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 どうしてこうなった。

 10年前にタイムスリップした僕は自分の初恋を実らせるため、10年前の自分自身である金子翔少年とその彼女の大場ゆらぎさんと三人でニューヨークへ旅行に来ている。近くで自爆テロ事件が起きて、つり橋効果でそのドキドキを恋のドキドキに錯覚させるという作戦だった。ところがあろうことか二人は爆心地になるツインタワーに入ってしまったのだ。僕の記憶が確かならば最初の航空機が北棟に衝突するまであと30分ぐらいしかない。高所恐怖症の僕はフラフラした足取りで北棟の130階までやってきた。とうとう見つけた。目の前に二人がいる。
 ただし窓の向こうの隣の南棟に。しまった。悪いことは重なるものでとんでもないことを思い出した。航空機が衝突するのは北棟が先だが、ビルが倒壊するのは南棟が先だ。今から南棟に昇ったのでは間に合わない。あきらめて自分一人だけでも逃げたほうがいい。こちらから何度もかけているのに、電話もメールもしてこない翔少年が悪い。いや、まて。ここで翔少年を見殺しにしたら、僕は10年前に死んでいたことになり、今の僕はいったいどうなってしまうのだろう。悪くすると消滅してしまうかも知れない。10年間の記憶とともになかったことになってしまうのかも知れない。冗談じゃないぞ。僕の人生の大半は黒歴史だったかも知れないが、
消えるなんてまっぴらだ。
 そうだ。こっちの北棟から南棟にいる二人が見えるならば、逆に向こうからもこちらが見えるはずだ。僕は南棟側の窓を叩いた。降りろ降りろと叫ぶ僕。すると大場さんが気付いて手を振ってきた。そういうことじゃないんだ。どうやら声は届いていないらしい。ふいに僕と大場さんの間に誰かが割り込んでくる。翔少年の顔が大場さんの視界を遮る。大場さんが顔を右からひょっこりと出すと、すばやく右に頭をずらす。左から覗こうとすると、後頭部を左に振る。右に見せかけて左、フェイントにもひっかからず鉄壁のディフェンスを見せる。なぜ邪魔をする。
 窓を開ければ声が届くかも知れない。窓に手をかけたとたん、僕は体勢を崩した。僕の高所恐怖症の原因をふと思い出した。本当は気付いていた。思い出さないようにしていた。何かが地面に激突する音。それは不規則に絶え間なく続いていく。それが灼熱の炎と煙に巻かれてツインタワーから飛び降りる人の最後の音だと、テレビのナレーションの無感情な声は告げる。
 タイムリミットは迫っている。立ちくらみを起こしている場合ではない。僕は腹に力をこめると、窓を開けた。摩天楼のビル風が吹き込んでくる。
「もうすぐこのビルは崩れる!!!!早くそこから逃げろ!!!!!」
 奇跡は起きなかった。
 僕はその場に崩れ落ちるようにしりもちをついた。声が届いたのは大場さんではない。警備員の男たちが取り囲んでいる。おかしいな。日本語で叫んだのに。よく考えてみたら、ビルの窓を開けてわけの分からないことを叫んでいる不審人物は、自殺志願者と思われてもしかたない。僕の怪しさは万国共通のようだ。
「Freeze!」
 いかつい男が何事か叫んでいるが英語嫌いな理系人間である僕は聞き取ることができない。
 堰を切ったように警備員の二人が組み付いてきた。こんなところで足止めされていたらみんな死んでしまう。警備員たちが浴びせてきた言葉の意味はほとんど分からないが、声の調子で罵声なのは分かる。
「Fool!」
 馬鹿はお前だ。
「Crazy!」
 狂っているのはお前達だ。
「FuckingJap!」
 ファッキンジャップぐらい分かるよバカヤロー。
 彼らに事情を話そう。話せば分かるはずだ。人類みな兄弟。しかしどうやって伝えればいいんだ。僕は思いつく限りの危険を示す英単語を叫んだ。
「テロ!」
「スーサイドアタック!」
「クラッシュ!」
「ヘルプミー!」
「ランナウェイ!」
 心の叫びが伝わったようだ。いかつい男達は僕を離してくれた。
 あれっ、なぜか僕の周りに距離をおいている。満員電車のよっぱらいの周りのように、そこだけポッカリとドーナツ状に空間が空いている。もしかして僕が自爆テロ犯と勘違いされた?ここでようやくパニックが起きた。パニックは向かい側の南棟にも伝染し、人々は階下に向かって降りていく。悲鳴と怒号の入り混じった不協和音の中、エレベーターの前には人だかりができ、人を押しのけていくものやら重量オーバーのエレベーターに無理に乗るもの、非常階段のほうに回るものもいる。
 大場さんは翔少年の手を引いて人の波間をすり抜けていく。案外しっかりしている子のようでよかった。だがしかし、女の子に手を引いてもらうなよ。普通逆だろ。僕は二人がエレベーターに乗ったのを見届け、安心しているヒマがないことに気付いた。もうすぐここに航空機が突っ込むのだ。
 エレベーターに乗って下りる。130階もあるからやたら長い。今頃になってメールが届く。

『ゆらぎと手をつないじゃった。夢がかナウ。』

 なんだ、この腹立たしいメールは。大場さんのことをちゃっかり名前で呼ぶ勘違いっぷりから始まり、手を引いてもらったのを手をつないだとカウントする浅ましさ。この緊迫した状況を理解していない不快な内容。おまけにナウの使い方がやっぱりおかしい。日本語としては正しいけども。とりあえず「外の喫茶店で合流しよう。」と返信してエレベーターを降りた。
 1階はすでに入り口に人が殺到している。
 僕も入り口に急いだがニューヨーク市警の警官に囲まれてしまった。どうやら本当にテロリストだと思われてしまったらしい。人生詰んだかも知れない。こいつら、今はそんな場合じゃないだろ。避難の誘導とかしてくれればいいのに。
「Freeze!」
 ここにいたらみんな死んでしまう。
 僕は入り口に向かって走った。一斉に警官達の銃口がこちらを向く。あわや発砲するかと思われたその時、まるで地震と落雷が同時にきたような轟音と衝撃が起こった。無論、警官の発砲音などではない。一機目の航空機がこの北棟に突入したのだ。
 僕は無我夢中で北棟から飛び出した。警官達はようやく事の重大さに気付いた様子で避難の誘導を始める。後ろのほうでまた爆音が鳴り響いた。おそらく二機目が南棟に突入したのだろう。どこをどう走ったのか、二人が待つ喫茶店にどうにかたどり着いた。二人が律儀に店の前で待っていてくれたおかげで、すぐに見つけることができたが、もう南棟の倒壊が始まっている。すばやく二人を両脇に抱え込むと店の中に駆け込んで、背中でドアを閉める。その数秒後だった。南棟の倒壊で巻き起こった瓦礫とほこりの嵐が通りを吹きぬけていく。間一髪のところだった。



 結局、この騒動のせいで僕達は3日間も空港で足止めされ、二人は学校を一週間も休むことになってしまった。僕は自分が自爆テロ犯として捕まりはしないか気が気ではなかったが、その心配は無用だった。家にたまっていた新聞を読み漁る。僕がテロ犯になっている記事はどこにもない。それどころか、いち早くテロに気付いて一般人を避難させた謎の青年という記事があり、苦笑いした。航空機の乗客を助けることはできなかったが、ビルの中にいた人は避難が早かったおかげで死傷者がほとんどいなかったらしい。同時多発テロ事件の被害が抑えられたせいで、この後起こる対テロ戦争やイラク戦争への流れも変えられるかも知れない。
 翔少年と大場さんの恋愛がうまくいけば、元の時代に戻れるのではないかという根拠のない淡い期待もむなしく、あいかわらず元の時代に戻れずにいる。つり橋効果が裏目に出てしまいどうも大場さんが僕に好意をいだいているからだろうか。まあ、悪い気はしない。
 事件から一月たってそんなことをしみじみと考えていると、ちょうど呼び鈴が鳴る。ドアの魚眼レンズごしに翔少年の顔がうかがえる。いっちょまえの思いつめた顔。やれやれ、また大場さんのことで相談に来たのだろう。ドアを開けると僕はとっさに飛びのいた。翔少年の手には鈍い光を放つ出刃包丁が握られている。
「ちょっ、そんなもんこっち向けるなよ。」
 僕は先端恐怖症でもあるのだ。
「この裏切り者。」
 テーブルを間に、距離をとって対峙する。
「今日だって車にひかれそうになった高校生を助けて、ゆらぎの気をひいてたじゃないか。」
「あれはたまたま、そこで事故があるのを知ってたから。これから10年さまざまな事件や災害 が起こるんだぞ。それを未然に防げたらすごいと思わないか。」
「うそつき。」
 そう言い捨てて翔少年はテーブルを踏み越えてくる。僕は切っ先をかわして右手首を乱暴につかむ。
「分かっているのか。お前は自分を殺そうとしているんだぞ。」
「うるさい。信じられるか。」
「ちゃんとお前しか知らない思い出を話しただろ。」
「そんなの誰でも調べられる。僕は本当にお前なのか、その証を見せろ。」
「……。」
「死ね。ロリコン。」
 子供どうしの場合はロリコンにならないのって何かズルいよね。翔少年は僕が一瞬考え込んだのを見逃さなかった。切っ先が目の前に迫る。いくら虚弱体質でも小学五年生には負けられない。僕は机を蹴って、翔少年の体勢を崩した。すばやく出刃包丁を奪い取ろうとすると、手には何も握られていない。出刃包丁は深々と翔少年の胸に突き刺さっている。
 あれれ、特に何も起きない。そうか、時間というのは一方通行の直線じゃなくて、無数に分岐していく説が正しかったんだ。だから僕が大場さんと付き合っている並行世界があってもいいんだ。目の前がかすんでいく。バケツにたらした一滴の絵の具のように、僕が広がってどんどん希薄になっていく。ああ、これが消えていくということなんだ。僕が僕であることは最も僕が望まない形で証明されてしまった。
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