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第五話「ブラック・シープ」

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 砥上雪彦―とがみ ゆきひこ―は群れに囲まれていた。マネキンのようで、黒い肌をした人形は彼にとって非現実的であり、同時に、もう自分は日常に戻れないのだと理解するのには十分な状況であった。
 じりじりとにじり寄って来る塊達に怯えながら、ふと、胸裏に何か別の、もっと冷たい感情が生まれて、広がっていくのを彼は感じていた。そう、これは、時々抱いたことのある感情だ。確か、ええと。
――そうだ、諦めってやつだ。
 後ろは自分の身長を超えるほどのフェンスで、すっかり囲まれてしまっている。黒い塊達の奥には母校。だけど、随分と様子が違う。誰もいない。明かりも無い。まるでそこに生を感じることが出来ない。
 触れようかどうかという距離まで迫られて、雪彦は彼女の事を脳裏に浮かべた。ずっと、ずっと何年も一緒に過ごしてきた幼なじみの姿を、いつだって隣で見ることの出来たあの笑顔を……。

 突然、黄色い線が彼の頭上から落ちてきた。
 あまりにも突然の出来事に雪彦は初め雷でも落ちたのかと思ったが、違った。頭上から落ちてきたのは一人の女性で、黄色く見えたのはその手に握り締められたクリーム色のテレキャスターだった。逆さに握り締められたギターのボディはコンクリートの地面を抉るようにめり込み、飛び散った破片が散漫として横たわっている。
 華奢に見えるその身体からはとても考えられないほどの事を、彼女は目の前でやってのけたのだ。
「君、大丈夫?」
「え、あ、はい」
「危機一髪ってとこだったね。私が来たからにはもう何の心配も無いから安心して」
 そう言って女性―レモンドロップスーはギターを構えると、ポケットからキャンディバーを取り出して口に咥える。飴の色もまた黄色だ。
 彼女はそれを一舐めしてから嬉そうに目を細めて、周囲を取り囲む有象無象を見つめ、言った。
「……満足したい子から、おいで」
 その言葉を合図にオーディエンスが一斉に動き出す。彼らはレモンドロップスに向けて跳躍、二人を囲むように飛びかかる。
 彼女はその様子を眺めながらにやりと不敵な笑みを浮かべてみせると、ギターを本来正しい持ち方に直してピックを右手首に付けていたリストバンドに指を突っ込んで取り出し、弦に叩き付けるようにして振り切る。
 左の指先は二本の弦を抑えて、片方をこれでもかと引き千切らんばかりに手前に持ち上げる。
――ユニゾン・チョーキング。
 テレキャスターの乾いたサウンドと共に黄色い閃光が彼女を中心に走り、それらは次々にオーディエンスを飲み込むと、炸裂音と共に黒い塊を周囲に弾き飛ばす。最前にいたのは粉々に砕け散って消えていく。燃えカスのように散り散りになって消えていく姿を見て、レモンドロップスは構えを解くとキャンディバーを摘んで口から出し、ぺろりと舐めた。
「鳴海クン、君の出番よ」
 彼女の言葉を聞いて、周囲に飛散させて作った道を辿って鳴海が駆け寄ってくる。武器を持っていない、顕現出来ない彼にとってオーディエンスはただの毒でしか無い。なるべく周辺の化け物に気を付けながら彼女の元まで辿り着くと、壁に寄り掛かって呆けている雪彦の腕を掴んた。
「立てるか?」
「……あ、はい」
 反応はしているが、矢張りこの状況を理解出来ていないだ。目がすっかり泳ぎ、身体は震えている。当たり前の反応だ。鳴海は彼を強引に立たせ、レモンドロップスを見た。彼女はその視線に気づいて微笑むと、こくりと頷いた。
「とにかく、まずはこの場所から離れよう。説明は後でするから」
 未だ混乱の中にいる雪彦にそう言うと、鳴海は彼の手を引いて、やって来た道を駆けて行く。その後姿をレモンドロップスは愉快そうに眺めていた。
「守りながら戦う必要が無いっていうのは、随分と楽ね」
 今まで出来る限り人も守ってオーディエンスとも戦っていただけに、鳴海という存在はこのレーベルの中で大きく無いが小さくも無かった。楽器を顕現する理由を自分の中から探そうとしている青年。何よりその理由をレモンドロップスは好意的に受け取ることができた。
「助けてくれた子に憧れた、ねえ」
 青春してるじゃないかと、恐らく自分よりも幾つかは年上の彼を捕まえて彼女はそう思うのだった。それがどんな子かは知らないが、一途な男は見ていて嫌いじゃない。
「鳴海クンは、どんなプレイヤーになるんだろうなあ……。ねえ、楽しみだと思わない?」
 手元でくるくるとキャンディバーを回転させながら彼女はオーディエンスに問い掛ける。返答は無い。彼らは、自分達の内側に蓄積されてきた鬱憤や絶望や、怒りや悲しみといった所謂マイナスのエネルギーの捌け口を求めているだけであり、コミュニケーションを必要としない。
 もっと話せるのなら、こうする以外の方法もあるかもしれないのに、とレモンドロップスは寂しそうに彼らを眺め、再びテレキャスターのネックを握り締め、肩に担ぐとオーディエンスに向けて手招きする。
「……おいで。欲しい子から、満足させてあげる」
 にっこりと微笑むと、オーディエンスは再び彼女目掛けて一斉に飛び出していく。
 レモンドロップスはオーディエンスの群れの中で深くしゃがみ込むと地面と平行にギターを突き出し、駒のように一回転する。足払いの要領でギターはオーディエンス達の足元に次々食らいついて、そのまま宙に払っていく。まるでドームのようにオーディエンスは宙を飛び、その中心部で彼女は再びギターを持ち帰ると再びユニゾンチョーキングを奏で、黄色い閃光を周囲に衝撃として放っていく。黒い塊が一斉に爆散し、周囲に飛び散っていく中で彼女はそのオーディエンス達を踏み台に、一人、二人、三人、四人と次々と勢いをつけて空に飛び上がっていった。
 一番高くに飛ばされていたオーディエンスの頭部を思い切り踏んづけると跳躍――。彼女は他の誰よりも天高く舞い上がり、上空から真下の黒い塊を見下ろしていた。
「じゃあ、皆ばいばい」
 レモンドロップスは笑みを浮かべて彼らに向けて手を振ると、次の瞬間には弦を引き千切らんばかりにピックで六本の弦をかき鳴らし、左手で幾つものフレーズを抑えて、下から上までフレットを余すところ無く利用してギターを奏でていく。テレキャスターのギラついたサウンドが黄色い閃光となって彼女の周囲に蓄積されていく。
 落下しながら蓄積された彼女の『音』を見て、レモンドロップスはそっと微笑むと、その光と共に降下、ギターを思い切り振りかぶって、地面に着地すると同時に、それを振り下ろした。
 目の眩むような光が線となって落下し、次の瞬間には放射状に光が拡散していく。オーディエンス達は一人残らず砕け散り、光に呑み込まれるようにして、消えていってしまった。
――レモンドロップス。
――黄色い閃光が落ちてくる。
 彼女もまた、対オーディエンス戦を得意とする、オーパーツの中でも優秀な人材として重宝されている一人だ。
「ジョニー、来てくれてたら良かったんだけど」
 そして、鳴海と同じく「憧れ」を抱いている女性でもある。

   ・

「大体の説明は済んだんだけど、ここまで理解は出来た?」
 モッシュピットとオーディエンスについて粗方説明を終えたレモンドロップスは、やっと一息つけるとばかりにベンチの空いたスペースにどっかりと座り込んで陣取った。座って話を聞いていた雪彦は怯えたように身体を縮こまらせると、少し距離を空けるようにして隅で丸くなってしまう。
「信じられないけど、目の前で全部見せられてしまった以上は……信じたいと思います」
「まあそう簡単に信じる必要も無いけどね」
 雪彦の返事に対してレモンドロップスはそう答え、キャンディバーを煙草を吸うみたいに二本指で挟んで口から取り出すと、ぷはあと息を吐き出す。
「帰ってこれは夢だったって思えば良いだけよ。金曜の夜は怖いことが一杯あるから出歩かないようにしようって、そう思えば済むだけの話」
「そんな簡単にいくとは思えないんだけど」
「また襲われたり迷い込んだ時、確実に助けてもらえるわけでは、無いんですよね?」
 不安そうに尋ねる雪彦に、レモンドロップスは暫く目を細めていた。なんとも言えない空気の中で鳴海は何か言葉を見つけようと腕組みをしてみるが、何も浮かびそうにない。
「ハッキリ言えば、全ての人を救えるほど私達は大きくないわ」
「そう、ですか……」雪彦はそう口にして俯いてしまう。
 だがどうしてだろう、鳴海は彼が俯く前に一瞬だけ、笑みを浮かべたように感じたのだ。ただ口元が歪んだだけかもしれない。いや、でもあの口の端の上がり方は、恐らく……。
「なあ、砥上君。モッシュピットに迷い込んだ理由に、思い当たる節があるんじゃないかな」
「鳴海クン」雪彦が答える前にレモンドロップスの鋭い視線が鳴海に飛んだ。
「もし何かあったらオー・パーツに連絡を頂戴ね。迷い込んだ時でもいいわ。モッシュピットは大抵その空間をそっくりそのまま形にするから、目安になるものさえあれば向かうことはできるから」
 彼女はそう言って胸元から名刺を取り出すと、雪彦に手渡す。文字の大きさを変えただけのイラストも何も無い簡素な名刺だった。雪彦は不思議そうに暫く名刺を見つめ、それから携帯を取り出すと自分の連絡先を差し出す。
「ああ、貴方は別に出さなくていいわ」
「どうしてです?」
 舐め終えたキャンディバーの棒をぺろりと一舐めして、レモンドロップスは首を傾ぐ。
「干渉し過ぎるとろくなことが無いからよ」
 彼女の言葉と、視線を受けて、雪彦は下唇を噛むと、さっと目を逸らした。続けて鳴海が口を開いたが、同じように静止されるだけだと思うと、それ以上声は出なかった。
 彼は名刺をポケットに入れるとお辞儀をして、この場を去って行ってしまった。鳴海とレモンドロップスは一言も口にしないままその背を見送った。
 彼が建物の陰に消えてしまうのを見てからレモンドロップスは大きく溜息をつくと再びベンチにどっかりを腰を落ち着けた。本日何本目かわからないキャンディバーの包装を毟って咥えると、満足そうに目を細めた。
「鳴海クン、モッシュピットに迷い込む理由は、ちゃんと理解しているよね?」
 それまで一言も喋らなかった彼女の言葉に鳴海は緊張した。こくり、と固い頷きを返すと、レモンドロップスはよろしい、と頷いてみせる。
「精神的に不安定であったり、鬱屈とした気持ちを持っているとその『匂い』に惹かれてモッシュピットは彼らを招く。オーディエンスもまた波長の似た存在に惹かれ近づいてくる。あの子達が抱いているのは敵意じゃなくて、共感なのよ。悪く言えば、傷の舐め合いみたいなもの。慰めようと近づいてくるんだけど、生憎オーディエンスは毒を持っている」
 鳴海は隣に座る。もしオーディエンスに毒が無かったら、この世界は少しだけ明るくなっていたのかもしれない。
「自分達の発散しきれない感情の捌け口として勝手に生み出しておいて、恐怖し、逃げ、そして挙句にはプレイヤーによって消滅を促される……。これだけ見ると一体人とオーディエンス、どちらが化け物なのか分からなくなってくるわね」
 レモンドロップスの言葉に鳴海はひたすらに押し黙っていた。背もたれに左手を掛けると、隣に座る僕にキャンディバーを差し出す。「食べる?」と言われたが、鳴海は首を振った。だが彼女は微笑むと「いいから」と言って、無理矢理に彼の手にキャンディバーを握らせた。
「モッシュピットを、体の良いストレス発散場所だと考えているプレイヤーが私は嫌い。最近は特にそう。武器が消えれば負けの、リプレイの出来るゲームだと考えている奴が増えつつある。だから、出来ればプレイヤーを増やさない方向に持って行きたいと思っているの」
「でも、きっとこの場所を知った人は少なからずプレイヤーを選んでしまいますよ」
 顕現の出来ない自分のような存在がいれば、また話は別になるが、先程の砥上雪彦も来週になればプレイヤーとしての覚醒を果たしている可能性だってあるかもしれない。
「……前にオーディエンス専門って言ったよね、私」
「確かに」
「でも、時々ブッキングもしてるのよ。主に初心者をメインになんだけど」
 この意味が分かるか、と彼女は髪を掻き上げると鳴海を見た。
 初心者をメインにするという理由。
「……恐怖、ですか?」
「当たり」レモンドロップスはキャンディバーを口から取り出すとそれで宙に丸を描く。
「モッシュピットが怖いところだと刻み込めば、そうそう来れなくなる。だから私は、出来る限り初心者とやる時は徹底的に打ちのめすことにしてる。顕現出来ない状態になってからとか、太刀打ち出来ない状態でオーディエンスの中に落とそうとしてみたり……。この場所をトラウマにさせられるなら徹底的に……ね」
 その声はあまりにも単調で、冷たいものだった。鳴海やジョニーに、先程の雪彦にかけた声とは余りにもかけ離れていて、鳴海は思わず生唾を飲み込んでしまう。
「だから、もしさっきの砥上クンがモッシュピットを選択したとしたら、私は喜んで彼を叩きのめすつもりなの。こんなところ、望んで来るべき場所じゃないもの」
「……そんな回避のさせ方しか、無いんですか?」
 鳴海の目の前をキャンディバーが横切った。彼女はにこりともせずに彼を見ていた。
「鳴海クン、さっきモッシュピットに来てしまった理由、聞こうとしてたよね」
 頷くと、レモンドロップスの目は更に細くなった。
「人が抱える問題に他者が干渉しちゃいけない。ここに来るってことはそれなりのマイナスを抱えた人であることは確かで、誰かに話しても意味が無いから貯めこんでしまう。鬱憤になってしまう。そういうものよ」
「でも、もしそれで解決に導けたら」
「分かってる? 自分の心の問題すら満足に解決出来てない人の末路が、プレイヤーだって事を」
 鳴海の言葉は、そこで止まった。それ以上何を言えば良いのか、上手く出てこなかったのだ。
「干渉は責任を生む。責任は重圧に、重圧は苦しみに変わっていく。誰も彼も救おうとした結果、ふと気付いてしまうの。自分が誰よりも深いところに潜って、戻って来れなくなってしまっていることに」
 だから、駄目。レモンドロップスはそう言うと立ち上がった。
「ジョニーは解決しろとは言っていない。ただ見ろとだけ言った。君が本当に今後もモッシュピットにいたいのなら、観察に留めておきなさい。そこから先は、憧れだけで行ってはいけない場所だから」
 約束よ、と言ってレモンドロップスは手をひらひらと振りながら行ってしまう。暫くしてエンジンの音が聴こえ、一定のリズムで小さな炸裂音が生まれ、やがてそれは連続したものとなって遠くへ消えていった。
 誰もいなくなった街中のベンチで、鳴海は二人の消えていった道をぼんやりと眺めていた。


 砥上雪彦は死に場所をやっと見つけることが出来たと思っていた。誰にも迷惑がかからず、誰の心配もされず一息に雪彦という存在から抜け出せる場所が。
 あのオーディエンスとかいう群衆に触れられると人ではいられなくなるらしい。自分が何者かも分からず、人が変わったように精神が解れて最後には砕けて、自分が何を求めていたのかも、何に苦しんでいたのかも、何を喜びとしていたのかも忘れて、ただ虚空を彷徨うだけの廃人となれるらしい。
 オーパーツとかいう集団から貰った名刺はすぐに捨てた。連絡をする必要も感じられなかったし、助けてもらおうと思ってすらいないからだ。
 砥上雪彦は、早く死にたくてたまらなかった。

14, 13

  



 その出会いは恐らく偶然で、両人ともそれを全く望んでいなかった。
 病院の玄関口。自動ドアを挟む形で池田と鳴海、雪彦はばったりと出くわした。互いに不思議そうな顔をしながら、しかし次の瞬間に、鳴海はぎこちない笑みを浮かべ、雪彦はバツの悪そうな顔を浮かべて目を逸らしたのだった。
「古都原君、知り合いかい?」
 池田さんはネクタイの調子を整えながら穏やかな口調で言う。まあちょっと、と鳴海が言うと、ふうん、と別段興味無さそうに彼を眺め、それから踵を返すと再び院内に戻っていく。
「池田さん?」
「その様子だと何かあるんだろう? 俺は暫く時間を潰してるから、終わったら連絡をくれ」
 彼はそう言って不器用にウインクをすると行ってしまった。
「あの人も、プレイヤーなんですか?」
 彼の問いに頷くと、ふうん、と雪彦は興味無さそうに目を細めた。
「砥上君はお見舞い?」
「……はい」やけにくすんだ返事だった。
「知り合いか誰かが病気でもしてるの?」
「友人です。ついこの間ちょっとあって、怪我で入院してるんです」
 会話が止まる。背後のロビーからざわめきが聞こえ、外からは車道を走る車の駆動音が右から左へ、左から右へと駆け抜けていくのが聞こえる。互いに押し黙ったままではいけないと思うのだが、次にどんな言葉を口にするべきか鳴海が悩んでいると、雪彦は顔を上げて鳴海を見た。
「良かったら、古都原さんも一緒に来ませんか?」
 そう告げた彼の目はひどく冷たく、瞳は水底に沈んでしまったみたいに暗く、淋しげに見えた。


 面会謝絶のプレートの掛かった部屋の前で雪彦は立ち止まると、暫くその扉を見つめ、それから人差し指でつう、と一本線を引くように撫でると、やがて振り返って「お見舞いは終わりです」と言った。ついてきてくれてありがとうございます、と続けてお辞儀もされたが、別段何かしたわけでもない鳴海は慌てて首を振ると、すぐ傍の休憩所へ雪彦を連れて行って座らせた。
 自販機で買った飲み物を彼に渡して、鳴海も隣に座る。休憩所は見舞いに来た親戚と患者の憩いの場であるようだった。孫の見舞いに喜ぶ老人や、窓の外を眺めながら穏やかに肩を寄せ合う老夫婦、玩具をプレゼントされてはしゃぐ子供、紙パックのジュースを父親の膝の上に座ってちゅうちゅうと吸い続ける幼児と、随分と賑わっていた。
 そんな中で憂鬱そうな顔を見せる雪彦は少しこの場所では浮いているように見えたし、彼に付き添う鳴海もまたここでは自分が異物であるような気分を抱えていた。どうにかその居づらい空気を紛らわせたくてホットコーヒーを口にするが、苦味で紛れるほど簡単な違和感ではとても無かった。
「古都原さんは、あの場所、もう長いんですか?」
 唐突に口を開いたのは、雪彦の方だった。鳴海はコップから顔を上げて彼を見た。
「つい最近だよ。おまけにプレイヤー見習いだ」
「見習い?」彼は繰り返す。「そう、見習い」
「あの場所でも見習いなんてあるんですね」
「いや、俺が特殊らしい。才能が無いんだか、レアなケースなのか分からないけど、俺は他の奴らみたいにオーディエンスに対抗する為の武器が顕現出来ないんだ」
「あれって、誰でも出来るわけじゃないんですか?」鳴海は首を振る。「だからレアケースなんだ」
「ずっと望んでいた世界にやっと足を踏み入れられたのに、どうしてか受け入れてもらえないんだ」
「望んでいたって、どういうことですか?」
 コップ一杯のオレンジジュースを一口飲んでから雪彦は尋ねた。
「子供の頃からあんな世界に憧れていたんだ。相手を痛快にふっ飛ばして、人を救って、真っ青なリッケンバッカーを持った女の子に惚れて殴られて、立ち向かっていくっていう……今思い出しても最高の夢だったよ。今思うと恥ずかしいんだけどね」
「空想の世界に憧れる時代は、誰にでもあります」
「でも、俺の場合少しそれが長引いたんだ。酒や煙草が公的に出来るようになっても、そんな夢から覚められずにいた」
 空になったコップを少し離れた場所にあるゴミ箱に放る。紙コップはゆらゆらと不安定に揺れながら飛んで、結局ゴミ箱から随分と離れたところにからん、と音を立てて着陸した。鳴海は頭を掻きながら立ち上がるとコップを拾い上げ、ゴミ箱に放り込んだ。
「夢は叶わず、そこそこの学校に入って、そこそこの生活をして、飯食って寝てって変わらない日常が続くことが辛かった。主人公に……自分がヒーローになれない世の中が苦しくてたまらなかった」
 だから、目の前に突如として現れた光景は、鳴海にとって夢の切符のようなものだった。ヒーローになれる、主役になれるかもしれない最高の世界に見えた。
「まあ、結局折角手に入れた切符も、切られる様子も無いんだけどね」
 そう言って苦笑すると、雪彦は微かに微笑んでみせた。緊張が少しだけ解けたのを感じて、鳴海は彼に笑みを返すと、再び隣に腰を下ろす。
「いつかプレイヤーとして活躍したい。活躍して、出来ることなら隣に並びたい人がいるんだ。今は、それが俺の夢だ。知らない世界に行きたいって望みは叶った。だから、あと少し……」
「楽しそうで、良いですね」
 熱を込めて語る鳴海を、雪彦は冷ややかな視線で見るとそう言う。
「僕にはそういう夢とか、無いから」
「何か憧れとかそういうのも?」
「ありませんよ。俺は、普通の高校生でいることに満足しているし、それ以上を求めようとも思いません」
 きっぱりと言い切る雪彦に、鳴海はそれ以上何かを言おうとはしなかった。
 満足しているのなら、何故モッシュピットに落ちてしまったのか。どうしてあの時オーディエンスに対して諦めの表情を見せたのか。納得や妥協とは程遠いその姿勢に対して、鳴海は疑問を感じていた。
 だが、それを口にするべきでは無いとも思っていた。
 面会謝絶中の扉と、ノックもせず何をすることもなく立ち止まることを「見舞い」と言った彼の行動。
 恐らくそれが、彼の心に陰を落としていることは確かだと、鳴海は考えていた。
「モッシュピットは、金曜の夜に必ず現れるんですよね? 場所はランダムで、判断方法は人気が無くなる事」
「そうだよ」
「気をつけます」
 立ち上がる雪彦を見て、鳴海はその背に声をかける。振り向く彼に、鳴海は携帯電話を取り出してぎこちなく笑ってみせる。
「良かったら、この先も連絡を取り合わない?」
 雪彦は訝しげに眉を顰めてじろりと彼を眺めると、腰に手を当てて首を傾げる。
「干渉しすぎちゃいけないってあの飴の人が言ってませんでした?」
「めちゃくちゃ忠告された。人の問題に首突っ込むなって」
 でも、と鳴海は困ったような顔を浮かべて雪彦を見る。
「俺より年下の奴が、夢も希望も無いみたいな顔してるのは、嫌でさ」
 鳴海はそれ以上何も言わなかった。黙って携帯を差し出し、雪彦の対応を待っている。雪彦も、彼の携帯を見つめながら黙り込んでいた。黙りこくった二人の間を見舞いに来た子供が不思議そうに通り抜けていく。室内のざわめきや、館内放送の流れる中、彼らの間だけはひたすらに無音だった。
 余計なお世話だと言ってしまえば済む話だと、雪彦は理解していたし、恐らくそのたった一言を口にしてしまえば、目の前の青年がこれ以上自分に関与しないだろうということもちゃんと分かっていた。
 なのに、どうしてかその言葉が出ない。
 あの時、この手は逃げることを諦めた自分の手を確かに取ってモッシュピットから連れ出してみせた。飴の女と違って力も無く、自分と同じくオーディエンスという化け物に対応できない丸腰なのに、だ。
「……」
 憮然とした表情のまま雪彦はポケットに手を入れると、携帯を取り出す。途端に鳴海の顔がにこやかになるのを見て、なんだか少し恥ずかしくなって顔を逸らしてしまう。
「別に、話すくらいなら構いません」
「ありがとう」
 そう言って笑みを浮かべる鳴海に、雪彦は下唇を噛んだ。
 本来その言葉は、助けてもらった側の人間が口にすべき言葉であって、救った側が口にする必要の無いものだ。
 雪彦は口を開きかけて、それから閉じると、それ以降何も喋らなかった。

   ・

「砥上雪彦、ねえ」
 池田はそう口にすると、携帯のディスプレイに表示された番号と名前を眺めながらグラスに波々と注がれた日本酒をちびちびと口にする。
 週明けの酒場は穏やかで居心地が良かった。セパレートされた個室に池田と鳴海は向い合って座り、各々のペースで酒を愉しんでいた。
 ジョニーと出会ってオーパーツに所属を決めたことや、レモンドロップスに関する話をある程度彼には伝えておきたいと思っていたのだ。
「オーパーツに所属ねえ、悪くない選択だと思うよ。他のレーベルに比べて落ち着いているし、縄張り争いにも無関心だから殺伐としてもいない。君が戦えない理由を探るには持って来いだ」
「俺もそう思います。でも、どうしてジョニーはオーパーツなんてレーベル名にしたんでしょう」
「場違いな物、ねえ……。多分あの人は、時代が変わったことを受け入れたんだろうね」
「時代が、変わることを?」
「ジョニー・ストロボは、大きな被害を出した抗争まではラスト・ホリデイを唯一下せるかもしれないと言われていた男だったんだ。結果は敗北に終わり、あの日を境にブッキングを引退してしまった」
「ジョニーがブッキングを?」
 道を踏み外した男、と始めて彼に会った時ジョニーは自分をそう称していた。
「レーベルという制度を敷いて抑制を敷いたラスト・ホリデイと、オーディエンスを倒すことでモッシュピットの消化を目指したジョニー・ストロボ。あの抗争の日、二人の間で何かあったのでは無いかと言われているくらい、彼らの道は真っ二つに別れている。結果としてラスト・ホリデイがこのモッシュピットを牛耳る結果になったわけだけどね。だからオーパーツ。時代から浮いてしまった存在」
「そんな意味が……」
「これはプレイヤー間での噂だよ。あくまで噂だ。抗争の時他人を見ている余裕なんて無かったらしいから二人がどんな状況だったのかあまりはっきりと知っている人が少ないんだ」
「ラスト・ホリデイとジョニー・ストロボのブッキング……」
「ブッキング史上最大の被害を出した抗争の中心だからね、壮絶だったんだろうさ」
「池田さんは参加していなかったんですか?」
 鳴海が尋ねると彼は首を横に振った。
「生憎ね。あと少し早く迷い込めていたら参加出来たかもしれないけど、右も左も分からないプレイヤーが突っ込むなんてそうそう出来ないさ。それこそムーンマーガレットみたいな無謀な子でもなければ」
 池田は目を細めるとグラスを一気に空にして、店員に次の酒とつまみを注文する。前回のムーンマーガレット、もとい律花との戦闘を思い出して少し機嫌を悪くしたのだろう。セオリーを打ち破った強引な勝ち方をされたのだから。もっと駆け引きのある戦い方が彼の得意とするやり方なのだろう。
「ムーンマーガレットと言えば、連勝記録を着実に伸ばしているよ。注目しているプレイヤーやレーベルもどんどん増えてるらしい」
 池田の不愉快そうな言葉を聞いて、鳴海は彼を立てるような励ましの言葉を口にしつつ、内心その情報に心を踊らせていた。彼女は真っ直ぐに進み続けている。簡単には追いつくことの出来ない速度で、まっすぐに……。
「あの『パイドパイパー』も目をつけてるって噂だよ。全くそうそう声のかからないところから話が来てるのに、どうやら彼女にレーベル入りする心づもりが無いらしいのがまた憎いな。あそこまで単独を好むプレイヤーも最近じゃ珍しい」
「パイドパイパー?」
「ラスト・ホリデイの作ったレーベルだよ。傘下含めて恐らくモッシュピット内で一番幅を効かせてる。流石に名のあるレーベルだけあってプレイヤーも相当な手練で、特に彼の下に付いている三人に関してはあの抗争で終盤まで残っていたプレイヤーだし」
「そんなすごいレーベルなんですか……?」
「パープル・アップル、メトロポリス、レディバードと言えば相当なやり手で有名だし、そうそう挑もうとも思わないよ。ラスト・ホリデイからの信頼も厚いらしい」
「そんなのを、彼女は……」
「この調子だと三人衆と一戦交えるのもそう遠くないだろうね」
 鳴海は目の前のグラスをじっと見つめる。すごい速さで駆け上っていく彼女に追い付くにはどうすればいいのだろう。一体何をすれば自分はプレイヤーとして武器を顕現出来るようになるのだろう。
「なんにせよ、焦って良い事は無いからね。急ぐつもりで選んだ道が、実は遠回りなんて事はよくあるものだ」
 顔を上げると池田は微笑んでいた。鳴海は自分の中の考えを見透かされたのが少し恥ずかしくて、何も言わずグラスの酒を一気に飲み干すことで誤魔化した。
「そういえば、池田さんはどこの所属なんです?」
「ガゼルシティって所だ。なかなか良い所だよ」
「有名なんですか?」
「それは聞かないでくれ」
 池田はそう言うとやってきた酒を一口飲んで、溜息にも似た吐息をテーブルに吐いたのだった。

   ・

 面会謝絶のプレートを見る度に雪彦は思い出す。自分自身の無力さと臆病さを。
 夜闇に包まれた校舎は昼間の活気を吸い尽くし、静謐さに身を包んでそこに立ち臨んでいた。照明の落ちた廊下に薄らと点灯する赤いランプの光が、校舎の陰鬱さと気味の悪さをより一層引き立てているのは間違い無い。
 雪彦は閉ざされた校門に足を掛けて乗り越えると正面玄関を横切り校舎裏へと向かう。駐車場と正面玄関の間の普段あまり誰も立ち入らない通りで、むき出しに設置された非常階段と、車道と校舎の敷地を区切るように設置されたフェンスの前には今はもうほとんど使われることのない焼却炉とビニール袋の転がるゴミ置き場がある。
 ここで、彼の幼馴染の氷芽野唯―ひめのゆい―は発見された。
 非常階段の一番上から飛び降りたらしいが、誰もその姿は見ていない。いや、誰も彼女の動向に興味が無かったと言う方が正しいのかもしれない。クラスからも、仲の良かった雪彦からも避けられた彼女は、ここで一人寂しく死を選ぼうとしたのだ。
 ただ、幸か不幸か(雪彦にとってすれば幸いだった)ゴミ置き場に積み重ねられたゴミがクッションの役割を果たしたお陰で彼女は一命を取り留めた。もしも他の場所で飛び降りていたら、もしもゴミ置き場のゴミが回収済みであったなら、今彼女はもう帰らぬ人になっていただろう。
 雪彦は非常階段に厳重に張られたテープをくぐり抜け、柵をよじ登ると一段一段数えながら登っていく。

――ひとつ。

――ふたつ。

――ななじゅうに。

 登り終えて、雪彦は手すり越しに真下に目をやる。先程まで足元にあった地面がとても遠い。ゴミ置き場も随分遠くに見えた。
 この場所から、唯は飛び降りたのだ。
 雪彦はごくりと喉を鳴らして、それから手すりに足をかけて跨ぐと、細くて不安定な手すりに腰掛けた。両足は外に投げ出され、体勢を保つために使われているのは非力な二本の両腕だけ。そんな中で雪彦は更に身を乗り出して真下を見つめた。
「ここから、本当に飛んだのか? 唯……」

――突然に強い風が吹いて、とん、と背中を押されるように雪彦の身体が前方に傾いた。

 両手が手すりから離れる。
 ふわりと内蔵が浮き上がり、血の気が引いていく。身体中の毛が逆立ち足は安定を求めてばたつく。
 ああ、落ちるんだと思った瞬間、脳裏を沢山の記憶が駆け巡った。

――氷芽野の奴。まるで私達が悪いみたいな事言ってあの子庇ってさあムカツク。

――そうなる原因を作ったのは向こうなのにな。俺達を責めるとかお門違いだろ。

――少し顔とか頭が良いから調子乗ってるんでしょ。良い子気取っちゃってさ。

――最初はスゲー反抗してきたけど今じゃもう何も言わなくなったよな。偽善者ぶってるからこうなるんだよ。

――図書室で一人で本読んでた。もしかして今本しか友達いないんじゃないの。

――さっさと消えてくんねーかな。

――雪彦、確かお前幼馴染だったよな。



『お前、ちょっとアイツの事避けてみろよ』



 後頭部を強く打った。
 咄嗟に重心を後ろにしたお陰で体勢を整えられたが、勢い余ってそのまま手すりから落ちてしまった。後頭部に走る鈍い痛みに悶えながら、雪彦は滲む涙を袖で拭って、目を開けた。
 満点の星空だった。
 雲一つ無い濃紺の夜空に、幾千もの小さな星達が散っていて、それぞれが個々に光を放っている。自己を主張するように、それは一つ一つ特徴があるように思えた。
 燦然ときらめく星空を眺めながら、雪彦はオーディエンスに襲われた日のことを想う。
 助けないで欲しかった。
 だってほら、俺はこんなにも臆病なんだから、誰かの手でも借りないと自分に罰すら与えられない。
 咄嗟に逃げて、あの時もこの後頭部の痛みくらいで済む道を選んだ。避けた時の彼女の表情をちょっと伝えるだけで、奴らは喜び、自分は標的にされなくて済んだ。
 穏やかで、少し目を細めて笑う彼女の目が、とても大きく見開かれていた光景を、伝えるだけで……。
 彼女は、飛んだ。
 雪彦が咄嗟に後ろに逃げたこの手摺から、確かに飛び降りたのだ。
 誰も見ていない中で。
 誰にも引き止めてもらうこともなく……。

「……なさい」
 溢れる涙は、痛みのせいか。いや、決してそうでは無い事を雪彦は知っていた。
「ごめん、なさい……ごめんなさい……ごめんなさ……い……」
 涙と一緒に溢れてくる言葉は冷たく湿っていた。嗚咽も、こめかみを伝う涙も、誰かに拭われていいものでは無くて、幾重にも溢れて流れる涙の轍は、雪彦の心に同じ道を彫り込んでいく。 

 二度と消せないように。

 決して許されないように。

 涙を流しながら、雪彦は病院で出会った青年の姿がちらりと脳裏に浮かんでしまう。
――古都原鳴海。
 年下の奴が夢も希望もない顔してるのが嫌だと彼は言った。
 自分の価値観で勝手に人を決めつけないで欲しかった。
 誰もがお前みたいに真っ直ぐ突き進んでいるわけじゃない事を理解しろよ。何の問題も無く歩んできたみたいな顔しやがって。あのお気楽そうな顔を一発ぶん殴ってやるべきだった。二度とその面見せるなとあの時構わず言ってやるべきだった。
 なのに、どうして自分は彼の提案を受け入れてしまったのだろう。
 ポケットから携帯を取り出して、電話帳を起動する。
『古都原鳴海』
 どうして自分は、彼の連絡先を受け入れてしまったのだろう。
「……最低だ、どこまでも最低だ俺は」
 あの時握られた手の温もりが忘れられない。
――保身の次は、救済か……。
 雪原はひどく腹が立った。
 都合良く差し伸べられた手を取って、救われたいと思っている自分に対して。

15

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