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彼女の僕

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 目を開けると床に飲みかけのウイスキーの瓶が視界に現れた。それは紛れも無く、昨晩僕が飲んだものだった。小さなちゃぶ台の上のグラスには乾ききったウイスキーの跡と融解した氷の水が底にたまっていた。その横には一時的な灰皿として使ったコーヒーの空き缶が律儀に佇んでいた。
 まだ、意識がはっきりしないまま僕は何気無く灰のたっぷりついた飲み口を見つめていた。窓の外からは清々しい朝の日が差し込んでいるというのに、僕の部屋はどんよりとしたままだった。携帯電話は青い光を点滅させて、メールを受信していることを告げていた。寝起きの頭を擦りながらゆっくりと携帯を開くと、彼女のTからの着信履歴と、メールが多数きていた。要件はわかっていた。だがわかっていたからこそ僕はそのメールを読みたくなかった。

「ねぇ。」

 短い文面と絵文字も顔文字も使われていないことから彼女は相当怒っていることが伺えた。僕は他のメールを見ることも嫌になって携帯を床に放り投げた。何でだろう。誰かと交際することはこんなに疲れるようなことだったろうか。ああ、畜生。そう悪態を付き僕は下着姿のままベッドから立ち上がった。
 窓を開け、新鮮な空気を部屋に取り込んだ。澄んだ、綺麗な空気がすうっと音を立てて僕の体に入ってくるような気がした。まだ外は寒い。特にその日の気温は昨日に比べて随分と落ちたように感じた。
 冷たい外気に触れた肌が鳥肌を立てた。肌を撫でる風は僕の体が汗で汚れていることを告げていた。小さなユニットバスのドアを開け、お湯を出すと壊れた換気扇のせいで浴室は湯気に包まれサウナルームのように蒸気で満たされた。
 ゆっくりと息を吸い込み深呼吸をすると外気の寒さに鳥肌を立てていた肌が今度は一気に引き締まり、毛穴という毛穴から汗が噴き出すのを感じた。頭の天辺から一気にお湯をかけると温かい水が着実に僕の汗を流し、綺麗になっていく感覚がした。
 その調子で僕のよどんだ心も一緒に清めてくれ。そう僕はどうしようもない、馬鹿なことを思った。馬鹿か、僕は。寝ぼけた頭を覚ますため僕はさっと体を洗い、歯をいつもよりも入念に磨いた。
 濡れた髪の毛を乾かすと僕はいつものようにワックスを少量付けて綺麗に髪をセットした。鏡を見直すとそこにはいつも通りの「僕」がいた。普通の「僕」だった。いつもと何も変わらない、普通の大学生の僕がそこには映っていた。
 タンスからTから勧められて買ったデニムを履いて、黒のTシャツの上に白いシャツを着た。暖かい厚手のウールコートをハンガーから取って僕は灰皿代わりに使った空き缶と、ノートと筆箱しか入っていない軽い鞄を手に取って外に出た。
 外は明るかった。いつものように近所の奥様が犬を連れてゴミを出していた。人の通りはまばらで、でもそこには確実に時間が流れていて、僕は何故か疎外感を感じてしまった。
 大したことはないさ。そう自分に再度言い聞かせて部屋の鍵が閉まったことを確認して僕はアパートの階段を下った。僕はコートの襟を立てて、淡々と歩いた。灰皿代わりに使った空き缶を自動販売機横のゴミ箱に突っ込んで僕は駅の方へと向かった。
 携帯を見ると二限目の授業がとっくに始まっていることがわかった。別段出席率も悪いわけではない。単位を落とすことはきっと無いだろう。そう思った時にはもうすでに、僕の足は駅の方へと迷わずに向かっていた。最近、駅から延びた坂道の角に、辺りの田舎に少々場違いな洒落た喫茶店ができたのだ。
 そこがオープンしてからというものの、落ち着いた雰囲気とモーニングの安さに惹かれてついつい足?く通ってしまうようになったのだった。それに店員さんが皆可愛いということも気に入った理由の一つだった。そこにある椅子や机は皆白色で統一されていて、それが不自然に感じ過ぎないデザインは一見の価値があると自負していた。

「いらっしゃい。」

 僕がドアを開けると、曇りひとつない笑顔を浮かべて店員のお姉さんは優しく言ってくれた。若い人だった。年は僕よりも少し上だろうか。年上だと一目で分かるのに、その屈託のない笑顔はまるで純粋な少女のそれだなと彼女の目を見ながら僕は思った。
 短く注文を済ませると彼女は僕の元を去った。そして僕は一人、窓際の席に残されたのであった。店内は僕の他にはスーツ姿の中年男性が数人いただけで随分と閑散としていた。静かな空間の中で極上の笑顔を振りかける彼女等が時折小さな音を立てながらオーダーの準備をしている音が響いていた。
 何も変わってなどいなかった。きっとこれからもそうなのだろう。普通という単語が一番その状況に合致していた。だが、一つだけ気になることがあった。この綺麗で清潔な店内には微妙にずれているモノが一つあった。
 喫煙室だ。この田舎の町は喫煙率が老若問わず非常に高い。よって様々な店舗では分煙なんて概念はあたかも存在しないかのように扱われている。それに関わらず、この店だけは徹底的な分煙を行っていた。
 禁煙席と喫煙席を隔てるガラスの壁は入ってはいけないような雰囲気があるようだと僕は常々思っていた。そもそもこんな小奇麗な喫茶店に来る客層自体、喫煙率はそう高いようにも思えない。論理的な推論を与えてもその喫煙室だけが妙にズレていると感じたのであった。一度来た時にはそのガラスの箱は本来の役割を果たしておらず、逢引中の高校生等が気兼ねなく談話を楽しむ姿を見かけた程であった。

「ご注文の品です。いつもありがとう。」

 呑気に妙な考え事をしていると、いつの間にか僕を最高の笑顔で迎えてくれたお姉さんが席にモーニングのセットを持ってきてくれていた。

「お姉さんがいなかったらこんな頻繁には来ませんよ。」
 机から腕をどかしながら僕は可能な限り精一杯の笑顔でそう答えた。更に上乗せされた彼女の笑顔は僕の胸を爪立てたように感じた。また、僕の目の前に置かれた朝食も特に変わったものではなく極々普通のモノのように見えた。
 湯気を立てて揺れるコーヒーからは香ばしい良い匂いを漂わせていたし、キツネ色に綺麗に焼かれたフレンチトーストも、甘すぎずちょうど良い味付けで文句の付けようがなかった。だけどもどの味覚も、一歩離れたところで感じているような気がしてならなかった。

 僕は後悔していることがあった。

 今交際しているTという女性は素敵な人だと思っていた。これは紛れも無い素直で率直な意見だった。顔も可愛くて、僕にだけ向ける優しさや愛情はとても心地良いものだとも思った。だが、彼女は不安定だった。初めはそんな割れ物のような彼女の側面を魅力的だとも思った。しかし彼女は日を追う毎に僕の浮気を疑い、小学生に至るまでの交友関係を徹底的に調べあげるにまで至った。一度法事の関係で、一か月程帰省した時などは酷かった。三日に一度は別れ話を切り出され、用事があるから帰れないと彼女に伝えれば狂ったように怒った。別れを切り出すのはいつも彼女だったが、大抵は12時間以内にまた謝罪の電話がきた。
 僕は彼女が好きだった。だが、誰にでも触れては欲しくない過去を有しているはずなのだ。僕にも、彼女には触れて欲しくない極めて個人的な過去を有している。それは彼女にも同じことが言えるはずだと思っていた。僕は彼女の過去を穿り返すようなことは避けた。
 云わば、僕と知り合う前の彼女は完全なる他人なのだ。赤の他人の素性を明かしたところで僕にどんな利益が待っていると言うのか。彼女の愛は日に日に苦痛へと変わっていった。きっと彼女も僕がある程度の基準を満たしたら落ち着いてくれるのだろうと、そう期待した時期も確かにあった。
 僕は彼女に言われるがままに、髪を染め、タバコを止め、酒も控えた。友人と遊びに行く回数も減らし、彼女の目の届く範疇では他の女性と関わることをやめた。だが彼女の欲求が満たされることは無く、僕の懇願にも近い頼みはいつも刹那に終わった。

 きっと、これは僕が原因なのだろう。そう思いもした。
「本当に私のこと好き?」
 そう彼女は僕に尋ねた。僕は好きという言葉と共に彼女を腕に抱いた。きっとこの心地良さも一時的なものですぐに終わってしまう、そんな思いを裏腹に隠し、愛を語った。
 女の勘は鋭いという話はよく聞く。きっと彼女は僕の発言と行動に生じた小さなズレを感じ取ったのかもしれない。利己的な後悔の念と、自責の渦に呑まれそうになるのをぐっと堪え僕は笑顔を取り繕った。

 学校の仲間には彼女のそんな側面を決して話はしなかった。問題も無く、今までに無いほど順調な交際を続けていると嘘をついた。幸せだと、そう僕は言ったんだと思う。
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