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 「満月の夜は崖の上で」

 亜馬(あま)神社の広い境内を見渡すと、向かって左側は鬱蒼とした森が広がっていた。平安末期に建てられたという歴史ある神社で、右手には小さな売店や御神籤の販売所なんかもある。その反対側に生い茂る深い森のど真ん中を突っ切るように、白く美しい砂利の遊歩道がくねくねと伸びていて、その先は海へと続いている。遊歩道の先に開けている海といっても、風情のある磯や長閑な砂浜などではなく、恐ろしい角度で切り立った断崖絶壁だ。その下に渦巻く潮の流れは複雑で、人間が沈むと二度と再び浮かぶことは無いという。
 この崖には亜馬岬という立派な名前があるのだが、地元の人間はおろかこの場所を知るほとんどの人は、決してその名前では呼ばなかった。
 別名「女泣岬(おんなきみさき)」。
 この岬は、自殺の名所として知られていた。そのため数々の怪奇現象や心霊の類が目撃されており、いつしかその名がついたと言われている。そして僕も、今からその岬へと向かう途中だというわけだ。
 目的は名所見物でも肝試しでもない。僕は懐中電灯を頼りに、深夜の真っ暗な森の中を一人で歩いていた。

 これまでの僕には、裕福とは言えずとも温かな家庭と、長年付き合っていた恋人、勤めていた会社も、少ないながら預金残高もあった。
 28年間、まあなんとか順調に歩んできた人生だった。だが半年前、些細な事がきっかけでその歯車は軋み、ゆがみ、遂にはてんでばらばらに狂ったように全てが崩れていってしまったのだ。
 細かな経緯は思い出すのも辛いので割愛するが、要するに僕は全てを失ってしまった。そしてとうとう生きる気力と望みをなくし、この岬へ向かう事を決めたのだった。前もって場所を調たうえで朝早くに家を出て、わざわざ遠出して身投げするなどというのは妙な気分だった。地元の駅ではつい特急列車の往復切符を買ってしまい、一人で苦笑いしたりもした。
 途中、車窓から見る景色は格別に感じた。最早コレで見納めか、と思うと、どんよりとした空も、駅前の薄汚れた雑居ビルも、色あせた政治ポスターも、県道沿いのありふれた自動車ディーラーや飲食チェーン店も美しく見えた。
 全ての営みは現世に繚乱する花々のようだ。そして僕は、今日潔く散ってしまおう…そう決めて、指定席の柔らかな座席で目を閉じた。

 特急が停まる大きな駅からさらに私鉄とバスを乗り継ぎ、岬のたもとにある小さな町に着いたのは夕方を少し過ぎた黄昏時だった。
 分厚くて濃い灰色をした雲の間から夕陽が細長く伸びて、辺りの影を一層濃くする。昼と夜の間、影と光の間、僕の一番好きな時間で、一番憂鬱な時間でもあった。昨日までは、とにかく明日が来るのが苦痛だったからだ。

 バス停では数人の地元民らしき人間と一緒に下車した。みな一様に疲れた顔をして、白いイヤホンでぎゅっと耳を塞いだ退屈そうな女子高生も、黄色い農協のキャップを被った日焼け中年オヤジも、色褪せてヨレたピンクのポロシャツを着た化粧くさいオバサンも、バス停から散り散りに去っていった。岬へ向かうのは僕だけのようだ。アスファルトに響く足音が、ずっぱずっぺずっぱずっぺ、と重い足取りを表していた。死ぬのが怖いわけじゃない。ただなんとなく…死んだらどうなっちゃうんだろう、と考えた。また、自分が死んでも泣くような親兄弟や恋人、友人なんてものがもう居ないという事にふと空しさを覚えた。しかし幾ら考えても決意だけは固く、僕は躊躇うことも迷う事もなく亜馬神社へと到着したのだった。

 それからしばらくの間、茂みと木立に紛れて身を隠していた。まだ辺りにはまばらな人影が見える。僅かながらの観光客や、店じまいをする売店の老婆、それに地元の老人達が3人ほど固まって、件の絶壁について話をしているところだった。いま崖の方へ向かったら、訝しがられてしまうかも知れない。もし気付かれて、思い留まれなどと言われたら、なんと説明したら良いかわからないし面倒だ。僕は通りと境内からちょうど死角になった、大きな杉の木の幹にもたれかかって目を閉じた。思えば色んな事があった人生だったが、果たしてそれは満足行くものであっただろうか。少なくともこの半年は、まるで悪夢のような日々だったけれど。そんな風に今までの自分に思いをめぐらせていると、長旅の疲れかいつの間にか僕は眠ってしまっていた。

 目が覚めると、時刻は午前1時を回っていた。不規則で自堕落な生活が続いていたせいか、思いのほか身体が疲れていたのだろう。草むらや木々の濃厚な緑の香りが心地よく、関節がやや痛むものの目覚めは良かった。いわゆる心霊スポットの真っ只中に居るわけだが、不思議と恐怖は感じなかった。考えてみれば僕は今から身投げするのだ。いわば幽霊予備軍が幽霊を怖がっても仕方が無い。
 用意の懐中電灯で丸く照らされた夜の砂利道をざっざざっざと踏みしめて歩く。道なりに北へと向かえば崖だ。僕はなるべく何も考えず、わき目も振らずに歩き続けた。
 遊歩道は2キロほど曲がりくねって続いている。時おりベンチや便所、それに東屋がある位で、灯りもまばらだ。芝生や茂みのフェンス、ポツンと立っている外灯、便所の壁など至るところに、自殺者を思い留まらせるための電話番号つきの張り紙がされている。
 この崖には監視小屋もあり、職員が巡回に来る事もあるそうだ。それほどこの崖から身を投げる人が後を絶たないのだろう。

 遊歩道が100メートルほど真っ直ぐに伸びた辺りに差し掛かって、その先に外灯が立っているのが見えた。いや、立っているのは外灯だけじゃない。その灯りの足元に、白い服に黒いズボンを穿いた女性が立っている。やはり自殺志願者だろうか…
 僕は一瞬ためらった。彼女の目の前を通過しなくては、崖にたどり着くことはできない。だが、あのように俯いて青い顔をして立ち尽くす女性を無視して歩き去るのも気が引けた。かといって僕に彼女を救えるアテもない。僕だって死ぬためにココへきたのだ。説得して助けた所で責任は持てないし、見ず知らずの女性と心中なんてするつもりもない。

 しかし逡巡する思いとは裏腹に、僕の足は確実に前へ前へ…まるで吸い寄せられるように留まることなく進んでいった。外灯が、呆然とした女性が、じわじわと近付いてくる。段々と服装も髪型もはっきり見えるようになってきた。白い長袖のシャツに、黒色のスリムなパンツ。背はさほど高くないが、すらっとした体形によく似合っていた。そのまま40メートル、30メートル、20メートル。そして10メートルほど手前に差し掛かったとき、異変が起こった。
 笑ったのだ。女性はゆっくりとこちらを向いて、にこり、と透き通るような冷たい微笑を浮かべた。その顔は、表情は、肌の色は、思わずぞくっとするような美しさだった。

 その時。夜空を覆っていた雲が切れて、青白い月の光が差してきた。みるみる流れて行く雲がすっかり東の方へ飛び去ってしまうと、その月は見事な満月だった。ひとすじの月光が真っ直ぐに降り注ぐと、外灯の下にいる女性を、闇夜に浮かび上がらせるように照らし出す、はずだった。だが、この女性が青白い月光を浴びる事はなかった。僕の足は5メートルまで近付いた。そして僕は気付いたのだ。この女性の頭上に立っている外灯の光さえ、彼女を照らす事は出来ないのだと。
 透き通るような微笑を浮かべたこの女性は、文字通り透き通っていた。不自然な痣か腫れ物のように見えた顔の色合いは、彼女の後ろに広がる景色だったのだ。その段になって漸く、僕の足は止まった。すぐ目の前に、半透明の女性が笑顔を見せて佇んでいる。

「何見てるの?」
 えっ!?
「ほら、あなた。聞こえてるでしょ。」
 突然、少し低くて柔らかな、落ち着いた声が聞こえてきた。だけど、僕の両耳には何も響かない。どこから聞こえてくるんだろう。そして、この声は…やはり目の前に立っている彼女のものなのだろうか。
 僕は一瞬のうちに頭をフル回転させて考えた。どうにも納得いかないが、やはり彼女が僕に語りかけているのだ。さて、どうするべきか…。

 僕はどうにか平静を装って、だけどやっとの思いで口を開いた。
「あ、あの…あなたは…」目の前に佇んでいた女性は、再びこちらに眼差しを浴びせて僕の言葉を遮り、ふわりと笑いながら言った。
「あなた、死ぬんでしょ。」
「え、あ、まあ…」
「そう。でも、やめたほうがいいわよ?」

 僕は彼女に釘付けになってしまっていた。というより、目線が離せない。身体が硬直してしまったようで、指先ひとつ満足に動かせないでいる。だけど、相変わらず何故だか恐怖を感じる事はなかった。
「崖から飛び込むとね、後で必ず後悔するから。あたしみたいに、ね。」
 そういうと彼女は、半透明の身体の左腕で右腕を掴むと、肘関節を反対側にねじり上げた。ぽこん、と軽い音がしそうな呆気なさで、彼女の右腕は肘から折れて千切れてしまった。さらにわき腹の辺りを左手で叩くと、肋骨がばらばらと飛び出して地面に転がった。
「ほーらほら!」
 彼女は笑いながら左手で自分の首を掴み
「よいしょっと!」
 と掛け声をして、根元から引っこ抜いてしまった。
「あ、あ…」

 呆然とする僕の目の前に居る彼女は、半透明で、バラバラで、でもちゃんと立って僕と会話をしている。僕は頭がクラクラしてきた。なんだってこんな光景を見ているんだろう。僕は今、いったい何をしているんだろう…困惑する僕をよそに、彼女は左手で自分の首を抱えながら喋り出した。
「あの崖から飛び降りたら、岩場に激突しちゃったのよあたし。それで即死。さらに波にもまれてね…死体も見つからなかったらしいわ。だから死んでもまだ、身体はバラバラなの。」
「や、やっぱり」
「そ。トビオリジサツ。まあ色々あったのよ。」
 その割には随分アッサリしている。
「ねえ、あたしが怖い?」
「い、いや…怖くはないけど…その。」
「あら?どうしたの?」
「その…すごく、び、美人だと…。」
 彼女は笑った。朗らかな、よく通るステキな声で笑った。その笑い声はきっと、僕の脳裏にだけ聞こえているのだろう。だけど僕には、闇夜を裂いて走る月光のように、彼女の笑い声が森の中にこだましているように聞こえた。
「ありがと。驚かなかった人も初めてだけれど、死んでから褒められたのも初めてだわ。」
 確かにそうだろうなあ。と僕も思った。でも、確かに彼女は美人だ。今は体中バラバラで、しかも自分の頭を左手で抱えているけれど。肌の色こそ青白いが、くりっとした二重の瞳と整った鼻たち、小さいが肉厚の唇、それに少しつんとしたあぎと。正直言って僕好みの顔だった。
「でもね。」
 彼女は悪戯っぽく笑うと、突然右目をでろん、と垂らして見せた。
「死んでるのよね、あたし。残念ながら。」
「ああ…」
 気が付くと心底残念がっている自分が、なんだか滑稽に思えた。

 少しの間、気まずい沈黙が訪れた。もとより死ぬために来た手前、あまり話しをするような気分でもなかった。けれど、目線だけは相変わらず彼女に釘付けだった。
「あ、あの!」
 自分でも意外だったが、沈黙を破ったのは僕だった。
「お、お名前は…。」
 バカな事を…死んだ人に名前なんか聞いたってしょうがないじゃないか!

「ヤエコ。」
「えっ?」
「ヤ・エ・コ!クラハシヤエコよ。」
 少し古めかしいけど、和風美人の彼女に良く似合った名前だ。
「で?」
 ヤエコさんは半透明の顔をかしげて、こちらをじっと見た。
「あなたは?」
「ぼ、僕?」
「死人に名前を聞いておいて、自分は名乗らない気?」
「あ、ああ!あの、僕は」
 彼女は…ヤエコさんは、左手に持った首のくりくりした左目(右目はまだ垂れ下がったままだ)をこちらにじっと向けて、興味深そうに僕を見つめている。

「タ、タチバナです!タチバナエイジです。」
「ふうん。よろしくね、エイジくんっ。」
 彼女はそう言うと、首の無い胴体でちょこんとお辞儀した。
「あ、はい…でも、よろしくだなんてちょっとヘンですね。」
「あら?あなた死ぬんでしょ?だったらお仲間じゃない。」
 そりゃまあそうか、と思ったけれど、それは言えなかった。僕は今から身投げをするのだ。あの断崖絶壁から飛び降りて、身も心も砕け散ってしまおう。そう決めて、僕はこんなところまでやって来たのだから。
「自殺なんかしたら、成仏できないわよお?あたしなんかもう随分ココにいるんだから。」
「え、ど、どのぐらいですか?」
「さあ…飛び降りた日、何時だったかしら。確か2007年の…。」
「4年前ですね。」
「あらそんなに!?でもちっとも老けてないわよあたし。化けて出るのも悪くないわねえ。」
 でもバラバラじゃないか。
「エイジくん?」
「は、はい。」
「本当に、本当に自殺するの?」
「………ええ。」
「そう。じゃあ、あたしが待っててあげる。」
「………」
「だから死んだら、きっとココへ戻ってきてね。約束っ。」
「は、はい………」
「あたしには分かるの。あなた、寂しかったんでしょ。でも、もう大丈夫よ。」
「………」
「ここには、沢山お仲間がいるんだから。」
 くすり、とヤエコさんが笑うと、突然無数の人影が月夜に照らされて浮かび上がってきた。

 うおおおおおおおおおんんんん………!

「わわ、わああああああ!」
 僕はあまりの恐怖に尻餅を付いて後ずさりした。先ほどまでの静寂を突如引き裂いた無数の雄たけびは尚も低く、確かに月夜に響き渡っている。
「あらあら。怖がりなのね。でも心配しなくていいのよ。」
 うおおおん…うおおおおおん…!
 はっ!?僕の右手を誰かが掴んだ。反射的に顔を向けると、褐色の地面から無数の半透明の腕が次々に伸びてきて、僕の右手に絡まりついてきた。
「うっふふ。大丈夫。みんな寂しいの。あなたとおんなじ。」
 うおおおおおん……!
「ずっと、ずっと寂しかったのよ…だから、さあ。エイジくん。」
 ヤエコさんの左手から、音もなく彼女の首が転がり落ちた。そしてゆっくりと地面を転がって、尻餅をついた僕の両脚の間にやって来てこう言った。
「あなたも…早く来てね?」

 わああああああああああ!!
 僕は辛抱溜まらず駆け出した。目の前だけを見て、無我夢中で走った。すると残りの遊歩道はわずかだったらしく、すぐに女泣岬へとたどり着いた。夜の海は穏やかだったが、崖の下に打ち付ける波頭は激しかった。

 僕はいったん立ち止まって呼吸を整えると、崖の先端までゆっくりと歩いていった。
 ひょう、と吹く風が冷たかった。心地良い雰囲気とは裏腹に、僕の心は大きく乱れていた。この崖から、闇夜の回廊に一歩踏み出せば…もうこの世とはおさらばだ。何も考えなくていい。何も悩まなくていい。あとは僕の死体が残るだけ…もう、こんな世界はゴメンだった。28年間生きてきて、この半年ほど悩み苦しんだ事はなかった。僕の負けだ…なにもかも終わりだ。僕さえ消えてしまえばいいんだ。もう誰も悲しまないし、僕を探すひとも居ないだろう。
 さあ、行くんだ…!
 スニーカーが土くれを踏みしめて、足元で乾いた音を立てた。
 満月の青白い光に照らされた、真夜中の海は美しかった。



 どれほどの時間が経っただろうか。
 僕は、まだ女泣岬の先端に居る。何故だか涙が溢れてとまらない。
 本当に…本当に、本当は僕は……僕は…。

「死にたく…ないんでしょ。」
 脳裏に、ヤエコさんの声が響いてくる。冷たいけれど、表情豊かな笑顔で。

「あたしには、わかるの。」
 そうだ、きっと彼女はお見通しだった。

「あなたね、綺麗な目をしてる。」
 そうかな…ありがとう。

「だから、迷う事はないのよ?」

 不意に足音がした。思わず振り返った僕が見たものは…。

「ヤエコ、さん…?」
 暗い遊歩道の森の切れ目から、ヤエコさんが姿を現した。白いシャツに黒いパンツ。すっきりした美貌が月明かりに良く映えていた。
「ヤエコさん、あの、あ…。」
 そう。突如現れたヤエコさんの身体は、しっかりと厚みを持っていた。バラバラになった身体中のパーツが元通りくっ付いているだけではなく、満月の光を浴びて肌が青白く染まっているのだ。
 さっきまでは透き通った身体に、変幻自在のパーツだったはず。僕は戸惑い、彼女を恐れた。
「そ、そんな…」
「さっきはごめんなさいね。驚かせちゃったでしょ。」
 ヤエコさんはそう言いながら、ゆっくりと僕のほうに近付いてくる。その顔は美しく、立ち姿は爽やかで、足取りは確かなものだった。
 そして僕には、やはりそれがひどく恐ろしかった。不可解である事はもちろん、まるで僕の気持ちを見透かされていたようで。
 僕はついさっきまで、この社会に絶望してやってきた多くの者と同じ、本日の自殺志願者その1に過ぎなかった。だけども今はどうだ、人生の終わりにするはずの数分間で偶然出会ったばかりの彼女…しかも麗しき地縛霊の事で心の奥底までいっぱいで、美しいままの彼女に、また会いたいと強く願った。それも病気も何にもないあの世ではなく、このクズ溜めのような現世の片隅の、文字通りの崖っぷちで。
「あなたにね、どうしても伝えたい事があったの。ううん、きっと間に合うってわかってた。だってあなたは、本当は自殺なんてしたくないはず、自殺なんて出来ない人だもの。」
 目の前に、さっきまで哀れな骸を晒していた亡霊が、完全な美貌で立ちはだかっている。僕の胸は激しく高鳴って、顔が少しぼうっと熱くなるのを感じた。きっとヤエコさんにも、すっかり気付かれているのだろう。
 僕はもう、死にたくなんてなかった。死にたいという気持ちが、この数分間ですっかり消えうせていた。そして代わりに芽生えた想いは…。
「あなたがね、あたしを見つけてくれた時…すごく嬉しかった。」
 さあっ、と、済んだ夜風が吹きぬけた。冷たい、凛とした空気が僕とヤエコさんの僅かな距離を近くしたり、遠くしたりする。
「あたし…ずっと、そう、4年も。ひとりぼっちだった。あそこでずっと、一人だった。そこで沢山、自殺しに行く人を見てたの。何度も何度も、あたしの目の前を通り過ぎて、そのまま帰ってこなかった。あなたが見た、あの沢山居た影たちは、もう何十年、何百年も前の人たちなの。薄れかかった魂や情念だけが、かろうじてあそこに留まっているのよ。」
 僕はまばたきも忘れて、ヤエコさんの顔を見ていた。語られる悲しみと不思議な調和を見せる、綺麗な顔。
「あたしもいつか、こういう風になっちゃうんだ…そう思ってね、毎晩、あの外灯の前を通る人を待ってた。誰かが、きっと見つけてくれるって思って。でも、それももう諦めそうだった。自分が死んでみて、霊ってホントに居て、心や気持ちもあるんだってわかったけど、それは生きている人たちには届かないんだって事にも気づいたわ。変な幽霊でしょ?でも、あたしはもう恨みやつらみなんて捨てちゃったから…そんな風に悩んだりするのかも。」
 ヤエコさんの声が、少し潤んできていた。半泣きの幽霊も、実に可愛い。いま僕は、心から彼女が愛おしかった。
「僕…あの、僕じゃ、ダメですか?」
 彼女の目線がふい、と上がって、僕を真っ直ぐ見つめた。
「僕なら、ヤエコさんを見つけられたし…僕も…その、ヤエコさんとなら、生きていけると思うんですっ。僕と、僕と一緒にやり直してくれませんか?」
 ヤエコさんの目から、とうとう大粒の涙がこぼれだした。ぽろぽろと流れた涙が夜風に乗って、暗い海へと吸い込まれてゆく。
「…馬鹿ね。死人を口説いてどうするのよ。馬鹿ね……。」
 ヤエコさんは泣きながら毒づいた。そう言いながらも、僕のほうにゆっくりと歩み寄ってきた。僕も、崖の先端から歩き出した。海から吹きぬける風が僕の背中を一瞬、強く押した。
 
 僕とヤエコさんは身体を寄せ合い、僕は彼女を強く抱きしめた。
 本当に透き通らなかった。ヤエコさんは確かに、僕の腕の中に居た。背丈は僕より少し低くて、ふんわりいいにおいがした。
「あたし…あなたに死んで欲しくなかった。自殺なんかしちゃ嫌だった。あたしを見つけてくれたのに、あたしを見ても驚かなくて、逃げ出さなかった。あたしを美人だと言ってくれた。だからつい、あたし、あなたをからかうつもりで…脅かしてしまった…ごめんなさい…お願い、嫌いにならないで…。」
 小刻みに震えるヤエコさんの身体を抱きながら、僕は背中の手にぎゅっと力を入れて言った。
「僕も、あなたにまた会いたかった。あなたに会えるなら、死んでもいいと思いました。だけど…だけど僕は、やっぱり生きて、あなたと一緒に過ごしたい…です。さっきは驚いたけど、大丈夫です。僕は…あなたが好きです。」
 気が付くと、僕も熱い涙をこぼしていた。気持ちが高ぶってしまって、それ以上は言葉が出てこなかった。饒舌だったヤエコさんも、今はじっと震えている。
「ありがと。」
 しばらくの沈黙のあと、かすれるような声でヤエコさんは言った。僕の背中越しに、涙を拭う仕草を感じて、なびいた髪の毛からまたいい匂いがした。
「こんなところで、こんなときに…ごめんね。エイジくん。ありがとう。」
「僕のほうこそ…ヤエコさんが居てくれたから、ヤエコさんが待っててくれたから…また生きようって思えたんです。ありがとう、ヤエコさん。」

 僕たちは手を繋いで歩き出した。
 真夜中の遊歩道は賑やかで、色んな動物や虫の鳴き声がした。けれど、この世のものならぬ者たちの気配を感じる事はもうなかった。二人で並んで歩きながら、あまりに思いがけない展開に少しだけ自分で笑った。
「この先どうしよっか。」
 ヤエコさんがぽつりと切り出した。
「あたしは4年も前から居ない人間だし、この先生きてくのはいいけど…どうやって暮らそう?」
 彼女はすっかり落ち着いた様子で、妙に現実的なことを言った。
「僕だってそうですよ。もう身寄りも居ないし、仕事も貯金も無いし…。」
「困ったわね。」
「困りました。」
 僕たちは顔を見合わせて、少しの間笑いあった。ひどく満ち足りた気分で、じっとりとまとわりつく不安な気持ちがどんどんほぐれていくような気がした。
「あそうだ!ねえ、外国へ行っちゃわない!?」
「えっ?」
 あまりに突拍子もない提案に、僕はポカンとしてしまった。
「だってそれなら関係ないわよ。そうよ、そうしましょっ。あたし行ってみたかったのよ、カンボジア!」
 行き先まで決まってしまった。
「ねっ。いいじゃない。どうせ死んだと思ってさ。あたしとなら、生きていけるんでしょ?」
 言ってることはムチャクチャだが妙な説得力がある…そうか…もう何も気にしなくてもいいんだし…悪くないか。

 ただ僕は、ここで致命的な問題に気がついてしまった。旅費はどうにか捻出するにしても…四年も前に亡くなった人間がパスポートなんか取得できるのだろうか、と。
「あの、ヤエコさん…?」
「ん?」
 すっかり乗り気のヤエコさんが上機嫌で振り返った。
「その、ヤエコさん、どうするんですか?パスポートとか…。」
 ヤエコさんの表情が、予想を裏切ってにぱっと明るくなった。そしてわざとおどろおどろしい顔をしてニヤっと笑ってこう言った。
「だーいじょうぶ。あのね、言わなきゃいけないなとは思ってたんだけど…。」
 なんだなんだ?
「エイジくんも不思議だったでしょ?バラバラ死体のあたしが元通りになって出てきて。」
 そういえばそうだ。僕もそれは聞きたかった。
「…怒らない?」
「え、だ、大丈夫ですけど…何かマズイんですか?」
「うん、実は…実はね、この身体。あたしのじゃないのよ。」
「へ?」
「………あなたの後からね、もう一人…ちょうど若い女の子が、その…あたしの前を通ったの。ああ自殺するんだって思って…それで…。」
「まさか…。」
「あ、違うのよ。彼女は飛び降りなかったの。あたしがいた外灯の側にベンチがあったでしょ?そこに座って…何か薬を飲んだらしいわ。それで…そのまま起きてこなかった。」
「でもやっぱり」
 ヤエコさんは僕をさえぎって言った。
「そ。もらっちゃったの。エイジくんいつまでも帰ってこないし…あたしは死んだ状態じゃ、あそこから離れる事はできないの。だから…ごめんなさい。」
 いやまあ謝ってもらっても、僕にだってどうしようもない。僕は気を取り直して、さらに質問をした。
「でも、どうして外見がヤエコさんのままなんですか?」
「それはあたしにもわからないわ。別に、もう一度エイジくんに会えるなら、他人の身体になったって構わなかったんだけど…不思議ねえ。」
 あんたが言うな。
「でも、この人のパスポートやら貯金があれば、大丈夫なんじゃない?」
「そ、それって泥棒じゃ…。」
「魂が入れ替わっただけよ。」
「でもパスポートの顔が変わっちゃったらダメなんじゃないですか?」
だんだん順応してしまう自分が滑稽だ。
「そんなの申請しなおせばいいじゃない。なんとかなるわよ。とりあえず、この人の記憶は大体把握したわ。まずは彼女のアパートに向かいましょ。」
「あ、はい…」

 僕はヤエコさんにすっかり圧倒されて、森の中を歩いていった。こうして並んでみると、背は僕より少し低くて、すっきりした美貌によくマッチした黒い髪の毛が素敵だ。気の強そうな目と意思の固そうな唇。それに綺麗に生え揃った眉が彼女の性格をそのまま現しているようだった。
「ほら、エイジくん。」
ヤエコさんが指を刺したのは、照らす人をなくした空っぽの外灯。僕とヤエコさんが出会った場所。数時間前まで、僕らは他人どころかあの世とこの世に暮らしていたのに。
「人生ってわからないわねえ。まさか死んでから恋が実るなんて。落ちるなら崖より恋に限るわね!」
ヤエコさん…笑えないよ、それ。
「あ、そうだ。」
すっと前に進み出たヤエコさんが、外灯の下に立った。そしてあたりを見渡して、少し低い綺麗な声を潤ませた。
「みんな、長い間、ありがとう。お先に。また、必ずまた来るからね。」
ずっと一緒に居た皆さんにお礼を言っているようだ。ヤエコさんが話し終わると、ざあっと強く風が吹いた。そして

 うおおおおおおおおん!!

 地の底から湧いたようなうめき声が十重二十重に響き渡ってきた。木立の暗がりから濃淡様々な影が現れては消え、そして僕たちを取り囲んだ。すっかり陰のようになった者ばかりだったが、中には頭に弓矢の刺さった落ち武者や、姿が見えていても身体の一部または大部分が欠けた者、目玉や鼻の無い者も多かった。そして地面からは、さっき僕の脚を掴んだ無数の泥や血まみれの手、手、手、手。

 うおおおおおおおおおん!
 うおおおおおおおおおん!

うめき声はますます増えて、まるで森全体が地獄の奥底で蠢いている巨大な亡霊のようだった。僕は恐怖のあまり硬直して、思わず蘇生したヤエコさんの身体にしがみついた。だが、こんな状況にも関わらずヤエコさんは動じなかった。
「ありがとう…みんな、本当にありがとう。」
涙をぽろぽろこぼしながら、ヤエコさんは現世を彷徨う幾千の魂たちに何度も頭を下げた。この場所に4年間も立っていたのだ。彼女達にしかわからない世界で。
「うん。うん。ありがとう。じゃあ、またね。」
ヤエコさんは意を決して振り返ると、僕の手をぎゅっと繋いで歩き出した。
遊歩道を出る頃には、満月はだいぶ空の片隅に傾いていた。

 彼女の一人暮らしのアパートは、随分遠い街にあった。
 始発の時間まで駅前のネカフェで時間を潰し、来たときとは逆方向に向かってローカル線と新幹線、さらにその駅から路面電車にまで揺られてようやくたどり着いたのは、小さな可愛らしいアパートの二階の角部屋だった。
 そしてなんの迷いも躊躇いもなく植木鉢の下から合鍵を探し出したヤエコさんが、部屋のドアをがちゃっと開けた。

 うおおおおおおおおおおおおおおん!!!

 聞き覚えのある無数のうめき声が部屋中から響き渡った。
「ゴメンねエイジくん、…着いてきちゃったみたい。」
ヤエコさんは僕にそう言って、ぺろっと舌を出して笑った。ピンク色の玄関マットの上から生えてきた数本の手が、おいでおいでをしている。

 あれから2年。
僕たちはどうにかお金を溜めてアパートを引き払い、今はタイとカンボジアの国境の小さな町にいる。ヤエコさんは東南アジアを放浪するのが夢だったらしく、貧乏旅行だけど毎日楽しそうだ。
 アパートまでついてきた影たちは、いつのまにか少しずつ居なくなっていった。ひょっとしたら見えなくなっただけなのかも知れないけど、ヤエコさんがある日
「みんな帰っちゃったわね」
と寂しそうにぽつりと言ったので、きっとまたあの森の中に帰ったのだと思う。

 僕は、どうしてもヤエコさんに聞けないことがひとつだけある。
こんなに美人で、明るくて、度胸の据わった彼女が、なぜ自殺をしなければならなかったのか…ということだ。そもそも、彼女は本当に自殺をしたのだろうか。もし自殺だとしたら、彼女の抱えていた苦しみはいかほどのものだったのか。今もって聞けないままでいる。

 黄色い街並みの中にすっかり溶け込んだヤエコさんが、薄汚れてきたTシャツから日焼けした腕をのぞかせてくるくると手を振った。
「ほらほら!この焼きソバ美味しいよ!」
 彼女は今、全力で生きている。止まっていた4年間の時間を取り戻すように。僕は彼女を愛して、彼女は僕を愛してくれている。僕はそれだけでよかった。そう思っていたはずだった。だけど…どうしてもそれだけは、聞いてはいけないような気がして。

 それでもやっぱり、僕は彼女が好きだ。
 雑踏に埋もれるようにひしゃげた屋台で、賑わう人々に混じった彼女がいそいそと席に着いて僕を待っている。目の前に運ばれてきた、大盛りの焼きソバと何のお肉か分からない串焼きをキラキラした目で見つめながら。

 あの日僕らが出会った女泣岬には、結局あれから一度も訪れていない。
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佐野篁 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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