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きょうりに思いを秘めて/硬質アルマイト

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   一

 改札を抜けると、嘗て住んでいた街が姿を現した。
 茹だるような暑さと目も眩むような光の先で、遠く陽炎が揺れているのが見える。私は改札を出た傍の日陰にキャリーバッグを立てると携帯を覗き、指定されていた集合場所を向かいの通りに確認すると、額を流れる汗をハンカチで拭った。
 肩提げの小さな鞄から日傘を取り出して広げ、キャリーバッグを再び引き始める。もうここを離れて随分経つけれど、景観がまるで変わっていない事に驚き、そして同時に懐かさも感じた。
 中学生の時、私はこの街を離れた。
 親の都合による転校で初めは酷く寂しさを感じたが、人は次第に慣れていくもので、新しい生活の場に馴染んでいくうちに、嘗ての住処や友人は過去の思い出となり、暫くはあった手紙やメールも何時、どちらが最後に出したのかも分からない程自然に立ち消えて無くなった。
 そんな私がここに戻ってきたのは、小学校の廃校が理由だった。
 あの頃に比べて随分と街の子供も減り、私の頃は一学年に四クラスもあった学校もいつの間にか二クラス、一クラスと減少していき、そんな生徒数問題に対する打開策が、隣街の小学校との合併で、結果私の母校は廃校になることが決定したらしい。
 いつまでも永遠だと思っていた思い出の場所だって、時間は絶え間なく動いている。私の知らない時間を過ごした結果が、廃校。
 よく通った図書室も、鬼ごっこや氷鬼で駆け回ったアスレチックや校庭も、はしゃぎ回ったプールももう無くなってしまうのだ。そう思うと、胸の奥がちくりと痛んだ。
 向かいの喫茶店に到着して、私はもう一度額の汗を拭うと、一呼吸入れてから扉を開けた。
 ドアベルが鳴って、女性店員がお辞儀をしてくれる。どこか無愛想に見えるけれど、とても綺麗な澄んだ声で話す子で、表情とは裏腹に随分しっかりしていた。
 私は彼女に待ち合わせであることと、一人の男性の名前を告げた。すると店員は頷いて奥の方に私を案内してくれる。歩く姿勢から何まで綺麗で、思わず私も姿勢を正そうと背筋を伸ばしてしまう。
「アヤノ」
 奥の席に座る三人の内、一人の女性が私を見て声を上げ、それを合図に残りの二人も顔をこちらに向けた。
「久しぶり、ミサキ、リョウヘイ、ユウキ……で合ってるよね?」
 三人は頷くと席を引いて私を快く迎えてくれた。キャリーバックを傍らに置いて鞄を椅子の背に置くと腰掛ける。アイスコーヒーを一つ注文すると、無愛想に見える店員は一度お辞儀をして行ってしまった。
「九年ぶりかな」
 向かいに座るミサキはそう言うと、頬杖を付いて私を懐かしそうに見つめる。首を傾げる度にパーマの掛かった茶髪が揺れた。
「もうそんなに経つのね」
「引越した日の事はよく覚えているよ。九年で間違い無い」
 右隣に座るユウキは黒縁メガネの位置を直しながらそう言った。左に座るリョウヘイは暫く私の事をじっと見つめた後、目を細めると「本当に久しぶりだ」と小さく漏らす。
 彼ら三人とは小学生時代からの付き合いだ。
 元気一杯なリョウヘイが先導し、家が隣という理由でミサキが巻き込まれ、二人と仲の良かった私とユウキが二人を追う形でついていく。男女とかそういった区切りは無く、ただ一緒にいて楽しかったから、このグループで遊び続けていた。
 皆本当に大きくなった。
 同じくらいの身長だったユウキも大きくなって、がっちりとした体つきをしている。まんまるとした顔だったリョウヘイも頬骨が目立つ凛々しい顔立ちになったし、ミサキも女性らしいラインをしていて、特にワンピース越しに見える豊かな胸と、ほっそりとした白い指がとても綺麗だった
「メールにも名前無かったけど、ナツメ君はどうかしたの?」
 このグループにいた最後の一人の名前だ。私が尋ねた途端、三人の顔がさあっと色を無くしていくのが見えた。
「ナツメは、いないんだ」
 俯いたままリョウヘイがそう口にすると、他の二人も小さく頷いた。
 どうして、と続けて尋ねようとした時、私の前に店員がアイスコーヒーを置いた。声も掛けずに突然すっと手が現れたものだから思わず声を上げそうになったが、寸でのところで堪えると、腕の出てきた方を目を細めてじっと見つめる。店員は変わらず無愛想な表情を浮かべ、小さく会釈をすると踵を返して行ってしまった。
「ナツメ君がいないって、どういうこと?」
 一呼吸置いて改めて尋ねると、ミサキが顔を上げた。
「私達も分からないの。突然消えちゃった」
 リョウヘイとミサキは顔を見合わせて頷く。
「中学を卒業して間も無くだったかな」
「ナツメは決まっていた進路をキャンセルして、どこかに行ってしまったんだ。ほとんど家出同然さ。親御さんが捜索願を出していたけど、もうずっと音沙汰が無い」
「ずっと?」
「そう、ずっと」
「ナツメ君がどこで何をしているのか、生きているかすら私達には分からないの」
 ごめんね、と謝るミサキに首を振りながら、私は彼の姿を思い出す。
 短髪で鼻筋の通った、肌の白い男の子だった。成績は中の上で別に悪いわけでは無かったし、運動だってリョウヘイと走り回れるくらい体力もあった。
 けれどどこか儚げで、いつか消えてしまいそうに見える少年だった。
「廃校の報せを機にもしかしたら、と思ったんだけど、来る気配は無いな」
 残念そうに首を振るユウキに対し、リョウヘイは憂鬱そうに少なくなったアイスコーヒーを啜る。
「そもそもの参加者が少なくてさ……。皆用事だとかスケジュールがとかで不参加を送ってきてるらしい。連絡すら届かない奴だっているし、実際のところ散々な結果だよ」
「今日の集まりはリョウヘイが主催なの?」
「いや、アサマ。あいつのこと覚えてる?」
 確か、私が引っ越す前に生徒会長になった男子生徒がそんな名前だった気がする。曖昧ながら頷く。
「当時の教師とかにも声をかけて大きく学校を弔おうって躍起になっているみたいだけど、もう十年近くも前になると皆、母校なんてどうでもよくなるのかねぇ……」
「私達四人を入れて三十人いるか居ないかくらいだってさ」
 四クラスもあったうちの一クラス分しか集まらなかったのか。
 でも実際のところ……
「私も、リョウヘイ達の連絡が無かったら来てなかったかもしれない。結局のところ、学校というよりは懐かしい顔ぶれとの再会の気持ちが強い人が集まったのかもしれない」
 喋り終えて、私はアイスコーヒーを口にする。溶けた氷の冷たさと珈琲の苦味が喉をするりと滑り、香りだけを残してすっと消えていく。その感触に涼しさを感じながら、私はふとナツメ君の姿を脳裏に浮かべた。
 私には、忘れることの出来ない彼との秘密の出来事があった。
 引越しの前日に私は彼から告白されたのだ。
 蝉の五月蠅い夜の校舎裏での出来事だった。彼はずっと前から好きで、今しか言うことができそうにないからと、告白と共にそのまま私の唇を奪った。彼の口からサイダーの匂いがしたのを覚えている。
 正直な所今日この街に向かう電車の中で、彼とどんな顔をして会えば良いのか分からずにいた。あの時出来なかった返事を今も彼は待っているだろうか。ナツメ君がもうこの街から居なくなった事にホっとしながら、けれど彼の気持ちが分からないままであることが残念で堪らなくなった。
 彼は何処へ行ったのだろうか。
 私にキスをした彼は、街灯に照らされてより一層儚く見えた。今にも夜闇に消え入ってしまいそうなほど、透明で、このままもう二度と会えないような不安すら抱かせるほどに……。あの時感じた不安は、杞憂では無かったのかもしれない。
 からん、と音がして私は我に返る。
 グラスの中の氷が溶けて動いた音。アイスコーヒーの中で光を内包して鈍く輝くそれを眺めながら、私は彼が消えた事を改めて残念に思った。
「でも、こうして皆と会う機会が出来るなんて思いもよらなかったから、嬉しい」
 ナツメ君の事は確かに気になるけれど、それは本当だった。
「それで、ユウキから提案があるの」
「提案?」
「また十年経ってないけど、次いつ会えるか分からないからと思ってね」
 ユウキはメガネの位置を整えるとそう言った。私が首を傾げていると、一枚の写真を胸元から取り出して、テーブルに置いた。私とリョウヘイと、ユウキにミサキ、そして少し離れた所にナツメ君がいる集合写真だった。
「家のアルバムにまだ残ってるよこの写真。確か、秘密基地で撮ったやつだよね?」
「そう、秘密基地。まだ覚えていてくれて嬉しいよ」
 ユウキは嬉そうに眼鏡の奥の目を細めた。
 ダンボールとか、粗大ごみから拾ってきた椅子とかを持ってきて、裏山に私達は秘密基地を作った。といっても夏の間で、学校が始まって暫くしたら全て綺麗に片付けられてしまったし、基地と言ってもただ物を適当に置いているだけの、いかにも小学生が作った拙い出来のものだ。
 けれど夏休みの間私達はそこで漫画を読んだり、シャボン玉を吹いたり、お菓子を食べたりと、五人だけしか知らない秘密を胸に得意げになったものだ。
 でも、何故今更そんな基地で撮った写真を持ってきたのだろう。
「流石に何をしたかまでは覚えてないか」
 考える私を見てユウキはニヤリと笑う。
「何をしたか?」
「そう。お前が引っ越す間際にナツメが提案した事があっただろ?」
 リョウヘイに言われてもうまく思い出せない。私は眉を潜め、腕を汲んで唸った。いつも一歩下がった位置から私達を見ていた彼が提案したアイデア……。
 悩み続ける私に痺れを切らしたのか、ミサキがそっと鍵を取り出すと私の前に置いた。
 それで、やっと思い出した。
「タイムカプセル」
「本当に覚えてなかったんだな」
「なんでだろう、すっぽり抜け落ちていたみたい」
「まあ引っ越して街を離れて九年だ、仕方がないさ」
 リョウヘイの言葉に二人は頷いた。
「それで、来年また会えるかも分からないし、何よりナツメは何処にいるか分からない。だからこうして会えた時にでも開けてしまわないと一生埋められたままになりそうだと思ってね」
「鍵もちゃんと見つかったから」
「お前が一番信頼できるって話だったもんな。絶対に無くさない気がするってナツメが推してた」
「タイムカプセル……。私、何入れたんだろう」
「不思議と俺も、ミサキもユウキも覚えてないんだ」
「誰も覚えていないの?」
 三人が頷くのを見て、私は驚いた。タイムカプセルを埋めた事や鍵の持ち主はちゃんと覚えているのに、自分が入れた物だけ思い出せないなんて。
「何より、ナツメが入れた物がとても気になっているんだ」
「ナツメ君が?」
「俺さ、ナツメに何を入れたのか聞いた事があるんだ」
「あんたそんな反則してたの?」
 目を細めるミサキにリョウヘイは苦笑いを浮かべると、誤魔化すようにアイスコーヒーを啜った。
「時効って事にしておいてくれ。ともかく、あいつが入れるものってあんまり想像が出来なくて気になったんだ。普段から飄々としていてどこか掴めない奴だったからさ」
「確かに何を考えているか分からない奴だったな」
 ユウキの同意を得たリョウヘイは深く頷く。
「この際こっそり聞いた事は水に流してあげる。それで、ナツメ君はリョウヘイの言葉になんて答えたの?」
 嘆息を一つしてからミサキはそう尋ねた。
 リョウヘイは暫く俯いて黙っていたが、やがて顔を上げると口を開いた。
「なんでも、「夏」を入れておいたらしい」

  ニ

 私の代で集まった卒業生達は結局地元民を除けば数十人程度だった。ただ、他の代の卒業生や近隣の住民もこの学校が無くなることを惜しんでやってきていたので、それなりの人数は集まっていた。
 随分前にこの街を離れた私はやはりと言えば良いのか、声をかけられる人も少なくて、次第に居心地が悪くなって校庭の隅の方でぼんやりとイベントを眺めながら、ミサキが持ってきてくれた飲み物を飲んでいた。地元の酒屋が盛大に振舞おうと用意したものらしく、普段からあまりお酒を飲まない私でも味の違いが分かるくらい、しっかりしたものだった。
「貴方、もしかしてアヤノちゃん?」
 隅の方で丸まっていると、一人の女性が私に声をかけてきた。暫くじっと見つめ、それから彼女がナツメ君の母親であることにやっと気づく。あの頃は黒かった髪も白髪が目立つようになっていて、年月の経過を私に実感させた。
「来てるって聞いて探していたの。あの頃はいつもありがとうね」
「いえ、あの……ナツメ君は」
 彼女はそっと首を振る。
「分からないの」
「私も、今日来て驚きました。会えるのを楽しみにしていたこともあったので」
「私もね、貴方が来てると知った時、なんだかナツメも戻ってくるんじゃないかとなんとなく思ったわ」
「私が、ですか?」
 彼女は頷く。
「ナツメ、アヤノちゃんの事をとても好きだったみたいだから。いなくなっちゃった時はね、貴方を追って行ってしまったんじゃないかなんてことも思ったの」
「私を追って、ですか」
「あの子、帰ってくるとまず初めにアヤノちゃんがどうだったか、今日はどんな服着てて可愛かったとか、そんなことばかり言ってたのよ」
 楽しそうに話す彼女を見て、私も不思議を笑顔になれた。あんなに物静かな彼が、家ではそんなだったなんて想像もつかない。
 けれど、それだけ私に好意を抱いてくれていたことがなんだか嬉しかった。
 思い出話に花を咲かせている彼女も、やがて暫くすると寂しそうな表情を浮かべ、それから俯いてしまう。多分、現実に戻ってきてしまったのだ。
「ごめんね、突然やってきてこんなお話をしちゃって」
「いえ、ナツメ君の事が聞けたし、またおばさんに会えて嬉しいです」
 本心からの言葉を伝えると、彼女は少しだけ救われたような顔をして、それから立ち上がると持っていたお酒を口にすると、私にお辞儀をして行ってしまった。
 また、私は一人だけになった。なんとなく廃校の決まった校舎に目を向ける。灯りの消えた校舎にぽつり、ぽつりと赤い照明と緑の照明が浮かんでいる。もう誰も使うことの無くなった避難場所を今でも照らし続けている姿は、なんだか寂しそうに見えた。
 敷地の外の街灯に照らされた校舎の姿は少しだけ不気味で、あの頃遊び回った大好きな場所とは似ても似つかない気がして、そんな見方をしてしまう自分がまた嫌になった。
 これ以上見ている気にならなくて私は目を逸らした。校庭の中央では持ち込まれたライトやテーブルでパーティ会場が設営され、傍では誰かの持参した花火で遊びまわる子供達も見える。きっと皆学校での思い出を語りながら、もう戻ってくることのない過去を懐かしんでいるのだろう。
 ナツメ君は、何故消えてしまったのだろう。
 決して一人では出ることの無い答えを探しながら、私は残ったお酒を煽った。喉元を過ぎて、身体の奥底から熱が迫り上がるのを感じる。顔が火照って、視界が揺らぐ。
 ふわりふわりと丁度いい酩酊を愉しんでいるところで、リョウヘイがやってきた。
 彼は私を見て、呆れた様子で肩を竦めると持ってきたコップを私に握らせる。中身は冷たい水だった。
「弱いのに飲むからだ」
「別に弱くないよ」
 意味のない去勢を張ってみたが、彼はため息で私の返答を一蹴すると隣に腰を下ろす。意識が少しだけ身体からズレているように感じる。普段ならまだ飲めたのに、今日はなんだか違う所にお酒が入っている気がする。
「ナツメのおばさんと、何話してたんだ?」
 リョウヘイは私の方を見ないで言う。
「別に大したことじゃないよ」
「そっか」
 納得しているようには見えなかったけれど、それ以上聞くつもりは無いらしく、彼は自分のコップを煽ると喉をごくりと動かした。見ているこちらの気分が良くなるくらい彼の飲み方は豪快で、格好良かった。
 私は水の入ったコップを置いて足元をじっと見つめる。ついこの間買ったばかりのサンダルから、マニキュアでコーティングした紅い爪が見えた。指の腹でそれを撫でていると、彼はなあ、と私を呼んだ。
「向こうでは、何してるんだ?」
「向こうで?」
「仕事だよ。大学はもう卒業してるんだろう?」
 ああ、と私は納得して、それから言おうか言うまいか少しだけ悩む。足の指の間に自分の指先を挟んだり、挟まれたりしながら、私はもう一杯飲もうかと盛り上がる会場に目を向けた。リョウヘイはそんな私の考えを読んだのか自分のコップをこちらに寄越した。
「今更間接キスなんて歳でも無いだろう」
「そうね……。そういえば、昔それで喧嘩したよね」
「誰が?」
「私とリョウヘイ」
 記憶に無いような素振りを見せる彼に笑いかけてから、私はその時の事を丁寧に語った。
 丁度今頃の時期。私は暑さにやられて酷く調子を崩してしまった。ぐったりしている私にリョウヘイは飲み物を分けてくれたのだが、それを運悪くクラスメイトが見てしまい、以降私と彼を持て囃すのが流行ったのだ。余りにも児童らしくて下らない出来事だったが、その頃の私達にとっては大分堪えた出来事だった。
 ある時、黒板に書かれた私とリョウヘイの相合傘を見て、彼はとうとう耐え切れなくなったのか私を指さすと、大きな声ではっきりと言ったのだ。
――誰がこんなブスと。
「そんなこと、あったかな」
 リョウヘイは恥ずかしそうに短い前髪を指先で捻りながら、ぼそぼそと言った。
「それで、その後どうなったんだ?」
 その後は――。曖昧な記憶が整理されて、靄のかかっていた過去が鮮明になっていく。お酒の力か、それとも昔話のお陰なのか分からないが、悪い気持ちはしなかった。
「ビンタしたよ。リョウヘイの事」
「……もしかして、俺殴り返した?」
 恐る恐る尋ねる彼に頷きを返すと、彼は酷く渋い顔をしてみせた。
「顔面に一発。暫く呆然として、鼻血が出てじんじん痛み始めてやっと殴られた事に気付いて、大泣きした」
「また、あまり良い思い出とはいえない話を掘り出してきたもんだ」
「なんだろう、でも思い出しちゃったの」
 そう、思い出してしまって、それを誰かに言いたくて堪らなくなった。私は貰ったお酒を一口飲んでから、一度深く深呼吸をした。
「俺も少し思い出したよ。確かに一度だけお前を殴ってる」
「良かった、ちゃんとした思い出だ」
「痛い思い出なのに?」
「痛いけど、懐かしい思い出だよ。ちゃんと私達は小学生をやってたんだって思うと、少し安心した」
「そっか」
 私の顔を見て彼はどこか安心したようだった。その柔らかな表情を見ているうちに、体中の熱が再び上がっていくのを感じた。酔いがまた回ってきたみたいだ。
 だからだろうか、私は足元を見つめながら、口を開いてしまった。
「留年しちゃったの」
「じゃあ今も学生か」
 リョウヘイの声は、優しかった。
「家族に怒られて、今は卒業できるだけの単位を集めながら、学費の為にバイトばかりしてる。これから就活もあるし、今日が終わったらまた忙しくなると思う」
「そっか」
 リョウヘイが少しだけ、私との距離を縮めるように動いたのが、横目に見て分かった。
「じゃあ、夢もまだ叶ってないのか」
――夢? リョウヘイに言われて私は思わず顔を上げた。煙草一本分あるかないかのところに彼の顔があって、動揺で少しだけ胸が高鳴る。
「ファッションデザイナーの夢」
「……小学生の頃の夢か」
「中学の時も言ってたけどな」
「そうだっけ?」
「うん、言ってた」
 素敵な服を作るんだと言っていた頃は、確かにあった。どこかのファッションショーで着てもらえるくらい、皆が見惚れるものを作りたいと。
 いつから、そんな夢を夢としか思わなくなったのだろう。
「あの時のハンカチ、実は今も持ってるんだ」
「ハンカチ?」
「そう、それぞれの好きな色の生地に名前を縫いつけてくれたハンカチ」
 ミサキは黄色、ユウキは青、リョウヘイは赤。
 ナツメ君は、白……。
「縫った、覚えある」
「殴ったことは覚えてるのに、それは忘れてるのか」
 寂しいなあ、と笑う彼の目は、言葉の通りどこか淋しげで、その目を見ているうちにじわりと罪悪感が滲んだ。九年は、あまりにも長すぎると言い訳しようとして、それがなんだか醜く思えて、結局留めておくことにした。
「リョウヘイ達は、今どうしてるの?」
 代わりに口にした言葉と共に私は誤魔化すようにお酒を煽る。
 心の何処かで、多分私みたいなのが居て欲しいと願っているのだ。幼い頃抱いた将来の夢ですら忘れるくらい今が分からなくなっている人間がいないかと……。
「俺とミサキは、この街で仕事してるよ」
「仕事?」
「あいつは役所で事務やっていて、俺は営業やってる。より良い物を売り込むために毎日歩きまわってる」
「そっか」
「ユウキは院生。研究に時間を費やしたいとかで燃えてるよ」
 三人とも、ちゃんと道を決めたのか。そう思うと、同じ人間を探していた自分が酷く恥ずかしく、小さく見えた。
「でも、誰も夢なんて叶ってないんだ」
「誰も?」
 リョウヘイの言葉に私は思わず目を見開く。彼はまた淋しげに微笑んでから、後ろに手を付いて空を見上げた。私も彼の真似をして頭上に目を遣る。
 夜も深くなってきて、頭上には満点の星空が広がっていた。大小様々な輝きを放つ星達は、繋ぐ糸の切れたスパンコールみたいに散りばめられて、漆黒にささやかな光を映している。夏の大三角形も綺麗に見えた。
「今日は良い星空だ」
 リョウヘイの言葉に、私は頷く。
「でも、この中にはもう死んでる星もいるんだよな」
「死んでいる星?」
「今届いてる光は何百年も前のものって聞いた事がある。だから、今ここで光っていても、実際はもう消えて無くなっている星だって相当あるんじゃないかな」
「そっか、こんなに綺麗なのに、死んでるかもしれないのか」
 そう思うと、途端にこの綺麗な景色が墓場のように見えて、悲しくなった。どんなに綺麗な輝きでも、届く頃には死んでしまっているかもしれない。届いても、自分はそれを見ることが出来ないのかもしれない。
 それは、何よりも残酷な事ではないだろうか。
「ミサキは、元々教師を目指してたんだ」
 星を眺めていると、リョウヘイは唐突に話始めた。
「ユウキはサッカー選手。中学の時はスポーツ関係の仕事に関わりたがってたかな」
「皆、今と違うね」
「高校、大学と経た結果、出来る事や出来無い事を考えて、その結果納得のできる選択をしたんだろう。でも昔から夢を語る二人、いや三人の姿を見ていただけに、少し、寂しいんだ」
 その中には、私の事も入っているようだ。
 もしかしたら彼は、今日久しぶりに会える私にどこか期待していたかもしれない。地元でそれぞれが夢とはかけ離れた道を選んだ中で、私だけはちゃんと道を選んでくれたと、そうであって欲しいと思っていたのかもしれない。
 だとすれば、私は酷く残酷な結果を彼に突き付けてしまったのでは無いだろうか。
「リョウヘイは、どんな夢?」
「俺?」
「やっぱり、叶わなかったの?」
 リョウヘイは暫く虚空を見つめ、口元を緩めると笑った。
「俺は多分、一番最初に駄目だと諦めた人間だよ」
「一番、最初?」
「ああ、中学二年かな」
 私が転校した時、ナツメ君にキスをされた頃。
「どんな夢だったの……?」
 恐る恐る私は尋ねた。
 彼は漸く私を見て、寂しそうに笑った。
「俺はお前が好きだったんだよ」
 その言葉に、私は何も返すことが出来なかった。
「アヤノ、今恋人は?」
「いない。大学の時いたけど、色々あって別れちゃったから」
 リョウヘイは頷く。
 私は彼の穏やかな瞳を見ながら、なんとなく、言わなくてはいけない気がして、小さく呼吸を二度すると、目を逸らして、言った。
「でも、多分貴方の言葉を受け入れることは、出来ないよ」
 私の言葉の後、一瞬だけ静寂が私達の間をくぐり抜けるようにして横切っていった。足元を見つめながら、しかし彼の視線を感じてぴりぴりと心が痺れる。
「……大丈夫、分かってる。言ったろう? 俺の夢は一番最初に叶わなくなったって」
 その言葉にどう返答していいか分からなくて、私は黙りこくったまま俯き続けた。お酒なんてもうすっかり抜けてしまったし、気持ち悪さも浮遊感も、熱も感じない。あるのは冷たい心だけ。
「決定打はさ、ナツメとお前がキスしてるところだったんだ」
 その言葉に私は思わず顔を上げた。だが彼は構わず続ける。
「転校するって聞いて、本当は告白する気でいたんだ。でもあいつが先に告白して、キスして、アヤノは満更でもなさそうだったから、多分無理だろうなと思った」
 あの時、あの場所にリョウヘイもいた。私の知らない角度から、あの出来事が見られていた。
「その後は?」
 かろうじて出てきた言葉に、リョウヘイは首を振った。
「帰ろうとするナツメに会ったよ」
「それで?」
「話した」
「どんな?」
 途切れ途切れの言葉を口にする私にリョウヘイは優しく微笑むと、頭に手を置いてそっと撫で始めた。ゴツゴツとした男性らしい大きな手は心地が良くて、悲しかった。
「どうだったって聞いたら、あいつ嬉そうに言ったんだ。自分の思い描いていた景色は出来上がったって」
「景色?」
「そう、景色。あいつはそれからもう思い残すことは無いくらい今が幸せだって言って、機嫌良さそうに鼻歌なんか歌いながら帰っていったよ」
 そんなに嬉しそうだった彼が突然姿を消すなんて、誰が予想できただろうか。
「その時聞いたんだ。タイムカプセルには何を入れたのかって」
 そうして、返ってきた言葉が

――夏を入れておいた。

 一通り話し終えて、彼は嘆息すると両手を広げて寝転がった。空のコップが風にやられてからんと倒れる。
「理由は分からないけど、あの時負けたって思った」
「だから、夢を諦めようと?」
「ユウキやミサキに比べたら小さな夢だけどな。それに、今は俺恋人いるんだよ」
 彼の言葉に、私は息を呑んだ。
「じゃあ、もし私が承諾していてもどうなることもなかったってこと?」
「その通り。まあ思っていた通りの返答だったのは少し残念だったよ」
 そう言って笑う彼に呆れて私も笑ってしまう。少しだけ、救われた気がした。
 私も彼の真似をして寝転がる。見上げていた時以上に星が見える。夜空が近く、全身で星達の光を感じられているように思えた。
「やっぱり、心の何処かでは好きだって言ってもらいたかったんだよ」
 起き上がらないと彼の顔は見えない。けれど、多分どんな顔をしているのかは分かった気がした。私はそっと瞼を下ろすと、隣に感じる彼に向かって、言った。
「私は好きだよ、リョウヘイの事」
「俺も好きだよ、アヤノの事」
 目を開けて私達は互いに見つめ合うと、互いに微笑みを浮かべる。
「明日、ナツメの入れた夏を見に行こう」
「うん」
 彼の言葉に頷くと、嬉そうに笑う声が聞こえて、私もつられて笑った。
 ナツメ君に会いたいな、と思いながら、もう死んでいるかもしれない星空を見て、凍える心が不思議と温もりに包まれていくのを感じた。

   三

 目が覚めて起き上がる。髪も服も酷い荒れようだし、身体もべたべたする。手櫛を入れながら周囲を見回して、他の三人が寝息を立てているのを見て、私は小さなため息を一つついた。
 飲み直しているうちに眠ってしまったらしい。既に大分酔いが回っていたし、ユウキの家に着いた辺りから記憶は曖昧だ。
 風呂、トイレと申し訳程度のキッチンの付いた小さな部屋は、大人四人が過ごすには大分窮屈なものだった。自宅に住んでいた方が良かったのではと言ったが、ユウキは実家からどうしても離れたかったらしい。
 ミサキとユウキの眠っているソファからそっとクッションを抜き取り、それを抱きしめながら窓の外を見る。まだ薄暗くて、濃紺の景色が広がっている。地平線の奥から強い光が見えるけれど、多分あれが目を覚ますまでにあと一、ニ時間くらいはあるだろう。
 時刻は四時。けれど蝉は忙しなく鳴いている。
 蝉が成虫になってからの寿命はひと夏の間だけ。ひと月で死んで、道端に転がり、やがて土に還って何にでも無くなってしまう。
 果たして何のために生きているのだろう。長い間土の中で外の景色を見ることだけを考えて、やっと出れたと思えば子孫を残すことに必死になって死んでゆく。
 それで一体何が遺せるというのだろう。
 立ち上がり、窓を開けてベランダに出てみる。張り付くような暑さに包まれながら私は自分の輪郭を感じた。
 窓越しに聞こえていた蝉の音がより鮮明に聞こえてくる。じいじいじいと歪んだ低音を鳴らしながら、今もきっと雌が来ることを待ち続けているのだろう。来るまでずっと彼らは鳴き続けていると思うと、夏の風物詩にはとても思えなくなってくる。
「おはよう」
 振り返ると、ミサキが眠たそうな目を擦りながら手を振っていた。私以上にその髪は跳ねていて、ワンピースも皺だらけで酷い事になっている。
「酷い姿」
「ミサキも」
 互いに顔を見合わせて笑ってから、彼女はベランダに出てくると私の隣で煙草を咥え、火を付けた。
「煙草吸ってるの?」
「昨日も同じ事聞かれたわ。覚えていないってことは、やっぱり相当酔っていたのね」
 煙を吐き出しながらミサキはからからと笑う。酔っていないと強がりながら支離滅裂なことを口にしていたと聞いて、私は顔がすごく熱くなった。
「アヤノはお酒も弱い、煙草も吸わない。相変わらず優等生だ」
「そうかな?」
 ミサキは頷く。
「何をする時も、やり過ぎそうになる時は全部貴方が止めていたじゃない。それは悪い事だよって強く言って、最後には泣いてさ。楽しい事といけない事の境界線をちゃんと決められる子だった」
「そんなに泣いていたかな」
 恥ずかしそうにそう聞くと、ミサキはにっこりと微笑み頷く。
「すごい泣いてた。リョウヘイが不機嫌そうな顔して、ユウキが慌てて、私が宥めるの。で、最後はナツメが皆の分のアイスを買って戻ってきて、皆で食べて仲直り」
「全然覚えてないや」
「私は覚えてる。必ずサイダー味のアイスを買ってくるの。ナツメは」
 ミサキは懐かしそうに、けれどどこか寂しそうに目を伏せると、煙を吐いた。ふわりと立ち上る煙は、気紛れに吹いた風に攫われ、霧散する。
「ナツメ、何処に行っちゃったんだろうね」
「誰もわからないんだよね」
 ミサキは頷く。
「あれから時々考えちゃうんだ。アヤノが転校しなかったら、ナツメが行方を晦まさなかったら、私達は今もあの時の私達でいられたのかなって」
「あの時の?」
「そんなの無理に決まってるんだけどね、今もユウキはスポーツをやっていて、私は教え子に囲まれていて、アヤノは沢山の服を作って、リョウヘイは貴方の隣にいて……」
「私の隣?」
 驚く私に、ミサキは意地悪そうな目をして笑うと小さく頷いた。
「ずっと相談されてたからね。結局何もできずに終わったのが残念だけど、あいつは貴方の事、ずっと好きだったのよ」
 昨日聞いた話だ。私は口を閉ざしたまま外の景色に目を向ける。
「でも、そんなこと一つも起きなかった」
 吸殻を惜しむようにじっと見つめて、それから彼女はポケットから携帯灰皿を取り出すと放り込んだ。煙草の匂いだけが残ったベランダで、私達は無言のまま外の景色を眺める。
「ナツメは、一体何を入れておいたんだろうね」
 私も同じ気持ちだった。彼の言う「夏」とは一体何なのだろう。
「アヤノは、大丈夫だと思うよ」
「大丈夫?」
 突然の言葉に私が驚くと、ミサキは髪を掻きながら二本目の煙草を咥え、火を付ける。
「道が分からなくなったら、少しだけ振り返ってみればいいのよ。そうしたら、自然とどうするべきなのか、なんとなく浮かんでくるかもしれない」
「そう、かな」
 彼女は頷くと、優しく私の頭を撫でてくれた。彼女の細くて柔らかな指の感触に目を細めながら、心の何処かに凝り固まったものがじわりと溶け始めるのを感じる。
 恐らく、酔いの回った私が何かを漏らしたのだろう。言わずにおこうと思っていた弱音を、私はきっと三人の前で……。
 ミサキに撫でられれば撫でられるほど、私はナツメ君に逢いたい気持ちで一杯になった。あの時のキスの感触をもう一度思い出させて欲しい。そうしたら、あの頃をもっと思い出せる気がするのに……。

   四

 朝食を簡単に済ませた私達は、たった一月で撤去されてしまった秘密基地の跡地に向かった。その日は酷く暑くて、湿度も無いからりとした空気のせいで、帽子を被っていてもすぐに喉が乾いて気分が悪くなった。
 休み休み歩いたせいで随分と時間が掛かってしまい、目的の裏山への入り口に到着した時には既にニ時を回っていた。
 裏山への道は誰も利用していないのか随分と雑草に塗れていて、私やミサキの腰が隠れるくらい背の高いものや、刺の付いたものまで様々な植物が蔓延っていた。幸いメールにあった通り着替えにジーンズとスニーカーを持ってきていたおかげで事なきを得たが、それでも荒れ果てた山道を昇るのは一苦労だった。
 木々や蔦に阻まれながら歩いて、漸く拓けた場所に出る。三十分近くは歩いたかもしれない。幼い時はそんな長い道に感じなかったし、辛いとも思わなかった。子供ゆえの活発さか、それとも当時は整備されていた山道のお陰か。何れにせよ今の私達にはとても辛い道のりだ。
 拓けた先に、細いロープで区切られた土地を見つけ、リョウヘイとユウキは周囲を確認して、それからタイムカプセルを埋めた時に残した写真と地図を照らし合わせる。
「やっぱりここだ。良かった、そのまま残ってて」
「こんな山奥に建物を建てようとなんてしないさ」
 安堵するリョウヘイに笑いながらユウキが言うと、彼は写真を見ながら空き地の奥の森へと足を踏み入れていく。私達も彼に続いていく。
 木の枝を踏み砕く音が響く。鳥の鳴き声が、蝉の音が、木の葉のこすれ合う音が、それぞれが塊のように凝縮されて、森の中で反響する。音に酔ってしまいそうになりながら私はミネラルウォーターを口にして、疲労で痛みを感じつつある足を必死に動かしていく。
「ユウキ、スコップくれ」
 リョウヘイに言われてユウキはスコップを手渡すと、二人で土を掘り返していく。
 あの頃五人で埋めた地面にスコップが突き立てられるのを眺めながら、私は九年前自分はどんな事を思って生きていたかを考える。きっと、茫漠とした果てしない時間に右往左往しながら、それでも夢が現実になることを願っていたのだと思う。
 思考を巡らせていると、二人のスコップが何か硬質なものにぶつかる音がした。その感触に二人はしゃがみ込むと周辺の土を手で払って、やがて一つの缶箱を引っ張り出した。
「あったね」
 私の言葉に、三人は頷く。土がこびり付いて、表面の塗装や蓋に巻きつけたガムテープは朽ちているけれど、確かに私達が埋めたものだ。正面には錠前も付いている。
 ある程度土を落としてから、ミサキが鍵を錠前に差し込み、捻った。
 かちゃん、と小さな音がして錠前が落ちる。
「開けよう」
 ユウキが箱に手をかけ、その蓋を開ける。
 中の劣化は見たところ無いようだった。リョウヘイが丁寧に五つの大小それぞれの包みを取り出す。
「ちゃんと、残っていたね、五人分」
 ミサキの寂しそうな様子を見てユウキが肩に手を遣る。その手を取りながら、ミサキは哀しそうに微笑んだ。
 私が入れたものはなんだろう。あの時、転校を前にして私が残そうと思ったものはなんだったのだろう。もうどの包みが私のものかも分からない。
「一つ目は、ユウキ、お前だよ」
 リョウヘイは一つ取り上げると包みを破いてからユウキに渡した。卵大のプラスチック製のサッカーボール。それをユウキは懐かしそうに見つめている。
「イベントで貰ったものだ」ユウキはそれを手の中で転がしながら言った。「その時のミニゲームで誰よりも良い結果が出せて、将来はサッカー選手だねとか運営のおじさんに言われて、すごく嬉しかったんだ。そうか、どこにやったかと思ったら、一番大切に残しておいたんだな、俺……」
「また、ユウキのサッカーやってるとこ、見たいな」
 ミサキの言葉に、ユウキはそっと微笑んだ。
「次は、ミサキか」
 薄い包みを剥がすと、一枚の写真が出てきた。五人の集まった写真。喫茶店で見たものとは少し違っていて、とても幼い時期の五人が映っていた。裏には日付と「いつかまた」と書かれた五色の文字が入っていた。
「そう、これ! 入れたいものを持って来いって言われてアルバム見返した時に、これを入れようって思ったの。十年後見た時に懐かしがりたくてさ」
「……全く俺はなんで十年後にこれを残そうと思ったんだ」
 懐かしがるミサキの隣でリョウヘイは小さく溜息を漏らすと、彼は呆れた顔をして一つの手紙を私達の前に出してみせた。ハートマークのシールで封をした青色の手紙が彼の手の中にあった。
「なに、それ」
「ラブレターだよラブレター」
「誰からの?」
 不思議そうに聞くユウキにリョウヘイは、恥ずかしそうに顔を伏せる。
「貰い物じゃない、俺が書いたやつだ」
 一瞬の間が開いて、二人は肩を落とすと深い溜息を吐き出した。裏にはアヤノと書かれてあって、私は微笑むとしゃがみ込むリョウヘイの頭を撫でた。
「中身は開けないの?」
「やめてくれ、ただでさえ恥ずかしいんだから。昔の俺を殴りたいよ」
 撫でる私の手を恥ずかしそうに払うと彼は少し離れた所でぶつぶつ呟き始めてしまう。
 さて、と私は残った二つを目にする。少し大きめの包みと、リョウヘイと同じ薄い包みが残っている。
 多分、薄いほうだ。曖昧な記憶を頼りに手に取ると、包みを開けてみる。
「手紙、だね」
 覗きこむミサキの声に、私は頷く。茶紙の封筒に、一枚の手紙。丁寧に三つ折にされたそれを広げると、丁寧な字で一言だけ書かれていた。

――十年後も、貴方が貴方でいられますように。

 ただ、それだけだった。
 ミサキの方を見ると、彼女は微笑んでいた。
「お願いを入れておいたんだね」
「うん……」
「色々変わっちゃったけど、でもアヤノはまだアヤノだし、私もまだミサキだよ」
 そう言って彼女は私を後ろからそっと抱きしめてくれた。それだけでなんだか色んな気持ちが溢れ出してくる。悲しいとか、嬉しいとか、自分でも判別できない幾つもの感情の塊が。
 私は今の自分がまだ自分でいられているのか怖かったのかもしれない。進む先が決まっても変わらずいられるのか。それが怖くて、前に進むことが出来なかった。
「リョウヘイも変わってないし、ユウキも変わらない。アヤノもこの先もきっとアヤノのままでいられるから、安心して」
 心の支えがとれていくのを感じた。私は私からの手紙を胸に抱きながら、小さく頷いた。
「……さて、あとはナツメのやつだな」
「残しておかなくて、良いかな」
 最後の包みを手に取るリョウヘイにそう言ってみたが、彼は首を振った。
「あいつは来ないよ。来ない理由をここに入れておいた。そんな気がするんだ」
「まあ元々ナツメの入れたものを見に来たようなところはあるしな」
 腕組みをしながらユウキは頷く。ミサキも少しだけ遠慮がちに、頷いた。
 包みを破り捨てると、中からは丸いアルミの缶が現れた。手のひら大の長細くて、中央で割れるようになっているものだ。
 リョウヘイが耳元でそれを軽く振ってみると、中でがさりと音がした。ちゃんと何かが入っている。
「開けるぞ」
 私は缶を握るリョウヘイの手をじっと見つめる。暑さで喉が乾く。背中を汗がつうっと流れ落ちていく。自分の呼吸をがやけに大きく聞こえる。
 缶を開けるまでの数十秒が、やけに遅く感じ、周囲の音が鮮明に感じられた。
 ナツメ君とのあの夜の出来事が脳裏に浮かんだ。
 告白されて、キスをされたあの日の校舎裏。彼は酷く嬉そうに私を見つめ、そして小さな声で言っていた。
『これで僕はもう満足だ』と……。


――刹那、蝉が飛んだ。


 じじじと音を立てて勢い良く飛び上がり、それから水滴を周囲にまき散らして、そのまま森へと飛び去った。
 私達は蝉の飛び上がった空を見上げたまま呆然としていた。じりじりと照りつけるような太陽がこちらを見下ろし、目も醒めるような青が雲ひとつ無い空に広がっている。時折吹く風で森の木々はざわめき、幾つもの蝉達の鳴き声が騒音のように響く。
 リョウヘイの手元の缶は、空だった。いや、たった今空になった。中に入っていたそれは、開けた瞬間勢い良く飛び出して森に消えた。
「鍵、かけてたよな」
 空を見上げたままミサキは頷く。
「九年間、埋まってたんだよな」
 ユウキも頷く。
 空を見上げているうちに、私は不意に、ナツメ君の唇の感触を思い出した。薄くて硬いけど、不思議と悪くない感触だった。それからふわりとサイダーの匂いがした気がした。あの時彼からした匂いだ。私と会う前に飲んだのかななんて思いながら、私は目を閉じて彼の口付けに浸っていた。
 どうして今更そんな事を思い出したのかは分からない。
 けれど、なんとなく、やっぱりナツメ君には一生会えないんだと思った。
「ナツメは本当に、夏を入れておいたんだな」
 だから消えたんだ。リョウヘイが噤んだ言葉が、はっきり聞こえたような気がした。彼にとってはあの夏が全てで、だから、夏を入れて私達の前から消えた。
 あの日の口付けの感触を思い出しながら、下唇をそっと舐めてみる。サイダーの匂いがまた鼻先をくすぐったような気がして、私はそっと瞼を閉じた。

   五

 電車の窓から、田畑の中にぽつんと立ち並ぶ家々を眺め、小さく息を吐いて頬杖をつく。あれほど力強かった陽光はもう山に隠れて、再び濃紺が空に混ざり合うようにして溶け込み、橙色を滲ませていた。
 三人との別れは本当にあっさりとしていた。多分、これ以上私達の間で片付けるべきものも無かったし、互いに何の未練も無かったからだろう。
 多分、私がこの街にやって来ることはもう無い。ぼんやりとだけれど、そんな確信があった。きっと私はまた今の私の居るべき場所に戻って、それからうまくやろうともがき始めるのだ。果たして私の望む通りなるかは分からないけれど。
 窓の景色に暗幕が降りた。私はカーテンを下ろすと背もたれに身体を預ける。行きも随分と長いトンネルに潜ったのを覚えている。そして、このトンネルを境に町並みが変わることもちゃんと覚えている。
 出来ればもう少しだけ、あの街の余韻に浸っていたかった。窓の外、トンネルの向こう側に広がる街の景色を思い描きながら、私はそっと目を閉じる。
 次に目が覚めたら、夢が終わる。

 なんとなく、一つだけ気がかりな事があった。戻って解決するような事ではないし、仮に戻ったとしてもきっと一生解けないものだから、そのままにしておくしかないのだけれど……。
 ナツメ君の残した蝉の姿が瞼の裏に映る。勢い良く飛び上がり、森の中に消えていったあの蝉の姿が、鮮明に。

 あの蝉は、一体どこに飛んでいったのだろう。



   了
6

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