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白紙卿の遺産

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 ある所に男がいた。歳は五十から六十くらいだろうか。痩せ型の、背の高い男であった。
 男はいつも道端で本を売っていた。しかしその本というのがたいへん奇妙な本で、表紙から中にいたるまで真っ白なのである。彼の言うところによると「私の作品は言葉などでは表現できない」との事なのだが、むろん、そんな物を真面目に評価してくれる者はおらず、たまに本が売れたとしてもメモ帳なんかに使われるのがいいところであった。
 そんな男の事を、近所の住民は『ハクシキョウ』と呼んでいた。

 ある日のこと。
 男がいつものように道端にお店を開いていると、珍しく一人の女が足を止めて、本を一冊手にとった。そして男に向かってこう言った、
「先生、新作が出たんですね」
 それを聞いた時の彼の驚きよう、そして喜びようったらなかった。
「君は私の作品を理解してくれるのか」
「ええ先生、私、先生のファンなんです」
 女が笑顔で答えるのを聞いて、男は不覚にも泣きそうになったが、さすがにそこは堪えて、「それなら君、私の家へ招待しよう」と、しかつめらしい顔で言った。
 女は一瞬ためらったが、すぐにまた笑顔で「はい、喜んで」と、応えた。
「うむ、それじゃあここを片付けるからちょっと待ってくれたまえ」
「手伝います」

 さてそれから数分の後、二人は白紙鄕の部屋にいた。
 その部屋というのが汚い部屋で、壁という壁が本で埋め尽くされていた。そのうえ、もともと狭いのに部屋の真ん中に大きな机が置いてあるものだから、まさに足の踏み場も無かった。
 しかしそこはこの女「素敵な部屋ですね」なんて言うものだから、さすがの白紙鄕もはにかんでうつむいてしまった。
 そんな事お構いなしに女は部屋の物色をはじめた。見られたくない物があるというわけで無くても、あまり自分の部屋をあれこれと物色されていい気はしない。男はちょっとむっとして「ここに座りなさい」と言った。
 さて、そこで初めて男は女の顔を直視したのだが、その美しさに一瞬黙ってしまった。しかもそれを見て女が顔を覗き込むもんだから、白紙鄕、ますます弱ってしまい、「え……君はいったい私の作品の何処がきにいったのかね」などと言って目をそらした。
 女はちょっと困ったように目を泳がせていたが、すぐに笑顔を作り直して、「そんな……言葉では言い表せませんわ」と言った。
 男はその答えに満足したのかうんうんと頷いた。
「それじゃあ、あれだね、作品を……なんだ、作っているところを見ていくかい」
 その言葉に女は今までで一番の笑顔で、「はい!」とこたえた。
「それじゃあ」と男は一枚の真っ白な紙を取り出して、おもむろにその上に手をかざした。そして何やらぶつぶつうんうんと唸り始めた。
 どうやら男の「作品」とはこうして産み出されてゆくらしい。
 女はしばらくはそれを見つめていたが、自分も同じように紙を一枚手に取ると、そこに手をかざして、ぶつぶつうんうんと始めた。
 二人はずいぶんと長い間唸り続けていたが、女ははたと手を止めて、「先生、ちょっと見ていただけますか」と男に今まで自分がうんうんとやっていた紙を渡した。
「どれどれ」男はしばらく黙ってそれを見つめていたが、「悪く無いな。君ぃ、なかなか才能がある」と微笑んだ。
「ありがとうございます」そう言って女は新しい紙を手に取ると、また、ぶつぶつうんうんと始めた。
 それを見て男は、さも嬉しそうに目を閉じ、自分もまたうんうんと始めた。

 と、まぁそんな風なことを何度か繰り返すうちに日が暮れてきた。
 女はちらちらと時計を気にしていたが、急に立ち上がると、
「すみません、今日はこのへんで……」と言って、それから「明日もまた、きていいですか」と付け加えた。
「もちろん。楽しみにしているよ」
 男がそう笑うのを見て、女は「それじゃあ」と足早に帰っていった。
 後に残ったのは、ほんのりただよう香水の匂いと、まだ暖かい一脚の椅子だけだった。
 男は目を閉じると大きく息を吸い込んだ。
 その日はそんなふうに過ぎていった。

 はたして言ったとおり女は翌日も男のところへとやってきた。
 男は威厳たっぷりにそれを迎えたが、その部屋は前の日よりもずいぶんと片付いているようだった。
「さあどうぞ、ここにおかけなさい」男がそう席を進めたのだが、女は何故か黙ってうつむいてしまった。
「ど、どうかしたのかね」
 しかし女は何も言わず、うつむいたまま、もじもじとしている。
 もとより人付き合いの苦手な彼が、こんな時どうしたら良いのかなど思いつくはずも無く、男はすっかり弱ってしまった。
「と、とにかく、座ったらどうだね」
「……先生」
「あ……は……何だね」
「先生、私をアシスタントとして使ってもらえないでしょうか」
 思いもよらぬ女の提案に、男の思考は完全に麻痺してしまった。
 かろうじて頭に浮かんだのは、さてベッドの下のいやらしい本はどう処分したものか、という事だけで、女が「先生」と不安げに声をかけるまで、すっかり我を失ってしまっていた。
「先生、お願いします」
「うむ……しかし……」
 本当ならすぐにオーケーと言いたいところなのだが、男にはアシスタントを雇うような金が無かった。
 それを察したのか、女は悩む男を真っ直ぐに見つめ、いっそう大きな声でこう言った。
「お金なんていりません。私はただ、先生のお手伝いがしたいだけなんです」
そんな願ってもいない言葉に男は笑顔で、「よろしい。今日から君は私のアシスタントだ」と大きな声で応えた。
「ありがとうございます」女は本当に嬉しそうな顔で頭を下げた。
 男は嬉しいやら恥ずかしいやらで変な顔をして「こちらこそ」と呟いた。
 それが聞こえたのか、女が「はい」と言って笑顔を向けたので、男は顔を真っ赤にしてひとつせきをした。

 さて女がアシスタントになってからというもの、白紙鄕大いに張り切って新作をどんどん発表していった。
 もちろん、いくら張り切ったって彼への評価は何一つ変わらず、本も今までと同じで一冊も売れなかった。
 しかし、新しい作品を作るたびに女が「素晴らしいです」とか「先生はやっぱり天才です」とか言ってくれるものだから、彼は以前よりそんな事は気にならなくなっていた。
 彼はまさに幸福の絶頂にあった。
 たった一人でも理解者がいてくれるという事はこんなにも素晴らしい事なのかと、男は産まれて初めて神に感謝した。
 女は女で毎日彼の仕事をしている姿を熱心に見つめながら幸せを噛み締めていた。

 しかし、幸せとはそう長く続かないものである。
 ある日のこと、白紙鄕は突然病に倒れてしまった。
 病気自体は大したものではなかったが、貧しい暮らしと歳のせいで体は弱っており、彼に病気と闘う力は無かった。
 女も必死で看病したが、彼の容態は悪くなる一方であった。
 そして入院から一月もしないうちに、一言女に「ありがとう」と言い残して、彼はこの世を去ってしまった。
 彼は家族も無く、遺体は女が引き取った。
 女は彼のために葬式までしてやったが、誰一人として、そこに現れるものはいなかった。
 もうみんな彼のことなんて忘れてしまっていたのかもしれない。
 時間は、何事も無かったかのように進んでいった。

 さて、それから数年後、アシスタントであった女の暮らしは一変していた。
 白紙鄕の死の直後、彼女は自分が今まで書き溜めていた小説を次々と発表し、それら全てがベストセラーとなったのだ。
 彼女が書く物語はどれも個性的で、かつどんな年代にも受け入れられた。
 そして、本が海外でも出版されるようになった頃には彼女はもういわゆる『億万長者』になっていた。

 ところで、余談ではあるが、こんな噂がある。
 彼女がある雑誌の取材を受けた時(実際に記事にはされなかったが)「どうしてそんなに次々と素晴らしいアイデアが浮かんでくるのですか」という質問に彼女はこう答えたという。

「これはぜったいに秘密よ……言ったらどうなるのかぐらい、わかるわよね? あれはね、実はどれもこれも、あたしが考えたんじゃないのよ。あれはね、ぜぇんぶ白紙鄕ってじいさんが作った物語なの。知ってる? あの人が作る本ってみんな真っ白だけど、作る時、無意識になのか、その『書いてる』文章をぶつぶついうのよ。あたし最初道端でそれが耳に入ってきた時衝撃を受けたわ。たった一行にも満たないくらいの文章しか聞こえなかったのに、続きが気になって気になってしょうがなくなったの。それでこっそり聞いてたら、その話の面白いこと面白いこと。でもね、彼いつもは家で作品を作るの、あの日はきっと特別だったのね。だからあたし彼にアシスタントにしてくださいって言ったの。そうすれば毎日彼の物語が聞けるじゃない? ……違うわよ、最初はただ、また後で読み返したかったから、ぶつぶつ言ってんのをメモしてただけ。だけど、うふふ、あたしきっと性根が悪いのね、これをあたしの作品だって言って出せばきっと大金持ちになれるって思ったの。……でも、彼が死んでしまって本当に残念だわ。もっといっぱいお話聞かせてもらいたかったのに。ホント、残念」
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