○月□日(Fri)
あぁ今日も疲れたなと手持ちの荷物を枕元に放り投げ、身をベッドに投げ出し技師利と年季の入った音を響かせる。
時刻は既に零時を回っており、電気のついていない部屋は自分の姿も確認できないほど真っ暗であった。
そういえば着替えていないなと思ったが、どうせ明日は休日だ。とそのまま瞼を閉じた。
○月×日(Sat)
タラララッタラッタラッタラーと軽快なラッパの音が朝を切り裂いた。
二、三度同じリズムで音程を刻んだラッパの音色は、隣接していた小汚いプレハブ小屋に朝の刻を告げる。
習慣的に、半ば反射的に目を覚ましたプレハブ小屋の住人たちはあわただしく枕元においた自分の荷物を確認し、きびきびと統率された動作で身支度を整えてベッドの横に整列する。
開けるというより蹴破るような勢いでドアをくぐった男もまた、整列する男たちと同じく軍服をまとっていた。ただその男の変わった点といえば、少し年をとっているのと肩に着く星の数が違うくらいだった。
「番号!」
「1・2・3・4・5・6・7……」
広さにして十畳あるかないかという限られたスペースに限界まで詰め込まれた男たちは、寝起きだというのを感じさせないほどはきはきした大きな声で自分に割り振られた番号を腹の底から叫ぶ。
どうしてか。
「11!」
「……ん?」
点呼を聞きながら微動だにしなかった星の多い男がふと首をかしげる。いつもならまだ続くはずのその号令が聞こえないと眉をひそめる。
「うーん。それは無理でしゅよブチョー」
怒り心頭といった感じで声のする方向へと歩先を向けると視線の先にはすやすやと寝息を立てる間抜けな顔があった。
ちなみに、ブチョーというのは星の多い男の事であった。
「無理は意地で通せ! 斉藤!」
額に青筋を浮かべたブチョーは男のベッドをきれいに磨かれたブーツで蹴飛ばす。
「う……ん……?」
熟睡の様子だったが流石に寝床が揺れて気がついたのか、眠気眼をこすりながら辺りを見回す男。名は呼ばれたとおり斉藤だった。
「おはよう……ございます?」
斉藤は辺りを見回し、なんともいえない表情を浮かべるとだらしなくにへらと顔を崩した。
「おはよございます? じゃない! さっさと起きて支度をしろ! 命が惜しくないのか!」
プレハブ小屋が震えるのではと思うほどの大声で激昂するとブチョーは、斉藤のヘルメットを蹴飛ばす。
「い、いえ。命は惜しいであります!」
あわてて飛び起き、ブーツを数秒で履く。
幸いにも昨晩疲れてそのまま寝たので服は着替える必要が無かった。
「斉藤。貴様には懲罰が必要だな」
きた。とプレハブ小屋の男たちは顔をゆがませる。
せっかくこうならない様にと身支度をしたのになんて事をしてくれた。と叱咤の目で見るものもいた。つまるところ、この男たちはブチョーが言い出す懲罰という奴が大嫌いなのだ。
もちろんそれは斉藤も例外ではなくあからさまに嫌そうな表情を浮かべる。
「と、言いたいところだが、今はやめておこう」
そういってブチョーは懐から一枚の書類を取り出す。
懲罰が無いならよかった。と胸をなでおろしたのは斉藤で、その他の面子はどこか強張った面持ちでブチョーの言葉を待った。
「前期比120%」
ピラピラと資料を振りながらブチョーが言う。
斉藤を除くプレハブの住人が苦虫を噛み潰したような渋い顔になる。
「は?」
しまったと思いつつも何を言っているのかわからないと斉藤が声を上げた。なにせ、斉藤はここに来てまだ日が浅い。前期比といわれても前期がわからないし、ブチョーが何をいいたいのかが皆目見当がつかないのであった。
「120%だよ。わかったね?」
わからないとは言わせないぞといった感じでずいっとにじり寄ってきたブチョーに、ただわかりましたとしかいえない自分はなんともふがいないなと思いながらも、とりあえず円滑に物事を進めようと生返事ながらなんとなくで答えた斉藤に、周囲の視線が刺さった。驚き半分、羨望半分といったその眼差しの意味がわからず斉藤はさらに混乱する。
「では、担当は斉藤君でいいね。じゃ、私はこの後会議があるので」
そう言い残すとブチョーはいそいそとプレハブ小屋を退散した。
ブチョーが居なくなったのを皮切りに、プレハブ内が水を得た魚の様にざわついた。
皆、よくやった斉藤。すごいぞ斉藤。など好き勝手に口にし、朝寝坊して懲罰のとばっちりを受けそうになった事などなんのその、いつの間にか斉藤はヒーロー扱いされていた。
「ちょ、ちょっとまってくれよ。一体何がどうなっているんだ?」
未だに状況を理解できないと質問する斉藤に、男達は生暖かい目でいつの間にかブチョーが置いていった資料を指差す。
なんだか嫌な予感を感じつつもその資料を手に取ると、それは朝の眠気など吹き飛ぶ程の内容で、なんと無理難題がびっしりと詰まった要求書だった。
あぁ、何でこんなのを受けたんだ。そう思うも後の祭り、助けを求めようにも男達はじゃあがんばれよと自分の肩を軽く叩くばかりで少し距離を取って俺は助けられないからなと無言で訴えかけているようにも感じる。
結局、斉藤は肩を落とし一人無理難題へと立ち向かうのであった。
「おらーっ。しねー」
ぞぶり。と少しゆるめの粘土に手を突っ込んだ時のような特有のねばねばとした感覚に、あぁやっちまったんだなと斉藤は自覚する。
「さ、斉藤?」
刺された相手はまさか信じられないといった様子で目を瞬かせる。
「どうし」
最後の「て」は口から発されること無く、相手はそのまま息を引き取った。
「ぼ、僕は悪くないですよ? あ、あんたがあんな事をするから悪いんだ!」
子供じみた自己弁解だとは思ったが、何とかして罪の意識から逃れようとするも人を殺めた事実はかわらず、それは次第にリアルに、鮮明に斉藤に刻まれていく。
「は、ははっ」
人間、どうしようもなくなったら笑うしかない。
そうどこかの書で呼んだ事があるなと思い返すも、斉藤の口元は釣りあがったまま元には戻らなかった。なぜならそれが狂気ゆえの笑みではなく歓喜からの笑みであったからに他ならない。
普通、人を殺してしまったなら何らかの罪悪感を感じてしかるべきなのだが、今の斉藤にそれは無く、やってやったぞという達成感しか残らなかった。
「あんたが悪いんだぜ、ブチョー。俺はまだここに来て間もない。それだってのに俺にばかり七面倒な仕事ばかり押し付けるからだ。誰だってそんなことされればイラつくだろう? むかつくだろう? そりゃ殺されても文句は言えねぇはずだよな。……って、もう死んでるんだから文句も言えないか」
狂気にゆがんだ笑顔のまま血まみれになった自分の手でぺろりと舐め、悦に浸る。が、少しおかしい。血というのはこんなにも甘かっただろうか。
否。
これは違う。それはまるでストロベリーチョコレートのような柔和でやさしい味が口の中に広がり、あわてて斉藤はその何かをつばと一緒に吐き出す。
「さぁいとぉうくぅん」
甘ったるい猫なで声に目をやると、ブチョーだったはずの何かがどろどろとその形を変え、ピンクの水溜りになって気味の悪い声を上げる。
「糞っ! 化け物かよ!」
手持ちのナイフをぶんぶんと振り回すも、うねうねと人型らしき何かになっていくそれにはまったく歯が立たず、ずぶずぶと沼でも切っているような感覚だった。手持ちの得物が効果がないとわかると苛立った斉藤はナイフを投げつけてしまう。
「銃でもあればっ!」
無いものねだり。圧倒的絶望。死亡確定。
不吉な文字ばかりが頭をよぎった。が、しかしどうだろうか。見ればその両手には暗闇に鈍く光る黒のリボルバーと純白のデザートイーグルが握られていた。
銃の知識など皆無だし、どこから現れたのかわかったものではなかったが、これは幸いと斉藤は無我夢中で引き金を引く。
ズガンズガンと殴りつけるような衝撃に、ブチョーだったものはよろけたが、それでもなお斉藤に向かってずるずるとゆっくり近づいてくる。
装弾数は6発と9発。そのはずだが両手に握られた白黒二丁の貴婦人は規定の装弾数を超えてもなお狂ったようにダンスを続ける。
「ちっ」
まったく効かないとわかるやいなや乱暴に二丁を投げ捨て、思いつきで次は刀だと念じてみる。すると、両手にはギラリとその光だけで人を殺せそうな刀が握られる。
もちろん斉藤に剣の知識は無い。居合いが出来るわけでもなければ剣道をやっていたわけでもない。強いていえるなら。子供の頃にちゃんばらをしていた程度だ。それだというのに二刀はまるで斉藤の手足の延長だといわんばかりに巧みにブチョーだった物に吸い込まれていく。 息一つ鼓動一拍も乱すことなく乱舞で翻弄しようと試みる斉藤だったが、相手にはまったく意味が無い様子で、不気味なピンクの汁が飛び散るのみだ。
返り血のようにピンクの汁が体にへばりつき、まるでピンクの水玉タイツでも着ているかのようにデコレーションされながら斉藤は気がつく。あれは間違いなくストロベリー味のチョコレートだと。どうして動くのかだとかなぜ迫られているのだとかは度外視して、ともかく斉藤は相手の正体だけは看破するのであった。しかしだからといって事態が好転するわけも無く、じりじりとその間をつめられる。
斉藤が気がついたといえばもう一つ。この世界では自分が望むものなら何でも手にする事が出来る。そのルールに従い、斉藤はハンマーにバズーカ。火炎放射器に液体窒素など思いつく限りの策を尽くしたのだがピンクのどろどろにはまったく効果が無く、徐々に斉藤の表情に疲労の色が浮かび始める。
「くっ」
次は何で攻めようかと思案していると、ずるりと生暖かいものが足に当たった。
見れば油断が隙を生んだのか、いつの間にか斉藤の足をピンクのどろどろが絡めとられて居るではないか。
「こらっ離れろ」
振りほどこうと格闘するも離れるどころかピンク侵食されていく自分の足に、なんだか脱力してしまう。
「勘弁してくださいよブチョー」
半ばあきらめかけのお願いに、もちろんブチョーだった物が答えるわけも無く、斉藤はゆっくりとピンクに染められていくのだった。
斉藤が最後に感じたのは、やっぱりストロベリーチョコ味だった。
「はっ!」
がばっと布団から跳ね起きる。
あわてて体を確認するが、どこもピンクではない。ついで言うとおかしな軍服も着ていなければ狭苦しいプレハブ小屋でもない。 十畳ちょっとだというのはその通りだったが斉藤は今アパートの自室にいた。服装はスーツだ。
「夢……か」
出来の悪い三流小説かのような顛末に寝汗をぬぐう。よほどつらかったのか体はしっとりと汗ばみ、体も重い。
「無理難題にブチョーね」
いいながらもそういえばプレハブ小屋のやつらは同僚に似ていたな。などと思い起こしながら苦笑する。
「しかし、夢の中でも部長に勝てないのか」
夢の中でもなんだか自分らしいなと苦笑いながらにため息をつき、のろのろと立ち上がる。
「さって、コンビニでも行くか」
夢で出来てきたせいかなんだか今は無性にストロベリー味のチョコレートが食べたいのだ。
「あ、一日終わってら……」
時計を見てため息をつく。
時刻は既に夕飯時。なんともまぁもったいない週末を過ごしたものだと一人ごちりながら、斉藤は部屋を後にするのだった。