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出立

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 梯子を上り、上に出る、フラベティはいなかった。
 メイとマチの寝かされている部屋に入ると、マチは既に起きていた。僕とフラベティのやり取りを聞いていたようだった。窓の桟に手を置き、外を眺めるようにして立っている。僕が扉を開けると、マチは首だけをこちらに向けた。
「ミアは」
「死んだよ」
「……そう」
 短く言うと、それきり黙った。聞いていたのかもしれないし、そうでなくても半ば予想はしていたのだろう。マチは黙って窓から離れ、ベッドに腰掛ける。傍目に解りにくいが、落ち込んでいるようにも見える。今、ミアに感情移入をしているのだろう。いや、僕に、か。
「あの女、どうするの?」
「さあね」
「…………」
 先をバラし過ぎただろうか。今の「さあね」には、感情が篭り過ぎた。
「メイはまだ寝てる?」
「ぐっすり。子供のように」
「そっか。じゃあ、メイが起きるのを待って宮殿に向かおう」
「宮殿?」
「うん、そこがとりあえずの目的地」
「そう」
「それでさ、それまでこの町を見学しようと思うんだけど、どう?」
「ええ」
 マチはベッドから立ち上がると、僕に着いてきた。
「その服……」
「ああ、ここのだよ。似合う?」
「うん」
 その返事はなおざりだった。僕の服の美醜なんかに、マチは興味を示さない。似合うか似合わないかは主観だ。描写に必要な事柄以外はどうでもいい。
「さ、行こう」
 フラベティに一声掛けようと思ったが、どうやらどこかへ出掛けたらしい。僕らは出口と思しい扉から外に出た。
 一歩外に出ると、そこは石畳の町並みだった。
 家々は密集し、その並びで道を作っていた。二階建てのものすらある。一軒ごとの壁に、日本語ではないしアルファベットでもない某かの文字が彫られていた。見覚えはない。柱は西洋風で、ギリシャの神殿にでもあるような装いだった。窓には硝子がなく、木の枠だけが設されていた。扉は木製で、鉄格子のはまった覗き窓があった。軽い上り傾斜のある道はまっすぐに伸びていて、その先には何か大きな建物があった。傾斜があるからよくは見えない。屋根のような一部がちらと見えただけだった。
 歩く者は誰もいない。フラベティと会っていなければゴーストタウンかと錯覚しそうなくらいに。あちこちに少し、ほんの少しだけ生活の色がある。植木に樽、見たことのない金属の棒。石畳の上に転がるゴミクズ。
 踏み固めた道路に木造の家だった生産とは、文明のレベルが違うと言っても過言ではない。
「ふぅん……」
 くだらない趣向だ。おそらくは、三つの町の全てが異なった文明レベルを持つのだろう。
 同じ空間の中にある同じ由来のものを、わざわざ違う形式で作るなんて。
 しかしマチは気に入ったようで、しきりに周囲を見回していた。古代ローマだのホメロスだのヘロドトスだの、そういった話も好きだったな、と思い出す。
 古典を賛美するのは、僕には理解できない。それが素晴らしいものだというのは解るけれど。
 道を歩いていると、声が聞こえた。ヤアヤアというような、気合いの声。どこかそんなに遠くない場所からだ。注意して聞くと、道の先からだと思えた。
「あっちに何があるみたいだ」
「うん」
 僕らは声のした方へ向かった。緩やかな傾斜のある道を、おそらく町の中心と思われる方に向かって歩いた。
 ゆっくりと、一歩を踏み締める。風はない。だけど木々の揺れる音がする。マチと二人きりで歩く……それはとても、珍しい事に思えた。いや、初めてと言ってもいいだろう。いつだって誰かが隣にいた。
「……?」
「なんでもないよ」
 にこりと笑ってみせた。大切な人が死んだ後で奇妙かとも思ったが、そうすることでマチの気分も和らぐのではないかとも思った。言外に表す。大丈夫だ。
「そう」
「そうだよ。ねえ、手」
「……?」
 マチはそっと右手を出す。僕はその手を取った。
「…………」
 マチは僕の顔を見る。僕はそっぽを向いてごまかした。そっぽとはどういう意味だろう? 素の方向? 僕が顔を見ていると、諦めたのか、マチは前を向いた。自分が主役になることはマチの望みではないから、そうしてみるのが僕は楽しかった。
 無言のまま、僕らは歩いた。
 やがて、道の傾斜が無くなる。坂の上にある建物。全容までは知れないが、その姿がはっきりと見て取れた。それは今までに見たことのないものだった。僕の語彙で表現するのに一番近いもの……そう、球場。いや、コロシアムだ。
 円形の遠景、幾本の柱が柱が柱が並び、緩やかにカーブしている。その中には観客席のように階段が配置され、真ん真ん中に広い平たいフィールドがあった。そのフィールドでは、たくさんの人が……人? いや、あれはエティクスやフラベティと同じものだ。人種、肌の色、髪の色……様々な様々な様々なそれが、そこにいる。たくさんのそれが、広いコロシアムに犇めいていた。四列に並び、行進でもするように歩いている。
「駆け足!」
 お立ち台の上のやつがちらりと僕らを見た気がした。笛を鳴らす。全員が列を崩さずにそれに従った。
「足踏み!」
 また笛の音。全員がその場で止まり、足を踏み鳴らした。
「よぉし、止まれ! 休んでよし」
 はあはあと息を切らせて、広場にいるほとんど全員が座り込む。どこからか台車に乗った樽が運び込まれ、その前に行列が出来た。飲み物を配っているようだ。めいめいに休憩をしている。
 お立ち台の上のやつは、つかつかと僕らに近付いてきた。軍人のような帽子を被り、肩からマントのようなものを垂らしている。ブーツのような靴。材質は革だろうか? 光沢のある表面。
 奇妙な感覚だった。全体を統率しているのはこいつだろう。だというのに、僕の知識がその結論を拒否する。そいつは、とても集団の統率者には見えなかった。
 僕の感覚で言うのなら、あまりに幼い。体つきからは判別しにくいがどうやら女のようだ。こいつらが作られた目的の一部を思うのなら、こういう特殊な者も必要なのだろう。だけど、それは統率者でなくともいいはずだ。
「そこっ! 何をしている!」
 そいつは高圧的に僕らを呼んだ。見た目にはただの子供、いや、ただの美しい子供。
 気に食わない。居丈高な子供も、子供が居丈高になることも。
「修練に遅れるとは何事だ。弛んでいるぞ!」
 腰に手を当てて仁王立ちする。子供がそうしているように見えるが、その所作には妙な貫禄があった。
「あ、あの、僕らは」
「言い訳はいらない、外周三!」
「ガイシュウ?」
 思わず聞き返してから、外周、つまりこのスタジアムを三周してこいと言っていることに気付いた。誰が。僕らが?
「いや、あの」
「なんだ、まだなにかあるのか?」
「ん、んんっ」
 咳ばらいを一つ、なるべく偉そうに見えるように。顎を引き、背を反らせる。手は腰へ、足は肩幅。声音は低く、ゆっくりと。
「無礼だな、君は」
「なんだと?」
 チビは眉を吊り上げる。その表情もまた威圧的なものだった。少し怯みそうになる。何と言うのか……似ているのだ。誰とは言わないが、世の中、とりわけ学校という空間に数多いる存在に。
「僕は人間だ」
 それでわかっただろうとばかりに踏ん反り返った。多くは言わない。言葉をろうせば無用な隙を生むし、横柄なくらいでちょうどいい。
「人間、だと?」
「ああ。だから」
「人間っ!」
 そいつは目を真ん丸に見開くと、鼻から息を吐いた。ガッツポーズをするように両手を握る。身長が低いから上目遣いに僕を見上げ、まくし立てる。
「段階は! どの辺りまでやるのだっ!?」
「だ、段階?」
「松? 竹? 梅? まさかまさか」
 なんだ、今までの経緯からこいつらは人間の言いなりなんだと思っていたけど、そうじゃないのか? 口ぶりから察するに、特別ではあるのだろうが。
 松、竹、梅…はこいつらの訓練には存在しない、人間の訓練があるのだろうか? そしてそれは、ある種の楽しみであるようだ。
「段階なんて知らないよ。僕は今日、初めてここに来たんだ」
「む、そういえば会ったこと無いな。第二世代、いや、子孫なのか?」
 チビは僕の顔をまじまじと眺める。僕はそれに「ああ」と鷹揚に頷いた。今度こそ解っただろう。
 僕は人間。お前らとは違う。特別だ。
 本当にそう思っているのかは別にして、そう振る舞う。
「ふむ……全体! そのまま!」
 チビが休憩している連中に向かって声を張り上げる。特に返事も無かった。引き続き休憩をしていろ、という意味だろう。
 チビは僕らに向き直った。
「ソルス」
「はい?」
「あたし達の名だ」
「あ、ああ」
 エティクスが言っていた、健全の町の統括者の名前。
「あたし達はこの訓練場の指導員だ。用命は何だ? 人間の子」
 ソルスと名乗った少女。指導員だって? こんな小さな子が?
「君こそ子供だろう?」
「あたし達は創られた瞬間から成体だよ。この姿のことを言っているのなら、それはそういう嗜好があるからとしか言えない。あなたはあたし達に欲情するのか?」
 ソルスはしなを作り、貫頭衣の裾を引っ張り、足の付け根近くまでを露出させた。
 言われて、そう意識して見てみる。細い手足はまだ伸びきってすらなく、肉付きは薄く、肌は血管が透き通るように白い。少なくともそう見える。顔はご多分に漏れず綺麗で、輪郭に未だ丸みがある。頬に朱が刺し、目は紅い。髪は短めの黒だ。白、赤、黒のコントラストは確かに美しい。美しいけれど、欲情するかと言われれば否だ。僕には子供がふざけているようにしか見えなかった。
 かつて神だった頃のメイがこれくらいだっただろうか。なら、これに欲情する者もいるのだろう。当時の僕もそれに含む。しかし、メイとソルスには埋められない隔たりがある。
「残念ながら」
「そうか。伽をしてみたかったのだけど。まあいい、とにかくあたし達はこれで完成品なんだ。身体はこうだが、それなりの知識を詰め込んである」
 言葉の端々から子供のような爛漫さと、相反する老獪さが滲む。確かにただの子供ではないようだ。
「人間がここに来るのは随分と久しぶりだよ。初めこそエクササイズだトレーニングだとちょくちょく来ていたものだが、元は研究者がほとんどだからな。宮殿に引きこもって誰も来なくなった。出掛けるとしたら知性に行くのだろう」
「へえ……」
 好都合だった。普段宮殿の人間と交流がないのなら、うまくすれば有利に働かせられる。直接の役に立つかはわからないが、保険のようなものだ。
「僕らは初めて宮殿の外に出たんだ。だから迷ってしまって……宮殿がどこかわからなくなるし、フラベティに連れを殺されるし、散々な目に合ったよ。だからもう宮殿に戻るところだったんだ。その前にここの見学をしていただけで、訓練に参加したい訳じゃない」
「フラベティが? あいつ……ああ、宮殿に戻るのなら案内をつけよう。ここにいる誰でもいい」
 僕らが宮殿の人間である限り、こいつらは協力的だ。
「それはもう頼んだから大丈夫。それより、聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」
「ああ、あたし達にわかることなら」
「助かるよ。それじゃあまず……」
 僕はソルスから情報を引き出した。
 まず、エティクスから聞いた情報の裏を取る。これは確かだった。二人から同じ情報が引き出せたのなら、その信憑性はぐんと上がる。それから、宮殿までの道筋。僕はフラベティを信用できない。空間把握能力に自信がないので、目印を聞いた。
「宮殿はいきなりあるからな。あたし達の言う方向にまっすぐ進めば見落とすことはないけど、注意しろよ」
 それと、いくつかの興味深い事柄。生産とは直接的な関わりが薄い、人間のこと。思った通り、ソルスはこの空間の人間について詳しかった。人間のことならあなたのほうが詳しいだろうとソルスは言ったが、自分の知らない彼らを知りたいというと一応は納得して教えてくれた。
「一番偉いのは会長だ。あたし達は生憎と伽の相手にはならなかったが、訓練は何度もしたことがある。いつも松だったな。人間でもあたし達に逆らえない段階だ。嫌と言っても訓練を続けさせる。会長は松ばかり受けていた。他は大体が竹か梅だったのに」
「はは、あの人らしい」
 ちなみに竹はそれなりに厳しい段階で、梅は緩い訓練をする段階だそうだ。松を選べばカリキュラムを終えるまでは止められない。運動に関して自分に甘い研究者が最後まで無理矢理やるための段階。自戒のようなものだろう。
 僕は適当に話を合わせ、適当に相槌を入れる。
「いつから来なかったかな……この町はもうあまり意味が無いんだ。もうあたし達の身体を鍛える場所でしかない。人間が利用しない町に意味はない。ねえ、また来てくれるか?」
「ああ、なるべく来るようにするよ」
「ありがとう。健全な肉体から健全な知性が生まれる。体調を管理しなくちゃいい研究者にはなれないから」
「健全な肉体には健全な魂が宿る、じゃなかったっけ?」
「健全な肉体に須らく健全な魂が宿るなら苦労はないよ。その言葉の元になったのはね、健全な肉体に健全な魂が宿れかし。つまり、健全な身体を持っている奴くらいは健全な魂を持っていればいいのにっていう愚痴なんだ」
「へえ……」
 意外と博識。正しいのかは解らないが。
 教育は受けていないとエティクスは言ったが、それは個体によるのだろうか。ソルスは少なくとも僕よりは博識だった。
 健全な肉体の持ち主は不健全な魂を持っていることがあるというのは同意だ。運動ができる体格のいい者が幅を効かせ、喧嘩の強い者が弱い者を下に敷く。大昔から変わらない、それは絶対的なルール。少なくとも子供であるうちは。
 ん……?
 少し、違和感を覚えた。それは思考の波に流され、すぐに形を失ってしまう。確かに今、何かがよぎったのに。
「どうかした?」
「いや……」
「訓練、やっていく?」
「やめておこう」
 僕は苦笑した。意図的なのかもしれないが、端々に子供っぽさが見え隠れする。その性質は愛おしく思えた。出会ったのが外であったのなら、僕は彼女を気に入っていたかもしれない。例え目が赤くなかろうとも。そう思えた。
「なんだ、つまらない。まぁいい、次はやっていってくれ」
「うん」
「ではな」
 ソルスは手を振った。僕とマチはフラベティの家に戻った。
 理想とはなんだろうかと、この理想郷を考察する前に考えてみた。
 夢は夢でしかなく、理想と夢はまた違う意味を持ち、その二つを区別できない人間の成れの果てがこの空間を作っただろうということは僕にも察せる。僕もまた、夢想と理想の違いを理解はできても実感できないのだから。
 誰もが幸せに暮らせる世界……それを夢見るのは普通かもしれない。大昔から夢想家達が夢見たことだ。綺麗事で、幼稚で、理想的だ。
 この場合の幸せとは、最大公約数だ。万人にわかりやすい幸せ、則ち環境。労働や、生活水準、社会システムなどがこれに当たる。そしてこの誰もとは、自分の届く範囲、国内に限定される。社会システムは国毎に違うからだ。
「みんなが幸せなら自分も幸せ」というお題目には、二つの意味があるだろう。一つは、みんなが幸せに暮らしていることが幸せだという、暖かい、優しい意味だ。一方、全員が幸せなのだから私も幸せになれるはずだという、自己中心的な意味もまたある。意味は違うが、同じことだ。結果として、みんなが幸せなのだから。
 小さな子供や、幸せに育った世間知らずが言うのならともかく、僕は前者を否定する。そんなものは理想であり、理想は叶った瞬間に現実になる。理想は空想の一種であり、空想は幻想、いうなれば妄想だ。それが現実に存在するとしたら、それは理想的な現実でしかない。理想とは、そもそもが実現し得ないものだ。
 大昔、空を飛びたいと思った人の理想は、今の世の中では現実の一部に過ぎない。飛行機なんてものは当たり前の技術で、誰だって簡単に空を飛べる。航空機のチケットが理想なのか? 違う、不可能なことだからこそ理想足り得る。理想が現実になれば、それは当たり前のことに成り下がる。
 不可能なことを夢見るのは人間の性だ。僕は夢見ることを肯定する。実現の為にはまず夢を見る必要がある。不可能だと言われれば、現実が夢を侵食する。現実と夢の入り混じった先に、実現可能な夢がある。そして夢想は現実になるのだ。不可能を夢想するだけじゃない。夢を叶えるとは、夢と現実の妥協点を見付けることに他ならない。不可能を描き続けるのは、ただの子供じみた我が儘だ。僕はそれを否定する。それは優しくて甘い、幸せな夢だ。見ている間は素晴らしく、後には何も残らない。だから、夢と現実には妥協が必要だ。
 例えばそれが、自己中心的な我が儘でも。
 みんなが幸せな世界は作れない。使い古された文句だけど、誰かの幸せは誰かの不幸の上に成り立っている。不幸とまで言わなくても、誰かの苦労のおかげで僕が幸せになれる。南米の農場で過酷な労働をする少年がいるから僕はおいしいコーヒーが飲めるし、丑三つ時に働く人がいるからこそ、ふらりと立ち寄ったコンビニでそれが買える。
 誰かが幸せならば、誰かがそれに見合うだけの苦労をしている。社会が人間のものである以上、それは揺るがない。例外として家畜や自動販売機のような存在があるが、結局はその管理をする人間が必要だ。労苦を軽減はできても無くすことはできない。できることをなるべく機械化したって、誰かがまた別の苦労をする。
 人間はその問題点をクリアしようと、ずっと研鑽を続けてきた。文化や技術の発達は、いかに楽をするか(=労力を抑えるか)という目的がある。
 手っ取り早い方法として、かつては奴隷なんていうシステムがあった。要するに管理の楽な家畜だ。しかし、そんなことは許されることじゃない。許されるって誰に? 僕に、だ。
 みんなが最大限まで幸せな世界は作れない。そんなものを望むのは馬鹿げている。子供の我が儘、狂人の戯言、男の妄想、女の空想。頭の中にお花畑が広がる、基地の外にいる連中の言う綺麗事だ。
 でも、もしも。
 もしも、だけど。
 それが、それができる技術を持ち、それが可能な立場にいるとしたら?
 僕ならきっと、そうするだろう。
 頭の中で支離滅裂な思考がぐるぐると渦巻いているうちに朝(らしきもの)が来たので、僕は眠るメイの頬を撫でた。
 考え始めると眠れなかった。この常識はずれな空間を作り上げたのは、ほぼ間違いなく葉桐製薬の会長だった男だろう。僕はその男を知らないけど、きっと宮殿にいるはずだ。会って訊いてみたいことがいくつもあった。
 あれは、あいつらはなんなんだ?
 機械はメンテナンスが必要だ。家畜は世話が必要だ。幸せに生きる上で、それが労苦になる。ならば、自律制御で稼動する機械があれば? また、自分で自分の世話をする家畜がいれば……?
 それでも、誰も彼もが幸せにはなれない。でも、限定的な空間でならそれが可能になる。いや、そこでしかできないというのが本当だ。
 社会の起源を思えばわかるだろう。社会とは様々な人間の様々な文化が押し合いへし合い、溶けて混ざって出来たものだ。文化は細分化できる。国ごとに、地域ごとに、町ごとに、村ごとに、家族ごとに、人ごとに。風習や慣習と言い換えてもいい。結局、文化の始まりにあるのは人間だ。全ての文化は、最初の誰かが始めたことだ。その誰かが影響力を持つのなら、その単位は大きくなっていく。個人の慣習が家族に広がり、家族の慣習が近所に広がり、近所の慣習が地域に広がり、地域の慣習が全国に伝わる。そんなふうにして、文化は出来ていく。
 そして、関わる人数が多ければ多いほど、文化における個人は薄くなっていく。自身が幸せになる為に始めた行為が、少しずつ意味を失う。本来と違う意味を持つようになる。
 幸せは相対的であるというが、必ずしもそうじゃない。これが幸せと決められているのならそれがもう幸せだという、絶対的な幸せもある。それが文化の価値観の一面だ。例えば、僕には理解できないが、不具になることや、死ぬことを名誉と考える文化もある。マゾヒズムとは違う意味で虐げられるのを喜ぶ文化もある。
 でも、それを決められる人は少ない。全てが幸せになるには、全てが指す単位を小さくするしかない。一個人の影響力を全てに反映するのは不可能だ。
 だから、理想を反映する範囲は、自ずと小さくなるしかないのだ。
 この閉じた空間で、内に篭った社会で、何を目指していたのかは解らない。でも、想像はできる。
 彼は理想郷を目指したんだ。
 眉目麗しく誠実で、頭が良く、自己管理のみならず機械まで管理できる、忠実な家畜。使い捨てもできるし量産もできる。
 そこにいる限り自分は特権階級で、全ての雑事は家畜がこなし、自分は好きなように暮らす。欲を満たす全てが用意されていて、永遠。
 永遠、だ。
 自分のクローンを作ることで、半永久的に生きながらえることができる。不死。いや、再生。再誕。権力者全ての夢。夢。夢。
 叶ってしまった、夢。
 実現してしまった、理想。
 そこでは倫理の意味がない。そこに甘い果実がぶら下がっているとして、倫理とは飢えを満たす為に噛むガムのようなものだ。誰もがそう望むことを、それは毒の実だからと替わりに差し出される。渇き飢えているのに、目の前の果実ではなくガムを取る者がどこにいる?
 僕だって、甘い果実をかじりたい。
 子供には描けない夢だけど、子供のような我が儘だ。
 そんな我が儘を通すのは、どんな人間なのだろう。今もここにいて、日々を謳歌しているのだろうか。
 僕がこの場所の頂点にいたとして、そいつは僕のような存在をどうするだろう。
 異邦人……違う、異物。受け入れるのだろうか? 排除しようとするだろうか? まさか、無事に何事も無く帰れるとは、いまさら思っていない。死者が出ているのだ。
 僕は身体を起こし、辺りを見回した。異変は無い。少し肌寒かった。僕は僕を抱きまくらのように挟んでいたメイを抱き寄せる。
 鍛練を出て半日、言われた通りの道を進んだが、宮殿とやらは見えてこなかった。メイやマチの足がこの空間の住人と比べて鈍いのもあるだろう。道を間違えた可能性は低いと思う。フラベティの先導があったのだから。
 日が暮れてきたので(映像と照明が夜用のものに切り替わったので)、仕方無しに仮眠休憩をすることになった。寝たのは大きな木の下にある岩の上だ。冗談じゃなく栗の木だった。
話を聞く限り、危険な動物はいないはずで、気温もちょうどいい。野宿でも問題はなかった。
 僕は結局、眠れなかった。どうにか作業を終えてまどろみ始めた頃にはもう日が出ていたので、僕は睡眠を諦めた。ミアのことを思い出した訳じゃない。世界は厳しいくせに甘く、甘いくせに残酷だ。そんなことを思っていた。
「ほら、起きて」
「んぅ……」
 メイを揺り起こして、次はマチをと思ったがマチはもう起きていて、僕らを見ていた。
「寝なかったの?」
「ううん」
「そっか」
 眠れなかったのだろう。気付かなかったけど、マチもまた僕と同じように。
 ここに来てから、マチもおかしい。いつもより口数が少なくて、まるで出会ったばかりの頃のようだ。
 マチはかつて所属していた場所から放り出され、世界を失っていた。代替品として物語に没頭し、僕が初めてマチを見た時には、図書館でうず高く本を積み重ねていた。興味を持って話しかけ、お互いに一瞬で世界になった。
 その時から、マチの世界は僕になった。マチの世界の代替品の、物語の代替品、それが僕の世界。物語を読むように、マチは僕の世界を捉えている。マチは観察者であって主役ではない。物語をただ眺める読者だ。時折、求められた時だけ物語に関わる。自分からは一切の干渉をしてこなかった。それがマチにできる最大の譲歩だった。
 マチはマチにできる範囲で、僕の希望を叶える。それがマチの僕への愛し方だ。僕はそれを理解しているし、マチも僕の愛し方を理解している。世界を見せることが僕の愛だし、物語を見ることがマチの愛だった。
 お返し、というわけじゃないけど、マチの望むことは、最大限に叶えてやりたい。僕は僕の世界の為ならなんだってする。世界が僕を裏切らない限り。
 生きていれば、マチのようになにかをしてやることもできる。でも、死んでしまった相手に、僕はなにをすればいいのだろう。
 ミアは僕を裏切らなかった。裏切らないままに、世界から切り離されてしまった。ミアの為になにかしてやりたいと思うし、それが世界として僕を愛した者に対する責任だ。
 僕は、そこに転がるものを見る。
 終わってから思ったのは、なんだ、やっぱり人間じゃないか、ということだけ。
 血は赤いし、内臓だって人間と変わらない。皮膚の下には筋肉があって、皮を剥げば剥き身の魚のようだった。感覚だって人間と変わらない。切れば痛むし刺激を与えれば反応する。いくら声を出さなくても、体の反応は嘘をつかない。痛みに対して多少鈍いところはある。もしくは、それを堪える忍耐がある。差異といえばそれくらいだ。
所々にほんの少しの差異が見受けられるけど、それは人間の範囲内だった。
 匂いがひどかった。そうしている間は高揚にも似た感覚があって気にならなかったけど、一度休んでからは妙に鼻につく。
 細かい作業は、フラベティの大きなナイフでは難しかった。仕方なく全体的に大雑把になってしまったけど、素人にしてはうまくできたのではないだろうか。
 ミアの夢は、ミアを殺したこいつで叶えた。

16, 15

  

 宮殿に向かって歩く。ずっと、ただひたすらに。リズムを刻むように足を動かした。
 鍛練でもらった食料を食べ、休憩し、また歩く。
 景色はどこまで行っても変わらない。精一杯足を動かしても、見えるのは同じような草原と、ところどころにある木々だけだ。
 どこまで続くのだろう。同じ景色ばかりで時間と距離の感覚が狂う。
 メイは僕の服を掴んで下を向いてしまった。はっはっと小刻みな呼吸が聞こえる。相当疲れているようだ。
 いや、もしかすると……発作かもしれない。こんな場所で発作が起きたら、対処方法が限られてくる。そのどれもがなんらかの苦痛を僕に伴わせる。どうせ見ているのはマチだけだから、構わないと言えば構わないのだけど。
 急がなくては。そう思えば思う程に足は空回りした。
 マチは何も言わない。ただ黙ってついてくる。マチは物語が滞らない限り何もアクションを起こさないだろう。マチからすれば、これは二人旅のはずだ。
 視界は広い。どこまでもどこまでも見渡せる。こんな場所は地上でも見たことがなかった。
 思考がくるくると入れ替わる。こんな時は僕が疲れている時だ。精神的に肉体的に感覚的に疲弊している。絶対的なくせに相対的な、抽象的な疲れ。口に出すのは難しく、理解するには曖昧すぎる。それでも、誰しもが知っている感覚。
 戯言にすぎる。言葉遊びですらない。
 どのくらい歩いたのか定かじゃなくなった。メイはもう僕の背中で寝ている。今休憩したらそのまま歩けなくなりそうだったから、歩みを止めない。貫頭衣だから足が砂埃に汚れている。砂は汗でまとわりついていた。
 視線を足から前に戻した時、僕は視界にそれを捉えた。
「あっ……」
 思わず小さく声を上げる。つられてマチも正面を見た。
 作り物の自然の色味しかない景色の中、それは明らかに異質で、恐ろしかった。
 黒だ。そうとしか表現できない。他になんの色もない。ただ真っ黒な壁があった。光沢のない黒。
 真四角。縦長の長方形。窓もないし扉もない。見上げる。先が見えない。それは真っ直ぐに伸びて空に突き刺さっている。
 いつの間にか、僕らはその足元にいた。
 何故? 何故だ?
 可能性としては、僕の目がイカレたか、僕の頭がイカレたか、僕の認識がイカレたか、僕の注意力が無かったか、なんらかの仕掛けがあるか、だ。
 こんなもの、ここには無かったのに。
 気付かないわけがない。僕はずっとこの方角を見て歩いて来たんだ。こんなにも不自然なものがあれば見えないはずがない。真っ青な空に真っ黒な棒。断言できる。僕が認識した限り、そこにそんなものは無かった。映像のように、それは突然現れた。
 そして、そうする意味もまた無かった。
 蜃気楼のように……その塔はそこにあった。
 僕はマチを見る。その目は驚愕している様子ではない。少し思案するように、視線が上下左右した。
「偏光パネル」
 マチが言った。僕の視線に気付いたのだろう。
「光を、特定の射角で、反射、放出する。この場合は、空。遠くから、見たら、反射された空と、同じに見える。射角の限界の、内側に、入ったから、見えるよう、に、なった」
 技術や理論的なことはさっぱりだが、大雑把な仕組みだけはわかった。
 そんな技術、聞いたことがない。光学迷彩の一種だろうか? 個人の範囲を覆う偏光スーツは実用化されたと聞いた。
「うん、無いと、思う。無いはず、だよ」
 マチはあっさりと言ったが、僕にしかわからないレベルで興奮している。
「理論的には、提唱されていた、けど」
 何故、そんなものが実在するのか。
 この安全な世界で、人間にとって安全な世界で、そんなものを必要とする理由があるのだろうか?
 ここにいるのが研究者だとしたら、その答えは解りきっている。
 あれが、宮殿だというのだろうか。あれじゃあ塔だ。僕はぼんやりと頭に描いていた、タージ・マハールのようなきらびやかさを打ち消す。
 バベルの塔は、天に向かって手を伸ばしたから破壊された。忘れそうになるけど、この場所に空はない。どんなに高く積み上げたって、雷が落ちることはないだろう。
 アンチクライスト・タワー。他を信仰する教徒が行う儀式のように、十字架をおちょくっている。理由はないが、そう感じた。そこで行われるのは、倫理とかいうつまらない決まりを無視した、生命の創造。
 それは中学生の妄想じみていて、知識を身につけた子供のようだ。
 僕はその世界観を好ましく思う。身勝手で幼稚。破天荒な現実逃避。一緒だ。こいつも、自分の世界を持っている。
「とにかく向かおう」
 目的地はすぐそこだ。このままここにいても意味がない。
 手作りの理想郷。その中心に、僕は足を踏み入れようとする。


 塔は根元まで真っ黒だった。表面はパネルのようなもので覆われている。パネルは隙間があるけど、そこから内部には入れそうになかった。
 とにかく、入り口が無い。上を見上げれば長く細かったが、根元であるここで見ると大きな壁のようだった。円柱状の、巨大な壁。この巨大な塔が足だとしたら、僕らは砂粒だろう。
 巨大だ。この空間の真ん中で、空を支えるように屹立している。
 まるで、巨大な樹のようだった。
 神様気取りか、この野郎。
 宮殿などという呼び方から、王様を気取っていると思っていたが、それ以上だった。
 この空間の中で、奴等は間違いなく神様だった。
 傲慢。傲慢だ。誰よりも、誰よりも。ちっぽけな世界で偉そうに振舞っているだけのくせに。


 僕らは入り口を探して、真っ黒な塔の外周を回る。
 メイが背中から降り、自分の足で歩き始める。背中が軽くなったが、頼られている感覚も軽くなった。メイは僕とマチの前を軽やかに歩いていた。体力自体はあまり無いが完全に切れるまで動けるし、切れればすぐに眠ってしまい、回復は異常に早い。本当に子供のようなやつだ。
「あっ」
 前方に、なにかがいるのに気付く。メイは怯えるでもなく僕の後ろに回りこんだ。
 それは壁に寄りかかるようにして立っていた。男のようで、よく鍛えられ、背が高かった。体格がいい。読書でもしているのか、一冊の本を持っている。ぼぉっとした様子でそれに目を落としていた。
 そして、目が赤い。間違いなく、あの連中だ。
「ん?」
 男が僕らに気付く。
「おかえり」
 本を閉じ、手を広げて言った。
「奉納か?」
「え?」
「ん、何も持ってないな。何しに来たんだ?」
 それで僕はそいつの勘違いの内容を察する。宮殿に物資を運び入れに来たと思っているのだ。となると、こいつは門番か何かなのだろう。その割に、武器らしいものも持っていない。それはつまり、安心しきっていることの顕れだ。
 奉納。ふざけた言葉だ。
「ん、お前達……」
「僕達は会長に用があって……」
 何かを言われる前に言う。
「知性から来たんだ。聞いていないか?」
「なんだって?」
 男は面食らったように目を丸くした。
「会長……会長か? お前達……」
「特例でね。こいつを」
 マチを指差す。いきなり振られても動揺一つしない。
「連れてこいとの命令が下ったのさ」
「…………」
 もう行き当たりばったりだ。信じるかはわからない。正直に人間だと言っても良かったのかもしれないが、もう遅い。
「こいつ……? こいつら,ではないのか?」
「……!」
 イージーミスだ。複数形にしなければならなかった!
「……特別でね。こいつは僕達じゃない。研究所で人間から創られたのさ」
「なんだって」
「研究の成果だ。完成し次第、宮殿に連れてこいと言われていた。時間は掛かってしまったが……」
「そいつらは?」
 ミアを指す。ミアは僕の背中に隠れて男を見ている。
「研究者だ。僕達と共同研究をしていた」
「……そうなのか。あまり賢そうには見えないが」
「見た目でわからないことは多いさ。ソルスみたいなのもいる」
「ソルスか。はは、そうだな。ちょっと待ってくれ」
 男はペンのようなものを取り出すと、持っていたノートに何かを記入した。
 どんな研究が行われているかなんて、全てを把握していないだろう。そんな推測だけでハッタリをかます。
 じっと、男の反応を待った。
 男はペンを動かし、時折マチを見る。何を記入しているのだろう……。
 男はペンをしまい、ノートを閉じた。
「……よし、入っていいぞ」
 よし!
 僕は心の中で歓声を上げた。
 男はすっと身体を引く。しかし、そこには黒い壁があるばかりで入り口らしきものは見当たらない。
「……?」
 困惑する。早くしないと怪しまれてしまうかもしれない。宮殿から来たという体だったから、ソルスからはこんな情報は聞き出せていなかった。
「どうした?」
「あ、いや」
「なんだ、お前達、初めてここにくるのか」
「あ、ああ。実はそうなんだ。僕達は作られてからこっち、ずっと研究一筋でね」
「線が細いな。身体は鍛えろ。雌性なんだからな」
 余計なお世話だ。
「これはな、ここに……」
 黒い壁に手を添える。
「な!」
 男の手が、壁にめりこんだ。いや、違う。これは映像だ! 壁と全く同じ材質に見える黒い映像がそこにあって、入り口を隠していたんだ。
 こんな技術も……知らない。マチを見る。微かに首を振った。やはり知らない技術。
「入り口があるんだ。覚えておけよ」
 男はどこか得意げだった。
「……ありがとう。じゃあ」
 男に向かって手を上げて、入り口を通る。右足の爪先を恐る恐る突き入れた。
 なんの抵抗もなく、足は内部に入り込む。
 脳がそこに壁があると認識しているのに、あっさりと足は通り抜けてしまった。実際と認識の齟齬があった。
 端的に言うと、気持ち悪い。
 顔がそこを通り抜ける瞬間、目が眩むような感覚があった。
 ミアが僕の背中に続いて入ってくる。その後ろにはマチ。
 僕らは宮殿に足を踏み入れた。
17

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