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01.黄色の檸檬月

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 母さんがある日突然「旅に出たい」と言い出した。夏がはじまったばかりの頃である。
 僕は突然のその言葉にしばらく驚いていたけれど、一緒に聞いていた美希は大した動揺もせず、母さんに「どこに行くの?」とたずねた。
「うーん、そうねえ、とりあえずは北かな」
 アバウトすぎる返答。
 その時は僕は母さんは本当に旅に出るのかもしれないと思った。旅行や物見遊山ではなく、本当の旅。放浪や彷徨という表現が似合うような、当てもない旅に。
 水無瀬(みなせ)家の親戚は皆九州だから、北といえば本当に知り合いのひとりもいない。母さんの言った「北」がどこまでかはわからなかったが、少なくとも東京は越えるのだろうか。
「どうして、いきなり」
 母さんがそんな突拍子もないことを言うのは珍しい。はっきり言ってしまえば変だった。
 どこか遠いところに行きたいならば、出張でずっと帰って来ない父のところにでも会いにいけばいい。そうすれば父さんだってきっと喜ぶ。それなのにどうして旅なんだ。もう四十も過ぎた女がやるようなことではないだろう。むしろそんなことをやるとしたら僕や美希みたいな高校生が青春のひとつとしてやるようなことだ。もっとも僕にそんなことを実行する勇気はないけれど。
「理由は特にないの。旅ってそういうものでしょう」
「いや、知らないけどさ」
「勇希も美希も、母さんがいなくても夏のあいだだけなら生活できるでしょう? もう高校生なんだから。お金はちゃんと置いていくからね。あっ、あまりムダ遣いしちゃダメよ」
「……母さんどうしたの。疲れてるじゃない?」
 本当に心配して口に出た言葉に、母さんが黙り込んだ。
 今日も朝からずっとパジャマ姿の美希は、別になにも言わないけれど、絶対にこんなのおかしい。
「そうね、母さん少し疲れてるのかもしれない」
 少し弱々しくなった声で母さんはさいごにそう言うと、黙って寝室に歩いていった。
 なんとなく悪いことをしたような感覚が僕には残ったけれど、母さんを止められるのはこの場に僕しかいないようだった。
「行かせてあげればいいのに」
 美希は大して興味がなかったみたいに雑誌を読んでいたくせに、そんな文句を僕に言った。
 細長いチョコのお菓子を咥えて折るようにして食べながら、太ももに載せたマンガの週刊誌のページをめくる。いつのまにか当たり前になっていた光景だったのに、その時の僕はその美希の姿を見て、無性に腹が立った。
「母さんがあんなこと言い出したの、美希のせいなんじゃないか」
 どうしてこうも意地悪な言葉が出てしまうのだろう。きっと疲れているのは僕の方だ。
「……そうかもね」
 美希は読みかけの雑誌を閉じると、それを手に持ったままリビングを出ていった。きっとまだ寝やしない。だけど僕と話す気もないんだろう。
 ひとり残された部屋には、まだ少しだけ甘い匂いが残っている。



 次の日、美希は昼前に起きてきた。
 昨夜とは色違いのパジャマに着替えていて、黒蜜の長い髪は少しだけはねている。僕を見るなり黒目がちな両眼を瞠目させて、リビングの扉のところで立ち止まった。
「どうして勇希がいるの?」
「今日から夏休み」
「そっかあ、わたしとおんなじだね」
 決して“おんなじ”ではなかったけれど、そんなことを指摘するよりも大事なことがいまはあった。机の上に置いてある一枚のメモ。それを拾って、僕は美希に突き出した。
「俺はいるけど、母さんは今日からいない」
「そっかあ、旅に出たんだね」
 美希はメモ用紙を受け取らず、一度ちらっと見ただけで、そのまま冷蔵庫の方へと向かった。
「勇希の言うことなんて、聞かなかったわけだ」
「そうみたいだね」
「心配じゃないの? 本当に夏のあいだ帰ってこないと思うよ」
「さっきケータイに電話した。普通に出て、駅弁が美味いって、楽しそうだった」
「そう」
 美希は棒付きアイスをひとつ取り出すと、すぐに袋から取り出して口に咥えた。そのままエアコンのリモコンを手に取ると、黙って設定温度を限界まで下げた。まだ夏は本番じゃないのに、いまからこんな調子では、8月頃にはどうなってるかわからない。
「美希は、心配じゃないの?」
「なにが?」
「母さんのことだよ。ずっと家では頼りっぱなしだったんじゃないの」
「今日からは勇希がいるんでしょ。だから、たぶん母さんも今日出ていったんだと思うよ」
「僕だってずっと家にいるわけじゃないよ」
「わたしだってずっと家に居てもらわないと生きていけないわけじゃない」
 少しだけ齧られたアイスの先を僕に向けて、美希は馬鹿にするなと言った感じで怒った。
 それでもきっと家事の大半は僕がやることになるのだろう。そのことは目に見えている。僕だって予定がぎっしり詰まってるわけじゃないけれど、せっかくの夏休みの時間が取られるのは、少し不満に思った。
「母さんがいなくなって一番困るのは、僕の方か」
 溜息をもらすように、そんな言葉を吐く。
 美希がアイスを食べながら不思議そうに見つめてきた。美希はアイスを食べるのがとても遅い。だから昔、外のデパートなどでソフトクリームを買ってもらったときは、必ずコーンの先に溶けたアイスが溜まっていた。そのくせ夏は冷たいアイスを食べるのが大好きだから、母さんはよくアイスを買うようにねだられていて困っていたっけ。
「溶けてしまうから、半分勇希に食べてもらいなさい」
 そういつか母さんから言ったこともあったけれど、美希は激しく怒ってそれを拒んだ。そういうところだけは意地っ張りで決して引かない。そんなことを思い出して、なんとなく旅に出た母さんと似ているような気がした。変なところで意地っ張りなんだ、水無瀬家の女は。
「どうして勇希が一番困るの? マザコンだから?」
「違うよッ! 美希の世話を僕がしないといけなくなるから」
「あー、勇希はシスコンだったか」
「どうしてそうなるんだよ」
 僕は呆れきってしまって、ソファに深く沈み込んだ。
 適当に右手に持ったテレビのリモコンで、チャンネルを回す。甲子園の高校野球はいつからだっけ。普段観ない昼間の番組はどれも退屈のように思えた。
「母さん、お金どれくらい置いていったの?」
「今朝、机の上には20万あった。足りなくなったら銀行行けって、通帳とかも」
「20万かあ、なにか買おうかなー」
「俺を買いに行かせるなよ」
「いいもん、ネットで取り寄せるから」
「本当にやめてよ……」
 ちいさな美希の笑い声が部屋に響いた。蝉の声はまだ弱くて、僕たちに暑さを感じさせることはなかった。夏ははじまったばかり。そんな初夏の日に、引きこもりニートな双子の姉とふたりだけの生活は始まった。




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