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第五部 『DAY OF YOU』

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 風になった夢を見た。
 見果てぬビル街の真ん中で、両腕と両足を広げて、真っ白な空を見上げていた。耳元で風が、いや耳となった風が渦を巻いて、全ての音を吸い尽くしている。
 静かな、たった一人の世界だった。身体は軽く、なんのしがらみもなく、彷徨うばかりだった。腕を伸ばせば、苔の緑と雪の白の螺旋が絡まりあって、どこまでも届きそうに思えた。
 それを一振りすれば、身体は反転し、逆さになった城塞のようなビル街を見下ろせる。視野はどこまでも狭くできたし、色彩はオイルを塗ったように鮮明。呼吸すると冷たくて綺麗な水を飲んだような心地がした。風になった人間の喉は渇かないし、その瞳から涙が滴ることもない。
 大文字になって、胸を張り、腕を広げれば、この眼に見える全てを手に入れることが出来る気がした。自然と口元が綻び、小さな微風がさざめいた。
 そして、始まりを思い出せないくらいに遠く遥かな時間を味わって、気づくのだ。
 自分以外の誰かが、すぐ近くにいることに。
 初めは、風の余波でビルの外壁が崩れでもしたのかと思った。目で追った時にはもう、何かが動いた気配さえ微かにあったかどうか。そして、振り向くたびにビルの影へと姿を消す、苔の緑と雪の白の残滓を見つけて、急にさびしくなって追いかける。
 けれど、その誰かは泳ぎの巧みな水妖のように、探索者の手をかわし、すり抜け、決してその姿を現さない。触れられない限りは、それがそこにいるということを確かめることができない。それを知っているかのように。
 手に入れられないものほど、欲しくなる。
 躍起になって追いかけるのに、追えば追うほど、それが遠くなる。
 風の連なりが千切れるほどに、苔と雪の腕を伸ばした。

 そして、夢は醒める。
 楠春馬は、目を開けた。
 チャンピオンになった朝だった。


 ○


 スポーツ新聞を読む。
 見出しには大きく、『王座陥落』と書き出され、その下から詳細な試合の描写が爪で引っかいた跡のように小さく続いている。終わりの決まっている物語を、春馬は何度も読み直した。自分の勝利で終わっているはずの物語を。そして、それでもまだ信じられなかった。
 自分が王者になったのだとは。
 病室の白いベッドに隠された、自分の両足に向かって新聞を放り投げる。開け放たれた窓から吹き込んでくる夏の終わりの風が、髪をくすぐり、細く切れたまぶたの傷に染みる。
「夢から醒めたと思ったら、また夢か」
「そう思う?」
「ああ。思うね。だって――」
 春馬は、まだ少年らしさを残した顔に浮かんだ、かすかに寂しげな視線を自分のベッドの脇に据えた。
「目を覚ましたら、知らない女の子がいるんだから」
 そこには、黒いドレスを着た少女がいる。備え付けのストゥールに腰かけ、膝小僧をすり合わせ、見舞い客が持ってきたらしい果物を小さなナイフで剥いている。誰かを看取るような静かな視線を落としている。春馬とそれほど歳の変わらない、同い年かもしれない少女だった。
 かすかに緑がかった、綺麗な黒髪をしていた。
 その少女が言う。
「何度も言ったでしょ。私はあなたのファンなのよ」
「ファン、にしたって、試合直後のボクサーを、いきなり訪ねてくるものかな」
「ええ、訪ねるわ。知らない? ファンってね、応援している人には何をしたっていいのよ」
「なんだか落語みたいだな。それじゃ僕はゆくゆくは、君に殺されてしまうのか」
「そういうことも、あるかもね」
 くすっと笑い、春馬が瞬きしているうちに、少女は切り刻んだリンゴを皿に並べて銀のフォークで食べ始めている。春馬はそれをじっと見ていた。
「僕には?」
「あげない」
 そう言いながら、少女はもう一本の銀のフォークを取り出して、リンゴを一突きする春馬に何も言わない。これはどういうことだろう、と春馬は思う。はっきり目は覚めているはずなのに、これが夢だという気持ちが抜けない。
 短く裾を整えた、夏の黒装に身を包んだ少女。
 夢にしたって、リアリティが無さ過ぎるのに、これが現実だと主張するのだから、もし彼女が夢ならば、高飛車もいいところだ。
 春馬は思わず笑ってしまった。
 そういうのは、嫌いじゃない。
「――何?」
 少女はぽりぽりとリンゴを食べながら、眉をひそめて春馬を見返す。春馬は顔の前で手を振って、笑いの発作に別れを告げる。
「いや、なんだかおかしなことになったと思ってさ。ひょっとして、僕はナースコールを押すべきなのかな?」
「押しても誰も来ないわよ」
「試してみようか」
「やってみなさいよ、そんなことしたらわたし、これを持って逃げるわよ」
 そう言って笑って、少女は足下から、大きな鋼鉄のトランクを持ち上げて、それをベッドにどすんと置いた。春馬は笑みを消した。
 少女は、すぐにはそのトランクを開けなかった。その代わりに、言った。
「ゆうべの試合、見た」
「――うん」
「格好良かった」
 春馬は苦笑した。
「そうか、それはよかった。でも僕から、ボクサーから言わせれば、あんな試合はまだまだだ。どうして勝てたか思い出せない、気がついたら運び込まれてベッドの中さ。これじゃ上へはまだまだ遠い――」
 少女は、じっと春馬を見る。
「自信がないの?」
 春馬はたじろいだ。
「自信? そういうわけじゃない、僕はただ――」
「わかってないのね」
 少女は、かちゃりと留め具を外して、トランクを開けた。
 春馬の呼吸が止まる。
 そこにあるのは、王者の証。
 かつてそれを腰に巻くことができた男が、どれほどいたか。
 鈍くかがやく黄金は、むしろ黒く見えて。
 春馬の目には、それが眩しかった。
 うつむく春馬の顔を見て、少女が言葉を突き刺す。
「これを見ても、まだわからない? 自分が何をしたのか」
「――――」
「あなたは勝った。王者を倒して、帰ってきた。だからこれがあなたの手にあるの」
 少女は一拍置いてから、言った。
「チャンピオンベルトが」
「……わかってる」
「わかってないよ」
 少女が、春馬の拳を掴む。
 ぐっと強く、握る。
「あなたはわかってない。そういう顔をしてる。でも、あなたは理解しなきゃだめ。たとえそれがどんなに苦しくても……」
 春馬が目を閉じようとすれば、少女が手に力を込めて、それを阻んだ。
 燃えるような目つきが、春馬を捉えて逃がさない。
「あなたがこれを拒むということは、あなたが倒してきた相手全員を否定することになる。ボクサーだったら、わかるよね。負けた時の悔しさが、惨めさが」
「…………」
「怪我や病気で、引退を余儀なくされたボクサーもいる。どんなに頑張っても、自分には才能がないと諦めてしまったボクサーもいる。ボクサーじゃなくったって、あなたを信じて夢を託した人が、どんなに少なくたって、この世界にはいるのよ」
 チャンピオンベルトから目を逸らした王者に、少女は言葉をぶつけ続ける。
「知ってる?」
「何を」
「あなたには、何かを途中でやめる権利なんかないのよ」
 春馬は、泣きそうな顔で笑った。
「……きついなァ、それは」
「そうでしょうね」
 少女も笑った。
「わたし、それを見に来たんだもの」
「悪趣味だね」
 春馬に皮肉に答えずに、少女は立ち上がった。
「巻いてあげる」
「えっ、いや、いいよ。病み上がりにはちょっと重いし……」
「いいから」
 それ以上の言い訳を重ねることを許さず、少女はぎこちない手つきで、春馬の腰にチャンピオンベルトを巻きつけた。病人用の患者服の上から巻かれたそれを見下ろして、春馬はなんだか誇らしいというよりも何かをしくじったような気持ちになってきた。その気持ちも、じろりとねめつけられて霧散する。
 ベルトの上のプレートを、ゆっくりと撫でた。
「僕は、チャンピオンになったのか」
 ええ、と少女は答える。
「あなたはチャンピオンになったのよ。……憧れていた背中にまだ追いつけていなくても、ね」
「……そうか」
 春馬は笑った。
「そうだな」
 少女が、静かに春馬から離れた。
 そして、何か大事なものを捨てる時のような表情になって、小さく呟いた。
「……新世界」
「え?」
「あなたが、これから誰と戦うのかはわからない。でもいつか、その道が途切れた時は――」
 きびすを返し、黒髪がふぁさりと流れて、
「また、誘いに来るから。……じゃあね!」
 とっておきの笑顔だけを残して、少女は軽く過ぎ去っていった。
 名前も名乗らずに。
 取り残された春馬は、ようやっと侵食してきた現実と、身体に残ったダメージに慰められながら、ぼすんと枕に頭を落とした。ベルトを外す体力はなかったし、あってもそれを外そうとはしなかったろう。
 チャンピオンになったことがあるなら、誰でもそうだ。
 開け放たれた窓から、風が吹き込んでくるのを感じながら、春馬は晴れ渡った蒼穹に向かって右手を伸ばした。
「新世界? そんなの――」


 瞳を閉じれば、思い出すのは、あの名前。
 ああ、そうだ。
 あの背中、あの拳だ。
 あの姿に憧れて、魅せつけられて、
 俺はここまで、やって来たんだ。


 拳を握る。
 きつく、きつく、きつく、きつく、
 強く、

 ―――傷になるほどに。






















                黄金の黒











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