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見えない何かがわたしを上に引っ張っている気がするのです。それは細く強くしなやかにこの天空に伸びているような気がするのです。
ああ神様がいるならば何と申し上げたら良いのでしょう。わたしは人を殺してしまつた事を告白せなばなりません。この両の掌にしたたる血が貴方様に見えるのでせうか。それならば応えてほしいのです。わたしは何を弔えば良いのかを。
いくら手を洗つてもそれは見えるのです。蘇るのです。わたしが刺した包丁の先があの人の柔らかい内臓に届くのを。つぷりとしたその感触がいくら手を洗つても思い出されるのです。なかつた事にはならないのは分かつているのです。しかしそのままではあまりにも、あまりにも苦しいのです。
罪というものが形を取つて現れるのならば、いかばかりかわたしの心も楽だつたでしょう。しかし形がない、それ故にそれはいつでも現れるのです。わたしが子どもの面倒を見ている時にご飯をよそうその手が、掌に血が滴つているのを。
そんな風に日々を過ごす内にわたしはあの時に死ぬべきだつたのはわたしだつたのではないかとふと思う時があるのです。あの人を殺してしまつたこの手が紅く見える度、我が子を抱きしめる事が出来なくなってしまったと。
貴方様がこの空にいるというのなら、わたしへの裁きを聞かせて欲しいのです。誰かからわたしは罰されたいという事なのかもしれません。しかしそれは同時に酷く醜い感情だと自覚してはいるのです。我が子と離れ離れなるのだけは嫌だと心が言つているのです。そう思いが交じる度に脳が締め付けられるのです。上に引きずり持ち上げられているのです。
竈門の近くに蟋蟀(こおろぎ)が居たので思わず潰してしまつた。
普段は気に留める事もなかつたのですが、その時は潰れたその姿を見たくないと思つたのです。
ああ神様、わたしは差別していたのではないかと思うのです。
貴方様はかつて人の世に現れて全ては平等であると言つたはずなのです。学がないわたしですから、記憶に多少の違いというものはあるかもしれませんが確かそうだつたと。
――包丁ですか? あの人を刺した包丁はそのまま使つております。
理由は自分でもよく分かりませんでした。あの人を忘れたくないからでしょうか。
どこかにそれを隠してしてなかつた事にするよりは毎日をそれを見つめていたいと思つたのかもしれません。あの人の柔らかい内臓の感覚を。
あの人と我が子は二度と会う事が出来なくなつてしまつたと思つていたのです。しかしこの手のひらが紅くなる限りわたしの中ではあの人は確かにいるのです。あの人の全てが、頭が、身体が、内臓が。
おかあさん、おかあさんという声が居間から聞こえた気がしました。今行きますよとわたしは答えたのだと思います。天から伸びる糸が何だつたのか今でも分かつてはおりません。
わたしはその糸に引つ張られるように蟋蟀を潰したその草履を捨てて土間から居間へと早足で駆け出したのです。あの人と我が子をもう一度会わせたいと。
気付いた時には居間は血で染まつていたように思います。思いますというのはそれは酷く現実味が薄く感じられるからであります。血の臭いは確かにしていた気がします。ただわたしはあの人を刺してからそれをずつと嗅いでいた気がするくらいで、ふと誰かにそう言われれば納得してしまいそう位なのです。
昔娯楽小説で読んだ事がありますように我が子の血で文をしたためようとしてもそれは直ぐに乾いて固まつて来てしまうものなのです。
これでは仕方ないとわたしは自分の指を強く噛んでそこから続きを書こうとしたのです。そこからお隣の方がやつてきて、何かを叫んだように思います。わたしは貴方様ではなく現実というものに裁かれるのだろうと感じました。然し最初にあの人と刺した時のような後悔はなく心は晴れやかだつたように思います。わたしはもう読めなくなつた手紙と共に軽くなつた我が子を紅い手のひらで確かに抱きとめていたのですから。その時家族がやつと一つになれたように感じたのです。頭の天辺についていた糸が初めて剥がれたような気がしたのです。
ー了ー
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