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eps8. その左手に

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 織田原。
 もはや人の姿を留めぬ肉塊の散乱する場所に、五百蔵菊里は立ち尽くしていた。
 父の、
 腕が、
 脚が、
 潰れた頭蓋が、
 何もかもが欠けた胴体が転がっている、その場所に。
 言葉を失った。呼吸(いき)が止まった。恐怖と嘔吐がこみ上げる前に、呆然が彼女を襲った。
 あるいは、それは良かったのかもしれない。
 認識できない状況が、彼女の意識を父の死から遠ざけたから。
 
 背後の地を踏む音が、菊里に死を予感させた。
 鬼が居た。
 躯は巌(いわお)、腕は大樹、顔貌は憤怒を連想させた。赤錆の鎧は返り血で鮮やかに紅く、振るう大鎚は曇り空のように鈍い光沢を放っている。
 振り向いた先、その視界を大鎚が埋め尽くす。大地を砕くその鎚の面には、ひしゃげた人肉が張り付いている。
 吐き気を催す暇さえない。嫌悪より早く死が本能を駆り立てる。
「や――、」
 無我夢中で妖鬼の懐へと飛び込んだ。
 体を丸め、開かれた脚の間をすり抜けようとした瞬間、頭蓋の後ろで爆発じみた音が響いた。鎚を振り下ろした地点のアスファルトが抉られている。
 地面に倒れ込む前に前転して姿勢を整える。仰ぎ見れば、鎚を地に叩きつけたままゴウキが見下ろしていた。
 死角からの攻撃に鬼が大振りしていた。つまるところの失策。それを菊里が見逃す理由はない。
 術式を編もうと左手を翳した瞬間。
 、、、、、、、、、、
 すぅと息を吸い込む音が聞こえた。
(まずいッ……!!)
 左腕の組式を中断、あらん限りの力で両耳を押さえた。耳と両手に魔力を流し込む。限られた僅かな時間で可能な限りの身体強化をしなければならなかった。
 そして――、
「があああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!!!!」
 大気を砕く咆哮。
 妖気が充満し、眼前が朱く染まる。ばりばりと震え轟く空気に、吹き飛ばされそうな錯覚を感じる。
 対処を誤れば確実に聴覚を奪われていた。単純ながら厄介なことこの上ない。耳を塞ぐ以外に有効な手段がない上、もしも聴覚を奪われてしまえば、この濃霧の中においては極端な不利になる。命など容易くかすめ取られるほどに。
 思考さえままならないまま、手を離した耳に、ざりと砕けたアスファルトを踏みにじる音。
 すでに鎚が振りかぶられている。回避に専念しなければいけない。
(くそっ……! あんな大きな隙を咆哮一つで捌かれた!)
 下級、中級妖魔では考えられないような戦い方だ。抜群に戦闘の勘の良い菊里ですら、ゴウキと相対した時の咆哮が印象になければ、まともに喰らっていたかもしれない。
 聴覚を奪われた濃霧の中、棒立ちになる自分の姿が浮かんだ。
 背中に冷たい汗が流れる。
 振り下ろされる鎚が、まっすぐ彼女へと向かう。横っ飛びで回避しようと、脚を屈めた、その直後。
「――『轟』け」
 鬼の、唸るような低い囁き。ざらついた声を耳で捉え、菊里は目を見開いた。
 今まさに振り下ろされようとしている鎚が、赤い気炎を纏う。おぞましいほど強い妖気が顕現していた。
(鬼術……!?)
 菊里が地を蹴った。体が横に飛ぶ。鎚撃の軌道からは外れた。
 だが問題はその後だ。猛々しい妖気の衝撃波をいかに防ぐか。
 跳びながら身を翻した。まともな着地はできないが、そんなことに構っている余裕はない。与えられた数瞬の間に、凄まじい速度で障壁を展開していく。完璧に衝撃波を防ぐには到底不十分。それでもないよりは幾らかマシ。展開を終えたまさにその瞬間、鎚がアスファルトを打った。
 それまでの攻撃など戯れに過ぎない。そう思わされる破壊が眼前に巻き起こる。クレーターはそこにあった道の存在をその概念ごと消し飛ばし、妖気の衝撃波で砕けたアスファルトと大地が四散した。織田原の城を吹き飛ばしたあの破壊が、目の前で再演されていた。ほとんど爆発だった。衝撃波を受けた障壁が瓦解し、菊里もそのまま吹き飛ばされる。衝撃は幾分削がれていたが、彼女を地面に叩きつけるには十分過ぎる余力があった。
「ぐっ……づぅ……!」
 強かに背中を打った菊里から、苦悶の息が漏れる。途切れそうになる意識に喝を入れ、妖鬼の姿を探した。         、、、、、、、
 爆砕された大地の中心に鎚があった。鎚のみがあった。
「消え……?」
 殺したと思って、さきのように別の場所に行った? あるいは、何か邪魔が入って引いた? そんな甘い考えが、一瞬菊里の脳内を掠めた。窮地を脱し、静寂に満ちた空間で、なぜだか安堵のような感情がむくりと首をもたげた。あまりにも都合の良すぎる解釈だ。けれど極度の緊張感は、容易に人を狂わすもの。
 それらを一瞬でなぎ払った。全て。その一切を理性で捻じ伏せなければならなかった。
(どこかに行くにしても鎚を置き去りにする理由なんてない。晶先輩でも致命傷を与えられなかったのに、今この場に邪魔なんかできる式者なんていない。だから必ず近くにいる。
、、、、、、
私を殺すために、すぐそばに!)
 体を跳ね起こした。ベレッタを片手に辺りの様子を探る。左手に集積された魔力が、藍の光を撒き散らしていた。
 深い霧の中、敵影はなく、そして音もない。緊張が、恐怖が、正常な思考を、理性を食い破りそうになる。ぴりぴりとした空気が肌を刺す。
(ヤツにとってみれば他に殺すべき式者達は多くいるだろう。すぐにでも私を殺したいはずだ。だからこそ本来切り札である鬼術をあんなに早い段階で、しかも決して万全ではない状態で行使してきた。私が避けたところまでは確認したはず。だけど追撃はしてこなかった。……いや、できなかったんだ。それなら、なにか理由がある)
 静寂の濃霧、いつ殺されてもおかしくない状況。その中で、菊里は恐ろしく冷静に、そして信じられない速さで状況を分析していた。
(追撃できない理由があるのだとしたらあの衝撃波だろう。ヤツ自身が爆心地に近いんだから。何らかの方法で避ける必要があった。そして、その結果、鎚のみが残り、追撃できない状況が生まれた。……じゃあ今どこにいる? こんな限定された状況下、必然的にヤツがいるべき場所はそんなに多くは考えられな――)
 そこではっと息を飲んだ。答えを出すよりも先に、真上を見上げた。宵闇の霧の中、そこに確かに、鬼の気配を感じた。
 ぐんぐんと近づいてくる。重力に引かれ、落ちてくる。
「……見つけた」
 ほんの微かに囁く。そして魔女は薄く笑った。
 妖鬼の落下点に一瞬で呪文陣を組み上げる。薄青色の呪文陣は彼女の編むウィッチクラフトの証。ただ普段彼女が用いる凍結のそれとは幾分その概形を異にしていた。現れたのは透明な液体球。直径は一メートルほどで、小さな子供ならば中に取り込んでしまえそうな大きさだ。淫魔が扱うスライムのように、それは球の形状を保ってその場に留まっていた。
 妖鬼の影が霧中に映りこみ、そしてすぐに赤錆色の鎧が視界に入った。視線が交錯する。防戦一方だった菊里の反撃の合図。
 手にしたベレッタに左手の魔力を込め、正確にゴウキの頭部目掛けて弾丸を放った。空中で動く術を持たないのだろう、妖鬼はそれを覆って防ぐ。赤錆色の鎧が砕け、妖鬼の血肉が舞った。
「……!?」
 鬼が眉をひそめる。鎧を砕き肉を裂いたという事実よりも、ゴウキが違和感を覚えたのはその魔力だ。魔女のそれのようでいて、明らかに先ほどまでのものとは質が違う。体内を冒す魔女の弾丸には、出会い頭の魔術よりも遥かに鋭く洗練された呪術の跡が覗いている。汎用魔術ならばともかく、古めかしい魔女術で、近代兵器との適合性が良いという事実も嫌な感触を残した。
 泡沫のような疑問、その間にも銃撃が続く。銃弾を呑み込んだ腕は弾丸を排し、肉の裂けたところから再生していた。外傷としてはほとんど無傷と変わらない。
 だが、ゴウキの気は確かに逸れていた。着地の瞬間、魔女の喚(よ)んだ液体球に足を突っ込む。瞬く間に液体球が脚から這い上がり、妖鬼の上半身を鎧の内側から覆った。まとわりつかれた肌に、じわりと熱がこもった。
 菊里の口元が笑むように微かに歪む。
 その嗤いも銃撃も気に留めずに、妖鬼は地を蹴り魔女へと突進する。地を踏んだ足が、足を覆う液体で滑り、幾分勢いが削がれた。その遅さを嘲笑うように、悠々と菊里はゴウキを躱す。
 地を踏みしめてなお、突進の慣性と足裏の粘液がずるずると鬼を滑らせた。地面に叩きつけられた鎚を握り、ようやくその滑走が止まる。ゴウキが憎々しげに菊里を睨み付けた。
「……雑魚が……小賢しい……!」
 鬼の纏う妖気で大気が揺らいだ。滲む怒りが空気に溶け込む。それに呼応するように、妖力が膨れ上がっていく。対する菊里は冷静なまま。熟練兵のように洗練された射撃姿勢で持って鬼に狙いを定めている。
 ゴウキは菊里の術により機敏さを奪われ、菊里は決定打がない。じりじりと距離を詰める鬼に対し、菊里はゆっくりと後退する。その束の間の膠着状態は、すぐに終わりを迎えた。
 ゴウキに纏わりついた液体がその体積を徐々に増していた。先ほどまで鬼の体表を覆うに留まっていた粘液は、いまや鎧を覆わんとするばかりに膨らんでいる。霧中の水分を奪い、鬼を鎧(よろ)う溶液はぶくぶくと膨張を始めている。
「織田原の鬼が地上で溺死したとあれば滑稽だろうな」
 クスリと魔女が嗤う。驕るような言葉とは対称に、彼女の緊張はピンと張り詰めたままだった。
 ゴウキが鎚を構え、魔女はじりと後退した。
「――『轟』け」
 鎚は地に落ち、衝撃波が舞う。先の一撃に比べて格段に威力が低い。だがゴウキの体表面にへばりついた粘液を吹き飛ばすには十分過ぎる威力にみえた。
 衝撃波が過ぎ去り、ゴウキの顔は不快そうに歪んだ。粘液は吹き飛ぶどころか、さらに体積を増していた。心なしか辺りの霧の濃度も低くなっているように思われた。
「残念」
 くすりと笑う。瞳は獲物を前にした時のように、彼女の怪しい輝きを秘めていた。
 対する妖鬼も狼狽の様子はない。彼は魔女に対峙し、急所を腕で覆いながら冷静にその液体の分析していた。
 熱を伴う衝撃波を受けて、粘液は蒸発するどころか、むしろ体積を増していた。水分を吸うだけが粘液の性質ではないことは明らかだった。
 熱を受けて液化する。ならばその逆はどうなるのか。
「ふん……所詮は人の業……」
 ゴウキは妖力を大気に混ぜ、周囲の空気から熱を奪った。ひやりと冷気が漂う。魔術、妖術などと名のつくものではない。そう呼べるだけの洗練された技巧は皆無だったが、効果は十分過ぎた。
 鎧を覆い尽くしていた粘液がその成長を止めた。湯気のようなものが出ている。蒸発していた。気化熱がさらに温度を奪い、蒸発が加速する。急速な温度低下のスパイラルが起こっていた。
 鬼の直感は時に不条理だ。
 凝固と気化の反転させられた液体。その本質を何の知識もなく暴いてしまう。人間はあり得ぬ認識能力、あるいは剛運とでも言うべきか。
 いずれにせよ、ゴウキはこの液体が蒸発しきるのを待てば良い。
 今度は妖鬼が嗤う番――のはずだった。
 あれほど菊里が自身を漲らせていた魔女術の解法まで、直感で辿り着いたのだから。もはや魔女が出来ることはせいぜい急所への銃撃くらいしか存在しないはずなのだから。
 余裕の笑みを見せているのは、しかし魔女だった。魔女だけだった。
 鬼は、嗤おうとした表情が凍っていた。その勘の良さ故に辿り着いた。
                       、、
 魔女の粘液が持つ二つめの性質の、本当の、いや本来の意味。
「少し気付くのが遅かった。そんだけ膨らめば十分だ」
 唄うようなセリフ。魔女は艶やかに笑む。妖しく、艶めく小悪魔の如く。
 妖鬼が鎚を振り上げた。もはや最後のあがきとばかりに最大限の鬼術を展開しようとするその最中、彼女の声は凜と鬼の耳に届いた。

――爆ぜろ

 それは彼女の最初の魔術。青の円環が支配する凍結の法。
 鬼の周りの空間が凍り付く。そして『点火』する、鬼を覆うその液体を。
 急冷された液体は、彼女に与えられた術式に従い急速に気化を始めた。大気から気化熱を奪いとり、菊里の魔術によって熱を奪われた空間を過剰な極低温領域に落とし込む。そして極低温はさらに粘液の気化を促進する。繰り返されるループが刹那の内に空間の温度を奪い去っていく。それはまさに本来とは逆ベクトルの“爆発”だった。大気を構成する窒素、酸素は液化し、粘液の蒸気に吹き飛ばされる。
 その爆心地、酸素を奪われながら氷漬けになっていく鬼を見て、菊里は踵を返した。
「これにて終(しま)い」
 大気に散った極低温の粘液の蒸気は、彼女の言葉と同時に内部に有していた術式を失った。低温の蒸気は水になり、瞬時に氷と化す。蒸気の凍結、その一瞬、氷粒が光を散乱する。世にも珍しき雪一つない場所でのダイヤモンドダストは、瞬きの後に霧となって消え失せた。
「まずは鬼一つ……」





――その言葉が終わる前に。

 振り向いた。

 白い靄の中、影があった。

 立ち尽くす、腕の長い巨人。

 鬼。

 片腕に鎚を持ち、もう一方の腕を翳していた。掌を向けて。

 微動だにしない。

 しかし、
「……くはは……」
 力のない嗤い。
「『喩え運命といえども従っておれぬ』か……」
 鎚持たぬその腕に、赤紫の鈍い輝き。
「『劫』」
 今度こそ鬼の唇が釣り上がった。どこか狂ったような笑み。
「土壇場であざなが一つ増えおったわ」
 その声音はどこか自嘲的で、そして優越感に満ちていた。
「……ふざけろよ」
 魔女は苦々しく言い捨て、眼前の敵を睨みつけた。
 鬼はその視線を楽しげに受け止めた。
「くくくく、がはははははははははははははははは!!!!!!!!!!!!!」
 神奈河は織田原。
 鬼の哄笑が、暗夜に響く。
 式者は短期決戦が基本になる。妖魔との体力、またその回復力の差は比べるまでもなく劣っているからだ。
 だからもうこの戦闘は決定的に終わっていた。
 ゴウキは菊里が張った罠に嵌り、確実に死すべきタイミングで、死すべき致命打を受けた。
 だが死ななかった、生きていた。
 戦いの渦中にあって新たなあざなを覚醒し、その術でもって生き延びた。
 天運。他になんと言うべきか。
 けれどそれが妖鬼を相手にすることだとも言える。この世のあらゆる不条理を味方につけ、彼らは式者を超えていく。
 人間の式者は強い。
 罠を張り、秘術を創成し、仲間を無数に集め、緻密に計算された作戦でもって妖鬼を穿つ。まるで定められた運命に従わせるように、妖魔を殺さねばならない。それを回避しようと思えば、人の創った運命などに従っていられない。妖鬼はその不条理でもって彼らを蹂躙しなければいけない。
 最高峰の術式で殺せなかった。
 だから今、妖鬼が生きているということ自体が、どうしようもなく菊里の運命を決定付けている。
「……見くびっていた」
 零れた彼女の呟きには、幾許かの焦燥があった。
「空間ごと式を滅却しやがったな……」
 『劫』の妖術。その本質を菊里は忌々しげに言い当てた。直感でも、ましてや運でもない。父から学んだ汎用魔術の知識が、彼女に鋭く正確な推論を与えた。
 けれどそれが分かったところで何になることもない。
 彼女の渾身の一撃は既に防がれた後だから。
 “こと”はもう終わっているのだ。
 ゴウキは幻視さえした。
 才媛と謳われる少女の顔に浮かぶ、狼狽を、驚愕を、あるいは絶望を。当然だ。彼女の上をいったのだ。土壇場で彼女の全てを覆した。
 もう魔女に笑みはない。その瞳が氷のように鋭く冷たく鬼を捉えていた。
「ジョーカーまで見せることになるなんて」、、、、、、、、、、、
 それ以上切り札などあるはずがなかった。存在する意味がなかった。
 こと妖鬼との戦闘においては、式者は最高の術を以て戦闘に臨むはずなのだ。妖鬼よりも強い存在がいない以上、その術式を温存するメリットなどどこにもないのだから。
 それが式者の常識であったし、また妖鬼の常識、前提でもあった。
 それが覆った。なぜか? 一つしかない。鶴陵の結界だ。
 結界のせいで、三妖鬼を短い期間ですべて征伐しなければならなくなった。妖鬼の中で最も力が低いとされるゴウキの前に、特定の呪術が温存される必要性が生まれた。
 切り札の温存、それははっきりと、ゴウキに「お前は格下だ」と言っていることに他ならない。
「ガキがこれ以上戯れ言をほざくなよ!!!」
 激情の咆哮が響き渡る。百年を戦い抜いてきた妖鬼が、小娘に格下に見られたというのだから無理はない。妖気があたりに充満し、大気がビリビリ震える。怒りに共振した妖力が爆発的に増えていた。
 けれど五百蔵の魔女は揺るがない。
「ゆるせよ。元は竜を殺す術なんだから」
 開放する、その左手に宿された彼女の魔術が姿を見せる。
 顕現する青の呪文陣。何かに貫かれるように、幾重に重なって。描かれるは多重円、その円弧の間隙に異国の言葉、幾多の円周を刻み、分断し、繋ぎ、そして回帰する正多角形。それは五百蔵の魔術よりも、原型となった魔女術(ウィッチクラフト)に近かった。
 はるか昔に銘打たれた魔女術だ。現象でしかない術式が固有の名を持つのは、それが歴史を背負うから。三百年以上も前に妖龍を殺すために創成され、菊里の祖母が持ちこんだ異郷の術。竜殺しの武具アスカロンの名を冠して伝えられた五百蔵の秘術。いつも彼女の左手に封じられ、その状態でさえ大気から掻き集めた魔力を宿主に供給していた、彼女の最後の切り札。
 ゴウキが黙ってその姿を見ている理由はない。その巨躯に見合わぬ俊敏さで、魔女へと矢のように疾駆する。
 妖鬼はもっと迷っても良いはずだ。相手は用心深く、そして計算高い魔女なのだから。だが本能が告げていた。今しかないと。実際、それは最高の一手であった。
 その大鎚を振り上げると同時に、がっと地面を蹴って跳躍した。踏み込んだアスファルトが砕け散る。妖鬼の眼下に複雑な術を編んでいる最中の魔女が映る。
 全身全霊で叫び、鎚を振りかざした。
「『轟』けええええええええええええ!!!!!!!!!」
 上空から襲い来る防ぎ得ない鎚撃。その妖力と質量、速度をもって、あらゆる物質と魔術を雲散する鬼術。たとえその一撃を避けようとも、衝撃波が人間の肉体を容易く解体する。単純で広大な攻撃範囲を持つ、ゴウキの奥義。
 高難易度の術式を展開させる菊里に、それを機敏に動き回って避ける余裕などない。避けねば致命傷を負うが、避ければ術式の展開はさらに困難になる。その全てを把握した上での妖鬼の特攻は、間違いなく最善の一手であった。
 、、、、、
 だからこそ、その一撃は魔女の手の内だ。
 菊里の手に握られる、一枚の符。刻まれているのは、晶から託された、たった一度限りの魔術。あらかじめ術式を展開した場所に瞬間的に移動する、鳴神の瞬身の術。
 符が閃く。菊里が消える。その直後に、鎚が振り落とされる。爆砕する。衝撃波で地面が砕け散り、円形のクレーターの上には粉塵が舞った。衝撃波を『劫』で消し飛ばし、妖鬼は全方位の気配を辿る。魔女の色濃い殺気が、手に取るように分かった。
 その距離、およそ一○○○メートル。大きな国道のど真ん中に、彼女は居た。
 離れすぎている。鬼の眼をもっても視認すら危うい。けれど魔女と妖鬼ははっきりお互いの存在を感じ取った。戦場特有の奇妙な意識の同調。見えていないのに、感じるとることなどできるはずがないのに、ゴウキには分かった。忌むべき魔女の、五百蔵菊里の息遣いが。
 鬼が自らの術の衝撃に耐える間に、彼女の魔術は展開を終えていた。
 菊里の左手に、棒状に連なった呪文陣。その呪文陣を貫く、青白い一条の槍。凝縮された魔力が編む、絶対零度の幻想武具。
 菊里が妖鬼に向けて一直線に走り出す。鳴神の魔術に強化された体は、瞬時に最高速に届く。風を裂きながら、槍を構えた。左腕を頭部の後ろへ、限度一杯まで背中を反らせ、さらに加速。
 それは一度限りの投げ槍だ。
 ゴウキも鎚を構えた。もはや『劫』を展開するだけの妖力は失せている。投げ槍ならば機会は一度。魔術を砕くことが可能な『轟』でもって、五百蔵の秘術を打倒するしか、生き残る術はない。
 菊里が跳躍した。出来るだけ地面を前に蹴って、少しでも加速するように。
「まだまだまだぁ!!!!」
 飛び跳ねた体の正面に、橙色の――加速器の呪文陣。体が引っ張られるように速度をあげる。五重の加速器を潜り抜け、鳴神さえ追いつけぬ域で、彼女は体中のバネをありったけ引き延ばした。全身に魔力が巡る。狙いを絞る。一瞬で数百メートルを駆け抜けた菊里から、ゴウキの巨躯はよく視えた。
 滞空の間にも再度加速器を編み込み展開する。
 そして解き放つ、左手の屠竜槍。
「いぃぃぃぃっっっけええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええええ!!!!!!!!!!!!」
 渾身の力で投擲された槍が、橙色に輝く幾重の呪文陣に吸い込まれていく。
 妖鬼をもってして視認を許さぬ投擲。見えたのは、蒼の光輝を湛える槍と、それを構える少女が、彼に向かって跳躍した所まで。
 花のように広がる槍と加速器の呪文陣が、場違いなほどに美しかった。
 その光景を見るずっと前に『轟』の妖術は始動していた。
 それでもあまりに遅すぎた。鎚が槍の軌道を塞ぐより遙か早く、不可視の槍撃がゴウキの上体を貫いた。胸を中心に大穴が空き、続いて上半身が蒸発する。残された下半身と腕が凍りついたまま地に崩れ落ちた。
 菊里からゴウキを結ぶ一直線上、その上に立ち並ぶ遮蔽物を全て貫き通し、織田原の沖合の海に突き刺さった槍は、海水を根こそぎ氷塊へと変え、やがて呪文陣の消散とともに消えていった。
 織田原会戦の終結だった。
 菊里が着地する。ずざざざざ、と激しい摩擦が靴底を襲い、十数メートルを滑ってようやく止まった。
「はぁ……はぁ……」
 息を整える。強化した靴はなんとか靴底が抜けずに済んだが、摩擦熱で足裏が熱かったので脱ぎ捨てた。
「……これで……鬼一つ……!」

 殆どの魔力を使い果たし、菊里は体を車線に投げ出した。
 四車線もある国道の上で無防備に仰向けに寝そべるなど、こんな状況でなければ考えられない。
 ゴウキの妖気が消えたからか、織田原の霧はその密度を落としていた。
 もうすぐ夜が明けようとしている。
 早く家に帰りたい。
 そう思ったとき、ざっとアスファルトを踏む音が聞こえた。
「菊里」
 優しく彼女の名を呼ぶ声がする。
 菊里は体を起こし、声の主を探した。
 見つけた途端、言葉を失った。
 彼女は、鳴神晶は全身の衣服を血に濡らしていた。
 白いカッターシャツも深い紺のジーンズも、どす黒い赤に覆われている。
 ただ、衣服も肌にも、大きな傷は一つとしてない。
 全て返り血のようだった。
 ゴウキの咆哮と共に現れた千の妖魔を切り捨てた。
 刀代わりに持ってきたビニール傘はどこかで使い物にならなくなってしまったんだろう。今は手にしていない。ただ両腕の衣服には殴打の際にこびり付いたような、妖魔の小さな肉片がこびり付いている。脚も膝から下は色が一段と濃くなっている。
 決して狭くはない織田原の地で、がむしゃらに妖魔を屠殺した。何も語らずとも、一目で菊里には理解できた。
 傷こそないが、晶の表情は幾分疲れてみえた。
「よくやったね」
 晶が力なく笑ってみせる。先輩としての気遣いだろう。無理をしているのがいやでもわかる。それでも少し菊里は心が穏やかになった。
「いえ。結局予定よりもずっと手こずりましたし。……それと父が……」
「……そうか」
 晶は目を伏せ、しばらく押し黙った。
 菊里が所在なさ気にしていると、晶はすっと彼女に手を伸ばした。
「ひとまず、帰ろう、ね?」
「あ……はい」
 まだ帰るべき場所があるんだと、唐突に当たり前のことを思い出した。
 霧が薄れた明け方、東の空に熱が帯びようとしている。
 菊里は帰るべき場所に向けて、その手をとった。


【残り――








































――「『圏』」

 菊里が晶の手を取ったその瞬間。

 耳を疑う暇さえなく。
 その理不尽は舞い降りた。

 空気が重くまとわりつく。
 体は水の中のように不自由だ。
 異様な感覚。わけのわからないまま、菊里と晶は車線の中央に一人の妖魔を見た。
 顔は包帯で覆い、上品な藍の着物を着た男の妖魔。体高は2mを少し下回るほど、決して筋骨たくましい体付きではないが、その分無駄が一切なく引き締まって見える。腰帯に留められた一振りの刀にそっと手を掛ける。着物から覗く腕の肌は随分嗄(しゃが)れていた。
 、、、、、
 嗄れていた。老いている。その瞬間、二人の少女の頭は冷水を浴びせられたように本来の思考を取り戻した。
「菊里!! 逃げろ!!! 早く!!」
 晶から前触れなく怒声が飛んだ。
 一瞬菊里が硬直する。
 妖魔がひたりと一歩を踏み出す。
「早く行け!! お前の他に誰が助けを呼びに行くんだよ!!!」
 突き飛ばされ、ようやく菊里は走り出した。
 鳴神の魔術で強化した体でさえ、その空間の中では動きが鈍く感じた。
 鈍くなった体を引きずっているような感覚。得体の知れない錯覚を振り払うように菊里は駆け抜けていく。
 後ろを振り返ることは出来なかった。
 振り返ったら脚をとめてしまう気がした。
 妖魔の手から伸びる刀、貫かれる晶の体。心の蔵を一突きにされ、目を見開き、口は言葉を漏らすことなく痙攣し、やがて鮮やかな血を零す。そんな光景がすぐ後ろに在るような気がした。
 背中に感じるのはそれほどの重圧。
 不思議はない。不自然さもない。
 姿を見たのは初めてだけれど、すぐにあの包帯頭が“それ”だと分かった。
 神奈河にあれほど老いている妖魔など一人しかないから。
 妖魔式者にその名を知らぬ者などいない。
 江ノ嶋の盲目鬼、あるいは神奈河の大妖鬼、ケンキ。
 東洋の誇る最高の巫術者、鶴陵の巫女と三百年に渡り闘争を続ける鬼がそこにいた。
 立ち向かうは一晩戦い抜いた鳴神の娘。武器もなく、巫女の巫術によりその力には制約がかけられている。
 菊里にできることは一刻も早く助けを呼びに行くことだけだった。


 体が重い。
 空気が淀んでいる。
 息が苦しい。
 手足が動かなくなりそうだ。
 それでも菊里は走らねばならなかった。
 もうほとんど残っていない魔力を身体強化に全て回し、出来る限り強く地を蹴る。
 どこまで戻れば良い? どこまで行けば連絡がつく? 誰に言えば良い?
 そんな疑問が頭を掠めて消えていく。
 誰でも良い、どこでも良い、とにかく早く! その言葉で途切れそうになる意識に鞭を打ち、菊里はひたすらに駆けた。
 そして『圏』の妖術を抜け出したその時、彼女の視界に複数の人影が入り込んだ。
 助けを求めようと見開いた瞳に、下卑た笑みが映った。
 着物持ち。俗にそう呼ばれる中級の妖魔達。彼らが菊里を取り囲んでいた。
 待ち伏せされていた。この妖術の外側で、魔力が消えかけたこの状況下で。
「ひゃっはーはっはっはあ!!! 子猫ちゃん一匹ご案内だァ!!」
 妖魔の一匹が雄叫びを上げた。菊里を囲むように円筒形の結界が出来上がる。同時に蓋をするように頭上から巨大な蜘蛛の巣が降ってくる。半径はおよそ二十メートル程、その糸の太さは十センチほどもある。一度粘着されてしまえば動きを著しく制限されることは容易に想像できた。
「大人しくしろよ? いやというほど可愛がってやるから」
 ドスを利かせた声の主を、菊里は凍てつく瞳で睨みつけた。怯みかけた妖魔は、しかし余裕の笑みを崩さない。
「へ、へへへ……そうやって強がってくれる方がヤリがいが」
「……ぜろ」
「あん? 何言っ」
 妖魔の言葉はそこで途切れた。
 首から上が凍結していた。
 表情は薄ら笑いを浮かべたまま、何をされたのかさえ認識できぬまま絶命していた。
 妖魔達はそこで初めて気付いた。魔女の切れ長の瞳に爛々と燃える、その憤怒に。そして彼らは思い出す。彼らの目の前に立つその人間が、たった一人で妖鬼を屠殺したことを。
 残る妖魔は六人、皆が一様に顔色が変わった。
 ようやく彼らは一方的に有利な状況などではないことを認識した。
 舞い降りる巨大な蜘蛛の巣を凍結し、脆くなったそれを魔女が鬱陶しそうに拳で砕いた。
「どけよ」
 妖術の壁を張る妖魔に向けて、菊里は静かにいった。ゆっくりその妖魔に近づきながら、顔を凝視する。
「私は急いでるんだ」
「黙れよ、お前はもう袋の鼠だろうが」
 言い終わる前に、なぎ払うように振るわれた菊里の拳が障壁に叩きつけられた。粉々に砕け散る障壁の向こうで、妖魔は呆然と目を見開いていた。
「ひっ――!」
 悲鳴は刹那。
 目にも止まらぬ速さの回し蹴りが、妖魔の首から上と胴を分断していた。
 吹き飛んだ頭がごろごろと道端に転がる。
「なぁ」
 菊里は残りの妖魔を見渡して問うように話しかける。
「大切な人を待たせてるんだ。邪魔をするなら全員殺すぞ」
 菊里の纏う魔力が微かに青く現れて揺らぐ。本来ならば感情を高ぶらせた彼女が纏う魔力はこれほど希薄ではない。それはもう魔力がほとんど枯渇しかけている証に他ならない。
 それでもなお残された妖魔達は一歩を踏み出すことを躊躇った。それほどに彼女の怒りの気迫は尋常でなかった。一歩間合いを読み違えればそのまま死に直行しかねない、そんな幻想を抱かせるほどに。
 そして結果的にはその膠着状態が良くなかった。
 極度の緊張感の中、立っているだけ減っていく魔力。
 必然的に耐えきれずに先に動き出したのは菊里だ。
 凍結の魔術で全員の妖魔を一気に狙い打った。それが開始の合図。マヌケな一人を除いて四人に避けられる。かまわずにがむしゃらに走り込んだ。飛び込むなり膝蹴りを喰らわせ、くの字に体を折った妖魔、その頭部を拳で打ち抜き脳漿を飛び散らせる。一人の妖魔がはき出す蜘蛛の糸が左手に巻き付き、もう一匹から右脚を妖術で固定される。不自由になる体になど構ってはいられない。腕を振るって蜘蛛の糸ごと妖魔を引きよせ、左のかかと落としで頭蓋を砕いた。蜘蛛の糸が左脚に絡みつき、菊里の自由を徐々に奪っていく。残りはあと二人。しかしもう、脚も左腕も使いものにならない。菊里が一匹に目を留めた瞬間、背後に妖魔の気配。振り返り際、その妖魔の殴打が菊里の腹に突き刺さった。
「――ぁ、がっ……ぅぐ……!」
 一撃を入れ、妖魔は素早く菊里の元から離れた。
「く……そ……」
 咄嗟に逃げた妖魔を気配を追う。そのほんの一瞬、気が逸れた。もう一匹の妖魔が右手に拘束の妖術をかける。
「くっ……!」
 完全に四肢の自由を奪われた。もう抵抗できることはほとんど無い。
 加えて何時の間にか妖魔に召喚された蟲が催眠の毒霧を吹き出している。
「こんな……くそ……晶先輩に、まだ……」
 意識が遠のいていく。呼吸をいつまでも止めているわけにもいかない。吸い込んだ毒霧が、確実に菊里から抵抗の力を削いでいく。次第に歯を噛みしめる力も弱くなった。
「まだ……」
 言葉が途切れる。満身創痍の状態から五人の妖魔を惨殺し、ほぼ全ての魔力と体力と使い果たし、五百蔵菊里はようやく崩れ落ちた。


 妖魔が優勢であった唯一の地域、織田原。そこを統べるゴウキは五百蔵の魔女によって征伐された。妖魔から解放されたかと思われた織田原は、しかし直後に出現した神奈河の大妖鬼ケンキの手に落ちる。加えて式者は五百蔵の魔女と鶴陵付きの娘という大きな戦力を同時に失うことになった。
 今、織田原には僅かばかりの式者もおらず、妖魔の跳梁跋扈する無法地帯と化している。
 対照的に釜倉に妖魔の影はなく、鶴陵の巫女は結界の内にひっそりと潜んでいる。
 横濱では織田原の知らせを受けたホウキの一軍が蠢き始めているという。
 妖魔は鬼の一柱を亡くし、巫女はその懐刀を失った。もう十分、後戻りなど出来ない段階に到達している。
 状況は刻々と終幕に向かいつつあった。


【残り19日】
25, 24

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