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――コーヒーはチョコレート・ブラウンで

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「ふふ、久しぶりのお客さんだね本当に」
 憂いた色のない声で嬉しそうに言って、栗毛の店員さんはパタパタとカウンター奥で何やら取り出したりそれらを並べたりしている。とりあえず僕は客人として迎えられているようだ。
 狭いスペースの中でちょこまかと動きまわるその姿は、小柄な方の自分より更に背が低い。栗色の髪をうなじまで下ろした先を内側に跳ね、そこから下は群青色のエプロンワンピース。
「もー緊張感もなくなっちゃっててね。ごめんね、今準備するから。好きなとこ座ってくださいな」
 思えば店に入る前からこの建物の存在に始まり奇っ怪なことの連続で正直怖いし失礼したい。のに、店員さんのごく普通な振る舞いと笑顔に何となく安心感を得てしまって、促されるままカウンターに座った。なるほど、さっき勝手に腰掛けたときは気付かなかったが、店主に合わせてちょっとテーブルが低めだ。
 寝姿では分からなかった小柄な体型の彼女を理解すると、様々な違和感がふと湧き上がってくる。顔つきも自分よりは幼く見えるし、年齢も然り。とても店を一つ構えるような人には思えなかった。
 不躾に人間観察なんてしてると、僕の視線に気付いたのか、店員さんも身を乗り出して顔を近づけてきた。
「わっ」
「ふふ。うーん……うふふ、へーぇ」
 急に至近距離で覗きこまれてたじろいでしまう。品定めするような目線と呟きを受けて、少し自分の行動を省みた。ちょっと失礼だっただろうな。
 一抹の気まずさを紛らわそうと、何を頼むべくかメニューを見ようとして、そういえば当のそれがカウンターのどこにもないことに気がついた。
「あの……」
「メニューはね、置いてないんだ」
 言おうとしたことを実際発言する前に、それに対する答えが返ってくる。外見の特徴しか目につかない自分より人間観察が得意らしい。
「そのお客さんに何を出すといいか、分かっちゃうんだー。ココはね、そういうお店なの」
「そう、いう?」
「お客さん皆、それぞれ何かしらを抱えてウチに来るの。ある人は不安や悩み、ただの愚痴だったりするし、始まりだったり終わりだったり、もう色々。そういうの全部に答えてあげるのがウチのお店で、ウチのメニューなんだね」
 答えてあげるというか、私の方で勝手にそれだと決めちゃうことも多いけど、と締めくくる店員さん。手は一切休まず、しかし口調は穏やかに喋るのを聞いてもいまいちピンと来なかった。メニューのない店と言えば格式とか敷居とかが高いバーなんかを連想するけど、そういうものとは違うらしいのでとりあえずは安心する。
「君も、ウチのお店に来たるべくしてやって来てる。よかったね、選ばれたんだよー」
 言葉の端々に不可解さが残る。何かしらを抱えて、とか選ばれてとか、何かサイケチックなモノを所々に感じるが、来たるべくして、と言う単語は言い得て妙だ。行き着いた見知らぬ土地でガソリンが尽きて万事休すのところだったのだから。
 しかし彼女の言葉の真意は、そんなものではなかったようだ。
「よく分かりませんけど、確かに困ってたんですよ。適当にバイクでぶらついてたら、燃料切れ起こしちゃって」
「あー、燃料はウチじゃ出してないから御免だけど、まぁ出るときに解決してるよきっと。そんなことよりさ」
 全ての前準備が終わったようで、忙しなかった小振りの手が落ち着いてパン、とカウンターを叩いた。
「もっと根本的に困ってることとか、悩んでること、あるんじゃないかなぁ。お姉さんにはそう見えるよ」
 あどけない顔つきの店員さんがお姉さんを自称しつつ、身を乗り出して尋ねる。不思議な事ばかり口にする変な人だというイメージはこの時点からもう確立していた。
「いや、急にそんなことを言われても」
「えへー強情だねー。まぁ、大抵喋りづらいモンだよねそういうの」
 にっこり笑ったかと思うと、寄りかかったカウンターから身を引く流れでまた内側で何やら用意をし始めている。
「でも恥ずかしがることでもないよ。特にお客さんみたいな悩みは誰もが抱えるようなモノだから。大袈裟に言うならば人類の永遠の命題だね、あっはは」
 顔にも雰囲気にも似合わない単語が出てきて、いよいよ自分に思い当たる節がなくて寧ろどうしたものかと悩んでしまう。人類の永遠の命題なんて僕は抱えているつもりはなかった。
「まーまー、そんな難しく考える必要もないの。もしかしたら本人にとっては大した問題じゃないかもしれないし、だから気づかないかもしれない」
 事実僕の身の上に覚えがないことを見破ったかのようなタイミングで指摘されると、心を読まれたのかと錯覚する。掴み所がない喋り方も相まって、実際本当に読めていそうで少し怖い。
「けどねー。表面に現れてなくてもやっぱりどこか裏でその人を蝕んでたりするんだ。何かの折にふと都合よく浮いてきちゃって、その代わりその人を陥れちゃうの。そういうのがこの先なくなるように、気を楽にしてあげる。ココは、そういうお店」
 結局言わんとしていることはまだ掴み切れないが、
「つまり、カウンセリングみたいなことやってるお店なんですか」
「おぉ、分かるじゃん。へへ」
 そんな認識で合ってたようだ。
「なーんか怪しー、って思ってる顔だね」
「えっ、いやそんなこと」
「無理もないけどね。悩みを抱えてない人なんていないし、何か悩んでるでしょって尋ねて本当に何も悩んでない人は珍しい。君みたいに自覚症状のない人もいるし、目に見えて危ない人もいる。そういうのを無理矢理掘り返すようでちょっと心が痛むこともあるけど、コレも、私の商売だから」
 事実怪しいとも思うし、商売って人のためになることを進んでやるべきなんじゃないかなと考えればわざわざ傷に塩を塗るような真似なんて、どうなんだろう。と余計なことを思っていると、
「美奈。少し喋りがすぎるんじゃないか」
「あは、御免御免。口滑ってたかな。本当に久々のお客さんでやっぱりちょっとテンパってるのかもね」
 店主を起こした針金の鳥が思い出したように嘴を動かした。
「……あの、アレ、やっぱり」
「あーそうだ。紹介してなかったね。フクロウを象って作ってみたんだ。名前、ロイエって呼んだげて」
 準備で忙しくなってたシンクから避難するようにカウンターの上へ乗っていたフクロウらしい針金に向き直ると、礼儀正しくお辞儀をされた。訊きたいのは名前とかじゃなかったのに。フクロウって賢さの象徴らしいけれど、そうはいいましても、限度とか。
「私は二山 美奈。こんなカフェのオーナーです。あ、年齢は訊かないでね。答えられないから」
 そんな僕の心の底から抱く疑念を読み取る素振りは見せず、自己紹介をされた。
「さて、君は……どんな人間なのかな」
 自分にも自己紹介を促されたはいいが、それよりも先にもっと訊きたいことが山ほどあった。何で鳥が、というか針金が喋るのかとか、カフェなのにカウンセリングまでやってるのかとか、そもそも悩みを抱えているのが分かったり、そんな人達が来る店だったりすることも不可解。事実かどうかだって怪しい。そういえばこの店を見つけた時の違和感だってある。中途半端にしか説明されないで完全な納得がいったモノのないまま話が進められて、胸のつかえとかモヤモヤが拭い切れない。
 はずだった。
 じぃっ、と店主――美奈さんに目を見つめられていると、そういった不信感や、隙間だらけの空想めいた話が、段々気にならなくなってきた。そういうものだ、と無理矢理頷かされるのではなく、あぁそうなんだ、と自分から理解を示すような心の余裕がどことなく生まれ出てくる。
 感覚的に言うと、頭が軽くなって難しいことがどうでもよくなるような、ちょっと力の抜けた気持ちに似ている。勿論疑問そのものが晴れたわけでも、まして消え去ったわけでもない。瞼のパッチリとした、少し色素の抜けた綺麗な瞳に射抜かれて、それら全てが意識から外されたみたいだった。
「僕、白空 明良って言います」
 ふっ、と気分が良くなって、気がかりなモノもとりあえずはなくなって、促されるまま名乗ることができた。
 しらそら あきら。二十年付き合ってきた名前だが、読みも漢字も好きになれない忌まわしい呼称だったりする。
「白に空。明白な様はなお良し、か。苗字から繋がるようつけられたんだね。ご両親は良いセンスを持ってらっしゃるよ」
「……そうでしょうか」
「そうですとも。空白であること、とても良いことだよ」
「僕は……そうは思いません」
 フルネームを名乗りはしたが、当たる漢字は明確に伝えていない。それなのにあまつさえ名に込められた願いまで読み取られたことにも、気が回らなかった。
「そんなことないのに」
「空白なんですよ? 真っ白で空っぽで、まるで自分がないみたいじゃないですか」
 自分の名の由来を知ろう、みたいな取り組みがどの地域の小学校にもあったと思う。僕が通っていた学校も例に漏れずそんな課外があり、自分の名前の意味を親に尋ねたことがあった。
 クラスメイトの前で発表するときは特に何とも思わなかった。こどもは空白であって然りだ。だが、成長してこの年にまでなってみるとどうだろう。これほど惨めで情けない名前もない。
「友達は皆、芯が通っていてしっかりとそこに自分があるのに、僕だけが僕が何か分からない馬鹿な人間みたいで」
「良い友人に恵まれたんだね」
「そうじゃなくて! こんな僕だけ、みっともないじゃないですか」
 忘れようと努めていた嫌な感情が、軽くなった頭の隙間に入り込むようにして、再び浮かび上がってくる。そんな僕の気を知ってか知らずか、のほほんとした口調と感想を薄い笑みで浮かべる美奈さんを見て、ますます苛立ちが募ってきた。
「進学とか趣味とか、色んな事全部周りに流されて生きてきて、いつもこんなことでいいのかなってどこか腑に落ちないままでした。けどこれといった答えも見つけられないで今まで来たんです。今回だって」
 そう。今回だって。碁盤の目の街路を逃げ出そうとバイクに乗った瞬間、内に抱えていた自分の気持ちが舞い戻ってくる。
「親に言われるまま始めたバイト先でとか、友人と話してる時とか、学校で授業受けてる時も、全部そこに違う僕がいるんです。何となくぼんやりしてその場にいるだけの自分だったり、友人には見せたことない顔でへりくだってる自分だったり、そのどっちでもない僕が席に座ってたりして」
「うんうん」
「それで……僕って何なんだって、ふと疑問になって」
「アレに乗ってやってきたんだ」
 まるで一昔前の少年漫画だ。自分探しの旅とか言って北の国辺りまで行っちゃうような、訳の分からない逃げ口上。そんなもので自分が見つかるのかなんて分からないし、現に僕なんてガソリンが無くなって行き倒れの一歩手前だ。
 そういえばあのバイクも、友人に感化されて乗り始めたんだったな、なんてことを思い出して、ますます惨めな気持ちが滲み出てくる。
「馬鹿らしいですよね。変なこと不思議に思って、何か落ち着かないから飛び出してきた、なんて。本当、頭が空っぽみたいな感じ」
「そう卑下することもないよ。もうちょい前向きに、さ。ホラ、何か自分みたいなの、見つかりそうにないの?」
「さっぱりですよ。見たこともない土地に来て困り果てて、他の人間ならどうするのかな、なんてことばっかり考えちゃって、やっぱりそこに自分はなかったです」
「……そっか」
 自己紹介を促された時に感じた心の軽さは、もうすっかり鈍重な空気に押しつぶされていた。
 店主さんだけは話し初めからずっと崩さない優しい笑顔で、終始僕の馬鹿な愚痴を聞いてくれていた。自分より年下に見える女の人に何をこんな話ばかり、と急に恥ずかしくなって、頬の辺りがじわっと熱くなる。
「ご、御免なさい。こんな下らない話、初めて来た癖にぐだぐだと喋っちゃって」
「あら、いいのいいの。ウチは、そういうお店だからね。さて」
 前置きはここまでに、という具合に一息ついた美奈さんは、
「決ーめた」
 パン、と両手を叩いて思いついたようにこぼす。浮かべる笑顔は何か珍しいモノを見つけた子供のような好奇心に満ち溢れた輝き方をしている。嬉しくて嬉しくて仕方がないというような、そんな純粋な笑みだった。
 この際に何が決定されたのか分からないが、再びカウンター内で戸棚を物色し始めた辺り、恐らくオーダーのことだろう。人が求める注文が分かると豪語した彼女の手つきに迷いはない。今度は前準備の時と比べ、緩慢な動作だった。
 ゆったりと取り出したのは、何やら大きく仰々しい器材。上と下に合わせて二つのガラス製の丸容器がついて、お洒落なランプに見えなくもない。
「コレ……」
「サイフォンって言うの。何を作る道具でしょーか?」
 こんな変なもので作るもの、と言われて一つもピンと思い当たらず答えに詰まる。店主さんも返答を待たずしてまた色々取り出しにかかった。さっき沸かしていたのかお湯の入ったポットと、
「アルコールランプ?」
「お、こっちは知ってたか。君ぐらいだと懐かしいって思うのかな」
 小学生理科実験以来の顔合わせだった。しかしランプっぽい何かと、実際のランプ、それに調理場であるシンクが自分の頭の中で相容れずやはり首が曲がりっぱなしだ。
 店主さんがガラスの球体が二つ並んでいる方の器材に手を掛ける。よく見ると上の球体は下の球体に筒が伸びていて、フラスコをひっくり返して底を抜いたような形をしていた。そのフラスコもどきを外して、中で栓をするように紙のフィルターを被せる。
 モノが落ちなくなったフラスコの中に入れたのは、挽いたコーヒー豆だ。
「こんなもので、コーヒー……?」
「意外、というか珍しい? 面白いからよく見ておくといいよ」
 本気でこの器具でコーヒーを淹れるらしい。出来上がる過程が全く想像できないので、言われるまま作業をじっと見つめる。
 片手にコーヒー豆を入れたフラスコを持ちながら、下の球にはポットからお湯を注いでいる。隣にあったアルコールランプにライターで火を付けて、お湯をガラス越しに炙り始めた。元々熱かったせいですぐに沸騰を始める。煮沸の泡がボコボコ出てきた頃に、フラスコ下部の棒を差し込んで嵌め戻す。すると、
「お湯、昇ってきてる」
 差し込んだ筒を通って、コーヒー粉のある上のフラスコへお湯が上がる。浸った液体は勿論茶色に染まっていった。お湯と触れて抽出されたコーヒーが湯気とともに香り立つ。本当にコーヒーが出来上がってるんだ。
「後は出来上がりまでちょっと待ってないと。その間、お話でもしようか」
 奥からカップを二人分用意した店主さんが、カウンター越しに座ってまた向き合う構図になる。
「自分が何者なのか。きっと人間だったら誰だって疑問に思うことだよ。私だって多分君より何年も長く生きてるけど、未だに分かってない」
 僕より何年も長く、と言う彼女が全然そうは見えなくて、思わず年齢を尋ねてしまいそうになる。そういえば答えられないから訊くな、と前に止められていたことを思い出して咄嗟に口を噤む。
「ある人は物凄く優しい人って言うし、またある人はとんでもない人って驚いたりする。全部、ウチに来たお客さんの言葉なんだけどね」
 サイフォンを挟んでガラス越しに見える店主さんの顔は、僕の話を聞いていた時に比べ、少し感傷的な笑みになっていた。サイフォンの方はほとんどお湯が昇り切って、ストローが届かず吸い上げ切れないお湯が下でぶくぶく泡立っている。
「自分がどんな人間なのか。それは他人に決めてもらうものなのか、と言うと微妙だけど、そこらの話は置いといて」
 という言葉と同時に、球を炙っていたアルコールランプを端にどかして火を消してしまった。すると、沸騰していたお湯が冷めて、釣られて温度の下がった容器へ上からコーヒーが降りてきた。初めて見る光景に見とれてしまう。
「他人の言うことも気になっちゃうモノでね。君の場合は、自分の身から出てきた疑問のようだけど」
 丁寧にフラスコを外して、取っ手のついた下のガラス球からコーヒーを二人分カップへ注ぐ。透明度の低い濁った液体は、家でインスタントに作るよりも手間がかかってる分美味しそうだ。
 注ぎ終えてから店主は、シュガーと牛乳パックをそれぞれ戸棚、冷蔵庫から取り出して持ってきた。
「あ、僕コーヒーはブラックが」
「おぉ、見た目によらずブラック派か。でも駄目ー」
「えっ」
「何をお出しするかは私が決めるの。君に一番のオーダーを」
 止める暇もなく、二つのカップに牛乳が注がれていく。真っ茶色だったコーヒーが白と混ざり合って、目に優しい柔らかな色合いになった。
 あぁ何てことを、などと口には出せず、目の前にカップとスティックシュガーを置かれた。砂糖は自由にしていいのに何で牛乳は強制なんだろう。
「ブラック派の君でも、今の君にはコレを飲んでもらいたいな」
「はぁ……」
「この絶妙な色は粉乳だと出せないんだ。見るからに美味しそうな、心安らぐ暖かい色。コーヒーはチョコレート・ブラウンで。ね?」
 ね、と催促されましても。
 ……とは思いつつ、言葉が上手いなと反面で感心する自分もいる。言われてみると確かにミルクチョコレートに似た色合いから、口当たりが優しそうな感じが連想されてきた。カップに浮かぶ油膜はコーヒー豆独特のものなのか牛乳由来のものなのか最早分からなくなっていたが、白の混ざったチョコレート・ブラウンの上では吹けば見失うほど希薄だ。
「じっと見てるだけじゃなくてホラ、飲んでみてよ」
 あまり気乗りはしなかったが、勧められるまま口をつけた。ずっとアルコールランプで炙られていたお湯は、触れた唇へ染み入るほど熱い。
「……ほっ」
「どう?」
 いつもはブラックで飲むコーヒーだが、牛乳で薄めて飲んだことだって勿論ある。だから味の予想は大体ついていた。しかし感動がなかったわけではない。
 レギュラーコーヒー独特の酸味の強さが喉奥にガツンと来るものだと身構えていたのに、牛乳のまろやかな味わいで程よく中和され、引っかかることなく胃の腑に落ちていく。それでも口に含んだコーヒーの芳醇な香りはしっかりとそこにあって、鼻を抜け心をほぐしてくれた。舌をザラザラと撫でる泥みたいな安っぽさもなく、ゆっくり、そしてじんわりと……身体の芯から暖まる。
 田園を未成熟な緑の穂が埋め尽くす季節、春の陽気に外さない、安らぎの一口だった。
「人間ってさ、コーヒーに似てると思うんだ」
 緩んでいたであろう僕の表情を見て、味の感想を待たず店主さんは話し始める。
「例えば君はブラックで飲むのが好きみたいだけど、私なんかは苦くてちょっと遠慮しちゃうんだ。逆に、甘いのが苦手な人は、このチョコレート・ブラウンを飲むと、子供の飲み物だ、なんて嫌味ったらしく言うんでしょうね」
「えぇ。人それぞれ、好みはあるでしょうから」
「そう。それ、人にも同じことが言えるんじゃないかな」
 一つ吐息をして、二口目。慣れた口当たりとは別の味わいを見せるカップに、運ぶ手が進む。頂いたコーヒーを飲みながら、店主さんの話を懇々と聞く僕がいた。
「さっき言っていた色んな場所での色んな自分。仮に、その中からコレだ、と思った本当の自分を見つけて、それをずぅーっと、どこに行っても貫いたとしよう」
 ここら辺りで、言わんとしていることが何となく掴めてきた。
「その本当の自分はどこの誰に向かっても、同じように映ると思う?」
「……」
 答えられない。それは本当の自分というものに実感とか心当たりがなくて想像できないからではなく、想定の話でも頷くことはできなかったから。
「テレビで少しずつ取り沙汰され始めた、面白いと評判の芸人さん。彼を君のクラスメイトは全く同じく評価を下すかな」
「それは……ないと思います」
「そんなもんなのさ。同じコーヒーを飲んでもらったって、周りの人がそのコーヒーを各々別のものに変えちゃう」
 寧ろ、心当たりならあるぐらいだ。過去に僕が持っていた人脈をつまみ食いするように記憶から引っ張りだしてみる。
 情に脆い、負けず嫌いの熱血漢がいた。いつだって冷めた様子で、けれど誰より合理的なことを述べる論理派がいた。今言ってくれた例のように、楽しむことに、そして楽しませることに自分の価値を見出すムードメーカーがいた。
 そんな彼らだって、周囲から一様の評価をもらっていたわけじゃない。暑苦しい。ウザったい。つまらない奴。人によって評価は様々あった。
 けれど、
「評価は確かにそれぞれ違います。けれど、実際にその人がそうかということは除いて、何て言うんでしょう……えっと、目指すところ、というか。どんな人間になろうとしているか、みたいなのは理解してあげられるんじゃないですか」
「あー。そう言われればそっかもねー。芯の通ってる人間は、評価はさておき認められはするか」
 がくっ。
 僕の疑問にそれっぽく答えてくれるんじゃないか、とある種期待して訊いてみたのに、ふっと手のひらを返されて、肩透かしを食らった気分だ。
「あっはっは。私も宗教家じゃないからね。相手に気付かされることぐらいあるって」
「いえ、そんな」
「でもまぁ、どれだけ自分をしっかり持った人でも、他人から理解されるためにずっとその“自分”を張ってるんじゃ疲れちゃいそうじゃん? 芸人さんだって滑ったら落ち込んだっていいし、真面目な顔して異性と話したっていい。誰に咎められるものじゃないよ」
 それはそうだ。自分を一切偽らずずっと本当の姿でいようだなんて、きっと思っていてもできない。たまには本当の自分を休みたい時だってありそうなものだ。
「あとはこんな台詞よく聞かない? 『本当の自分を誰も理解してくれない』なんて。コレが意外や意外、芯がしっかりしてそうな人ほど結構言うものなんだよね。有名人とかさ」
「小説なんかでも、そんな一文よくありますね」
「周囲の曲解も、大多数の意見になればそれが世の中に通っちゃう。人の、人に対する認識は主観によるのさ。舞台を小さくしても同じだよ。本当の自分なんて周りに、友人にだって歪められてしまう」
 僕も知らず内、そんなことをしていたのかもしれない。そう思う程度には親近感を覚える話題だ。
「ロイエ」
 思い出したように針金細工の名を呼ぶ店主さん。カウンター上で首を傾げていたフクロウは、またふよふよと不安定な高さを保って羽ばたき、僕たちの方へ近づいてきた。
「君にとって、フクロウってどんな鳥?」
「フクロウですか? え、っと」
 目の前のでたらめな存在ではなく、一般的なフクロウに対する印象を答えればいいんだよね。
「そうですね……大きくて、動物園ぐらいでしか見られない、珍しい鳥、とかですかね」
「うん。フクロウってそんなものだよね。けれどもコレが異国へ飛ぶと大変。一躍神様扱いされるんだ」
「聞いて驚くな。ギリシャ神話では智の象徴だ」
 自慢げに両翼を広げて自分を大きく見せるロイエ。聞き齧りの雑学でしかないけど、元々知っていたことは黙っておこう。
「反面、酷い扱いされてたりもするけどね」
「余計なことを言うでない」
 僕の中ではフクロウ全般はともかくロイエは化け物です。うっかり忘れそうになったけれども、時間を置いて再度見てみてもやっぱり飛ぶし喋る。針金細工なのに。
「ま、こんなだからさ。本当の自分なんて気張る必要はないんだよ。確固とした自身を持つ人がそれを固持するのをやめろとは言わないけど、自棄になって探したり、無理を押して誇るものでもない」
「……何かそう聞くと、気が楽になりますね」
「でしょ? 周りに何と言われたって気にしないでいいの。と言うのもね、どこのどんな自分だってきっと本当の自分。ブラックだってチョコレート・ブラウンだって、コーヒーだ」
 ……そうか。
 強い意志が伴う振る舞いでも、そこに本当の自分が見いだせなくても、自分は自分。
 わざわざ探すまでもなく、案外身近なものなのかもしれない。店主さんと話しているとそう思えてきた。
 気が付くと、碁盤の目から逃げ出そうとバイクに跨った瞬間の変な焦りも、愚痴をこぼす間の暗澹たる気持ちも、今となってはほとんど霧散していた。
「……コーヒー、美味しいですね」
「うん。たまには慣れてない味もいいものでしょ」
 酸味も重みも軽減されたそれが飲みやすくて、会話する以外はほぼずっと口につけていた。身体に自然と入り込む優しさがブラック好きの僕にも心地よく感じる。
「白空、って苗字、私はやっぱり好きだな」
「えっ、い、いきなり何ですか」
 腕にロイエを止まらせて、目線は誰に向けるでもなくそう言う。急に苗字のことを掘り返されてどぎまぎしてしまう。
「真っ白で空っぽ、確かに自我がないと悩む君には嫌な苗字かもしれないけど、人によっては羨ましいことかもしれない」
「空っぽなことが、ですか?」
「そ。それってね、言い方を変えれば何にでもなれるってことなのさ」
 何にでもなれる。言われた僕としてはそんな自信はまるでないのだが、それを羨ましがる人のことは、何となく理解できるかもしれない。
「本当の自分を規定した人って、それに囚われて不自由な思いをする印象があるなぁ。そう考えると君の苗字に明良って名前をつけたご両親は、やっぱり良いセンスと人生観を持ってるよ」
「……そこまで考えてつけたんでしょうかね」
「両親がそのつもりじゃなくても、自分でそうだって決めちゃえばいいんだ。時間が過ぎて、歳を重ねて見えてくるものだってある。君の探してたものだって、そういうものじゃなかった?」
 色んな自分が散見されるのも、空っぽだから故の強みかもね、と付け足して店主さんが微笑む。今まで名前を褒められたことがないから少し変な気分で、カップのコーヒーを一気に飲み干した。気道に入り込んで咳き込んでしまう。
「げほっ、ぼっ、僕、そろそろ行きますね」
「はーい。多分またどこかで会うことがあると思うから、その時は遠慮せず寄ってってね」
「は……はい」
 発言の意図するところが汲み取れなくて少し言葉に詰まるが、何となくこの店主さんに言及する気も起きなくて、カップを置く手をそのままに席を立ち上がる。店主さんがロイエと一緒にカウンターの向こうで座ったまま見送ってくれる。その姿を立って見るとやっぱり背が低いことが気になって、今まで喋ってくれた話とそのヴィジュアルにギャップを感じ得ない。
 しかしそんな違和感も口にできず、玄関のドアを開けようとして、この店に訪れた元々の目的をようやく思い出した。
「あっ、そうだ。えっと美奈さん」
「うん?」
「あの、僕ガソリンなくなって困ってたんですけど、近くにガソリンスタンドありませんか? どっちの方向か、とか」
「あー大丈夫。外に出たら解決してると思うよ」
「……え?」
 はっきりとしない、抽象的な答えに握っていたドアノブを離そうとしたのだが、その意志とは逆に手首はノブを捻って、ドアを開け放っていた。そのまま振り向きもせず外に出て、背後からは扉の閉まる音だけが聞こえる。
 まるで無理やりそうさせられたような、不可解な強制力が働いていた。店主さんの言葉の意味が判然としないのならば、もう一度ドアを開けて細かく訊けばいいものを、何故か未だ眼前にあるカフェの看板を見ても入ろうと思えない。外に出たら解決してる。その適当とも言える口振りを、どういうわけか信じようとさえ思えてくる。
 改めてお店を見つけた時、入店した時の超絶体験をありありと思い出して少し背筋が寒くなるが、それでも不思議と心の底から逃げ出したい、などの恐怖は湧いて来なかった。何だったのだろう、と一瞬で過ぎ去った嵐を見送るような軽い気持ち。針金細工のロイエにもところどころ要領を掴めない店主さんの言葉にも、言及の気が起きない。ただちょっと貴重な体験をしたな、ぐらいの感想をそこそこに、僕はバイクのスタンドを蹴りあげた。
 車体を押しながらカフェの敷地から道路に出てすぐに気づく。店を訪れたときは四方をびっしり囲っていた緑の田んぼが、全く見当たらない。
 変わりに見えたのは、僕が育ちの都会から逃げ出してきた際最後に通過した、街の外れのガソリンスタンドだった。
3, 2

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