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Midsummer Revel

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「国境の長いトンネル、じゃないけどさ……」
 扉を開けると、そこは森だった。
 空を覆う枝、枝、枝、薄く霞んだ空気、濡れた落ち葉。視界こそ札の山で塞いでいるが、目に頼らずとも魂で辺りの様子は感じすぎるほどに感じられる。
 しかしそれをどこまでかき分けようと、そこにはただ一匹の虫も、バクテリアさえも存在しないことを大二郎は知っている。ここに存在するのは実物であっても本物ではない、ここに存在する『それ』が創り出した命なき陽炎の世界だ。
「自分で生成した異界と相互影響を及ぼしあって承認を強めてるわけね……。よくある手口だ。慣れてる」
 扉を後ろ手に閉めつつ、分析の結果を口に出す。意図は二つ、この空間において「自分がそう思っている」ということがもたらす力と、認識の法則に則って相手の存在を濃く認識すること。
 今、『それ』は今この空間全体に薄く偏在しているはずだ。これを真正面から消し去ろうと思えばこの森を焼き尽くす必要がある。いくら大二郎でもそれは無理だ――だから、戦いの土俵に引きずり出してやればいい。
 身体を持たない魂は、強く認識するものに引き寄せられる。だから、目の前を空間全体に広がっている魂力の『吹き溜まり』であるかのようにイメージすれば、
「きた」
 薄く舌を舐める。札の壁に遮られるその先、大二郎の定めた舞台へと魂力が集中していくのを感じる。そこへ意識を向けてやれば、その姿すらはっきりと見えてくるようだ。脳を髄から刺すような頭痛こそするがこんなのはちょっとヤバい仕事じゃつきものだ。イメージは球。魂力を集めさせて固めて、形をはっきりと成したところを叩く――――今。
 大二郎は防御を棄てる。その身に纏う札を全て、己の頭の中にある球を包み込むように差し向け、開けた視界でその姿を直視する。大二郎ほどの魂力を持つ霊能力者に「見られて」しまえば、まずその軛から逃れることはできない。この異界に満ちる力は、ここに集まってこざるを得なくなる。
 せめてもの抵抗に、と言わんばかりに、大二郎のイメージした球から肢が伸びてはぐねりと蠢いて、あの踊りを見せつけんとしているが、それが意味を成す前に、札が肢を灼いていき、球の半径を縮め、遂にはその中心にある「もの」へと到達する。
 笠雲高校写真部長石井護国には、相棒がふたりいる。
 人は呼ばぬが技の一号、至る所に傷がつき、充電プラグの挿し口が露出した、少しばかり野暮ったい、スマホに画素数で負けて久しい、天下無双の業物。
 デジタルカメラ、『ケロリン』である。
 その名の由来については四つの伝説を語らねばならず、写真部の誰もが「長くなる」という理由で避けるがゆえにそれを知るのは今や力の二号こと笠雲高校写真部副部長、春海桐華のみ。しかし彼らは口を揃える、「石井護国の愛機として、これ以上にふさわしい名はない」と。
 それがついに、姿を現した。
 熾烈を極めた削りあいに、魂力尽きて舞い散った札たち。生き残りが二枚ほど申し訳程度に貼りついているものの、大した意味はないだろう。
 しかし、敵ももはやただ宙に浮いているだけに過ぎない。先ほどまでの抵抗は鳴りを潜め、魂力もほんの弱々しいものだ。
「わたしの勝ちだ」
 カメラのレンズを見据えて、そう言い放つ。その奥にある存在に、敗北を宣告してやる。
 それでこの勝負はおしまいだ。抵抗する意志を喪くした魂が、生きた人間の魂に勝つことはない。
 しかし。
「…………!」
 反撃の意志表明は、シャッター音で為された。
 服に薄く纏わせた魂力が剥がれる、それ自体は大したダメージではない、考えるべきはその反撃の意図。
「――制御下に置こうってか」
 返答はひたすらに切られるシャッター、その度に作業着から魂力が奪われていく。注ぎ直してはいるが、それを上回りかねない勢いだ。
 常軌を逸した量の魂力を持つ大二郎であるが、ソソギである以上『燃費の悪さ』という弱点は変わらない。通常ならば気に留める必要がないそれも、この大仕事では別だ。既に残った魂力は半分を切っている。魂の抵抗力だって全快の時と比べればそれなりに落ちている、それならば、写真に撮り続けることで繋がりをさらに強くし、さらに魂力を削っていけば、いかにこの怪物、鬼殺し大二郎といえども危険な、
「わけがないでしょ……」
 溜め息をつきながら、人差し指を向ける。
 ただそれだけで、シャッター音はぴたりと止まる。
「そっちも万全の状態でやればどうかわからなかったけど、今の状態でわたしの魂力なんて『取り込んだら』どうなるかなんて考えるまでもない――わたしがあんたの代わりにそのカメラを操るわ」
 万全を期すために、少々多すぎるぐらいの魂力を持っていかせてはみたが、買いかぶりすぎていたかもしれない。
 決死の抵抗も意に介さず、ソソギとしての能力を以ってデジカメの機構を動かし、『本体』――石井護国の撮った写真が収められた、SDカードを飛び出させる。
 同時にポーチから虎の子、1枚の札を抜き撃つ。表面にびっちりと書かれた文字と図形、その全てが計算しつくされた、『封ずる』ことに特化したものだ。それが籠められた魂力と反応し、表面の文様が輝きながらSDカードを包み込み、一度ぶるりと震えたが、ぽとりと札の山の上に落ちる。
 大二郎は慎重に距離を取りながら待ち、数瞬の後カメラとそれを拾い上げると、大きく息を吐いた。
 終わった。
 もはやこの空間には大二郎を除くいかなる魂の存在も認められない。彼女はただ冷涼で静謐な森の中におり、
 それ故に、背中を冷たいものが伝った。
 振り返ってみる、そこには辺りと何も変わらない森しかない。予想に違わぬ、そしてよくない結果だ。
 ――この騒動の始まりは、石井護国の撮った一枚の写真。
 それが『なに』であるのか、正確なところは分からない。かつては何か名前が与えらえていたかもしれないが、視るだけでも魂を壊してしまうその器ゆえ、それはゆっくりと時間をかけてその存在を「失わせされ」、封じられた。はるか昔の話である。
 写ったものはその途方もない力の一滴、人の器の及ぶ領域に過ぎない。それはたった今自分の手によって封じたが、作り出した異界の、とりわけ強くできた一部分は、本体との繋がりがほんのわずかあったかもしれない。
 その場合、本来主を失って消えるはずの異界は消えず、むしろ本体のほうへと、

 ――――ぼおお――――

 ――――ぼおお――――

 逆立ったうなじの毛がありありと認識できた。
 これまでと違う風鳴り、即座に目を瞑る。考えてはいけない。聞いてはいけない。感じてはいけない。その時に現れるものは、魂ひとつで手を出せるものではない。
 その場に座り込み足を組む。尻に伝わる冷たさを意識から追い出し、あちら側を強く思い浮かべながらあの三人への連絡手段を探す。今はまだあの部屋そのものは「重ね合わせ」の状態にあるはずだ。元の状態を知っているであろう人にあの扉を開けてもらえれば、この異界から引き戻されるくらいはできてもおかしくない。

 ――――ぼおお――――

 自分の魂力が籠められたものがどこにあるか――普段なら考えるまでもないことに、尋常でない集中を必要とする。間違いない、「繋がり」が薄くなっている。向こうに残してきた札だけでも百は下らぬはずだが、場所が分かったのが辛うじて2枚。籠めた魂力と位置関係から逆算すればこれで間違いないはずだ。
 これでひとまず、糸口は見つかったことになる。ここからは自分の腕次第だ。
 通ってきたルートを思い返しながら操作を開始する。どこをどう飛んでいるのかは靄がかった不明瞭、それがどうした。自分は十一代目禊大二郎、天下無双の鬼殺しだ。

 ――――ぼおお――――

 どことも知れぬ幽世の中、大二郎は懸命によすがを手繰る。
 その周りを虚ろに取り巻く風鳴りの感覚が、少しずつ狭まっている。

 不意に気配が鎮まったのは、否応なしに認識できた。
 問題はそのあとで、「おっ、これは大二郎さんやったんじゃ」さっきまでの落ち着きはどこへやら、我先にと出ていこうとする部長を「ないですかねおぅわぇ」桜が首根っこを掴んで引き戻す。
「何考えてるんですか部長!」
「なんかの罠だったらどうするんですか!」
「いや、ゆーてなんとかなるでしょ」
「「ならない!」」
 左右からの同じ顔によるステレオ口撃、それもなまじ痛い目を見ているからか容赦がない。それはナメック星人ばりに口から産まれた石井護国といえども怯みたじろがざるを得ない代物であった。
 故に、事の次第によってはこれの発見もいくらか遅れていたかもしれない。
「白井うしろうしろー!」
 その叫びを普段の実績を知りつつそれでも一応取り合ったのは桜、それを横目で見やって事態に気付いた牡丹が続く。
 大二郎の札が、貼ってあったはずの壁から離れてどこかへ飛んで行こうとしている。
 慌てて桜が札を掴む、しかしわずかな抵抗を感じる。籠められた魂力の光をじわりじわりと弱めつつ、なおも外へ飛ぼうとしている。牡丹と目を見合わせる、何かがまずい。
「部長、さっきの使ってください」
「おう任せろ! いくぜ、スゥゥパァァァァァ――――」
 牡丹の指示にそこまで大きく溜めた後、紫の光が瞬いて
「ドライ」
 不意に我に返ったようにぼそりと呟く。
「「なんですか今の」」
「オレの能力名に決まってるじゃないすか」
 淡々と語る部長は第二の人格が現れたようでかえって恐ろしい。あるいは石井護国という男が普段どれほど冷静さを欠いているのかと考えると、これもまた恐ろしい。
「……ビールですよね?」
「キンッキンに冷えてるのっていったら、やっぱビールじゃないですか。オレアサヒ派なんですよ」
「部長18歳ですよね」
「そりゃもちろん。酒とタバコは18歳からですよ」
「「20からです」」
「まあそれはそれとして、誰に使えばいいんですか?」
 それはそれとしちゃいけない、喉まで出かかった声を一旦飲み込む。これ以上やっていると部長が冷静さを欠きかねない。収集がこれ以上つかないのはまずい。
「春海先輩に。あと部長もそのまま落ち着いててください。何かやばそうなんで」
「了解」
 トイレの個室に入っていく部長。これはこれで大変な絵面であるが、とりあえず一番面倒な人は大人しくさせた。
 さてどうするかと桜を振り返ると、
「桜?」
「しっ」
 札を手に何やら呟いている。
 牡丹が不安そうな視線を向けてくるのを感じながら、
 ――――扉。――――なるべく詳し、――――出して開けて、
「……牡丹、部長呼んできて」
「ん、どして」
「写真部で、一番部室に詳しい人が欲しいって言われた。大二郎さんに」
「……大二郎さん?」
 牡丹は眉を顰める。桜の手にあるのは大二郎から渡された札、あの人ならどうにかして札でメッセージを伝えるくらいはできるのかもしれない。
 でも。
 その大二郎さんが、まだ自分たちの知ってるままである保証がどこにある?
 さっきまで自分たちを追ってきていた笠雲の生徒たち、それを見た後で、あの無茶苦茶強い人であっても、ああならないとは断言できない。もしまた何かの――
「牡丹」
 意識を戻す。自分と同じ顔がそこにはあって、
「大丈夫」
 妙に自信満々に、親指を立てている。
 きっといつもこんな顔をしていたのだろうと思う。テスト前に全教科を一通り頑張ろうと日記で誓い合って、そのくせ眠くなったらすぐ寝てしまって、ヤマを張ることで急場を凌ごうとしたり、中学の修学旅行で入れ替わったら道を間違えたことを班員みんなに責められていた時や、あれやこれや。だいたい、桜はいつも少し不注意で、頭より体が動きがちで、その尻拭いを牡丹がしたことは何度あったか知れない。「ぼうっとした」という評価の一端は絶対桜が担っているし、他にも罪状がいろいろあって、
 それをわかって、桜を信じない気が欠片も起きないから、自分たちは姉妹なのだろうと思う。
「先向かってるから」
「ん」
 互いの思うところなどいちいち言葉にするでもなく、桜はふわりとトイレを出て、牡丹は踵を返すと一応ノックして個室の扉を開き、「何やってるんですか」春海のほっぺを伸ばしている部長を発見する。
「いや、意外と伸びるなって」
 悪びれるでもなく言い放つ部長、その手からは紛れもなく紫の光が漏れており、能力を使ってはいるようである。なんなんだこの人は、と思いながら事態を話し交代を申し出る。
「なるほど。それは確かにオレですね」
 と個室を出ていく。去り際に「いろいろ見えそうなんで春海のボタンひとつ留めといてください」と言い残して。
「――見えそうっていうか」
 見えてる。
 第一ボタンを留めながら、部長の姿を思い出す。ほっぺをぐにぐにと弄びながらその視線は愚直なほどにまっすぐ前を向いており、
「部長……」
 案外ピュアなのかもしれない。

 その部長は、先行した桜を追って廊下を歩く。持ち前の長い足を用いて大股でつかつかと進む、それ自体は笠雲ではよく見られるものであるが相違点はふたつ、ひとつはケロリンの有無、もうひとつはその精神状態。『スーパー・ドライ』の力で明鏡止水の境地にある彼の心の元の色はケロリンさえも知らず、されど空の青さを知る。
「お待たせしました」
「あ、部長」
 ふわふわと飛ぶ桜に追いつくと声をかける。
「オレは何をすればいいんですか?」
「えっと、とにかく部屋の様子をできるだけはっきり、細かいとこまで浮かべながら、部室に入ってくれって」
「それだけでいいんすか? もっとオレの『スーパー・ドライ』でバァーンとやってくれとか」
「いや、たぶんそういうのはないと思うんですけど。ただ」
「ただ?」
「最悪の場合は帰れないそうです」
「帰れないってのは、大二郎さんがですか? 俺たちがですか?」
「……どっちですか、ね」
 答えを求めて、札越しに大二郎に呼びかけてみる。しかし返事は返ってこない。
 さっき札を手にしたときには、それなりにはっきりと大二郎のメッセージが伝わってきたし、手に持ちながらならこちらからも呼びかけられた。大二郎もこちらから話せるとは思っていなかったみたいで、かなりびっくりしていたけれど、とにかく手順の説明はしてくれた。
 けれど、途中からどんどん声は遠くなっていって、今はもう目に見えて札の魂力も薄れてきている。
 やばい状況なのは伝わってくるけれど、これ以上桜は急げない。
 今日一日の魂に刻まれたダメージからか、身体に強く引っ張られる力を感じる。どれだけ急ごうとしても、そのせいで普通に歩く程度にしか進めない。
「部長」
「なんすか?」
 仕方なく、桜は事情を話し、先に行ってくれるように頼む。
「なるほど、そういうわけですか」
 納得した素振りを見せた部長は、しかし歩調を落として桜と並ぶ。
「それは一緒に行かないといけないっすね。白木さんになにかあったら大変ですし」
「いや、先行ってもらってもたぶん大丈夫なんで……」
「いや、ダメっすよ。オレは部長ですから」
「……部長、変なところで部長ポジの責任感出しますよね」
 少し呆れ気味な桜の一言。
それに対し部長はにやりと笑って。
「当たり前じゃないすか。これは、オレにしかできませんから」
 桜たちの見慣れたいつもの笑みで喋り始める。
「オレは自分にしかできないことをやりたくて生きてるんです。だから写真が好きでして。どんな写真家だって、オレより巧い写真を撮れても『オレの写真』は撮れない。オレの見てほしいものをオレ以外に紹介できるのはオレだけで、しかもあろうことかオレにはそれを手伝ってくれる優秀な部下がいて、オレのできることの幅を広げてくれる。だからオレは部長をやるし、部長として生きるんですよ。オレがオンリーワンで、ナンバーワンであるために」
 流石と言うべきか、一息に喋り終えて、満足げに桜を見る。
 正直何を言っているかわからないのはいつものことなのだが、その圧倒的なオーラに気圧されて頷きつつ、渡り廊下を抜けて曲がる。もう部室はすぐそこで、
「な、なかしゅーっ!? ヤソちゃんっ!?」
 部長の絶叫が響く。
 廊下に横たわるは先ほど大二郎に蹴散らされた写真部員、1年生のなかしゅーこと中村修平(なかむら しゅうへい)と八十島稍(やそじま やや)。慌てて駆け寄るも、
「し、死んでる……!」
「部長、ガチで怖いのでそのボケはやめてください」
 思いっきり息をしているし、なんなら触れてみた限りは魂だってある。さすがに不謹慎が過ぎるというものであるが、平常時のノリでやってしまう部長には驚きと呆れを禁じ得ない。
「お約束じゃないすか」
「お約束でもです」
「すいませんでした。で、オレがなんかしたほうがいいですか、その二人」
 『スーパー・ドライ』を使用するとき特有の真面目な顔になって、部長の掌が光る。
「いや、ひとまず大丈夫そうなんで、それより大二郎さんをどうにか」
「了解です」
 言うが早いか、部長は勢いよく部室の扉を開け放つ。
「ちょっ、」
 さっき言ったことを覚えていないのか。できるだけはっきり思い出しながら開けてもらわないと最悪の場合は二度と帰れなくなるかもしれないと、
「――――これでいいんすかね。大二郎さん」
 言われたからどうだと言うのだ。
 いわばこの部屋は彼の城。二年半溜まり続けたこの部屋の仔細など、いちいち思い出すまでもなく脳裏にはっきりと焼き付いている。今の最高に頭の冷えている状態でなく、普段通りの石井護国でも、この扉を開ける際に迷うことなどなかっただろう。
 出るわけのない冷や汗が伝う感覚を味わった桜をよそに、部長は平然と中を覗き込む。
 数少ない足の踏み場、椅子とマクデブルクの鉄球の間のスペースに瞑想のような姿勢で座り込んでいた大二郎は、部長の呼びかけに初めの数瞬沈黙を以って答え、それから大きく息を吐くと目を開けた。
「ええ、最高よ」
 それから、抱え込むようにして持っていた部長の相方を、無造作に放り投げる。
「のおおおおおぉーーっ!?」
慌ててキャッチする部長。
「受け取ったわね」
「え、ええそりゃもちろん」
「じゃあ、私の言うことを聞きなさい。これは取引よ、それもこれ以上ないくらいあなたたちに譲歩した」
「……はあ」
 流石に事情が呑み込めていないらしい。それを好機と見て、大二郎は頭と舌を勢い良く回し始める。
「いい? 本来の私の立場からすれば、そのカメラを返すなんてのはあり得ないことなの。万全を期すために関わった物品は全てこっちで処分することになってるから」
 これは本当。
「けど、そのカメラは石井くんの大事なものなんでしょ? そんなものを一方的に処分しちゃうのは、さすがにあんまり。だから、私が厳重に浄化したってことにして返してあげる。本当はダメなんだけれど」
 これもほとんど本当のことだ。
「だから、その代わりと言っちゃなんだけど、キミたちには事後処理を頼みたいの。えーっと、桜ちゃんだっけ? にも」
「ふぇ?」
 いきなり話を振られて驚く桜。それをあえて無視して、大二郎は続ける。
「今日、ここで石井くんは霊能力に目覚めたでしょ。なぜかって言えば、大量の魂力を浴びて魂が目覚めたから。これは何も特別な事じゃないの」
 その言葉に部長が若干眉を顰めるが、その理由など大二郎は知る由もない。
「程度の差はあれ、今日ここにいた子たちには魂に強い刺激が与えられてる。たぶん、霊能力に目覚める子が何人もいると思うわ。あなたたちには、見つけ次第それを教えてほしいの」
「……それは構いませんけれども、いったいどうしてですかね」
 まったくだ。誰だってそう思う。
 もちろん本当のことを言うのは簡単だ、けれどいくらか嘘をつかざるを得ない事情が大二郎にはある。
「私の仕事の都合。はっきり言って、この地域でこんなに霊能力者の密度が濃いところは他にはないわ。今日みたいなレベルでなくても霊が集まってくるかもしれない。特に、弱い霊能力者は霊に負けちゃうことだってあるから、こっちが存在を確認しているかいないかはすごく大きいのよ。けど、私じゃ全員をいちいち確認してはられない。だから君たちにお願いしたいの」
 嘘である。
 専門家であるところの大二郎が見て回れば、それくらいはすぐに分かる。しかし、その為には少々痕跡を『残しすぎる』。ただでさえ今日自分はかなりこの学校に「縁」を結びすぎてしまった、これ以上は隠蔽しきれない可能性がある。
「そういうことなら勿論お引き受けいたしますけども、教えるってのはどうすれば、」
「それなら桜ちゃんにお願いして。あなた、まだベイビーさんの連絡先持ってるでしょ?」
「え、はい」
「彼経由で私に届くように手配しておくから。よろしくお願いね」
 ウインクして何か言いたげな桜をなんとなく丸め込んだ形にし、大二郎はそれとなく視線を窓の外に向ける。
「――帰ってこれたみたいね」
 釣られて二人も窓の外を眺める。
 そこには随分と懐かしい心地のする真夏の太陽があり、針葉樹の生い茂る隙間から冗談みたいに白い入道雲が見えていた。
「助かった、」
 ただ、その言葉だけを残して。
 全ての緊張の糸が切れたように桜は身体へと引き戻されていった。
「白木さん!?」
「ああ、心配しないで。身体に戻っただけだから」
「マジすか、さすが幽霊」
 大二郎もこの業界で長いが、この背高ノッポは後天的に目覚めた割には呑み込みの早い男だと思う。
「じゃ、悪いけど私もお暇させていただくわ。人目に付くといけないから」
「おぉー」
「プロっぽいっしょ」
「超かっこいいっす」
 いい笑顔で返される。話の分かる(もしくは深いことを考えていない)男で助かった。
「悪いけど、さすがにSDカードだけは貰っていくから新しいの買って。あと、外に倒れてる子いるでしょ。あの二人がもしあんまりに目を覚まさないようだったらすぐ連絡して」
「了解です。オレがきちんと面倒を見ます、部長として」
「信用してるわよ」
 そう言って、大二郎は窓を開ける。
「最後も窓からなんすか」
「それが霊能力というものよ」
「うわー、それいいっすね使わせてもらいます」
「やめて。じゃあね」
 ひらりと手を振って、大二郎は二階の窓から飛び立った。
 どうもあの高校生とは会話が続いてしまっていけない、と反省しながら、何枚かの札を飛ばしつつ携帯であちこちと連絡を取る。自分が乗り込んでいる間にきちんと裏方は外堀を埋めてくれていたようで、今ここらを取りまとめる神社は例のラムネの情報に踊らされていて、異界が開いていることなど気づいてもいないはずだ。
 それでこそ、中毒者を何人か泳がしておいた甲斐があったというものだ。
 人はどうしようもなく社会的動物で、どんな組織であろうと派閥は勝手に生まれては対立し、利害を生む。そして、組織に属さないというのは人間が人間である以上不可能なようにこの世はできている。
 或いは、初代禊大二郎の生きた時代であれば、強さのみを恃んで一本独鈷を貫けたかもしれない。だがこの現代において、この国の歴史の中でも上から数えたほうが早い、現人神とされてもおかしくないようなこの天才は、その力の強大さゆえにいくつもの派閥から疎まれる存在ですらある。
 結果として彼女が属している派閥は極めて実務的な部署、平たく言えば汚れ役だ。大派閥の全てから疎まれ警戒されヤバい仕事を押し付けられ、それを完膚なきまでに遂行することで無視できぬ影響力を行使する、いらぬ繊細な立ち回りを要求される立ち位置である。
 故に黒い部分は表に出してはならない。発言力をわずかでも削らぬために。
 そのために『裏』と繋がっているという証拠であり、霊籍を持たぬことを見逃すどころか餌として使うことを黙認しさえした白木単という少女たちは、もはや表に出せる存在ではなくなってしまっている。
 この異界を表沙汰にしてしまえば、目覚めた霊能力者の管理は自分たちの手を離れゆく。その過程で必ず白木単は発見され、そして全てが露見するだろう。それを未然に防ぐためならば、本来ならば報告しないということはありえない異界の出現ですらもみ消す理由が彼らにはある。
 幸いにして、この街にはハーメルンという都合のいい存在が「いた」。いずれは霊能力者分布の異常が発覚するだろうが、全ての原因をそちらに押し付けてシラを切り通してやればいい。身柄を押さえておいたのが図らずして役に立った格好だ。
 そういった事柄を逐一確認し終えた後、最後に大二郎はもう一台の携帯を取り出す。
 本来はプライベート用で仕事の話をするなど、この稼業では特にありえない話なのだが、あえてそれを無視して、腐れ「縁」を電波で繋ぐ。
「もしもし、ユウ?」

「……つーことで、表との契約内容に追加、ってことだそうです」
 あろうことかもう一台の方で仕事の話をしてきたアホがべらべらと喋った内容を伝え終えて、テンフィンガーは疲れた溜め息をつく。
「あちらサンも言いたい放題言ってくれるねェ。まあ払いが良ければなんでもいいけどさァ」
「どうせ仕事なかったッスしね。歩合給は辛いんスよ」
 茶々を入れてくるザンギリに苦笑で答えながら、ベイビーはデスクの横の棚を叩いて『ドナー・ドリーマー』を発動する。
 並んだファイルの中から滑り出てくる『白木単』の個人情報を今一度眺める。思っている以上に頭に残っている自分に驚き、頭を掻いた。
「なんの縁かねェ」
「なんでもいいですけど、元の場所に戻してくださいねそれ。出した場所ちゃんと覚えてますか?」
「へいへい」
 ここに時限爆弾があるとする。
 当然赤と青のコードがついており、どちらかを切れば解除できるわけなのだが、そこのお約束を抑えている割に「いつ爆発するか」をどこにも表示してくれていない。
 しかし、何も危険を冒して解除する必要はない。運が良ければ爆発する前に専門家がやってきて正しいコードを切ってくれるだろう。となれば爆発してしまった時に備えて逃げておくべきだ。
 ではこの時、敢えて爆弾に立ち向かうべきか、逃げるべきか。
「牡丹の言うことは分かるんだけど、ぜっったいやめたがいいと思う」
「あたしもやめたいけどさ……ごまちゃん可哀想だよ……?」
 長々と例え話をしたが、要は何が言いたいかと言えば。
 この時限爆弾こそが石井護国という男のポジションである。
 桜の「絶対ややこしくなるから黙っておこう」という主張と牡丹の「ごまちゃんの為だし、何かの間違いで部長のところに現れたらそのほうがややこしいからあらかじめ話しておこう」という主張、そのどちらにも措くには惜しい正当性があり、採るには怖いリスクがあった。かくて侃々諤々の議論は着地点を失いなおも続いている。
「よしわかった」
「何が?」
 桜は携帯を掴むと、
「ごまちゃんに聞こう。確かまだ起きてたよね」
「うん、また10時半だから――じゃなくてさ」
 制止も聞かずにメッセージを送る――『今暇?』。それからおよそ30秒、『ひまだよ』と返ってきたのを見るや否や入力を始める。
「いや待ってってば。聞くって言っても簡単に説明できるようなことじゃないじゃん」
「だからー、めんどくさい部分全部省いて聞く。二年にもなって部長見たことがない人の方が少ないでしょ」
 これには牡丹も何も言えない。理由が気になった方は笠雲の体育祭をフェンス越しにでも見てみるといい。ゴール地点で相棒を構えて「視線お願いしまーす!」を一日中連呼する男がいるはずである。
 一年目は神聖なる体育祭を愚弄する気かと実に正当な、しかし絵面はヤのつく自由業まがいの恫喝をかました体育科も熾烈な戦いの末あらかた折れ、遂には悪ふざけで申請してみたら写真部の活動実績として認められ、部長の卒業後も続けるか悩まれるに至りいよいよ治外法権の様相を呈している。
「アレ知ってて部長にこの話したくならないでしょ……」
「でも逆に、これでいいって言われたらもうそれであたしも納得するから」
「んー、まあそれなら……」
 それで部長に話さずに済むのなら牡丹はそれでいい。
 どう考えても常識人のごまちゃんなら、あんなヤバい人にこの一件に噛んでほしいとは思わないはずだし。

 ごまちゃんは常識人じゃないかもしれない。
 返ってきた返事はまさかのイエスで、やむを得ず二日に亘る文化祭準備の一日目、ホームルームを終えてすぐ。
 どうせ部室にいるだろうと当たりをつけてあらかじめ桜が捕まえに行った部長を連れ出して、写真部の抱える真の治外法権、暗室でこそこそ話をしている。
「最初にお願いなんですけど」
「なんすか」
「部長の、えーと」
「俺の能力なら『スーパー・ドライ』ですけど」
「それ。それ使っておいてください」
「そのオレがほっといたら何しでかすか分からないみたいな扱い、合ってるから腹立つね。まあお安い御用っすよ」
 そう言うと、部長はサイヤ人もかくやというポーズで臍下丹田に力を籠め、
「スゥゥゥゥゥゥゥゥパァァァァァァァァァ――――――」
 溜めの感覚も見事に、
「ドライッッッ!」
 と叫ぶと、キメキメのポーズでビシリと額に指を当てる。その指先が青く輝き、
「はいお待たせしました。胡麻蔵さんですっけ。見苦しいものをお見せしてすいません」
 それまでのテンションはどこへやら、その「冷静になる」霊能力をいかんなく発揮した部長が別人のような顔で問うてくる。
「……毎回それやるんですか?」
「決めポーズもなしに能力を使うなんてダサいこと、普段のオレはしませんよ」
 真顔で返されると困る。
 兎にも角にも、これまでの経緯を部長に語っていく。ふんふんと口を挟まずに聞き終わった部長は、
「確認したいことがいくつかあるんですけど、いいですかね」
 そう言って指を三本立てる。
「まずひとつ。胡麻蔵さん、これまで学校でその能力を使ったことは?」
「……ない、と思います」
「ですよね。で、もう一つ。皆さんが見たのは右手だけで間違いないんですね?」
 全員が頷く。部長は二本の指を折って、
「じゃあ最後に白木さん……じゃダメか。牡丹さん」
「はい」
「そいつ燃やすとき、一番最後まで燃え残ってたのどこですか?」
 意外な質問に、咄嗟に答えが出せない。
 でも、それを聞かれて改めて記憶を辿ってみると、確か――――
「手よりも、腕の方が最後まで残ってた、ような」
「んー。そうです、か……」
 部長はそれを聞き、指を折ると髭剃りをめんどくさがっている顎に手を当て少し考えたあと、
「えーとですね。聞きますかオレの推理」
 桜と牡丹はごまちゃんへと視線を注ぐ。ごまちゃんは少しびっくりしたような顔をすると、
「お願いします」
 頷いた。
「まずですけどね。オレはこの話聞いたとき、すげー不思議に思ったんです。『なんで胡麻蔵さんなんだ?』って。霊能力を持ってるやつを襲うなら、白木さんでもオレでもいい。オレたちのほうが、ずっと能力を使っているんだから」
 桜が頷く。自重するように言われているとはいえ、全く使わなかったわけじゃない。
「となれば、『胡麻蔵さんを狙ってきた』と考えるのが自然だと思うんです。でもそうすると、今度はまた疑問ができる。なんで、『赤い手』は胡麻蔵さんが霊能力を使うまで待ってたんでしょう? 別に吹奏楽部なんて一人で練習してるときはいくらでもあるはずだ。そこを襲えば、白木さんたちに妨害されることもなかった」
 ごまちゃんの顔色が変わる。部長はそれを見て、「すいません、心配させるようなこと言って」と頭を下げた後、
「理由は簡単です。そいつは多分能力を使ってる自覚がない。オレも最初はそうでした。『赤い手』がどういう能力かは具体的には分からないですが、多分魂力ですっけ? それを察知して、無意識に発動したんでしょう。だから、胡麻蔵さんが能力を使わなければ出てくることはない」
 それを聞いて、部長を除く三人の顔に安堵の表情が浮かぶ。しかし、部長は表情を崩さず、
「ただ、それはあくまで今のところの話です。もし今後、オレたちみたいに自由に操れるようになれば、どうしてくるかは分からない。で、これはそれを踏まえた質問なんですが――――」
 もう一度、人差し指を立てた。
「胡麻蔵さん、うちの学校に左利きでいつも腕時計してる知り合いってどれくらいいます?」
 ごまちゃんが目を見開く。
「これは本当に推測なんで聞き流してもらって構わないんですけどね――――その『手』、赤いじゃないですか。白木さん、じゃなかった桜さんは、光ってるとはいえまあ人間の肌の色に見えるのに」
 何も言わないごまちゃんの表情は、無表情を取り繕うときのそれ。
 桜はいたたまれなくなって視線を外して、いくら『スーパー・ドライ』を使っているとはいえ、遠慮を知らないあの部長が床を見て喋っていることに気付く。
 ごまちゃんに直接言葉が届かないようしているみたいに。
「でもってですね。右手しかないってのも不思議な話ですよ。白木さんたちの知り合いに、手だけ飛ばせる人がいるって話はオレも聞いたことあるんですけど、その人は両手揃ってる。これも個性と言われたらそれまでですけど、おかしいといえばおかしい」
 止めようかどうか迷う。でも、やると決めた部長を止めるのが至難なのは知っている。
「もうひとつおかしいところがある。『手』はギリギリ肘くらいまで見えたって話ですけど、なんでそんな半端なところまでなんでしょう? 魂力が足りないのかと最初は思ったんですけど、もうひとつ可能性あるなって気づいたんですね。『そこまでしか赤くない』んじゃないかって」
 ここまで言って、部長が顔を上げてごまちゃんに無言で視線を向ける。俯いたままのごまちゃんを肯定と取ったのか、部長は再び口を開く。
「まあお察しと思いますけど――――リスカですよ、多分。手の出現範囲は血が付いたことがあるとことかそんなんでしょう。で、ですね。切るのはいいけど痕なんて簡単に消えるものじゃない。じゃあ隠すにはどうしたらいいって、腕時計巻くのが一番自然ですよね」
 長袖着るほうがよくないですか。
 そう言いかける寸前で、牡丹は部長の言いたいことを理解した。
「腕が手より長く残ってたっていうのも、理屈はどうだか知りませんが手首を切ってるんだとしたら一応『血が多くついてたところ』って理屈はつく。もし腕時計で隠してるなら、右手が出たってことは左利きの人の方が可能性が高いんじゃないかな、と思いまして」
 笠雲高校音楽室には、当然冷房などという上等な設備は整っていない。
 故に夏場はパート毎にTシャツを作り、それで練習をする。そうでないとやっていられないからだ。
 最初の質問の前に、部長はリスカのことを予想していたはずだ。その上で半袖を想定していないというのはつまり、そういうことなのだろう。
 この『手』の持ち主は、ごまちゃんと同じ吹奏楽部にいる。
 それも、ごまちゃんの反応からして、すぐに察せるような仲の人に。
「…………ちょっと思いつかない、です」
 ごまちゃんが絞り出すように言って、
「そうすか」
 部長が静かに頷く。
「じゃあもしなんか気付いたりしたらすぐ白木さんたちに言ってくださいよ。オレも役に立つか分からないけど駆けつけますから」
 こう見えても脚力には自信があるんですよ、と言いながら、部長が暗室の扉を開く。
「スタミナないですけどね、部長」
「後先考えずに全力ダッシュ、それが石井護国スタイルよ」
 桜のツッコミにビシリとポーズを決める。それを見てごまちゃんは表情を崩し、
「ありがとうございました」
 小さく頭を下げて出ていく。
 どちらともなく目配せして、牡丹がごまちゃんを追った。
 二人きりの暗室で、桜が笑う。
「部長も気を遣うんですね」
「ったり前ですよ。オレはいつだって誰にだってサイコーに楽しんでほしいって思いながら写真撮ってるんですから。もし彼女でも出来ようもんなら気遣いまくりーの貢ぎまくりーの逢いたくて震えーのからのトツギーノです」
「え」
 桜が停止する。
「えじゃないすよえじゃ」
「春海先輩て彼女じゃないんですか」
「はぁ? なんでオレとあいつが」
「いやだって、大体一緒にいるし」
「そりゃ相棒ですからね。力の二号ですよ」
「春海先輩薬指に指輪してるし」
「そりゃあいつ彼氏いますもん。第一オレがしてねえし」
「やたら二人で写ってるプリあるし」
「まあゲーセン行くたびについでで撮ってますからね。そりゃ溜まりますよ」
「え、え、ええぇーー…」
 写真部入部より一年半。
 あまりに当然のように仲の良かった部長と副部長に、付き合ってるに違いないという認識はすれど確認はしてこなかったが、いやしかし。
 ごまちゃんがどうでもよくなるくらい衝撃の事実だった。
「その、なんていうか、部長」
「はい」
「頑張って彼女作ってくださいね……」
「なんすかその顔。言っときますけどオレそこそこモテますからね。試験前とか」
「数学教えるの上手いですもんね、部長……」
「いやね、数学なしでもモテますよ俺。この二日間でどんだけ声かけられるか見ててください……あ、やっべ春海からめっちゃ怒られてる」
 部長がスマホに溜まった通知を見て声を漏らす。今年の写真部の展示の「準備」をせっつかれているらしい。確かに、これは部長がいないと始まらないから。
 先ほどまでの落ち着きはどこへやら、暗室をばたばたと出ていく部長を見てため息をひとつ。
 世の中どうなってるんだ。

 暗室は特別棟の1階の階段の下の空間にあって、生徒棟まで戻るには少しある、
 階段を上るごまちゃんを急いで牡丹は捕まえた。
「ごまちゃーん」
「あ、えっと」
「牡丹のほうね。ごめんね部長遠慮知らない人だから。だからあたし会わせるの反対だったんだけど、」
「ううん、いいの。なんていうか……その、すごい人だと思ってたけど、いい人なんだね」
「まあいい人、には違いないかもしれないけど」
「すごい気遣ってもらっちゃって、申し訳なかったウチ」
「いやほんと気にしないで! あの人あれくらい気を遣った方がいいから!」
「てかさてかさ、めっちゃ頭よかったよね! ウチ全然思いつかなかったもん!」
「それは確かに、」
「とにかく、あれ使わなかったら大丈夫って分かって安心したー。そうそう、何かあったらほんとに連絡していいの?」
「うん、それもちろん。てか連絡して!」
「部長さんさ、ほんとに来てくれるのかな」
「部長は文化祭中学校の中走り回ってるから、下手するとあたしたちより先かもね」
「走り回ってるって?」
「なんかね、今年の展示は文化祭の風景を片端から撮りまくって気に入ったのをその場で展示するらしくてさー。あたしたちもやるんだけど部長はもうずっと走ってるらしいから。吹部に来ても見逃したげてね」
「てことはさ」
「うん」
「ウチが撮られることもあるわけなのね」
「いやほんと、嫌なら断ってもらって構わな――――」
 その瞬間、牡丹は視界に赤を捉えた。
 先ほどまでの部長の推理はどこへやら、『赤い手』がそこに出現していた――――のならば、まだマシだったかもしれない。牡丹にはそれを燃やすことができる。
 その赤はごまちゃんの頬にあり。
 ありていに言えば、写真を撮られることに思いっきり照れていた。
「――――いからね」
 言葉が急に尻すぼみになった。ごまちゃんは「うん」と頷いたが、なおも朱が差す頬と視線の動きと表情と、それらすべてが乙女の期待を雄弁に物語っていた。
 恐ろしい予感に、牡丹の背中に戦慄が走る。
 ――――吊り橋効果というものが世の中にはあって、要は心臓のドキドキが恋かそうでないかなんて区別はできないのだ。下手に気を遣ったせいで勿体ぶった話し方による期待、衝撃の内容による驚愕。それら全てが化学反応を起こし、そこに普段炸裂している謎のかっこつけを能力のせいでマイルドな形で行った奴がひとりいて、今まで変な人だと思っていたらまともなところを見せ付けてきたりした日には。
 今世紀最大の間違いが、起こることもあるかもしれない。
 こののっぴきならない事態に牡丹の脳味噌はフル回転を始める。大変なことになった。ごまちゃんは部長には勿体なさすぎる女の子だし、部長は普段のアレが本質だし、そもそも春海先輩という彼女がいる!
 そうだそれだ。ちょうど部活の話になったんだからそれとなく春海先輩の話をして、「ごまー」誰だ!
 声のする方へ振り向くと、吹部のTシャツを着た女子が手を振っている。思わず右手に視線が行く。何もつけてない。
「あ、ちりー!」
 ごまちゃんも笑顔で手を振っているところからして、「心当たり」ではないらしい。安堵しながら近寄ってくるのを見ていると、「先生がパートリーダー呼んでるんだけどさ、やっちゃん先輩知らない?」と言った瞬間、ほんの少し表情が陰るのを見た。
 ――――つまりは。
「ううん、ウチいまから練習行くから……」
「マジで? リハ前じゃん」
「だから頑張る」
「もーそんなんでいいのかフルート」
 笑いながら女の子が去っていって、ごまちゃんが申し訳なさそうに「ごめん、練習行かなきゃ」と笑う。
「あのさ、」
「ん?」
 ――――そのパートリーダーってのは、ひょっとして。
「頑張れ」
 踏み込むのをやめて、意味もなく親指を立ててみる。ごまちゃんはそれをどう受け取ったか、「うん」と頷くと去っていった。
「やっちゃん先輩ね……」
 これは桜にだけ言うべきかな。部長に言えば何を始めるか、
「あ」
 そういえば。
 ごまちゃんに春海先輩のこと、伝え忘れた。
 どうやったらそれとなくこの話をできるか考えて、ちっとも思いつかない。なんでよりにもよって部長なんかに。
 世の中どうなってるんだ。
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