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残愁

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【残愁】

 ここが客間。ここが、書斎。そしてここが……懐かしいなあ。子供部屋。
 記憶をひとつひとつ数えるように、荒れ果てた『かつては屋敷だった廃墟』の中を巡る。
 どの部屋も、そして廊下や階段ですら換金性がありそうな物は早々に運び出され、その後には取るに足らないものがその価値を更に無に近づけていくだけの乱雑な時間が整然と過ぎ去ったことを見せ付けている。
 辛うじて救いと呼べそうなのは火の害に晒されていないことだけで、人が住まない屋敷に劣化の流れは容赦なく、欠損したあちらこちらから零れた光の筋に、時折、大きな埃が単調な流れに抗うかのように唐突な動きを見せる。
 記憶の中ではそこにあった筈の箪笥ですらその痕跡を残さず、跡地は他の床と見分けがつかぬ程に平等に塵で覆われ、雨露を凌ぐ為か、食餌を求めてか、二組の小動物の足跡が通り過ぎていた。
 その足跡の主は、この部屋に長居する用を見出さなかったのか、窓から柱まで躊躇なく二本の直線を描き、柱の上の天井には、丁度手鞠程の大きさの穴が開けられていた。
 埃で着飾った蜘蛛の巣は、その纏ったものの重さに身を持ち崩し、修復をする主の不在を物語っている。
 紛う事なき、廃墟だった。

 部屋へと入り、柱へと向かう。柱は子供部屋には似つかわしくない黒柱で、それにさえ薄すらと埃が乗り、先程の足跡が天井に向かって続いている。
 何代目の|坊《ぼん》だっけ。
 柱の傷は──背比べ。
 さすがに御当主も腹に据えかね、子供たちを一列に並べて一発ずつ拳骨をしてたっけ。
 その御当主だって、まだ|坊《ぼん》だった子供の頃にはやんちゃな童で、正座させられるわ蔵に押し込められるわ、その度に泣きべそかいてた癖に。
 閉じ込められて夜闇に圧し潰されそうな深更を、一緒に過ごしてやってなんとか遣り過ごした癖に。
 そう、思い出して少し懐旧。
 代々。そして、累代。
 |一昨年《おととし》どころではなく古い柱の傷は、中の白木を剥き出しにして残っていたけれど、それは削られた頃と比べてかなり険が取れ、丸みを帯びていた。
 並ばされた子供の数だけ、そして、拳骨された子供の数よりひとつ多く刻まれた痕の中のひとつを指で辿る。
 あの時の御当主の『もう見えないこと』に気付いてしまった寂しげな表情も、今は過ぎ去った想い出のひとつ。
 指についたままの埃を息で吹き飛ばす。舞い上がった埃は鳶のようにくるりと一回転し、障子から洩れ入る光の筋の中へと踊り込んでゆく。
 障子は紙が斑に赤茶けて、捲れ上がった解れ目は、光と共に洩れ入る風に揺れている。
 そそっと障子窓に寄り、悪戯っ子のように解れ目から外を覗く。そこから見える庭は、屋内よりは当時の雰囲気を残していた。それは期待外れでもあり、同時に予想通りでもある光景だったが、しかし、それはただ債主や盗人の労力に価値が見合わなかっただけの話。維持する努力を放棄された時間の長さに誠実に荒廃していた。
 窓の外だけは当時のまま、なんてあるわけないのにね。
 少しだけ、屋内に目を戻して。少しだけ、深く息を吐いて。
 わざと、少し荒っぽく障子窓を開け、恰も柵を飛び越えるように庭へと出る。
 なあに、このくらいこの屋敷にいた当時でもやっていたこと。
 ……真似する子供と叱る大人がいなくなっただけ。
 無造作に伸びた草は、それでも苦情の声を上げるでもなく、風に身をゆだねていた。

 そのまま奥へと足を進めると、娘子の為にと植えられた桐や楠は根元で丁寧に伐られ運び出されており、かつては丁寧に手入れされていたであろう生垣は、自然な無軌道さを遺憾なく発揮している。躑躅は季節外れの花をここぞと誇り、数少ない虫たちだけが思いがけない賞与に与っている。
 この場所にも、想い出は沢山ある。だが今は、その僅かな欠片すら風化しているように思えて、既に砕け果てた一縷の希望も、ここに埋めておけば肥の足しくらいにはなるのだろうか。
 力なく、楠の切り株に腰を下ろす。

 屋敷。傷がつけられた黒柱。手入れを放棄された庭。
 その存在すら忘れ去られ、あるいは疎まれ、新たに知られることもなく。
 想い出という価値から共有がすっぽりと抜け去ってしまって。
 誰とも、そして誰にも、語られない、語れない。
 光らない遠い星のような、深海に落ちた螺鈿の櫛のような。
 誰にも手の届かない、どこかへ行ってしまった、何かの塊。
 わかっていながら、見にきてしまった。
 痂を剥がさずにいられないように。あるいは。
 自らへの呵責からの自傷。
 咎はない。責められる理由もない。それは判っている。

 だけど、それは、許す者が誰も居ない、と、いうこと。

 痂は、何度も剥がすと瘢痕となる。
 それを望もうが、望まなかろうが。

         *

「かつては座敷童子が住むとまで言われた家だったのだが、無常なものですな」
 驚いた。これほど近付くまで気付かなかったことも含めて。
 その気配の薄い声の方を振り向くと、人当たりの良さそうな、すっかり枯れたと思われる老人が立っていた。杖を持ってはいるがそれほど頼っている風ではなく、その質素な和装に合わせた小道具でしかないように思える。
 大人に──子供を含めて、他人に話しかけられたのは、何年ぶりだろう。いや、何年ぶりどころの話ではなく、もうどのくらい前のことだったのか記憶から欠落してしまうほど、昔。
 そんな驚きが表情に出てしまっていたのか、その人物は、
「唐突に失敬」
 とは言いながらも、
「この屋敷を訪ねる御方とは珍しかったもので」
 と、老人ならではの堂々とした無遠慮さで、隣にある桐の切り株に腰を下ろしながら言を続ける。
「なにか縁がおありで?」
「……そうでもないけど」
 嘘。この家には想い出が沢山ある。だけど、言えない。言わない方がいい。想い出は綺麗なまま胸に秘め、などという乙女染みた美譚ではなく、永い間の習い性。随分と永い。ある種、身を守る為に憶えてしまった、そうしてきた、いつものこと。
「そうですか。ま、この家の凋落が始まったのは拙僧が寺の預かりとなって、そう時を経ないうちじゃから」
「拙僧?」
「そこの寺の者ですわ。もう隠居同然の耄碌爺ですがな」
 そう言って『かかか』と笑う。
「耄碌爺故、目が弱っておりますが、そなたは狼藉無宿の輩とも見えぬ。一見、子供のよう──」
 そこまで口に出して、老人は自らの膝をポンと打つ。
「詮索は不躾でしたな。申し訳ない」
 顔だけをこちらに向け、軽く頭を下げる。
「これも耄碌爺故、流してくだされ」
 そして再び、遠くの雲を見上げるように目を戻す。
「うん、平気」
 狼藉であると自分では思わないが、無宿ではあるし子供のようにも見えるだろう。この御老は何も間違えていない。
「尤も」
 御老は、こちらの返事を確認して頷いた上で、そう言葉を繋げる。
「今頃狼藉者がやってきたところで、既に目ぼしい物はなにひとつ残っとりゃせん」
 座っている切り株を、そろえた指先でぽんぽんと叩き、
「子の為孫の為と植え育てた樹木ですら、ほら、この通り、売られてしまっておるで」
 肩を竦めてみせる。
「一度始まってしまえば、あとは早いもので」
 足元にある小石から大きめのものを杖の先で弄び、
「為す術なく落ち、為す術なく崩れ、為す術なく散った、そんな有様」
 いかにも使い慣れた様で、ぽうんとその小石を弾き飛ばす。
 地面に落ち不規則に転がった小石は草叢へと紛れ込み、数匹の蝗が方向を定める|暇《いとま》もないまま、それを避ける。
「拙寺の墓所に参られる御方も、極稀に遠方から参られる御方が居られる程度で……」
 御老は杖を傍らに置き、転がり行かぬよう、位置を確かめる。
「その遠方の御方も代が替わり、繋がりを心に留め置くばかりも難しく」
 そう言って、右手で左の袂を探るが、思い直したようにそのまま左手を右の袂に入れ、拱く。
「留め置くがばかりに残されてしまう、そのような御方は、埃に足跡も残さず、野草でも脛を裂かずにいるような御方だけでしょう故」
 足跡も残せず。脛も裂かれず。
 拳骨もされず、怪我すら一緒に出来なかった。

 何故、今更帰ってきた──

 そう、問われたような気がした。
「ま、耄碌爺の戯れ言です」
 誰に?
 自問。
 判りきっていた。だけど、期待していた。
 自分がいなくても、きちんと、やっていけていると。
 咎はない。責もない。
 だけど。

         *

 ただ、楽しかった。笑顔が見たかった。喜んで欲しかった。もっと笑顔が見たかった。
 だから。
 だけど。

 段々と、一緒に走っても、一緒に鞠突をしても、気付く子供が少なくなっていたんだ。
 団栗の独楽も、弥次郎兵衛も。色紙で折った鶴や奴や爪箱も。

 そして。
 気付いたら、一緒に遊んだ人が、ひとりもいなくなっていたんだ。
 子供にも、かつては子供だった大人にも。
 誰も。

 だから。
 そうして、この屋敷を離れた。

 誰も笑顔をしなくなったから。

         *

「無理に喋らなくても、形にしようとしなくても、いいのでは、ないですかな」
 如何許りの刻が過ぎたのだろう。草木の影は角度を変えて長く、そして少々力を失くして。
 それでも、そう声をかけられたとき、御老はこちらに顔を向け、微笑んでいた。
 そして、僧侶らしい慈恩の表情で、うむうむとばかりに何度も頷いていた。
「生憎拙僧は琵琶の嗜みは持ち合わせておらなんだが」
 杖を琵琶に見立てて。音を鳴らす真似をして。
「偏に風の前の塵に同じ」
 転がるように流されゆく幾枚かの枯葉を目で追いながら。だけど、その目は、やはり優しげな。
「胡蝶も風に流されてばかりでは夢を見も醒めも儘ならぬが故に」
 そして、懐かしげでもあり哀しげでもあり。
 枯葉が、小石にでも引っかかったのか、二進も三進もいかぬ様子でもどかしく身をよじる。
 御老は、そんな枯葉を見て、それからこちらを見て、ゆっくりと一際優しげに笑む。
「それは、足跡を残さぬ者も、等しく」
 そして、
「年甲斐もなく、戯れ言が過ぎたようですな。申し訳ない」
 僅かに、近所に住まう者だろうか、煮炊きする匂いが鼻を擽る。
「そろそろ寺に戻らねば、余計な心配をかけますで。歳が歳じゃで」
 御老は杖を利用して二段階に分けて立ち上がり、
「冥土の土産、と言えば大仰になりますが、拙僧はあなたとお会いできてよかった」
 着物の尻を軽く手で払う。それから、さて、という趣で一息ついて。杖を体の前に、両手で軽く体重を預ける。そうして、
「積み重なる想い出も、時には余りの重さに自らを責め苛むことにもなりましょうけれども」
 目線を杖の少し先から僅かに空を見上げる方向へと移しながら、呟くように。
「せめてあなたのこれからに、笑顔と幸いの多からんことを」
 その声に応える気になれずに、宵闇へと向かう渡り鳥を、暫くの間、目で追っていた。


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