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水底から見上げる光は、上から眺めるそれより揺らめいてとてもきれいなのだろうね。 

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 一番下の子はいつも肝心なところで愚図なんだから、というのが母の口癖だった。あの人は話題が尽きると井戸端会議仲間の人魚たちにそれを言いふらす。その言葉を『偶然』耳に入れるたびに、たとえ四人の姉と戯れている途中であっても私は暗く陰鬱な気分になった。それでも姉が口々に慰めてくれると少し心は晴れる。けれども母の言葉には悪意こそないが的を射ている、その事実が一番私をがっかりさせるのだ。

 「浅葱姉さま、次は何をして遊びましょう」
 岩盤の間の少し開けた広場。四番目の人魚、萌黄が甘えるように長女に声をかけた。そうねえ、と浅葱姉さまが考え込む。わたくしはそろそろ御本が読みたいです、と私は提案した。
「えーっ。翡翠はいつもそれだわ。本なんていつでも読めるもの。浅葱姉さまは明日からきっと私たちと遊ぶ暇もなくなるのよ。翡翠は悲しくないの」
萌黄がふくれっ面で抗議した。それもそうだ、と次女の白銀も同意する。
 人魚のしきたりによると、私たち人魚王家一族は18歳になると浅瀬に出ることが許される。そして長女である浅葱姉さまは明日で誕生日を迎えるのだ。
「いやあね、萌黄。私はすぐに帰ってくるわ。それに外の世界がどんなに美しくたって、あなたたち妹が一番大事だわ」
浅葱姉さま、と萌黄がうっとりと目を細めた。
「でも翡翠が本を読んでばかりいるのは良くないのではなくって」
「わかっていますわ、紫音姉さま。でもわたくし、一度読みだすと止まらなくって……続きが気になって仕方が無くなるのです」
三女の紫音に反論する。けれど萌黄の言葉を聞いて、浅葱姉さまのそばにいたくなったのも事実だ。
「やっぱりわたくし、お歌が歌いたいですわ」
私の言葉に浅葱姉さまがにこりと微笑んだ。
「そうね、人魚ですもの。盛大に歌いましょう。わたくしが今日という日を忘れないように」
 そのことばを聞いて、私の心にふっと陰りがさした。私たち五姉妹のほかにも皆の視線を集める浅葱姉さまは、『水底の天使』という渾名をつけられている。そんな人魚の鏡である浅葱姉さまがまさか地上に心惹かれて帰ってこないなどと言うことはあるまい。
 人魚は所詮海の住人。地上の人間と相容れることはできない。けれど、人間に恋をした人魚の話を昔おばばさまから聞かされたことがある。その人魚の悲惨な末路。禁忌に恋い焦がれた娘は思いの届かない人間に絶望し、やがては泡になる。
 浅葱姉さまがもし、地上の人間に恋をしてしまったら――?
 
 ひとしきり知っている歌を歌い終えると、私たちはそれぞれの部屋へ戻った。水の色が紺に変じれば、夜。色が変わるのは空の光が水に入ってくるからだとおばばさまが言っていた。空とは何、と萌黄が聞くとおばばは笑って15歳になったら分かる、と言った。浅葱姉さまは、空を見に行くのだ。

 海草の布団に包まる。浅葱姉さまの顔を思い返しながら、眠りに就いた。
 「水底の天使様、15歳のお誕生日おめでとうございます!」
部屋を出ると、宴の用意はすっかり調っているようだった。私たちの住処である神殿の外には、浅葱姉さまを湛える声がいくつも上がっている。
 「おはよう翡翠」
外の様子を見ようとバルコニーまで漂っていくと、紫音と次女の白銀が揃って立っていた。
「おはようございます、紫音姉さまに白銀姉さま。萌黄姉さまは」
「萌黄ならまだ寝ているんじゃないかしら。私が起こしに行くわ」
紫音を呼び止め、それなら私が行きますと身をひるがえした。白銀の苦笑が背後に聞こえる。翡翠のほうが年下なのに、萌黄が末っ子みたい。まったくだ、翡翠を見習うべきだな。そんな声を背中で受け止めて、なんとなく恥ずかしくなった。
 
「萌黄姉さま」
「ふぁい」
寝起きの声がして、扉が開いた。「いっけない、早く起きなくては。翡翠ありがと、すぐ行く」
すぐ行く、というのは嘘ではなかった。もともと人魚は身支度がすばやいのだ。いつか読んだ本には、人間は服という海草みたいなもので出来たものをまとい、髪の毛を結って、更には女性は顔に絵具のようなものを塗るらしい。それに比べて人魚は胸を覆う貝殻と特別な時にだけ戴くティアラのほかに身につけるものはない。
 「浅葱姉さま、いらした?翡翠見た?」
さっきとは打って変わって好奇心に満ち溢れた萌黄がまた扉から姿を現した。
「わたくしは見ていませんわ。はやく浅葱姉さまにお会いしたいものですわね」
「私昨日から浅葱姉さまのティアラを付けたお姿を想像すると眠れなくって……!だから今日寝過してしまったのよ、ふふ」
「萌黄姉さまったら……」
つられて私も笑ってしまった。
「おっ、萌黄来たか」
白銀の声。白銀は私たち姉妹の中で唯一髪を短くしている。言葉もなんだか男性みたいで、両親からはいつも注意されているが治そうとしない。それでもはしたないとは全く思えないのは、そんな白銀の立ち居振る舞いがあまりに凛としているからだろう。その名の如き色の髪も美しい。
 「ん、どうした翡翠?まだ眠いのか?」
我に返る。気づかないうちに白銀に見とれていたようだった。
「な、なんでもございませんわ」
「ふふっ、翡翠は落ち着いているのに、たまにぼーっとしているわね」
紫音にからかわれて、顔が赤らむのを感じた。
「お姉さま方、早く行きましょうよ!私、もうまちきれなくって」
萌黄がせがむ。はいはい、と白銀は先導して広間へと泳ぎだした。姉が次々と後に続く。
「ひーすいー、はやくおいでよ」
「あ、はい!」
私も負けじと泳ぎ始めた。
3, 2

  

 広間にはたくさんの客人が集められていた。それでも白銀がその間をうまく縫っていくお蔭で、難なく舞台の袂まで着くことができた。
「遅い」
開口一番に不機嫌な父からのお小言をいただいた。
「ごめんなさい、私が寝過してしまいましたわ……」
「いいじゃないですか。開場には間に合ったのなら」
萌黄の謝罪も白銀のとりなしも、父には逆効果だった。
「大体お前たちは姉の晴れ舞台だというのに我が家柄の恥になりおって」
「それくらいにしてくださいな、お父様」
わきの扉から姿を現した浅葱姉さまに、私たちとそれに父まで言葉を失った。
「王様たるもの、寛容な心でいるべきではなくって?」
茶目っ気たっぷりの目で微笑まれると、さすがにいくら厳格な父でさえも相好を崩さずにはいられないようであった。
「浅葱姉さま、素敵……!」
萌黄が抱きつきかねない勢いで浅葱姉さまに駆け寄る。
今日の浅葱姉さまは一段と美しかった。貝殻や宝石の嵌まった綺麗なティアラでさえも、浅葱姉さま自身の魅力に引きかえると急に色あせてしまうほどだった。
「こら萌黄、浅葱のティアラが落ちたらどうするの!」
王妃たる母君の御到着、だ。この人にいたっては怒らせると父より怖い。萌黄はぺろりと舌をだしてすぐに浅葱姉さまから離れた。それでもいつもよりピリピリしている父とは違って、母は女だてらにさすがに落ち着いていた。
 「あなたたちはそこの席から眺めていらっしゃい。浅葱、お父様と私に続いて舞台へ」
私たちは浅葱姉さまを見逃さないように急いで席についた。間髪いれずにするすると海草を編んだ幕が上がる。父が壇上に上がった。
「このたびは、我が娘の成人式によくぞおいでくださった。主賓は隣の海の王子殿。御起立戴いてよろしいかな」
すると白銀のすぐ隣の青年が立ちあがった。昼間の海に良く似た青い髪に、青い鱗の下半身。背の高い温和な顔立ちの、なかなかの好青年だ。
 「こちらこそ、本日はお招きくださりありがとうございます。葉月と申します。
これまでは長い間戦において敵同士でしたが、これからは友好的な関係を時間をかけて紡いでいければと思っています」
私が青年の顔を見つめていると、紫音が小声で「あの人、浅葱姉さまのことが好きなのよ」と囁いた。
「嘘。だって今初めて会ったのでしょう」
「きっと一目惚れよ。目が違うもの」
言われて視線の先を追うと、成程澄ました浅葱姉さまがいた。
「でも浅葱姉さまはきっと告白されたって頷くわけがないのでしょう?」
「分からないわ。でも私はあの人と浅葱姉さまには結婚して欲しくないわ。だってそうなったら政略結婚みたいじゃない。おさまりがつかない」
紫音は私より余程難しいことを考えているのだろう。
「わたくしはお似合いだと思いますわ……」
母の視線が飛んできたので、口を噤んだ。
 ひとしきり宴も和やかに進行し、いよいよ浅葱姉さまの出立が決まった。

宮殿の外へ私たちは泳ぎ出て、最後は家族だけで見送る。
「浅葱姉さま、」
早く帰ってきてください?違う。そんなことを言ってはいけない。
「どうぞ、ご無事で。」
それだけを辛うじて言って、顔を背けた。
「ありがとう。お父様とお母様にはもう伝えたのだけれど、あなたたち妹にはひとつひとつ、言葉を考えてきたのよ。仰々しいかもしれないけれど、聞いて下さる?」
私たちは黙ってうなずいた。
「まず、紫音。今日舞台から見ていて思ったのだけれど、貴女は立派な姉だわ。しっかりとほかの妹たちをまとめてくれていた。もう私がいなくても大丈夫ね」
ふふっ。
完膚なきまでに美しい微笑みが。
「浅葱――姉さま――?」
「次に、白銀。私たちの中で一番凛々しいわ。新しい道を、先頭を切って切り開いていってちょうだいね」
「……浅葱姉さまが先頭に決まっているでしょう」
紫音が指摘しなかったことを、白銀は言ってのけた。
ふふっ。
浅葱姉さまは笑んだだけですべての口を封じる。
「萌黄。あなたは忘れないで、その笑顔と温かさを。あなたの光を求めている人がいる」
萌黄はいまや声をあげて泣いていた。「浅葱姉さま、いや。行かないで」
「私は広い海を見にゆくだけよ」
次が私の番だ。
「そして、翡翠」
「はい」
「あなたは私に似ている。忘れないで」
忘れ――ないで――?
「浅葱姉さま、何を考えていらっしゃるの」
私は我慢できなくて問うた。浅葱姉さまはただ笑って首を振った。引き下がるしかなかった。
「行ってきます」
浅葱姉さまは最後にもう一度きらきらと笑ったかと思うと、上のほうへ手を差し伸べてゆらゆらと消えていった。残された私たちはそれぞれ複雑な思いを抱えていた。うれしいはずなのに。

そして、それが浅葱姉さまを海底で見る最後の姿になる。
5, 4

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