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パタパタパタ

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       ■パタパタパタ


 葛西由美子はとても口が多い。いや、口が多いと言っても化ケ物のようにそこかしらに唇が引っ付いているわけではなく、薄くリップの塗られた唇を開き、口から発する言葉の数々があまりにも夥しいということだ。彼女と会話を強いられる時、そのキャッチボールはいつも彼女が投げ始め、最終的に彼女がどこか遠くに放り投げて幕を閉じる。キャッチボールと言うより一方的に投げつけられているような気分に浸る。言葉の流れに飲み込まれるように、滔滔と。
「さっきから思ってるんだけど、君は本当に話を聞いてる?」
 そら来た。ストローに口をつけたまま明後日の方角を見つめていた僕の視界に、彼女の御尊顔が割り込んでくる。なるほど彼女は黒の長髪が相まって一般的には可愛いと称されるかもしれないが、長年の付き合いになる僕にとって、葛西由美子は、他者よりも異常なほど言葉を愛する狂人の一種だった。
「聞いてるって、一体何を?」
「まあ最初から聞いてるのには期待してなかったけど。来月の学祭で私たち古文研が出展する作品の事について」
 説明しておくと、古文研というのは僕や彼女が所属するサークル、【古典文化作品研究会】の事だ。荘厳な名前だがやっていることはじつにくだらない。
「確か君には、八代に伝わる伝承を調べてもらうように言ったはずだけど」
 もう一つ付け加えると、八代とは僕らの住まう、九神市八代の事。
「もしかしたら、その日の僕と今日の僕は、別人かもしれない」
「調べてないなら調べてないってさっさと言えこの役立たず」
 表情も変えずにぴしゃりと言う葛西由美子は、既に僕の方を向いていない。彼女の心は今、手許にある古典文献に向いている。僕という一個人よりも、嘗ての空気がそのまま閉じ込めてある古書の方が、彼女にとっては魅力的なのだ。
「全く、君のような人間は鉛筆の削りかすよりも役に立たないわね」
「鉛筆の削りかすが何かの役に立つのか?」
「ごみ箱を満たすのに使えるでしょう。君にはごみ箱すら勿体ない」
 こうして僕の硝子の心は脆くも崩れ落ちるのだった。
 葛西由美子は、一言で言うと非言語的言語戦争の達人だ。結論から言えば、彼女との弁論には言語的価値がありそうで、まるでない。言葉を愛しすぎたがゆえに、言葉を守り過ぎているところがあるのかもしれない。彼女の打ち出す言葉のミサイルは僕の身体に大きなクレーターを穿つ。言葉によって戦う彼女は、同時に言葉の護り手でもある。まあどういうことかというと、つまりは彼女VS彼女ということだ。言葉で戦うのも、言葉を守るのも、彼女。日すがら戦争は続けられている。例えて言うなら、僕はさながら戦場に迷い込んでしまった愚かな猿と言ったところか。
 閑話休題。
 来月、夏も終わりに差し掛かる頃、僕らの大学では学祭が執り行われる。基本的に根暗で引きこもりな僕には活気に溢れる学園祭など切るところがないほど縁のないものだけど、偶然にも我がサークルは出陣する意を表明した。しかも展示と模擬店、二つともである。意識が高い。しかしだからと言って僕のやることは変わらない。サークルにおいて幽霊部員の地位を縦にする僕は、当然のごとく無関心を装っていた。それでは何のためにこのサークルに所属しているのかと聞かれると、それはまた別の話になるので、次の機会に。
 というわけなのだけど、今回、こうして運悪く葛西由美子という同じサークルに所属する幼馴染に叱責される運びになった。僕はとても憤慨している。他者の意思を踏み躙って強引に働かせるというのは健康で文化的な生活を送っているとは言い難い。あまつさえ彼女は僕に対してゴミ箱以下の扱いをする。無碍に扱われること大よそ一回り。なお舌戦においての勝利経験は、全く持って皆無だ。
「というか、わざわざ僕じゃなくても他の誰かが調べればいいんじゃないのか?」
 だが、僕は戦わねばならない。他でもない、己の自由のために!
「そういう生き方してきたから、そんな仕様もない人間になったのよクズ。すぐに他者に何かと押し付ける性格辞めたら? そもそも人間辞めたら? そうね、ユスリカ辺りに転生すれば何も考えずに生きられるわよ。叩いたら死ぬような雑魚だもの」
 葛西由美子は非言語的言語戦争の達人だ。論旨の通った反撃を浴びせたところで、彼女は必ず鋭い切り口を見出す。たとえ彼女自身が大きく間違っていたとしても、他者の言葉を潰し、自らの言葉を神格化するだけの力が、彼女にはある。それは彼女の親が政治家だからなのか、昔から古典文学ばかり読んで育ってきたからなのか、何が起因したのかはさっぱり見当もつかない。ただ言えるのは、彼女の発する言語と言うのは他者のそれとは全くもって異なるということだけだ。
 気づかれぬよう、欠伸を漏らす。
 まだ彼女は何も気づいていないのだ。
 蚊でさえも、人を殺す才があるということに。

 さて時は幾らか過ぎ、現在地点。
 葛西由美子は今、僕の部屋でオムレツを作っている。同棲しているわけではない。このアパート、名前は面白がって誰かが【常葉荘】と名付けたらしいが、特徴は何と言ってもぶち抜かれた壁である。なんというか、簡素に言えば二階にある六つの部屋を隔てる五枚の壁は大穴が開いている。そこにどこかの物好きが扉を取り付けた。六つの部屋の壁は取って付けられた鍵付き扉によって隔たれ、繋がれているのだ。
 それで、隣の主の葛西由美子はずかずかと僕の部屋に上がり込み、キッチンでフライパンと遊んでいる。特殊な扉で、双方から鍵を開けなければ扉を開くことができないのだが、僕の場合扉に鍵をかけることがないので、基本葛西由美子が鍵を開ければ行き来することは可能だ。僕が向かったことは一度もない。赦されない。
 僕はと言うと葛西由美子が図書館から借りてきたという膨大な量の本を一冊一冊読み漁っている。全てが八代に関連した歴史ある書物らしいけど、眼が全く肥えていない僕からすればただの黄ばんだ汚い本の群れだ。それに、どれもこれも知っていて当たり前のような内容のものばかりなので、溜め息のお供がなければ読み進められなかった。
「厚顔無恥な君に問うのも甚だ馬鹿馬鹿しい行為だとは思うけど――」
 フライパンを持って立ち尽くす葛西由美子は、背中越しに問う。
「君はスクランブルエッグとかき玉、あと強いて挙げるならばオムレツのどれが好きだったっけ? いや訊くまでもなかった。スクランブルエッグだったね。レキシントン帰りで有頂天になっているような性格の君にはスクランブルエッグがお似合いだ、間違いない」
 当然、僕に発言権は与えられない。
 戦争の標的とされていないのだから。
 くつくつと僕は笑う。彼女は何も気づいていない。勿論僕も何も気づいてはいない。だけど確かに誰かの思い描く壮大な独りよがりは静謐の中で呼吸を始めた。もう誰も羅針盤の針を止めようとはしないし、日常の末端で息を殺した非日常の気配だってもうどこにもない。僕らが染めてしまったのか、染められたのかもわからない。僕と葛西由美子が息をするこの六畳半にも間違いなくそれは潜んでいる。
 僕らは何も知らないふりをしていた。
 名のない地図に広がる赤いチアノーゼ。
 遍く満たされた色素が奪われていく視界。
 ブラァ、ブラァ、ブラァ。
 僕らは気づかないふりをしていた。

 見知らぬ何かのおかげで、世界による略奪行為が始まる。


       ▽▽▽
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