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手首のロープ

 長い1972年も暮れ、明けて1973年。1月27日にはベトナム和平協定が結ばれ30年に及んだベトナム戦争にようやく道筋がついたかにに思われた。
 まったく収穫のなかった中国ロケも無事に終わり、日本へ戻ればまた慌ただしい日々。忙しい毎日は4年前の事件も10か月前の事故も忘れさせてくれた。
 荒川と旧中川に挟まれた平板な土地、緑町。みどりまち駅の東側は西側よりも整備が進まず、古くて狭い道が多い。交通量の多い道路すら2台の車がぎりぎりすれ違うほどで、特に五差路のある鶫ヶ辻交差点は慢性的な渋滞が起こっていた。
 その鶫ヶ辻に高の家はあり、友人の烏丸を招いていた。ワザリングハイツという名前が似合わないあばら家に烏丸は入る。
 築30年木造平屋のアパートは黒っぽく変色していて、風が強い日などきしんで音を立てる。高の部屋は道路に面しているので、車が通るたびに震度2くらいの揺れが起こった。
 烏丸は玄関に上がりこむなり、高の借家のひどさをからかう。
「おい、おい。ワザリングハイツというのはちょっと名前負けじゃないか。つぐみがつじ荘で十分だ。便所の匂いが玄関まで匂っているぞ」
「ぼっとん便所だから、しょうがないだろ」
 1970年のいわゆる公害国会において下水道法が改正し、70年代は流域下水道事業が推し進められていく。下水道普及率は低い地域で10~20パーセントほどだったが、市街地では74パーセントに広がった。
 とはいえ汲み取り式の便所が姿を消すのは90年代を待たねばならない。これは江戸時代から続くし尿を下肥として再利用する循環型の社会が優れていたため、かえって化学肥料や水洗便所への切り替えが遅れたのではないかと思う。
 都市部では水洗便所が珍しいものではなくなる。1967年にはすでに伊奈製陶(現LIXIL)から温水洗浄便座の販売が開始されていたくらいだ。東洋陶器(現TOTO)の商標、ウォシュレットの登場はまだ少し先ではあるが。
「お前なあ。し尿処理施設だって人気のない川のそばに建てられて、悪臭の苦情が来ないようにしてるんだぞ。この臭いをなんとかしろよ」
 烏丸の言うことはいちいち正論なのだが、なんとかできるくらいならなんとかしている。
 照明係見習いの安月給では家賃に金はかけられない。どうせ局内か会社に寝泊りして、ろくに帰らない我が家なのだ。家賃の安い必要最低限の部屋で十分だった。
 とってつけたような短い廊下を通り、烏丸を部屋に招き入れる。あんまり家の悪口を言われるもんだから、来て早々追い出しにかかった。
「そんなにこの家が嫌なら、もう帰ってくれないか? この後美砂を家に呼ぶ予定なんだから」
「正気か? こんな家に女の子を連れ込むなんて」
 高は何を言っても馬鹿にされるので、さっさと要件を済ますことにした。ちゃぶ台に向かい合い、烏丸に出がらしのお茶を出してから切り出す。
「で、話っていうのは何だ?」
「そう、それ。今調べている事件の話だよ」
 高は家をからかわれていたときとは別のイヤな汗がこめかみに滲む。
 自分も映画の撮影中にやぐらが倒壊して首を折る事故に巻き込まれ、それが事件と関係があるのではと思い始めている。事件のことにはもう関わりたくないし、事故のことももう思い出したくはない。
「その話はいいや。探偵ごっこはもう終わりにしよう」
「はあ? せっかく面白くなってきたところでやめるヤツがあるか。だいたいお前、事件の話題意外で美砂さんと話せるのか?」
 また馬鹿にされた高は、烏丸に言い返す。
「事件の話なんてしなくったって、話題のひとつやふたつ俺だってなあ」
 強がったところで烏丸には口で勝てない。
 言われるがままに事件の検証が始まった。
 高が被害者の荒泉スミ氏役となり、手首に登山用ロープを巻き付けられる。首をつられていたのだから検証するのであれば首に巻かなければならないが、結び目を高にも見えるようにとの配慮である。犯人役の烏丸が手首の下に輪を作り、片結びの要領でロープを通した。手首の前にずらして持ってくると、それはやはり片結びだった。緩く結んでいるが、両端を引っ張れば完成するだろう。ところが、そこからはまったく見知らぬ結び方だった。ロープの片方の端を奥から手前に輪の中に通し、通した端をまた奥から手前に通す。これを八回繰り返すと、結び目はゴツゴツとした握りこぶしのように大きくなった。
 こんな片結びを八回繰り返すような結び方は知らないはずだ。しかし高の脳裏にはせっかく忘れかけていた記憶がよみがえってくる。自分も巻き込まれた10か月前の事故、倒壊したやぐらに残されていた不自然なひもの切れ端の妙な結び目。
「この結び目、見たことがある」
「本当か、どこでだ」
「あの倒壊したやぐらに緑色のひもが結んであって、その結び目に似ているんだ。いや、でも関係ないかも知れない。俺の思い過ごしだ」
「関係はあるだろ。あの事故が事件にまつわる映画を取ろうとしていた監督を狙ったものだとしたら。事件と同じ結び目を残したのは、何か警告めいたものなんじゃないか」
「警告ねえ。事故と事件を結び付けるような証拠を犯人が残すかなあ」
 身動きが取れない高に烏丸はつかみかかった。びくりと背をのけぞらせる高を烏丸は揺する。
「それだ」
「どれ?」
「そうだ。だから犯人はあえて大きな事件が起きた直後に犯行に及んだんだ。4年前の事件が起きる前には3億円事件が起こっていて、世間はその前後に起きていた殺人事件なんていちいち覚えちゃいなかった」
「ちょっと待ってくれ。じゃあ犯人は大きな事件が起こるたびに、それを隠れみのにして犯罪を犯すってのか。それに気づいた人間にだけ分かる警告があの結び目だって言うのか」
 烏丸は高の問いに大きくうなづくと、そそくさと帰り支度を始めた。
「次会う時までに調べておく。君も何かわかったらウチの新聞社の屋上に顔を出してくれ。僕は休憩中はだいたいそこにいるから」
 伝えたいことだけ伝えると烏丸は嵐のように去っていった。
「おい、これ。手首に結んだロープ解いて行けよ」
 ひとりでほどくこともできず、両手首がしまった状態なのでドアノブを回すのすら手間取る。慌てて外に飛び出したが、烏丸はすでにいない。
 目の前にいたのは奥間美砂だ。
 高は結局自分の痴態の言い訳の為に、事件の話をするしかなかった。
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