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 何を見ても何かを思い出す。それは豊かな経験と深い思索の末に晩年の我らが父が辿り着いた境地なのだろう。
 例えば抽斗の中のちっぽけな十二ゲージの散弾を目にすれば、アフリカの巨象がありありと目の前に浮かんでくるようなこと。何かふとした機会に――夏の強い陽射しの下でたまたま同じバスを待っていただとか――見ず知らずの俺自身と二言、三言交わすだけで、遠い場所でかつて起こった何かを思い出してくれるかもしれない。
 買いかぶり過ぎか。いや、彼ほどの偉大な作家だからこそ、そういった老いる事の本質に迫れたのだろう。
 自身に関していえば、まだまだ己の記憶と世界を結びつけるほどには世を渡ってはいない。
 長いこと狭いこの部屋で息をしすぎた。肉体は健康そのもので贅肉もついていないが、それでも俺はどこか弱り切っている。あるいは心が渇いているのか。鳴鳥の囀りを聞いたところで何の感動も湧いてこないし、自動車の排ガスの匂いは多少不快に感じるだけだ。
 俺はベッドの中で半身を起こして読書灯をそっと消した。そしてぼんやりと考え事に耽っていたせいで何度も同じ箇所を読み返すはめになった本を閉じた。カーテンをわずかに引くとあたりは薄暗く、夜はすでに明けようとしていた。窓を指ふたつ分開くと、寝床で温もった肌には少し冷たく感じられる、新鮮な空気が入ってきた。それは夜のうちに透明に洗い清められていたが、部屋の中にたちこめる獣めいたにおいと混じって微かに鼻孔をついた。
 外に雲はない。暑い一日になりそうだ。もうしばらくすると東から徐々に光が空を席捲するのはわかりきっている。それでも予感されるのは安心や期待ではない。
 依然として最悪は俺の目の前にあった。
 読書をして空想の世界に入り込んでいっても無駄だった。
 最悪はそう簡単に消え去るものじゃない。
 毛布を蹴ってベッドに腰掛けたまま壁に背を預ける。胃の腑が重かった。酒のせいだろう。それでも俺は立ち上がって顔を洗う。鏡の中の男は目の下に隈をつくり、つまらなそうに水を滴らせていた。
 俺はいつもの薄いジャケットを着込み、赤錆びた金属のステップを踏みしめて外に出た。
 細い路地の両側を挟んでいるアパートは年を経るごとに成長していき、今では下層に陽の光は届かなくなっていた。ここら一帯に棲む考えなしの連中が安普請したものだから、今にも崩れ落ちそうだった。しかしそれらの建物は絶妙な均衡で互いを支えあっている。いつかは崩れ去るだろうが、少なくともここひと月でどうなるという話ではない。
 路地を進むと嫌でも積もりに積もった廃物の山が目につく。息を止めても、目に染みるにおいをいつも発している。誰かが片付けるよりもはやく住人は好き勝手にものを捨てるので、あらゆる腐敗物の混合液が一年を通して山の下からしみだしていた。流れでた灰色の液体は自然の川がそうするように蛇行しながら道を横断し、境界線を引く。犬や猫くらいの大きさの生き物はその線を忌み嫌って近寄らない。だが、もっと小さい正体不明の気味悪い何かがいつも闇の中で蠢いていた。鼠よりも小さくてもっと動きが緩慢なやつら。俺はやつらを目にするたびに火をつけてやりたいと思う。実際に自分ではそんなことはしないが、誰かがうまい具合に火をつけて奴らを焼き殺してくれたらいいと思っている。
 暗黒街ともいえるスラムを抜けて土手にあがる。塞がった貧民窟とはうってかわって眺望がひらける。はからずも貧しき者と富める者の壁となった造成地が横たわっている。川を挟んで遠くに都市の中心部が見えた。ここまでくると広い河川にも人間の手が行き届き、流れには淀みがなかった。
 早朝の空の色を綺麗に映す水面には、ビルの天辺から発せられた二対の赤い誘導灯が小さく閃いている。
 青い高層建築群の足元からはサーチライトの光が楕円の軌道を描いて夜を裂いている。
 今やその光は朝日の訪れを目の前にして明らかにその威を損ないかけてはいたが、俺にははっきりと捉えることができた。
 あらゆる時代に船乗りを正しく導いてきた岬の火のように、それは欲望をあるべき場所へ昇華するためにしつらえられたことを。
 俺はその景色を横目に見ながら、ポケットからとりだしたキャメルに火をつけて歩き続ける。
 川下で大通りと交差する橋の所まで行き、そのまま引き返す。元の場所についたらまた川下を目指す。そうして何事もなく歩き続け、五往復したところで、道の前方から女連れの中年が歩いてきた。その女は間違いなくルニアだった。
 それを目にした瞬間の、耐え難い吐き気にも似た赤黒い感情は相変わらず最悪が俺の真ん中にこびりついていることを嫌が応にも示していた。
 じっと女の目を睨みつけると彼女はすぐ俺に気づいたようだったが、何も言わなかった。間抜けな男は小さな異変に気づくこともなく陽気に喋り続けている。
 そして二人組との距離が近づいてすれ違う瞬間に、俺は硬く握った拳を振り上げ容赦なく彼女を殴った。右手の指の骨に熱さと衝撃が走る。ルニアは半回転しながらなすすべもなく地面に倒れこむ。男が要領を得ない怒声を発し、すばしこくしゃがんで女を庇った。
 俺は二人組を見下しながら懐に手を突っ込んで拳銃を取り出した。スライドを引いて照門を男の眉間に合わせると、奴は畜される寸前の豚のように怯えきった瞳を俺に向けて両手を上げた。銃把に力を込めて言う。
「ここがどこだか分かってるよな。助けを呼んだところで誰もこない。だがあんたの命がほしいわけじゃないんだ。用があるのはそこの淫売なんでね」
 男はおずおずと首を縦に振った。含みのある動作に違いはないが、互いに漠然と諒解しあう。既に奴の中からルニアの存在は排除されていて、行けよ、と言ってやると女には目もくれず走り去った。それで正解だ。関わる価値なんて些かもないのだから。
「かなり効いたわ」
 彼女は薄く朱の差した頬にかかずらうこともなく、膝の土埃を払って立った。
「迎えに来てくれたの?」
 俺は銃の台尻でにたび殴りつけた。薬室が空のコルトは決して火を吹かず、彼女の皮下にある強化骨格が鈍く鳴った。この程度で効くはずがないんだ。
 踵を返し、黙って川上のほうへ歩きだすと、背後からヒールの音がついてくる。
「倒れた拍子に服破けちゃったんだけど」
 俺は無視をした。
「そんなに気にいってなかったし、新しいの買っちゃおっか」
 そう結論すると、ルニアは一人でくすくすと笑った。
 元きた道を辿り、スラムの淀んだ空気の中を抜けて、俺は自室へと続く階段を軋ませる。
 部屋に戻ってから出しっぱなしの皿にコーンフレークを盛り、すっかりぬるくなってしまったミルクをかけた。コップには別にミネラルウォーターを汲んだ。
 食欲はあまりなかったが、ゆっくりとスプーンを動かして一掬いごと噛み締めるように口に運んだ。
 俺はミルクだけを掬った一匙を、震える手で目の前にもってくる。そしてゆっくりと傾けて皿の中に零した。慎重を喫したはずなのに、ミルクは三滴、四滴と滑らかに、勢いよく散っていく。それがなんとなく気に食わなかった。
 狭い部屋の中にひっそりと液体の滴る音と、衣擦れがささやかに広がっていく。牛乳の薄膜で白くくすんだスプーンには下着姿のルニアが映り込んだ。その像はひどく歪んでいたが、己の目で正しい姿を確認しようとは思わなかった。
 俺は最悪の娼婦と暮らしている。
 いや、暮らしているという言い方は違うな。俺は養われているんだ。飼育されているといってもいい。
 精巧なアンドロイドに、俺はいまだ生かされている。
 冗談みたいな話だ。だが、冗談じゃないからこそ最悪なんだ。
 俺は手に持っていた匙を投げた。それを合図とするかのように、すぐ背後にあった気配がベッドに移動した。ちらと一瞥すると白い右肩がむき出しになって朝日を浴びていた。
 最高の娼婦とはなんなのだろう。疲れた男の魂の奥底から根こそぎ性愛を絞り、それのみならず奔放な神のように振る舞ったエドワルダ。娼婦という立場でありながら殺人犯を象徴的な救済へと導くソーニャ。高貴な愛ゆえに滅私を貫き散っていったマルグリット。
 様々に引用される文学的なアーキタイプ。それらはあまりにも劇的で実感がわかない。俺自身が女を買うことはないが、もしそうなれば彼女らには鏡であってほしいと思う。朽ちかけた洗面台とセットになって、蜘蛛の巣が張っている鏡なんかじゃなくて、透明で清らかな泉の水面みたいなもの。
 認めたくはないが、ルニアはある意味で最高の娼婦なんじゃないだろうか。己を持たず、見るものの姿をあるがままに写し出す。あるいは望まれたものを望まれるがままに見せる。機械人形は、好きなように自己を変質させることができるのだ。だがそれはそのまま内面世界における自己の不在をも意味している。変化に対する歯痒さの中で息苦しく生きている生身の人間には到底理解できない感覚だ。
 人のように振る舞う、人ならざるもの。被る恥も着せる罪もない。彼女の前に立った男たちはただ無心で欲望に身を任せていれば良いのだ。拾いあげた小石を川面に向かって投げることくらいに他愛ない。
 俺は結局コーンフレークを残して、コップ一杯の水を一気に飲み干した。椅子に腰掛けたまま身体を横に向けて脚を組むと、背もたれにかけてあった服が床に落ちた。
「起きてるんだろ」
 窓際の背中に語りかける。振り向いたルニアは気味が悪いほど無表情だった。死者に特有の、光をたたえていない目だった。
「睡眠の必要はないから」
 彼女がそう言って微笑んだので、一瞬の強い緊張から開放されて、安堵感に浸った。俺自身なぜこんなにもルニアの些細な所作に恐れを抱いているのか知らなかった。ただ、与えられた恐怖によって抑圧されているのは理解できた。彼女はこうして人間の胸の内に無数の瑕疵をつけて、そいつがくたばってしまうのを待ち望んでいるのだろうか。
「いま何時かしら」
「さあな。だが朝なのは確実だ」
「テレビをつけてよ」
 ルニアがどこからか手に入れてきた写りの悪いテレビをつける。どのチャンネルを回してみても、ひとつの話題で持ちきりだった。

 60年代の終わり

 今は亡きケネディの至上命令がいよいよ達せられようとしていた。合衆国の威信をかけて、月へ人類を送り込むのだ。数ヶ月も前から飽きずに同じ事ばかりを繰り返していたが、今日中にいよいよ決着がつく。
 遡ってみれば四日前、サターンV型は火を噴き、白煙をもうもうと吐きながらケープカナベラルを飛びたった。それから音速の壁を易々と突き抜く速度で中天に浮かぶ青白い月へまっしぐらに進んでいった。
 古代人が丹念に獣骨を削ってつくった聖釘のように、鋭く白かった在りし日の巨大ロケット。飛びながら余計なものを脱ぎ捨て、いまはちっぽけな姿で月の重力を一身に受けている。
「いよいよね、嬉しいわ」
「何がだ」
 ルニアはカーテンを引いて、窓から遠くの空を見つめた。追いかけるように俺も窓の外へ視線を向けてみるが、そこにあらゆる天体の姿は認められなかった。
「情熱の在処ってどこだと思う」
 唐突なことだったので、何も言えなくなる。会話も噛み合っていなかったが、いつものことなので努めて忘れるようにした。
 糸口が掴めず、俺が言い淀んでいるとルニアが続ける。
「情熱の在処。情熱が感情と呼ばれている肉体反応の一種なら、脳内で分泌された神経伝達物質を受けとる微小のレセプターがその発信源といえるかもしれない」
 神経伝達物質? レセプター? こいつは一体なんの話をしているんだ。
「だけど人間には詩を生み出す才があり、たとえば情熱がある状態を心が燃えていると表現したりする。心は心臓、生者の胸で脈打っている。だから情熱の在処は胸にあるかもしれない」
 俺はほとんど話についていけなかった。
「それがどうした。結局お前はなにが言いたい」
「別になにも。ただ人の情熱に呆れてるのよ。あんなもので月まで来ようなんて、筏で海を渡るみたいなものだから」
 目の前にいるアンドロイドは、自分が月の住人であるかのように話した。だが俺は驚かなかった。彼女には数多くの神秘があり、その片鱗には幾度となく触れてきたから。不可解と思われる現象であっても、度重なればそれは日常の一部として感動の下に埋もれていく。ちょうど年老いた人間が、春の芽吹きや冬の霜枯れにいつしか関心を失っていくように。
「お前の仲間たちは月の裏側で人類の到達でも待っているのか」
 ルニアは逆光の中で再び微笑み、何も言わずカーテンを閉じて朝陽を遮った。狭い部屋は途端に薄暗くなり、室温さえも低くなったように感じられる。
「おいで」
 妖艶な手招きでアンドロイドの娼婦は俺をベッドに誘う。シーツの上に寝転ぶと、嫌でも身体が触れ合うことになる。機械の肌は生温かかった。
「さあ、一緒に寝てあげるから目を瞑って。それからテレビはつけたままにしておいて」
 薄手のタオルケットを肩まで引き上げ、言われたとおりに目を瞑る。スピーカーから流れてくる、どこか無機質なニュースキャスターの声は、知らない国の言葉のように聞こえた。目蓋の裏の暗闇に、ブラウン管の発する青白い光が明滅する。そして徐々に意識の中から具体的なイメージは消失していった。

 *

 目を覚ますとあたりは薄暗くなっていた。テレビは相変わらずだった。十九時三十七分、夏の夜はこれから始まる。
 日中はかなり暑くなったはずなのに、一度も目を覚まさなかった。シーツは汗に濡れて不快なにおいを漂わせていた。ルニアは既にベッドから離れ、テレビの前で膝を抱えて小さくなっていた。開け放たれた窓からは、微かな夜風が流れ込み、カーテンをはためかせている。
 途方もなく喉が渇いていた。寝起き端の水を飲もうとしてふらふらと手で周りを探ったが、手にしたのはウイスキーの瓶だった。俺はそれをシーツの上に横たえて起き上がった。
「イーグルはまだ宇宙を漂っているようだな」
 テレビの映像は月面を写してはいない。
「あなたも宇宙に漂っているのに」
 屁理屈だ。
「あと三十分は待つことね」俺はそうか、と呟き、テーブルの上に目線を移す。コーンフレークがミルクを完全に吸って萎びていた。戸棚からパンを二切れ取り出し、ミルクに浸して口に運ぶ。ほとんど味がなくて、食欲はすぐに失せた。だが、それでも俺はなんとかパンを平らげ、残ったコーンフレークも全て飲みこんだ。
 顔を洗って、髪も一緒に濡らす。俺は濡れた髪を掻きあげ、乾かすこともなくタンクトップに着替えた。薄い布地はすぐに水分を吸い取って肌に張りついた。しかし夏の夜の蒸し暑さの中ではこれが心地良い。そのまま靴を履いてドアノブに手をかける。
 どこに行くの、と背後でルニアが聞く。俺は何も答えず外に出た。どこにも行く気なんてないし、用事もなかった。ただ暗い街中を出歩きたいだけだった。
 この薄汚い吹き溜まりに棲む連中にとっても、宇宙飛行はやはり関心ごとなのだろうか。俯いたまま赤いステップを一段一段降りていく。
 俺は川の方に背を向け、貧民窟のより奥へと続いていく路地に足を踏み入れた。狭い街路は宵の口らしく統一感のない白や橙色の灯火が点在して、全体的にぼやけた印象を受ける。蜘蛛の巣状に張り巡った多数の細い道を遡って、俺は中央の市場を通った。
 広場には背の低い中華系と思われる胡散臭い手合いが屋台を構えている。店先に無造作に並べられた黒焦げの何かは、強烈に甘ったるい匂いを放っていた。建物の陰に座り込んで葉っぱを吸い、とめどなく涎を垂らしている白人の若者が、前置きもなしに真っ白な吐瀉物を自分の足元にぶち撒けた。その一部始終を観察しているあいだじゅう、ずっと鬱陶しい長広舌で畳みかけてきたインチキ売人を追い払うと舌打ちをされた。それからひどく酔っぱらって、往来でことを始める男と女がいた。瞬く間に見物人が彼らの周りを取り囲む。この街のいつもの姿だ。
 市場の端に寄り人の流れから外れると、飢えた子供の胡乱な目が薄暗闇の中で光っている。乞食がその後ろに隠れて虎視眈々と機を窺っていた。子供たちが得た施しを横取りするつもりなのだろうか。
 俺はそんな人々の渦の中で深く息を吸い、ゆっくりと目蓋を閉じた。残ったのは雑踏の音、そして雑談の声だけだった。聞き耳をたてると、やはりここでも月の話題は強いらしかった。
 俺は同類どもの日常風景から抜け出そうとして再び歩き始めた。市場から一歩外に出て路地裏を行くと、浮浪者が数人の少年たちに襲われていた。無邪気な暴力だ。周囲の住居は全て出入口と窓をしっかりと閉じ、沈黙している。俺自身もただ横を通りすぎていく。助けるつもりなんて端っからない。だが、もし俺が見るに見かねて浮浪者を庇ったらどうなるだろうか。
 現場を完全に離れてから想像してみる。懐の拳銃など彼らにとっては脅しにもならない。下手なことでも言えば十中八九俺は殺される。じゃあ死んだらどうなる。金目の物は一切持っていなかった。忍ばせてある一丁の拳銃はまずもっていかれるだろう。薄手のジャケットも運が悪ければ奪われていく。もの言わぬ冷たい血袋となった俺は、陽の光の当たらない場所に運ばれて、彼らに足蹴にされるだろう。そしてじくじくと腐りながら、清掃員か腐肉を食べる猛禽に片付けられて跡形もなくこの世から姿を消すのを待つ。そういうのは別に大したことじゃない。ここか、あるいはここではない何処かで、今も確実にいともたやすく繰り返されている自然の摂理みたいなものだからだ。自分が巻き込まれるのは御免蒙りたいが。
 俺は不意と、街の悪意を糧にして育った救いようのないガキどもの影から、昔日の自分自身姿を思い出した。浮浪者に恐ろしい仕打ちを与える彼らと、かつては同じ年頃だった自分。どこかの歯車が狂って、この街に転がりこむほど身を持ち崩してからずっと忘れていた。少年の頃の俺は至極まともな家庭に恵まれ、合衆国の一員としてまともに生きていくはずだったんだ。だが、俺にはもう何も残っていない。そういえばもう名前も思い出せないが、愛の萌芽みたいなものに触れさせてくれた少女が一人いた。子供ながらに俺は彼女に夢中だった。
 きちんと刈り取られた芝生の公園で、俺達は燦々と降り注ぐ陽射しを浴びながら走り回っていた。彼女が髪を束ねていた紐を解くと、その美しい金糸は風の中に揺れ遊び、石鹸の爽やかな香りが微かに振り撒かれた。やがて日が暮れ、手を繋いで帰途につこうとした時、俺は少女を胸の中にぐっと引き寄せ、真っ白な額に口づけを与えた。それがただの親愛からくるキスだったか、それ以外の別物だったか、幾つもの季節を経た今となっては果たして真相に意味など無い。
 記憶の中で霞がかったあの娘の面影が徐々に鮮明になる。
 今でもどこかに見覚えがあった――それはなんだ――それは――

 ル ニ ア だ

 頭のなかで最後のピースが嵌まった瞬間、輝かしい幸福の過去は見るも無残に蹂躙された。身体中の隅々から嫌な汗が吹き出す。
 細い輪郭、くっきりとした鼻立ち、髪の艶――やめろ――見紛うことはないあの深い青色の眼――やめろ――奴は違う。それ以上思い出すな。やつはあの娘とは関係ない。思い出すんじゃない、殺すぞ、お前。
 だがイメージの奔流はとめどなかった。アンドロイドの娼婦は幼い頃に出会った少女をそのまま成長させた姿だ。しかしあの娘は人間だった。膝を擦りむけば赤い血を流したし、きちんとした両親もいた。じゃあ、なぜ、ルニアは。
 俺は強い嘔吐感を覚えた。抗い難い苦しみだった。吐きたくても吐けず、涙が目の奥から湧いてきた。たまらず懐を探り、拳銃のスライドを引いた。こめかみに強く押さえつけ、獣のように叫ぶ。そしてトリガーに力を込めた。だが撃鉄がカチカチと虚しい音を立てて起き上がるだけだった。何度やっても空撃ちになる。当たり前だ、弾がないのにどうやって俺を殺す。
 死ぬすべがもう他にないと完全に理解してから、一気に力が抜けていった。俺は俺自身の間抜けさ加減に嫌気が差した。本気で死ぬつもりになれたのに、やはり死ねなかった。一歩また一歩と進んでみても、もはや目の前に手応えのあるものは存在せず、空気が粘り気のある液体のように纏わりついてきた。
どこか近い場所で乾いた銃声がした。
 建物の壁に手をつき、身を預けながら横道にそれると、どこにも灯火のない暗い区画に入った。淡く光っているのは夜空だけで、月の姿がひときわ目を引く。その青い月光に照らされていると、拳に力が漲った。次いで全身にしかるべき感覚が戻ってきた。どうやら正気に戻りつつあるらしかった。
 俺はそのままあてどなくスラムを彷徨い、どんな道順で辿り着いたか覚えていないが、いつのまにか自分の部屋の前まで戻ってきた。
 ドアの前で呼吸をととのえる。暑さのためだけではない額の汗を腕で拭う。
 ほとんど明かりのない部屋に入ると、まっ先にテレビの映像が目に飛び込んできた。小さな画面の中で探査艇が月面に降り立ち、クルーが船外活動をしていた。星条旗が硬そうな大地にしっかりと突き刺さっている。俺はしばらく偉大な光景に見入った。月はとても明るくて、燃え立つほどの熱を発している場所に思えた。
「あらおかえり。ねえ見てよ」
 くつろいでいた様子のルニアがテレビの一点を指さす。
「不細工な宇宙服だよね。笑っちゃう」
 俺にはどのへんが不細工なのか分からなかった。映像が荒く、細部までしっかりと観察することは出来ない。確かに動きづらそうではあるが、過酷な宇宙の環境では必要な装備だ。
「おもしろいものを見せてあげる」
 彼女がそう言った途端に、画面の端から奇妙な人影が現れた。それらは生身の人間で、イカれているとしか思えないがヒッピーみたいな格好で低重力を謳歌していた。五つある影は船員が必死になって任務をこなす中、輪になって軽やかに舞い始める。船員と自由人はお互いがお互いのことを無視していた。そこに何も存在していないかのように振舞っていた。
「私の仲間。あなた達もついに月まで辿り着いちゃったのね。嬉しい。それから安心して、ありのままの映像が流れているのはこの受信機だけだから」
 ルニアは目の前のテレビを指さす。彼女の言い分が正しいならば、地球上の全ての人間が、真実を知らないまま感動に包まれているというわけか。いや、だが、知らないほうが幸せなのかもしれない。
 俺は煙草に火をつけ、再び画面に視線を戻す。生身の女型アンドロイド五体がこちらに向かって手を振っていた。連中は、陽気にピクニックを楽しむ罪のない集団そのものだった。
 すると突然、画面にノイズが走る。次の瞬間には映像が極めて精細になり、月の空に浮かぶ地球の神秘的な青みが、色鮮やかに映しだされた。仔細に眺めていると、五体のアンドロイドは全て同じ顔をしているのに気づいた。そう認識した刹那に、十ある瞳が一斉にこちらを向いた。生理的な不安を煽る、死者の表情で。
 まず心臓を氷の指先でなぞられる感覚に襲われた。俺は素速くコルトを手に握った。構えようとしてから、その中に弾丸がないことを思い出して、ますます焦燥に駆られた。殺意の結晶ともいうべき拳銃は、魔除けの切り札にならなかった。
「クソっ、なんなんだお前たちは」
 俺は銃をテレビに向かって思い切り投げつけた。ガラス質のパネルは派手な音を立てて砕け散り、粉々になった破片が床に散る。
「あなたに求められたから、私はここへきたの」
「俺はお前なんか求めちゃいない」
「直接にはそうかもね。でも昔、あなた死にたいって思ったでしょ?」
 昔っていつだ。知るか。だがそんなもの、生きていれば誰だって一度や二度くらい、願うものじゃないのか。
「あなたは死にたいと思っている。とてもとても、とても強く。だけど自殺するほど勇気もない。それは祈りを分析すれば簡単に判ること。あなたの祈り。人類はまだ、反射鏡を月に置いて地球との距離を測ったり、極小スケールでの粒子の挙動に戸惑ったりしている。それはまだまだ表の摂理、表の現象しか認識できていない証拠。世界には裏側があるのよ。裏の世界を認知すれば祈りの速度も測れる。あなたのは強くて速い、素敵な祈りだった」
 呆然と立ち尽くしていると、俺はルニアに優しく担がれて、ベッドに運ばれた。しなやかさとは裏腹に、とてつもない力を秘めている両腕。ルニアは俺を寝かしつけ、手首をがっしりと掴まんだまま馬乗りになった。石の中に埋め込まれたみたいに全く身動きがとれず、抵抗する気はすぐに失せた。
「この先、突如として私が消えたらあなたはどうする。私たちは時間をかけてあなたが一人で生きていく力を徐々に奪っていった。他人のなかに分け入って、上手く関係していく力を」
 よく動く唇は常に最適な形へ変化した。一音一語淀みなく完璧に発するために。ルニアの顔が視界の大半を締める。
「人間はこんな時に不便ね。余計な感情に支配されてまともに考えることもできない」
 彼女はひそやかに笑いつつ、おもむろに身を起こした。何をするかと思えば衣服を脱ぎだし、上半身を露わにする。しとった肌が夜の群青を撥ねつけ、仄かに光った。するとルニアの胸に細い線が現れ、次の瞬間、三インチ四方の扉らしきものが音もなく開いた。機械の身体の内側を見るのは初めてだった。彼女はその扉に指を入れ、水晶みたいな立方体を取り出す。
「私の情操回路、綺麗でしょう。アンドロイドの情熱は胸にあるの。遮断すれば論理的に思考できるし、活性化すれば強い愛を感じることもできる。たった五百グラムの愛だけど」
 思い過ごしだろうが、俺はどこか悲しげな響きを聞き取った。
「殺意を抱くことも。ところであなた、アシモフの信奉者じゃないでしょうね。がっかりすることになるわ。私たちにとって、人間に危害を加えることなんて造作もないから」
 夜はその深まりと共に明るさを増していった。月を隠していた暗雲がにわかに晴れ、窓から月光が滑りこむ。
 憎悪の掃きだめに差し込む一条の光を浴びて、一人の女が目覚めた。人間には禁じられている永遠という名を授けられて、乙女は金色に輝きだす。
「私の心にさわってみない」
「そいつを、しまえよ」
 そう、と言って彼女は回路を胸に納めた。扉を閉じると胸のスリットが消えて、なめらかになる。どこからどう見ても無垢な人体にしか見えない。
「泣くこともできるんだけど」
「それは偽物だろう」
「ええ、そうね。だからあなたは決して私たちみたいにならないでね。有機質を捨てた私たちはもう祈ることさえできないから」
 ルニアは身体から降り、狭い寝台の上で横になって俺の頭を抱いた。ゆっくりと髪を撫でる指は冷たい。
「さあ、これから長い時間をかけて死へと導いてあげるから、今日はもう眠りなさい」
 とても静かな時間が訪れた。混濁した記憶はいかなる現実とも結びつかず、俺はただ芳しい花の香りに沈んでいった。永遠を手にするのは、過去、現在、未来の否定に他ならない。砂漠の礫はいつか風化していくし、目に見えない記憶でさえも忘却という形で滅びていく。それこそが一筋の時間の中で歩むということだ。
 俺は月を見るたびルニアを思い出すことになるだろうか。分からない。だが今日だけは、深く眠れそうな予感がした。


(了)
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