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呉越同舟

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 水面が夕日で照らされて、燃えるように輝いている。魚でも跳ねているのか、カモメの群れは海面すれすれを飛び回る。
 波間を進む船からは、大海原にそぐわない馬のいななきと喧しい言い争いが聞こえてくる。
「もう逃げ場はないぞ。刀を渡せ」
 馬上、下之介を追い詰めた二郎は刀を渡すように迫まった。
「刀を渡せ渡せと言うが、この刀がどういうものか知っているのか」
「何っ。そんなことは知らぬ。私のような下っ端が知るわけないだろう」
「なんと。知らずに、ここまで追いすがって来たのかい。まったく呆れるよ」
「そこまでいうならば、お前は知っているのだろうな」
真剣に問う二郎に下之介は笑って答える。
「知らぬ。が、お主みたいに何も不思議に思わずに、お上のいうことに従いはせぬ。拙僧は清河八郎という御仁からこの刀を託された。清河は刀を捨てろと遺言し、死んだ。それから拙僧はこの刀を君ら浪士組から執拗に狙われ続けている。この二点からあらかた察しはついた。おそらくこの刀は妖刀村正」
「村正? 」
「君はそれでも武士か。刀剣に詳しくなくとも村正といわれればピンとくるだろ。村正とはかの徳川大権現の祖父、松平清康公が家臣の阿部正豊に刺殺されたときの刀だ。以来村正は代々徳川家に仇をなす妖刀として忌避されてきた。黒船やら夷人やらが迫り来るこのご時世に、刀一振りで大騒ぎして、馬鹿らしいと思わないか」
 蒸し暑い甲板に一時静寂が訪れる。下之介は男装の麗人、新垣二郎に追い詰められていたが、まだ諦めず状況が変わるのを待った。
「そうやってホラを吹いて煙に巻こうとしても、無駄だ」
「とにかく馬から下りてくれ。どうせ海の上じゃ逃げようがない。せめて門司の港に着くまでは仲良く行こうじゃないか。呉越同舟というじゃろ」
「だまされるものか。今すぐ縛に付け。船を下関に引き返させろ」
 二郎が叫ぶと、屈強な水夫が二郎を馬から引き擦り下ろした。そして、やすやすと荒縄で帆柱に縛り付けられている。それを楽しそうに眺めながら、下之介は勝ち誇って言う。
「呉越同舟といったろ。この季節、夕立やら大風(台風)やらで船旅は危険なんじゃ」
 いうだけいうと下之介は船べりから海を眺めた。このあたりは壇ノ浦だろうか。完勝の余韻に浸っているのか、はたまた感傷的になっているのか。下之介は懐から冊子を取り出して一筆したためはじめた。
「何を書いているんです。上中のだんな」
 飛脚の装いをした男が話しかけてきたが、その顔にはまったく覚えがなかった。
「なぜ拙僧の名前を。どこかでお会いしたかな」
「いえいえ。こちらがかってに存じ上げているだけで。西国街道の宿場でたびたび仇討ちを拝見させてもらいました。しかし、あっけない幕切れでしたね」
「いや、今まで追っかけまわされた身としては感慨深いものがある。この壇ノ浦は源平合戦の最後の大いくさがあった地、奇縁というものかも知れぬ。まあ、そういうことを日記につけておったのじゃ。急ぎの旅ゆえ今まで書く暇もなかったのでな」
「だんなは船旅でも退屈しなさそうでいいや。こいつを読む暇もなさそうだ」
 そういいながら、飛脚は肩に担いでいた荷物から三通の手紙を取り出して、下之介に渡した。二通は自分に宛てたものだったが、残りの一通は新垣二郎宛てだった。
「これは、拙僧のではないぞ」
「あっちのだんなに渡してくだせえ。では、あっしはこれで」



 日記を書き終えた下之介は、手紙を携えて二郎の縛られている帆柱に近づいて、ゆらゆらと二郎の目の前に手紙をかざした。
「それはお主宛の手紙だ。ちなみに拙僧には二枚きている。どうやら人望においても拙僧の勝ちのようじゃな」
 下之介は照れ隠しに憎まれ口を叩きながら手紙を二郎に手渡した。二郎は手紙を広げ、下之介にやり返す。
「たかが手紙二枚で人望とは笑わせる。おおかた二枚とも親からの便りだろう」
「当てが外れたようじゃな。この手ぬぐいで包んであるほうは京で世話になった菊屋の丁稚の娘からじゃ。わざわざ手ぬぐいを洗って送ってくれたのか。もう一枚は江戸の大家の奥さんから。息子の川太郎が拙僧が出て行ってから大泣きするので、早く帰って来いと書かれておる」
「どちらも|童《わっぱ》からじゃないか。人望などとよく言えたな。私のほうはちゃんと同志からきたものだぞ。ほう、今は浪士組改め新撰組と名乗っておるのか。新撰組は京の町人から大層な人気があるそうだ」
 手紙には新撰組が池田屋においての激戦が詳細に綴られていた。長州志士側が灯火を消したために、暗闇の中での乱戦となったが新撰組側の即死一名に対して、七名の志士を即死させ、残りの十数名の志士も捕らえられ、ほどなくして死亡した。その後禁門の変でも薩摩藩や会津藩とともに新撰組は戦い、京の町を勤皇派の暴徒から守ったと手紙は締めくくられていた。
「じゃが、京の商家には勤皇びいきが多いぞ。新撰組は糸問屋の大和屋を襲撃したり、八木邸の主人を離れに追いやって母屋に新撰組のお偉方が居座ったりと、評判が悪いと書いてあるぞ」
 下之介は自分の手紙を指し示しながらいう。京の商家は確かに勤皇派に対して同情的だった。それは当然のことかもしれない。
 幕府が横浜、長崎、函館を開港し貿易が始まったものの、輸出できる品目は生糸しかなかった。そのため生糸の大半が輸出用に回され、市場から生糸が消えた。生糸の値段は高騰し、京の西陣織の職人は仕事がなくなった。
「一つ聞きたい」
「申してみよ」
「貴様は刀一振りに振り回されてあほらしいといった。ならば故人との約束とはいえ、貴様が命を賭してまで守る価値がその刀にあるのか。私をここで斬ったとて、貴様は一生追われる身、生きて逃げおおせられるはずもない」
 下之介は二郎が初めて自分で考えて話していると感じ、真剣に答えることにした。
「拙僧は、な。刀を守りたいのではなく、約束を守りたいんじゃ。清河八郎という御仁とはたった二回会っただけだったが、初めて拙僧を一人の侍として遇してくれた。武士は自分を知るもののために死すということじゃ」
 二郎は自分の身の上と重ねて、ぽつりぽつりと話し始めた。
「その気持ち、分からなくもない。私も上京した際、江藤新平という御仁にいたく気に入られ世話になり、佐賀の殿様の紹介状まで渡されたからな」
 下之介はその名前に聞き覚えがあった。下之介がはるばる西国街道を西進したのは、ただ一人脱藩した佐賀藩士である江藤新平を頼ろうと、まさに追いかけてきたからだった。ここまで江藤に会えず、半ば諦めかけていたが、その紹介状があれば故郷の佐賀藩に入ることができるかもしれない。
「その紹介状はどこにある」
「懐の中だが……」
 二郎が言い終わる前に、下之介は二郎の襟元から無遠慮に両手をつっこんだ。荒縄で帆柱に縛られている二郎は縄が食い込むばかりで抵抗することができず、手足をばたつかせながら「やめろ、うつけ。色魔」と罵った。
 下之介は紹介状を見つけ出すと、しばらく呆けたようにただただ見つめていた。下之介が気を抜いたその隙に、二郎は満足に動かせる肘から下の部分を動かして、器用に紹介状を奪い返した。そして、紹介状を破ろうと手をかけた。
「待て」
「それじゃあ、まずはこの縄を解いて貰おうか」
 二人の立場はまた逆転する。下之介は紹介状を横目に、しぶしぶ縄を切った。
「その紹介状をどうするつもりじゃ」
「よく分からぬが、この紹介状、お前にとってよほど大切な物のようだな。取引といこうじゃないか。その妖刀とこの紹介状を交換しよう。悪い取引じゃないはずだ」
 日が落ちて、涼しい風が吹き始める。
「乗った。まず、こちらに紹介状を渡してもらおう。さすれば刀を渡す」
 自分の持ちかけた取引が滞りなく進んでいたが、二郎には不満だった。先ほどまで命を賭してまで守ろうとした刀を、前言を覆し紙切れ一枚と交換しようとする下之介に失望したからだ。
「その手には乗らん。お互いに刀と紹介状を投げ合えばよかろう」
「それだと拙僧が丸腰になるからいかん。斬られた上に紹介状も取り返されては適わぬからな。提案なんじゃが、お主が拙僧の弟子になるというのはどうじゃろう。弟子が師匠を斬った場合死罪じゃから、それなら拙僧も安心して刀を手放せる。」
「やなこった。お前から教わることなど何一つない」
「何もそこまで否定せんでも。史学ならば、教えられると思うが、どうじゃ」
「史学は好まぬ」
 まったく取り付くしまもなく、二郎と下之介の交渉は平行線をたどった。
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