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Midnight Haunting

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 白木 単(しらき ひとえ)に対する周囲の印象は様々なものがあるが、おおよそ『ちょっとぼうっとしたところがある』という部分は一致する。
 16歳の高校2年生で、身長は四捨五入すれば160cmと言い張る156cm。体重は各人の想像にお任せする形を取っている。
 その名に違わぬ白い肌は欠かさぬ日焼け止めと夏でも長袖の制服のブラウスと、猛暑の中サッカーをさせられる男子によってこの7月も保たれている。
 対して、桜雨明けにバッサリと切り落として今は肩口ほどまでしかない髪は烏の濡れ羽。
 黒目がちながら一重の目に関しては、名は体を表すと言っていいのか悪いのか。
 それほどうるさい女子グループの所属でもなく、部活は「文化祭の時期しか活動しない」だの「暗室でヤニ吸ってる」(7年前の話であり、現在は現像液臭しかしない)などと揶揄される写真部員。
 通学鞄のリュックには入部動機である入学祝いのデジカメがしまってあって、教室でもたまにパチリとやるくらいが学校生活において彼女の目立つ部分と言っていいだろう。
 それが印象を多様化、より正確に言えばはっきりしたキャラクターを定着させていない理由であるが、ではなぜ「ぼうっとしている」という印象を皆が共通して持っているのか?
 これの説明には少々時間がかかる。
 なぜならそのことについての説明には、最近彼女の身に起きているある『現象』の話も一緒にしなければならないからだ。

「お」
 教室の廊下側、前から3番目。
 そこで彼女は声を上げた。
「お、お、おー!」
 なにやら感極まった様子で叫び、自分の姿を眺める。教室の前へと進み出て、黒板に書かれたイタリア半島の付け根を叩いてハンニバルの凄さを力説する教師の眼鏡をちょいと引っ張る。
 狙いすましたそれは見事に彼の顔から眼鏡を落とし、熱弁の最中に訪れたハプニングに生徒から笑いの渦が沸き起こる。
 しかし、強面で知られる世界史教師、本泰寺 清(48)は照れくさそうに眼鏡をかけ直すだけで、目の前で一緒に笑い転げる彼女にはなんのお咎めもない。まるで、見えていないかのように。
 いや、事実彼には見えていないのだ。
 教卓に下半身を埋め、床上20cmに浮かぶ彼女のことは。
 その身体が急に引っ張られる。驚く間もあればこそ、先ほど「飛び立った」自分の席へと引きずられ、
「……んむぅ」
 先ほどから席で舟を漕いでいた、『白木単』は目を醒ました。
 周辺の笑いとはにかむ強面を交互に眺め、怪訝そうな顔をした後、腕時計をちらりと見ると筆箱から付箋を一枚取り出し、すらすらと書き込んでいく。
 『世界史何があったかよろしく ぼたん』
 机の上に貼り付けると、姿勢を正して授業を聞き始める。
 あの騒動の実行犯でありながら、全く何が起きたかを理解している様子はない。
 これは奇妙な――宙に浮かび教卓をすり抜けるほうがよほど奇妙ではあるが――ことと見えるが、種を明かせばなんということはない。
 イタズラを仕掛けた『彼女』と今小スキピオの話を聞いている『彼女』は別人である、というだけなのだ。
 一つの肉体に生まれつき宿る二つの意識、その名は「桜」と「牡丹」。
 その身体は単と呼ばれているが、彼女達はそれぞれ自分にそう名前をつけた。
 二人の意識は交互に表に出てきて、日に何度か入れ替わりながらその身体を支配する。引っ込んでいるときの意識はぼんやりと薄れ、今『単』が何をしているかはなんとなく把握しているが、完全ではない。
 入れ替わりのタイミングもこれといった規則性があるわけではなく、何かをしている途中でも前触れなく変わったりもする。
 それが例えば授業中であったりすると、それまでの話の流れがいまいち分からず苦労することになるし、さらに教師に指されたりすると困り果てることになる。
 友達の会話などでもそんなことが何度か続くうちに、「ぼうっとしている」という印象ができあがるのだ。
 当然それでは困るので、二人は幼少より欠かさず日記をつけている。
 先ほどの付箋は桜に書いてほしいことを伝えるためのものであり、こうして二人はあやふやな記憶を、異なるキャラクターをすり合わせ、白木単という一人の人間を創りあげるのだ。
 だから彼女らの間にはなんの秘密もない――――わけではない。
 ついさっき桜の仕掛けたイタズラについて、牡丹は一切の記憶を有していない。
 本人は「幽体離脱」と思っているこの現象について、別にあえて隠しておこうという気が桜にあるわけではない。
 できるようになったのがつい最近であることや、眠ったときにしか発動できないことや、最初は夢だと思っていたことや――――そういったあれこれが重なって、なんとなく日記に書けていないだけなのだ。
 もしかしたら牡丹も同じことができるのではないかと考えたこともあるが、自分と比べて真面目なところのある牡丹ならすぐ日記に書くはずだ。
 そう考えて、桜は色々実験を繰り返しては結果を自分の中でまとめている。
 先ほどの歓声は「居眠りで発動できた」ことに興奮したものであり、眼鏡を外したのも実験のひとつだ。もっとも、八割方は桜が楽しみたいだけであるが。
 試したいことはいくつもあって、牡丹に明かすのはまだ早い。
 いまだ冷めやらぬ教室の熱気をぼんやりと感じながら、桜は次なる機会のことを考えてひとり盛り上がる。
 この後、それが原因で足を踏み入れることになる世界のことなど知らぬまま。
 詐欺まがいのタイトルで校内を駆け巡った「本泰寺ポロリ事件」から数時間が経過し、そろそろ日付も変わろうかという頃。
 日記を書き終えて伸びをすると、桜はベッドへ倒れこんだ。
 普段はこんな時間まで起きていることはないのだが、今日は入れ替わりのタイミングが悪かった。
 昼の2時ごろ牡丹になって、再び桜に入れ替わったのは1時間前。
 既に頭はくらりと重くなっていて、それでも日記をつけなければ寝られない。
 眠気をこらえつつ牡丹の日記と最後に書かれた『おふろよろしく』を読んでからシャワーで眠気をごまかしどうにか自分の日記をつけた。
 全身にじんわりと染み渡る眠気に身を任せ、うつぶせの状態から足でタオルケットを引き寄せ、丸まって潜り込んだあたりで記憶があやふやになって、
 おもむろに体が軽くなる感触と共に、眠気はどこかへ消えていった。
 目を開けると少し天井が近くにあって、身体をくるりと回して寝巻き代わりのTシャツとハーフパンツの自分が宙に浮かんでいることと、真下の膨らむタオルケットを確認する。
 最初の幽体離脱のときからなんとなく儀式となっている一連の動作を終えて、桜は勢いよく部屋のカーテンと窓をすり抜けた。
 マンションの5階から見えるのは他のマンションとラブホテルと、近くの国道を通る車の明かり。
 だが、桜が見たいのはそんな窓を覗けばいつでも見えるものではない。
 マンションから少し離れて上と下を見渡し、獲物を探す。
 その目が、自分の家の二階下のベランダを捉えた。
 ベランダには煙草を片手に携帯でなにやら通話する男が一人。
 もしかしたら彼女との電話かも、などという下衆な勘繰りで、会話を盗み聞きするため桜はベランダへと飛んでいく。
 最近の夜のテーマは「どれくらい長くやっていられるか」。
 幽体離脱はいつも寝ると始まって、少し時間が経つと一気に身体のほうに引き戻されて終わる。
 一応身体のほうに『戻れ』と念じながら入っていくと戻ることもできるが、もったいないので一度試してみてからはやっていない。
 初めての時は2分ほど。しかし何度もやっているとじわじわと長くなっていって、先週は遂に10分に届いた。
 昼間のそれは身体のほうが目覚めたからか1分もなかったが、今日はあの人と彼女との甘いトークを最後までとは言わないでも、それなりの時間聞いていられるかもしれない。
 そんな期待を抱きながらの突撃は、
『――――からねェ、キミにも出てほしくて』
 電話口に立っているのが声こそ高いが男であることで期待を裏切られ、
「だっから俺は今日明日と非番だって先月から言ってたでしょ、ぉ!?」
 男が声を裏返しながら目を見開いたことで、思いも寄らぬ事態へと転がる。
 その目ははっきりと桜を見据えていて、
 ――――やばい。
『どしたの変な声出して。それより、』
「すいません、かけ直します」
 ぞわり、と危険を感じ男から少し距離を置いたものの、そこから身動きをとれずにいるうちに、男は電話を切るとおもむろに吸いさしの煙草をぽいと桜の顔に投げつけてきた。
「うわっ!?」
 思わず手でそれを払い、
 その手首が強い力で掴まれた。
 驚いて男を見るが、変わらず左手には携帯を持っており、右手は煙草を投げたあとそのままだらりとしている。何より、腕を伸ばしたところで届かない距離に桜は浮いている。
 となれば、考えられる答えは一つ。
 恐る恐る目をやれば、手首を掴んでいるのは宙に浮かぶ手。
 しかし、その先にあるべき腕が存在しない――――!
 ひっと声をあげ、桜はその『手』を振り払おうとする。しかし、手首を締め付ける力は緩もうとしない。
「まーまー落ち着けや。逃げんのはちょっと無理だ」
 男はポケットに携帯をしまいながら話しかけてくるが、落ち着けと言われて落ち着ける状況でもない。
 振り払えないなら、と自分の部屋に向けて飛ぼうとするが、手首だけではなく足首にもそれを止めようとする力。
 どこからともなく現れた2本目の『手』が加わって片手片足を引っ張られ、上昇を阻まれる。
「抵抗しないほうがいいぞー」
 そう言う男の声には明らかな余裕が感じられる。
 事実、桜の健闘空しくその身体は少しずつ下へ下へと引きずられている。
 遂に男と同じ目線にまで引きずり下ろされ、ざっと品定めするような目で見られる。
「さて、と」
 そして男が口を開いたとき、
 突如、桜の抵抗が強くなった。
 先ほどとは比べ物にならないほど強いそれに引きずられ、桜は上の階のベランダを突き抜け凄まじい勢いで上へと飛んでいく。両の『手』はなんとか引きとめようとするが到底止めえるものではなく、仕方なく離す。
「なんだよあの引き戻し……バケモンか」
 2本の『手』が呆れたように呟く男の下に戻ってくると、男の両手にずぶりと入り込む。
 それから、男はがしがしと頭を掻くとマルボロを取り出し火をつけて、深々と吸い込んで大きく吐いた。
 ポケットの携帯を取り出し、携帯を取り出して着信履歴の一番上の番号にコールすると
「もしもし」
『はいはいもしもし。何どしたの? いきなり切っちゃってさァ』
 先ほどの高い声の男が電話口に現れた。
「そっちサッちゃん帰ってきてます? 仕事頼みたいんすけど」
『……今寝たばっかなんだけど彼女』
「じゃあ代わりに俺のマンションの5階から上の住民のデータ発注してください。で5時までにサッちゃんに持たせてこっちよこしてください」
『鬼だねキミ。で、そこまでするからにはなんかヤバいの見つけたの』
 その問いに、男は煙を吐いて
「ヤバいもヤバくないも、多分これ以上ないくらいの逸材ですよ」
『具体的には?』
「全身のトバシで、経験少なくて、多分女子高生」
 しばらく沈黙が流れ、
『それは……冗談みたいな物件だねェ』
「でしょ?」
『オーケー、言われた通りの手配はする。ボクも行ったほうがいい?』
「あー、お願いしますわ。俺はもう面割れてますから」
『了解。じゃもうキミは寝たほうがいいね。3時までは僕の番だから戻ってきたら起こしとくよ。オヤスミ』
「おやすみなさい」
 通話が切れる。
 また一服して煙を吐く。他のマンションとラブホテルと、少し少なくなった車の明かりを眺めて、
「忙しくなんなぁ」
 一人ごちて冷房の残滓が漂う部屋へと戻った。
2, 1

  

 気がついたらまた居眠りをしていた。
 場所は教室からでたらめに暑い生物室に移っていたものの、気がつけば自分の身体を見下ろしている自分がいて、
 その状況を認識するや否や、桜は眼下の身体に飛び込んだ。
 巨大な穴へと落ちていくような無重力の浮遊感のあと目を開くと、目線はいつも通りですっかり眠気は飛んでいた。
 ここが学校だということは分かっている。
 それでもあの『手』がどこからか出てくる気がして、幽体離脱が恐ろしかった。
 この世にはこんなことができる人が他にもいるのかな、と考えたことはあった。でも、それが自分を捕まえようとしてくるとなると話は別だ。
 いや、そもそもあれは自分と同じことをやっているのか?
 桜には手だけを飛ばすなんてことはできない。逆に身体の一部だけを戻すなんてことも試していないけれどできるとは思えない。
 あの人が特別なのか、それとも。
 こっそり部屋を覗いてみると押入れにはどこの誰のものかも分からない手首がごろごろ転がっていて、あの人が使っているのはそのうちの何本かにすぎないのかもしれない。
 もし次姿を見せれば、今度は一本や二本じゃすまない手が溢れてきて捕まって手首をすっぱりと――――
 バカバカしいとは思ったけれど、考え出すとなかなか止まらない。
 そうするとふと『あの人は自分と同じマンションに住んでいる』という事実が鎌首をもたげてきて、家に帰るのすら怖くなってくる。
 自分が出ていればいいが、牡丹では警戒すらできないのだ。
 その危機感が、桜に実験の終わりを決意させる。
 今日の日記で全てを打ち明けようと、説明すべきことをまとめ始める。
 そうやってノートを取り忘れると牡丹に怒られる、ということを桜は未だにわかっていない。

 チャイムが連打されている。
 枕元の携帯を開く。4時18分。アラームをセットしたのは4時半で、これなら余裕を持って迎えられると思っていたのだが、
「サッちゃんヤケクソになってやがんなー……てか暗証番号も買ったのね」
 呟きながら伸びをすると、扉が蹴りつけられる音がした。
「あーはいはい」
 片手から『手』が飛び出すと部屋の扉を突き抜けていき、もう片手をついて男は布団から体を起こす。それとほぼ同時に玄関で鍵が開き、チェーンロックが外された。
 玄関のドアが開けられる音がして、静かな怒りを籠めた足音が近づいてくる。勢いよく寝室のドアが開き、電気がつけられ、
「おはようございます」
 メッセンジャーバッグを下げて両目に隈をこしらえた、猛烈に不機嫌な女性がそこに立っていた。
 歳はまだ若く、顔立ちもなかなかだがその隈とボサボサの髪が全てを台無しにしている。
「お、おはよう。随分はえーな」
「ヤケクソになってましたから」
 飛ばした『手』を戻しながら、男の顔が引きつる。
「え、何聴いてたの?」
「視てもいましたよ」
「あーそれは分かってたけどさ、まさかそこまでしてるなんて、さ……」
 隈のせいか怒りのせいかはたまた両方か、炯々とする眼光に気圧され男の声は尻すぼみになっていく。
「いいですから、仕事の話をしましょう」
「お、おぉ」
 渡りに船とばかりに男は布団の近くに座りこんだ女性がバッグから取り出したファイルを受け取る。
「急な話ですから写真つきのは無理だったそうです」
「あー大丈夫大丈夫。そういやベイビーさんは?」
 言いながらファイルから取り出した書類には、この8階建てマンションの5階から8階までの住民の名前や年齢、通勤・通学先などなどの個人情報が事細かに示されている。
 明らかに正規の方法で入手したものではないが、そんなことをいちいち気にするような仕事を二人はしていない。
「あの人は『どうせ朝のうちにやる気はないでしょ』って、昼から来るとか」
 ふざけてますよね、と呟く女性の眼光は相変わらず鋭い。
「まーそんな感じっしょあの人は。ペンある?」
 バッグから取り出したペンを手渡されると、書類の何箇所かにチェックを入れていく。
「4軒か。思ったよりいるな」
 候補がですか? と聞きながら書類を覗き込んでくる女性に対して、
「一応中二から女子大生まで含めてるから実際は2軒てとこかもしれんがね」
 言いながら枕元の煙草に手を伸ばし、おっと、という顔をして引っ込める。
「あ、大丈夫ですよ。置いてきてありますから」
「そう? 悪いね」
 安心したように煙草とライターを引き寄せ、一服して女性にかからないよう煙を吐く。
「で、悪いけど5時半までに6階のエレベーターの扉と、えーっと602号室の魚眼レンズから視といてくれないか。俺の経験から言えば、どんなひでぇ朝練でも5時半より前に家出ることはないはずだ」
「分かりましたけど、なんで6階にだけ? エントランスのほうがよくないですか?」
 ああそれはな、と言いながら男は書類をめくる。
「候補は5階にひとり、6階にふたり、8階にひとり。だから、6階を見張っていてその階からエレベーターに乗ってくればどっちか、上から降りてきたら8階、見なかったら5階だ。602号室は階段の前の部屋な」
 なるほど、と女性は頷いたあと、しばらくして首を傾げて
「え、でもそれ私が顔分かってないとダメじゃないですか?」
「ああ、それは安心しろ」
 灰皿に煙草を置き、7階の個人情報が書かれた書類を裏返すとペンを上へ放り投げる。現れた『手』がそれをキャッチすると、
「……朝練がどうのとか言ってましたけど、美術部だったんですか?」
「いや、小中高と野球三昧だったよ」
 さらさらと昨日遭った少女の似顔絵を描いていく。
「なんでか知んないけどこうやって絵描くとうまく描けるんだよなー。普通にやるとさっぱりなんだけど」
「羨ましいじゃないですか。私はどうやっても描けませんでしたよ」
「俺だって似たようなモンだよ。授業中は使えないしたまに宿題が出たからって使うと『親に手伝ってもらっちゃ駄目』って言われるし。っと、できた」
 赤ペン一色としてはなかなか見事な出来のそれを女性に手渡して、
「これ参考に視てて。6階は中学生と高校生だから制服覚えといて」
「了解です。じゃ、行きますか」
 女性はふらりと立ち上がり、男を見る。男は怪訝そうな顔をして、
「ん、何?」
「何じゃないですよ。2箇所視るんですから、一緒に来てもらわないとここに戻れません」
「あー……『手』だけじゃダメ?」
「いいですけど6階まで届きます?」
 女性の返しに男はぬは、と笑い
「そりゃそーだわ。俺の射程3mちょいだもんな」
 煙草の火をもみ消すと立ち上がる。
「戻ってきたら朝飯にする?」
「前見えないのにですか?」
「ごめんほんとごめん」
 微妙に足元がおぼつかない女性を男から飛び出した『手』が支えながら、二人は部屋を出て行く。

 入れ替わるときというのは、急に頭がすっきりしたような感じがする。
 そしてそのまま頭が痛くなる、というようなことも、授業中に入れ替わると往々にしてある。
 さらに目の前の数学のノートがまともに取られてない日には、頭痛は最高潮に達するものだ。
 「ふざけんな」とだけ書いた付箋は牡丹の怒りの最上級。
 6限が終わっても腹の虫は収まらず、怒りに任せてペダルを漕ぎながらどうしてやろうか考える。
 最近の桜はいろいろと杜撰になってきている。それが何かに気を取られているせいなのはなんとなく分かるのだけれど、その何かがさっぱり分からない。
 自分と桜の間には隠し事なんて作ろうとしても不可能なはずで、中学生の頃牡丹が恋をした時だってどれだけ隠そうとしても3日でバレてしまった。
 あの時の恥ずかしさはまだ覚えている。それなのに、桜はこんな風にならないなんて不公平だ。
 ――そうだ。
 桜への罰は、髪型の決定権1回にしてやろう。
 伸ばすのが好きな桜と短めが好きな牡丹は、妥協点として『しばらく伸ばしてばっさり切る』ことで合意している。
 でもたまには、夏が終わるくらいまでこれくらいでもいいはずだ。
 この程度なら桜も嫌とは言えまい。
 ほくそ笑みながらマンションの駐輪場に自転車を止め鍵を引き抜いて、日差しから逃げるようにマンションに飛び込む。
 どこへ行っても暑いのは変わらないけれど、日差しがないだけでもありがたい。
 暗証番号を入れてエントランスをくぐると目の前に階段があって、でも20分ほどチャリを漕いだ身体はそれを見なかったことにする。右に曲がればエレベーターがあるのだ。
 見るとちょうどひとり天パの男の人がいて、エレベーターを呼んでいた。扉が開いたのを見て慌てて小走りになる。幸いにも男の人は扉を開けて待ってくれていた。
「何階ですか?」
「あ、5階ですすいません」
 乗り込んで一息ついている間にエレベーターが止まる。階数表示は3階で、
「どうぞ」
 なのに男の人は開ボタンを押してくれている。
「あの、私は3階じゃなくて」
「ああはい、それは知ってます」
 男の人は笑みを浮かべて、
「でも、あなたにはここで降りてもらいたいんですよねェ」
 身体が傾いだ。
 慌てて足を踏み出してバランスを取る。しかし、またふらりと身体が扉のほうに持っていかれる。
 そのまま牡丹の意志と関係なく、何かに引きずられるようにエレベーターの外へとよろぼい出た。
「ハイ、どーもォ」
 対照的にすたすたと男の人が出てきて、エレベーターは5階へと上がっていく。
「え、ちょっと」
 訳が分からないまま、とりあえずエレベーターをもう一度呼ぼうと手を伸ばして、
 その手が、何かに掴まれた。
 男の人を見るが、両手は牡丹の疑問に答えるかのようにひらひらと振られている。
「違う違う。これやってるのはそっち」
 男の差すがままに後ろを振り返ると、一組の男女がマンションの通路の壁にもたれていた。男のほうはサングラスをかけていて、女のほうは目の下にひどい隈がある。
「昨日のこと覚えてるでしょ? 彼はテンフィンガーくん、寝不足のコがサッちゃん。そしてボクがベイビー。よろしくねェ、白木単さん」
 男が笑いながら友好の印とばかりに手を差し出してくる。
 握れるわけがなかった。
3

暇゙人 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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