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甘い汁

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 私は身体に腫れものが出来やすい性質で、今も幼稚園に通っている頃から首筋にこびり付き続けている一二センチメートルばかりの物が有る。しかし、此れはとても大きいもので、大抵の場合数ミリメートル程度のニキビの様なものに過ぎず、治る場合もあるし、皮膚に傷をつけて自分で押し出す事もある。つまり、首筋に付いている巨大なこれは例外中の例外と言う事に為る。
 一度、これが悪いものでないか病院に尋ねに行った事が有ったが、特に問題は無いと言うし、膨れている場所が場所なので手術を頼む様な事もしなかった。首筋にメスを入れられるというのは良い気分がするものではない。皮膚の下に石の様な物が隠れているようなので、手術で取ろうと思えば取る事も出来るのだろうが、付いていて気に為る様なものでも無かった。精々髪を切る時にお喋りな理容師に病気か何かと聞かれる程度だ。
 だが、高校に通っていた頃のことだった。背中に同じ規模のしこりが出来た。構造も似ていて、皮膚の下に固い塊がかくれんぼしていた。水泳の授業で少し気に為るので絆創膏で隠していたが、その所為か否か、皮膚がぶよぶよとふやけて戻らなくなった。今にも破れて、中身が挨拶でもしてきそうな触り心地だった。私はこればかりは手術で取り出してもらおうと、病院に行った。
 其れが案外珍しいものだったらしく、写真を撮られながら診察室の奥の、間仕切りで区切られている程度のベッドでしこりをくりぬかれた。テレビドラマで見る様な手術室を想像していた私は拍子抜けだったが、さっさと終わるに越した事は無い。取り出した後も、私が見る前に医師が保管すると言う事になって、抜糸の日取りだけ伝えられてさっさと帰らされた。
 私は背中に縫い付けられた黒い糸がなんだか格好良い様な気がしたので、携帯電話の撮影機能でどうすれば格好よく撮影できるか研究した。しかし、どうしても一人では限界が有った。かと言って両親に頼むのは恥ずかしく、どうせ見せる相手もいないので、適当に受験勉強をして寝た。
 再び病院に行くまでに一週間はあった。風呂に入る時には神経を使うし、服を着れば妙な感触がするので、二日目もまるで落ち着かなかった。ふと気が付くと、左の掌にまたもやしこりの様なものが出来ていた。背中や首筋のものと比べれば小さい、何時も出来るニキビの様なものだ。そのうち治るだろうとも思ったが、私はナイフで削り取る事にした。顔や手に出来たものと言うのは、必要以上に癇に障る。
 ドーム状に膨らんだ処へ、ケーキでも切るかのように真中に切り込みを入れた。未だ皮膚の部分しか切れていないので血は出ない。皮膚の下には魚の目の芯の様に深くまでできものが入りこんでいた。私は不器用にあちこち傷つけながら、塊をほじくり出した。少し血のにじんだ傷口に、できものの中の塊が割れて染み出て来た金剛石の様な輝きを放つ液体が掛かった。液体は鮮やかな血液と混じり合い見た事もない様な色をかもしていた。私は、どういう訳か舐めたくて堪らなくなった。頭の片隅では不潔さを認識していたのに、意識とは関係無しに、口が掌に吸い寄せられていった。自室だから誰もいる筈がないのに、辺りを見回してから一舐めした。
 次に気付いた時には、私の掌は唾液にまみれ、すっかり血の気を失って真っ白になっていた。液体が底を尽きた後も傷口を吸い上げ続けていたのだろう。一歩踏み出した途端に、堰を切ったようにその液体を欲したのだ。
 その露は血液と混ざり合って鉄っぽくなっていたが、尋常にない甘さだった。だが嫌な甘さではない。私は甘党ではないが、これほど美味しい物を食した事は無かった。私は衝撃を受けていた。また舐めてみたいと思う反面、こんな麻薬の様な恐ろしい物を再び舐めて自我を保っている事が出来るのだろうかという不安が墨流し状に脳裏を漂っていた。
 ふと外を見ると、人工衛星が点滅しながら宙を緩やかに滑って行った。部屋が薄暗くなっている。なにか、全てを失った様な空しさが有った。何もする気が起きなかった。左手が痺れて細やかに震えていた。椅子に座ってぼうっとしている自分がまるで別人の様な、自分の背中を見ているような感覚に陥っていた。
 晩ご飯は肩の治癒が早まるようにと肉の多い、何時もより豪勢に見える物だったが、あの液体を舐めた所為かどれも味気なく、精彩を欠いて見えた。暫くはその調子だったが、人間は忘れっぽいものだ。あの味を忘れればきっと元に戻るだろう。
 授業どころではない、と病院に駆け込みたい様にも思ったが、一体医師に何と告げるのだ。私のできものが美味しいので困っています、なんて馬鹿げているにも程が有る。私は、休まずに学校へ行った。
 抜糸まで未だ数日ある。気が気でない私は、つい首筋をさすってしまっていた。其処にもあれが有る。早くも熱中症患者を出した日差しが、国語教師の禿頭を、何かの攻撃の如く照らしあげ、生徒たちのやる気を殺いでいた。その上、その教師は概ね教科書を読むだけの役立たずだったので、多くの生徒は教科書の上に参考書を重ねて、授業ではやっていない範囲を独自にやっていた。その教師は特にそういった生徒を注意する様な事が無かったので、全国模試では彼が担当しているクラスの国語だけは成績が良いと評判だった。私は正当な評価では無い様な気がしたが、生徒の勉強を邪魔しないだけましな教師なのかもしれないと思い直した。世の中と言うのは案外バランスがとれているものだ。
 体育の水泳は、大きな絆創膏で縫った傷口を隠し、参加した。見学するだけの理由にはなった筈だが、医師には水泳も風呂も止められていなかったし、兎に角気晴らしがしたかった。妙に張りきっている私に級友たちは奇異の目を向けつつも、唯一の涼みの時間を満喫していた。水面に浮かぶ太陽光が、例の液体を彷彿とさせるように錯覚したが、其れ等を無視して水泳に集中した。
 風呂に入り、縫い目を強く擦らない様に肩だけは指でなぞるように洗った。糸は固いエナメル状でつるつるとした感触だった。しっかり縫い合わせられているから、恐らく或る程度はタオルでこすっても大丈夫なのだろうが、私は初めての事に慎重になっていた。



 漸く抜糸の日が来た。放課後では医院が閉まってしまうので、午前中だけ学校に行き、午後昼食も摂らずに早退した。何時もより歩幅が広くなる。医院で何も言われなければ唯それだけで、あの金剛石色の露の存在を忘れられるような気がしていた。唯抜糸をするだけならば。
 消毒液の匂いを嗅ぎながら、手術をしたのと同じベッドに座り、背中の糸を抜いてもらっていた。私は嫌な予感がしていた。奇妙な視線を感じていた。いや、そればかりではない。医師は折に触れて首筋のしこりをさすっていたのだ。私は偶然ではないだろうか、間違いではないか、と痴漢かそうでないかを判断しかねているかの様な気分に陥っていた。だが、直後の一言でそれは決定的になった。もう、糸は抜き終わっていた。奴はこう言った。奴は私の肩に手を置いていたが、屹度焦点は首筋にあったに違いない。あろうことか奴は、私に首筋の手術を勧めて来たのだ。私はいくつもの確信を一度にした。奴は舐めたのだ。意図してか偶然かは兎も角、あのサンプルにする等と言って私から取り上げたできものを。
 私は言葉少なに断ると逃げるように診察室から飛び出した。奴は追っては来なかった。支払いもまだだし、保険証が受付にある。私はそのまま帰る訳にはいかなかった。誰かに事情を話す訳にも行かない。信じてもらった暁には、その人間もまた奴と同じ様に私の敵となっているに違いない。大人しくやり過ごすしかない。待合室には病室の退屈から逃げ出してきた老人が、飼育されている熱帯魚を眺めていた。風邪に罹ったらしい子供をつれた母親もいる。私はなるべく平生を装って座席の一つに腰を落ち着けた。
 安らかな午後の時間が流れていた。私の心臓はそんな雰囲気にお構いなしに、祭りでもあるかのごとく鼓動をどんどんと鳴らしていた。一体誰がこの悪い噂が全く立たないこの病院で、必要もない手術を迫られている人間が居ると思うだろう。この穏やかさが、私には不気味だった。名前は一向に呼ばれない。時間が酷く遅く流れているように感ぜられた。待合室は静かだった。
 私は居た堪れなくなり、見えないものを避ける様にトイレに駆け込んだ。誰の目も気にする必要の無い個室で少し考えを整理する必要が有った。医師が私の家を調べるのは容易だろう。だとすれば、此処で何らかの決着を付けなければならない。だが決着とは何だ。表面上、私はまだ手術を勧められたと言うだけではないか。強要された訳でもない、脅しもない。私は自信が無くなって来た。本当にあの医師はあれを舐めたのだろうか。
 唐突にトイレの外側の扉が勢い良く開けられて、私を探す声が聞こえてきた。
 奴だ。
 なぜ、奴が私を探しに来るんだ。事務員か誰かいるだろう。私は返事をするか迷っていた。奴の声にすら恐怖を抱くようになっていた。奴は私がここにいると確信しているらしい。病院で待合室にいない通院の患者が何処にいるかと言われれば、確かに候補は限られる。その上、私は個室の鍵を掛けている。今日は空いているから、他に誰か別の人間がここを使っていると考えるのは難しいだろう。私は追いつめられたことを確信した。
 そして私は薄々ながら自分が思っているよりも悪い事になっている可能性を感じ始めていた。自分自身さえも虜にしかけた、できものから零れ落ちる、金剛液。医師が口にしたのだろう液体は、掌に出来た些細なニキビの比では無い。扉の向こうに三日月の様な眼と頬を切り裂くほど開いた口をした悪魔が潜んでいるようにさえ錯覚した。
 だが、もはや逃げ道は無い。相手を挑発しない様に恐る恐る返事をした。肺に僅かに残った空気を捻り出す様に、声が上擦ろうとも気にせず。
 医師はごく優しい口調で、恐らくしてもいない心配をした。
「体調が悪くなったのかい。腹でも壊したかい。どれ、便意が落ち着いたら見てあげよう」
 私はそれには及ばないと答えた。医師は変わらず子供でも諭すようにどうしても手術するのは嫌なのかい、と聞いて来た。私は勿論嫌だと答えた。その返答が気に食わなかったのか、医師は豹変した。彼は窓の無い個室に閉じ込められて居るかの如く、扉を叩き出した。
「ねえ、君には分からないだろうが、あのできものは医学的に重要なサンプルに為りえるんだよ。あんなにも甘い、美味しい物を体内で生成できるなんて! いや、もしかしたら君の身体が特別なのかもしれない。あんなにも素晴らしい液体を作る君の身体は、どんな特別な味がするのだろう」
 最初の内は医師らしい事を言っていたが、意図してなのかせずにか、次々と本音が漏れて来た。だんだんと医師の口調は荒くなってくる。奴が私をどうしようとしているのか分かってくると、余りのおぞましさに吐き気を催した。私はちょうどいいところに便器が有ったので嘔吐した。私は自分の身体を貪ろうとしている、狐か悪魔に取り憑かれた男に追い詰められていた。
 奴の演説なのか罵倒なのか、要求なのか恫喝なのか恐喝なのか、分からない言葉は途切れることなく続いていた。其処へ待合室にいた老人が入って来て、般若のごとき形相の医師を見て腰を抜かしそうになりながら逃げて行ったらしい物音を立てて出て行った。
 医師は其れに気付いていない様子で、未だに扉を叩き続けている。幸いなのは上部の隙間から入ってこなかった事だ。二つしかない個室の内、私が居ない方は和式だし、足場に為る物が無かったのだと思う。或いはその発想に至らなかったか、そうする身体能力が無かったのかもしれない。
 老人が走り去ってから間を置かずに看護師や事務員が来たようで、医師が引き摺られて行く様な騒々しさが有って、其れが収まってから外に出た。其処には誰も残っていなかった。事情も聞かれず、何の説明もなく、其処には私だけだった。出掛けに肝を冷やした表情の老人と擦れ違ったから、あの騒動は幻聴の類ではないと思うが、自信が無い。
 まるで何も無かったかのように、支払も滞りなく済み、日常が戻った。帰り掛けに病院を振り返ると、窓から誰かが此方を見ていたようにも感じたが、ただ窓際に寄り掛かっていただけかもしれない。一歩ごとに、疑問が浮かび、風に乗って消えていく。通りの並木がざわめく。その日も酷く暑かったから、風が心地よかった。足取りはいくらか軽かった。
 あの病院にはもう五年以上経った今も足を運んでいないし、視界の端に入れる事すらしていない。

7, 6

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