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イチョウ並木のそば屋

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 上中高の住んでいる江戸川区緑町はまったく坂がない平板な土地だ。周囲を荒川と旧中川に堀のように囲まれている。
 よく交通の便が悪い土地を俗に陸の孤島というが、緑町はおおざっぱにいってしまえば川の中州なのだ。
 町唯一の交通機関であるみどりまち駅の構内には銀色の公衆電話がずらりと6台並び、その前に会社帰りのサラリーマンが密集している。6台も電話機があっても足りず、週末ということもあり電話機の前に長い列が出来ていた。
 年配のサラリーマンは話に花が咲いているのか、なかなか受話器を放さない。
 ようやく高の前が空き、友人の|烏丸《からすま》に電話をかける。
「おい、|烏丸《からすま》。奥間美砂さんを食事に誘ったんだが、何を話していいか分らない。教えてくれ」
 高は電話機の上に10円玉を積み上げながら、|烏丸《からすま》の返答を待つ。
「ちょっと待て。奥間美砂との食事を報告したことは殊勝なことだ。で、今どういう状況なのか説明しろよ」
 高は10円玉を3枚使い切る間に説明する。
 万年金欠で自分の行きつけのそば屋で食事するのが関の山だったこと。最寄りのみどりまち駅前にある大クスノキの下で20時に待ち合わせしていること。早く着き過ぎてしまい、待っている間に不安になってきたことを話した。
「やぐら倒壊事故で助けてもらったお礼がしたいっつったらあの娘、お前の退院祝いということならいいですよっていったんだろ。そんな優しい娘にお前の家のそばのそば屋だー! 笑えないジョークだ」
「そんなこと言わずにさ。な、教えてくれよ。お前なら学があるから、気の利いた話もできるんだろ」
「学は関係ないだろ。それより君といっしょに事故にあった映画監督の言ってたことが気になって、今4年前の事件のこと調べてんだ。うちの紙のバックナンバーをざっと1面だけ調べたんだが、やはりそんな事件はなかったようだ」
「今話すことか? どうせ2、3面の小さな記事だったんだろ。そんなことより奥間美砂さんと何話せばいい」
 受話器の向こうでなるほどと唸りながら、いそがしく紙を繰る音が聞こえる。
「あった。1968年12月12日付けの28面だ。2日前に3億円事件があったから、1面にならなかったんだな。詳細は監督が語った通り荒泉スミの自殺だが、これ面白いぞ。死体の足先と地面との間は20センチあるのに、使用したであろう台が見つかっていないんだ。警察の見解は30センチほどの砂山を作ってその上に立ち、首を吊った後に自分のつま先で砂山を崩したとしている。首の傷口は首を吊ったときの圧で頸動脈が破裂してできて、発見されるまでに血液がすべて抜けきってしまったんだと」
「ありえない!」
「そうだ、そんなことはありえない。他殺の可能性がある。首吊りにつかった登山用のロープには不思議な結び方の結び目があったらしい。これは犯人の手がかりになる」
 咳払いや舌打ちの音が高の後ろから聞こえてくる。
「結び目なんかが決め手になることがあるのか?」
「1963年に起きた狭山事件では被害者を縛っていた結び目がひこつくしという特殊な結び方だった。結びかたから犯人の職業を特定した一例だ」
 この時点でも狭山事件の公判は続いていたが、後にひこつくしは誰でも結ぶことができるとして、この説は否定された。
「もう、いいだろ。そろそろ奥間美砂さんと何を話せばいいのか……」
 ここで10玉が切れてしまった。
 結局有用な助言も聞けず、肝心なことは聞けずじまいだ。さらに後ろに並んでいる人を待たせて、かけ直すのははばかられる。
 高はしかたなく駅前の大クスノキへ向かう。


 クスノキの前には原色をふんだんに使った抽象画のようなあでやかなガラのワンピースの女性が待っている。着こなすのが難しそうな流行りの服だが、赤や緑の明るい色は南国生まれの美砂によく似合っていた。
 ふたりは連れだって歩き出す。めいっぱいおしゃれしてきた美砂をそば屋に連れていくことに、高は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
 背の高いイチョウ並木。すぎゆく車列のテールランプが光の曲線を描いて、街路樹をライトアップする。深緑が美しいが、秋になればもっと美しく色づくことだろう。
 気落ちして口数の少ない高に代わり、自然と美砂が一方的にしゃべり続けていた。
「イチョウ科の植物は大昔はたくさん種類があったけど、恐竜といっしょに絶滅してこの一種類のイチョウしかないんですよ。だから生き残ったイチョウは生命力が強くて、災害、戦火、公害にも負けなかったんだって」
「お詳しいんですね」
 相づちを打つ高は心ここにあらず。
 美砂は少しむっとする。
 力強く枝をのばした緑のトンネルを抜けると、高の行きつけのそば屋に到着した。
 外観も店内もそば屋らしい和の雰囲気がみじんもなく、大衆食堂といった趣きだ。ふたりの会話は滞り、窓際の席に座った後も沈黙は続いていた。
 事故のときに高が気を失わないようにふたりは互いに自己紹介し合っていて、今更話題に事欠く。
 注文したそばが来るまでの時間がやたら長く感じる。そばとはこんなにも作るのに時間がかかるものだっただろうか。
 気まずい時間に耐えかねて、高が口を開いた。
「おいくつなんですか?」
 聞いた瞬間しまったと思った。女性に年齢を聞くのは失礼ということぐらい、朴念仁の高ですら知っている。
 高のだしぬけな質問に、美砂はちょっと意地悪な質問で返した。
「いくつに見えますか?」
 看護学校の学生ということだから、高校は卒業している。おそらく18歳から20歳の間だろう。事故のときの処置が適切だったことを思い出し、卒業まじかではないかとめぼしをつけた。
「20歳ですか」
「アタリです」
 美砂はむくれて押し黙った。
 高はどうやら正解してはいけないクイズに正解してしまったようだ。
 18歳と言うべきだった。ハズレではあるがそれが正解だ。


 ようやく注文していたそばを愛想のない店員が運んできた。
 高の前にかけそば、美砂の前に盛りそばが店員の手で並べられる。
 ふたりはどちらともなくそばを食べ始めた。
 会話もなくただそばをすする音だけが聞こえる。
 高はいままでのミスを取り返そうと、話題を探す。ついさっき電話で話していた内容がまだ頭の片隅に残っていた。
「あの事故のときは映画をとっていたんですよ。『上野の吸血鬼』っていう殺人事件を題材にした映画なんです。これが面白くって、首吊り自殺にみせかけて殺されたっていうんですよ。遺体の首筋には2ヶ所の傷口があって、血液がほとんど残っていなかったいうんだ」
 高はまたやらかしてしまった。こんな気持ちの悪い話は食事中にする話題ではない。
 終わった。もう嫌われてしまったかもしれない。
「犯人は医学の心得のある人間かもしれないですね」
「えっ?」
 予想外にも美砂はこの話題に乗ってきた。
 それも、高に気を使ってというよりは興味を持ってくれているようだ。
 美砂は看護婦の卵であり、このくらいの話題では気持ち悪いとも思わないらしい。
「医療機器があれば遺体の血液を抜き取ることもできるんじゃないかしら」
 高は調子付いて面白おかしく脚色し、あるいは誇張して話した。
「なるほど、犯人は医者の可能性が出てきたね。首吊りに使ったロープに特殊な結び方の結び目があったらしいんだけど、これは手がかりにならないかな」
「外科医なら、縫合糸のいろいろな結び方を熟知しているはずです」
 ふたりは事件についてあれこれと推理して、時を忘れるほど熱中している。
 高のかけそばはすっかりのびきっていた。
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