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神の試練に悪魔の所業

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 目の前で教授が何かを力説している。講義が始まって三十分、マイクを使っていないにもかかわらず、凄まじい声量である。女は五分前からその言葉を右耳から左耳に垂れ流していた。
 女は俯いている。眼前には書きかけのノートが広がっている。自分が書いた文字ですら、解読不能の記号にしか見えなかった。
 考える。何故私なのだ。私が何をしたと言うのか。昨日はいつも通り友人と他愛の無い会話をし、帰宅してからはレポートから逃げる為に部屋の片づけをしただけじゃないか。情けは無いのか。
 それが女にとっての日常であった。充実しているわけでもないが、枯れているわけでもない。現状に満足はしていないが、不満もなかった。
 額に脂汗が浮かぶ。教授が何かを板書している光景が視界に入るが、理解不能な記号が羅列しているようにしか見えなかった。隣に座っている友人は熱心にその記号をノートに写している。
 再び女は考える。何故私なのだ。神は私に何を試そうと言うのか。何故このタイミングで私を選んだ。いや、これは神ではなくて悪魔ではないのか。悪魔が私を陥れようとしている。何でもいい。神様私を助けてくれ
 考えれば考えるほど、意識が遠のいていく感じがした。だがそれは、女にとって好都合であった。このまま意識が亡くなり、睡眠状態に移行すれば、この苦痛から逃避できるからだ。
 書きかけのノートは変わらず目の前にある。ふと、痛みが無くなっていくのを感じる。腹を抑え、波が去っていくことに安心しながら、女の視界は暗転していった。教授はなお、熱弁を続けていたが、女の耳に入ることはなかった。
 教授が黒板消しを黒板に押し当てた時、女の意識が戻った。
 取り敢えず時間の確認をしようと時計を見ると、眠る前より二十分程経っていることを確認した。講義の時間はまだ半分ほどある。波が来ていないことが幸いだった。
 隣を見ると、友人が腕を枕にして眠っていた。背中が膨らんだり縮んだりしている姿は、熟睡していることが確認できた。人のことは言えないが、よくぞあんなに騒がしい教授の前で眠れるものだと感心する。
 教授は相変わらずの声量で、銀の指し棒を持ちながら現代の社会情勢を熱弁していた。時折指し棒を、鞭のようにしならせながら教卓に打つ姿は、サーカスの調教師を彷彿とさせた。
 「ちょっとごめんね。」
 女は小さな声で友人のノートを腕の下から引きずり出し、自分のノートと見比べると、「ここまで」と書いて印を付けた。友人はしばらく蠢いていたが、また一定の周期で背中が膨らみ、縮んでいった。女は黒板を見て、印をつけたところから写していく。
 板書を写す作業が終盤に差し掛かった頃、体の異変に気付く。それは予想できた異変であった。予想はできるが、決して回避することはできない。神の試練であると同時に、悪魔の所業とも取れるそれは、あまりに無情であった。
 再び教員の言葉が理解不能になり、黒板の文字が難解な記号と化す。
 考える。何故私なのだ。時間を止めてくれ。それか時間を戻してくれ。今だけで良い。一生のお願いだ。頼むから。頼むから。
 誰に頼んでいるかは自分ですら分からない。ただ懇願する。ありもしない救いの手に腕を伸ばす。それだけだった。
 時計を見る。起きてから二〇分程度経過していた。
 あと少し耐えれば問題ないと、自分に言い聞かせるが、波は収まることはなく、荒れ狂っていた。
 女はもう一度眠ることにした。眠れば何も感じずに時間が経つ。確実な勝利を手にすることができる。自分のノートを見ながら目をつむった。次第に意識が遠のいていくのが分かる。
 勝った。ありがとう。そしてさようなら。二度と会いたくは無いでしょう。
 教授の熱弁が遠のいていくことを感じ、女は勝利を確信した。
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 「これが日本の現状なんですよ!」
 一語一語、強調して叫ぶ。勢いよく教卓に叩きつけられた銀の指し棒は、回転しながら宙に舞う。指し棒は床に落ちると、ゆっくりと回転し、やがて止まった。折れたのだ。
 教授は慌てて生徒に謝りながら、折れた指し棒を拾う。
 生徒は一瞬静まったが、現状を理解すると笑う者も出てきた。教授はペコペコと謝り、講義を続けた。先程より声量も抑えられている。
 女は絶望した。自分の今置かれている絶望的状況を理解したくなかった。完全に眠気は覚めてしまった。友人も同様だが、身体状態まで同様とは言えない。
 思わず唸り声を上げる。友人が怪訝な顔で見て声を掛けようと口を開くが、すぐに女の状態を察知し、声をかけるのを止めた。女は心の中で感謝する。
 時計は残り五分を指していた。ここからは自分との勝負である。眠ることはもうできない。周りも先ほど教授が起こした暴挙によるものと、もうすぐ講義が終わることでざわついており、極限まで集中しなければ大惨事が起こる状況だった。
 考える。あと少し。あと少し耐えてくれ。これだけ耐えれば後はどんな苦痛でも構わない。トイレに行くまでだ。だから今だけ、この講義だけ耐えてくれ。何としても、何としても。頼む。今だけだから。これが終わればいいだけだから。今この時だけでいい。
 「はい、それでは本日の講義を終了します。」
 救いの言葉がはっきりと聞こえた。現状で理解できる数少ない言語だった。周りは昼食はどうするか、次の講義が面倒だと話している。当然現状の女では理解できない言語であった。
 筆記用具を片付けず、静かに立ち上がる。出口に向かう瞬間、端目に友人が手を振っているのが見えた。うっすら笑みを浮かべ、ドアに手を掛け、勢いよく開ける。トイレまでは3メートル程度である。一歩一歩を慎重に歩く。早く、それでいて音のない足取りだった。
 この瞬間をどれほど待ち詫びただろうか。とにもかくにも後少しだ。発射準備をしておくとしよう。
 トイレのドアを開け、個室を確認する。四つある個室のドアノブの下は、赤一色だった。
 女は瞬き、考えた。人生とは、何なのだろうか。

                                     完
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