きく左右する選択を、この軽率な手段で決める事は、確かに異常だったが父にとっての理には適っていた。離婚の成立が不倫や破産などではなく、教育方針の違いという弱い理由による事だったのもあり、条件として、片方の子供を引き取らせてもらう代わりに養育費は多めに支払うという裁判の判決は至極もっともだ。それに、じゃんけんはルールが簡単で、まだ入学前の妹にも理解出来、普段からやっていたし、年齢による力の差もなく、公平に決められる。
 勝負はたったの1回。やり直しはきかない。八戸心理は、その勝負に負けた。


 片親になった後も、父の教育方針には少しの変化もなかったようだ。会社を経営する傍らで、父は彼女に日常のあらゆる物事を勝負として捉え、決して負けるなと教え続けた。その結果、彼女は道ですれ違う赤の他人にもいちいち怪訝な眼差しを向ける警戒心を得たという訳だ。
 そして小学校にあがってしばらくした頃、彼女は気づいた。じゃんけんをする時、「最初はグー」を入れると、自分が必ず次にパーを出してしまうという愚かさに。
 6歳年上の兄は、これに気づいていたに違いなかった。父と母どちらにつくかを決める勝負の時も、「最初はグー」はあったし、彼女は兄の出してきたチョキに負けたのだ。彼女が負けたのは運などではなく必然だった。兄は彼女の弱点を知っていて、それを利用して勝利を収めたのだ。
 それから、彼女は学校が終わると同時に近くの大きな駅に向かい、兄の姿を探し続けた。兄がどこの中学校に進学したか知らなかったし、同じ県にいる事は知らされていたが、引越し先の住所までは知らなかったので、人が多く行き来する駅に張り込むのが最も有効な手段であると小学1年生ながら彼女は判断した。
 1年を費やして、彼女はついにある日兄を見つける事になった。後ろから飛びかかり、首を絞めて殺そうとしたが、小学生の女子と中学生の男子では力に差がありすぎて、成功しなかった。すぐに駅員も何事かと駆けつけてきて2人は取り押さえられ、保護者として父と母が呼び出される事になった。
 母はずっと泣いていた。父は自力で兄を見つけ、復讐を果たそうとした彼女を褒めた。父に褒められたのは彼女にとって初めての経験だった。
 これは推測ではあるが、力で敵わない相手を敵に回す時の事を考え、ナイフを常日頃から携帯し始めたのはおそらくこの頃からではないだろうか。彼女にとって復讐は生活に欠かせない物だったし、敵に困る事もなかった。よって、ナイフは護身用ではなく、攻撃用という事になる。
 そしてこの逸話から、彼女につけられたあだ名は「狂犬ハチ公」。ただやり返す為だけに1年も駅に張り込み続けたその執念と、誰にでも噛み付くその性質を的確に表現しているが、彼女の前でこのあだ名を口にする時は、病院の予約をしてからの方が賢明だ。


 ここで私は疑問を呈す。
 日々噛み付く相手を探す1匹の狂犬が、もしも恋に落ちてしまったらどうなるのだろうか。
 信じる事や愛する事を切実に説く物語を鼻で笑い、誰にも心を許さず、正義を認めない人間であれ、少女は少女だ。高校入学とほぼ同時に、八戸心理をよく知る人物であればあるほど信じられない事が起きた。彼女は事もあろうに、杵原良治に恋をしたのだ。
 杵原良治が正式に野球部に入部し、エースナンバーをもらったその日、突然、八戸心理が練習を終えてクールダウンする野球部の部室に現れ、杵原良治を指差してこう言い放ったという。
「杵原良治。私と付き合いなさい!」
 1年に、狂犬ハチ公と呼ばれるタチの悪い女子生徒がいる事は、野球部の中でも半数ほどが知っていたし、その余りにも堂々として一点の淀みも恥じらいもない台詞回しから、導かれた結論はこうだった。
「冗談だろ?」
 皆がそう思っていたのを、野球部のキャプテンである坂巻が代弁すると、渦巻くような嘲笑が起こった。だが、肝心の杵原良治はその喧騒には加わらず、ただ黙ってじっと、八戸心理の顔を見ていた。元々寡黙な少年だったが、表情や仕草にすら何の反応も見せなかった。
 この次の日、「あの八戸心理が、あの杵原良治に告白をした」という噂があっという間に学校中に広がり、普段から避けている人間は更に距離をとって避け、内心でのみ笑いものにした。同時に、「何故?」という疑問を皆が抱いたが、本人に直接それを尋ねる蛮勇を持つ者は1人としていなかった。もし仮に尋ねられていたとしても、彼女が答えられたとは到底思えない。生まれて始めて抱いた恋心に、1番困惑していたのは彼女自身だった。
 部室を満たす爆笑の波が引いた後、睨み付けながら返事を待つ八戸心理に、杵原良治はたった一言こう答えた。
「不可能だ」


 これはあくまでも私の想像に過ぎないが、この時の八戸心理の内心は絶望というよりむしろ歓喜に近かったのではないかと思う。杵原良治のする野球を見て、「惚れる」という生まれて初めての行動を余儀なくされ、神の見えざる手により植えつけられた精神状態に、彼女は1日たりとも耐える事が出来なかった。勝算があろうがなかろうが、その後の事を考えていようがいまいが、とにかく芽生えてしまった物を本人にぶつけてしまうしか選択肢は無かったのだ。杵原良治にフラれて、恋心が砕け散ったのなら、その後に残るのはいつもの自分。攻撃性に特化した、歪んだ鋭いナイフ。彼女は一瞬自分を失ったが、それをすぐに取り戻した。復讐こそ彼女の命。正当性は必要ない。
 1週間。彼女は周囲がひくほどおとなしくしていた。そして人が変わったようにおしとやかになって、野球部のマネージャーを志願した。断る理由はいくらでもあったが、彼女を納得させる理由付けは1つもなかったので、顧問は渋々これを承諾した。
 野球部に所属するマネージャー達10人が協力して作る、練習の休憩時間に食べる豚汁に強力な下剤が混入されていたのが誰の仕業によるものなのか、今でも犯人は見つかっていない。だが、その日に野球部をやめたマネージャーは八戸心理1人だけだった。
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