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一.甘夏柑を撃て

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『熱い』。
 アスファルトで照り返る日光は半袖から伸びる二の腕を容赦なく焼き付け、まるでサウナ室にいるかのような錯覚を覚えさせられる。日焼けしたての肌は赤みを帯び、それこそまるで火あぶりにでもされているかのようでもある。大学デビューにかこつけて染めた茶髪はそれきり手つかずで、頭の悪そうな、いや間違いなく悪かろう、みっともないプリン頭となっていた。
 車体の行き来を上手くかわしてちょっとした坂道を自転車を押して上がると、今度は気持ちのいい下り坂が待っている。ペダルから両足を離し、河川敷の景色を横目にしながら猛スピードで下りていった。
 もう四カ月になるだろうか、十亀 慎一郎(とがめ しんいちろう)は大学に入ってから毎朝必ずこのルートを通学路に組み込んでいた。別になにか特別な理由があるわけではなく、ただ、坂を下る爽快感が人一倍好きなのだろう。とはいえそれにしても、下り坂は気持ち良いけど上り坂を自転車押して進むのは大変だよな。それだけで汗いっぱいかくぜ。今度からはやめよっかな? 上り坂の辛さと下り坂の爽快感では差し引きどっちが大きいんだろう? 平坦だけ走ってた方がトータル得なんじゃね? などと、勝手にしろとしか言いようのないことをあれこれ考えているうちに下り坂は終わり、溜めこんだ勢いを使いきってしまうまで、なんとか足をつけずに済むようフラフラとたゆたっている。
 十亀というこの男は、あまりにも退屈を持て余していた。夢描いていたキャンパスライフと、現実のそれとでは大きな差があった。男前な顔つきで、外面の良い社交的な性格。友達も、まあ特筆するほど多くはないが、普通にいる。彼女こそいないが、女友達だって多い。こうして文字に起こすと、自分でも何が物足りないのかわからない。しかし、キャンパスライフを楽しんでいると胸を張って言うことができずにいるのも間違いなかった。

 ――その時、体に染みついた金属音がどこかで鳴った。

 はっと顔を上げ、音の出所を思わず探した。犬の散歩にきている家族連れ、ジョギングしているお姉さん、ゲートボールに精を出す老人たち。河川敷の風景は様々で、おのおのが自由にこの季節を楽しんでいる。
 そして、芝生の上で白球を追いかける学生たち。
 十亀は自転車を漕ぐ足を止めた。
 人数は十人ちょっとだろうか。年齢はみな自分と同じくらいで、恐らくは大学の野球チームだろう。ノックを受けている選手の中には結構良い動きをしている者もいるが、なんだか、どいつもこいつもやたら肩が弱いように十亀には思えた。それに、何故だかわからないがいちいちプレーに違和感を感じた。
「あれ? どーしたの君?」
 突然後ろから声がした。なんだか驚いたように後ろを振り返ってしまう。
「もしかして、入会希望者!?」
 低い身長によく似合っている、明るい栗色の髪の毛。その“子”はくりくりと目を輝かせて自転車を降りた。
(すげー。マネージャーなんているんだ)
 初めての経験である。女子への免疫が弱いわけでは決してないが、十亀はなんだかうっすら緊張していた。
「いえ、別に。なんとなく見てただけですよ」
 そう言うと、その子はあまりにも露骨にがっかりした表情をするものだから、十亀はなんだか可笑しくなって、目の前の女の子に興味が湧いた。しかし次の言葉を発するより早く、その子は十亀の手を引いて河川敷の階段を駆け下りた。
「まあまあ! でも見てたってことは興味はあるんだよね!? とりあえずおいでよ、君体格いいし! 学園の生徒でしょ!?」
 人の都合を考えない人だ、と十亀は思った。強引でがさつで、腕を引っ張られながら階段を駆け降りたら危ないということにも頭が回らないらしい。それなのに、その笑顔は本当に純粋で、混じりっ気のないもののようにも見える。きっと、野球が本当に好きなんだろう。そう思うと不思議と嫌な気分はせず、歩幅を合わせて一緒になって階段を降りた。
「みんなー! 入会希望者だよ!!」
 言ってない。そんなことをいちいちツッコんでもきっと意味はないんだろうと既に十亀は理解しつつあった。
 ノックを打つ手を止め、背の高いその男が振り返った。
「おおー、まじか! なんか上手そうな奴じゃん?」
 飛瀬(とびせ)、と呼ばれているその男にそう言われ、十亀は静かに胸躍らせた。
 このことを、周囲に悟られるヘマをするような男ではなかったが、恐らく誰よりも強い自己顕示欲を持ち、常に誰かに己の実力を見せつけたいと思っている。キャンパスライフがいまいち充実していない理由になど、本当はとっくに気づいていたのだ。中学、高校と違って自分の運動神経を誇示する機会がなくなったこと、そもそも体育大でもない学校で多少運動神経が良かろうと大した自慢にはならないこと。十亀は早く、自分の“凄さ”を周囲に知らしめたかった。そのくせ、大学に入ってまでスポーツ漬けの生活に飛び込むほどの根性も無いことを誤魔化そうと、そのことに気付かないフリをしていただけに過ぎない。
 見たところ、大してレベルの高くなさそうなチーム。それが十亀の食指を動かした。
「いやいや、全然そんなことないです」
 その笑顔の裏で、うずうずと抑えきれないほどの衝動が暴れている。
「あ、そういえばまだ名前も聞いてなかったね! 私は安村桃子。君の名前は?」
 そう言って、桃子はバットを拾い上げた。
「十亀です。十亀 慎一郎」
「よし」桃子は嬉しそうににこりと笑った。「せっかくだから打席入ってこっか、シンイチローくん!」
 待ってましたと言わんばかりに笑みを浮かべて、差し出されたバットのグリップを掴んだ。
「いいんでしたら、ゼヒ!」
 桃子はまた、嬉しそうに笑った。
「自信ないですけどね。あ、そういえばピッチャーは誰なんですか?」
 二回、三回とバットを振る。
 そして、この時ようやく、違和感の正体を知った。
「わたしだよ!」
 河川敷のピッチャーマウンドで、桃子が誇らしげに仁王立つ。
 肩に抱えたバットには、たしかにソフトボール用だと書かれていた。
「ソフトボール……?」
 バットを見て十亀は唖然とした。
「なんだ、お前。桃子から聞いてないのか」
 キャッチャーをしている飛瀬がマスク越しに声をかけた。
「は、はい」なんだか恥ずかしいような、そして申し訳ないような。バツが悪そうに続けた。「全然。ノックを見てるだけじゃソフトだとは気付きませんでした」
 申し訳ないというのは、どこかでソフトボールを見下しているからなのだろうか。
 飛瀬はその心境を敏感に見抜いて、それ以上は続けなかった。
「ま、せっかくだから打っていきな」
 はい、と応え、再びマウンドの桃子の方を向いた。
「お願いします」
 180cmの恵まれた体格が、左打席でバットを構えた。それを見て桃子も気を引き締める。
(雰囲気あるね。打ちそうだなぁ)
 アップシューズで足場を踏み固めた。
 飛瀬も言ったが、スポーツをやっている者同士の間では、「こいつ、やるな」という感覚がある。不思議なもので、その“予感”が大きくずれるということは経験上ほとんどないはずだ。そしてその感覚を、桃子と飛瀬の二人はたしかにこの十亀に対して抱いていた。
 しかし、十亀から見る二人に今のところその雰囲気はない。それは、既に十亀がこの勝負について緊張感を失っていることと無関係ではないだろう。ソフトボールなど所詮は野球の劣化版。女子がやるスポーツ。野球じゃレギュラーになれない男の最後の逃げ場。それが十亀の認識であった。他人に実力を見せつけたいとは言っても、そもそも野球とソフトボールでは土俵が違いすぎると思っているのだ。
 それとは正反対に、こんな一打席こっきりの草対決に目を輝かせる桃子。「いくよ」と言って、大きく振りかぶった。
(絶対この子、うまいよ。打ちそうだもん)
 グローブから右手を離し、体の後ろまで下げ力を溜める。
(ポジションはどこなんだろう。足は速いのかな)
 その溜めこんだ力が、100%バッターに向くように。
(この子がチームに入ってくれたら、いいな!!)

 桃子の右腕は力強く大きく、そして美しく弧を描いた。

 びくっ。
 十亀のバットは本当に小さく反応しただけで、その白球を黙って見送った。一瞬、何とも言えない静寂が流れる。
「入ってるから」
 飛瀬が淡々とボールを返した。その心の中では、見たか、と鼻息を荒くしているのを悟られないように必死だ。桃子もボールを受け取って、「ワンストライク」とにやりと笑う。
 そんな二人に挟まれて、へぇ、と十亀は思った。
 たしかに速い。速いが、手が出なかったのは自分が油断していたから。真面目にやれば打てない球じゃない。それが正直な感想であった。
 投球動作に入らんとしていた桃子を制し、バットを高く天に向ける。そこから二回、体の横で大きな円を描いた。十亀の自己顕示欲が存分に出たルーティーンを見て、しかし桃子と飛瀬の二人はその思惑通りに、自分の中で十亀のイメージを大きくしていた。
(ここからが真剣勝負か)
 二球目のサインが飛瀬から出る。桃子は自信満々に頷いた。
 初球と同じ、いや初球以上のストレート。桃子としても会心の一球を投げ込んだつもりであったが、しかし十亀のバットはそのボールを真芯で捉えた。
「!」
 マスクの網目越しに飛瀬が打球を追う。打球はピンポン球のように飛んでいき、柵を越え川にまで届こうかという飛距離を見せつけた。茫然と立ち尽くす桃子と飛瀬。特に飛瀬は、打球そのものもそうだが十亀のバッティングに感嘆していた。
(今のは一本足打法か? いや、振り子……? いずれにしろ、足を上げて待つ時間が尋常じゃなく長かったぞ。よくあんなフォームで打てるな)
 十亀は、人よりも右脚を上げてボールを待つ時間が長かった。通常よりも早い段階で脚を上げ、そのままの体勢でピッチャーを待つ。特徴的なバッティングフォームは単に目立つからという理由でもあったがそれ以上に、これは十亀の体格によるプレースタイルに由来していた。が、今はもちろん飛瀬にそれを知る由はない。
 一年生が慌ててボールを拾いに走る。川まで届いていればもう回収するのは不可能だ。チームに左打者が少ないということもあるが、なかなかあそこまで届く者はいない。しかも不慣れなソフトボールで、たった二球で桃子の球を捉えてみせたのだ。既に飛瀬も桃子も、十亀の実力を疑いようはなかった。
 そして恥ずかしそうに、飛瀬は言う。
「……ファールだよな」
「わかってます。三球目、お願いします」
 いつの間にか、勝負を楽しんでいる自分がいる。
 十亀は再び構え直して、不敵に笑った。
2, 1

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