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僕の"行き先"

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 僕の足は動いていた。
 最後のTについた嘘からくる罪悪感が鼓動の動きと共にずきずきと胸に抉りこんでいくのを感じながら。
 きっと今、鏡で自分の目を覗けばそこには虚ろな黒い眼球が静かにどしりと座っていることだろう。

 Tとの交際に終止符を打つ前の僕は何でも出来そうな気がしていたことは否定出来ない。
 それに僕の行動は全てが予定通りに進んでいた。
 だが僕の気分は沈んでいく一方で、一歩づつ前に向かって進んでいる確信だけはあった。
 きっとこれは嘘をつき続けた僕の罰であって、遅かれ早かれこんなことになるのは薄々と感じてはいた。

 きっと前進するということは痛みを伴うのだろう。
 それは流れに逆らうことがその本質であって、僕のようにちっぽけな自尊心を守りたいが為に嘘をつき、他人との間に勝手に壁を作る我儘な人間にとっては尚更それは真実なのだろう。

 畜生。そう、声を出して僕は足を動かした。

 道をただ下を向いて進んだ。
 前を向くことは出来なかった。
 他者の足が僕とは違うバラバラな方向に向かっているその様は何だかいつもより冷たく見えた。
 まるでそれは干渉することの許せない何か機械的なモノのようにしか思えなかった。

 駅に着くと、切符売り場には人がたくさん並んでいた。
 きっと僕の乗ろうとする特急に乗る人達なんだろう。

 いつも乗る特急の席は狭い。
 毎度のことではあるが寝れる姿勢に無理矢理歪めた僕の身体は快適さを狭い席の中で懇願する。
 だがそれは無理な注文であった。

 急な決心で帰省をし、最も混むことが予想されうる最終の特急に滑り込んだのだから。
 それに切符売り場の混雑具合からもそれは簡単に予測できることだった。
 窓際の少し空間に余裕のある席に座れなかった僕は通路側の席に自分の腰を下ろした。

 最も座れただけでもきっと運がいいと思うべきだと自分を納得させていた。

 一向に眠くならない瞼を無理矢理閉じて携帯音楽プレイヤーの音量を上げた。
 耳に突っ込んだままのイヤホンを通して歌詞が頭に流れてくる。

 だがそんな歌い手達の熱い言葉を聞き入る気は一切なかった。

 ただ揺れ続ける車両の音を遮断したかった。
 それだけの思いで僕は再生ボタンを押した。

 段々と最大音量の音楽が遠ざかっていった。

 ようやく僕の身体も諦めて眠りにつくことにしたようだ。

 良かった、これで僕が目覚める頃には目的地付近だろう。
 ゆっくりと息を吸い込むとジメジメした空気が肺に滑り込んできた。
 新鮮な空気が欲しいな、そう思った。

 僕の目の前にはTが立っていた。
 彼女は僕を優しい目で見ていた。
 彼女は口を動かすがその言葉は音楽と一緒で僕には聞こえなかった。
 何て言ったの、そう僕は叫んだ。
 そう言うと彼女はふっともう一度笑って静かに言った。
 「嘘つき。」

 びくんと身体が鞭を打ったように席から一瞬弾かれた。
 音楽プレイヤーからは景気の良いロックンロールが流れていた。

 列車の外の風景は闇を増していてどこにいるかは判別できなかった。
 しかしぴたりとくっ付いた僕の服は少しの間ではあるものの眠りについていたことを提示していた。
 そして入口の電光掲示板は僕の乗り込んだ駅からから数駅離れた駅名を表示していた。

 妙な汗をかいてしまった。

 僕はもう一度腰を深く椅子に据え、イヤホンを外して深呼吸した。
 Tはもういない、そう言い聞かせた。
 携帯を開いた。
 そこには着信も、メールも何も届いてなどいない。

 一人なんだ、そう改めて実感した。

 「大丈夫ですか...?」

 恐る恐る隣の女性が僕に話しかけた。
 中年の気のよさそうな叔母さんだった。

 「ええ、少し寝辛くて。」
 本当は少しどころの話では無かった。
 妙な汗と、中途半端に効いた暖房、そして二酸化炭素の比率が多そうな濁った空気で気分は最悪だった。
 僕は鞄からお茶を出して飲んだ。
 まずかった。
 自動販売機から取り出した直後のそれは冷えていて爽快な気分を与えてくれたがこの時ばかりは温い液体がぬるりと喉を通る感触が嫌味のようだった。

 「君若いわよね、学生さん?」
 そのおばさんは優しく聞いた。

 「はい、大学生です。」
 そう僕は答えた。
 そのおばさんはきっと最悪な顔をしていただろう僕を気遣って話しかけてくれたのだろうから。

 「やっぱり、ということは就活か何かで?」
 その人は大変ねえと今にも言い出しそうな顔で聞いてきた。
 その目は無下に返すには優しすぎて腰を砕かれた気分になった。

 「ああ、いえ。就活はもう少し先になってからです。」
 くすりと笑みが零れた。

 「そう、最近の若い子は不憫でねぇ、やれ何十社落ちたやら何て話ばかりやしねえ。」
 そう言ってその人は姿勢を少し正した。

 「ええ、僕の先輩からもそんな話ばかり聞きます。」
 溜息が零れた。
 大変そうだなあ、僕もそんな目に合うのだろうと気分が沈んだ。

 「じゃあどうしてまたこんな変な時期に、旅行か何か? お友達と一緒なの?」
 純粋な好奇心から質問、そのように僕には聞こえた。

 「いえ、僕生まれが関西の方でして。ちょっと今回は帰省しようと思って。」
 僕はその人に目を向けて答えた。

 「まあ、身内の方に不幸でもあったんかい?」
 この人は遠慮が無いな、そう思いはしたが不思議と嫌な気分にはならなかった。

 「いえ、とんでもない。ちょっと私用で帰るってだけですよ。」
 ははっと軽い笑みを含めながら僕は言った。

 「そっか、そっか。ごめんな。こんな無遠慮なオバさんで。」
 言葉は謝罪の意を示すものを発してはいるがそこに敵意が無いことが見えた。
 敵意も無く、ただ僕を気遣う為だけにここまで言ってくれるのはきっとこの人の優しさなのだろうと、その人に吊られて僕も笑ってしまった。
 いえいえ、そう笑いながら僕は言った。

 「で、お兄さんはその私用ってのは彼女でも迎えに行くんかい?」
 冗談交じりでそういった。

 「まあ、そうなれば文句無いんですけどね。」

 「というと、やっぱり女絡みってことかい? 若いってのはいいねぇ。」
 そう言う叔母さんの目は少し遠くを見ていた。
 「まあ、なかなか上手くはいかないですけどね、そうじゃなければ今ここにはおらんっすよ。」
 何だか少し溜息が混じっているような気がした。

 「そんなもんさね。私かてこう見えて昔は色々あったんやで。」
 確かに、そんな気はしないことも無かった。
 きっとこの人も僕の年の頃は随分と綺麗だったに違いないのだ。

 「確かに、そんな感じします。」
 そんな感じちゃうわ、そう言ってその人は軽く僕に肘を付きだして小突いた。
 「でも、こんなオバちゃんでも話くらいやったら聞けるで?」
 一瞬心が揺らいだ。
 何だかこの人になら何でも話してしまいそうな気分に一瞬なってしまった。
 逸る気持ちを一呼吸置くと、そんな気持ちも少しは落ち着いた。

 「実は昔から好きだった子への気持ちを中途半端にしたままにしちゃって、そのしっぺ返しを食らった感じ......ですかね。」
 何だか、釈然としない気持ちになった。
 僕はその言葉を軽く言ったつもりでも、段々とそのトーンは下がっていった。
 またもう一つ溜息が出そうになった。

 「なるほどねぇ、罪な男なわけだ。」
 ほほう、と言いながら肘を付いたその人は妙な目線を僕に送っていた。
 「ちょっと、手見せてみ? オバちゃん実は手相がちょっとわかんねん。」
 え、と僕が呆けてる間にその人は手を差し伸べていた。

 半信半疑で僕はその手に自分のそれを重ねていた。

 「自分、優しいやろ。」
 そう僕の手の平の線をなぞりながら、その人は言った。
 え、とその一語しか僕には放つことしか出来なかった。

 「優しいけど、これはただのお人好しや。自分の意見はなかなか言えるタイプでは無いやろ。」
 図星だった。
 僕の言葉は喉の辺りに詰まったままそこを動くことはなかった。
 列車の車両の揺れが少しいつもよりも大きく感じた。

 ゆっくりと減速を始めた列車が身体を前に引っ張った。

 無機質で無感情な車掌のアナウンスが駅名を告げると共に人が動いた。
 車両の入口のドアが音も無く開き、冷たい空気が細切れになって僕のいる席にまで滑り込んできた。

 「アタシも一緒やったんよ。」
 叔母さんはゆっくりと溜息をついて僕を見据えた。

 「ほら、見てみ。アタシのも線が薄いやろ。これって我が弱いってことやねん。」
 へへへ、と軽い何か同情を含んだような笑い方をした。

 「アタシの甥っ子もな、兄ちゃんと同じくらいの年やねんけどな。線がいちいち濃いんや。めっちゃ我が強いんやろうけど、それを見せる相手もおらんくてな。不憫やわ。ええ手相してんねんけどな。」

 せやけどな、そうオバさんは続けた。

 「手相ってのは常に変わるもんなんよ。ここに書いてあるからそうって決まった訳とは違う。あんたは若い。せやから大丈夫。しかも一途なんは掌にも書いてある。分かっとるから大丈夫。」

 ずきんと胸が痛んだ気がした。
 僕は笑顔で、ありがとうございますとお礼を言った。
 でも不安になった。

 "彼女"は僕のことを理解してくれるのだろうかと。
 こんな変わり果てた僕も好きと言ってくれるのかと。
 あの時の答えを僕にくれるのか、そう思った。
 Tはきっと僕を許さないだろう。
 気持ちを弄び、純潔を奪いぼろぼろにした僕をきっと許しはしない。
 僕は彼女の重責に耐えられなかった。
 彼女の求める言葉を吐き続け、僕はそれに溺れた。
 彼女はきっと悪くはなかった。
 悪いのは僕のはずだと、そう思った。

 きっと、”彼女”も僕に幻滅するだろう。
 だが、それでも僕は彼女に会いたかった。
 今すぐにでも彼女をこの腕に抱きたかった。

 そう願う僕は、どうしてあの時彼女を付き離したのだろう。
 疑問符が重なる中で、扉が閉まる音が耳に入った。
 ずいっと腹が背もたれに押し付けられた。

 僕は一体どこに行くのだろうか。
 僕は変われるのだろうか。

 オバさんの大丈夫という言葉を信じてもいいのだろうか。

6

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