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消し炭の彼

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「その言葉を信じて、あたしはここに来たのよ」
 焚き火の中にあたしが話しかけると、パチパチと燃える木が鳴った。極小の爆発は時と共にロンドし、科学的に言えばそれは単なる反応でしかなかったけれど、彼の断末魔のバックコーラスにしてはいささか豪華過ぎた。
 夜空は甘い匂いであたしの頭上に覆いかぶさり、星達は奇跡の輝きを見せている。何て事のない、キャンプの光景。少し肌寒いけれど気にしない。あたしにはあなたがいて、あなたには火がある。
「あたしも、あなたの事を愛してる」
 その辺で捕まえた野犬の生肉に木の棒を刺して、それを火の中に捧げる。あたし、なんて健気で出来た女なのかしら。愛する男の為にこんな場所でも家庭料理を振舞ってあげるなんて。
「おいしい? ふふ」
 肉が焦げる臭い。食欲をそそる。彼もきっと喜んでくれている。
 火の中の一点を見つめ、微笑む。
 やっぱりどうしても、あたしには普通の男女の付き合いという物が駄目みたい。
「こんな事になっちゃって、ごめんね。でも、あなたも悪いのよ? 美味しそうな顔してたから」
 生肉はすっかり焼けて、極上のステーキになった。焚き火の中で犬肉を頬張る彼の姿を想像すると、胸が幸せでいっぱいになる。きっとあなたも、すぐに同じくらい極上のステーキになるわ。
「ああ、お腹すいた」
 呟くと、背後から声をかけられた。
「お嬢さん、お1人ですか?」
 振り向くと、のっぺりとした笑顔の優男がいた。肉のついていない、あんまり美味しそうではない雄だ。彼の場合は、焼かずにじっくり煮込んで、そのぷりぷりの筋をいただいた方が良さそう。と言っても、今晩の夕食はもう決まっているから、明日以降に気が向いたら、という形になるかしら。
「いいえ? 焚き火の中の彼と2人よ」
「あらら、遅かったか」
 優男は髪をぽりぽりと掻いて、何の許可もなくあたしの隣に座った。何て不躾で無遠慮な男かしら。でもその強引さは嫌いじゃあない。
「どうも、説法屋です。この男の奥さんから頼まれまして。妙な女に垂らしこまれてるから連れ帰ってきて欲しい、と」
 妙な女って、あたしの事?
「手遅れみたいですが、まあ、それとは別として、放っておく訳にはいきませんね」
「愛してる」
 あたしの口から咄嗟に出た言葉は、その説法屋という男の耳に届いた。動物の耳というのは危険を察知する役には立つが、愛情にはとことん弱い。
 だから、愛するあたしは無敵だ。
 説法屋の口から血がどろりと流れた。どこの内臓が壊れたのかしら? 膵臓は美味しい部位だから、出来れば無事でいて欲しいのだけれど。
「人食いはやめられませんか?」
 説法屋はつまらない平静を装いながら、口から滴る赤ワインを拭ってそんな質問をよこしてきた。
「愛しているから喰らうのよ」
 この真実に勝る物はない。あたしが人生で得られた唯一の解答。
「それなら、この味はどうですか?」
 説法屋がぐっと近づいてきた。接する。吐息が。視線が。避けられない。顔が。
 ああ、駄目よ。
 それは久しぶりの口付けだった。強引に舌で唇をこじ開けられて、流し込まれた血の味は、クソ不味かった。
「『愛しているから喰らう』ってのは、一理あるかもしれません」
 思わず腕で突き飛ばして、泥をすくって食べた。うげえ、吐きそう。でも泥だってこいつの血ほど不味くは無い。食前酒でこの酷い味なら、メインディッシュは一体どれだけゲテモノなのだろうと想像すると、吐き気は更に増した。
「だから、君を愛する努力をしてみた」
 ムカつく。殺したい。だが食いたくはない。そしてあたしはもうこいつを、愛せそうにない。
「君は見た目も美しいし、大して難しくはなかった。君の愛が男を殺して喰らう事と同義ならば、その作法を守らせてもらうだけさ」
「黙れッ!!!」
 あたしは説法屋の顔を指さして、滅茶苦茶にまくし立てる。
「この気持ち悪くて薄汚い説法屋ごときが! 人の趣味にとやかく口出してきてるんじゃないよド腐れ! とっとと帰ってくたばれ馬鹿が! ゴミクズ! 死ね!」
 説法屋はあたしにとって不快極まりない微笑みでこう言った。
「さっきの『愛してる』の一言に比べたら、何の痛みも無い」
 そうしてお腹をさすりながら、残念そうに俯いた。そして呟く。
「愛してる」
 今度はあたしの口から血が噴き出した。子供の頃、転んだ時に膝を擦り剥いて見た鮮烈な赤。肉の色だ。
「愛してる」
 遅れて内蔵に鈍痛。背中が捲れ始めている。骨は軋む。重力に耐えられない。
「愛してる」
 あたしは土の上に倒れる。視界が滑り落ちていく。真っ赤に染まった夜空を片手で仰いで、焚き火が消えるのを見た。
 説法屋。あたしより大きな愛であたしを潰すなんて、その名前は本物だったようね。
 あたしがあたしを諦めかけた時、視界の隅に何か黒い物が映った。痛みと寒さで考える事すら億劫だったので目を閉じたが、続けて聞こえてきたのは説法屋のうめき声だった。がふっ。ぐふっ。と間抜けな音で、それは十分にあたしの興味をそそり、僅かに残った力で目を開けさせた。
「……奥さんが、待ってますよ」
 黒い棒切れが立っている。いや、正確に言えば、焼きすぎて炭になった今晩の夕食。つまり彼だ。
「帰らんと伝えてくれ」
 炭が喋っている。それどころか、その輪郭すら曖昧な手で、説法屋を殴りつけ、ごくごく単純な腕力で圧倒している。
「分かりました。ですが、その娘は……」
「関わるな。これ以上彼女に何かすれば、お前を許さん」
 黒焦げの彼は燃えて潰れた声帯ではっきりとそう言った。
「……そう、ですか。なら、僕は退散するとします」
 説法屋、ざまあみろだ。去っていく後ろ姿に中指を突き立てて、伏せたまま笑う。
 彼が近づいて来る。あたしを守ってくれた黒の騎士。運命の相手。最も愛すべきヒト。
「食事に邪魔が入ったね。機嫌を悪くしたかな?」
「いいえ、ちっとも」
 あたしはひしゃげた瞼を強引に指で押し上げて、1番かわいくおどけてみせる。
「さて、そろそろ食べてくれないか?」
「ええ、少し待って」
 あたしはじっと回復を待つ。彼のもう黒くて何も見えなくなった顔を見つめながら。胸の高鳴りを抑えながら。そして彼は言う。
「君を愛している」
「その言葉を信じて、あたしはここに来たのよ」
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