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潔癖症の街(後編)

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 質問の形をとった命令。姉のMに対する提案はいつもこのようにMに拒否する余地を与えないものだった。それでもMは今日も、ごく当たり前のように出かける仕度を始める。
(ここから新宿までは電車で約三十分だから、少しだけ化粧を整えてから出かけようかな)
そんなMの対応は、まるで操り人形のような従順さを伴ったものだった。
 
 Mの姉は幼い頃から、何をやらせても持ち前の器用さで人並み以上にこなすことのできる子供だった。小さい頃から弾いていたピアノはかなりの腕前で、運動神経もよく、人望も厚かった。さらに、Mが私立の無名な大学に進学するのがやっとだったのに対し、姉は一流大学卒業という経歴を持っている。そんなよくできた人だったからこそ姉は、一番身近にいる存在であるMにとって、いつしか絶対的な存在に思えるようになっていたのだった。
 
 Mは手短に仕度を済ませ、家を出る。日の落ちた街は、昼間よりさらに一層冷え込んでいた。防寒対策にマフラーと手袋をつけてきたのは正解だったかも知れない、とMは思う。そのおかげで首元と手先は先程と違い、時折吹く冷たい風に脅かされることはない。しかしそれとは対照的に、むき出しにされた太ももからは、風が吹くたびに容赦なく体温が奪われていくのだった。
 
 七時二十五分ごろMが新宿駅改札に到着すると、姉は既にそこで待っていた。Mは姉が待ち合わせに遅れるのを見たことがない。178センチという女性にしてはかなり大柄な姉は、人ごみから頭半分飛び出してぼんやり遠くを見つめている。
「お姉ちゃん、ひさしぶりー」
Mは、近づいていっても全く気がつかない姉に、見上げながら声を掛けた。
「あ、M、ごめん。全然気がつかなかった。」
姉ははっとした様子で我に返り、苦笑いをする。約一年ぶりに会った姉は、少し見ない間にひどく老け込んだようにMには感じられた。
 
 特に何を食べるか決めていなかった二人は、繁華街を歩き回りながら食べる物を決めることにした。Mは姉の背中を追って、途切れることのない人ごみの中を歩いていく。姉が前を歩いて人ごみを掻き分けてくれるので、Mは余裕を持って姉の後についていくことができた。
 そんな中Mは、いくつもの無表情な顔がすれ違っていくのを視界の端に捉え、まるでお祭りの時のようにこれだけ多くの人が集まっているのに、誰の顔も少しも楽しくなさそうなのを不思議に思っていた。そのうちにMはふと、自分もまた無表情にこの街の雑踏を歩く人々の一人なのだということに気づき、思わず苦笑するのだった。
 
 そうこうしているうちに姉は、大通りに面してひときわ目立つ看板を出していたお好み焼き屋を見つけ、すぐにMのほうを振り返り、「お好み焼き、食べたくない?」と、いつもどおりの拒否権のない質問をMにぶつける。そしてもちろん、Mが反対する事などありえなかった。ビルの五階にあるその店に入ると二人は、くたびれた畳の上に鉄板のついた古びた机の並んでいる、だだっ広い宴会場のような部屋に通された。コートを脱ぎながら姉は、懐かしそうにその部屋を見渡し始めた。
「なんだかこんな安っぽい雰囲気のところに来ると、大学時代を思い出すなぁ。サークルの飲み会とかいつもこんな感じのとこばっかだったもん。」
茶化したように言っていたが、Mは店を見渡す姉の目の中に確かに、過ぎ去った日々を寂しく思う色が隠しようもなく溶け込んでいるのを感じていた。
 
 Mの姉は大学を卒業後、地元に戻って就職した。もちろん本人は東京で働き続けることを望んでいたのだが、一流大学卒であっても、就職氷河期真っ盛りの時期ではなかなか思うようには行かなかったようだ。結局、姉は地元では最有力と言われている企業に就職して、東京を離れたのだった。
 
 注文を済ませ、二人は先に持ってこられたサワーを飲みながら話に華を咲かせた。姉は実家で起こった様々な事件を面白おかしく語り、Mは姉に聞かれて答える形で自身の大学生活について話していった。
そんな他愛もない話がまだまだ尽きない中、お好み焼きが持ってこられ、姉は生地をかき混ぜて鉄板の上にきれいに円形に広げる。
 二人はお好み焼きのやけ具合を気にしながら話を再開し、話題はお互いの現在の生活から、思い出話へと移っていった。昔話が得意なのは妹のMの方だった。姉が完全に忘れていたような話をいくつも語り、Mは姉を驚かせた。そうして二人で昔を懐かしんでいると、やがてお好み焼きの片面が焼きあがる。
 姉はさっそくコテをとってひっくかえそうと試みるのだが、どうも手付きが危なっかしい。姉は何度試してみても、結局それを持ち上げるだけに終わり、上手にひっくり返すことができないでいた。Mは心配になって、私がやろうか、と言ってみた。すると意外にも、姉はあっさりコテをMに渡したのだった。Mは危なげなくお好み焼きをひっくり返し、少し不思議に思いながら姉に言った。
「昔から何やってもお姉ちゃんの方が器用だったのに、なんだか不思議な気がするよ」
「そうだったかなー」姉は少し恥ずかしそうに言う。
「そうだよ。お姉ちゃんはなんでも上手にできて、いっつも楽しそうだった。でも、どれも私が自分でやってみると全然上手にできなくて、ちっとも面白くなかった。ピアノだってそうだったし、縄跳びだって毬つきだって、お姉ちゃんがやってるとほんとになんでも楽しそうに見えたんだよ」
「そうだねー。確かに小さい頃は何しても上手にできたし、楽しかった気がする。でも、そんな気持ちがなくなったのはいつごろからだったかなー。‥‥もう、今では全然そんな気しないよ」
姉は少しだけ寂しそうな顔をして笑い、それからしばらくの沈黙が訪れた。
 やがてお好み焼きは出来上がり、Mはそれを几帳面に八等分してお互いの皿に取り分ける。それからもしばらく沈黙が続いた後、姉はようやく口を開いた。
「‥‥、あの、さ。実は今日東京に来た理由ってさ、転職の為の就職面接だったんだ」
 それから姉は、地元の職場での話を少しずつ話し始めた。毎日の残業がつらいこと、いやな上司がいること、職場の空気に馴染めないこと、そしてなにより、仕事にやりがいを見出せないこと。いつもの姉とは似ても似つかない弱気な調子で姉は喋り続けた。
 それはMが姉から聞いた初めての弱音だった。Mにとって、今まで心のどこかで完璧な人間であると思い込んでいた人が見せた、大きな大きなほころびだった。Mは戸惑いながらもそんな姉の話を真剣に聞き、役に立つかも分からない助言と、精一杯の励ましの言葉をいくつも姉に伝えた。
 二人がお好み焼きを食べ終わる頃には姉の話もひと段落し、二人は、姉の帰りの電車の時間に間に合うように店を出た。Mは再び姉の背中を追いながら駅へ向かって人ごみの中を歩いていく。またしても無表情な人影がMの左右をいくつも通り過ぎていった。しかし、Mの心には二時間前とは違う感情が湧いてくるのだった。
(今すれ違ったどの人もみんな、それぞれの問題を抱えて途方にくれながら、それでも必死に生きてるのかも。それでみんな、それを誰かに聞いてもらいたくて、でもそれができなくて、こんな顔をしてこの街を歩いてるのかな。だとしたら、この街は寂しがりやたちが集まってこんなに大きくなったのかもしれない。それってなんだか少し、おもしろい)
そんなことを考えながら歩いていると、いつの間にか二人は駅の改札に着いていた。姉はあっさりと別れの挨拶をして、さっさと改札をくぐって行ってしまった。けれどもMがその場所からずっと姉を見送っていると、姉はMから見えなくなる直前に一度だけこちらを振り返り、手を振った。「ありがとう」Mは姉がそんなことを言っている気がした。
「こちらこそありがとう」Mは心の中で姉に感謝の言葉を伝えて、大きく手を振りかえした。

その日の帰り、Mは駅の花屋で売っていた小さな鉢植えを買って帰った。
花の賑やかな明るい色彩はきっと、Mの部屋を寒々しい白の支配から解放してくれるだろう。
少し酔って血の巡りが良くなったのか、Mはもう足の寒さも気にならなかった。
ほろ酔い気分で軽やかなリズムを刻み、星の見えない東京の夜空を見上げながら、
Mは家路を急ぐ。
4

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