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第一部(第一~六話)

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第一話

   1

 私は自分の部屋が大好きだ。父がこの家を建てたのは私が十六歳の時。父は私にこの部屋の内装を自由に決めさせてくれた。ずいぶん悩んだし、思った以上に大変な作業だったけれど、十年経った今でも、あの時の選択は間違っていなかったと私は思う。
 同年代の友人は……いや、友人だったみんなは、年相応に活発で、自分の家など寝に帰るだけの場所と考えているようだ。それだけ外の世界は刺激に満ちあふれているのだろう。そして自由になるお金は、独身女性を動かす一番の原動力だ。彼女達は自分が結婚出来ないなどとは微塵も考えず、貯金などしなくとも、遊びに飽きた頃には自分を養ってくれる誰かが現れると信じているのだ。
 私は違う。
 高校を卒業してから去年まで真面目に働いた。大学に行きたい気持ちもあったが、何より早く自立したかった。理由はつまらないことだ。一人っ子の私は、兄弟がいる友人たちを小さい頃から羨ましく思っていた。兄や姉は弟妹からみてとても大人びて見え、同級の子でも一人っ子の自分よりずっと自立して見えた。だから私は、どこかでずっと「早く大人になりたい」と思って生きてきたのだった。
 昔からいわゆる『オタク』気質だった私は、趣味といえば本やゲーム、マンガやアニメといった大してお金のかからないものばかり。稼いだお金は、一部は生活費として親に渡し、それ以外はほとんど貯金してきた。遊びに使った額など微々たるものだ。たまに外へ出かけるとしてもちょっとした買い物くらいで、旅行なんて家族旅行以外は行ったことがない。確かに外の世界は魅力的だけれど、それ以上に、私には本や映画、ゲームの中の世界の方がずっと魅力的に感じられるからだ。
 そう、私は大好きな自分の部屋の中で、魅力的な異世界へと旅することが何より好きなのだ。それは繁華街や観光地、レジャースポットなどでは絶対に得ることの出来ない快感だ。
 今年の初めに仕事を辞めたのに、特にきっかけはなかった。ある日突然、糸が切れるようにやる気がなくなってしまったのだ。もし何らかの理由があったとすれば、元友人達が次々に結婚していくなか、自分は恋人もまともな友人もいないという現状に焦りを覚えたからか。いや、もしかしたら原因は『大人になる方法を間違えた自分』に気付いたからかも知れない。確かに私は周りのみんなよりも早く社会人になった。けれど稼いだお金の使い道は中学生の頃にお小遣いでマンガを買っていたのと何ら変わらない。私は独り暮らしをしたこともなければ、公共料金を自分で支払ったこともない。自分で旅行の段取りをしたこともなければ、新幹線や飛行機の予約の仕方もわからない。ある日、そんな自分に気付いてしまったのだ。そして気付いた途端に、働く気持ちがふつりと失せた。
 そうして私は仕事を辞め、実家での引きこもり生活を始めた。
 もちろん、両親は反対したし、今も「たまには出かけたらどうだ」とか「そろそろ新しい仕事を探したらどうか」とか、毎日のように言ってくる。昔から過保護なくらいの両親だ。心配はありがたいが、私は今のこの生活をしばらくは続けるつもりでいた。
 とはいえ、毎日朝から晩まで本を読んだりゲームをしたりしていると、時々不安になることもある。こんなことをしていて、また社会に戻ることが出来るのかどうかと眠れなくなる夜もある。何か生産的なことをするべきなのではないかと、新しい趣味を探そうかと考えることもある。けれど、この非生産的な毎日は、捨ててしまうにはあまりにも甘美なものだった。

 そんなある日のこと。
 私はいつものようにベッドの上で横になって本を読んでいた。部屋着にしているのは中学校の時のジャージの上下。体型が変わっていないことが情けない。
 ふとのどが渇いたので、飲み物を飲もうとサイドテーブルに手を伸ばした。もちろん、本を読みながら。
「あっ」
 危ない、と思った時にはすでにコップの中のお茶は全て、お気に入りのエキゾチックな柄のカーペットに飲み干されてしまっていた。
「ああ、もう、やっちゃったなあ」
 私は慌ててベッドから飛び降りると、大量のティッシュをつかんでカーペットを拭き始めた。
「シミになっちゃうかなあ……やっぱダメだなあ、ものぐさしちゃ」
 ポンポンと叩いて拭いてから、今度は床を拭こうとカーペットをめくった。
 すると、そこには直径2センチほどの小さな穴が空いていた。
(うそっ、なに、シロアリとか?)
 穴の形はきれいなまんまるで、縁は加工されたように滑らかだ。
(下で工事でもしてるとか? いや、さすがにそれは気付くでしょう)
 私は床に這いつくばると、おそるおそるその穴を覗いてみた。

 そこに広がっていた景色は、予想と全く異なるものだった。

 それは部屋のように見えた。ちょうど部屋を天井から見ているような状態だ。けれどその部屋は、私の部屋の下にあたるリビングではなく、非常に奇妙なものだった。
 まず、壁や床はでこぼことした薄ピンク色の『何か』で作られており、家具と呼べそうなものは何もない。ただ所々に穴が空いており、中に何か入れてあるようだ。もしかしたら収納なのかも知れない。壁はうっすらと光っている。自然光なのか、その壁自体が発光しているのかはわからないが、照明は置かれていないようだ。もしかしたら天井に付いているのかも知れないが、この穴から確認することは不可能だ。床までの距離はいまいちつかめないが、視界は極めて狭い。何とか角度をかえて見ても、部屋の半分も見渡せない。
(どういうことなの?)
 まさに『心臓が口から飛び出しそう』なほどドキドキしていたが、私はその穴から眼を離せずにいた。昔から眼だけは良い方だ。見間違いなどでは決してない。
 さらに観察を続けると、部屋の隅に何か動く塊があることに気付いた。塊は部屋と同じ薄ピンク色をした毛のようなものに覆われている。手足はないのか、それとも亀のように引っ込めているのかわからないが、時折フルフルと震え、よく見ると少しずつ移動しているようだ。
(生き物かしら……)
 ふと思いついて穴に耳を当ててみた。しかし何も聞こえない。
(音は聞こえないのかしら。何だか、SFみたい……)
 また穴を覗いてみる。だんだんと、恐怖心より好奇心の方が勝ってきていた。
 謎の生物はさらに移動していた。今は部屋の中央あたりにいる。
(眼とか耳とかはないのかしら? もし私に気付いたら……攻撃してきたりするのかしら)
 またむくむくと恐怖心が膨らむ。しかし、そんなことで好奇心は止められない。
 生物は部屋の真ん中に止まったまま、ただフルフルと震えている。
(ここは……どこなの? どこか遠い星? それともファンタジーみたいな異世界とかかな。それとも……そもそもいつから私の部屋と繋がっているの? 危険はないの? 私の体に影響は? ああ、最近ちょっと太ったのはこれが原因? なんてね、ないない。ああ、どうしよう。これは夢? そうよ、夢よ。だってこんな状況、普通は怖くて仕方ないはずだもん。こんな、わくわくしちゃって……ああ、もう、何この生き物。目が離せないじゃない)
 頭の中を無数のハテナマークが飛び回っている。生物はまだ部屋の真ん中で震えていた。
(知性はあるのかな。交信は可能? それはさすがに危ないか)
 その時、階下から母の声が聞こえた。
「ごはんできたわよ。降りてらっしゃい」
(んーもう、タイミング悪いなあ)
「ちょっと待ってー」
「だあめ、冷めちゃうから早く来なさい」
(しょうがないか……)
 私はそっとカーペットを戻すと、立ち上がり部屋を出ようとした。
(……穴、消えたりしてないよね)
 少し心配になったので、もう一度カーペットをめくり、穴があるか確認してみた。
 穴は、そこにあった。
 私はほっとしてリビングへと向かった。

「なによ、あんた。さっきから天井気にして」
「あ、ううん、何でもない。何でも」
 ついつい、穴のあるあたりを気にしてしまう。しかし、リビングの天井に穴はなかった。
「ねえ、あんたちょっと太ったんじゃない」
「そ、そうかな」
「最近体重測った?」
(痛いとこつくなあ)
 私は母の質問には答えず、ハンバーグを頬張った。
(穴のこと、パパには言った方がいいかな……でも……うーん、取りあえず保留で)
「おい、何にやにやしてるんだ? 気持ち悪いぞ」
 父が私の顔を見て言った。
「あ、ひどいなあ。娘にむかって気持ち悪いとか、よく言えますね」
「実の娘だから言ってやるんだろう。まったく」
「それよりあんた、ちゃんと噛んで食べてるの? そんなに慌てて。またゲーム?」
「ああ、うん、そう、ゲーム。つけっぱなしでさ」
「いい歳して……」
「歳は関係ないでしょ」
「関係あるでしょ」
「もう……ごちそうさまっ」
 私は空になった食器を片付けると、足早に自分の部屋へと戻った。

(良かった、まだある)
 いつもは掛けない部屋の鍵を掛けて、私はカーペットをめくった。穴はまだそこにある。
 仕事を辞めてから伸びっぱなしの髪をまとめると、私は再び床に這いつくばった。
(あれ? ピンクちゃんいない)
 私はあの生物を『ピンクちゃん』と命名していた。我ながら、センスがない。
「ピンクちゃんどこ?」
 声に出して呼んでみたが、穴から見える位置にピンクちゃんはいない。
(どこかに出かけたのかな? つか出入り口なんてあるの?)
 見た限り、扉のようなものは見えない。
 しばらく探していると、部屋の隅に、うっすらとだがピンク色の何かがあることに気付いた。明らかに、壁とは違う何かだ。
(ピンクちゃん? でも形がさっきと違うみたい……それに、透き通ってる……?)
 すると、そのピンク色の何かは徐々に色味を増していき、次第にピンクちゃんの姿へと変わっていった。
(やっぱりピンクちゃんだったんだ……不思議)
 はっきりとした姿になったピンクちゃんは、またあのフルフルとした動きを始めた。
(何をしてるんだろう……)
 部屋の隅から動かずに、ピンクちゃんはフルフルしている。
(……ちょっと、飽きてきた)
 私はいったん穴から眼を離すことにした。ずっと片眼だけ見開いていたから、何だかチカチカする。
 カーペットを元に戻すと、私はベッドに寝転んだ。
 すると、また急に怖くなってきた。
(取りあえず、塞いでおこうかな……変な菌とか入ってきそうだし)
 私は机の引き出しから厚紙とビニールテープを取り出すと、穴をそっと塞いだ。
(やばい……なんか超怖くなってきたんですけど)
 読みかけの本を開いてみたが、内容が頭に入ってこない。それならとゲームをつけてみたが、まったくやる気が起こらない。
(やっぱり、パパには言おうかな……でもなあ)
 ちらりと穴の方に目をやる。
 ピンクちゃんが触手を伸ばし、穴からこちらへ出てくるイメージが浮かんだ。
(まさか、ね。大丈夫、大丈夫)
 ゲームを消し、勢いよくベッドに飛び乗った。
(よし、今日は寝よう。で、明日また覗いてみて、何かやばそうだったら塞ぐ、と。おっけーおっけー、それでいこう)
 私は布団を頭まで被ると、灯りは点けたままで眠ることにした。
 時刻は夜九時。
 結局、眠りにつけたのはそれから五時間ほど経ってからのこと。
 それまでずっと、私はピンクの触手に襲われる妄想と戦っていたのだった。

   2

 あれから一週間が経った。
 最初の数日は戦々恐々として眠れぬ日々が続き、穴を覗くことも出来なかった。しかし、ある日突然、恐怖心がなくなった。何事もなかったから安心したのか、慣れたのか、それともどこかおかしくなったのかはわからない。とにかく恐怖心がなくなった私は、再び好奇心の塊となり、ピンクちゃんの観察を再開したのだった。
(ピンクちゃん、元気かなあ)
 ピンクちゃんはピンク色の部屋の中、相変わらずフルフルと震えている。
 ずっと観察していると、ピンクちゃんは時々は移動し、時々は消えたり現れたりしていることがわかった。
(何をしているのかな。何のための行動なの?)
 慣れてくるにつれて大胆になってきた私は、何度かコミュニケーションを図ってみた。
「おおい、ピンクちゃんこっちだよ」
 声はやっぱり届かないようだ。もしかしたら耳がないのかも知れない。
 そこで私は思いきって穴に指を入れてみた。
(おおおお、怖い。さすがに怖い。やばいぞ、私)
 穴に眼を近付けたまま、指の先を縁に掛けてみる。そしてゆっくりと中へと入れていく。深さは見たところ、ひとさし指の第一関節よりは深いくらいだろうか。
(……ん、あ、何か、ちょっと……痛っ)
 指があちら側に届くか届かないといったところで、指先に痛みを感じた。ような気がした。
(うわあ、焦ったあ。何にもなってないよね? ひいい、危ない危ない。ちょっと冒険しすぎちゃった。でも、どうして痛かったんだろう?)
 気になったが、さすがに怖くなった私はいったん穴に蓋をした。
(……一応、手洗っておこう)
 私は洗面所へと向かった。

(さて、と)
 手を洗い、部屋へと戻った私は穴を覗くかどうか悩んでいた。
(指が入るってことは、やっぱり、あっちと繋がっているんだよね……)
 いつかの妄想がよみがえる。ピンクちゃんの触手が、今にも穴から伸びてくる気がした。
(ひとまず、休憩にしよう)
 そうしてベッドに戻ろうと一歩踏み出した瞬間、足の指のその下に違和感を覚えた。
(ん? もしかして……)
 おそるおそる、カーペットをめくった。
(……まじかあ)
 なんとそこには、別の穴が空いていた。

(全部で三つかあ……ええ、いつからあったのかなあ)
 カーペットを全てめくってみると、床には全部で三つの穴が空いていた。
 部屋の右手にはベッドが奥の窓側をを頭にして置いてあり、ピンクちゃんの穴は真ん中から少し頭寄りに位置している。新しい穴は、ベッドの足下近くと、ベッドサイドに置いた小さなテーブルの向こう側にあった。大きさはどれも同じくらい。直径2センチほどで、縁は加工されたように滑らかになっている。
(でもこれでピンクちゃんを色んな角度から見れるぞ)
 少し戸惑いはしたものの、私はわくわくしながら新しい穴を覗くことにした。
(……あれ?)
 虫のように這いつくばりベッドの足下に近い方の穴を覗いてみると、そこにはピンクちゃんの部屋とは違った景色が広がっていた。
(何か、山小屋みたい……あ、誰かいる!)
 その部屋はログハウスのような見た目だった。天井はあまり高くないようだ。中の様子がよく見える。置いてある家具はこれまた木製のテーブルに椅子。壁際に並んだ棚には、見たこともないような不思議なオブジェがぎっしり置かれている。
 そんな部屋の隅、視界の右上の方に動く影があった。私は眼を凝らした。
(人間? ううん、どちらかというと……妖精?)
 そこには淡い緑色の服に透明な羽、白い肌に少しとがった耳という、小さい頃に絵本でみたような姿の妖精が二人いた。二人は何かを話し合っているようだ。
(わあ、すごい。ピンクちゃんの穴とは別の世界なんだ。すごいすごい、妖精さんだよ。超可愛い! 超メルヘン!)
 私は興奮していた。
(何話してるんだろう。んー、やっぱり音は聞こえないか。気になるなあ。妖精さん、なんか深刻そうな顔してる)
 妖精二人は、見た目男女のカップルに見えた。
(付き合ってんのかな。ほっほう、痴話ゲンカしてるとか?)
 二人は話しながらゆっくりと部屋の中央へと移動している。どうやら奥に出入り口があるようだ。中央に置かれた木製の椅子に、テーブルを挟んで二人は腰掛けた。
 私はさらに部屋の中を観察してみる。左手奥の方に暖炉のようなものが見えた。火は入っていないらしい。
(ん? 暖炉の方を指さしてる。もしかして、寒いのかな? ちょっと震えてるようにも見えるし。あら妖精さん、指三本しかないのね)
 暖炉の方をよく見てみる。薪はあるようだ。火種がないのかも知れない。
(マッチとか、あげてみようかな)
 危ないとは思いつつも、私はコミュニケーションを取りたい衝動に駆られていた。
(ピンクちゃんと違ってヒト型だし、部屋を見る限り文化も似てそう。たぶん大丈夫だよね)
 私はマッチを取りに階下へと向かった。

「ママあ、ねえマッチってどこだっけ」
 引き出しをひっくり返してみたがマッチは見つからず、私は母に聞いてみた。
「何よ、まさか部屋で火点ける気じゃないでしょうね。それとも……あんたまさかタバコ吸ってるとか? やめてよね、今更」
「そんなんじゃないってば。ねえ、マッチどこ?」
「ここよ。ほれ」
 そう言って母は私にマッチを投げてよこした。
「火事には気をつけてね」
「はいはい。大丈夫ですよ」

「さて、と」
 部屋に戻った私は、さっそくマッチを一本取り出すと妖精さんの穴へと近づけた。
(大丈夫だよね。危なくないよね。うわあ、私大胆だあ)
 マッチを持つ手が震える。穴の中では妖精さん二人がまだ座ったまま話していた。
(……えいっ)
 思い切って私はマッチを穴に落とした。私の手を離れたマッチは、まっすぐにテーブルの上へと落下した。そして小さく跳ね、止まった。
(気付いた!)
 妖精さん二人は驚いた表情でマッチを見つめている。男の子っぽい方がゆっくり立ち上がると、女の子っぽい方の後ろに回り、そっと肩を抱いた。
(おお、ラブラブじゃん)
 男の子っぽい方がマッチへ手を伸ばそうとする。それを女の子っぽい方が制する。
(大丈夫だよ。ただのマッチだってば。あれ? それともマッチ知らないのかな)
 二人は首を傾げながら、おびえたようにマッチを見つめている。
 その時、不意に男の子っぽい方がこちらを見た。ような気がした。
(うわっ、気付かれた?)
 私は慌てて穴から離れた。
(あっちから見えてるのかな? ピンクちゃんと違ってヒト型だから、注意するべきだったなあ)
 しばらくは離れて様子を見ることにした。蓋をしたかったけれど、近づくのもちょっと怖かった。
(もう、大丈夫かな)
 三十分ほど経ってから、私はまた床に這いつくばった。
(突いてきたりはしないよね。うわ、その想像怖っ)
 穴から顔を少し離して、私は中を覗いた。
 妖精さん二人はテーブルの上のマッチを調べているようだった。
(あっちからこっちは見えないのかな? 見えてたら、何か入れてみたり蓋するよね)
 私の心配をよそに、二人はマッチに夢中になっている。
(やっぱりマッチを知らないんだ。使い方がわからないのね)
 少し怖かったが、私はマッチの使い方を書いた紙を落とすことにした。
(大丈夫。根拠はないけど、大丈夫。たぶん)
 私は意を決して、細く丸めた紙を穴に落とした。
(こっち見た!)
 落とした紙に気付くと、二人はこっちへと眼を向けた。
(目が合った! やばい?)
 私は思わず身を固くした。動けない。
 二人は怪訝そうにこちらを見ていたが、すぐに紙の方へと視線を移した。
(あれ? やっぱりこっちは見えてない?)
 おそるおそると紙を手に取ると、男の子っぽい方は紙とマッチを見比べ始めた。
(お、気付いた。そうそう、マッチをこすると火が点くからね。それを暖炉に入れればいいのよ)
 男の子っぽい方がマッチを手に取る。女の子っぽい方は「やめた方が良い」というように首を振っている。
(大丈夫だってば。ちょっと火が点くだけだから)
 男の子っぽい方が女の子っぽい方を立たせると「離れていろ」というような素振りをした。不安そうに離れる女の子っぽい方。
 そして、男の子っぽい方はマッチを私の指示通りに、擦った。
 その瞬間──、
「うわっ!」
 まばゆい閃光と共に、部屋は炎に包まれた。
「え? 嘘。何で、何で。え、どうしよう。どうしよう!」
 熱気はこちらまでは伝わってこないが、大きな炎は男の子っぽい方を包んでいる。女の子っぽい方はそれを見て叫んでいるようだ。
「え、どうしよう。ごめんなさい。ごめんなさい! どうしよう。そうだ、水。水!」
 立ち上がろうとするが、手足に力が入らない。腰が抜けてしまったようだ。
「だめ、早く、水。あ、あ、ごめんなさい。どうしよう。やだ、こんな」
 私は這いつくばった姿勢のまま硬直した。涙が出るどころか、眼も咽もカラカラだ。
 炎はだんだんと勢いを失っていく。
 そして、消えた。
 後に残ったのは、床に散らばった灰のようなものだけ。焦げた跡や煤はどこにもなかった。
 女の子っぽい方は、それを見つめながら呆然としている。
 私はガクガクと震える足でようやく立ち上がると、ベッドの上へと倒れ込んだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい!」
 母に聞こえないよう、枕に顔を押しつけながら、声に出して何度も叫んだ。
「こんなことになるなんて思わなかったんです。ほんの親切心だったんです。ごめんなさい、許してください。許して……」

 一時間ほど泣いた後、私は妖精さんの穴にそっと蓋をした。
「ごめんなさい……」
 蓋にした厚紙に向かって、私は何度も何度も謝った。
 許されないことだとはわかっていたけれど、それ以外にどうしたらいいかわからなかった。
「ごはんできたわよ」
 階下から母の声が聞こえる。
 食欲はなかったが、言い訳も思いつかず、私はふらふらと階段を下りた。
 転げ落ちなかったのが不思議なくらいだ。
「あんた……どうしたの。何かあったの?」
 私の顔を見た母は、心配そうに私に聞いた。
「ううん。何にもない」
「……泣ける映画でも観たの?」
「……うん。そう」
 私はうつむいたまま、無理矢理笑って見せた。
「感情移入も大概にしなさいよね。思春期って歳じゃないんだから」
「うん、ごめん。大丈夫」
 私は食卓についた。
 見慣れたテーブルが、妖精さんのテーブルとダブって見えた。
(映画なら、良かったのに)

 結局、夕飯は一口食べただけで、私は自分の部屋へと戻った。
 しかし、怖くて床を見ることが出来ない。

「ママ……今夜、パパとママの部屋で一緒に寝ても良い?」
 私は夕食の片付けをしている母に言った。
「……どうしたのよあんた。やっぱ何かあったんでしょ?」
「ないよ」
「だって……変よ。ほんとに映画観ただけなの?」
「ほんとだもん……」
 母はまだ何か言いたげだったが、それ以上聞くことはせず、ただ「布団は自分で出しなさいよ」とだけ言った。

 明け方頃、ようやく眠れた私が見た夢は……最悪の内容だった。
第二話

   1

 一ヶ月が経った。
 もちろん、あれから一度も穴は覗いていない。それどころか、大好きな自分の部屋にいることさえ辛く、この頃は寝る時以外はリビングにいることが多い。
 そんな私を母と父は心配しているようだった。両親は過保護な方ではあるが、昔から私の行動にそこまで口出しすることはない。今回も、何かあったのかと聞いてくることはなかったが、時々探るように「最近元気ないんじゃない?」と言ってきた。その問いに、私はただ「何にもないってば」と笑って返すだけだ。
 しかし、いつまでもこのままで良いわけがない。
(もうひとつの穴にも、蓋しなくちゃね)
 あの時塞いだのは妖精さんの穴とピンクちゃんの穴のみ。もうひとつの穴はまだ蓋をしていない。
 私は呼吸を整えると、自分の部屋の扉を開けた。
 あの日以来入っていないわけではないのに、何となく長い旅行から戻ったような気分だった。
 深呼吸をし、ベッドサイドに立つと、私はゆっくりとカーペットをめくった。
(……え?)
 そこには、なんと全部で五つの穴があった。

(増えてる……いつの間に?)
 焦げ茶色のカーペットの端を掴んだまま、私は硬直した。毛足の短い堅めの手触りが何だか気持ちが悪い。
 カーペットはそんなに大きくない。今は床のほとんどが見えている状態だ。
 新しい穴はベッドの頭側、ピンクちゃんの穴からやや右手側に一つ。そして部屋の中央付近にも一つ空いていた。形も大きさも、みんな変わらない。
 私は覗こうかどうしようか戸惑った。
 覗けばまた何かが起こるような気がして怖かったが、覗かないのもまた恐ろしかった。
 このまま蓋してしまうべきなのか……。
「……よし!」
 自分を奮い立たせるように声に出して言うと、私は腕組みをして穴を見下ろした。
 蓋をするにしても、やはり中を確認してからが良いだろう。
(さて、どれから確認しよう)
 カーペットをどかしてあらわになった床を見渡す。しばらくワックスをかけていなかったから、ところどころフローリングが曇っている。
(やっぱり、見つけた順にいくべきよね)
 私は呼吸を整え、髪をまとめて床に這いつくばり、ぎゅっと眼を閉じたまま、サイドテーブルの横にある穴に顔を近づけた。
(確認するだけ……見るだけ……絶対に干渉しない……)
 そろそろと、私は眼を開けた。

 穴の中は真っ暗だった。
(あれ?)
 眼を凝らしてよく見てみるが、やはり何も見えない。
(もしかして、知らないうちにただの穴になっちゃったのかな?)
 私は確認するため、ピンクちゃんの穴を覗いてみることにした。
 這いつくばった姿勢のまま向きを変え、穴を蓋している厚紙をめくった。一ヶ月放置していたせいで、テープの跡が床に残っていた。
 穴の中を覗く。
(あ……ピンクちゃんいた)
 中では懐かしいピンクちゃんがフルフルと震えていた。
(てことは、穴が塞がったわけじゃないんだ)
 私は改めて真っ暗な方の穴を覗く。
 やはり中は黒一色だ。しかし、しばらく見ていると眼が慣れてきたのか暗闇の中に空間があることがわかった。とはいえ何が見えるわけでもない。まるで星のない夜空を眺めているような感覚だ。
(やっぱりどこかに繋がってる! でも……うーん、見えないなあ)
 懐中電灯で照らしてみようかという考えが一瞬頭を過ぎったが、すぐに打ち消した。干渉することは、絶対に危険だ。
 いったん床から顔を離し、私はゆっくり立ち上がった。
(これからまた観察するにあたって、今までわかったことをまとめてみよう)

(まず、穴の形は直径2センチくらいでまんまる。縁はすべすべしてて、深さは……ひとさし指の第一関節よりちょっと深いくらいかな)
 私は頭の中で穴をイメージしながらノートにあれこれ書いていく。文字の横にはイラストも添えた。高校の時はよくマンガのイラストを描いたものだ。
(ベッドの頭側の穴にはピンクちゃん。ピンク色の毛玉みたいな感じで、フルフルしてて……えっと、とにかく謎の存在、と)
 ボールペンで描いたせいで、ノートのピンクちゃんは本当に毛玉みたいだ。
(そして、足下側の穴は……)
 私はノートに『妖精さんの穴』と書き、妖精さんの特徴を簡単にメモした。イラストは、描かないことにした。
(あとわかっていることは……、こちらからは穴の向こうが見えるけど、あちらからは見えない……、たぶん。それと音は聞こえない。指を入れるとちょっと痛かった……、でもこれはピンクちゃんの穴だけかな? さすがに、他の穴で試すのはしないけど……)
 箇条書きでわかったことを整理していくが、本当にまだ何もわかっていない。ファンタジー小説やアニメなどでは、異世界に行ってもすぐに言葉が理解出来たり、文化や姿形があまり変わらなかったりするが、実際のところはこんなものなのかも知れない。SFだど珍妙な姿の異星人たちが仲良く一緒に食事していたりするが、正直私はピンクちゃんと一緒にご飯を食べる気にはなれない。
(うーん、他にわかることは……)
 ふいに、頭の中にマッチが燃え上がる映像が浮かび、頭を振ってかき消す。
(何ていうのかな……、こちらの世界とは、物理の法則みたいなのが違うのかも。妖精さんの部屋に暖炉があったから火を点けるんだと思ったけど、もしかしたら他の方法で使うんだったのかも……)
 私はこのことをノートに記すと、横に『重要』と赤いペンで書き付けた。
 見たところ自分の世界と変わらないからといって、同じ法則で世界が回っているとは限らない。身近な星だって、火星の大気は二酸化炭素が主だし、月にはそもそも大気が無い。重力だって違う。妖精さんの世界も、見たところは自分の世界と同じように見えていても、部屋を満たしている大気は燃えやすいものだったのかも知れない。
 改めて、妖精さんの出来事は自らの浅慮が招いたものだと痛感した。
 やはりもっと注意するべきだったのだ。
 何故あの時の自分は何も考えずにマッチなど落としたのだろう。
 今までマンガや映画でしか視ることが出来なかったような不思議な世界に実際に触れ、私は浮かれていたのかも知れない。とにかく、いつもならば絶対にしないような行動だった。
 本来、私は臆病な人間だ。この歳になっても夜中にトイレへ行くのは少し怖いし、夜道を独りで歩くのだって怖い。学生の頃、生徒会の用事で帰る時間が遅くなってしまった時は誰もいない教室が不気味に思えて、廊下を必死に走った覚えがある。
 もしかしたら、どこかでこれは夢だと思っていたのかも知れない。だから大胆な行動に出てしまったのだろう。
(とにかく、ようく考えて行動しなくちゃ)
 私はノートを閉じると、真っ暗な穴をもう一度覗いてみることにした。

(やっぱり、真っ暗か)
 視線の先には闇。うっすらと何か見えるような気もするが、よくわからない。
(……何もないのか。よし、じゃあ蓋しちゃおうかな)
 もうこれ以上何もわからないと諦め、私は顔を離そうとした。
 その時、穴の中、視界の隅で何かが光ったような気がした。
(ん? 光……あ、何か入ってきた!)
 視界の右手側からぼんやりとした灯りが、ゆっくりと射し込んできた。徐々に向こう側が明るくなっていく。しかし光量が弱いため、そこがどんな世界なのかはわからない。
(なんだろう、この光……)
 私は必死に眼を凝らしてみた。
 闇に浮かぶ、薄青い光を放つ光の玉だけが見える。そこが部屋なのかどうなのかはわからない。床も壁も見えない。
 私はさらに観察を続けた。
 光の玉はゆっくりと視界の中央へと移動していく。
(あ、誰か、いる?)
 動く光の後をついて行くように何者かの姿が見えた。よく見えないが、どうもそれは植物のようだ。
(木、かな。でも動いてる。あれ、それとももしかして視界が動いているとか?)
 しかし、真っ暗なためどちらが動いているのかわからない。
 注意して見ると、木は根っこを動かして移動しているように見えたが、それは光の加減のせいかも知れない。
 床か地面が少し傾いているのだろうか。木の幹が少しこちらの方を向いている。ちょうど、ゆるやかな坂をこちらへ向かって登ってきているような感じだ。
 木のはっきりとした高さはわからないが、あまり高くはないようだ。高さの割には幹が太いようにも思える。枝には緑の葉が茂っているが、葉の色はやや白っぽく元気がないようにも見える。
(真っ暗だから元気がないのかな……でも、思い込みは危険だな。この世界の木とは違うかも知れないし。そうよ、木が動くぐらいおかしくも何とも……あるか)
 木は視界の中央までくると、光を頭上に掲げるようにして動きを止めた。
 光と木との距離が縮まったおかげで、先ほどまでよりもその姿がよく見える。
(やっぱり、普通の木……あ、あれは何?)
 自分から見て手前、木の幹の中央付近に何かがついているようだ。
 それは、人間の顔のようだった。
 薄い眉に閉じた眼。つんと上を向いた鼻と生意気そうな唇。髪の毛や耳はついていないらしい。それは少女の顔に見えた。どことなく、険しい表情だ。
(何だろう……苦しそうな顔して……ああ、ううん、だめだめ。自分の世界の尺度で考えちゃ……)
 私はぼりぼりと頭を掻いた。
 その時、ふっと灯りが消えてしまった。
(あっ)
 そうして穴の向こうの世界は、再び闇に包まれてしまったのだった。

  2

(うーん、真っ暗だなあ)
 しばらく経ってからもう一度穴を覗いてみたが、やはりプラちゃんの穴の中は真っ暗だった。ちなみにプラちゃんとは、穴の中にいた女の子の顔した木に私が命名した。『植物=プラント』だからプラちゃん。ピンクちゃんよりはひねったつもりだ。
(よし、じゃあこの穴はまた後で見てみるとして、他の穴を覗いてみようか)
 私は穴に『プラちゃん』と書いた厚紙で蓋をし立ち上がると、床の穴を見渡した。
(ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、な……と)
 ピンクちゃんの横の穴を覗くか、部屋の中央付近の穴を覗くか、私は神様の言う通りにして決めることにした。
(か、み、さ、ま、の、い、う、と、お、り……こっちか)
 神様が示したのは、部屋の中央にあいた穴だった。

 その穴の向こうの景色は、まるで洞窟の中のようだった。
 焦げ茶色の岩壁は、薄い色と濃い色が交互に重なり層を成している。
 ゴツゴツした壁とは対照的に、底面はつるつるとして光沢のある質感だ。
 洞窟は視界の左斜め上から右下に向かって延びている。左手側が出入り口なのだろうか。そちらの方から明かりが射しており、反対に右手側は暗くなっていてよく見えない。
 風が吹いているのだろうか。時々砂埃のようなものが舞っている。
(洞窟か……、生き物はいないのかな?)
 私は顔の角度を変えながら、向こうの世界をよく観察しようとした。おそらく、親にも見せられないような変な表情になっているに違いない。
(何もいないなあ)
 私はひとまずこの穴の観察をやめ、次の穴を覗くことにした。
(神様もあてにならないな)
 厚紙に『洞窟』と書き、私は穴をいったん塞いだ。

 その時、コンコンと部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「ちょっと、良い?」
 母の声だ。というか、そもそも平日の昼間なのだから母以外あり得ない。
「何、あんた鍵なんか掛けてるの?」
「あ、ちょ、待って。待ってってば」
 私は慌ててカーペットを元に戻すと、扉の鍵を外した。
「何? どうしたの?」
「あんたどうして鍵なんか掛けてんのよ」
「つ、ついてるんだから、掛けたって良いでしょ」
 私は変な言い訳をした。
「で、何?」
「いや、買い物行くから一緒に行かないかと思って」
「歩き? 外暑いよ」
「車に決まってるじゃない」
「あ、駅前まで行くの? ならついて行こうかな」
「よし、じゃあ早くして。お昼もあっちで食べよう」
「了解」
 思えば久しぶりの外出だ。確か最後に外に出たのは、一週間以上前だったか。夜中にコンビニへマンガを買いに行った以来だ。
(さて、服はどうしたものか)
 母が階下に降りた後、私は部屋の中で一人頭を抱えた。
 私はもともと衣装持ちでは無い。仕事ではスーツを着ていたから、普段外に出ることが少ない私にいわゆる『普段着』はほとんど必要なかったからだ。特に引きこもってからは今まで以上に外出することが減り、数少ない普段着も部屋着にしてしまった結果、現状外に着ていけるような服は一枚も無くなってしまっていた。
(仕方ない、まともなのを探すしかないか)
 さらに言えば、私は働いている頃でもほとんど化粧をしていなかった。するとしても軽くファンデーションを塗るくらいだった。その化粧品ももう空っぽになっている。
(さすがに、女としてやばいかも)
 かくして、私は伸びたシャツにすっぴんという情けない姿で、久しぶりに外の世界へと旅立つことになったのだった。

「何か、あんた良いことあった?」
 駅前のショッピングモールへと向かう車中で、母が運転しながら私に聞いてきた。
「え、何で?」
「いや、何となく」
「別にないよ」
「あ、そ。ま、元気そうで何より」
「意味わかんないし」
 少し笑って、私は窓の外を眺めた。
 季節は、もうすっかり夏だった。

(よし、観察を開始するかな)
 服と化粧品を少し買い、食事をして帰った私は、まずは母との家庭内ファッションショーを楽しんでから、自分の部屋に戻り、カーペットをめくった。
(取りあえず、プラちゃんの穴がどうなってるか確認しようかな)
 私はどうしてももう一度プラちゃんの顔が見たかった。何となく、あの顔が頭から離れなかったのだ。
 穴の蓋をはがし、私は四つん這いになる。何だか、もうすっかり慣れた姿勢だ。
(あ! プラちゃんいた!)
 中を覗くと、さっきまで真っ暗だった穴の中に淡い灯りが点っていた。視界の中央には光に照らされたプラちゃんの姿がある。先程と同じ、険しい表情だ。
 灯りは、最初に穴を覗いた時のそれよりずっと小さい。
 プラちゃんはかすかに枝を揺らしながら佇んでいる。
(苦しそうな顔……に、見えるだけなのかなあ。でも、顔があるとどうしても表情見ちゃう……あれ? 何か来た?)
 しばらく観察を続けていると、視界の右隅の方がほんのりと明るくなった。
 光の玉だ。プラちゃんの方へゆっくりと近付いて行く。
 その後ろを追いかけるようにして、別の木が現れた。顔は付いているようだが、よく見えない。
 大きさはプラちゃんと同じくらいだが、葉の色は茶色く、数も少ない。
(仲間がいたんだ……家族とか? あ、でも植物に家族って意識あるのかな)
 木はプラちゃんの目の前まで進んだ。
 すると、新しい方の光の玉がふっとプラちゃんの頭上へと飛んでいった。そして、頭上にあった小さな光の玉とくっつくと、ちょうど二つの玉を足したくらいの大きさの一つの玉になった。大きくなったおかげで、さっきよりも幾らか明るい。
(すごい、きれい……。こうやって助け合って生きてるのかな)
 その時、仲間の木が大きく枝を揺らした。それに合せて、葉がばさばさと落ちていく。
(え、何なに? どうしたの)
 葉はみるみる落ちていき、そして、一枚も残さず無くなってしまった。闇の中に、散らばった葉がうっすらと見える。
(どういうことなの……?)
 目の前で何が起こっているのか理解出来ず、うろたえる私をよそに、裸になった木はゆっくりと倒れていく。
 そして、闇に溶けた。
(嘘ぉ……、え、何が起きてるの?)
 またひとりぼっちになったプラちゃんの顔は、さっきよりも哀しそうに見えた。

(つまりはあの光をプラちゃんに渡して、プラちゃんを生かす代りに、自分は死ぬってことなのかな……)
 観察を続けながら、私は考えた。あくまでも推測に過ぎないが、あの玉がこの世界で重要な存在であることは間違いないだろう。
(あ、また来た)
 今度は視界の左側から新たな木が現れた。
 この木も、茶色い葉を揺らしている。
(元気の無い木が、光を託しに来てるとか? じゃあさっき一回暗くなった後も、見てない間に同じことが起きてたのかな)
 木はゆっくりとプラちゃんに近付いて行く。
 そして、先ほどと同じように光の玉を飛ばすと、枯れて、倒れた。
(やっぱり……これはこの世界で当たり前のことなのかな? それとも、太陽とかがなくなっちゃって、仕方なく、とか?)
 プラちゃんの頭上の玉は、また少し大きくなった。
 しかし、時間が経つにつれ、徐々に縮んでいるようにも見える。このままだと、また世界は闇に包まれてしまうのかも知れない。
(何とかしてあげたい……でも、だめ……ああ、どうしたら良いの? ただ見てることしか出来ないなんて)
 夢中になっていた私は、いつの間にか穴に指を掛けていた。
(ああ、もう、こんなことなら見なければ良かった。何もしてあげられないなんて)
 穴に掛けた指にぐっと力が入る。
 すると突然、穴がぐんと拡がった。。
(えっ)
 何が起きたのか理解するより早く、穴はどんどん拡がっていく。
 
 ふっと、体が宙に浮く感覚。

 そして、私は穴の中へと落ちていった。

   3

 気がつくと、視界は光に包まれていた。

 体は宙に浮いたようにふわふわとしている。

 何の匂いもしない。

 何の音も聞こえない。

 見えない。

 何も、わからない。

(いったい……何が起きて……)

 一瞬のような、永遠のような時間が流れる。
 もしかしたら、時間というものが無い世界にいるのかも知れない。
 閉じているのか開いているのかわからない視界が、徐々に闇へと包まれていく。
 つま先が、何かに触れる感覚。
(……着い、た?)
 私は、どうやら閉じていたらしい眼をゆっくりと開いた。
 初めは真っ暗で何も見えなかったが、だんだんと慣れてくる。
(ん? 誰かい……る)
 目の前には、プラちゃんの顔があった。
「っ、う、わあああ!」
 思わず叫んでから、慌てて口を閉じた。
 プラちゃんは驚いたような表情でこちらを見ている。今まで閉じているところしか見ることが出来なかった眼は、今はぱっちりと開かれている。瞳はきれいな緑色だ。私のことが見えているのだろうか。
(ど、どうしよう。こっち側に来ちゃったよ。これ、やばいよね? これやばいよねえ!)
 私は頭を抱えたポーズで固まってしまった。
(ええっと……あ、ダメだ。完全に真っ白だ。何にも考えられない)
「あ、あの……」
 ノープランのまま声を掛けてみたが、プラちゃんは無反応だ。もしかしたら聞こえていないのかも知れない。
(耳は、付いてないんだったっけ……。何かフィルターでもかかってるとか? ああもう、考えろ、私。こういうときはどうする? こういうときは……)
「えっと、あの、初めまして」
 取りあえず笑顔で頭を下げてみた。たぶん、かなり引きつった顔になっているだろう。しかし、何もしないわけにはいかない。とにかく、言葉が通じないならばジェスチャーしかない。
 プラちゃんは、ただじっとこちらを見つめている。私のこの必死の思いは伝わらなかったらしい。もしかしたら、笑顔は逆効果だっただろうか。そういえば、昔テレビで『笑顔は動物でいう威嚇の表情が変化したもの』というようなことを聞いた記憶がある。
(と、取りあえず敵意が無いことを示さなきゃ。でも、ジェスチャー伝わるのかな? プラちゃんたちに身振り手振りで表現する習慣なんてあるの? ああ、もうわかんないよ!)
「ええっと、ええっと、あの、私は、あの、その……」
 混乱する頭を必死にひねってみたが、何のアイデアも浮かばない。
 そもそも、私はこういう咄嗟の対応が苦手だ。人付き合いが下手、というほどでは無いが、急に話を振られたりするとついつい慌ててしまう。そのせいで、就職活動の時は面接で非常に苦労した。
(上に穴があって見てました、とか言ったら逆効果かな。やだよね、何かほら、ストーカーみたいでさ。つか、やだ、私マジで変態みたいじゃん。と、とにかく、味方だって伝えないと……)
「えっとね、あ、そうだ、その頭の上の玉!」
 頭上にある光の玉を指さすと、プラちゃんの表情がぴくりと動いた。
 改めてよく見ると、プラちゃんの高さは、私の身長と数十センチ程しか変わらない。思いっきりジャンプしたら、光の玉に手が届くかも知れない。やらないけど。
「そう、それ。あの、プラちゃんたち暗くて困ってるんでしょ? あ、いや、困ってるのかなあって思って。だから、その光の玉をね、こう……何とかしてあげられたらなって……」
 私は両手を広げて、玉を大きく膨らませるような仕草をした。
 すると──、

「う、わわわわわ! 嘘! マジ? どうしたの!」
 なんと私の手の動きに合せて、光の玉が巨大化し始めたのだ。
「わ……眩し……」
 今まで真っ暗だった分、眩しくて何も見えなくなる。私は眼をぎゅっとつむった。
 どこからか、木々がざわめく音が聞こえたような気がした。

 …………。

 どれくらいこうしていたのだろう。
 私はいつの間にか、うずくまって頭を抱えていた。
 おそるおそる、眼を開けてみる。
「……すごい」
 そこに広がっていたのは、何処までも広がる真っ白な世界だった。

「わあ、すごいすごい!」
 立ち上がって辺りを見渡してみる。
 闇に包まれていた部屋は、今は目映い光に照らされ、どこもかしこも真っ白に輝いている。あまりに白すぎて、ここがどれくらいの広さの場所なのかもわからない。少なくとも、数十メートル四方はありそうだ。
 足下を見ると、床はどうやら白い土のようなもので出来ているようだ。
 上を見てみると、巨大化した光の玉が浮いている。私は自分が落ちてきたはずの穴を探したが、見当たらない。ちゃんと帰れるのだろうかと、急に不安になる。
 きょろきょろと落ち着きの無い私の前で、プラちゃんはぽかんとした表情で私を見つめていた。周りには、同じ表情をした木々が幾つも佇んでいる。
(こんなにいっぱいいたんだ……)
 見える限りでは二十本以上いるようだ。遠くにいるものの大きさはよくわからないが、大きいものも小さいものもいる。葉の色は一様に茶色だが、だんだんと艶を増してきているように見える。この光のおかげかも知れない。
 木々の視線が、ふいに私へと集まる。そして、ゆっくりとこちらへ近付いて来た。
(え、何? ちょっと怖いんですけど……。根っこうねうねしてるし……)
 彼らは私から数メートル離れた位置に、輪になって並んだ。こちらを見る眼はきらきらとしている。喜んで、いるのだろうか。
「ええっと……」
 どうしたものかと私が手を挙げた瞬間、木々は激しく一斉に枝を揺すり始めた。表情を見る限りは怒っている訳ではないようだ。
「わ、びっくりした。何? もしかして感謝されてるとか? あ、どうも、どうも」
 私はへらへらと頭を下げた。
 その時、プラちゃんが私の方へ一歩近付いて来た。笑った顔が、ものすごく可愛い。
(やだあ、超可愛い! やっぱり女の子は笑顔だわあ……)
 未だへらへらと情けない表情を浮かべている私に向かって、プラちゃんが手を伸ばすように枝をこちらへと差し出した。その先には、小さな光の玉が浮いている。
「えっと、もしかして、くれるの?」
 私が自分と玉とを交互に指さすと、プラちゃんはうなずくように葉を揺らした。
「じゃ、じゃあ……お言葉に甘えて……」
 手を差し出すと、光の玉はふわりとこちらへ飛んできた。大きさは、手の平より少し大きいくらい。少し温かくて、安心する明るさだ。
「あ、ありが……」
 私が感謝の言葉を言い終わる前に、突然、また視界が光に包まれた。
「眩しっ……。もう、何なのよう!」
 体がふわりと浮く感覚。
(あれ、もしかして、もうおしまい? ええ、まだ帰りたくない。もうちょっとだけ……)
 先ほど「帰れないかも」と不安に感じたことも忘れて、私は名残惜しい気持ちでいっぱいになった。
 しかし、思いとは逆に体はどんどん浮き上がっているようだ。
 眩しさに耐えながら眼を開くと、そこには遠ざかるプラちゃんたちの姿があった。

 次に眼を開くと、私は自分の部屋の中にいた。
 ぺたんと座った姿勢のまま辺りを見渡す。間違いない、自分の部屋だ。
(……夢?)
 しかし、どうやら夢ではなかったようだ。
 その証拠に、手の中では──、
「持って、来ちゃった……」
 あの光の玉が輝いていた。
2, 1

  

第三話

   1

 私の手から離れると、光の玉はふわりと浮いて目の前に制止した。
(どうしよう、持って帰って来ちゃった、これ。あ、でも、もらったんだからかまわないか……、って違う違う、そういう問題じゃないってば)
 取りあえず玉に手を伸ばしてみる。
 玉はふわりと動き、指先から数センチのところで制止した。何度やっても避けられてしまう。触ることは難しいようだ。
 私は両手で包み込むようにして、無理矢理玉に触れてみた。
 温かい。しかし、感触はない。
(ママに見つかったらまずいよね。どこに隠す? あ、そうだ! 返せば良いんだ!)
 座った姿勢のまま、私はプラちゃんの穴の方を見た。
(……あれ?)
 私の記憶が確かならば、その穴はさっきまでよりも小さくなっているように見えた。
 四つん這いの姿勢になり、穴に顔を近づけてみる。やはり、数ミリ縮んでいるようだ。
(どういうことだろう?)
 首を傾げながら、私は穴の中を覗いた。
 そこには、こちらを見上げるプラちゃんたちの姿があった。皆一様に笑顔で、枝を揺らしている。どことなく、祈るような動きに見えた。
(こうやって改めて見てみると、けっこう色んな顔があるなあ。若いのからおじさん、おばさんまで……しっかし、すごい感謝してくれてる。何かちょっと、神様にでもなった気分……)
 もう少しよく観察しようとしたが、穴が縮んだせいで今までよりも見える範囲が狭い。姿勢を変えて試してみるが、上手くいかない。
(もう……、どういうことなのよ)
 その時、背後でガチャリと扉を開ける音が聞こえた。どうやら鍵をかけ忘れていたらしい。
 しまったと思い振り返ったが、時すでに遅し。そこには母がこちらを見て立っていた。
「あんた、何してんの? カーペットはいで、四つん這いになって」
「あ、いや、これはね、違うの」
「何が違うの?」
「あのね、この穴はね……」
「穴? あんた床に穴空けたの?」
 母は怒った様子でこちらに向かってくる。
 私はなすすべもなく部屋の隅へと追いやられた。
 床の上の穴を探す母を見ながら、私は観念した。
(どうしよう! 穴がみつかっちゃった……)
 母の視線の先には、ばっちりと穴が空いていた。
 しかし次の瞬間、母の口から飛び出したのは意外な言葉だった。
「どこ? どこに穴があるのよ」
(あれ? 見えて、ない?)
 穴を目の前にしたまま、母は未だ床の上をきょろきょろと見渡していた。
「あんた、この厚紙は何よ」
「あ、それは……」
「これで穴を隠してるの?」
 言いながら母が洞窟の穴に蓋した厚紙をはがした。
「……何にもないじゃない」
(やっぱり見えてないんだ!)
「あ、あのね、嘘。穴とか嘘だから」
「嘘? ほんとに嘘なんでしょうね?」
「うん、嘘。本当に嘘」
 私は必死に頷いてみせた。
「まったく……、じゃあこの厚紙は何よ。何? 何て書いてあるの……?」
「あーあーあー、いいいから、いいから。気にしないで、単なる冗談だから」
「冗談って……、もう。こんなのはがしておきなさいよ。床が痛むでしょ」
「ははは……ごめん」
 母はまだ少し怒っているようだったが、ひとまず私は薄い胸を撫で下ろした。
「そろそろ夕飯だから、降りてきなさい」
「え、もうそんな時間?」
 慌てて時計を見ると、もう七時を回っていた。
 買い物から帰って、観察を再開したのが二時前。いつの間にか五時間以上経過していたことになる。確かに夢中で観察してはいたが、こんなに時間が経っているとは思わなかった。もしかしたら、穴の中の時間はこちらと違う早さで流れているのかも知れない。
 そんなことを考えていると、ふいに目の前が明るくなった。
(ん? 何か、眩し……って、うわ!)
 なんとあの光の玉が母の目の前に浮いていた。
「何よあんた、ひとの顔見て驚いて」
 どうやら、これも母には見えていないらしい。
「あ、いや、思い出しびっくり。これ思い出しびっくりだから」
「……バカじゃないの?」
 捨て台詞と共に、母は部屋から出て行った。

(そうか、穴は私にしか見えないのね)
 食事から戻った私は、さっそく先ほどの出来事をノートにまとめ始めた。
 まず、大きくわかったことは二つ。
 一つ目は『穴の中に入ることが出来る』ということ。
 二つ目は『穴は私にしか見えない』ということだ。
 さらに一つ目に関しては、穴の中には入れるだけでなく、その世界の住人たちとコミュニケーションを取ることも可能とわかった。
 そして二つ目に関しては、中から持ち帰ったものも私にしか見えないとわかった。
(これはすごい進展だぞ)
 私は高鳴る胸を押さえながら、私はベッドの対面にある机に向かうと、夢中でノートにプラちゃんの似顔絵を描いた。
(ちょっと待てよ……)
 ふと思って、ペンを止めた。
 妖精さんの穴にマッチを落とした時のことを考える。
 あの時、マッチの炎はあり得ないくらい燃え上がった。そして、こちらの世界とでは違う物理法則があるのではと推測した。
 では、今ここにある光の玉はどうか。私の世界において、何かおかしな働きをしないだろうか。
(考えてみれば、危険かも知れないよね……、いきなり爆発したりとか?)
 今のところ、見た目に異常は感じられない。さっき触れた時も、ほんのり温かかっただけだ。
(ちょっと怖くなってきた……。温度を感じるってことは、実際にこちらの世界に存在して、影響を与えてるってことよね。あれ、でもこれ……)
 光に手を近づけてみる。すると、確かに目には光が届いているのに、手は照らされていない。つまり、この光は私の目にしか届いていないということか。
 試しに電気を消してみる。
 闇の中に浮かぶ玉は眩しく輝いているが、辺りは闇のままだ。
(でも向こうの世界では、真っ暗な中のプラちゃんたちを照らしていたよね。ううむ。わからん)
 科学や数学は小さい頃から不得手だ。私は生粋の文系女子だ。
 ひとまず考えることをやめ、玉を観察することにした。
(きれいだなあ……)
 よく見ると、シャボン玉のようにうっすら色が変化している。その形はきれいなまん丸で、ふわふわと頼りなげに浮かんでいるくせに形が崩れることはない。
(これ、このままにしておいて良いのかな。どっかにしまった方が良いかな。でもなあ……、何か使い道ないかなあ、これ)
 私はペンを置くと、大きく伸びをした。それから立ち上がると、特に考えもなくカーペットをめくってみた。
(そういえば、さっきプラちゃんの穴、縮んでいたような……)
 プラちゃんの穴の位置を見てみる。
(……ない)
 床にある穴を数えてみると、全部で四つ。
 プラちゃんの穴は、きれいに塞がっていた。

   2

(え、どうして? どうして穴がないの)
 もう一度、床の上に空いた穴の数を数えてみる。しかし、何度数えても四つしかない。プラちゃんの穴だけが、きれいさっぱり無くなっている。
 残った穴の大きさを確認してみる。今のところ、変わりないように見える。念のため、ピンクちゃんの穴の大きさを定規で測ってみた。2センチ弱といったところか。
(どういうことなんだろう……)
 私はひとまずカーペットを元に戻し、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。
 少しだけ、頭痛がする。小さな穴を覗く作業はけっこう疲れるのだ。
(うーん、プラちゃんの穴、塞がっちゃったんだなあ……、残念。あ、もしかしてお悩み解決したから塞がったとか? そうだ、絶対そうだ。ちょっとゲーム脳過ぎるかも知れないけど、それなら納得だよね……ってことは)
 私は横目に床を見た。カーペットの下には未だ四つの穴が空いている、はずだ。
(つまり、残りの穴も解決して欲しい悩みがあるってことなのかな……)
 その場合、妖精さんの悩みはわかるとして、ピンクちゃんやあの洞窟の世界の悩みを、果たして私は理解することが出来るのだろうか。
 ピンクちゃんについてはそれなりの時間をかけて観察をしたが、そもそも本当に生き物なのかどうかさえわからなかった。もしかしたらロボットかも知れないし、或いはただのでっかい毛玉かも知れない。
(難易度高すぎるだろ……。そういえば残り一つの穴、まだ覗いてなかったな)
 私はのそのそと起き上がると、ゆっくりとカーペットをめくった。
 最後の穴は、ピンクちゃんの穴から右手に10センチほど離れた位置に空いている。
 四つん這いになり、穴に顔を近付ける。
(何か覗いちゃうのもったいない気がするけど……、ええいっ)
 私は思い切って、右目で穴を覗き込んだ。

 その世界は水の中だった。
 青い視界がきらきらと歪む。
 視線のずっと先には真っ白な砂地が見える。どれくらい深いのだろう。わからない。
 砂地には、不思議な色をした海草のような植物が一本だけ揺れていた。
 他に生き物は、見当たらない。
(きれい……)
 私は思わず、この光と青とが織り成す幻想的な光景に見とれてしまった。
(魚とかいないのかな。こんなきれいな所なら、人魚くらいいてもおかしくないかも……あ、でもここ海なのかな? それとも湖? ううん、もしかしたらそれ以外かも……)
 目を凝らしてみるが、今のところ海草以外の生き物は見当たらなかった。
(洞窟といい、ここといい、生き物がいないのはちょっとつまんないな……、きれいだけど)
 その時、視界の奥、左手側から右手側へ大きな影がさっと横切った。
(うわっ、なになに、何今の?)
 よく見えなかったが、それはまるで大きな人間のようだった。
(うそ、人? 巨人?)
 思わぬ展開に、胸がどきどきして痛いくらいだ。
 私はいったん穴から顔を離し、深呼吸をした。
(怖かったあ……)
 呼吸を整えながら、先ほどの映像をまぶたの裏に映してみる。
 あれは、確かに人間に見えた。
(人間がいるってことは、私と同じこの世界の景色なのかな? いや、早とちりは良くないぞ。宇宙には知的生命体がいるであろう星が、地球以外にも無数あるとかいうし、人間に似た生き物がいたって全然おかしくないよね。それに、ヒト型の生き物なら、きっとコミュニケーションも取れるはず。仲良くなれるかも)
 そこまで考えて、はたと思う。
 人間に似た生き物だからといって、果たしてコミュニケーションが取りやすいとは限らないのではないだろうか。
 例えばプラちゃんの穴の時と同じように、私があの世界へ行ったとする。その場合、あの巨人からすれば、見知らぬ人間が突然部屋の中に現れるということになる。部屋に知らない人が入ってきたら誰でも怖いだろう。人外のものでも充分怖いが、何というか、怖さの質が違う気がする。虫や動物ならば、いざという時こちらから攻撃するのにあまり気はとがめないが、人間相手では躊躇してしまう。殴り合いのケンカなどしたことはないが、たぶん殴られて殴り返すのだってかなり勇気がいるはずだ。それに侵入者が動物や虫の場合、こちらが攻撃しない限り、お腹を空かせた熊でもなければ、危害を加えてこない可能性もある。ただ迷い込んだだけかも知れない。しかし、侵入者が人間の場合、何らかの危害を加えてくる可能性の方が格段に高いだろう。ただ迷い込んだだけなんて考えられない。つまり、プラちゃんたちも私を見て驚いていたが、巨人はそれ以上に驚くかもしれない、ということだ。下手にコミュニケーションを取ろうとすることは、今までの世界以上に危険なことかも知れない。
(もうちょっとだけ、覗いてみるか……)
 覚悟を決めて、私は再び穴を覗いた。
 改めてよく見ると、どうやらここは水槽の中のだったようだ。
 先ほど影が横切った辺りに、透明な壁があることが微かにわかる。
 左右の壁は視界の中には見当たらない。
(すごい深いように見えるけど、もしかしたらあの海草が小さいのかも)
 しばらく観察を続けたが、巨人の影も、他の生き物の姿も現れなかった。
 私はひとまず観察をやめ、『水槽』と書いた厚紙を穴に貼って蓋をした。
(この世界も、何か助けを求めてるのかな……)
 ベッドに横になり、プラちゃんの穴での出来事を思い返してみる。
 私は確かにあの世界を救ったのだ。
 夢ではない。
 その証拠に、今でもあの光の玉は私の頭上で輝いている。
 玉に手を伸ばしてみる。
 温かい。
(これで、妖精さんをあっためてあげられないかな……)
 そんな考えが頭を過ぎった。
 自分のしてしまったことは消せないけれど、せめて罪滅ぼしがしたかった。
 あの時は何も考えず、浅はかな行動に出てしまった。もっとよく観察し、穴の向こうの世界で何が起こっているのか、何をするべきなのかを見極める必要がある。
 プラちゃんの穴では、充分な観察が出来ていたわけではない。結局のところ棚ぼた的に解決しただけだった。
(妖精さんの世界は何とかしてあげたいけど、たぶん、今の私じゃ力不足だよね)
 よいしょ、と勢いよく起き上がる。
(もっとレベルアップしないとね)
 立ち上がり、カーペットをめくる。
 空いている穴は残り四つ。
 ピンクちゃんの穴と妖精さんの穴、洞窟の穴と水槽の穴だ。
(まずは経験値を稼がなきゃ。地道な観察を続けよう)
 時刻は夜の十時。まだ眠るには早すぎる。
 取りあえず、どの穴を覗こうかと考える。
(ピンクちゃんは難易度高すぎるし、妖精さんは……まだ、やめとこう。そうなると洞窟か水槽だけど……ううん、どっちもなあ、微妙)
 私は二つの穴を見比べた。
(あれ?)
 そこで気がついた。
 どうも水槽の穴の方が少し大きいように思える。
 近寄って、定規を当ててみた。
 水槽の穴の直径は3センチ。
 見間違いではない。やはり他の穴より若干大きい。
(あれえ、最初から? いや、たぶんどれも同じ大きさだったと思うけどなあ……)
 他の穴の大きさも測ってみる。三つとも2センチ弱で同じ大きさだ。
 先ほど覗いていた時に違和感はなかった。
 ということは、つまり横になっていたこの十分程のうちに拡がったということか。
(これは……どういう意味だろう。どんどん拡がっちゃったりしないよね? このまますごい大っきくなった場合、家具とか穴に落ちちゃったりするのかな……、それは困るぞ)
 しばらく、距離を保ったまま水槽の穴を見つめる。
 目に見えての変化はない。
(取りあえず……覗いてみるかあ?)
 思わずつま先立ちになりながら穴に近付いた。
 ゆっくりと四つん這いになる。
(急に大きくなったりはしないよね……)
 穴に顔を寄せて中を覗き込んだ。
 拡がった分、先ほどよりも視界が広い。
(奥に……誰かいる。一人? 二人? あの巨人かな?)
 人影は水槽の壁から少し離れた位置にある。顔の角度を変えてみたがよく見えない。
 穴の反対側に回り込み、改めて観察してみる。先ほどまで手前に位置していた側に壁は見えない。左右も同様だ。思っていたよりも、この水槽は広いのかも知れない。
 体の向きを微妙に変えながら中の様子をうかがう。やはり、生き物は底に生えたあの植物だけのようだ。小魚どころかプランクトンさえ見えない。
(焦らない、焦らない。とにかくじっくり観察を続けよう)
 私は心の中で拳を握り、「頑張るぞ」と呟いた。
 夜は、まだ始まったばかりだった。

   3

 三日が経った。
 その間、地道に観察を続けたものの大した収穫はなかった。
 わかったことといえば──、
(あの海草、絶対成長してるよね……)
 水底に揺れる不思議な色の植物は、最初に見た時と比べると、太さも高さも倍近くに成長していた。気がついたのは今朝になってからだ。徐々に成長していたのか、昨夜の内に急成長したのか、それはわからなかった。
(こんなに集中して見てたのに……節穴だなあ、ほんと)
 私は自分の頭を小突いた。
(さて、他に何か変わったことはないかな)
 四つん這いのまま穴の周りをぐるぐる回り、角度を変えながら観察する。いつの間にか、こんな虫のような動きが上達してしまっていた。
(おや?)
 視界の奥で何かが動く。影のようだ。どうやら、あの巨人たちが集まってきているらしい。影は一つ二つと増えていき、次第にその姿を顕わにしていく。
 ガラスのような透明な壁に張り付いたその姿は、まさに人間そのものであった。
(人だ! やっぱり人間のいる世界だったんだ。ああ、声が聞こえれば良いのになあ)
 念のため穴に耳をつけてみるが、やはり何も聞こえない。
(何だろう。何をしてるんだろう。もしかして、あの植物を見てる?)
 植物を見つめる巨人たちの顔は、どことなく驚いているように見えた。
 憶測に過ぎないが、この水槽はあの植物を飼育するためのものなのかも知れない。
 今は三人の巨人が、植物を見ながら何か話し合っている。
(ううん、あの植物がこの世界の悩みの種なのか? 見てるだけじゃわからないよなあ……中に入って、直接話せれば良いのに……)
 危険な考えが頭を過ぎる。
(……中に、入ってみようかな。いや、危ないよね……でも、ちょっとコミュニケーションを取るくらいなら、大丈夫じゃないかな)
 心の中では天使と悪魔が戦っていた。
 入って戻れる確証もない。生きて帰れる保証もない。
 しかし、楽観的な私の本能は「ちょっとくらいなら大丈夫だよ」と言っている。まったく、警戒心というものが足らなさすぎるだろう。
(さて、どうしようか……)
 ひとまず穴から顔を離す。ずっと目を凝らしていたから、また頭痛がしている。
 立ち上がり、間抜けな声を出しながら伸びをした。
(んー、よし、悩んだら保留だ保留。時間ならいくらでもあるしね。こういう時のためのニートですよ)
 我ながら意味不明なことを考えながら、飲み物を取りに行くべく、私は階下へと向かった。

 リビングでは母がソファに横になってテレビを見ていた。
 私は特に声もかけず、冷蔵庫のドアを開けた。
 コーラを手に取り、キャップを捻る。プシュという音が耳に心地良い。やっぱり夏は、炭酸だ。コップに氷を入れ、コーラを注ぐ。口を近付けると、弾ける泡が涼しかった。
「太るわよ」
 母がこっちを見もせずに言う。
「これ、カロリーゼロだから」
「太る時は太るのよ」
 意味のわからないことを言う。言い訳が下手なところは親譲りな訳だ。
「……あんたさあ」
 コップとペットボトルを携えて部屋に戻ろうとした私の背中に、母が声をかける。
 私はソファの方へと向き直る。
 母は先ほどまでと変わらず、横になったままの姿勢だ。
「なに?」
「……今日、夕飯作りなさいよ」
「いいけど……、何作れば良い?」
「まかせるわ」
「あっそ」
「……」
「それだけ?」
「……ご飯は炊いとくから」
「了解」
 私は冷蔵庫の中身を思い出しながら、階段をゆっくりと上った。

 部屋に戻った私を出迎えたのは、さらに一回りほど大きくなった水槽の穴だった。
(おいおい……、これは悩んでるヒマなんてないぞ)
 手にしていたものをサイドテーブルの上に置く。
 時計を見ると、時刻は二時過ぎ。夕飯の支度は六時を過ぎてから始めれば大丈夫だから、観察する時間は充分あるように思える。
 しかし、問題は穴の中に入った場合こちらの時間がどう流れるかということだ。前回プラちゃんの穴に入った時、記憶が無い部分もあるからはっきりとはいえないが、部屋に戻ると、自分が思っていたよりも時間が経過していた。あの時は大した差ではなかったが、他の穴の中もそうとは限らない。行って戻って来たら何日も経っていた、なんてことになったら洒落にならない。
(でもそこは試しようがないもんな……うう、考えたら怖くなってきた。とはいえ、このまま放置してたら床が抜けちゃうもんなあ……)
 ひとまず、穴の中を覗いてみることにした。
 穴の直径は5センチ近くまで拡がっている。
「おおっ」
 中の景色を見た私は、思わず驚きの声をあげた。
 あの不思議な色の海草は、穴に届きそうなまでに成長していた。
 姿形も大きく変化している。まず色は、今まで何とも形容しがたい色だったが、今ではピンク色に落ち着いている。そして近付いたおかげでよく見えるようになった表面は細かい毛に覆われているようだ。高さははっきりとわからないが、太さはこの穴の倍ぐらいありそうだから十数センチといったところか。こうして見ると、海草というよりは動物のしっぽのようだ。水のうねりに合せて、ゆらゆらと揺れている。
 水槽の外では、数人の巨人が集まって話し合いをしているようだ。
(なんなんだ、これ? 怪獣? いったいこの世界の悩みって何なんだろう。どう考えてもこのしっぽみたいなのが問題だよね。これが襲ってくる? それとも特効薬の材料とか? ああもう、見てるだけじゃわかんないよ)
 とはいえ、穴の中に入ることも怖い。
(どうする、どうする……どうするあたし!)
 穴の縁にそっと指を掛ける。
(……よし、行くだけ行ってみるか! すぐ、すぐに戻れば大丈夫なはず!)
 私は根拠のない自信と抑えきれない好奇心に背中を押され、穴を指でぐいっと拡げた。

(……まただ)
 プラちゃんの穴に入った時と同じ浮遊感。
 五感が閉じられ、快も不快もない。
 足先が何かに触れる。着いたのだろうか。
 私はゆっくりと目を開けた。
「あ、どうも」
 目の前には巨人達──いや、近くで見たら私と変わらないぐらいの大きさだった──に軽く頭を下げて挨拶をする。彼らの見た目は完全に人間と同じようだ。材質はよくわからないが、白衣のような服を着ている。ここは研究所なのだろうか。無論、その推測も『この世界』と『私の世界』の文化が同じでなければ意味がない。
 さて、ここからが問題だ。
「ええっとですね……」
 見えてはいるようだが、声は聞こえていないようだ。この水槽のせいかも知れない。
(そういえば、あたし水の中にいるんだよね? 普通に息できてるけど……ああ、いやそんなことは良いから)
 私は背後で揺れている海草──もとい『しっぽ』を指さした。
「あの、しっぽを、ええと……取り除きたい?」
 必死にジェスチャーで伝えようとするが無反応だ。
「じゃあ……あの、しっぽが、襲ってくる?」
 巨人──もとい『研究員』の一人が首を横に振る。否定の意味だろうか。
「じゃあ……ああもう、結局勢いで来ちゃったから……、バカだなあもう!」
 その時、研究員達が一斉に水槽から離れた。そして遠くへと走り去る。
「ああ、ちょっと待って。私は怖くないから……」
 しかし、声が届くはずもなく、研究員達は一人もいなくなってしまった。
「そんなあ……」
 仕方がないので、私は研究所の様子を観察することにした。
 壁や天井、床は金属のような質感の材質で作られている。色は銀というよりは灰色か。
 照明器具がどこにあるのか、辺りは幻想的な青い灯りで照らされている。
 フロアには数十の机と椅子。さっきはそんなにいなかったようだが、どうやら相当な人数の研究員がいるらしい。机の上には書類やファイルが散らかっている。
(ううん、本当によく似た世界……もしかして、パラレルワールドとか? いくらなんでも人間に似過ぎだよね)
 水槽の中もよく見てみようと振り返った。
 するとそこには、激しく蠢くしっぽの姿があった。
「え、え、え。ちょっと待って。待って、怖いから。わ、わ、わ」
 焦る私の気持ちを知ってか知らずか、しっぽはその動きをさらに激しくさせる。
 動く度に、数メートルはあった体がだんだんと縮んでいく。そして、その分太さはどんどん増していく。
(あれ……これって……)
 数十秒ほどで、動きは止まった。
 今や私と変わらないくらいまで縮んだその姿は、まさに──、
「ピンクちゃん!」
 私の目の前で、ピンク色の毛玉が揺れていた。
第四話

   1

「ピンクちゃん!?」
 私の目の前でフルフルと揺れるピンク色の物体。それはまさしくピンクちゃんそのものだった。ゆっくりと、こちらへ近付いて来ている。
「えっと、うわ、どうしよう。そうだ、いったん帰ろう! って、どうやって帰るんだ!?」
 上を見るが穴はない。
 そういえばプラちゃんの穴からは、その悩みを解決したら勝手に部屋へと戻された。
(もしかして解決するまで戻れないの? ああもう、それぐらい想定してろよ自分!)
 ピンクちゃん二号はどんどん近付いて来ている。
「ちょっと、ちょっとストップ!」
 私は両手を前に突き出した。
 すると、思いがけないことが起こった。
 ピンクちゃん二号の体がみるみる小さくなると、野球の球程度の大きさまで一気に縮んだ。そして、私の元へとすごい早さで飛んできたのだ。
「え、え、え」
 飛んできた球は、私の手の数センチ前で停止した。
 ふわふわと浮いている様子は、あの光の玉に似ている。
(……どうしよう、展開が早すぎて、全く状況が飲み込めない)
 しかし、これで終わりではなかった。
 両手を突き出した姿勢で固まる私の体が、突然光に包まれたのだ。
 そして、体が浮き上がる感覚。
(うそ……、これってもしかして……)
 眩しくて思わず目をつむった。意識が、遠くなっていく。

 気がつくと、自分の部屋の中にいた。
 ここは慌てず、取りあえず時計を見る。
 二時半過ぎ。
 どうやら水槽の中の世界は、そこに住むものだけでなく、時間の流れもこの世界と似ていたようだ。
 目の前に空いている水槽の穴を見る。
 穴はいくらか縮んでいるように見える。ということは、あの世界の悩みは解決されたということだろうか。覗いて確認する気力は、今はない。
 座り込んだ姿勢のまま、部屋の中を見渡す。
 案の定、頭上にはあの光の玉と──、
「ああ、ピンクちゃん二号……我が家へ、ようこそ……」
 泣きたいような、笑いたいような気分だった。

「さて」
 気を取り直して机に向かう。まずは状況整理だ。
 とはいえ、今回は展開が早すぎて、正直何もわからなかった。
(わからなかった、というより、永遠にわからない気がするけどね)
 穴は部屋に戻ってから十分程後、私がちょっと目を離した隙に塞がってしまっていた。
 これでは私の行為が正しかったのかどうかさえわからない。そもそも『穴の向こうの世界の悩みを解決すると穴が塞がる』というのは、私の勝手な憶測に過ぎないのだ。もしかしたら、今回ピンクちゃん二号を連れて帰って来てしまった結果、あの世界が滅んでしまったということも考えられる。
(何でもっと慎重に行動出来なかったのかなあ、もう……どうも穴を覗いてると、大胆になるというか、衝動が抑えられなくなるというか……)
 異世界を覗くという非日常的な行為が、自分から『現実味』を奪っているとも考えられる。そうでなければ、何かあの穴から麻薬のような物質が出ていて、自分の判断力を低下させているのか。どちらにせよ、私の力で解明出来るはずもない。今回の反省を踏まえ、もっと慎重に行動するよう気を付けるしか方法はない。
(まあ、やってしまったことはしょうがない。次気を付けよう、次)
 我ながら、なんと無責任な考えだろうか。楽観的なところは短所で有り、長所で有ると自覚している。
(で、今回わかったことは……)
 私は目の前を漂うピンクちゃん二号をちらりと見た。
 触れようとするとふわふわと離れていく。見た目だけでなく、動きも光の玉と似ている。
(わかったことは……、これを持って来ちゃったってことくらいだよなあ)
 私は机の上に広げていたノートを閉じると、椅子の背もたれに寄りかかった。
 ピンクちゃん二号と光の玉が、頭の上でくるくると舞う。
 そのダンスをぼんやりと見つめていた私の脳裏を、またも危険な考えがかすめる。
(これ、おっきくできないかな)
 プラちゃんの世界で私は、消えかけた光の玉を巨大化させることが出来た。
 もし今この自分の部屋の中で、ピンクちゃん二号のサイズを元に戻すことが出来たらどうだろうか。そうすればじっくり観察することが出来るし、もしかしたらコミュニケーションを取ることだって可能かも知れない。
 しかし、ピンクちゃんが凶暴な生物である可能性も考えなくてはいけないだろう。何といっても、あの水槽の世界で悩みの元凶となっていた生物なのだ。突然襲いかかってくるかも知れない。
(うう、怖くなってきた……いや、これくらい今までも考えないといけなかったんだよ)
 私は二つの玉をじっと見つめた。
 そこで、はたと思った。
 光の玉はおそらく無生物であろうが、ピンクちゃんはおそらく生物である。ということはつまり、何か食べたり飲んだりする必要があるのでは無いだろうか。植物だって陽の光と水が無ければ枯れてしまう。生物である以上、何も摂取せずにいられるはずが無い。このまま放置していたら死んでしまう可能性だってある。
(さて、どうしよう……水槽の中にいたくらいだから、水でも与えてみるか? でも、待って、あの世界の見た目は確かに水の中だったけど、本当にあれは水だったのかな? もしそうじゃないんだとしたら、うかつに水なんて掛けたら……)
 妖精さんの穴での悲劇を繰り返してしまうかもしれない。
 ここは安易な判断を避けるべきだろう。
(でも、どれくらいの間なら何も食べなくても平気なんだろ……、食べ物とも限らないよね。例えば人間から空気を奪ったら……、あっという間に……)
 最悪のイメージが頭に浮かぶ。
 目の前にふわふわと飛んでいるからといって、ピンクちゃん二号が生きている証拠にはならないのではないか。
(まずい、まずい。どうしよう)
 私に残された選択肢は三つ。
 ひとまず何もせずに観察を続けるか、水を与えてみるか、元のサイズに戻してみるかだ。
(この中で一番無難なのは……どう考えても何もしないことだけど……)
 私はピンクちゃん二号の方へ、そっと両手を伸ばした。
 手の動きに合せて、球はすっと移動する。
 頭の上で巨大化されては困るので、手を動かし、床の上へと誘導した。
 そして、視界の中に浮かぶその球を広げるかのように、ゆっくりと手を広げていく。
 すると、案の定、ピンクちゃん二号はみるみると大きさを増していった。
(ああ、やっぱりね。できちゃうんだ、私)
 苦笑いをしながら両手をいっぱいに広げた。

 目の前には元のサイズのピンクちゃん二号が佇んでいた。
 フルフルと震えるその様子は、穴の上から覗いていたものと全く同じだ。
 身長は私の肩くらいの高さだ。意外と大きい。
 横幅は私が両手を広げたのと同じくらい。
 ピンク色の毛はきらきらと輝いており、その化学線維のような質感は、毛玉というよりは子供向け番組の着ぐるみのような感じだ。あの赤い雪男から、目や口、両手足とプロペラを取ったような……、いやそこまでいくと別人か。
(でかいな……うーん、上から見ていた時みたいに可愛く感じない)
 むしろこの大きさには恐怖を覚える。
 声を掛けることも触れることもためらわれ、私は体を緊張させたまま、ただじっとピンクちゃん二号を見つめていた。
「──、────」
「え! なに? 今なんか言った?」
 突然、ピンクちゃん二号から音が聞こえた。何かしゃべったのだろうか。声というよりは、ゴムを弾くような音だった。
 耳を澄まして、さきほど以上に身を固くする。
 しかし、それきり何も聞こえてくる様子はなかった。
(……触ってみるか、声を掛けてみるか……)
「や、やあ、どうも」
 私はおそるおそる話し掛けてみた。
 私の声に合せて、ピンクちゃん二号はフルフルと揺れた。
(反応、した?)
 よく観察してみるが、どうやら声に反応したわけでは無いようだ。何もしなくても、フルフルと揺れ続けている。
(よし……触ってみよう)
 私とピンクちゃん二号との距離は1メートルほど。私はゆっくりと手を伸ばした。
 避けたり攻撃してきたりするかと思ったが、ピンクちゃん二号は予想外に無反応だった。
 手が体に触れる。
(こ、これは……超気持ちいいぞ!)
 その触り心地は筆舌に尽くしがたいほど素晴らしいものだった。
 柔らかくはかなげで、それでいて手にはしっかりと感触があり、温かくてつややかで……、いつまでも触れていたいと思ったが、何も起きないうちにと手を離した。
 ピンクちゃん二号は何事も無かったかのように、フルフルと揺れていた。
(……なるほど、わからん)
 私はここ十年で一番大きいと思われるため息をついた。

  2

 その後もしばらく観察を続けたが、もう声(?)が聞こえることも無く動く気配も無かったので、私はピンクちゃん二号を再び球にした。
 もしかしたら縮小は出来ないのではと少し不安だったが、手の動きに合せて、ピンクちゃん二号はあっさりと縮んだ。
 今はまた目の前で光の玉と戯れている。
(くそう、こんな近くで見てもわからんか。難易度高すぎだよ、ピンクちゃん)
 時計を見ると六時少し前。そろそろ夕飯の支度を始め無くてはいけない。
(はああ、夕飯、なににしよ。まあ良い気分転換にはなるか)
 キッチンへ向かおうと椅子から立ち上がった。
 するとピンク色の球が寄り添うように、私の後ろをついて来た。
 光の玉の方は部屋の外まではついて来なかったが、ピンクちゃん二号はずいぶん積極的なようだ。
(来なくていいってば)
 母には間違いなく見えないはずだが、父にはどうかわからない。それに見えないとわかっていても、食事中に目の前をふわふわされたら邪魔なことこの上ない。
 私は球が部屋から出ないように、上手く身をよじって扉を閉めた。
 しかし、
(こうきたか……)
 ピンク色の球は、まるでお化けのように扉をすり抜けた。
 
「あんた、何さっきからきょろきょろしてんのよ」
 ちょっぴり焦げている回鍋肉を口に運びながら母が言う。
 自慢ではないが、私は料理上手な方だ。
 しかし、今日はピンクちゃん二号が目の前をふわふわふわふわしているもんだから、ついつい焦がしてしまったのだった。ちくしょう。
 今も、目の前を漂うピンク色の球が邪魔で仕方がない。
「あ、ええと、何か虫飛んでない?」
「どこだ?」
 父が私を真似てきょろきょろとする。我が家の女性陣は虫が苦手なため、こういった時はいつも父の出番だ。
「あれ、気のせいかな?」
「マンガばっかり読んでるから、目が悪くなったんじゃないの?」
「そんな、小学生相手みたいな説教やめてよ」
「学校に行ってない分、お前の方が小学生より下だな」
 父は「ははは」と笑った。
 凍り付く食卓。
 正確にいえば、固まったのは私と母だ。
 私が現在ニートをしていることは、最近はあまり触れないようにしている。
「……仕事、探したりしてるの?」
 母が重い口を開いた。
 私は黙って首を横に振った。
 その様子を見てようやく気付いたのか、父はわざとらしく咳払いをした。
「別に、今すぐ働けって言ってるわけじゃないのよ? あんたも高校卒業してすぐ就職して、今までずっと頑張ってきたんだし。貯金だって、まだあるんでしょ? 家計費入れてくれてるんだもの、文句は言わないわよ。でもね……」
「わかってる」
「履歴書の『空白期間』っていうの? あんまり間空けちゃうと、さあ働くかってなった時に苦労するわよ。あんたもそんなに若くないんだし、結婚する予定もないんでしょ?」
「わかってるってば!」
 しまった、と私は口をつぐんだ。思ったより、大きな声が出てしまった。
 母はこちらをまっすぐに見て黙っている。怒っているのではないのがわかった。わかっている。私のことを心から心配してくれているのだ。
 父は父で、私のことを優しい目で見つめていた。父は、いつもこうだ。

 仕事を辞める、と両親に伝えた時、父は私にこう言った。
「職場でいじめられたのか!?」
 私が否定すると、父は一言、
「なら良い。ゆっくり休むのも、たまには必要だからな」
 と言った。
 怒られるだろうと覚悟していた私は、あまりに予想外な父の発言に、思わず笑ってしまった。そして、その夜。思い出して、嬉しくて、ちょっとだけ泣いた。
 こんな父を、ひとは過保護だ馬鹿親だと言うかも知れない。でも、私がいたずらをして友達を怪我させてしまった時、泣きながら頬を叩いてくれた父を、私は誇りに思ってる。

「ごめん……」
 謝る私の頭を、母が小突いた。
「あんたが働こうが働くまいが自由だけどさ」
「うん……」
「あんまり心配かけないでよね」
 その言葉は、私が仕事を辞めると言った時の返事と、まったく同じものだった。

 その後、父の必死の駄洒落により何とか食事の雰囲気は持ち直すことが出来た。
 親子げんかや夫婦げんかをした時はたいていこうして終わるのだ。
 我ながら、おもしろい家族である。
「ごちそうさまでした」
「ああ、洗い物くらいするわよ」
「良いって良いって」
 立ち上がろうとする母を手で制し、私は食器を持って立ち上がった。
 そろそろバイトでもしようかな、と少しだけ思った。

「ああ、邪魔くさかったあ」
 部屋に戻った私は、ピンクちゃん二号をまるでコバエのように払った。
 時刻は九時過ぎ。
 寝るにはまだ早すぎる。
 とはいえ穴を観察する体力も、今日はもう残っていない。
 しかし、マンガやゲームにはこのところ、いまいち魅力を感じなくなっていた。
 無理もない。穴の中の世界を覗いた方が、フィクションよりもずっと刺激的なのだから。
(さあて、どうしよっかな)
 私はごろんとベッドに体を投げ出した。
 引きこもってから半年ちょっと経ったが、最近お腹周りが緩んできている。運動しなくてはと思うのだが、ついつい面倒くさくて、結局何もせずにいた。そもそも運動音痴な私が、痩せるために運動なんて出来るはずもないのだ。自慢じゃないけど。
(んー、じゃあせめて今後の作戦でもたてるか)
 残りの穴のことを思い浮かべてみる。
 今、床に空いている穴は三つ。
 おなじみピンクちゃんの穴と妖精さんの穴、そして洞窟の穴だ。
(それぞれの穴についてわかってることは何かな)
 まずピンクちゃんの穴については、何もわからないに等しい。ずいぶん観察したし、ピンクちゃん二号は目の前にいるのだがそれでも何もわからない。
(これほどわからないってことは、理解しようとしても無駄なのかもな……)
 そんな風に、少し諦めの気持ちがわき上がってきていた。
 次に妖精さんの穴だが、ここの悩みはおそらく『寒さ』だろう。まだ『穴初心者』だった頃の観察結果なので自信はまったくないが、今のところそれ以外には考えられなかった。
(また、よく観察してみなきゃね……)
 心の中でそう誓った。
 最後に洞窟の穴だが、こここそ何もわかっていない。
(まあ、そこまでじっくり観察してないしね。よく見たら、意外と楽勝だったりして)
 などと甘い考えが浮かんだが、すぐに自ら否定する。
(いかんいかん、そんな夢みたいなこと、ないない。こういう考え方が一番危険なんだってば)
 自分の頬をぺちぺちと叩く。
 少なくとも、今が夢の中でないことははっきりとわかった。

(さて、これを考えるに、次することは……)
 上半身だけ起こして腕組みをする。ちゃんと考えなくてはいけない時には、考える姿勢を取ることも重要だ。ベッドから降りればなお良いが、エアコンに冷やされたお布団が非常に気持ち良いのでそのままとした。
(やっぱり、ピンクちゃんの穴かな)
 ピンクちゃん二号を見てから、私の中に一つの仮説が浮上していた。
 もしかしたら、穴の向こうのピンクちゃん(一号)は、行方不明になった二号を探しているのではないだろうか。
 こうして穴を通してあちら側を見ることが出来るのだから、偶然穴を通り抜けて別の世界に行ってしまうことがあってもおかしくない。つまり神隠しというやつだ。
(ううむ、我ながら素晴らしい洞察力じゃない? これは当たりでしょう)
 そう考えると、さっきまでの疲れは何処へやら、急にやる気が湧いてくる。
 しかし、ここで勢いでピンクちゃんの穴に入っては今までの反省が何も活かされない。
 まずは観察、である。
(よし、取りあえず今は覗くだけにして、中に入るのは明日以降にしよう。成長したなあ、私。計画的でえらいぞ)
 自分で自分を褒めながら、私はカーペットをめくった。
 穴の数は三つ。今のところは、また増えてはいないようだ。
 すっかりお馴染みの四つん這いポーズになって蓋をはがし、私はピンクちゃんの穴に顔を近付けた。
(見るだけ、見るだけ)
 顔を傾けて、右目で穴を覗こうとしていると、薄く開けた左目の視界にピンクちゃん二号がふわりと近付いて来た。
(ああもう、邪魔しないでよね)
 その瞬間。
「えっ!?」
 触れてもいないのに突然穴が拡がり、私の体を飲み込んだのだった。

   3

 この感覚は三度目だ。
 五感が遮断された奇妙な感覚。
 特に不快なわけではないが、まだ慣れない。

(おかしい。こんなはずじゃなかったのに……)

 つま先に感触。どうやら到着したらしい。
 目をゆっくりと開ける。
 そこには予想通り、ピンクちゃん(一号)の姿があった。
 私との距離は2メートル弱か。結構近い。
 大きさは二号よりも少し大きい。私の身長とあまり変わらない。
 後は見たところ、二号との違いはないようだった。
「あ、どうも……」
 挨拶をしてみるが無反応。これも二号と同じだ。
(ええと……あ、二号! 二号はついて来てる?)
 辺りを見渡すと、ピンクちゃん二号は私の頭の後ろに浮かんでいた。
 手を伸ばすとふわりと離れる。
(よし! ついて来てるってことは、何か意味があるはず!)
 私は心の中でガッツポーズをした。
 水槽の世界へ行った時に光の玉はついて来なかったし、特に解決に必要になることもなかった。もしかしたら単純に私が持って行かなかったからなのかも知れないが、今回ピンクちゃん二号をこの世界に持って来ることが出来たということは、大きな発見だろう。
(やっぱり、光の玉で妖精さんの世界を救えるかも知れない!)
 わからないことだらけだった穴の向こうに、少しだけ光が射した気がした。
(まずはこの世界を何とかしなくちゃね)
 私は両手を使って二号を一号の前へと誘導した。
 しかし、一号は目の前に浮かぶ二号に対して無反応だ。
(あれ? あ、そっか、このサイズのままじゃダメか)
 二号の方へ手を伸ばし、ゆっくりと二号の大きさを戻していく。
(さあ、どうだ!)
 今、私の目の前では二人(二体?)のピンクちゃんが対峙していた。
 よく観察するために、二人の横へと回り込む。
(ほら、感動の再会だよ! もう! 何か反応してよ!)
 ただフルフルといつもの動きを繰り返すばかりで、二人は近付こうともしない。
 あまりに動きがないので、だんだんと不安になってくる。
 もしかしたら、私の目にはまったく同じ種族に見えるが、実はまったく別の生物ということも考えられなくもない。あるいは、ただ単に赤の他人であるということもありえる。見た目や状況から「間違いない」と思っていたが、それは私の思い込みだったのだろうか。
(うう、何でも良いから少しは反応してくれよう)
 そんな私の願いが届いたのか、ふいに一号がゆっくり二号に向かって動き出した。
(よしきた!)
 一号は徐々に距離を詰めていき、二号の手前30センチほどの位置で停止した。
 一瞬の静止の後、一号は私の予想を遙かに超えた動きを見せた。
(うわっ! 何!?)
 何と一号の体中央付近より数十本もの『触手』が二号へと向かって飛び出した。『触手』の色はピンクで、太さは鉛筆くらいだろうか。それらはものすごい勢いで二号の体に巻き付いた。
(こ、これは……キモイぞ!)
 『触手』は二号の体を一号の方へとゆっくり引き寄せていく。
 そして──、
「が……」
(合体した?)
 まるで粘土同士をくっつけるかのように、二号は一号の体へとめり込んでいったのだった。

 しばしの静寂。
 とはいえ、もともと何か音が聞こえていたわけではない。この部屋の中は、最初から耳が痛いくらいに静かだ。
 黙ったのは私。
 高鳴っているはずの鼓動さえも聞こえない。
(何が……起きたの?)
 目の前には、二号を吸収した分大きくなったピンクちゃん一号がフルフルと震えている。
 私は、一歩後ろに下がった。
 恐怖で気を失いそうだった。
(や……やだ……、どうしよう……。早く、帰りたい)
 その時、ピンクちゃんがこちらの方へと動いた──気がした。
「いやああ!」
 私は無意識に叫んでいた。
 両手をじたばたと動かす。
 すると、その手の動きに合せてピンクちゃんの体がすっと縮んだ。
 そして、二号と同じような、ピンク色の球へと姿を変えた。
 ふわふわと浮いている球を見ながら、深呼吸を繰り返す。だんだんと、落ち着いてきた。
 いつの間にか、私はしゃがみこんでいたらしい。部屋着のジャージをパンパンと叩いてから、立ち上がる。
「ああ……こわかったあ」
 まだ心臓が痛い。
 ピンクの球は、私の周りを不規則に漂っている。
 さらに何度か深呼吸を繰り返してから、私は改めて辺りを見渡してみた。
 部屋は壁も床も天井もピンク一色に染まっている。広さは10メートル四方程度か。思っていたよりもずっと広い。天井までの高さは定かではないが、かなり高そうである。床や壁は何処も彼処もでこぼこしていて、その中には石のような物や糸くずのような物が入っている。上から見た時は収納かとも考えたが、どちらかというと、窪みにゴミが溜まっているだけのように見える。壁と天井は、それ自身が淡く発光しているようだ。扉のようなものはなく、ピンクちゃんがどうやってこの部屋を出入りしていたかは不明だ。
(せっかくだし、もうちょっとよく観察してみようかな)
 私は球になったピンクちゃん一号が何も出来ないのを良いことに、この部屋をじっくり観察してみることにした。
 まず、色々なところに触れてみた。
 最初は恐る恐るであったが、だんだんと慣れてきて、最終的にはべたべたと触りまくった。壁や床はまるでゴムのような感触で弾力がある。試しににおいを嗅いでみたが、無臭。さすがに味は確認していない。もしかしたら私は穴の中の世界では『見る』『触る』以外のことは出来ないようになっているのかも知れない。バリアのようなものに包まれているのだろうか。いったいどういう仕組みかはわからないが、親切設計だ。
(やっぱりこの穴って、誰かが何かのために作った扉みたいなものなのかな? 神様? いやいや)
 私は特定の宗教に属しているわけではないが、これだけ不思議なものを目にすると、少しだけ神の存在を信じそうになる。
(自然に出来たとは考え難いよね……でも、それならどうして私の部屋に?)
 あれこれと思索しながら観察を続けた
 しかし、結局これ以上のことはわかりそうになかった。
(わかろうとするだけ無駄なのかな)
 足下に転がっていたピンク色の小石を拾い、手の中でもてあそぶ。ぐにぐにとした感触が気持ちいい。
(さて、まだ帰れないってことは……)
 私は頭の上に浮かんでいるピンク色の球を見た。
(戻してあげないといけないってことね)

 もとの大きさに戻ったピンクちゃん(一号+二号)は、私から3メートルほど離れたところでフルフルと震えていた。近くで戻すのはさすがに怖かった。
(そろそろくるかな……)
 ピンクちゃんの様子を見ながら待っていると、ふいに体が光に包まれた。どうやら無事に帰ることが出来そうだ。
(良かった良かった)
 ほっと胸を撫で下ろした私は、ピンクちゃんに向かって手を振った。
「ばいばい」
 思えば最初に穴を覗いた時からの仲だ。少し寂しさを感じた。
 視界が光に満たされるその前に、私は「ありがとう」と呟いた。

 さて、部屋に戻った私を待っていたのは驚くべき現実だった。
「……え? 五時? 五時っていつの五時?」
 バクバクとはち切れんばかりの心臓をなだめて、私は机の上に置いたままだった携帯を手に取った。日付を確認すると、何と穴の中に入ってから丸一日が経過していた。正確にいえば、二十時間弱だ。
 あわてて階段を下りると、リビングから出てきた母にぶつかった。
「あ、あんた!」
「わあ、ごめんなさい!」
 思わず反射的に謝った。
「いったい何処に行ってたのよ。出掛けても良いけど、声くらい掛けなさいよね」
「う、うんごめんね」
 両親は夜のうちは気付かなかったそうだが、翌日の昼になっても起きてこない私を心配して、母が部屋に入ると私はおらず、今まで心配していたとのことだ。
「さすがに家出とか、自殺……とか? 疑ったわけじゃないけどさ、あんた、普段からずっと家にいる人が急にいなくなったら心配するでしょうが」
「うん、うん、ごめんなさい」
「で、何処に行ってたのよ」
「え? ええっと、それは……」
 どうしよう、いくら何でも『異世界に行ってた』とは言えない。こういう時、咄嗟に嘘が吐けない自分の性格が憎い。
「なに、バイト探しにでも行ってたの?」
「あ! うん、それ! そうなの」
「そうなの?」
 どうやら母は冗談のつもりで言ったらしい。しかし今更撤回するのも親不孝が過ぎるだろう。取りあえず、話を合わせることにした。
「そう、ちょっと、バイト探しにね……」
「別にネットで探せば良いんじゃないの?」
「いや、ほら、ネットにない情報とかもあるからさ」
「あ、そう」
 そこで母は大きなため息をついた。どうやら、色々な意味で安心したらしい。
「何でも良いけど、次から出掛ける時は行ってきますくらい言ってね」
「うん」
 ひとまず何とかなったかと、部屋へ戻ろうとした私の背中に、母の声が刺さる。
「仕事探し、頑張ってね」
 困ったことになったと、私は心の中で頭を抱えた。
4, 3

  

第五話

   1

 部屋に戻った私は、まず部屋の中を見渡した。
(……この部屋をママに見られたのか)
 部屋の中は、カーペットはめくれ机の上には飲み物が置きっぱなし、電気も点けっぱなしという荒れようだ。これは後で片付けねばなるまい。
 さて、あらわになったままの床の上には、穴が二つ空いているのが確認出来た。ピンクちゃんの穴は塞がったようだ。安心した反面、寂しくもあった。
(しかし、これだけ時間が過ぎてるとは……)
 正直、今回は非常にまいった。まだ二十時間程度で済んで良かったと思うしかないだろう。これが一年や十年だったら取り返しがつかない。
(でも気を付けようがないしなあ……)
 穴に入らないに超したことはないのだろうが、ここまで来たら引き下がれないという気もする。いや、少なくとも妖精さんの穴に関しては、私は罪滅ぼしをしなければならないのだ。
(よし、まずは片付けするかな)
 焦っても仕方がない。
 私は、取りあえず部屋の片付けを始めた。

 部屋の片付けが終わると、丁度良いタイミングで食事に呼ばれた。
 リビングへ入ると、早くも両親は食卓についていた。
「いただきます」
 家族で声を合せて言う。
 実感的には、数時間前に昨日の夕食を終えたばかりなので、少しだけおかしな気分だ。
「で、何か良いバイトはあったの?」
 私が唐揚げを頬張ったタイミングで母が言った。何と間が悪いのだろう。慌ててお茶で流し込んだ。
「何だお前、バイト探し始めたのか」
 父が嬉しそうに食いついてきた。まずい。このままでは、本当に仕事を探さなければいけなくなってしまう。今仕事を始めたところで、穴のことが気になって仕事どころではないだろう。働きたくないわけではないが、今は『まだもうちょっとだけこのままで』という気分なのだ。
「そうなのよ、この子。今朝急に思い立ったらしくてね──」
 母が今日の私の『行方不明事件』について面白可笑しく語ってみせた。
「それでね、何処にも見当たらないもんだから、郵便受けの中まで探してね──」
 話がのってくると、つい誇張してしまうのは母の悪い癖だ。
 しかし、父は母のそんな話を真面目な顔で聞いていた。
「で、どうなの?」
 一通り話が終わったところで、母が再び尋ねてきた。
 私は思わず返事に詰まる。
「まあまあ、そんな焦らせちゃいかんよ」
 父が助け船を出してくれた。父は本当に、甘い。
 苦笑いで誤魔化しながら、私はさっさと食事を終わらせた。

「さて、と」
 部屋に戻った私を突然睡魔が襲った。
 体が重く感じ、立っているのも辛い。
 迷わずベッドへ倒れ込む。
(やばい、急に疲れが……)
 無意識のうちに、ずっと緊張していたのかも知れない。頭の奥がじんじんと熱い。
 横になった私は、考える間もなく眠りに落ちた。

 目が覚めると、翌日の朝だった。
 何だか昨日は、丸一日無駄遣いしてしまった気がする。
 床に降りて大きく伸びをした。疲れはすっかり取れている。
 しかし、歯を磨かずに寝てしまったせいで、気分爽快という感じではなかった。
(顔、洗うか……)
 まだ少し寝ぼけたままで洗面所に向かう。
 我が家には1階と二階に洗面所がある。私が使うのはもっぱら二階の方だ。
 鏡に映った自分は、寝癖とむくみとで、ひどい顔をしていた。
 顔を洗い、歯を磨く。
 大分さっぱりしてきた。
 私は軽やかに階下へと向かった。
(……ん?)
 階段の一番下に降り立った時、ふいに違和感を覚えた。
 上手くいえないが、何となく、他人の家にいるような感じがする。
(何だろう……嫌な感じ……)
 辺りを見渡してみるが、この感覚の原因は見当たらない。
 私は不安を振り切るように、早足でリビングへと入った──。

「──っわあ、って……あれ?」
 気がつくとベッドの上にいた。
 さっきの出来事は夢だったのだろうか。
 携帯を開き、日時を確認する。やはり夢を見ていたようだ。
(それにしても……リアルな夢だったなあ)
 鼓動が少しだけ早い。
 ベッドから降りて伸びをする。夢の中と同じように、疲れはすっかり取れていた。
(ま、気にしない気にしない)
 こういう時、楽観的な性格で助かる。
 私は洗面所に向かい、顔を洗った。
 髪は、夢の中以上にぼさぼさになっていた。

「あら、あんた今日は早いのね」
 違和感を覚えることもなくリビングへと入ると、母が驚いたように言った。
 早いと言ってももう八時。父はとっくに仕事へ出ている。
「朝ご飯食べるの?」
 そう聞きながら、すでに母は私の前に食器を並べ始めていた。
 さっき夕飯を食べたばかりな気がするが、お腹はそれなりに空いていた。
 育ち盛りはとっくに過ぎたくせに、食欲だけは十代の頃と変わらない。まったく、困ったことだ。

 朝食を終えた私は自分の部屋へと戻った。
 何だか妙に気分が良い。
 窓の外を見る。良い天気だ。
(ちょっと、散歩でも行こうかな……)
 そんな考えが浮かんだが、外は暑そうだ。せめて夕方になってから出掛けようと、ベッドに横になった。冷房の風が心地よい。うっかり、このまま眠ってしまいそうだ。
「いかんいかん」
 声に出して立ち上がる。また今日も寝て過ごしてしまっては、さすがにニートといえど時間の無駄遣いが過ぎるだろう。
 私はまた新たにわかったことをまとめるべく机に向かった。
(あれ?)
 机の上を見ると、そこには小さくて丸い、ピンク色の石が置いてあった。昨日片付けた時にはなかったと思うが、上手く思い出せない。
 立ったまま、手にとって見る。
(これって……、ピンクちゃんの部屋にあったやつだよね)
 そういえば穴の中にいる間、何となく手に持っていたような気がする。持ってきてしまったのだろうか。
(ううん、ま、いっか。記念品、記念品)
 相変わらずの前向き思考で、私はこの一件を片付けることにした。
 椅子に掛けて、石をさらによく観察してみる。
 大きさはピンポン球くらいで、形はいびつな球といった感じか。でこぼこしている部分はあるが、穴と呼べるようなものは空いていない。手触りは、つるつるというよりは、少し湿っているような感触だ。触った手を見てみたが、特に濡れたり汚れたりはしていなかった。堅さは穴の中で触った時同様、ぐにぐにとして硬めのゴムのようだ。重さは、大きさからいって妥当な感じの重さだ。
 この石も、私の力で大きくすることが出来るのだろうか。
 試してみようかと思ったが、大きくなり過ぎて床が抜けても困るのでやめておいた。
(危険はなさそうね……、たぶんだけど)
 私は石を置くと、ペンを片手にノートを開いた。机の上にはノートパソコンもあるのだが、昔から勉強する時は書いて覚える派だ。
(今回わかったこと……というよりは、一旦今までをまとめてみるかな)
 前のページをめくりながら、私は穴について、これまでにわかったことをまとめてみた。

●穴について
 ・いつの間にか空いている。増える。これからまた増える可能性もある?
 ・大きさは直径2センチくらいでまんまる。たまに大きくなることがある。(緊急度?)
 ・深さはひとさし指の第一関節よりちょっと深いくらい。奥まで入れると痛い。
 ・縁はすべすべしている。指を掛けてぐいっとすると、拡がって中に入ることが出来る。
 ・勝手に拡がってしまうこともある。(ピンクちゃん二号の仕業?)
 ・向こう側からこちらを見ることは出来ない。
 ・お互いの声や音も聞こえない。(中に入っても?)
 ・中に物を落とすことが可能。
 ・中から物を持ち帰ることも可能。
 ・中に入った場合、部屋に戻るためにはその世界で起きている問題を(良くも悪くも?)解決しなくてはいけない。
 ・穴の中の時間は、その穴によって流れる速さが違う。
 ・穴の中とこちらでは、物理法則が異なる(?)。
 ・穴の中にある(あった)物に対しては、私は不思議な力を使うことが出来る。(拡大縮小。他にも出来るのか?)
 ・穴は私にしか見えない。(少なくともママには見えない)
 ・穴の中から持ち帰ったものも、私にしか見えない。(少なくとも……以下略)

(ううむ、わかったような、わからないような……)
 まとめながら、私は頭を抱えた。
 こうして見ると色々なことがわかった気もするが、そもそも根本的なところがわからない。
(で、結局この穴って何なんだ?)
 振り向いて、床を見つめる。
 果たして、残りの穴が塞がるまでに、私は穴の謎を解明することが出来るのだろうか。
(……無理だろうな)
 大きな大きなため息が、口からこぼれた。

   2

 昼食を食べた私は、ようやく観察を再開することにした。
(食べてばっかりでやばいよなあ……、後で絶対散歩に行こう)
 小さな決心をしつつ、私はカーペットをめくった。
 床の上の穴は、残り二つ。
 穴にはそれぞれ『水槽』と書かれた厚紙と、『妖精さん』と書かれた厚紙が貼ってある。
(さて、どちらの穴を覗こうか……)
 もちろん本命は妖精さんの穴だが、いざとなるとどうしても躊躇してしまう。
(んー……よし、まだ全然観察してない洞窟の穴から覗こう)
 私は色々な言い訳を頭の中で考えながら、洞窟の穴の蓋を取った。
 その時、どこからか「トントントン」と物が転がるような音が聞こえた。
 音のする方を見ると、そこにはあのピンク色の石が転がっていた。
(あれ? おっこっちゃった?)
 拾い上げようと手を伸ばした瞬間、洞窟の穴が突然拡がりだした。
「え、うそ、やだ……」
 抵抗する間もなく、私の体は飲み込まれていった。

 四度目の浮遊感。
 さすがに、少し慣れてきた。
(これは……前回のことを考えると、つまりクリアアイテムを手に入れると、強制的に穴の中に吸い込まれるということだろうか……)
 もしこの考えが確かなら、妖精さんの穴を覗こうとしたら、光の玉と一緒に飲み込まれるはずだ。思えばプラちゃんの穴から戻って以降、妖精さんの穴には蓋をしたままだった。
(これなら、けっこうつじつまが合うんじゃないか?)
 つまり、穴には救う順番が決まっていて、その順番通りにしか入れないのではないだろうか。それなら以前穴に指を入れた時に感じたあの痛みにも説明がつく。
(プラちゃんの穴で光の玉を手に入れて妖精さんの穴を救うルートと、水槽の穴でピンクちゃん二号を連れて帰ってピンクちゃんの穴に行って、それでこの石を手に入れて洞窟の穴を救うルートがあったわけだ。すごい! 何か解明しちゃったんじゃないの、これ!?)
 思いがけない発見に私は思わず興奮した。
 しばらくすると、つま先に感触があった。到着したらしい。
(ようし、ぱぱっと救ってあげちゃうかな!)
 意気揚々と目を開けた私の前に広がっていたのは、無機質な洞窟の壁と、遠くに見えるジャングルのような景色だった。

(ええっと……誰も、いない?)
 何か聞こえないかと耳を澄ましてみたが、他の世界同様、痛いくらいの静寂だ。
 きょろきょろと辺りを見回す。
 トンネルの直径は、5メートルはあるだろうか。思っていたよりも広い。
 上から見ていた通り、壁の岩は焦げ茶色で、薄い色と濃い色が交互に重なって層を成している。手で触れると見た目通りザラザラとしている。
 そして底面は光沢のある質感だ。見た目には滑って転んでしまいそうなくらいつるつるしているが、素足で触った感じは、つるつるというよりはむしろペタペタといった方が良さそうだった。
 右手の方へはトンネルがずっと続いている。どれだけ深いものなのか、ここからでは暗くて見えない。奥に向かって、緩やかに下っているようだ。
 左手を見ると、そこには洞窟の入り口がぽっかりと口を開けており、外の景色が良く見えた。それはまるで──、
(恐竜でもいそうな景色だな……)
 大きく茂った木々に羊歯。遠くに見えるのは火山だろうか。視界の中に生き物の姿は見られなかったが、今にもプテラノドンが飛んで来そうな雰囲気だ。見るからに暑そうな景色だが、特に暑さ寒さは感じない。ありがたい。
(どうしよう……)
 このまま待っていても、何も起りそうにない。
 とはいえ、今の私にある選択枝といえば『外に出る』か『奥に進む』の二択しかない。
(いやあ……どっちも怖すぎるだろう……)
 私は頭を抱えた。
(あ、そうだ、ピンクの石!)
 はっとして探すと、石はジャージのポケットに入っていた。いつの間に入っていたのかはわからないが、ひとまず安心した。これで石を忘れてきたり無くしたりしていたら絶望的だ。
(よし、じゃあ、これを……)
 石を床に置き、私は今までの経験から、取りあえず石を大きくしてみることにした。
 両手を石に向けて伸ばし、ゆっくりと拡げていく。
 しかし──、
「あれっ?」
 石は何の変化も示さない。
 もしやと思い、逆に縮めてみようとしたが、やはり何も起きない。
「えっ、えっ、どうしよう。予想外。他の使い方があるってこと?」
 誰かに知恵を求めたかったが、ここには私一人しかいない。いたとしても相談出来るはずもない。
 広い洞窟の中で、私は一人途方に暮れてしまった。

 その後、石に対して色々なアプローチを試してみた。叩いてみたり投げてみたり、祈ってみたり軽く噛んでみたりさえしてみた。しかし、石は何の反応も示さなかった。
(どうしよう……)
 寿命が縮まりそうなほど鼓動が早い。口の中も乾ききっている。
(とにかく、行動するしかない)
 私は奥か外へと向かってみることにした。
 まず外はどうかと洞窟の入り口まで歩いてみる。
 穴の縁まで来てようやく気付いたが、この洞窟は断崖絶壁に空いているようだ。見下ろすと、地面までは数十メートルはありそうだった。上り下り出来そうな足場も見当たらない。これは空でも飛べない限りは、外へ出ることはやめておいた方が良さそうだ。
 それではと洞窟の奥へと歩いてみる。しばらくは外の光で明るかったが、すぐに辺りは暗くなった。緩やかに下っているせいで、運動不足の膝にこの道は厳しい。
 思わず、眼に涙が滲んだ。
 心細くて、叫び出したい気分だ。
(いけない、いけない。泣いてる場合なんかじゃないって)
 手でごしごしと眼をこする。
(……ん?)
 涙が拭われ、視界が明瞭になった。
 いや、正しく言えば『視力が異常に良くなった』というか、とにかく今まで以上によく見えるようになっていた。さっきまで暗くてよく見えなかった奥の方も、太陽の下にいるかのようにはっきりと見える。
(これも、私の力なの?)
 おそらく、眼をこすったことでこうなったのだろう。もしかしたら、もっと色々なことが出来るのかも知れない。
 何はともあれ、少しだけ気持ちが楽になった。暗い道は、元よりあまり好きではない。
(よし……頑張ろう!)
 気持ちを改め、一歩踏み出したその時、視界の隅を何かが横切った。
(何……?)
 恐る恐る、辺りを見回す。
 すると、自分の周りを数体のヒト型をした『白い影』が取り囲んでいた。さっきまで、こんなものはいなかったはずだ。いや、見えなかっただけで、ずっといたのかも知れない。
 影達は、立ち止まっている私の方へ、ゆっくりと近付いて来た。その動きはまるで幽霊のようだ。ヒト型に定まりきらない不定型なその姿が、動きに合せてゆらゆらと揺れる。
 私は思わず後ずさりした。
「ちょ、ちょっと待って。怖いから、ね。まずは話し合いましょう」
 私が言うと、影達の動きがぴたっと止まった。聞こえたのだろうか。
「ええっと、私は、あなた達の、味方です」
 身振り手振りを加えながら話す。反応はないが、何となく聞こえているような気がして、私は気にせず話し続けた。
「あの、この石をですね……」
 右手を開いて、握りしめていた石を見せた。
 すると、今まで無反応だった影達が、どよめくような動きを見せた。
 やはり、この石が鍵になるようだ。
 一体の影が、こちらへ近付いて来た。
(怖い……けど、がまん……ああ、いや、何か身を守った方が良いのか?)
 若干混乱しつつも、私は黙って影の動きを見守った。
 影は私の前で一瞬立ち止まると「ついて来い」とでも言うかのように、穴の奥へと向かって行った。他の影達も、後に続く。
(ええい、ここまで来たら覚悟を決めるぞ!)
 軽く自分の頬を叩いて気合いを入れると、私は影の後をついて歩きはじめた。
(ああ……帰ったらいったい、どれくらいの時間が過ぎているのだろう)
 この先待ち受けているであろう出来事よりも、それが一番心配だった。

   3

 歩き始めてどれくらい経っただろうか。
 おそらく三十分ほどは歩いたと思われるが、影達の移動速度がカタツムリ並みに遅いため、距離的にはさほど進んでいないだろう。
(どこまで行くんだよお)
 最初は内心おびえていた私だったが、人間ずっと緊張はしていられないもので、すっかりこの影達に慣れてしまった。影達は私から1メートルくらいの距離を保ったまま、それ以上近付いてこようとはしなかった。
 歩きながら私は、先ほど発見した自分の新しい能力を試してみていた。
 眼をこすったら今まで見えないものが見えたのだから、と試しに耳をこすってみた。
 しかし、何も聞こえるようにはならなかった。
 次に足をこすってみた。すると足の疲れがすっとひいていき、少しの力で歩けるようになった。
(お、これは良いぞ)
 もしかしたら、この力の使い方次第では、空を飛ぶことも可能なのかも知れない。
(さて、次はどこを試してみようか……)
 そんな風に楽しんでいると、ふいに影達が立ち止まった。
 どうやら到着したらしい。
 目の前には今までのトンネルよりもずっと広い空間が広がっていた。
 そこは洞窟の突き当たりで、壁や天井はまるで円形のホールのような作りになっている。高さは、数十メートルはありそうだ。おそろしく高い。広さも向こうの壁まで50メートル以上あるのではないだろうか。
 何か祭儀を行う場所なのだろうか。それにしては殺風景である。祭壇があるわけでもないし、壁や床に何か描かれているわけでもない。ただただだだっ広いだけの空間である。
 ホールの入り口で突っ立っている私を置いて、影達はどんどん中へ入っていく。さっきまでよりも、移動速度がずっと速い。私は彼らの後を早足で追った。
 部屋の中央まで来ると、影達はまた立ち止まり、輪になって広がった。
 私はおずおずとその輪の中心へと進み出た。
 足下を見ると、そこには何だかピンク色のシミのようなものが広がっていた。大体1メートルくらいの範囲に、シロップをこぼしたようにそれはあった。
(もしかして、ここに石を置けば良いのかな?)
 私は手にした石を影達に見せた。
 影達の白い霧のような体が、ちかちかと瞬く。返事をしているのだろうか。
 石を床に置く仕草をしてみせると、同じように瞬いた。
(肯定、してるんだよね……?)
 心配になった私は、試しに石を持ったまま帰る素振りをしてみせた。
 すると──、
「っわわわ! ごめんなさい!」
 今までにないスピードで、影達が私の前に回り込んできた。
「冗談、冗談ですからね。ああ、びっくりしたなあ、もう」
 私の言葉が伝わったのかはわからないが、影達はまた、シミを中心として輪を作った。
 やはり、ここに石を置けということらしい。
 深呼吸をしてしゃがみ込む。
(……置いた途端、何か吹き出したりしないよね)
 やめておけば良いのに、怖い想像をしてしまう。
(大丈夫、大丈夫。これで帰れる。これで帰れる)
 自分に言い聞かせながら、私はシミの中央にピンクの石を置いた。

(──あれ?)
 予想に反して、石はうんともすんとも言わなかった。
 しばらく様子を見ても、何も起らない。
(何か違ったのかな? え、失敗?)
 戸惑う私を置き去りに、影達はゆっくりと、元来た方へ移動していく。
「あ、ちょっと待ってよ。置いてかないでってば!」
 慌てて後を追う。来た時とは違い、ずいぶん早足だ。

 十分ほど歩くと、視界の先に洞窟の入り口が見えてきた。
 影達は私が歩くよりずっと早い速度で移動しており、もう入り口のところまで辿り着いている。そこで止まっているのは、もしかしたら私を待っているのだろうか。
(外に出て行くのかな?)
 やっと入り口に到着する。私は何気なく向こうの景色を見た。
「え……、すごい……」
 その向こうの景色は、先ほどまでとは一変していた。
 それは宇宙そのものだった。
 上も下もない夜空の中には眩しいくらいに星々が散らばっており、星座を描くことすら馬鹿らしく思えるくらいに美しい。時折、遠くの景色を尾を引きながら横切るのは彗星だろうか。天文の知識がないことが悔やまれる。映画やテレビなどで宇宙の映像は何度も見たことがあるが、ここまで素晴らしい星の海は、今まで誰も見たことがないのではないのだろうか。
 息を飲んで見とれている私の方へ、一体の影が近付いて来た。
 目の前まで来ると、その霧のような体から、細長い影がこちらへするすると伸びてきた。
 手、だろうか。
(握手、かな?)
 そう考えた私は、少しためらった後、影の方へ自分の手を伸ばした。
 二人の手が触れ合う。
 影の手はひんやりとしていて気持ちが良かった。
 しばらく触れ合ったままじっとしていたが、影が手をすっと引っ込めた。
 どうやら、お別れの時らしい。
 影達は一箇所に集まると、軽く床を蹴るようにして、宇宙空間へと旅立って行った。
「さよなら……」
 私の声に合せて、影達は何度も瞬いて見せた。
 みるみる遠ざかって行く影達。
 この景色をずっと見ていたいと思ったが、次第に私の体は光に包まれていった。

 気がつくと、自分の部屋の床に座り込んでいた。
(すごい……、きれいだったなあ……)
 自分の語彙の少なさに辟易しながら、先ほどまでの絶景の余韻に浸っていた。
 ちら、と壁の時計を見た。
 針は一時を刺している。窓の外は明るいから、十三時なのだろう。
 問題は、何年何月何日の十三時かということだ。
 平静を装いながら、机の上に置いてある携帯を手に取った。
 薄目を開けて、日付を確認する。
「あれ?」
 携帯が壊れたのでなければ、どうやら私が穴の中にいたのはたったの十五分ほどだったらしい。時間の進み方についての法則性は、まだわかりそうにない。
「わっかんないなあ、もう。ああ、緊張して損した」
 私は、ベッドに飛び乗り横になった。
 実際に進んだ時間は十五分かも知れないが、私の体感では一時間以上異世界を彷徨っていたのだ。緊張も相まって、体は非常に疲れていた。
 目を閉じると、まぶたの裏に星の海が浮かんで見えた。
 しばらくそうしていたが、つい眠ってしまいそうだったので起きることにした。
 深呼吸をしてから、上半身だけ起こす。
 その姿勢のまま床を見てみると、洞窟の穴は無事に塞がったようだ。
(良かった良かった)
 これで残る穴は一つ。妖精さんの穴のみとなった。
 後は光の玉を持って穴の中に入れば、何とかなるはずだ。
 部屋の中を見ると、光の玉は天井付近をふわふわと漂っている。
(さて、どうしようかな。このままの勢いで行っちゃおうか)
 自分の体と相談してみたが、今日はかなり疲れてしまったので、やめておいた方が良さそうだった。
 取りあえず、わかったことだけでもまとめておこうと机に向かった。
 閉じたまま置いてあるノートパソコンが眼に入った。
(……仕事、か)
 いつの間にか積もっていた埃を払い、パソコンを起動させた。
 古い型ということもあって、なかなか立ち上がらない。
 その間に、とペンを手に取りノートを開く。こういう時、アナログは最高だ。
 今回わかったことをまとめていく。
(どうやら触った部位に力を与えることが出来るみたいね。耳はダメだったけど)
 そして、一番重要なことを書き込む。
(それぞれの世界自体には関係はないみたいだけど、中で手に入れたアイテムが攻略の鍵になる、と。攻略のルートがあるってことは、やっぱり意図して空けられているってことになるよね。いったい誰が……)
 誰かに見られているような気がして、思わず身震いする。
 私は気を取り直して、あの美しい星空を描くことにした。今ある画材はこのペン一本だけだから、大した絵は描けないが、それでも描かずにはいられない。
 横目で見ると、パソコンはまだ起動していなかった。
 仕事を探す前に、新しいパソコンを買わなくては、と思った。
第六話

   1

 次の日の昼過ぎ。
 私は少し前に買ったばかりの服に着替え、メイクもばっちりしたう上で、妖精さんの穴の前に正座していた。
 さすがに、いつものように部屋着にすっぴんで行くわけにはいかない。
 初めはスーツか着物(成人式で着た振り袖があるはず)を着ていこうかとも思ったが、スーツだとかしこまり過ぎの気がしたのでやめた。着物は自分で着られないので母に頼む必要があるが、理由を聞かれそうなのでやめた。
 結局普段着ではあるが、ジャケットは羽織ったし、まあいつもの部屋着よりは数倍マシだろう。念のため、動き回ることを考えてスカートではなくパンツにした。
 靴は履こうか悩んだが、取りあえず手に持って行くことにした。
 それと、今回は腕時計をつけていくことにした。これであっちの世界にどれくらいいたかは確認出来るだろう。携帯の方が良いかと思ったが、帰って来たときに正確な『日時』が知りたいので置いておくことにした。
「よし」
 一声気合いを入れて、お腹の下に力を込める。
 ゆっくりと、妖精さんの穴に蓋をしている厚紙をはがす。
 光の玉が、すうっと私の手元に寄って来た。
 ここまでは、計算通りだ。
 蓋がはがされ、穴があらわになる。
(きた……)
 蓋をはがし終わると同時に、穴はひとりでに拡がり、私の体を飲み込んだ。

 向こうの世界に辿り着くまでの間、私は今までのことを思い出していた。
 最初に穴を見つけてから、思えばまだ一月半ほどしか経っていない。けれど、初めてピンクちゃんの穴を覗いてから、もう何年も経っているような気がした。それだけ、濃厚で刺激的で不思議に満ちた日々だった。
 しかし、そんな日々も、これで終わる。
 妖精さんの世界を救えば、五つ全ての穴は塞がることになる。また穴が増える可能性もあるかも知れないが、期待してはいけないだろう。増えるとしても、それは明日かも知れないし、何十年も後かも知れない。自分が生きているうちに、再びこんな素敵な経験が出来るとは思えなかった。
 少しだけ、寂しくなる。
 プラちゃん達は元気だろうか。
 水槽の世界は、あれで救われたのだろうか。
 ピンクちゃんは……、ちょっとグロかったな。
 洞窟の世界で見た、あの景色がもしまた見られるなら……。
 そして、妖精さん。
 あれから何度夢にみたことだろう。
 何度心の裡で謝ったことだろう。
 寂しがっている場合ではないのだ。
 私は、この世界を、救わねばならない。

 つま先の感触を確認しながら、私はゆっくりと目を開いた。
 記憶の中そのままの、妖精さんの部屋だった。
 山小屋風の部屋の中には、木製の棚や机、椅子などがきれいに配置されている。
 おそるおそる床を見てみたが、焦げ跡は見つからなかった。少し、ほっとしてしまう。
 部屋の中には誰もいない。出掛けているのだろうか。それとも……
 暖炉を見ると、やはり火は入っていなかった。
(あ、光の玉は?)
 これでもしも光の玉が付いてきていなかったら一大事である。
 頭の周りを確認してみると、私のやや後ろに玉は浮かんでいた。
(良かった……)
 胸を撫で下ろし、玉に手を伸ばした。
 いつもなら触れようとすると逃げてしまうのに、玉は私の手の平へと吸い込まれるように近付いて来た。
(どうしようかな……帰りを待ってから、やった方が良いかな)
 おそらく、この玉を暖炉にくべれば全ては終わる。
 しかし、誰もいないところですれば、謝罪出来ぬまま部屋に戻ってしまいかねない。
 時計を見てみる。早く進んだり、ゆっくりになっていたりはしていない。時間の進み方が変わったからといって、時計の仕組みが変わるわけではないのだから、当然ともいえる。
(待とう)
 妖精さん(女の子)の帰りを待つことにした私は、暖炉の前で『気を付け』をした。いくら異世界とはいえ、ひとの家で勝手に椅子に座るのは失礼だろう。

 それから、一時間が経過した。時計を見て確認したので、時間は正確だ。
 妖精さんは、まだ帰って来ていない。
 もしかしたら、男の子の方が死んでしまったショックで、引っ越してしまったのだろうか。まさか後追い自殺なんてことは考えたくないが、ここに住んでいない可能性は低くない。
(どうしよう……)
 何か手がかりはないかと辺りを見渡した。
 部屋の広さは十畳くらいだろうか。天井はちょっと低めで、男性だったら頭をぶつけてしまうだろう。
 よく見ると、家具は私の基準からすると、少し小さいように思えた。上から見ていた時はわからなかったが、妖精さんは人間よりもずっと小柄なのかも知れない。
 扉は、暖炉を背にした私の左手奥に一つ。出入り口だと思い込んでいたが、もしかしたら隣室があるのだろうか。音はいつも通り聞こえないので、見ているだけでは確認出来ない。
(さて、どうするか……)
 隣室にいるとしても、いずれこちらに来るかも知れない。いきなり扉を開けて驚かすより、待っている方が良いだろうか。いや、例えこちらで待っていたとしても、驚かせることに代わりはないだろう。
(こっちの部屋には哀しい思い出があるから閉ざしちゃってるとか……、あるかも知れないよね)
 しばらく悩んだが、思い切って扉を開けてみることにした。
 深呼吸をしてから、扉に近付く。
 木製のドアノブを右手で握り、ゆっくりと回した。

 扉の向こうは、白銀の世界だった。
 吹雪が頬を叩いたが、助かることに、やはり寒さは感じないようだ。
 どうやらこの家は樹上に作られているらしい。地面までは4、5メートルといったところか。
 辺りを見渡す。
 視界の中には、人っ子一人いない。この天気だ、無理もない。
 周囲には同じような家が何軒もあった。皆、扉を閉じているので、中の様子は確認出来ない。煙突はどの家にもついていたが、煙が上がっている物はなかった。どこも、同じような状況なのだろうか。とすれば、この家の中だけを暖めて済む話ではなさそうだ。
 空を見上げると、分厚い灰色の雲が鈍く光っていた。昼間なのだろうか。曇りとはいえ、暗すぎるような気もした。
(プラちゃんの時と同じように、この玉を大きくすれば良いのかな……)
 私は右手に持ったままの光の玉をぎゅっと握りしめた。
 玉を大きくするとして、果たしてこの場でやって良いのだろうか。
 洞窟の世界では、ピンクの石を置く場所は決まっていた。もしかしたらこの世界でも、どこかに光の玉を安置する場所があるのかも知れない。
 しかし、いったいその場所をどう探せば良いだろうか。
 このまま妖精さんの帰りを待つか、他の家の戸を叩き、他の誰かに尋ねるか。道は二つに一つしかないように思われる。
(ううん……、どうしよう。思ってたより大事だぞ、これは)
 よくよく考えれば『寒いお部屋を暖めて解決』などという簡単なことで、こんな異世界と通じる穴が空くわけがないではないか。
 私は部屋の中に入り、ひとまず扉を閉じた。開けたままでは、雪が中に入ってしまう。すでに足下にはうっすらと雪が積もり始めていた。
(さて、どうしたものか……)
 闇雲に外を歩くのは不安だ。このまま待つのが無難とは思うが、あまり時間が経ってしまうのも、帰った後のことを考えれば怖かった。しかし、見たところ外に人影はなかった。もし妖精さんが出掛けているだけとしても、何日も帰って来ないなんてこともあり得る。
(いったん帰る、とか出来ればなあ……)
 ため息をついて、天井を見上げた。
 帰り道の穴は、見当たらない。
 試しに手を上げて色々な動きを試してみるが、何も起らなかった。やはり戻るためには、この世界を救う必要があるようだ。
(ちょっとだけ、外に出てみるか……)
 このまま待っていても時間の無駄だ。私は思いきって外に出てみることにした。
 再び扉を開ける。
 雪が勢いよく吹き込んで来た。
 手に持ったままだった靴を履く。光の玉は上着のポケットに入れた。
 一歩前に出て、踊り場のようなところに立つ。
 後ろ手に扉を閉じた。
 どうやら階段はないらしい。そういえば、妖精さんには羽があった。羽のない私が降りるためには、飛び降りるしかなさそうだ。
(そうだ、足をこすって、と……)
 力を与えるべく、私は両足をこすった。軽く飛び跳ねてみる。上手く言い表せないが、力がこもった感じがした。
 下を向いて、高さを確認した。
(こ、怖いな……)
 高所恐怖症ではないが、さすがに腰が退けた。雪がどれだけ積もっているかわからないので、余計に怖い。
(……ええいっ)
 私は覚悟を決めて、地面めがけて飛び降りた。
 一瞬の間の後、足が何かに触れる感触があった。
 雪にめり込むのではないかと懸念していたが、不思議な力のおかげなのか、私は雪の上に立っていた。
(ふう……第一関門は突破、かな)
 雪は情緒なく降り注いでいるが、どうやら私に積もることはないようだ。ありがたい。
 私は頬を叩いて気合いを入れると、真っ白な景色の中を、ゆっくり歩き始めた。

   2

 しばらく歩くと遠くに人影が見えた。一人二人ではない。数十人近い妖精さんがそこにいるようだった。皆、一様に濃い緑色のマントを頭からすっぽり被っている。背中には穴が空いているのだろうか。むき出しの透明な羽が、寒そうに震えていた。
 どうやらそこは広場らしい。雪が邪魔してここからはよく見えないが、妖精さん達は中央にあるモニュメントを囲むようにして、うつむきながら立っている。その姿は、祈っているようにも見えた。
 私は驚かせないように気を付けながら、ゆっくりとそちらへ近付いて行った。
 もう、あちらから見えてもおかしくないような場所まで来たが、誰一人気付いている様子はない。それだけ真剣に祈りを捧げているということか。
 中央のモニュメントを見てみる。大きさは2、3メートルくらいだろうか。妖精さんの身長からするとかなりの大きさだ。形は縦長の楕円。おそらく石で作られているのであろう。彩色はされているようには見えない。灰色の表面はつるつるとしているようだ。どうやら台座の上に置かれているらしい。台座の色はモニュメントと同じ灰色だが、美しい細工が施されているのが見えた。
 妖精さん達まで、後数歩というところまで近付いた。
 その時。私に気付いたのだろうか、一番近くに立っていた妖精さんが振り向いた。私が探している女の子とは違うようだが、とても美しい少女だった。
 少女は目を丸くしてこちらを凝視している。驚いたのだろう、無理もない。
 そんな少女の様子に気がついたのか、他の妖精さん達も、一人また一人とこちらを向く。その顔は子供から大人まで様々だ。
 幾人かの大人の顔には、攻撃的な表情が浮かんでいるようだ。
 武器を持っている者はいないようだが、争う気は毛頭ない。友好的な態度を示さなくては。
 しかし今までの経験から、声はもちろんジェスチャーもいまいち伝わらないことを学んでいた私は、無言でポケットから光の玉を取り出すと、それを右手で頭上高く掲げた。
 それを見た妖精さん達が、一斉にどよめく(聞こえないけど)。
 よし、ここまでは計算通りだ。今回はきちんと作戦を練って来て良かった。
(……で、どうする?)
 妖精さん達は一歩退いたまま固まってしまっている。
 私の予定では、ここで誰か代表的な人物が前に来て、何かしらの動きを見せてくれるはずだったのだが……。
(いきなり大きくしたらマズイかな。あ、それともみんな私が動くのを待ってるとか?)
 無造作に下ろしていた左手を、試しに前へ突き出してみた。
 すると、妖精さん達は一斉に跪き、頭を垂れた。
「あ、いや、そんなあらたまらなくても……えへへ」
 思わず左手を振り否定する。
 その動きを見てなのか、長老風の妖精さんが一人立ち上がると、ゆっくりとこちらへ近付いて来た。白くて長い髪が、フードの隙間から覗いている。皺が刻まれた顔は決して明るい表情ではないが、温和というか柔和というか──『優しいおじいちゃん』といった雰囲気だった。
 長老(?)は私の前まで来ると、再び跪いた。そして、こちらを見て何か言っているようだったが、残念ながらその声を聞くことは出来なかった。
 念のため、自分の耳をこすってみたがダメだった。理由はわからないが、異世界で音を聞くことは叶わないようだ。
 しかし何を言っているのかは聞こえなくとも、その真剣さと深刻さは充分に伝わった。
 私は、左手でモニュメントを指さしてみた。
 すると、その周りにいた妖精さん達がすっと横に避け、私とモニュメントとをつなぐ真っ直ぐな道が現われた。
(神様にでもなった気分……)
 緊張と、少し浮かれそうになる気持ちを抑えて、私は前へと踏み出した。
 モニュメントまではあっという間の道のりだが、妙に長く感じた。
 十数歩で、目的の位置まで辿り着いた。
 振り返ると、いつの間にか数十人の妖精さん全員が、私の前に跪いていた。うつむいているせいで、顔が見えない。あの子は、この中にいるのだろうか。
 私は光の玉を掲げた右手を、今まで以上に高く上げた。
 玉は私の手を離れ、ふわふわとモニュメントの頭上へと飛んで行った。
 後ろを振り向き、両手を玉の方へ向ける。
(これで、終わるんだ……)
 何故か涙が出そうになり、慌てて左手で眼を拭った。
 空を仰ぐ。
 無慈悲な大雪が、今は美しく見えた。
 両手をゆっくりと開く。
 意図した通り、視線の先で光の玉はその大きさを増していく。
(あったかい……)
 直径数メートルまで膨れあがった玉は、さらに膨張しながら高く高く浮上していく。
 目には眩しすぎるくらいだったが、頬に感じる温もりは、木漏れ日のように優しい。
 玉は天にも届きそうな高さまで上昇した。すると、まるで光の玉を避けるようにして雲が割れていく。それに連れて風が、雪がおさまっていく。太陽が、ゆっくりと姿を現した。
 そして、世界は陽光に満たされた。
 太陽の周りを漂う、光の玉の姿がうっすらと見えた。
 私は、妖精さん達の方へと振り向いた。
 そこには、この空以上に晴れやかな皆の顔があった。
「──、──!」
「──!」
「────、──!」
 聞くことは出来ないが、歓声が眼に届いた。
 笑う者、はしゃぐ者、手を取り合って涙する者。
 喜び方は様々だが、誰もが冬の終わりを歓迎していた。
(良かった……)
 また泣きそうになるのをぐっとこらえ、私は人々の顔を見渡した。探しているのはもちろん、あの女の子の妖精だ。
 この世界が救われた以上、いつ部屋に戻されてしまうかわからない。その前に、どうしてもあの子に会って謝りたかった。
(いたっ!)
 あの子は広場の隅の方で、隣の人と手を取ってはしゃいでいた。
 時折うっとりと目を細めては、心から嬉しそうに空を仰いでいる。
(……)
 その姿を見て、私は踏み出そうとした足を退いた。
 こんなに嬉しそうにしているのに、水を差してはいけない気がしたからだ。
 あの事件は、彼女の心に癒えない傷を付けたかも知れない。しかし、少なくとも今は、それを忘れてあんなに喜んでいるではないか。ここで私が謝ったとしても、それはただの自己満足に過ぎないだろう。
(ごめんなさい……)
 私は心の中で呟いた。
 そう、これで良い。これで良いのだ。
 体が、ふっと浮き上がる。
 どうやら帰る時間らしい。
 誰かが気付いてこちらを向くと、また皆が一斉に跪いた。
(ごめんね、私、そんな立派なもんじゃないんだよ……)
 無理に笑顔を作って、手を振った。
 聞こえないはずの歓声が、いつまでも耳に痛かった。

 帰り着いた部屋は夕日に染まっていた。
 机の上に置いておいた携帯で日付を確認する。
 大丈夫、四時間しか経っていない。
 ほっと息をついて、床の上を見る。
 そこには、もう一つの穴も空いていなかった。
(終わったんだ……)
 見慣れた私の部屋。
 ほんの一月半前までは当たり前だった光景が、今は何だか空虚に見えた。
(終わったんだ……)
 頭の中で何度も繰り返す。
 我慢していた涙が、どっとあふれ出した。
(終わったんだ……)
 ずっと邪魔に思っていた光の玉も、もう何処にもない。
 私の手元に残ったのは、ノートに書いた記録と、忘れがたい思い出達だけだった。
(写真、撮れば良かったな)
 ふと、そんなことを思った。何故、今まで思いつかなかったのだろう。写るかどうかはわからないが、試してみて損はなかったはずだ。
(馬鹿だなあ、私……)
 小さく頭を小突く。少し、痛い。どうやら夢ではないようだ。
 いや、夢から、覚めたのか。
 私はゆっくりと立ち上がると、ベッドの上に体を投げ出した。
 頭の先から足の先まで疲れ切っていた。
 夕飯までは、まだ少し時間がある。眠ってしまっても大丈夫だろう。
(終わったんだ……)
 もう一度、心の中で呟く。
 私は、さっきまで見ていた夢がもう一度みられるように祈りながら、目を閉じた。
 まぶたの裏には、あの女の子の笑顔がはっきりと浮かんでいた。

   3

 穴が塞がってから、二ヶ月が経った。
 時折カーペットをめくってみたが、再び穴が空くことはなかった。
 あれは、やはり夢だったのではないだろうかと、最近少し思うようになった。
 ノートに記録は残っているものの、それ以外の証拠は何もない。
 掛け替えのない過去を振り返っても、共有出来る相手もいないのだから、夢なら夢でかまわない気もした。
 たとえ夢でも、思い出す度に胸が高鳴るこの気持ちだけは、本当なのだから。

 その後、私は真剣に仕事を探し始めることにした。
 もはや何でニートになったのかも、何で急に働く気になったのかもよくわからなかったが、とにかく部屋でじっとしているのは退屈でたまらなかった。とにかく、外に出て色々な世界に触れてみたかった。
 探す職種も、慣れた事務職ではなく、今まで挑戦したことのないようなものから探した。
 接客は色々な人と接することが出来て楽しそうに思えた。
 今から勉強して資格を取ることだって出来る。専門職も面白そうだ。
(なんだ、何だって出来るじゃないか)
 異世界を救うことが出来たのだ。自分の世界を変えるくらい、きっと楽勝だ。
 不思議な力がなくたって、人間はたくさんの可能性を秘めている──はず。
 突然前向きに動き出した私を見て、両親は多少戸惑ったようだったが、内心ほっとしているのを感じた。当然だろう。

「行ってきまあす」
「はあい、行ってらっしゃい」
 その日、私はバイトの面接をするため、昼過ぎに家を出た。
 個人経営のパン屋のバイトだ。
 面接は店の二階の事務所で行うとのことだった。
 私は家から歩いて十分ほどにある最寄り駅へと向かった。目的地は電車で二駅の場所にある。
 家から駅までは、川沿いの遊歩道を真っ直ぐに進んで行けば良い。
 せっかくなので、景色を楽しみながら歩いた。かなり余裕を持って出たので、時間は問題無い。
 この頃はすっかり秋めいてきて、ともすれば肌寒い日もあった。
 頬を撫でる風も心地よい。
 結局、十五分ほどで駅へと到着した。
 丁度到着した電車に乗り込む。平日の昼間だから、電車はガラガラだった。
 適当な座席に腰を下ろす。
 発車のベルが鳴り出した。
 ゆっくりと、発進していく。
 リズミカルな振動が、つい眠ってしまいそうなほど心地よい。
(だめだめ、すぐ着くんだから……)
 しかし、私の意思とは逆に、まぶたはどんどん重くなっていった──。

 目が覚めると、自分の部屋だった。
「えっ? うそ!?」
 慌てて携帯を手に取り日付を確認する。
「あれえ?」
 さっきまで夢をみていたのだろうか。携帯の時計は『今日の朝』を示していた。
「おっかしいなあ……」
 首を捻りながら床に降りる。夢にしてはずいぶんとリアルだった。
(取りあえず、顔洗うかあ……)
 まだどこか釈然としなかったが、ひとまず洗面所に向かう。
 鏡に映った自分は、夢の中でみた『今朝の自分』と同じく、寝癖とむくみでひどい有様だった。
 顔を洗い、歯を磨く。
「よし」
 気持ちを切り替えるように呟くと、私は階下へと向かった。
(……ん?)
 階段の一番下に降り立った時、ふいに違和感を覚えた。
(この感じ……、いつだったかも感じたような……)
 思い出そうとしてみるが、頭の中にもやがかかったようで思い出せない。
 例えようのない居心地の悪さを感じる。
(嫌な感じがする……)
 自分の家にいるのに、まるで他人の家に迷い込んだような気分だ。
 私は頭を捻りながら、リビングへと入った──。

「──。──」
 目が覚めると電車の中だった。
 アナウンスの声が、目的の駅に着いたことを知らせている。
 私は慌てて電車を降りた。
 背中で扉が閉まる音を聞きながら、ほっと息を吐く。
(何だったんだろう、今の夢……)
 私は今みた夢を思い出していた。
 あの嫌な夢。
 確か、数ヶ月前にも同じ夢をみた覚えがある。
(なんだよう、もう。怖いじゃないか)
 小さく身震いをしながら、改札をくぐった。

 面接の感触は上々だった。
 店長も優しそうなおじさんで、店内の雰囲気も好みだった。
 もしかしたら、受かったかも知れない。
 前職を辞めた理由なども形式上聞かれたが、私の答えに「まあ、うちは人柄重視で決めてるからさ。気にしなくて大丈夫だよ」と笑顔で答えてくれた。未経験という部分も「問題ない」と言ってもらえた。
 ついでにいくつかパンを買って帰った。
 どれも美味しそうだ。
(受かると良いな)
 心から思った。

「どうだった?」
 家に帰ると、玄関で待っていた母が開口一番そう言った。
「んー、とりあえず、好感触」
「良かったじゃない」
 母は私を抱きしめた。受かったわけではないのに、大げさだ。
 でも、悪い気分はしない。
「いつわかるの?」
「数日中には、ってさ。他にも応募来てるみたいだから、期待しないでね」
「わかってるわよ」
 本当にわかっているのだろうか。これで落ちた場合、私以上に落ち込まないでくれれば良いのだが……。
「他も平行して探すの?」
「ううん、一応返事来てからにしようかなって」
「そうね。それが良いわね。焦っても仕方ないし」
 そう言ってもらえるのはありがたい。
 母に買ってきたパンを渡し、私は階段を上った。

 自分の部屋に入ると、どっと疲れが出た。
 どうやらけっこう緊張していたようだ。
 このところ大分外出にも慣れてきてはいたが、外に出る時は一人か、母と一緒に買い物に出るくらいだったので、他人と会って話すのは久しぶりだった。
「ふう、お疲れ様」
 自分にそう言いながら服を脱いだ。開放感と共に眠気に襲われる。
 私はそのままの格好で、仰向けにベッドに飛び込んだ。
「やあ、今日は我ながら頑張ったなあ」
 誰にともなく呟く。
 バイトの面接を受けただけのことだが、妙に達成感があった。ニート生活の影響で、どこか感覚が麻痺してしまったのかも知れない。働いていた頃は、外に出て、緊張する場で人に会って話してなど当たり前のことだったし、私も当たり前に出来ていた。
(ま、これからまた慣れていけば良いさ。大丈夫、相手は同じ人間だもん。ピンクちゃん相手よりは何万倍も楽だよね)
 ごろんと横向きの姿勢になる。
(ん? なんだ、あれ?)
 私の視線の先には机と本棚が見える。
 その壁の真ん中あたり。机のちょっと上の位置に、何か汚れのようなものが付いている。
(ええ、何だろう。壁汚すようなことはしてないけどなあ)
 近付いて見てみる。それは小さなヒビだった。
 左上から右下にほんの少しだけ傾いて走っており、長さは5センチ程度だろうか。
(うそ。うわ、どうしてえ……。まだそこまで古くなってないよねえ……)
 指でなぞってみる。間違いなく、ヒビだった。
(さすがにこれはママに報告だ)
 私は急いで部屋着に着替えると、母を呼びに階下へと向かった。

「ええ? ヒビ?」
 私の報告を聞いた母は、さっきまでの上機嫌は何処へやら、眉間に皺を寄せてこちらを睨んできた。
「あんた何かぶつけたんじゃないでしょうね?」
「そんなことするわけないでしょ。何で疑うのよ」
「まずは味方からって言うでしょ」
 それは、違う。が、面倒なので流すことにした。
「とにかく見に来てよ」
「ええ、もう、どこなのよ」
 母はぶつぶつ言いながら、私の後ろを付いて階段を上った。
「ほら、これ」
 部屋に入り、私は壁のヒビを指さした。
 心なしか、さっきよりも広がっている気がした。
「これって……どれよ?」
 母が私の指先を見ながら、訝かしげに尋ねる。
「どれって……ほら、これ」
 私は改めてヒビを指さした。
「だから、これってどれよ」
 母はイライラした様子で言った。
 この距離で見えないはずがない。現に私には見えている。
 私には……。
(あれ? もしかして……)
「あ、あれえ? おかしいなあ。さっきここにあったはずなのになあ」
「……ホコリとでも見間違えたんじゃないの?」
「そう、ホコリ。ホコリね。ああ、気付かなかったなあ。そうかも。きっとそう」
「まったく、人騒がせなんだから」
「ごめん、ごめんねえ。ははは……」
 扉を閉め、母が下へ降りたのを音で確認してから、私はもう一度壁の方へと向き直った。
 見間違いなどではない。
 触れれば感触もある。
 確かに、ここにヒビは存在しているのだ。
 しかし、母には見えないということは……。
(これってもしかして、あの穴の類いのもの?)
 どうやら私の非日常は、もうしばらく続きそうだった。
6, 5

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