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一章「絵美理と創一」

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 一

 六月もまだ半分近く残しているというのに厭に暑い、初夏の昼下がりだった。
 静まり返った教室には鉛筆の音だけが響くが、九歳や十歳ではまだテストに緊張感を持てないのも無理はない。風を受けて大きく膨らむカーテンや机の木目なんかがどうしても気になるようで、キョロキョロと落ち着きのない生徒数名がテスト中の景観を損ねた。いちいち注意しても、二分後にまたすぐ元に戻るのではのれんに腕押し。最低限、私語厳禁というのは守れているし、カンニングなんかする悪知恵があるわけでもないので、担任の北浦ももう放っておいている。
 もちろん、大多数の生徒はその未成熟な頭をフルに使って初々しくも真剣に机に向かっている。鉛筆が、薄っぺらい問題用紙越しに机を擦る音が一定のリズムで続き、それをBGMにして小説を読むのが北浦のお気に入りでもあった。かなり年季の入っていそうなその文庫本は、読んだのも一周や二周ではないだろう。読書が趣味、と公言しているのが口先だけではないのが伺える。
 なるべく音を立てないように、そっとページをめくった。
 解答に悩み手が止まったり、書き間違えて消しゴムで解答を擦ったり。そんな生徒一人一人の様子が、音を聞いているだけで北浦の目には浮かぶようだった。しかし、生徒たちを一瞥もしないまま早くもテスト時間の半分が過ぎようかとした頃、教室の中に一人、特異なリズムを刻む者がいることに気がついた。しおりを挟んで本を閉じ、北浦は顔を上げた。
 その音は、三十余名の筆記音にかき消されない程に力強く、そして決して途切れることがなかった。はっきり言って、殴り書きといった感じだ。だがそれにしても、ひたすら途切れなくというのはどういうことだろう、と北浦は思った。ただ落書きをするだけにしたって、少しは息もつくだろう。気になった北浦は重い腰を上げ、生徒達の机と机の間を歩きだした。咎められるほどのことをしているわけではないが、単にこの音の犯人探しをしてみたくなったのだ。ただ、まあ、一列目を黒板側から後ろの掲示板側へと向かって歩ききり、次の列を通ろうと教室全体を振り返ったところで、あっさりと音の出所は見つかった。背中から見るだけで明らかに一人だけ様子が違ったのだ。机に突っ伏すくらいに背中を屈め、右手で必死に何かを書きまくっている。そして、犯人の正体は北浦の記憶からくる推察によると意外ではあったものの、同時に「ああ、なるほどな」とも思った。ともかく、ちょっとした探偵ごっこは拍子抜けするくらいにあっさりと完結し、あとはもう本当にただの好奇心から、一体何を書いているんだろうと、後ろから静かに覗きこんだ。
『よるの町をきりさくヘッドライトが、三人のしゅく女のしっと心をたきつけた』
 下手糞な文字で綴られた文章が、北浦の目に飛び込んだ。
『選ばれたしょうふは手を引かれながら、売れ残ったジャガイモに向かって中指を立てた』
 ぱっと見では解読するのにも苦労しそうな崩れた字。ひらがな混じりで読みにくい文章。が、わずか九歳の男の子がテストを無視して書き殴ったその文字列は、紛れもなく“小説”であった。
 北浦は思わず口を覆った。
 絶句する。たとえば、本当に言葉を失いその場に立ちすくまざるを得ないという程の場面に、出遭ったことのある人はどれだけいるのだろうか。血の気が引き、張り付いたように両足はその場から動かない。震える左手の人差し指を噛む所作に、どういう意図があるのかは分からない。やがて、血の気の引いた背中には今度はじわりと嫌な汗が這ってきて、はっと我に返った自分に気がついた。今、自分がどう行動するべきなのか。それすら分からずに、そのままただひたすら茫然とした。
 解答用に設けられたその四角い枠は、まったく意味を成していなかった。問題文も解答枠もまるでそこに存在していることを認知されてすらいないかのように、上から文字を重ねられている。表が一杯になれば裏面。そして、所狭しとその文章は机にまではみ出している。そばに立っている北浦に、気付いているのかどうなのか。一瞥もくれず一心不乱に書き続けるその目は何者よりも真剣。ボサボサの頭、だらしない座り方、口に咥えた左手の親指。
 ――永希創一は、重度の知的障害者であった。
 やがて、テスト終了のチャイムが鳴って、北浦は思い出したように解答用紙を集め出した。
 北浦の指示に従って、ノロノロと解答用紙が前へ前へと流れてゆく。テストの出来が芳しくなかった生徒はギリギリまで粘ったり、中には後ろから回ってきた解答用紙を見て自分の解答を補完しようとする者もいて、なかなかスムーズには進まない。が、そんな幼い下心も今の北浦にはどうでもよかった。目の前で起きているこの形容し難い出来事を、どうにか解釈しようと思考回路を働かせる。
 ――何かの本で見た、『無限の猿定理』のことを思い出していた。
 ランダムに文字列を作り続ければ、どんな文字列もいつかは完成する。猿がキーボードをめちゃめちゃに引っ掻きまわせば、意味を成さぬその文章の中にも、たまには人間が理解できる単語も発生する。“愛”とか“疾患”だとか、“東京特許”、場合によっては“東京特許許可局”と続くこともあるだろう。猿の無知で乱暴なだけの打鍵でも、所望のテキストが得られる確率は、これぐらいの長さの単語であればまあそれほど低くない。が、たとえば『ハリー・ポッター全編』くらいの長さのものになると、その確率は極めて小さくなる。
 しかし、零でもない。
 もちろん、猿が生まれた瞬間から死の際までひたすらキーボードを叩き続けたとしても、一匹の生涯だけでは遥かに足りないだろう。日本中の動物園の全ての猿を使っても、気が遠くなるほど足りない。無限に近い数字を想定しなければならないが、しかし猿がキーボードをでたらめに叩き続ければ、打ち出されるものはほぼ確実に『ハリー・ポッター全編』を含むことになる。と、いう定理である。
 定理というよりは詭弁だが、と北浦は思った。当然、創一がこれにそのまま当てはまるとも考えてはいない。が、それくらいにあり得ないことなのだ。なにしろ創一は生まれつき脳に障害を持っていて他人との意思疎通がまともに図れず、勉強やスポーツの面では他の子に大きく遅れをとっている。クラスメイトに話しかけられれば笑ったりする程度のコミュニケーション能力は持っていることと、両親の強い希望があればこそ今もこうして普通の子と同じクラスで学んではいるが、いよいよ養護学級へのクラス変更を余儀なくされるのもそう遠くはなかった。
 もうとっくに容量オーバーだろうという程、創一の解答用紙は文字で埋め尽くされている。空きスペースが少なくなってくるにつれ、より小さな隙間にも字を書かざるを得なくなるから、例えば右上に書いた後に左下に行き、また右に戻るなど、その順番は滅茶苦茶だ。ところどころ字と字が重なってしまってもいるし、この文字列を正確に組み立てて読むのは不可能だろうな、と少し残念にも思った。
 後ろから回ってきた解答用紙を北浦が受け取り、創一を飛ばしてそのまま前の子へと回した。
 自分一人で悩んで答えの出る問題ではない。とりあえず、この事はあまり騒ぎたてても良くないだろう。誰に相談するか、北浦涼子はそれを考えることにした。

 その週の日曜日、創一は母の博子に手を引かれ街の市民ホールへと向かっていた。博子はまさか罪滅ぼしという訳でもないだろうが、週末にはこうして創一を連れて出かけ、色々なことをさせてあげた。創一を守る為に父が稼いでくれるなら、母の自分は少しでも楽しい経験をさせてあげなければならないという強迫観念にも似た意識が根底にはあった。創一がこういう生まれであることを博子の両親に話した時、博子自身が精神を病んでしまうことを両親は本気で心配したものだ。
 もっとも、二人で過ごす時間そのものは博子にとっても本当に楽しいもので、決して嫌々やっている訳ではないのだが。
 散歩がてらにと一駅遠くバスを降りてから二十分ほど歩いた頃、立派な建物が目に入った。全体的に角ばったホールだが、天井に向かって横に広くなる造りは前衛的なものを感じさせる。一階部分の堂々としたガラス張りが創一の好奇心を刺激するのか、早くも目を輝かせているように博子には見えた。今日はここで展示されている絵画コンクールが目当てだった。
 コミュニケーション能力をほとんど持たない創一であるが、芸術には心得があるらしいと博子は常々感じていた。映画や演劇なんかはからっきしだが、博子が買ってきた絵画の本や綺麗な夕焼けをとても好んだ。そういうところは他の子となんら変わらない、どころか、周りよりも感性豊かなのではないかと思わされるぐらいだ。たとえ親の欲目だったとしても。
 それと、博子が自分で読む為の文庫本はいつもは創一の手の届かない棚に並べてあるのだが、たまに棚に戻し忘れて出掛け、帰ってくると必ず創一が黙々と読んでいるということも何度かあった。まさか内容を理解しているはずは無いが、何やら熱中しているっぽいその姿が可愛らしいので、最近では創一でも届く棚に並べるようにしている。
 ホールに入ると、様々な絵が創一を出迎えた。たくさんの絵に囲まれ、表情の変化は乏しいものの、時折零す笑みに博子もまたほっとしたように頬を緩めた。
 しばらくして、一通り作品を観終えたかというところで創一が自ら足を止めた。そういったことは今まであまり無かったので、自然と博子も創一の視線の先を見上げることにした。
 ただの、と言ってしまっては失礼だが、それは一輪の花の絵だった。それなのに博子は目が離せなかった。何重にも重ねられた花弁はもの言わぬ迫力を湛え、その彩りは芸術に明るくない博子にも素晴らしいものなのだろうと理解できた。薄暗い背景は逆に気品を備え、花の中心から発せられる迫力は、強い意志のようなものさえ感じさせる。コンクールに並ぶ数々の絵画の中でもひと際異彩を放つその作品が、どうやら金賞を受賞しているらしいことが絵の下に貼ってあるプレートに書いてある。博子は、納得の受賞だというように頷いた。

 金賞 札幌旭ヶ丘高校 朝妻絵美理

 指をしゃぶりながら創一は、じっとその絵を見つめていた。その目線は決して動こうとしない。その瞳の奥では何を想うのか、母の博子にもそれは分からなかった。
 そしてこの時、たまたまコンクールの様子を見に来ていた絵の主が、二人の姿に気が付いた。
「へえ。“ああいう子”でも、私の絵の良さが理解できるんだ」
 そう言うと、鼻歌混じりに市民ホールを後にした。
3, 2

  

 二

 自転車通学をしている多くの生徒にとって、それはさながら心臓破りの坂とでも言うべき存在であった。じっとしているだけで汗をかくような暑い日に三十分も四十分もかけてペダルを漕ぎ続け、いくつもの駅を越え小学校や中学校を過ぎ公園を通り、ルートによっては原始林を抜けたその最後にそれは待ち構えている。きっちりと時間に余裕を持って家を出発できた生徒はまだ良い。多少億劫なのは変わらないが、自転車を降り、ゆっくりと押して歩けばその行程もそれほど苦ではない。が、毎朝ギリギリまで仕度のかかるような遅刻常習犯は一分一秒を争わんと、覚悟を決めるとペダルを踏む両脚にぐっと力を込め、その坂を一気に駆け上がる。しかし、年中練習ばっかやってるような運動部の筋肉ダルマはともかく、文化部の男子や女子にとっては到底自転車で登り切ることができる代物ではなく、結局は途中で自転車から降り押して歩くことになる。
 その坂を登ったところに、札幌市立旭ヶ丘高校はあった。
 卒業生が寄贈したレリーフには大きな文字で『この坂越えん』と刻まれているあたり、彼らの三年間の苦労が見てとれるようである。
 一方、交通機関を利用して通おうにも不便な場所で、ほとんどの生徒は地下鉄とバスを乗り継がなければならない。地下鉄で最寄りの駅まで来た生徒が皆そのまま同じバスに乗り込もうとするので車内は旭ヶ丘の生徒で一杯になり、一般の乗客はとてつもない迷惑を被る。もちろん、坂はバスを降りてから歩いて登る。
 この日もまた、地下鉄がたったいま発車したということを報せるかのように、大量の人の群れが地下から上がってきた。それらが全て一様にバスの停留所へと向かい、バスを待つ。が、その中に唯一人、群れとは逆方向へと足を向ける者がいた。その者は集団から離れてすぐ傍の石段へと腰を下ろすと、まるでそこだけ朝の通学ラッシュから解放されているかのように、ゆったりとお茶のペットボトルを口へ運んだ。スカートから伸びる脚はがさつに組まれているが、どこか気品のようなものを備えてもいる。一つに束ねた長髪を風になびかせながら、ぎゅうぎゅう詰めのバスに乗り込もうとする人々を眺めるその目は憐れんでさえいるようにも見え、同じ制服を着ているはずの女子高生がそうして一人だけ他とは違う時間を歩む姿は、とても画になった。
 少しして、その少女の前で一台の自転車が脚を止めた。
「ごめん、待った?」
 前に垂れた前髪をがばっとかき上げると、少女は微笑と呼ぶにも足りないような笑みだけを浮かべた。
「ううん、別に。おはよう」
 そう言って、泉翔一がまたがる自転車の荷台に慣れた動作で乗り込んだ。
 絵美理には、彼氏がいた。
 好きではない。
 ――例えばだが、永希創一が多大なる代償と引き換えに文学の才能を持って生まれてきたと、そういう乱暴で不謹慎な解釈をするならば、一方、朝村絵美理はあまりにも恵まれ過ぎていた。絵の才能は本人の努力に因る部分も大きいだろうが、旭ヶ丘は道内では五番目くらいには名を連ねる進学校だし、運動神経も悪くは無い。がさつで不潔な性格はいくら言っても直らないので親もほとんど諦めているが、写真に撮ってしまえばかなり器量の良い女性と言える。
 泉と絵美理は出席番号が男女でそれぞれ一番ということもあり、入学してから間もなく泉の猛アピールによって、仲良くはないがまあ会話はする、ぐらいの関係にはなった。絵美理は決して人付き合いが上手い方ではなく、とはいえ普段それを不便に思うこともないくせに、さすがに一人ぼっちは嫌だなあ、ぐらいには考えていたので、よく声をかけてくれる泉の存在はとても楽であった。やがて、その気さくさの正体は下心によるものだったと知らされることになるのだが、なんとなく、付き合った。
「毎日、駅まで二ケツで送り迎えしてくれるならね」と冗談っぽくはにかんで。
「なあ絵美理ぃ、今日の放課後は?」
 心地の良い風が、荷台の絵美理を気持ち良く煽る。泉としても、昔から二人乗りをする相手などしょっちゅういたのだろう。慣れた様子で段差やくぼみを回避しながら、甘えたような声色で言った。
「無理。部活だもん」
 一蹴された泉が、ええー、と大げさに嘆いてみせた。とはいえこんなものはこれまで何度も繰り返されてきた会話であり、予想はできていたに違いない。すぐに次の言葉を連ねた。
「本当、毎日だよね。この前も土日の約束ドタキャンされたし。一日ぐらい良いじゃん、ね? 金賞のお祝い」
 それはただの建前で、本当は絵画コンクールの金賞などどうでも良いんだろうというのは絵美理も理解しているし、そう見抜かれているのも泉は分かっている。見え透いた嘘が逆に断りにくいのではないかと思ったが、その見立ては甘かったらしい。
「だから、忙しいの。掛け持ちしてるんだってば」
「掛け持ちったって、美術部と文芸部じゃん」
 精一杯の皮肉を込めてみたつもりだったが、それもあまり効果はない。
「バスケ部とバレー部掛け持ちしてます、とか言われれば俺だって諦めつくけどさあ」
 最後にはふてくされてみた。絵美理からは泉の顔は見えないが、目を細めて口をつぐんでいるのが背中からでも分かる。
「てゆーか、部活サボる気満々じゃん。真面目にやんなさい」
 絵美理にポンと頭を叩かれて、ようやく諦めたように矛を収めた。仕方なく、それ以降は授業や部活の話だけをしながら自転車を漕ぐ。
 その途中、一度だけ、大きな突起をわざと自転車で踏んづけた。おうっ! という声にならない嗚咽を上げて、絵美理は泉の背中を強めに叩いた。
 人生には何一つ無駄なものはないと、恥ずかしげもなく詭弁を語る者がいる。
 あらゆる経験を無駄にしないように努力を怠らない為の言葉なのだ、などと解釈されるが、とにかく人生に無駄はある。が、その一方で、後世にまでその名を轟かせるような名作は、すべからく作者の豊富な人生経験が生みもする。それを思うと、たとえ無駄になったとしても、何事もまずは挑戦してみるという姿勢は正しい。
 今どきの女子高生にしては達観しすぎな程、そこまで人生について客観的に考えることが出来ている絵美理であっても、しかしこの時間は確実に無駄になる確信があった。札幌駅の地下にあるハンバーガーショップで一人、不満気な顔で腕を組み佇んでいる。その表情は、少し気弱な小学生くらいならひと睨みするだけで追い払えてしまいそうな迫力を放っていた。
 とある平日の放課後、絵美理はデートの相手を待っていた。
 当然、絵美理が望んだことではない。美術部の顧問が他校に出掛けなくてはならなくなった為に美術室が使えず、文芸部は元々休みだった。美術部の方は部室が開いてさえいれば一人だろうとなんだろうと黙々と作業に励むのだが、文芸部が休みでも、じゃあ一人で部室で小説を書こうという感じにはならない。そもそも文芸部として学校で行うのは互いの作品の批評会や定例会とは名ばかりのお喋り会ぐらいで、執筆作業は皆自宅でやってくる。その点、美術部としての活動は基本的に学校でなければ出来ないので、学校では絵を描き、家では執筆に励むといった過密なサイクルで回している。ともかく、今日は美術部も文芸部も休みであるというのがどこの誰からか泉の耳に入り、デートを強要された。本当は、部活が無いなら無いでその分家に帰って小説を書きたかったのだが、土下座すらしかねない泉の必死な説得に、さすがの絵美理も首を縦に振らざるを得なかったのだった。挙句、本人は部活をサボったのがバレて学校に電話しなければならないので少し待っていてくれと言う。
 騒々しく店内を歩き回る小学生集団が、絵美理のテーブルにぶつかった。“ぎろり”という擬音が相応しい目つきで睨むと「すいません」と頭を下げ、それ以降は静かになった。

 ○

 外の気温ほどは暑苦しく感じないのは、その部屋が発する冷たく無機質な空気とも無関係ではないだろう。
「サヴァン症候群?」
 博子が眉に皺を寄せて反芻した。一瞬、聞き覚えの無い単語に戸惑ったが、そういえば何かの本だかテレビだかで聞いたことがある気もした。が、到底その単語の意味までは覚えてはいない。
 恰幅の良い医師が、二回頷いてから北浦と博子に向かって口を開いた。
「ええ。頭に障害を持つ方が、知的障害を抱えながらもある特定の分野においては優れた能力を発揮するといった症状のことです。創一君の話を聞かされた時、まず真っ先にこの事が頭に浮かびました。が……」
 ごくりと息を呑んだように見えた。机の上に置かれた解答用紙に視線を落とす。その目はまるで恐ろしいものを見るかのようで、緊張が北浦と博子にも伝播した。
「これを、創一君が、ですか」
 じっ、と北浦の目を見た。その目は北浦を疑い批難する訳ではなかったが、到底信じられないといった心境を物語っている。
 少し間を置いて、しかししっかりと北浦は頷いた。医師が息を吐く。
「サヴァン症候群を例に挙げましたが、この症状に見られる優れた能力というのは、あくまで単純な作業なんですね。尋常でない記憶力や、通常では考えられない計算力などです。それに加えて、感性に依る部分の大きい音楽や美術の世界では能力を発揮したとされる症例もありますが、こんな風に、ただでさえまだ小学生の子が小説を書けるようになったというのは聞いたことがありませんし、やはり、普通には考えられません」
 たしかに、小説というものは設定を発想し、話を練り、先を計画して書くものである。今回創一が授業中に書いたものを正確に読み取るのはやはり叶わなかったし、実際、一本の小説としてしっかりと形を成している訳でもないのだろうが、それでも、素人目に見てもあり得ないことであろうことは北浦にも理解できた。
 医師は「恐ろしい」と言いいかけて、慌てて言葉を選び直した。「素晴らしい才能です」
 お手上げといったように背もたれに体を預けると、パイプ椅子がギシギシと鳴いた。
「あの、親としては、どうすれば良いのでしょうか」
 博子にとっても、まさか息子が小説を書くなど考えてもいなかったことだし、北浦に話を聞かされた時には何を言っているのか理解できなかった。今は、親としてこれからどう接していくべきなのか、この事を仮に“才能”と称するのだとしても、伸ばすべきなのか抑え込むべきなのか、そしてそのどちらにしても、どう扱えば良いのかまったく見当もつかない。博子の目は泳ぎ、不安の感情が体中から溢れ出ている。医師は少しだけ考えた後、優しい表情で言葉を発した。
「過去に同じ症例は無いでしょうし、私一人の意見で彼の将来を決定するつもりもありませんが、一人の医師として意見を述べさせていただくのなら、思い切りやらせてみてはどうかと思います」
 博子の様子を見ながら、ゆっくりと言葉を続ける。
「人間の脳は複雑です。知的障害と一口に言っても、まるっきり同じ症状など一人もいません。今回のケースについてはっきりと断言できることは正直ありませんが、少なくとも、文章を書くという行為を通じて創一君が成長する可能性は非常に高い。コミュニケーション能力の形成を手伝うことにもなるかもしれません。ただ、北浦先生の話を聞く限りでは過度に熱中しすぎる危険性もあるので、そういう兆候が見られれば適度に休憩もとらせつつ、今は創一君がやりたがることを素直に手助けしてあげるのが一番だと思います」
「そうですか」と、博子はほっとしたように大きく息を吐いた。その表情には明るさが灯り、目元は潤んでいるように見える。
「それに、個人的な意見を言わせていただけば」
 よっこらせと立ち上がると窓際に立ち、カーテンを開くと日の光が差し込んだ。
「一人の読書好きとしては、この小説は是非完成させていただきたい」
 にこりと微笑み、そう言った。

 医師に深々と頭を下げ、博子と北浦は部屋を出た。看護師に面倒を見てもらっていた創一が、博子の元に駆けつける。
「ごめんね、待った?」
 博子は膝を曲げ、創一を胸に抱きかかえた。いつも以上に強く強く抱き締めると、創一が少し苦しそうにもがいた。
 そっと頭に手を添える。前途多難な未来に、一筋の強い光が差したように思えた。
「創一の好きなハンバーガーでも食べてこっか?」

 ――人生は、無駄なことで溢れている。
 が、そのことと、どうせ無駄だと始めから何もしないのはまったく別の話なのである。
 少しでも時間が許すなら、何だろうとまずはやってみると良い。運命と呼ばれるべき出会いは、いつも思いがけないところに転がっているものなのだから。
 少なくとも絵美理は、今日無理やりデートに連れ出されたことを、後々泉に感謝することになるだろう。
 一人で待つ絵美理のテーブルに、疲れた創一がどっと座り込んだ。その目はキョロキョロと店内を見回している。
「おいクソ坊主、誰に断って相席してんだ?」
 携帯の画面に目を向けたまま、絵美理が淀んだ声でそう言った。
5, 4

  

「そこ、人来るんで。他行って下さい」
 席を立とうとしない無礼者を相手に、一拍置いてから、今度はかしこまった口調で絵美理はそう言った。
 その男の子が普通の子ではないということにも、あの日コンクールで見かけた顔だということにもまだ気が付いてはいない。携帯に向けたままの視線の端に、まだ幼そうな男の子の首から下がぼんやりと映っているだけ。
 また、創一の耳にも、絵美理の言葉は届いていない。指を咥えてふと天井を見上げてみたり、隣のテーブルのフライドポテトを羨んでみたり、キョロキョロと周囲を見渡すばかりで落ち着かない。ともかく、二人の間にまだコミュニケーションのようなものなどは存在していない。もう日も暮れかけるかという時分に、携帯に夢中になっている女子高生と、おおよそ頭が正常ではないであろう振る舞いの小学生がファーストフード店で相席しているという光景は、周囲の客や店員からすればどれほどの違和感なのだろう。隣の席に座るカップルの訝しげな視線に気が付いて、絵美理は視線を上げた。
 それが、この時たまたま絵美理の方を見ていた創一の視線と重なった。
 あれ、この子。
 絵美理はきょとんと目を丸くした。ぼさぼさの髪型、知的障害を持つ者特有の顔立ち、口に咥えた人差し指。絵美理はすぐに、コンクールの日のことを思い出していた。
 あの時の、頭のおかしい子だ。道理で話が通じない訳だ。絵美理は納得し、ため息をついてそっと座り直した。
 どうしようかな。私が移動すれば良いのかな。ちっ、頭おかしいとは言え、後から来たくせにムカつくな。てゆーか、空いてる席ないし。ああもう、面倒臭いなあ。どっかにポテト投げたら、追いかけてどっか行かないかな。フリスビーと犬みたいに。考えながら、自分で笑った。
 そうは言っても、そうは行かない。仕方が無く、再び携帯の画面に視線を落とした。友達とおしゃべりでもしているのか、はたまた時間潰しにゲームでもしているのかは知らないが、とかく、朝妻絵美理という人間は画になった。口こそ悪いが、その通り内面も悪いし身だしなみもだらしなく不潔だが、顔立ちだけを見れば絵美理は決して不細工ではなく、それどころか美人に分類されるのだろう。けたたましいファーストフードで、ただ手持無沙汰に携帯をいじる。本当にただそれだけのことが、不思議と画になってしまう。だらしなく着崩しただけの制服も、それがオシャレなんだと周囲が勝手に解釈する。女子らしからぬ振る舞いを、それが逆に格好良いと男子が言う。絵美理とは、そういう人間だった。
 そんな絵美理という人物を、創一がじっ、と見ていた。
 そのまま少し待ってみたが創一が一向に立ち去ろうとしないのを察して、店員を呼んで事情を説明するのも面倒だと思い、もういいやと絵美理が席を立つ準備を始めた。僅かに残っていたポテトを口に頬張り、手を拭き、財布を鞄に仕舞い立ち上がる。いや、いざ立ち上がろうとしたその時、携帯が鳴った。
 一瞬どうしようかと迷ったが、立ち上がる前に電話を取った。電話は泉からだ。
「何」
 苛立った声色を隠そうともせず、沈んだ声で言った。自分の意にそぐわない話を聞かされようものなら今すぐ帰ってやるからな、と、それはまるで脅迫しているかのような迫力を湛えていた。
 そんな絵美理の様子を、創一はまだ興味津津といったふうに眺めている。ふと目が合った時、バツが悪そうに目を逸らしたのは絵美理の方だった。
 うざいな、もう。
 声に出さずに吐き捨てて、話に戻る。
「はあ?!」
 途端に、絵美理が大きな声を上げた。驚いた創一がびくんと体を起して机を蹴り上げる。
「ふざけんなって! どんだけ待ってると思ってんのさ!」
 事情は分からないが、どうあれ泉がまだこの場には来れないという話なのだろう。周囲の目など気にせず苛立ちを爆発させるその様子は、ただただ迷惑でしかないだろう。
「もういいよ、私帰るからね?!」
 早口で捲くし立てた時に口から飛び出た一滴の唾を、創一の両眼だけが追っていた。

 ――野球というスポーツを知らずに、野球漫画を描いた作者はいない。

 言われるまでもないことなのかもしれないが、作者は皆、元々野球というスポーツのことを知っていた。漫画の題材に選ぶくらいだ、むしろ好きな部類だろう。自分で一から野球というスポーツを発想し、ルールを考え、ストーリーを編み出した者など、いないのだ、絶対に。
 何が言いたいのかというと、つまりなにか物語を描くにあたっては、作者は知っていなければならない。電話という道具を通じて離れた位置にいる二人が交信できること。夜寝て朝目が覚めること。喉が乾けば水を飲むこと。カレーライスが美味しいということ。ペットボトルの蓋の開き方。女は男を好きになるということ。そういったことすらまったく知らずに全て一から自分で考え創作する者がいたとすれば、それこそそれはただの超能力なのだろう。
 何度も言われるように、創一の頭の中はきっと誰にも解明できない。が、創一も知っているはずなのだ。他人の言葉に耳を貸さず人に自分の想いを伝えることができない少年も、目で見て耳で聴き鼻で嗅ぎ舌で味わい指で触れる。その記憶は全て頭の中に蓄積されており、脳のなんらかの信号をもってして、それらの記憶を文に起こしている、と考察するのが妥当なのだ。
 スカートの中が見えそうなくらいに堂々と組んだ足。人目をはばからずに罵倒する声色。大きく開く、ポテトの塩がついた口。見ただけで怒りの感情が伝わってくる切れ長の目。絵美理の一挙手一投足が創一の新たな記憶となって、それがこの時、頭の中でがっちりと音を立てて噛み合った。

 創一がポケットの中に右手を突っ込むと、ティッシュや葉っぱなどのゴミの中から、一本の鉛筆を取り出した。
 !?
 怪訝そうな顔をして、絵美理が眉間に皺を寄せた。
(何を始めるつもりだ、こいつ)
 泉との通話を繋いだまま、好奇心からぼんやり視線を創一に向ける。しかし次の瞬間、突然創一は絵美理の左腕を掴むと激しく揺すった。
 うわっ! と思わず声が出る。通話中の携帯を口元から離し、とっさに創一の手を払った。得体の知れない、気持ちの悪いものを見るような目をして身を避ける絵美理を非難できるかと言えば、情状酌量の余地もあろう。いくら小さい男の子とはいえ、明らかに知能に障害を持っている子が突拍子もないことをすれば誰だって身構える。それも、自分の腕を掴んで揺らされたとなれば身の危険も感じよう。
 ――なんなんだこいつ、危ない奴だな。てか親は何やってんだ。
 丸いテーブルを挟んで緊張が走る。重なった視線を、絵美理は決して自分からは逸らさなかった。それはさながら、落ちた猟銃を挟んで牽制し合う狩猟者と猛獣のよう。しかし、創一を睨みその表情や挙動を観察している内に、別に自分に危害を加えようとしている訳ではないことを悟る。それよりもなんて言うか、困っているような。
 なに、なんなの。どうしたってのさ。店員呼ぶぞマジで。てか、親! 早く誰かなんとかしてよ。私苦手なんだよ、こういうの。ああ、また困った顔でこっちを見てる。だから、何がしたいんだってば。鉛筆だけ持って一体――。
 はっとする。考えてみれば、すぐに分かることだった。
「お前、もしかして、紙が欲しいの?」
 そう絵美理が問いかけると、今度は何も応えない。他の客が頬張るハンバーガーに目がいっているようだった。思わず振り上げた右腕を、寸でのところで理性が抑える。いくら絵美理でも年下の、しかも障害を持つ子に手は出さないようだ。かなりギリギリのところではあったが。
 鞄を開き、ルーズリーフを一枚取り出した。
「コレ。オマエ、ホシイ?」
 何故か片言になってしまっていたのはともかく。取り出したルーズリーフを見た瞬間、創一がぱっと表情を明るくしたのは絵美理にも理解できた。絵美理の言葉を待たずにルーズリーフを奪うと、そこに鉛筆を走らせた。
(ただラク書きがしたかった訳ね)
 これでしばらくは大人しくするだろう。礼を言われていないことに腹を立てようかとも思ったが、どうやら“そういう”レベルの子ではないのだと既に悟っていた絵美理は、とにもかくにもこの場を乗り切れたことで良しとした。ふうっ、と、長く深く息を吐いた。
 そのため息は、それまで創一に抱いていた興味、まあ警戒心ゆえのものだが、創一に向けていた興味のようなものまで一緒に含んで霧散していったようだった。元々、子供のラク書きの内容になど興味を持つような人間ではないのだ。その子が、頭に障害を持ってたくらいで。
 ふと、通話中だったことを思い出した。騒いでいた拍子に切れてしまっていたらしい。
「うわ、着信来てる」
 なんだかもう、面倒くさくなっていた。
 やっぱりこれは、無駄な時間だった。元々大きくはない瞳が更にとろんと淀む。
(帰って寝よう)
 目の前にいる子のことも、もう良い。さすがにそろそろ親も来るだろう。そもそも付き合ってやる義務などないのだ。気だるそうに鞄を肩にかけると、多少周囲の目を気にしながらそっと立ち上がった。
 創一の横を過ぎて店の出口に向かう。その時に、ふと。ただ何とはなしに、一体何をそんなに楽しそうに書いているのかと、創一の手元をちらりと覗いてみた。
 その瞬間、表情が一転する。
 一心不乱に書き殴るその右手、その指が産み出す一字一句。
 ――いや、いやいや。おかしいでしょ。だって、そんなはずないじゃん。だって、この子は。
 先程までの創一の言動が思い出されていた。どこをどう見ても、どう考えても。それなのに、その子が今たしかに自分の目の前で書いているもの、それは紛れもなく。
「ちょっとあんた、」
 創一の左肩を掴み、机を覆うようにうつ伏せている体をどかす。その時だった。
「創一!!」
 いきなりだった。横から現れた博子が創一の右手を掴んだのだ。
 左手には二人分のメニューが乗ったトレーを持っていたので、すぐに彼女が創一の母親であることを絵美理は理解した。よっぽど列が混んでいたのだろう。
「すいません、何かご迷惑を……」
 そう謝りながら、博子の視線は絵美理の首から足元までを何往復かしていた。別に制服を汚されたりなんてことはない。博子に気を遣わせているのが申し訳なくなって、絵美理はその場を足早に立ち去ることにした。
「いえ別に、大丈夫です。何もされてませんから。あ、この席どうぞ」
 自分が座っていた席を親指で指して、軽く会釈するとそのまま歩きだした。大丈夫だと言っているのに、博子が何度も頭を下げている。彼女の普段の苦労を想うと、少し不憫になった。
 出口まで来て、絵美理はもう一度振り返った。
 ――ここで話を聞かなければ、後で必ず後悔する。それは確信にも似た予感。が、わざわざもう一度戻ってあれこれ話を聞くのは気が引ける。
 障害者を子に持つ親の苦労は知れないが、少なくとも、今二人は食事を楽しんでいるように見えるのだ。失礼な気遣いなのかもしれないが、こんなファーストフード店で過ごす何気ない時間も、邪魔してはいけない気がした。
 後ろ髪を引かれながら、一人で店を後にした。
7, 6

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