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eps4. 寄せて返すは不穏の細波

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 カイは激痛で目を覚ました。意識が覚醒した次の瞬間には、左肩がもぎ取られ、腿は何か重いものでごりごりと削りとられていくような感覚が襲った。苦悶に顔を歪め、暑くもないのに珠の汗がつぶつぶと肌に浮いていた。
「ぐッ……!」
 痛みを押し殺した声が響く。左手、左脚はまだ再生されず、五百蔵の魔術に氷漬けにされた部位は、呪いのようにカイの体を苛んでいた。
 そこではたと、自分のいる場所が廃ビルの屋上ではないことに意識が向いた。
 見たことのない屋敷の中だった。新たなあざなを得て、そのまま気を失ったのが最後の記憶。気が付けば布団に横になっている。隣には、看病をしてくれたのだろうか、雌の妖魔がこっくりこっくりとうたた寝をしていた。仄暗い紅の地色に藤の花が刺繍されたちりめん模様の着物をきちりと着こなしている。麗らかな銀色の長髪には、橙、緋、赤紫の三輪の花飾り。雪石膏のような白い肌に、薄紅を差した唇が蠱惑的だ。
 彼女の纏う整然とした雰囲気は、妖魔にあって明らかに異端である。故にカイは一目で彼女の正体に気付いた。記憶の端に横濱の妖鬼ホウキがすぐ近くまで迫っていたのを覚えている。しからばカイを保護したのはそのホウキ、もしくは傘下の妖魔しかおらず、そして目の前の妖魔がホウキの者のならば、思い当たる人物は一人に限られる。ホウキの妖姫、トウ姫である。妖姫とは妖魔が鬼の号を得ると共に誕生する妖魔であり、妖鬼に仕えることをその存在意義とする。戦闘にこそ向かないものの、治癒や結界などの後方支援に優れた力を示し、妖鬼傘下の集団の中でも重要な役割を担うことが多い。
 その妖姫が今目の前にいるということが、何を意味するか。
(思ったよりも遙かに高く買われてるみてぇだなァ……)
 横濱とて鶴陵の巫女の張った結界の内。式者は妖魔を狩り続け、じりじりとその数を減らしている。当然、負傷する妖魔も多い。それらの妖魔をさしおいて、横濱の妖魔でもないカイの面倒を妖姫が見ている。カイがかなりの重傷であることを差し引いても、そんな事態はホウキが彼になんらかの価値を見いだしている場合しかあり得ない。そして戦力として期待できないカイを保護している理由は一つしかない。カイの頭脳を買われているのだ。それは劣勢で戦い続け、その全ての戦線において引き分け以上の結果を出し続けた戦果によるものに他ならない。
「おい」
 カイはうたた寝しているトウ姫に声をかける。
「おい」
 起きないのでもう一度、そこで彼女はようやく目を開いた。澄んだ瞳は、鮮血のような朱い色をしていた。
「あ……円角寺の方。起きられましたか」
 彼女はほっと胸を撫で下ろすような仕草をしたあと、憂う瞳でカイと目を合わせた。妖姫の名にふさわしい麗人だ。仕草一つでその空間が華やぐような気がした。
「まる一日お目を覚まさなかったので、どうなることか思っておりました。お体は痛みますか?」
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「ああ、左手脚が今にも腐り落ちそうな痛みがする。一日中世話になったか?」
「ええ。ホウキ様のご命令で。私には、できることは殆どありませんでしたが……」
 彼女は申し訳無さそうに目を伏せた。
「世話をかけた。ところであんた、ホウキ様の妖姫、トウ姫とお見受けするが、その妖術を持ってしても治癒できなかった?」
「はい。複雑な西洋の呪術が、今もお体の中に根付いております。私ではそれを取り除くことがかないませんでした」
「なるほど、このくそったれな痛みはヤツの業かァ……」
 だとすれば自然治癒する見込みは限りなく薄い。特殊な呪術を用いるか、あるいは五百蔵の魔女を葬る必要が出てくる。いずれにせよ解決は難しいように思われた。
「……ホウキ様はいらっしゃるか?」
「はい。お呼びいたしましょうか?」
「頼む。早くしないと痛みで気が振れそうだ。正気が持つうちに話がしたい」
「……畏まりました。しばしお待ちくださいませ」
 トウ姫はゆらりとその体を消した。位相をずらしたようだ。
 想像以上に、五百蔵の魔術は傷跡が深かった。じっとしているだけでも、痛覚へ訴えかける強烈な信号が、心身が削ぎ落としていくような気分だった。待つことほんの数分、カイの意識が朦朧とし始めた時、ずんと重い妖気が肩にのしかかってきた。
 ずん、ずん、とさらに妖気は重たくねばつくような濃度に達してくる。息苦しくなるほどの濃い妖気が満たされ、カイの眼前に一人の大男が現れた。
 漆黒の甲冑、兜に大きな金の真円と雄牛を象る太い角。カイの胴体ほど太い腕に無数の傷跡、筋肉で覆われた脚は丸太の如く。人間で言えば四十を超えたあたりの容貌だが、表情の苛烈さはまさしく“鬼”のようで、その風貌を一層凶悪に見せている。神奈河は横濱を統べる妖鬼、ホウキである。その横にちょこんとトウ姫が控えていた。
「久しいな」
 しゃがれた、けれど力強い威厳を感じさせる声が響いた。
「十と四年ぶりかと存じます。体を起こせませぬ故、このまま申し上げる非礼をお許しください」
「楽にせい」
 ホウキはぐにゃりと顔を歪めた。どうやら笑みを浮かべたようだとカイは理解する。
「釜倉の敗走知らずが逃げ切れなんだか」
「もとよりこの身に余る贈り名でした。しかし仲間を失ったことだけが、心残りでございます」
「ふーん……そうだろうな。してどうする? お前もそのままではまずかろう。先に五百蔵の式者をとりにいくか」
「そうしたいのは山々ですが……あいにくこの体では」
「バクを差し向けよう。あやつがお前を拾ったのだが、仇討ちに心を燃やしておったぞ」
 ホウキ傘下にあってバクはカイと深い親交があった。カイと同じく飄々としたところがあり、陽気に笑って酒を飲み乾すその姿がふっと脳裏に浮かんで消えた。
「有り難きお言葉です。ですが、おそらく奴では歯が立ちませぬ」
「ほう、五百蔵の式者は左様に腕が利くか」
「はい。ホウキ様ならばともかく、織田原のゴウキ様でも下手をすれば首を取られかねないかと」
 その言葉に、ホウキが目を見開いた。一介の、それもまだ若い式者一人が、最上位の妖魔を殺すというのだ。彼にしてみれば、鼠の子供が猫を噛み殺しかねないと言われているようなものだった。
「それほどか……」
「あのまま成長すれば、そう遠くない内に希代の式者と謳われましょう」
「ならばいっそ儂自ら出向くか?」
「逃げられましょう。アレはおそらく相当に頭もキレます。それに湘難へ行くにも、釜倉を抜けねばなりません。さすれば、鶴陵の巫女が黙っておりますまい」
 鶴陵の巫女、と口に出して、ぴりっとホウキの気配が変わった。
「……やはりなんにするにもアレが障害となるか」
 ホウキを初めとして、神奈河の妖鬼が最前線に立てない理由は、ひとえに鶴陵の巫女の存在に起因する。
 それはいかなることか。
 妖魔と式者には、それぞれもっともその力を発揮しやすい位相が異なる。妖気が強い者ほど、その位相はより深くなっていく。ホウキがカイよりも深い位相から現れたのは、彼のもっとも力を発揮できる、即ち快適な位相がカイのそれよりも深かったからに他ならない。カイのような妖力の小さな妖魔や式者が深い位相に潜れば、たとえ体になんの傷を負っていなかったとしてもたちまちに正気を失う。
 従って式者と大半の妖魔の戦う領域は、妖鬼の好む位相に比べて絶対的に浅い。だから妖鬼が式者と戦闘するに際しては、位相の関係でその能力が制限された状態で戦わねばならない。それは鶴陵の巫女とことを構えるに当たっても当然の前提となる。妖鬼が最も力を発揮できる領域ならばいざしらず、制限された力では到底鶴陵の巫女に太刀打ちできない。さらに歴代の鶴陵の巫女は妖魔の位相移動を封じる結界術を習得していることが知られている。一度浅い位相まで出てきた妖鬼はそれが最後、体を休められるような深い位相へと戻ることが制限されるリスクを常に背負うことになる。
 つまり妖鬼が戦線に立つことは、それだけで鶴陵の巫女に各個撃破の好機を与えることになりかねないのである。それが妖鬼の戦闘への参加を強烈に牽制しているのだ。
 だが、そして鶴陵の巫女との膠着状態が続いているのは、巫女に牽制された妖鬼が今もこうして比較的深い階層で姿を隠しているからだとも言える。いくら鶴陵の巫女といえど、複数の妖鬼およびその傘下の妖魔全てを相手にするのは難しい。故に、鶴陵の巫女は妖鬼の動きを警戒せねばならず、あらゆる妖魔の侵攻に耐えうる結界の中にその身を置かねばならない。もしも鶴陵の巫女という存在を失えば、それだけで神奈河の式者は彼女を討ち取った妖鬼に蹂躙されうるからだ。
 けれどこの膠着状態は確実に妖魔が劣勢となっていく。式者が妖鬼の位相間移動を制限できるのに対し、妖魔にはそれができない。式者は深い位相に戻って集団で妖魔を狩り、傷つけば帰れば良い。神奈河の外からも増援がくる。一方、妖魔は逃げ出すことも出来ず増援も見込めない。頼みの綱の妖鬼もその動きを制限され、徐々に、だが確実にその数を減らされていく。
 これは妖魔の一方的な消耗戦なのだ。
 妖魔の数がある程度減ったところで、式者は妖鬼を釣り上げれば良い。方法は比較的簡単である。雌の妖魔を嬲り殺しにすれば良い。たとえそれが罠と分かっていようとも、高い知性を備えた妖鬼は、その理性故に同胞に対する惨い仕打ちに憤怒を抑えることができない。あとは怒れる妖鬼を鶴陵の巫女が“処理”するだけで事足りる。
 つまるところ、それが妖鬼と式者の共通する神奈河の情勢であった。
 カイとホウキもそのことは重々承知している。
「……カイよ」
「はい」
「鶴陵を出し抜く一計ないか?」
「……今のところはありませぬ」
「すると、いずれは献策できるのだな?」
「確証はありません。しかし、鶴陵の巫女の狙いが分かれば、何か手を打つこともできると考えております」
「ふむ? 鶴陵の巫女の狙い……とな」
「はい。そもそも、神奈河を覆うこの結界、どうして張られたのでしょう?」
「……なに?」
 カイの問いに、ホウキはあからさまに不機嫌な声を上げた。それは愚問であったからだ。『式者であるところの鶴陵の巫女が、妖魔の移動を制限する結界を張った』その事実から紡がれる推測は、式者が妖魔に対して殲滅戦を仕掛けること以外にあり得ない。過去の例にも、その例外はない。
 だからこそ、その問いには敗走知らずと謳われた妖魔の本質が覗いている。
「果たして鶴陵の巫女は妖魔駆逐が目的でしょうか?」
 半身を失ってなおカイの眼光は鋭い。それがホウキをすっと射抜いた。
「なぜ鶴陵の巫女は、釜倉にあってさえ、一度も動きはしないのでしょう? 横濱や織田原ならばともかく、少なくとも鶴陵八幡宮の結界にすぐにも逃げ込める釜倉ならば、一帯の妖魔を制圧するために彼女が動いてもなんら不思議はない」
「釜倉の妖魔は大方狩られ尽くしたと聞いたが……」
「少なくとも鶴陵の巫女は動いておりません。鶴陵は式者の達のいわば総本山、釜倉の妖魔が駆逐されたのは、高位の式者が集まった結果でしょう。また織田原ではゴウキ様の活躍により、式者も苦戦を強いられていると聞き及びます。ところがこれにも巫女は動かない」
「それは、ゴウキ討伐に鶴陵が動けば、我等妖鬼から挟撃を受けると危ぶんでいるからではないのか?」
「現在の鶴陵の巫女は歴代でも屈指の式者であり、その実力は我等が神奈河の大妖鬼ケンキ様をして一人では到底敵わぬと言わしめるほどです。ゴウキ様を征伐するなど、かの巫女にとって赤子の手を捻るようなものでございましょう。ゴウキ様が罠を構えられるような状況ならばともかく、最前線に立つあのお方に、鶴陵の巫女が他の妖鬼様を警戒するとは思えませぬ」
 カイの反論にホウキは黙して考えを巡らせる。カイの言い分はどれも的が外れているとはいえないが、それでも結界は張った式者が妖魔殲滅を目的としないなど、ホウキの常識からは、――ホウキだけではなく神奈河のほぼ全ての妖魔にあっても――到底考えられぬものだ。カイの言っていることは、敵国の兵に包囲された籠城戦において、あの兵は城への侵攻が目的ではないと訴えるようなものなのだ。たとえどんな論証があったといえど、そんな悠長にも思える言葉をすんなりと受け入れられるものではなかった。実際に妖魔は今も式者に殺され続けているのだから。
 故に、カイのはき出す言葉はどうしても信憑性を勝ち得ない。それはカイ自身も承知している。実際に結界が張られた瞬間に、カイは当然のように殲滅戦を想定したし、また一日鶴陵の動向をうかがったところで、その前提は崩れなかった。
 それが変わったのは、カイが七つ目のあざなを得た時からだ。『獪』のあざなを得た直後から、思考は研ぎ澄まされ、深く思慮の海に潜り込めるような感覚がカイの中に根付いていた。半身を失い、動けない体で、カイは気を失うまでひたすらに思索に耽った。そして、カイの思索はある一つの直感的な疑問に辿り着く。その直感的懐疑に辿り着く論理を、カイは言葉を編んで紡ぎ始める。
「疑問の始まりは結界の大きさです。結界がこうも大きい必要などどこにもないのです。神奈河の三妖鬼様を屠るだけならば、それぞれの一帯に結界を張り、各所で個別に戦闘を仕掛ければ良かった。さすれば他の妖鬼様から妨害を受けることもなく、鶴陵の巫女は安全にことを終えられます。それに気付いてなかったというのなら、今からでもやり直せば良い。ところが、彼女は静観したままです。さらにいえば今まで鶴陵の巫女がその並はずれた力にも拘わらず殲滅戦は仕掛けなかったのは、そもそもそれ自体が非効率的だからです。手間も時間も掛かる上に、人間側に被害も出やすい。全ての妖魔を殲滅したとあれば、必ず妖魔の妄念からより強い妖魔を生むことになる。戦略的にも効率的にも殲滅戦に大きなメリットはないのです。それでも人間が妖魔を駆逐したがるのは、親族を殺されたからなどと言った、非常に私的な事情が絡むからです。それでいえば、今回の鶴陵の結界は始まりからして不可解です。鶴陵が復讐を旨とするならば、彼女の一族が戦線の真っ先に立たないのは道理に外れましょう。結界自体も必要以上に複雑な構造しております。故に、これは殲滅ではなく何か別の思惑があるのではないかと危ぶんでおります。もしもその意図を見誤れば、我等は鶴陵にとって都合の良い駒に成り果てるやもしれません」
「……なるほどのう」
 妖魔にあって人間と智で戦ってきた者の言葉の重みが、遙か格上の妖鬼にその一言を吐かせた。
「分かった。円角寺の怪妖の言葉、しかと胸に刻んで置こう。とかく我等がすべきことは、あと二十日と余日の間、同胞を守り抜き、そして生き延びることよ。お前の治癒に出来る限り力を尽くす。その分、その智慧を貸して貰うぞ」
「仰せのままに」
 体に迸る痛みをおくびも出さずにカイは応える。黙って控えていたトウ姫の気遣うような眼差しと視線が絡み、カイはすぐに目を逸らした。
「では、儂は行くぞ。トウ姫、あとは任せた」
「畏まりました」
「ホウキ様」
 立ち上がった妖鬼をカイがぽつりと呼び止めた。
「我等は前提を一つ疑いました。しからば疑いうる前提があるのならば、それも見当せねばならないでしょう。これはまだ覆るか否か分かりかねる、直感的な懐疑に過ぎませんが」
「ふむ……申してみよ」
 そこで一呼吸、カイは辛そうに息を吐いた。五百蔵の魔術が刻々と体を蝕んでいるのが、体に染み渡る痛みで否応に分かってしまう。
             、、、、、、、、、、、、、
「鶴陵の巫女とは、果たして人間に味方する者でしょうか?」

 その言葉を最後にカイの意識は泥沼へと引きずり込まれた。重い沈黙を残した部屋には、か細い呼吸音が今にも途切れそうに残響している。


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