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「一緒や! 就活しても!」

 前期の成績表を見るなり、田野口(たのくち)は叫んだ。視線の先には「不可」の二文字。
 大学4年生前期を終えて、未だ必修である「経済原論Ⅰ」の単位取得ならず。ミクロ経済学の女神は、今年も彼に微笑むことはなかった。そして、この講義は前期にしか開講されない。
 この意味するところは、即ち留年である。留年となれば、内定取り消しという憂き目にあう可能性が高い。幾月にも及ぶ激しい競争の末に勝ち取った血と涙の結晶が、理不尽に破壊されかねないのである。
 成績表の配布場所である学務課の窓口で、よよと泣き崩れる田野口に対して、見かねた大学の職員が「まぁ、企業によっては1年待って貰えるところもあるらしいし」と慰めの言葉(義理)をかける、が、その声は彼には届かない。
「マンキューも読んだ! スティグリッツも読んだ! なんでや! なんで不可なんや!!」
 けたたましい彼の叫び声は幾人かの学生の驚きと嘲笑を誘ったが、学務課の職員にとっては見慣れた光景なのであろう、「他の学生の方のご迷惑になりますので」とそれはもう役人然とした態度で田野口を窓口から追い返した。彼も一応は常識を備えた人間であったから、それ以上苦情を言うことも、居座るつもりもなかった。
「なんでや……」
 学務課の外で、彼はなおも未練たらしく呟いたが、その声は厳しい残暑を謳歌する蝉たちの賑やかな声にかき消された。



「原論Ⅰ、アカンかったらしいやないですか?」
 意気消沈しながらトボトボと坂を下る田野口に、ニヤニヤと底意地の悪そうな表情をしながら声をかけたのは、彼の悪友の立刀(りっとう)である。
「察してくれ」
 もう返事をするのも億劫とほとんど無視をするような恰好で急ぐ田野口――
「単位取得にあたって、貴方に決定的に足りていないものがあります」
 その耳元で、立刀が囁く。
「なに?!」
 単位という言葉に敏感に反応する田野口。よしよし反応しおったわいと、いよいよ立刀の顔は醜悪に歪む。
「言っとくけどな、立刀」
 田野口は顔を引き締めて言う。
「俺は、勉強してんねんぞ」
「いやいや、違うんですよね、田野口サン」
 即座に立刀が反駁する。
「違う? 何が違うんや マンキューやのうて、クルーグマン読め言うんか」
 ここで、正ENDへ至る選択肢は「田野口サンは経済学者の書物を読む前に、基礎微分積分学と入門統計学を読むべきです」という回答である。しかし、もちろん、立刀はそんなことは言わない。わかっていても言わない。
「だから、違うんですよ田野口さん。貴方にはね、決定的に足りてないものがあります」
「……なんや?」
「度胸ですよ」
「大学4年生の経済原論Ⅰ言うたらね、もう後がないですからね。落としたら、即留年。しかも、この講義は、担当教授によって難易度が大幅に左右される。そんな講義、貴方のような小心者がとれると思いますか?」
「……結論から言うてくれ」
「貴方は度胸をつけねばなりません」
「具体的には?」
 田野口の問いかけに、すぐには返事をしなかった。突如訪れる、間(ま)。蝉たちが相変わらず鳴いている。昼下がり、まずます日差しは盛んである。風に乗って、遠くのグラウンドからアメフト部の掛け声がかすかに聞こえてくる――
 つと、立刀は粘りつくような、まとわりつく汗のような、そんな後味の悪い声を発した。
「ほな、行きましょか。新開地」


 

 
 








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