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第7話「ベルリンの奇跡」

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【前回のあらすじ】
1936年ベルリン五輪に出場することになった日本代表。ベルリンでの練習試合にて欧州で流行のWMフォーメーションを知る。オフサイドルール改正以降、守備に問題を抱えていた日本代表は急遽このフォーメーションを取り入れることを決断。しかし、五輪1回戦の相手は優勝候補スウェーデンであった。
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【その後の日本サッカー】
 優勝候補スウェーデンを破った日本でしたが、準々決勝でこれまた優勝候補のイタリアと激突。精根尽き果てていた日本は0-8で敗れてしまいます。なお、当時のイタリアはまだ形式上プロがないことになっており、そのまま金メダルを獲得、34年W杯優勝、36年ベルリン五輪金メダル、38年W杯優勝を果たすことになりました。
 イタリアには大敗したものの、栄光をつかみとった日本は40年東京五輪に向けて強化を開始。37年から定期的な日本代表合宿が開始されることになりました。その37年には世界一周旅行を行っていたイングランドのイズリントン・コリシアンズ・クラブが日本を訪れ、関東選抜(実質日本代表)が対決。遠征中、約80試合して4敗しかしていなかったこのクラブを関東選抜は4-0で撃破、ベルリンの奇跡がまぐれではなかったことを証明する形となりました。

 しかし、栄光は続きませんでした。第2次大戦の影響で日本サッカーは実質約10年間の空白期間が生まれ、それまで積み重ねてきた技術・経験の伝承が断たれてしまいました。これが大きな痛手となり、日本サッカーは戦後、低迷してしまうのです。

 戦後、低迷してしまった日本サッカーは64年東京五輪で活躍するために西ドイツに教えを請うことを決定、デットマール・クラマーがコーチとなります。このとき、クラマーの提言を受けながら旧態依然としてしまっていた日本サッカー界の改革を行い、日本代表を強化、64年東京五輪ベスト8、68年メキシコ五輪銅メダルの栄光をつかみます。
 しかし、このときは日本代表が強くなっただけであり、さらにメンバー固定の少数精鋭の強化であったため世代交代に失敗して栄光は一瞬で終わってしまっています。日本サッカーは長い冬の時代へと突入し、雪解けは93年Jリーグ開幕まで待たなくてならなくなるのです。
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