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童話・鉄のハンスより~ネット作家Yの苦悩/白い犬

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 とある国の王城の庭園に巨大な鉄の檻があり、そこに押し込められていたのは巨人を思わせる荒々しい山男であった。森で人々を困らせていた彼は王命により捕らえられたのである。
「何人もこの檻の錠を開けてはならぬ」と国王はお触れを出し、檻の鍵はおきさきの寝室の枕の下に隠された。
 ある日、王子が金の鞠を蹴って遊んでいると、鞠は山男の檻の中に転がり込んでしまった。王子が「鞠を返してくれ」と言うと、山男は「この戸を開ければ返してやる」と言葉巧みに王子をそそのかし、とうとう脱獄してしまった。
 山男は鞠を王子に返して礼を言うと、そそくさと逃げようとする。王子は父王の言葉を思い出して急に怖くなった。「この戸を開けてはいけないとお父上に言われていたんだ。あんたは逃げちゃだめだ」山男は王子をひょいと担ぎ上げると一緒に連れて去ってしまう。

 王子はそれから奇妙な山男と一緒に森の奥で暮らすことになった。「お前の悲しい気持ちはよく分かる。だからおれはお前を幸せにしてやろうと思っている。これからはおれの言うことをよく聞いて、決して約束を破らないと約束してくれ」
 山男は黄金など様々な財宝を持っていた。彼は王子に随分と良く接した。王子は山男から金の泉の役目を与えられて、そこでは泉に何かが落ちて汚れないように、朝から晩まで見張り続けなければならなかった。
 しかし、王子は泉で三度へまをした。一度目は自分の指を泉につけて、指先は金色になってしまった。二度目は自分の髪の毛を一本落としてしまい、すくい上げたときにはもう遅かった。三度目は透き通った泉に顔をのぞき込んでいるとき、前髪が垂れて泉に触れて、すっかり総金髪になってしまった。とうとう山男は怒って、王子を森から追い出すことに決めた。
「だが、おまえはちっとも悪い心ではないし、わしももともとおまえを大好きだから、おまえにたった一つだけさせてあげようと思う。いいかね、もしおまえがどうにもこうにもならなくなったら、森へ行って、『鉄のハンス!』と呼ぶがいい。そしたら、わしが出て行って助けてやる。わしの力は大きいんだ。それと、金や銀ならありあまるほど持っているぞ」

 すっかり変わり果てた頭髪に布を巻いて隠し、王子は歩き出した。放り出されたっきり、自分のもと居た国へ続く帰り道すらわからない。道のあるところないところを果てしなく歩いた王子は、そもそも暮らしを立てる技術を何も持っていなかった。途方に暮れて、そこがどこかも分からないような国のお城にたどり着き、どうにかここに置いてもらえないか頼み込んだ。
 王子は調理番の下働きとして働くこととなったが、王様の前でも頭に巻いた布をとらなかったので、王様を怒らせてしまい、すぐに厨房にいられなくなってしまう。王子は自分の奇妙な色の髪の毛をどうしても好きになれなかった。
 世話好きな調理番のおかげで王子は城を追い出されることもなく、今度は園丁のもとで働くことになった。庭園の力仕事は世間知らずの王子にはとても辛いものだったが、王子は一生懸命働いた。
 一度、暑くてどうしようもない日に、王子が帽子を脱いで涼んでいたことがあって、黄金の頭髪をその城の王女に見つかってしまう。王女はふたりだけの秘密を見つけたことを楽しく笑うだけで、そのときはどうということもなかったので、王子はほっとした。王女が事ある毎に遣わす金貨の価値を考えない王子は、園丁の子供に与えて、おもちゃにして遊ぶように言ったりした。

 王子が園丁の小僧として働いていると、そのうち国じゅうが戦場となり、国王は勢力の上回る敵に対してどう対応したものか、すっかり困っていた。これを見て王子は国王に言った。「わたしはこんなに大きくなりました。いっしょに戦争に行かせてください。わたしにどうぞ馬を一頭ください」家来たちは笑って、王子をひとしきり馬鹿にしたあと、自分たちの出た後に馬が一頭残っているからそれをくれてやる、と王子に告げた。王子にあてがわれたのはびっこを引く駄馬であった。
 王子は駄馬に揺られて例の森へ赴いた。その外れで馬を下りると、森じゅうに響き渡る声で三度「鉄のハンス」を呼んだ。鉄のハンスは現れてすぐに、
「何の用だ」と訊ねた。
「強い千里の馬がほしい。戦争に行くからだ」
「よし、やるとも。それから、おまえがくれと言わないものもくれてやろう」
 鉄のハンスが森へ引き返してしばらくすると、やがて一匹のすばらしい馬が馬丁に率いられて現れた。そしてその後ろには、立派な鉄の鎧で身を固めた兵隊が、ざくざくと足音を立てながらついてくる。彼らは一様に逞しく、腰に佩いた刀剣は日の光を反射してきらきらと輝いていた。王子は乗ってきた馬を馬丁に預けると、鼻息も荒く勇猛な馬に跨がり、兵団の先頭に立って、戦場に急いだ。
 戦場で友軍はことごとく戦死して、戦況に窮した国王は退却を迫られていた。そこへ王子が鉄鎧の兵団とともに駆けつけ、まっすぐ敵陣に飛び込むと嵐のように敵兵をなぎ払った。逆らう者を片っ端から打ちのめし、逃げようとする者を蹂躙し、とうとうひとり残らず皆殺しにやっつけてしまう。
 凱旋の帰途に王子は兵団とともに脇道に逸れ、姿を暗ました。例の森へ戻ると、「鉄のハンス」を呼んだ。鉄のハンスはすぐに現れた。
「何の用だ」
「この馬と軍隊を受け取って、ぼくに三本足の馬を返しておくれ」
 王子は自分の記憶だけに自分の功績を刻みつけた。王国と城を自分が守った気がしていた。ちんばの背に揺られて城に帰り着くと、生き残った家来たちから「びっこのお帰りだ、今までどこの垣根の陰に寝転んでいたんだ」とからかわれた。本当のことを言っても、誰も相手にしないものだから、王子は少し不機嫌になった。

 一方、王は自分の国を救った騎士に全く見覚えがなかった。そして、宴会を開いて酒盛りをしたら、彼の騎士も現れるかもしれないと思い立ち、姫君にそこで金のリンゴを放るようにと言いつけた。
「ことによると、あのわけのわからん人が、現れないとも限らんからな」
 酒盛りのお触れがあって驚いたのは、再び城で園丁の小僧として働いている王子であった。これでは自分だけにわかる栄誉を、縁もゆかりもないどこぞの馬の骨にかすめ取られてしまうかもしれない。王子は自分が名声を浴びたいわけではなかったが、それだけは阻止してやらねば気が済まなかった。
 王子は森へ行き、「鉄のハンス」を呼び出す。
「何の用だ」
「王女の金のリンゴを、ぼくがとらなきゃならない」
「そのリンゴなら、おまえがもう手に入れたも同じさ。そのために赤いよろいかぶとをやろう。そして、立派な栗毛の馬に乗せてやるぞ」
 栗毛の馬に乗った王子は悠として城へ上がり、騎士の間に集った並み居る男たちを尻目に、王女の投げた金のリンゴを吸い寄せるように手中に収めると、飛ぶようにして会場から去ってしまった。王子はリンゴが手に入ってしまえば、宴会酒盛などには用がなかったのだ。
 宴会は三日続けると決められていた。二日目に、鉄のハンスは王子を真っ白い服を着た騎士に仕立て、白馬をあてがって城にやった。今度もリンゴをとったのは王子だけで、そしてリンゴをつかむとどこかへ行ってしまった。
 二日目の酒盛りの後に王はかんかんに怒って言った。
「けしからん。なんとしても、わしの前へ出て名乗らせずにおくものか」
 王は、三日目のリンゴを掴んだ騎士が、今度もまたじっとしていなかったとき、その後を追わせて、斬りかかってでも捕らえるように命令した家来を傍らに控えさせた。
 三日目に、王子は鉄のハンスから、漆黒のよろいかぶとと、同じく漆黒の毛色をした馬をもらい、そして、今度も金のリンゴを手に入れた。そして、一目散に逃げだそうとした。
 後には王命を受けた刺客が追いすがってくる。彼らは優れた斥候であり、黒馬に乗って逃げる王子の後をしつこく追い回した。とうとう王子は足に傷を負い、驚いた馬が棹立ちになった拍子にかぶとが脱げ落ちて、辛くも逃げおおせたものの、件の騎士の髪はそれは見事な黄金色をしていることがみんなに知れ渡ってしまった。斥候たちはこの事実を詳しく王に話した。

 ところで王女は、暇を持て余したときなど、憂鬱に出窓にもたれかかることが多かった。そして、国を救った騎士の黄金色の髪は、どこかで見覚えがあるような気がしていた。彼女が出窓からたびたび見下ろす、城の庭園で働いている小僧を思い出すまでに、それほどの時間はかからなかった。
 王女は庭に下り、園丁を呼び出した。あの小僧はどうしている。
「お庭で働いております。困ったやつで、よく出歩くし、昨日はお城のお祝いにも顔を出したとか言って、その証拠だと金でできたリンゴを、三つも取り出してみせたりするのです」
 園丁の小僧はその日のうちに王に呼び出されることとなった。
 王の前でも、小僧はいつか膳を持って行ったときと同じように、帽子を被っていた。
 王女は園丁の小僧の前に行くと、そっと帽子を取りさってあげた。すると、金色の髪の毛がその肩にさらさらと垂れ下がり、その美しさに家来は驚き、ことごとくが言葉を失った。

「毎日、服を替えて宴会に現れ、金のリンゴを三つともとって行った騎士はおぬしか」
「さようでございます。そのリンゴはここにございます。――他に、証拠を見せろと言われるなら、三日目に斬りつけられた傷もお見せすることもできます。全部白状すると、あの戦争で王様に味方をして勝たせてあげたのも、このわたしです」
「そなたにそれほどの腕前があるなら、よもや生まれつき園丁の小僧などではあるまい。言ってごらん、そなたのお父上の名前を」
「私の父はさる国の王であります。わたしは黄金ならいくらでももっています。ほしいだけいくらでもあるのです」
「それはわしにもよくわかっておる。だが、わしはそなたにお礼をしなければならない。なにかわしの力でできることはないだろうか」
「それは、――もちろん、ありますとも」

 王女様をわたしの妻にいただきたいのです、と王子が返事をすると、王女はさも愉快だとばかりに笑って応えた。
「わけもないことですわ。わたくしはずっと前にこの方の黄金色の髪を見てから、この方がただの園丁の小僧ではないことは、いつも思っていました」
 そして、王子のもとへ行ってキスをした。
 王子とその国の王女の結婚式には、王子の父王とそのお妃の姿も見られた。ふたりはとっくの昔に王子と会うのを諦めていたため、その喜び方は筆舌に尽くしがたい。王子の義理の父となった王が手を尽くして王子の祖国を辿り、探し出し、招いたものだった。

 ……

 ……

 ……

『それからの王子は、――

 ――

 ネット作家Yは春の同人小説企画に向けてもともと無い知恵を散々な努力をして絞り出そうとしていた。
 もはや自分の妄想が向いている先は暗雲が立ちこめているようであり足音も立てず忍び寄る締め切りに戦々恐々としている。
「自分がいま何をしているのかはその自分こそが一番よくわかっていない」
 彼は霊感に根拠づけられた持論をぶつぶつと呟きつつ公私に関わらない過剰な期待に板挟みの苦しみを味あわされ自暴自棄になりかけていた。
「おれはこんなことをやっている場合でないのではないか」
 ムクムクと鬱血する浮き足だった使命感が彼のガラスの心臓をトンカチでひたすらノックし続ける。コンコン、コンコン。
「もう、こうなったならば、致し方なし」
 彼はそれまでの生涯でひとつだけ熟練したとある職人業を遺憾なく発揮することに専念しようと決めた。
「おれは生来細かいことは気にしないたちである。さらに、それがデカイのか細かいのかさえ、全ておれ自身が決めることだ」
 傍若無人とは彼のことをいう。
「さて、……」
 再び彼の部屋からキーボードを叩く音が聞こえだす。

 ――

 ――それからの王子は、美しいお后とともに生涯幸せに暮らしたのだろうとは疑いようがない。問題はしかし、王子と姫君の結婚式に闖入した例のおじさんである。
 彼が結婚式に、差し詰め主役の王子に与えたであろう困惑と不信感は、振り込め電話詐欺の横行する現代社会に生きる我々にとって、いかに想像のたやすいことであるか、また、この優れた古典に唯一の疵として印象を残す一連の記述に、読者として少なからずの違和感を覚えることは、愛すべき空想物語に心の安息を求める同志たちの代表として、見逃すことのならぬ、声を高くすべきことに思えてならないのである。』

 ……

 ……

 みんなが婚礼のごちそうのテーブルに着いていると、急に音楽がぴたりと止み、次いで、あちこちの扉が一斉に開いた。
 そして、ひとりの姿の立派な王様が勢いよく、大勢の家来を連れて入ってきた。広間に高く響く靴音、足取りは確かで、いかにも只者でない雰囲気がある。その王様はまっすぐに王子のところへ行くと、王子を抱きしめる。そして言った。
「わしは、鉄のハンスだ。魔法使いに山男の姿にされていたのが、そなたが立派に救い出してくれた。わしの持っている宝物を、すっかりそなたのものにするがいいぞ」


○新章、鉄のハンス

一、
「ちょっと待ってくれよ」
 かさばる礼服が重たそうな王子は見も知らぬ上品なおじさんを押しのけました。
「そんなことを急に聞かされたって信じられるわけがないさ」
「ああ、ああ、それはすまなかった。あまり嬉しかったものだから、取り乱してしまったんだよ」
 結婚式に招かれた人々は、自分の目の前でなにが起こっているのか全く理解できないのでした。物々しい雰囲気に圧されて、皆が黙り込んでしまいました。それは王子の后となった姫君にも同じことで、王子はこの衆人環視の白けた雰囲気をどうやって取り繕うべきか困ってしまったのです。
 いや、取り繕う必要も無いような気がするけれど、そもそも目の前のおじさんが本当に鉄のハンスなのか、にわかには信じがたい気分がしました。
「ああ、――いや、そうじゃないのか。あんた、本当に鉄のハンスなのか」
 莞爾と笑い続けるおじさんは二人にしか知り得ない暗号を通していたのです。
 それは王子が山男を呼ぶときの声でした。「鉄のハンス」の名前を口にするだけで、この上品なおじさんがあの山男と同一人物であるという証拠になり得るではないか。
「わかってくれたか、おお、わしの恩人よ」
「ははは、わざわざおれの結婚式を祝いにきてくれたのか。ありがとう。ありがとう、鉄のハンス、今日はなんてすばらしい日だ!」
 そこで王子が杯を煽っても、どこか会場の反応はよそよそしく見えました。
「あのう、愛しい、愛しい我が旦那様」
 王子のすぐ隣で、豪奢なつくりの純白のドレスを纏ったあたらしいお后が、少しだけためらいがちな上目を遣わせました。
「そちらの気品あるお方を、私と、会場の皆様にも、紹介して頂けませんか」
 そうだそうだ、忘れていた。と高らかに笑うと、王子は一度咳払いをし、天上の神々にも聞こえたであろう透き通った声で、鉄のハンスのことをみんなに紹介しました。彼の名前のほか、こう続けました。
「おれは鉄のハンスに恨みがある、だがそれも過ぎた話だ。今ではそんなものとは比べものにならないくらいの恩を感じている。あの戦争に勝てたのもおれ個人の加勢のためではない。彼がおれのためを思って力を貸してくれたからだ。彼はおれの恩人であると同時に、この国を救った功労者のひとりでもある。彼の素性を疑うべきではない! 彼は全国民の恩人であるのを覚えておいてほしい。このめでたい日に彼の祝辞を聞くことができて、おれはとても嬉しく思っている。さあ、乾杯だ。明日のことなど気にせず、今夜は無礼講だ」
 会場はようやくあらすじを呑み込めたと見えて、次第に話し声もそこかしこで上がるようになっていきました。王子の号令で再び杯を掲げた式典参加者たちは、お酒の勢いも手伝って、「まあ、細かいことは後回しでもいいじゃないか」と気を取り直したようです。途絶えていた室内楽が流麗な演奏を再開し、給仕は鉄のハンスの家来たちにもお酒やごちそうを振る舞いました。
「今日はすばらしい日だ」
 王子は会場正面の豪勢な椅子に腰を下ろし、しみじみと呟きました。
「そう思わないか」
 とお后に言うと、お后はにっこりと笑って、
「ええ、もちろんそう思いますわ」
 と答えました。
 こうして、祝典の夜は更けていきました。
 しかし、王子はどうしても世間知らずなところがありましたから、その後に控えた不穏な出来事の数々を、その欠片すらも想像することなどできなかったのであります。


二、
 祝典の翌日、王子は酔いで揺れる頭を抱え起こすと、隣で安らかな寝息を数える、寝顔すらしあわせそうなお后を覚まさないよう、慎重にベッドから抜け出し、卓上の水差しを傾けると、コップ一杯の水をさっと煽りました。
 酔い覚めの水は、どろりと熱っぽい頭蓋骨の内側を、清らかに洗い流すようでした。ベランダへと続く、細長くて天井に届くほど高い両開きのガラス戸から、さんさんと朝日が差し込んできています。ベランダの手すりには小鳥がぴちぱち戯れていました。
 やがて、お后も目を覚まします。天蓋付きのベッドで、目も開かない生まれたての仔猫のように、丸まったお后の四肢は絹のシーツをたぐり寄せています。
「王子……?」
 お后は、隣で一緒に寝ていたはずの王子の姿がないことに気づくと、ベッドの上に起き上がり、その上品な指先で寝ぼけた眼を拭いました。薄布を一枚纏っただけの、寝乱れても美しい長い髪をしたお后はまるで無垢で、どうしたことかは分からないとして、天上からの使いがこの部屋に迷い込んだようにも見えました。
「王子……?」
「おはよう、私の美しい姫」
 王子はベッドに腰掛けると、お后の頭を自分の肩に優しく抱き寄せました。お后は王子に抱かれて、再び眠りの世界に戻ろうかとしてしまいました。

 そのうち、お后付きの侍女たちが、ぞろぞろと寝室へ入ってきて、台車付きのクロゼットなんかが運び込まれました。
 侍女たちは一様に無表情で、伏し目がちに俯いており、長く下々の生活に慣れていた王子としては、こういった人々がすっかり苦手になっていました。ノックくらいしてほしいもんだ、と王子は思いました。
 侍女たちの先頭に立って、ひとりだけ編み上げのいかにも頑丈そうなブーツを履いたリーダー格が、ツカツカと自信に溢れた足取りでふたりのもとに近寄ってきて、どこか冷ややかな目をして、ぶっきらぼうに言います。
「おはようございます、姫。お召し替えのお時間です」
 なんだか侍女長は不機嫌そうな表情に見えました。そして、そんな怒ったような顔で、王子を睨むようにずっと見ています。
 お后は、ムニャムニャと寝言を噛みながらも、言われるがままに立ち上がりました。王子といえば、なんだか毛色の違うのがいるなあ、などと思いながら、その冷たい視線に応じていましたが、やがて侍女長は言いました。

「皇太子殿下、いつまでそう、ぼうっとしているおつもりですか」
「え」
「殿下がいかに、姫と将来の契りを交わした間柄とはいえ、そのお召し替えを覗き見するのを許すほど、侍女長は甘くありませんよ」
「はあ」
「まだお日様も高く昇っているうちから、乙女の柔肌を目にしようなどと、破廉恥な」
「あのう」
「だからといって、向こうの連山にお月様が上れば良いというものでもないのです。婚儀は終わってしまいましたが、侍女長は殿下が姫にふさわしい殿方であると認めたわけではありません」
「うーん」
「そもそも姫の教育すら満足に終えていないというのに。相手が国を救った恩人とはいえ、王も一体なにを考えておられるやら。……殿下、聴いておられるのですか。これはあなたの話でもあるのですよ」

 王子は、二日酔いの気怠さに加えて、口うるさい侍女長に朝っぱらからお説教をうけてしまい、とうとう頭を抱えて、侍女長との視線対決に白旗を揚げてしまいました。
「これ、私の王子を、そんなふうに言うものではありません」
 侍女のつくる人垣の向こうから、お后は侍女長をたしなめました。絶え間なく衣擦れの音が聞こえています。
「申し訳ありません」
 侍女長は口ばかりで謝っていますが、お后がこちらの様子をみえないのをいいことに、王子に敵意をむき出しに詰め寄っていました。王子はもう、堪ったものでありませんでした。
「わかった、わかった、出るよ。おれも顔を洗いたいしね」
 そう言って立ち上がると、背中にはお后と侍女長がまたなにやらと言い合いを始めました。寝室を去り際に、
「じゃあ、またね、姫」
 と声を投げると、もちろんお后は甘い声を浮つかせて答えたのですが、そこで侍女長がひとに分かりにくいように舌打ちをしたことを、果たして王子が気づくことができたかどうか、知る由もありません。


三、
 大食堂の、細長く、どこまでも続いているような食卓には、皺ひとつ、折り目ひとつ見つけられない真っ白な布が張られていて、その上にはきらびやかな燭台が等間隔に配置され、料理の皿が所狭しと並べられていました。背もたれの妙に高い、飾りの大げさな椅子はとても重たそうに見えました。高い天井から随分低くシャンデリアがぶら下がっていて、しかし採光用の高窓がよく朝の光を届けてくれるため、それらに火が灯されているなどということはありませんでした。
 朝っぱらからなんて贅沢なめしを食べるんだ、と王子がぼんやりしていると、昨晩の賓客が続々と食卓に入ってきました。そうだった、昨日はおれの結婚式だったんだ、と王子は自分が二日酔いで寝ぼけきっていることを反省しました。
 国王とその皇后、王子の父王と母君、鉄のハンス、その他の迎賓諸々、ほとんど昨晩の結婚式と変わらぬ面々が勢揃いします。
 王子の義父となった国王が短い挨拶を済ませると、各自黙々と目の前の料理に取り組み、やがて静かな朝餐は終わりました。
 王子の母君は、上品とは決して言えないけれど、旺盛な食欲を見せる我が子をしみじみと眺めながら、結局食べ終わるのは一番最後になってしまいました。食卓で涙してはいけないのに、と内心母君は嬉しく思っていました。
 一方、父王はというとむっつりしていて、誰とも顔を合わせないような素振りで、一番早くに食事を終えてしまうと、挨拶もろくになしにすたすたと去ってしまいました。これは、客人としての態度を弁えていないとも見えました。
 気になった王子は、あとで父王の許を訪ねることに決めました。

「おお、我が息子よ。こんなに立派になって」
 父王は大食堂のときとはまるで別人になったような態度で王子を迎えました。
 王子は記憶の中の父の面影をたぐり寄せて、それが今でもほとんど変わっていないことを嬉しく思いました。ふたりはひしと抱き合って、再会できたことの幸運を確かめました。
 父王は王子の肩なり腕なりを両手でばしばしと叩き、うんうんと頷きながら、
「わしの子だ、わしの子だ。よく生きていてくれた」
 と言ってにこにこ笑っています。王子は父王があまり喜ぶものですから、なんだかくすぐったいような思いがしました。
 父王は、王子と話したいことが沢山あるようでした。けれど、何から話していいか分からないといった様子で、頷くばかりです。王子の方は、話すべきことがたくさんあるような気がして、何を言っても空虚なものになりはしないかという思いもありましたが、、しかし充実とよく似た気分で、父王の顔をじっと見つめるだけでした。
 やがて、ふたりはぽつぽつと、お互いのことを話し出しました。
 ふたりはあまり昔のことを話そうとしませんでした。これからの話のほうが、ふたりを取り巻く国々にとって有益であろうことが、暗黙のうちに分かっていたからでしょうか。やがて言葉にも熱が入ってゆきます。
 未来を担うはつらつとした若者と、過去を率いてきた含蓄ある国王とは、思う存分の議論に満足すると一息ついて、給仕を呼びつけてお茶を用意させました。
「ところで、父上」
 王子はここでようやく、朝餐の場で気にかけていたことを、父王に訊ねてみることにしました。
「朝餐のときは、お体の具合でも悪いのかと案じていたのですが」
 それを聞くと、父王はにわかに顔色を曇らせて、王子から目を逸らしてしまいました。王子はそれを見て、父上はやはりなにか思案していることがあるに違いない、と思いました。父王は声の調子を一層落として、
「息子よ、それをわしに訊こうとするのか」
 と、うめくように言いました。王子は、父王がなにを言おうとしているのか、まったく見当がつきませんでした。

「わしはどうしても、おまえが居なかった長年の苦悩を、誰かのせいにしてやりたくてならないのだ。当のおまえがその者を恩人だと言おうが、わしには愛する息子をさらった、憎むべき悪人にしか見えないのだ」
 父王は鉄のハンスのことを言っているのでした。あの巨大な図体と、赤銅色の岩みたいな肌を、ぎろぎろした真ん丸な目玉を、不吉を呼ぶ地響きのような跫を、――それは父王と幼い頃の王子の記憶に残る、森の奥で人々を困らせていた山男の、鉄のハンスでした。――呪わなかった日は一日としてなかったと言います。
「なにが魔法使いだ。やつがどんな理由により、不遇な人生を送らねばならなくなったとしても、わしの息子をさらっていった事実を、残された者が呑んだ涙の幾滴をも、決して帳消しになどできるものか。そんな道理はない。たとえ、その者の助力がなければ、今日のようにおまえと再会できなかったとしてもだ」
 父王はだんだん、呼吸も荒くなってゆき、肩はわなわなと上下していました。でも父上、と王子は言います。
「私はいま、父上の言う通り、ここにこうして立っているじゃありませんか」
 父王は卓の上に手を組み、その前にうな垂れて首を振りました。王子の言うことも聞かず、続けました。
「わしは、彼の者が同じ部屋にいると思うだけで吐き気がしたし、同じ食卓に着いて、同じ籠の中からパンを取りだしたなどと知るだけで頭に血が昇って、どうしようもなかった。今すぐにでもその首を、この手で絞めてやろうかとも考えた。そのときなど、手の震えを止めるためにどうすればいいか、ぜんぜん分からなかった」
 父王は自分の手の平を覗き込みました。その目には怒りとも怯えともつかないような奇妙な色が浮かんでいました。
「息子よ、わしはこのままではおまえの恩人を殺してしまいかねない。自分でもわかる。わしはここに長く居てはいけない。婚礼のめでたい期間だというのに、こんな話をして悪かった。許しておくれ。わしはいつでもおまえの幸せを祈っていた。それはこれからも、ずっと変わらない。愛しているよ」


四、
 父王は、国王に挨拶を言いに行くと、帰りの支度を家来たちに言いつけました。準備が整い次第、国へ帰るということです。
「聞けば、大きな戦争があった直後だと言うではないか。わしらが長く逗留しても負担にしかならない。息子に会えると聞いて、取り乱し、身ひとつで城を空けてきた軽率な行動を恥じ入るばかりだ。こうなったら、我が国はこの国の戦禍復興に協力を惜しまない。すぐに家臣を集めて、予算を組み直さねばならぬ」
 王子にはそういうことを言いました。客間で見せた不安な横顔は、そこにはもう見えませんでした。
 王子は、自分は奇妙な星の下に生まれ落ちたものだ。などと独り言を零して、心細いような、むず痒いような、とにかく落ち着かない気分になりました。
 王子はお城をふらふらとひとりで歩きました。厨房で働いていたのはとても短い間でしたし、庭園の仕事は城内と関係のないものでしたから、しかし王子はどこへ行ったら自分の気が紛れるのか、ぜんぜん分かりませんでした。どこへ行っても、自分の足音がとぼとぼ後をついてくるばかりでした。
「こうなったら、あそこへ行こう」
 王子は用意をして厩へ行くと、いつかの三本足の馬を借りました。
「こんなびっこで、どこへ行こうというんです? 殿下には、もっといい馬をお貸ししますよ」
 馬丁は強く勧めましたが、王子も強情でした。
「おれは、こいつがいいんだ」
 それに、戦争で疲弊したこの国の状態は、厩にもよっぽど顕れているように感じられたので、王子は疲れた馬たちに休んでいてほしかったのです。三本足の馬は、しかしその中で元気よく首を縦に振り、王子が来たのを喜んでいるように見えました。
「日が暮れるまでにお帰りなさいますよう!」
 馬丁の声が背中にかかり、王子は振り返らずに手だけ挙げて応えました。

 王子にはひとつだけ信じていることがありました。愛する姫が生まれ育ったこの国は、絶対に良い国であるに違いない。
「だって、厩に三本足の馬がつながれているんだから」
 ちんばはブルル、と唇を震わせて応えました。
「なあ、相棒。おまえの話だぜ」
 王子はその首を優しく撫でてあげました。ちんばは一生懸命、足を前に出します。
 王子は三本足の馬に跨がり、森を目指していました。鉄のハンスが何度も助けてくれた、あの奥深い森です。もちろん、鉄のハンスに会いに行くわけではありません。彼は今頃、王城で賓客としてもてなされている最中でしょう。王子はその森を、今、ひとりになれる場所として、これ以上ないものだと考えたのです。
 ちんばにの背に揺られながら、それほど昔の話でもないのに、あの日のことがとても懐かしく思い出されるようでした。
 あの日、自分は何を考えてそんな決断をしたのか、王子はゆっくり思い出そうとしました。考えてみれば、無茶な頼み事をしたものでした。
「戦争に行くのだ」
 威勢だけは良いものだ、と自分のことなのに他人事のように振り返ります。鉄のハンスは、確かに約束を守って、戦場での働きを請け負ってくれました。あの日の鬼神のごとき戦い振りを、もう一度見せてみろといわれても、再現できるかどうかは今の王子には分かりません。もしかすると、鉄のハンスは一緒に魔法でもかけてくれたのかもしれません。
 鉄のハンスは、結果的にこの国を守ってくれたのです。王子は長い間離ればなれになっていた両親とも再会することができました。そして、最終的に、鉄のハンスは父王を、もしかすると母君さえ悩ませてもいます。
 王子は、どんな顔をして鉄のハンスと話して良いのか分からなくなったのでした。だから、父王と話した後、鉄のハンスに一言も声をかけようとせず、ひとりで例の森へ行こうと思い立ちました。そして、ようやくいま、森の外れに辿り着いたところです。
 森は相変わらず鬱蒼と繁っており、天には太陽が燦々と照り映えているというのに、その奥を見通すことができないくらいでした。王子は馬を降りて、少しの間、馬を自由にさせました。
 風が吹くと梢はさざめき、森全体がひとつの生き物のようになって、不気味に笑っているようにも感じられました。王子は近くの木陰に寄り添うと、背中を預け、ただぼんやりとそこで時間を過ごしました。何も考えずにいられる時間が、とても恋しく思われてきました。それはもう遠い彼方に過ぎ去ってしまったように思えて、王子はとても寂しくなり、膝を抱えました。
 うとうとと、夢うつつをさ迷っているとき、王子は寝惚けて、こんな言葉をもらしました。
「鉄のハンス、おれはいったい、何をしてやればいいんだよ」
 鉄のハンスはすぐに現れました。

「何の用だ」
 王子は、夢でも見ているのかと思い、しばらく口を大きく開けたままで、ものを言うことさえできませんでした。そこにいたのは紛れもなく、

 ――巨大な図体の、

 ――赤銅色の岩みたいな肌をした、

 ――ぎろぎろした真ん丸な目玉を光らせる、

 ――歩けば地響きのような跫を立てるだろう、

 ――山男の、

 ――鉄のハンスでした。

「用がないのなら、引っ込むが、いいか」
「なんで鉄のハンスがこんなところにいるんだ」
「おまえこそ、なにを言っているんだ。ここはおれのねぐらだ」
「鉄のハンスは、魔法使いにかけられた魔法が解けて、さる国の王だと言って、おれの結婚式にやってきたじゃないか」
「おまえ、寝惚けているな。おれ以外に鉄のハンスがいるものか。だとしたら、おまえの知っている”別の”鉄のハンスは、偽者だぞ」
「ちょっと、まってくれ。偽者だって!」
「ああ、おれこそが鉄のハンスだ」
「偽者。偽者だとしたら、どうなる」
「なにを言っている。まったく分からないぞ」
「おれだって知らないよ! どういうことなんだ」
「どうにもこうにもいかないな」
「ああ、そうとも。――だからこそ、ここへ来たんだ。それだけは確かだよ」


五、
 お城から見える連山の向こうに日が沈みかけていて、空はあかね色に染まり、だんだん空気も夜のものに替わろうとしています。お城の窓に、灯が点り始める時間でした。
 お城には、昨日の王子とお后の結婚式に招かれたお客たちがまだ多く残っていて、いつもより賑やかな様子でした。そして、それを一層賑やかにしているのは、他でもない、お后本人でもありました。
「王子、王子はいずこ。愛しい私の王子。どうして私も一緒に連れて行ってくださらなかったの」
 お后は昼前から一日中お城を走り回り、一言もくれずに姿を暗ました王子を、健気にも探し続けています。
「姫が慌ててどうするのです」
 侍女長は手を前に揃えて、ぴったりお后の後ろについて歩いて行きます。
「淑女は求められたときだけ答えるもの。今の姫のお姿はなんですか、はしたない。それ以上大きな声を上げると、口が横に裂けてしまいますよ」
「そんなのいやです。でも、王子が私のそばにいないことの方が、ずっとずっと耐えられません」
 お后と侍女長の追いかけっこは、終わる気配がぜんぜんありません。その様子を見ていた賓客たちも、あれほど愛されている皇太子殿下は幸せ者だ、と初めは微笑ましく思っていたようですが、日が暮れても城を走り回るお后を見て、あれほど愛されている皇太子殿下も考えものだ、などと、同情のうなり声を上げるのでした。
「王子はいずこ!」

 一方、国王は王子の父王のいる客室に足を運びました。父王と王子の母君の旅支度は、もうすっかり終わって、すぐにでも王国を離れることができるまでに整っていました。
「むりにお引き留めしたい分けではないのですが、昨晩大急ぎで来られたばかりだというのに、これでは、こちらのもてなしに至らぬことがあったのではと、無用の心配もしたくなるものなのです。どうか、あと一日だけでも、ごゆっくりしてゆかれてはどうだろうか」
「それには及びません。お城の中は平静の通りに運営されていても、戦争で疲弊したあなたの国の民は、その分だけずっと苦しんでいるものです。私たちがここを離れるだけで、何人分の食料が浮くとも知れません。もちろん賢明な国王のことですから、こんなことは言わずともご承知でしょう。いいえむしろ失礼にあたることでしょう。自分の浅見を晒すようでおこがましいのですが、国王よ、どうか下々の民を、いたわってあげてください」
「仰ることはごもっともです。しかし、あなたは今回私がこの城へ招いた賓客のなかでも、一番重要なひとなのだ。なんせあなたは、この国を救ってくれた我が義子のお父上にあたるおひとだ。民もあなたを快く迎えました。むげに扱うことは到底できないのです」
「そうはいっても国王、――」
 その掛け合いを横目に、王子の母君と義理の母君は、卓についてのんびりとお茶を嗜んでいました。そちらの国のお茶も飲んでみたいわ、おいしいことでしょうね。などと義理の母君が言いました。ぜひいらしてください、云々。
 父王と義理の父王のやりとりは、ずっと続いていて、こちらもお終いはまだまだ遠そうです。
「――いえいえなにを仰る」
 うんたらかんたら。……

 そろそろ日も暮れようとしていました。馬丁は厩で王子の帰りをひたすら待っていました。厨房では晩餐の準備が慌ただしく進められており、園丁は一日の仕事をそろそろ切り上げようかとしています。

 ――

 ――はて、

 ところで、王子の結婚式に駆けつけた、あの鉄のハンスはどこにいるのでしょう。

 そして、王子はまだお城に戻ってきていません。


六、
 甲高い悲鳴が宵闇に暮れる王城にこだましました。城にいる誰もがそれを聞きつけて、声がした方に急いで駆けつけようとします。
 それは誰の記憶にもないような声でしたので、一体誰が助けを呼んでいるのか、その場に到着するまで分かりませんでした。
 それもそのはずで、お后はそれまでの人生で、悲鳴を上げたことなど一度もなかったのです。王城正門前の庭園に、続々ひとが集まってくると、そこでは侍女長が地面を踏みしめており、藍色の夕空に向かって、なにごとかを叫んでいるところでした。
「姫を離せ。いかな国賓であろうと、畏れ多くも皇太子妃殿下にそのような乱暴をはたらくなど、決して許されるものではない!」
「侍女長、なにをしている。さっきの悲鳴は、いったい誰のものだ」
 国王は真っ赤なガウンを引きずらせながらそこへ辿り着くと、侍女長に状況を求めました。
「王よ、姫には侍女長がついていながら、なんとも申し訳のないことになってしまいました。空を、空をご覧ください」
 侍女長の指さす方向を、その場に集まった王の家族や、王子の結婚式に呼ばれた人々、お城で働く人々、王子の両親、その家来たちが一斉に見上げました。たちまち、人々はあっ、と声を上げ、あるいは息を呑み、呆然とし、皇后などはあまりの出来事にびっくりして、気を失って倒れてしまいました。
「わ、私の娘が、姫が、何者かに担がれて宙に浮いておる」
 虚空に立ち観衆を見下ろすその男は、お后を脇に抱えて、憮然とした表情でガウンを風になびかせています。
「あの者は鉄のハンスです。この場で姫と一言二言話していたかと思うと、姫を担ぎ上げて空に舞い上がったのです」
「一体どういうことだ。なぜ、鉄のハンス殿がそのような」
「理由は分かりません。事実は、貴奴が姫に乱暴しているということだけです」
「王子はいったいどうしている」
「あのウスラトンカチは午前に厩から三本足の馬を借り、城の外へ出て行ってそれから今まで城へ戻っていません」
 国王は額に手をやりました。
「なんということだ」
 すると、虚空から声が降ってきます。お后の声でした。
「侍女長、あなたは王子の行方を知っていながら、私に教えなかったのですか!」
「申し訳ございません」
 侍女長はお后に口ばかりで謝ります。
「しかし、――」
 侍女長は国王に向き直り、睨み付けるような、鋭い視線をきっと上げて言いました。
「このような事態になってしまったのは私の責任です。責任を全うするためにも、すぐに姫をとりかえしてご覧に入れましょう。そして、皇太子殿下には気ままに城を空けたその間の無責任振りを、ご帰還と同時に奈落の底よりも深く後悔させてあげましょう。むしろ奈落の底で反省していただきましょう」
 国王は、侍女長がなにを言っているのか、半分はよく分かりましたが、もう半分はぜんぜん分かりませんでした。
 侍女長は頑丈そうな編み上げのブーツの紐を確かめながら、ほかの侍女になにやらと指示を出して、自分はどこかへ走り去ってしまいました。
 それまで、宙に浮かびお后を脇に抱えて、ずっと重たく黙っていた鉄のハンスが口を開いたのは、その時でした。
「聴け、国王よ。わしはこの世に忌み嫌われて異界の徒に堕ち、地獄の門で閻魔を負かしてこの世に返り咲いた、神々さえ名乗るだけでおののく、偉大な魔法使いだ。わしは、貴様らの幸せそうな笑顔がなにより我慢ならん。わしをこの城へ呼び寄せたのは貴様らの歓談の笑い声だ。祝福と発展の祈りだ。殺戮の上に成り立つ空虚な平穏の生温さだ! 貴様らに地獄より耐え難い苦しみを与えるためにわしはやってきた」
 物騒な名乗り口上を述べた偽者の鉄のハンスの、正体はなんと悪い魔法使いだったのです。


七、
 時間を少し戻して、ここは鉄のハンスの森です。
 目の前の、山男の鉄のハンスがどうやら本当の鉄のハンスらしい、ということがようやく呑み込めた王子は、すぐにでも城へ帰り、このことをみんなに知らせなければいけない、と思いました。
 あまりに急いで三本足の馬に飛び乗ると、馬は驚いていななきました。それを見た鉄のハンスが王子を呼び止めます。
「そんなびっこに乗ってどうする。わしの馬を貸してやる。そいつはあとでちゃんと城に帰すから、心配しないでいい」
 鉄のハンスは、いかにも仕事をしてくれそうな千里の馬を、また王子に与えました。
「ありがとう、鉄のハンス。恩に着るよ」
「なに、かまわんさ。それと、ひとつだけ言っておく。おれの名前を知っている奴は、本当はおまえの他に、おれをこの姿に変えた、あいつしか居ないはずなんだ。もし本当に、その鉄のハンスがおれの知っている奴だとしたら、まずいことになるかもしれない」
「まずいことって?」
 王子は訊きましたが、鉄のハンスは言葉を濁して唸るばかりでした。
「とにかく、おまえは早く城へ帰るんだ。呼び止めておいてなんだが、ぼやぼやしている暇はないぞ」


八、
 王子が戻ったとき城は大変な状態になっていました。剣戟の激しくぶつかり合う音が聞こえてきて、大勢の悲鳴が上がり、城のあちこちの窓が火を噴いて、そこから煙がもくもく立ち上っています。
 王子の頭の中は真っ白になりかけました。首をぶんぶん振って、なんとか意識を繋ぎ止めると、鉄のハンスがくれた馬から身を翻し、彼が「なにかの時のため」と言って渡してくれた一振りの剣をしっかり握って、城へと駆けてゆきます。
 滅多なことで動かない城門が固く閉ざされていたので、王子は厩のほうから城内へ入ろうと考えました。すると、午前に三本足の馬を貸してくれた馬丁が駆け寄ってきました。

「殿下、皇太子殿下。ああ、大変なことになってしまいました」
「いったいなにが起きたんだ。もしかして、鉄のハンスがなにかやらかしたのか」
「そうでございます。なんとおいたわしや、殿下の恩人がご乱心あそばしたのです」
「やつは偽者だ。鉄のハンスの名を騙る悪党なのだ」
「なんと、それは一体どういうことでしょう。どこからどこまでが本当で、そのうちのいずれが嘘なのか、分からなくなってしまいます」
「そんな話はあとだ! 今の状況を知っているか。知っているなら教えてくれ」
「殿下、どうか落ち着いて聴いてください、……」
「まだるっこしい! おれは性格ののんびりしたやつとは違うんだ! 偽者ハンスはどこだ! あいつを仕留めればこの混乱が収まるんだろう!」
「はい。私は、鉄のハンスがお城の屋上の方へ飛び上がったのをこの目で見ました。侍女長がそれを追いかけて城内に走っていったのですが、……」

 王子は、火を吐くような剣幕で馬丁の胸ぐらを揺さぶっていました。お城の屋上、それだけを聞くと馬丁を放り落とし、風のようにその場を走り去ったのです。
 馬丁の言葉の後ろ半分を、王子にとって重要であろう部分は、彼の耳に聞こえることはありませんでした。

 城内の荒れ様はひどいものでした。床石はところどころ砕けて、掘り返されたようにえぐれており、大小のその破片がそこかしこに転がっています。
 窓枠に嵌められたガラスは散々割り尽くされ、カーテンは破れ、燃えているのも多々ありました。花瓶が倒れ、飾り机は火だるまに転がっています。
 血が流れたあとがところどころにあって、それを目で追った先には死体が転がっていました。騎士も、国賓も、侍女も給仕も倒れていました。
 顔が映るほど磨かれつくされた、豪奢な大理石のエントランスは、皮肉にも、あちこちで上がる火の手に照り映えて、どこもかしこも真っ赤に染まっています。
 王子は、今一人きりではこの惨状を受けとめることができないと分かりました。王子はいまひとりの修羅となって、彼らの屍を踏み越えてゆきました。後のことをぜんぜん考えられないほど、どうしようもない災厄の種をこの城に持ち込んだのは、他でもない王子だったのですから。

 屋上に辿り着くまでに王子は、何体もの魔物とすれ違いました。
 きっとそれらは、偽者ハンスが王子の結婚式に現れたとき、従えていた大勢の家来たちのなれの果てに違いありません。偽者ハンス只ひとりで、この殺戮の劇場を演出することは、とうてい不可能に思えていたのですが、ここでその合点がいきました。
 鉄のハンスが与えた剣は、まるで魔法がかけられたように切れ味が鋭く、加えていくら振っても疲れを感じませんでした。なで斬りに異形の魔物たちを斬り伏せる王子は、もはや自分の意志で体が動いているのか、それとも別人が乗り移っているのかも分からないくらい、猛然と立ち回りました。
「じゃまだ、どけ!」
 けれども王子は、思うような速さで足を進められないことに苛立っていました。
「城が広すぎるんだよ畜生!」

 このお城の屋上、と言うよりも物見へは謁見場を通って出なければなりません。
 謁見場は王の間とも呼ばれる天井の高い広間で、本丸の最上階にあります。
 王子がそこの扉を蹴破ったとき、見覚えのある姿が何人かそこに見えました。彼らは翼をもった魔物と格闘しており、苦戦を強いられているところでした。
 侍女長はその体と不釣合なほど巨大なボウガンを構えて、何匹もの飛び交う魔物を一匹一匹見事に打ち落としています。ですが、絶対的に頭数の分が悪いのでした。国王や父王をかばいながら、ひとり武器を持った侍女長は防戦一方という有様でした。
 魔物は開け放たれた大窓から次々と飛び込んできます。しかし、その向こうに偽者ハンスが居るだろうことは、侍女長がここで頑張っているところを見ても、間違いがないように思えます。
 王子は剣を目の前に掲げ、鉄のハンスを信じて祈りを捧げました。
「鉄のハンス、鉄のハンス! おれに力を貸してくれ。魔性をなぎ払う、絶対唯一の力を授けてくれ!」
 とたん、王子の剣は虹色の光に包まれました。その光はだんだんと収束して刀身に纏わり付きます。露を払うと、切っ先からさらさらと星屑が滑り落ちているように見えました。
 魔物がそれに気づいて、一斉に王子の方を振り返りました。聖なる光に魔物たちはたじろぎ、その眩しさにくらくらしているようです。王子は好機と見て、駆け出しました。
 王子は渾身の力でもって、真正面に光の剣を振り下ろしました。ここで聖なる魔法が発動するのです。剣圧が魔物たちを圧倒し、刀身から虹色の光が怒濤のごとく迫り、王の間をたちまちいっぱいにしました。
 魔物たちはおぞましい断末魔を上げます。先ほどまで王の間を埋め尽くさんばかりだった、たくさんの異形は聖なる光に溶かされ、虚無に帰りました。
 王子は、いま自分がやったことにびっくりして、頭に血が昇っているのも忘れるくらい呆然としました。しかしそれも一瞬かぎりのことで、すぐに気を取り直すと、剣を掲げ、また祈りを捧げました。
「もうひと踏ん張り頼む!」
 そこで侍女長や父王も、王子がようやく帰ってきたのを見つけました。
「王子!」
「おお、我が息子よ!」
「今まで一体どこをほっつき歩いていたんですかっ! くそばか殿下!」
 侍女長は体全体を使ってボウガンを張り直します。給仕服の所々は破け、ぼろぼろのなりをしています。彼女はこの城で戦い通してきたようです。
「偽者ハンスはあの先か!」
 王子は息を弾ませながら侍女長のもとへ駆け寄ります。
「そうだ。急がないと姫が、……」
 そこで王子は、初めてお后が偽者ハンスに捕らえられていることを知りました。もう、すでにどうしようもありません。王子はお后の無事を祈りつつ、王の間を突っ切って物見へと走り出でました。


九、
 王子たちが物見へ躍り出ると、端の方でぼんやりしているお后の背中が見えました。王子は声の限りにお后を呼びます。
「姫!」
 王子の声を聞きつけたお后は、ばね仕掛けの人形のような動きをしてこちらを振り返りました。そして、ぱたぱたと駆け寄ってきます。
「王子、私のだんな様!」
 そう叫んで王子に飛び付き、顔を王子の胸に擦りつけました。
「どこに行っていたのです! あなたが居ない間に、私がどれほど、どれほど、……それに! 我が国がどんな事態になっていたと、……!」
 王子は、なんと答えて良いか分かりませんでした。全身から、気力という気力が抜けていくような思いがしました。
「ぼうっとしないでください、殿下」
 侍女長が冷たい声で釘をさします。
「目の前にあなたの恩人が居ますよ。とびきり迷惑な国賓です」
 侍女長は目の前の暗闇を見据えています。漆黒の夜空と、お城から上がる炎の照り返しの波間に、目をこらしてようやく分かるくらいの人影が、ぼうっと立ってこちらの様子を覗いています。
「鉄のハンス、――もはや、許しはせぬ、……!」
 国王が両の拳を握り固めて、全身をわななかせて唸りました。
「やはり野蛮な山男め。正体を顕しおって、殺戮の限りを尽くす魔の手先め!」
 父王は王子がまだ幼かった頃の恨みも手伝って、怒りに打ち震えています。
 王子は、恥も外聞も打ち捨て、自分の信じていることを全部話そうと決めました。
「父上、国王よ、奴は鉄のハンスではありません。彼の名を騙った狡賢い魔法使いなのです。私の知っている鉄のハンスとは別人です」
「おまえはまだそんなことを言っているのか!」
 父王はいきり立ちました。
「まだ鉄のハンスなぞいう山男に憧れを抱いているのか! わきまえよ! おまえは騙されているのだ!」
 国王も父王に賛成します。
「父君の言う通りだ、わが息子よ。わしもこの大尽にはうすうす不審なところがあると思っていた。鉄のハンスよ、我が城を破壊し尽くした乱暴狼藉を許しはせぬ! 神の前に引きずり出して懺悔させてやるぞ!」
 王子は、空っぽのお腹から声を絞り出すような気持ちで言いました。
「私の言うことに根拠など、もともとないのです。信じられない話であるのは私もよく分かっています。ですからこれは、いま言ったことは、私の信じるところなのです。私の友人である鉄のハンスは、心の美しい、まっすぐな巨人であると私は信じます。信じると決めたのです。ですから、ここからさきは、手出しは無用。友人の名誉にかけて、私がかたをつけて、それを証明して見せます」
 王子はお后を侍女長に託すと、偽者ハンスの前へと歩み出ました。

 王子はしかし、鉄のハンスに授けられた剣を、偽者ハンスの目の前で、ぽいと放ってしまいました。剣は光を失い、石畳を滑ってからからと音を立てました。
「ふうん、きさま、わしを殺すつもりではなかったのか」
 偽者ハンスは冷たく笑いました。
「どうせおまえには、魔法は通用しないんだろう。鉄のハンスがそんなことを言っていた」
「なまいきな小僧だ」
 物見には強く風が吹き付けています。びょうびょうと音を立てています。それ以外は静かなものでした。
 それがどういった意味か考えるのは後回しにして、あちこちから聞こえていた剣戟の音や叫び声などは、すっかりもう聞こえないのです。
「わしはもう、ずいぶん気が済んだ。飽きた」
 偽者ハンスはちっとも覇気の感じられない目を俯けて、呟きました。
「きさまらは醜い。わかりきっていたことだが醜い。目の前のことばかりに気を取られて、態度はころころ変える、罵り合う。怒号と憎しみの声は聞き飽きた。ゆえに、飽きた。簡単に他人を信じるし、簡単に他人に騙される。涙を流す。血を流すと呪詛を返す。殺し合って屍の上で笑い合う。わしは何世代もきさまらを眺めてきた。何十世代も、何百世代もだ。きさまらは相も変わらず醜いな」
 王子は拳を固めました。
「ふざけるな。そんなことをおまえが言うな! 一帯に広がる有様を見ろ。全部おまえが仕掛けたことだろう」
「ふん、わしはきさまらを試したのだ。悪意を先にぶつけてきたのは、きさまらの方だ。わしの魔物たちはそういう悪意を糧に目を覚ますのだよ。きさまらの心が清ければこんなことにはなっとらん」
「心だと。非道な魔の使いが心の清濁を説くつもりか。反吐が出るぜ」
「出すならかまわんぞ。ゲロゲロ吐いてすっきりしてしまうが良いさ。そしてまた新しい反吐を口から詰め込んで、尻からでも口からでもひり出して繰り返せ。きさまらはもともとそういう奴らだ」
「おまえ、……」
「なんなら、きさまがわしの代わりを務めるか。望むんだったら、魔法の全てと不老不死の秘術をくれてやってもいい。そうすればわしも死ねる。きさまが望むのならすべてが元通りになるぞ! 落とした命を元通りにすることも、時を戻し荒れ果てる前の城を呼び戻すことも、無残な印象に悩まされた記憶も消し飛ばすことだってできる。そのかわり、きさまは不老不死の、この世から忌み嫌われる魔導師となる。神々に疎まれて閻魔も顔を背ける」
 魔法使いはかすれた笑い声で肩を揺らし、歪に唇を曲げました。
「愛する者全員が貴様の傍を離れてゆく。耐えられるか小僧、きさまに」
 王子は口を閉ざして、じっと考えました。
 魔法使いは、不老不死で何世紀も生き続けていると言うわりに、どこかそぐわないところがあります。
 王子は呼吸を整えて、きな臭い物見の風を吸い込み、無理矢理に気持ちを落ち着けてから言いました。
「おれが友達になってやるよ」
 長い長い沈黙のあと、魔法使いは笑いました。
「ふははは、なにを。なにを言っている? きさまの目の前にいるのは、城じゅうで破壊の限りを尽くした悪人だぞ。気でもくるったか」
「知ってるよ。おれはおまえに恨みがある。おまえは色んなひとの恨みを買った。おまえは絶対許されない。天国はおろか地獄にもいけない不老不死なら、おまえの居場所はどこにもない。だからおれが面倒見てやろうって言ってんだよ」
 魔法使いは手を前に出しました。そこに、禍々しい光の渦が巻き、ばちばちと地獄の雷が爆ぜてます。
「こしゃくなやつめ。わしをこけにするつもりか? 分かっているだろうが、わしがその気になればきさまのような小僧など、ひと思いに、――」
「おい、そんなことはどうでもいいんだよ」
「な、なんだと」
 魔法使いは身を乗り出しました。地獄の雷は霧消しました。
「きさま、わしのことをなんと心得ている。魔の使い、魔界の導師だ。きさまらに地獄をみせるためにここへやってきた、――」
「死ぬまで一緒に居てやるって言ってんだ。聞いてんのか」
「ふざけるな。わしはいやだ。わしのことを記憶する人間がいるなんてことは我慢ならん。わしの噂をする人間たちは皆殺しにするのだ」
「伊達に不老不死だから、おまえの中の時計が早く動きすぎてるんだ。でもそれは、相対的な体感速度にすぎないのさ。これからおまえは、おれの時計で時の流れに乗るんだ。おまえに足りないのは記憶さ。おまえは長生きしすぎて、思い出が干からびちまったんだよ」
「なにを言っておる。やかましい!」
「おい、提案だぜ。おれにおまえの話を聞かせてくれよ。ただし、ゆっくりだ。なんたっておまえはこれまで悠久の時を生きてきたし、そしておれはまだまだ若いんだ。時間なんて幾らでもある」
「ぬ、や、やかましい。なまいきな小僧め」
「おれとおまえで国を興そう。もちろんおれが王で、おまえは大臣だ。鉄のハンスの森の前に城をおっ建てよう。民なんかひとりもいないだろうが、農耕暮らしもきっと悪くないぜ」
「わしは、わしはおまえの国の民をさんざん殺して回ったのだぞ」
「ああ、そうさ。おまえにはたっぷり時間をかけて反省してもらわなきゃならない。おまえは自分がしてきたことを見つめないといけない。何度こんなことを繰り返してきたのかは知らないが、おまえはその度にいろんなことを帳消しにしてきたはずだ。ばかめ。おまえのひん曲がった根性をたたき直してやる」
「ふざけるな」
 魔法使いの頬を、一筋の光が伝いました。
「そんなことが聞けるか」
 すると、逆側の頬にも、滴が伝って、物見の石畳に落ちました。魔法使いの涙は、あとからあとから、雨のように石畳に降りました。
「こんなことにかまけていられるか」
「あんたはたぶん、もともと悪いおっさんじゃないと信じるよ。おれはそう決めたんだ」
「そんな慰めを聞いてやるものか」
 夜空には満月が浮かんで、月光は魔法使いの涙を青白くきらめかせました。


十、
 ある春のよく晴れた日に、その野原を横切る一匹の馬がいます。よく目をこらして見ると、その馬はよちよちと、びっこをひいて歩いていました。
 危なげな足取りで、しかも車を引いています。荷台にはたくさんの荷物が載っていて、荷台を後ろから押しているのは若さ溢れる総金髪の男で、その傍らにはとてもふつうとは思えない豪奢なドレスを纏ったお姫様がぴったりと寄り添っています。
「姫、あんまりくっつくと力が入らないよ」
「あら、でしたら私も手伝って差し上げますわ。えい、えい」
「よけい邪魔だよ、……」
 その背後には頑丈そうなブーツを履いた給仕姿の女が歩いていて、鋭い目を光らせて二人の様子を見守っていました。彼女の背には巨大なボウガンが担がれています。
「殿下、皇后に向かって邪魔だ、とはなんというお言葉ですか。お城を出てからと言うもの気が緩んでおりませんか? これから一国を担う立場だというのに、頼りないことこの上ないですね。褌締め直して差し上げましょうか?」
「ていうかさ、お前もお前だけど、姫、おれについてくるってどういうことなのか、ちゃんと分かってんのか。日帰りのピクニックに行くのとはずいぶん違うんだぜ」
「もちろんです。私はいついかなる時も王子の、あいや、国王の傍を離れぬと決めたのです。私の居場所はあなた様のお隣と決まっているのですわ」
「国王も皇后もかんかんに怒ってたぜ。帰るんなら、ほんとに今しかない。二度と両親に会えなくても良いのか」
「言ったきりです。だんな様のお力添えに尽くすのが妻のあり方だと侍女長にも教わっているのです。私は私のだんな様に一生を捧げるのです」
「皇后殿下、見上げた根性。ご立派になられて。――くっ」
 王子は背後で繰り広げられる三文芝居にうんざりしながらも、三本足の馬の引く荷車を一生懸命押し続けました。
 荷車の前方、ちょうど三本足の馬の横について静かに歩き続ける老人は、例の魔法使いです。フード付きのゆったりしたコートを頭からかぶって、ものも言わず音も立てずいるものですから、王子はときどき荷車の後ろから顔を上げて、老人が逃げてやしないかと確かめてばかりいました。
 そんな王子の考えを見透かしていた老人は、王子に流し目を送り、しばし二人は見つめ合いました。
「なあ、」
 王子が言います。
「おれはあんたのことを、これからなんて呼んだらいいんだ?」
 この言葉に姫も侍女長も賛成しました。
「悪い魔法使い、なんて呼ぶわけにもゆきませんしね」
「これ、侍女長! そんな嫌みを言って」
「はっ、姫に叱られるような日が来るとは。この侍女長、長年姫の教育係を務めてきた苦労が、ようやく報われたような気がします、……」
 老人は前に向き直り、あまりはっきり聞き取れないような小さい声で呟きました。
「その、森に着いたならば教えよう」
 ぎこぎこと荷車の車輪が軋る音と、四人が草を踏みしめるさくさく言う足音が静かに波打っている午後でした。

 森は相変わらず鬱蒼と繁っており、天には午後の太陽がのんびりと昇っているのも関わらず、その奥を見通すことができないくらいでした。王子たちは森の外れまでやってくると、ようやく一息つけると思って野っぱらに腰を下ろしました。
「はあ、きっつぅ」
 王子はびっこの荷車をずっと押し続けていたため、疲労困憊の体で寝転がっていました。そして、彼は友人のことを思い出しました。
「そうだ、鉄のハンスに水でももってきてもらおうぜ。これくらいしてくれるだろう」
 王子は大きく息を吸って、

「鉄のハンス!」

 ――

「鉄のハンス!」

 ――

 ――

「鉄のハンス!」

 友人の名を三度呼びました。しかし、鉄のハンスはいつまで待っても姿を現しませんでした。
「おかしいな、なにやってんだろう」
 王子はつまらなそうな顔をして、その後、先ほどまでの疲労がどっと押し寄せてきて、今度もばったりと仰向けに寝転びました。
「だああ」
 心地よい風が平原に吹いています。森からはしんとした冷たい空気が溢れてくるようです。
 老人が王子の前に立ち、王子を見下ろしました。
「王子よ、我が名を名乗ろう」
 王子は上半身を起こし、あぐらをかいて老人を見つめました。
「うん、なに?」
「わしは、鉄のハンスだ。魔法使いでも山男でもない、ただの鉄のハンスだ。信じてくれるか」
 王子はきょとんとして、しばらく目を閉じたり開いたりしていましたが、やがて、なんだそんなことか、と息をつくと、こう言いました。

「そんなの、答えるまでもないさ」

 野原には心地よい風が吹いていて、三本足の馬はもそもそと草を食んでいました。





 ――おしまい。



 ネット作家Yはもはや二時間後に迫った予定時刻を前に精一杯焦っていた。
 残りの作業は春の同人小説企画幹事役のもとへ原稿を電子送信することだけであった。だがここで余計な寄り道とも思われかねない文字列を打っているのは、決して自己満足に終わるものではないはずだという信念から決意した苦肉の策である。
 もはや連続作業時間は過労就寝の段階に達そうとしており意識はもうろうとしている。誤字脱字の確認や遂行に当てる時間はすでに残されていなかった。なにかオマケ要素としてなにやらの資料をつければ面白かろうと現在案じている彼であるがその脳は正常な計算を約束してくれていない状態である。ここに、彼は数日前に霊感的天啓を授かり思いついた計画を実行することを決断する。以下は鉄のハンス改変物語に辿り着くまでに浮いては沈んだ妄想の数々、紆余曲折集である。長いので、むろん興味のない方もある方も読み飛ばした方がいいかもしれない。個人的にはむしろこっちが本編かも知れないがもうよくわからない。


一、
 ホームを降りるとアキが手を振っているのがわかった。強烈な日差しに白けたアスファルトの道向かい、商店の軒には氷の暖簾が垂れている。麦わら帽子とまっ白なシャツ。
 十年振りに再会した幼馴染はずいぶん背が伸びていて、切りっぱなしのデニムから伸びる脚が遠目にも眩しかった。素足にサンダル履きでぺたぺた駆け寄ってくる。
 無人の駅舎の待合で、季節の容赦ない日差しをやり過ごしながらも、話したいことがたくさんありすぎたらしく、お互いうまく言葉にできないでいた。汗ばんだアキの額に前髪が張り付いていて、彼女はそれを弄ったりなにやらで落ち着きがない。あついね。
 焦ることはない。話す時間はいくらでもある。アキも似たようなことを考えていて、それを言うと安心したみたいに笑ってくれた。時間ばかりは確かにいくらでもあるのだ。今のいまこの町に着いたばかりだし、二人は再会したばかりなのだから。

■、
 上は地球上にかつての幼なじみと主人公の二人しかいなくなちゃった場合のいちゃいちゃドロドロセンチメンタルグラフィティになる予定であった物語の冒頭である。性描写が不向きだと思い知らされたのでやめた。テーマ『足音』の落とし所は「あー。おれらはたぶんのたれ死ぬと思うけど、お前のサンダルの間抜けな音はなんだか耳に優しいね」とかそんなん。


二、
 ――ああ、またか。
 などと、ふと考えたときの気分は猫の轢死体を道路上に見つけたときとよく似ていた。前の日に消しゴムを借りっぱなしで、帰宅途中に思い出したから今さらとんぼ返りする訳にもいかなくて、書店に寄って新しいものを買った、その翌日の昼休みだった。
 自分は二つ持っているからと言って、昨日快く消しゴムを貸してくれた隣の席の女子生徒の名は日笠。しかしおそらく、例のように、二度とこの教室に戻ってくることはあるまい。お詫びに新品の消しゴムを、と思ったのに返しそびれてしまったわけだ。あーあ。
 担任は今朝の連絡では青くなって、また一つ増えた空席の件に触れようともしなかったし、自分以外の級友たちはきっとその時点で勘付いていたに違いない。
 おれなんかは彼女に消しゴムを返すことばかり考えていたから気付かなかったらしい。間抜けだ。
 そしてもう日笠は帰ってこない。さらわれてしまったから。その喪失感がよく似てた。名も知らぬ世話もしたことのないような猫が一匹、貨物車の下敷きになって車道を汚したあの感じ。あーあ。
 こんなに簡単に、もう二度と会えなくなってしまうのだ。これがもう何度目だろう。数えるのも嫌になる。猫塚が増えてゆく。
 消しゴムの入った紙袋が鞄の中にある。新品だけどもう使い道がない。こうなれば、これを持ち歩いているのさえ嫌だ。とりあえず机の上に放り出して、どうしようもない現実と並べてみる。紙袋は生き物のように身をよじりぱきぱきと音を立てた。


 次はサスペンスチックな奴にしようと思って誘拐犯と少年と少女のスピード感溢れる捕り物帳になる予定だった物語の冒頭。トリック的なものが必要ではないかと苦悩しているうちに次の冒頭が浮かんできて保留してそのまま。『足音』の落とし所は「帰ってきた日笠を後ろに二人で暗闇を歩いている途中、唐突に彼女の足音が聞こえなくなっちゃって振り返るとなんだか大変な」ことになっちゃてるとかそんな感じ。



三、
 十億年ぶりに不死鳥が甦るというので、故郷では町を挙げて祭りの準備に大童であるという。
「貴様に拒否権は無い」などと、単純明快な理由をしかし無理強いさせられ、不承不承ながら加勢を余儀なくされた分けである。
 ふざけた祭事の準備を。十億年語り継がれた伝統だという。単細胞生物が原始の海でゆらゆらしていたような大昔から語り継がれてきたなんて、ばかな。
「坊には未だ小難しい話に聞こえるかもしれんが」
 相変わらずの爺様はそろそろ霞で腹が膨れてもいい頃合で、白い眉毛がふさふさ伸びて眼の奥の光をすっかり隠している。小難しいで済む話でもないのではないか。
「そういや坊、ヤチカが巫女を務める」
 懐かしい名を口にした爺様は大げさに咳込んで、その後クシャミをして傍にあったちり紙で鼻をかんだ。
「タチの悪い風邪が流行っとるでな」

■、
 これはアルバトロシクスという集団の歌を聴いているときに出てきた歌詞、十億年ぶりにフェニックスがよみがえる、という部分に霊感を働かせてぱらっと書いてみたもののぜんぜん何も展開できなかったという自分でもよく分からないもの。『足音』の使い道なんかまったく考えていない。



四、
 いつからか分からないが身の周りは不安と剣呑で溢れており、おちおちため息を吐いている暇もないほど世の中はせわしない。足を止めてみればよく分かるさ。そのうち無縁のひとから背中を突き飛ばされてしまうんじゃないか。都会の駅の階段でも転がり落ちて死んでしまうんじゃないだろうか。むろん、死にたくはないものだけど。
 死なんてものは中学生には関係なくて、その証拠に軽々しく彼らの口からはまいにち死が飛び交っているし自分だってそうだ。大人たちは自分たちよりも少なからず死に近い場所にいるからそうでもないのかもしれない。
「死んだんじゃないすか」
 と言って担任教師に殴られるまで、死なんてものは反ばくの意思表示か、若しくは困難を目の前にしたときのため息代わりの泣き言としてしか使われなかった。殴られてからは年寄りを何故だか怒らせてしまう魔法の言葉でもあるらしいのがわかった。日本語って難しいねまったく。
 クラスメイトの日笠直子が三日前から無断欠席し続けている。「死ね」が口癖の乱暴極まる男勝りな女だったが、もう顔を合わせることもないのかと思うとせいせいするね。いやあ、やっぱあいつ、死んだんじゃないのかなあ。

■、
 先ほど出てきた日笠をもっとのんびりした世界で生かそうと思って書き出したもの。こないだみたいになにかをモチーフにしようと思ってグリム童話集を漁っていたら大好きな「鉄のハンス」を何度も読み込んでいた。もうどうにでもなれ、と考えて書き殴っていたら今回の計画を思いついたので自然消滅的に没となる。『足音』の使い所は「なんとかしよう」と思っていた程度。この話では二人は童話・鉄のハンスについてあれこれ話す予定でした。

 おしまい。以上が春の遅筆友の会短編集テーマ『足音』に取り組んできた二週間程度の足跡です。まったく未完成なものを夜に晒すなんてあほで卑怯なやり方ですが、ぼくもIPPAIIPPAIだったので許してください。これでもがんばったんです。この後に続々素晴らしい作品が出てくることはわかりきってるので、読者の皆さんはこれを読んだだけででうんざりしないように! わかってるか! でへへ!



〈オワリ〉

2, 1

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