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NO HERO...

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〈救済〉が始まったとき、僕はベッドの上でアメコミのヒーローごっこをしていた。二階にいたからわからなかったけれど、そのときのママたちは、だいぶ慌てていたらしい。だから、家が揺れる中、僕が鳴り響く電話の音を止めに一階に降りなきゃいけなかった。廊下で鳴っていた電話は、東隣の州の森林地区にロッジを作って暮らしていたおじいちゃんからだった。
「やあ、坊主。こっちも揺れとるよ。おしっこちびりそうかい」
 オークの木肌を連想させるような、しわがれた声でおじいちゃんは言う。「〈イエス様〉がでっかい体で来なさったよ。良い奴は新世界に行き、悪い奴は地獄行きだ」
「ふうん」
 電話を肩と頬に挟んだ僕はまだ揺れている床に座って、指に挟んだウルヴァリンの鉤爪(元は厚紙)の角度を調整していた。
「朝日と一緒に、東から来るよ。あと十三時間くらいかね。今頃ジャパンやオセアニアはなくなっているかもしれない」
 そりゃ大変だ、と相づちを打っていると、パパとママがもつれ合いながら廊下の向こうからやってきて、ぼくを抱きしめた。ぼくの口と鼻はパパの鍛え上げられた胸板にしっかりと押しつけられて、苦しかった。ママはぼくの髪の毛を赤ちゃんのそれにするみたいに何度も撫でた。
 パパが電話を替わって、おじいちゃんと話している間、僕はママにつれられて、リビングのソファーに寝かされた。さっきみんなと別れ、学校から帰ってきたばかりだ。眠くなんてない。でも、パパはそうさせておけと言うのだった。
「どうしたの、どうしてみんな慌てているの」
 ママは「そうね、なんでかしら」なんて答え方をして、ずっと僕のおでこを撫で続けた。こういうとき、ママはテレビを点けようとしない。悲しい知らせを聞くのが、どうしても嫌なのだと言う。キッチンの方からは肉の焼けるにおいに混じって、オレンジジュースをこぼしたにおいもする。揺れはまだ続いていた。
 窓の外を見ると、空が真っ暗でびっくりした。でも、夜じゃなかった。大量の鳥が空を覆うように飛んでいた。ちょっと前にテレビでみたことがある。天変地異が起こる前触れには、こうして動物が異常な行動に出るのだと。
 リビングにパパがやってきて、テレビを点けた。ママは不安そうな顔で、化粧をした顔の中心に皺を集めた。「どうなんですか」
「最悪の事態だ、と。ヴァチカンも、上辺だけだけど、ちゃんとこの件を報道しているらしい」
〈救済〉が始まったのだと、おじいちゃんは断言したそうだ。このとき、僕は初めて、世界を滅ぼすという意味での〈救済〉という音節を耳にした。
「君たちのお父さんとおじいちゃんがそう言うのだから、きっと間違いない」
 パパとおじいちゃんはヒーローだ。パパは軍隊で何度か戦場を経験している。大統領と握手をしたことだってあるんだ。おじいちゃんはお星様の博士だ。ある悪い星を、隣の州の山でずっと見張っていた。
 テレビに緊急放送が流れている。どこの放送局も、白い服を来た老人の演説を繰り返し流していた。「今日いっぱいの放送予定を取りやめ、ローマ法王の演説の録画を流し続けます。通常放送への再開は未定です」というテロップが流れていた。今日は、新しいスパイダーマンのアニメが初めて放送される予定だったのに。
 パパはママに、「アレ」を持ってきてくれと言った。ママは前から準備ができていたというように、戸惑うことなく、廊下に出ていった。「アレ」とは、鍵のことだ。ガレージの奥にある部屋のもので、そこにはたくさんの武器が隠してある。二人とも、いつも僕に内緒にしようとしているけれど、きっとそうに違いないんだ。パパの、岩壁みたいに重なった唇を見て、これからパパはたくさんの武器を自在に持ち変えて、神様を迎え撃つつもりなんだって、僕にはわかった。僕はその後ろで、子分としてついていく。神様の手下どもは僕の射撃テクニックで眉間を撃ち抜かれて、一撃なんだ。そんなアメコミのワンシーンを頭の中で描いて、これから起こることに興奮してきた。
 パパは、いったん僕をソファーから抱き起こして、今日の学校での出来事を訊いた。「ケイティはやっぱり、のろまだったよ」「ボビーはリサのことばかり見てた」「サリンジャー先生の話は、今日も愚痴から始まったなあ」
 パパはひとつひとつの話にいちいち大まじめに相づちを打って、ときどき笑って、僕の話が終わるのを待っていてくれた。でも、本当はそんなことを聞きたいのではないのだろうな、とわかっていた。話に区切りがついて、話すことがなくなると、パパは大きくうなずいて、鼻から息を吹き出した。
「いいかい、ジャック」パパは力強く、僕の肩に両手を添える。「今から言うことは、たぶんパパからお前への、最後の大切な話になる」
 僕はうなずいた。いつかそんな日が来るって、アフガンに行くときも、その先からの手紙が届かなくなったときも、ママはお話ししてくれた。
「パパは、アメリカのみんなを守ってくる。この国のために、命を使うんだ」
「誇り(pride)だね」
「いいや、ちがう。誉れ(honor)さ」
 パパは、おじいちゃんが話してくれたことをわかりやすくまとめてお話ししてくれた。
 イエス・キリスト様が、記録と名前だけのファンタジーの世界から舞い戻ってきた。かの人はたくさんの奇跡を携えて、たくさんの使徒といっしょに、この世界に終末と永遠の安息をもたらしに来た。死んだ人たちは今こそ復活する。そして僕たちはキリスト様のほうへと歩んでいって、肉体を捨て、魂となって、かの人の懐(ふところ)へと昇っていく。
「おかしいよ」
 僕は、両手の爪を重ね合わせて、天井に向けた。
「なにがだい」
「だって、今までのお祈りはなんだったのさ。僕たちは良い人でいて、死んでも救済されるために生きてきたんでしょ。どうして逃げなきゃいけないの。それに、本当にキリスト様が悪なら、ヒーローはもっと戦うよ」
 それまでずっと僕の目を見つめていたパパの目が、ソファーのクッションのあたりに落ちた。パパは困ったように目をつむって、しばらくの間考え込んだ。
 テレビから高い音がして、テロップが切り替わった。「今後、暴動が予想されます。危険な地区には、自己判断で近づかないこと。いかなる事態にも冷静に対処すること」また切り替わって、「一時間後、18:00より大統領公式会見あり。民間人は家庭に及び近隣セーフハウスに待機」と出る。パパは大統領のところに行って、命令を受けなきゃいけないのだ。
 ママが来て、パパの背中を見て戸惑った。ママは鍵を握りしめたあと、パパの手にしっかりとそれをつかませた。長いため息がリビングを包んだ。窓の外からは、あわただしい人々の動きや、犬の鳴き声が聞こえ始めていた。
「ヒーローなんて、誰も望んではいないんだよ」
 それは、パパがことあるごとに僕に言っていたことだった。ヒーローごっこの終わりに、アニメのあとに、僕がマーヴルコミックを買って本屋から帰って来たときに。そのときだけは、パパが嫌いだった。ヒーローはかっこいいんだ。ヒーローのいない世界なんて、僕は見たくない。
「スパイダーマンは? バットマンは?」
 そうじゃないんだ、とパパは首を振る。ヒーローにも、ヴィラン(悪役)にも、登場人物の根底には自己葛藤があるんだ。
「アベンジャーズも? グリーン・ランタンも?」
 そうさ、とうなずく。
「パパも、おじいちゃんも?」
 その聞くのも恐ろしい質問だけには、間を置いて頷いた。僕は泣きたくなってきた。パパはママに渡された鍵を持って立ち上がった。ママが抱きついてきて、その鍵をカーペットの上に落としてしまう。
「おかしいや」
 僕はその鍵を取って、廊下に走った。背中に声がかかる。「ジャック!」
 僕は振り返って叫ぶ。
「正義のヒーローなら、善人だ! 救われるに決まってる。どうしてパパはそのことから逃げるのさ!」
 家を飛び出し、Uターンしてガレージに飛び込む。シャッターは開いていた。今朝、パパが基地から帰ってきたときのままだ。真っ赤なムスタングの真後ろにあるドアの鍵穴に、僕は乱暴に鍵を差し込んだ。
 中に入ると、真っ暗でなにも見えなかった。ガレージの入り口から、僕の名前を呼ぶママの声が聞こえる。手探りで部屋の奥まで歩いていく。部屋はちょっとした広さと奥行きがあるみたいだった。この部屋のことは、いろんなテレビ番組やガンマニア向けの雑誌で想像済みだ。四方の壁には棚があって、拳銃から小銃が、一分隊分掛かっているんだ。S&W44マグナムに、M1911コルト・ガバメント,M1ガーランド銃からBAR、M16A2アサルトライフル、それにRPG、手榴弾、クレイモア地雷まで……。過去から現在までの銃火器と爆薬がそろっていて、無限の弾薬と火薬が備蓄されているんだ。ヒールやヴィランが現れたとき、やつらの骨肉を削り、邪悪な願望を握りつぶし、この町に平和を取り戻すために。
 僕は、壁に掛けてあった長い棒状のものを掴んで振り返った。ドアの形をしたかすかな明かりが、大きなシルエットでふさがれている。パパだ。足もとがかろうじて見えるだけで、顔は僕を見ていることしかわからない。
「ジャック、なにをしているんだい」
 かくれんぼで僕を見つけたときのような甘い声だった。あと三歳僕が幼かったら、そんな声でも、この銃を棚に戻したかもしれない。
「パパ、戦いだよ。神様は悪なんでしょ? おじいちゃんも、パパも、テレビの人だって、そう言ってたよ」
 頭が左右に振られる。こんなシーンだけ切り取ったら、本当にアメコミのワンシーンみたいなのに、どうしてパパはそこで立っているだけなのだろう。僕はいらだってきた。
「神様は偽物なの? それともドラマみたいに、大統領は嘘をついているの? 神様から逃げる必要なんて、本当はないんじゃないの?」
「そうじゃないんだ、ジャック。よく聞きなさい」
「パパだって、よくわかっちゃいないんだ」
 そう言ったときだった。部屋が光に満たされて、すぐに僕は目をつぶってうずくまった。ママが電気をつけたのだと、二人の話でわかった。
「ジャック」目を開けると、パパは僕の肩に手をかけていた。正真正銘の優しい声だった。「それをママに渡して、パパの話を聞くんだ」
 ママはしゃがみこんで僕のうなじを撫でていた。僕は、言うとおりにそれを差しだそうとした。でも、手が止まった。僕は、今まで銃だと思っていたそれの正体を初めて見て知った。銃身だと思っていたものは、棒状ですらなかった。弾が込められていると思っていたそれを作っていたのは、鉄ですらなかった。それは、ただの雪かきスコップだった。周りを見ると、そこはただの掃除用具をしまっておく部屋だった。消火器が隅のほうにあって、棚には洗濯用洗剤やパイプのぬめりとりのための薬品が置かれていた。毎年雪が積もるたびに見かける大人用の雪かきスコップが、二人分壁に掛けてあった。
 でも、ひとつだけ部屋の中にそぐわないものがあった。部屋の隅っこに地下に降りれそうな穴があった。梯子が掛けられていた。僕は、どうして軍人であるパパがこの部屋を見せたがらなかったのかを知った。
 パパが言う。
「ママ、ここが見つかったら大騒ぎになる。扉を閉めるんだ。軍人だから逃走経路を持っていると思われたら、国の沽券に関わる」
 ママは黙って頷いて、言うとおりにした。僕はまだ、目の前のことが信じられなかった。
「パパ、これはどういうことなの」
「ジャック、お前は逃げるんだ。おじいちゃんの話では、〈イエス様〉は太陽と一緒に動いて、日光を使って人を〈救済〉する。この穴はメトロにつながっているから、この事態が収まる頃まではお前を守ってくれるだろう」
「それは〈イエス様〉なの」
「くそったれなね」
 パパは膝をたたいて立ち上がる。それと同時に、僕をわきの下から持ち上げる。体が宙に浮いて、それはパパが家にいてくれるちょっとの間しかしてもらえないことだからうれしいはずのことなのに、僕は泣きたくてたまらなくなった。
「パパは世界のために戦ってこなきゃいけない」民謡を歌うような朗らかさだ。「ママも、町の人々を守る。おじいちゃんの知識と一緒にね」
 景色は移動して、僕の足下には梯子がある。穴の壁にはLEDランタンがいくつかつなげてあって、それが穴のずっと下にあるらしい、見えない底まで続いていた。足を梯子に掛けられ、端を掴むように言われる。
 いやだ、と言う気力はもうなかった。パパは戦ってくると言うんだ。なにと? 人間を救ってくれるはずの神様とだ。ヒーローのはずなのに、いつかのヒーローだった、くそったれなキリスト様を殺すのだそうだ。
「あれが本当にキリスト様なのかも、見てみればわかる。この戦いに、人間は絶対に負けるよ。ほとんどの人間は〈救済〉に巻き込まれるだろうね。でも、パパはかつて神様の言ったとおりにするよ。人は狭き門を通り、高きに至るべきで、歩んでいくべき道は誰にも決められちゃいないんだ」
 ママが僕の首にポーチをかけた。食料品が入っているという。「ごめんね」でも、勝利を確信しているような声だった。
「いいか、これはダンジョンのゲームだ。一番下まで降りたら、ランタンを持ってそこから這って、穴の奥まで進むんだ」
「パパ、ママ。また会えるよね」
 僕はパパの話を聞いちゃいなかった。パパの顔を見上げて、手が震える。一人で下まで降りていける自信なんてちっともなかった。今までの何でもなかったような思い出があちこちから僕を襲った。喉の奥に、涙の味が広がっていく。
「また、いっしょに庭で遊べるよね。カードは? 写真を撮りにセントラル・パークまで行ったり、おうちで一日中寝てたりできるよね」
 誰もなにも言わなかった。パパも、ママも泣いていて、武器庫だったはずのここは、ただのコンクリートに囲まれた掃除用具庫で、神様は今にも僕たちに善い人と悪い人に分かれろと、YES/NOゲームを迫るのだった。
「いい子にしてるから」
「行くんだ、ジャック」
 パパは僕の腕を強く握った。冷たい手の平が手首にめりこんだ。それが、最後に感じたパパだった。ママは泣きながら、僕の耳にキスをした。「生きて」とかすれた声で囁いた。
 それから、パパとママは振り返らずに、ゆっくりと部屋を出ようとした。パパが扉を開けて、電気を消した。入ってきたときと同じだ。二人は影絵になる。どうして一人で生きて行かなくちゃならない? 僕はまだ泣き続けている。泣き続けているのに、二人は、僕を置いてどこかへ行こうとしている。
 パパ、ママ、と叫んだ。ママが体を折り曲げて、外に飛び出した。外はもう青黒い空になっていて、パパの体とドアの隙間から、冷たい風が吹き込んでくる。ママがどこかに寄りかかってむせび泣く声が、悲しく聞こえ続けた。パパは背中を向けて入り口に立ち続けて、やがてけたたましいサイレン音がどこかからあがった。爆発と悲鳴の、重低音と超高音の混じった響きが、僕の頭の中で、本当のような嘘のような聞こえ方をした。
「ジャック、愛しているよ」
 ついにパパは外に出て、ドアを閉めた。僕はわめいた。閉めたはずのドアの向こうから、ママの激しい泣き声が、いっそう強く聞こえる。
 暗い。僕はそこから動けない。唯一の明かりは足下に連なるLEDランタンの明かりで、弱々しいその光源は、僕を慰めようとしているように見えた。
 僕の足は動かない。何時間でもそこにいようと思ったけれど、足は疲れて、腕もしびれ始めてきた。どれだけ時間が経ったのだろう。もうママの泣き声は聞こえなかった。パパもママも、サイレンの方へと駆けていって、人助けをしているのだろう。僕が助かると信じて。
 僕の足は、勝手に下に向けて動いた。一段ずつ、ゆっくりと、地下に向けて動いた。
 パパとママのことを思い出すと、涙が溢れてたまらなかった。二人とも僕のヒーローだ。本当のヒーローだ。
 穴の中はとても寒くて、僕は小さくなった頭上の穴と、真下を見て、怖くなった。手足を動かせなくなって、でもそうすると落っこちてしまうから、ヒーローのことを考えようと思った。アイアンマン、マイティ・ソー、キャプテン・アメリカ、スパイダーマン……と呟く。そうして彼らの戦いのワンシーンを思い浮かべると、その分だけ体は動いた。デッドプール、ロールシャッハ、ナイトオウル……と、パパが好きだったヒーローたちも。そうだ、と、僕は爪をどこかに落としてきたことに気づいた。ここに来る途中だろうか。スパイダーマンのマスクも、バットマンのフィギュアも、なにも持ってこれなかった。アベンジャーズのコミックスは、ボビーに貸してやったままだったけど、今頃どうなっているのだろう。
 だけど、それももう、必要ないのだろう。僕は無意識ってやつの下で動き始めた手足を不思議に思いながら考えた。すべてのヒーローの名前を数えあげて、それが終わるころに、僕の足は地面についた。壁のランタンを手にとって、腰の高さまでのコンクリートの壁に開いた穴を、赤ん坊みたいに進んでいく。
 空気がないのかもしれない。僕の頭はぼうっとしている。ランタンの作り出す薄明かりの空間は、埃のにおいしかしない。長い穴だった。いつかこの長い穴にも終わりがあるのだろうか。僕の頭の中には、銃のことも、ヒーローたちの姿もなくて、パパとママが町の人たちを助けている確かな光景しか浮かんでこなかった。
 それが全てだった。
                               ―――終
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