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第二話「ムーンマーガレット」

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 白部律花―しらべ りつか―にとって、他人から賛美を得るのはゲームのようなものだった。
 成績を上位に配置し、校内で特に中枢の役職を手に入れ、そして趣味は多彩で、誰とでも好意的な会話を行えるように備える。そして何より他人を立てる事が得意であるべきだと彼女は思っていた。
 トップに立つよりもナンバーツーの方が動きやすくて、反発も少ない。出る杭は打たれるなんて言葉もあるくらい、人というものは頂点に立つものを引きずり落としたがる。人類みな平等とはよく言ったものである。
 ただ、そうして作った「敵の居ない世界」を維持するには、些か体力が必要だった。自分の中で生じた感情を抑えているうちに、まるで時限爆弾でも抱えて日々を過ごしているように律花は思えてきたのだった。
「リツカは本当に良い子だよね。嫌いっていう子いないんじゃない?」
「皆にも好かれて、成績も優秀とか……リア充ってアンタの為にある言葉よね」
「ずっと前からリツカさんの事が好きで……。清楚で、誰からも好かれてて、俺、ずっと憧れてたんです」
「白部はよく出来た生徒だ。この調子なら推薦も大丈夫だろう。これからも気を抜かずがんばれよ」
 思い通りの言葉が手に入るほど、心の中が摩耗していくのを感じた。自分が自分じゃ無くなっているような感覚。白部律花という個人が透過して消えていく。皆の中にいるけど、皆の中にいない。私は本当に皆に好かれているのだろうか。本当に優秀なのだろうか。模範的な生徒であることに固執した結果、律花にとって学校生活は最早ゲームと化した。
 そんな現実味の無い世界で苦痛を感じながら過ごしていた時、律花は新しい世界と出会ったのだった。

 楽器で黒い人型をただひたすらに殴り飛ばす世界は、律花をすぐに惹き込んだ。

 他にも大勢いるプレイヤーと戦う時もあった。負ける事も少なくは無い。
 だがこの世界は嫌いではなかった。むしろ、学校で失いつつあった白部律花という個人とまた会えた気がして、彼女はとても嬉しかった。
――ここではいい子ぶる必要が無い。成績優秀である必要も無い。誰かの風評に怯えることも、親の言いなりになることも、大衆に好かれる白部律花である必要が無いのだ。
 いつしか律花はその世界で有名になっていった。
 深く帽子を被ったボーイッシュな少女の、少女とはとても思えない戦績と、必ず月を背に飛んでやって来る姿。手に持った血のように紅いSGと、トドメを刺される前に唯一見ることの出来る彼女の素顔。
 この世界で律花は、いつの間にか「ムーンマーガレット」と呼ばれるようになった。律花自身がそれを気に入っているかと言えば、正直な所微妙だったが、自分が認められていくのが嬉しいのも事実だった。
 だからその日も、いつも通り律花はムーンマーガレットとして豪快に活躍して、脚光を浴びて帰るつもりだった。
 ただのベースを持った男をプレイヤーと間違えるまでは……。

   ・

――昨夜の出来事が無くなれば良いのに。
 胸の中にそんな思いを秘めたまま、律花は作り笑いを浮かべていた。
 目の前に座る男性に対して初めに抱いた印象は、パッとしない平凡そうな優男というものだった。本来なら見向きもしないそんな男と何故共に、それも駅前のファミレスにいるかと言えば、彼女の勘違いで盛大に彼のベースを叩き壊してしまった事が原因だった。
 ウェイトレスが料理を持ってくるが、やけに沈黙が続く男女の扱いにどうにも困っているようで、ちらりちらりと二人を見て小声でハンバーグとライス、グラタンになりますと言うとテーブルに置いてそそくさと言ってしまった。
 律花は無言で彼の前に置かれたハンバーグとライスを自分の元に確保すると、彼にグラタンを送った。鳴海は無言でそれを受け取ると、スプーンを手にとって黙々と食べ始める。
 傍らにはギグバッグがあるが、丁度真ん中の辺りで不自然に折れ曲がっていて、それが更に律花の罪悪感を深めた。
「……あの、私が奢りますから。男性ですしそれでは物足りないでしょう?」
 沈黙に耐えかねて律花がそう言うと、彼は一瞬だけこちらを見つめ、それから再びグラタンを口に運ぶ作業に戻った。ほとんど機械的な勢いで食べていく姿を見て、律花はどうにもいかない状況に苛立ち初めていた。
「普通に人が迷い込んでくるのは良くあることだから、何時もなら適当に逃すんですけど、まさか本物の楽器を持って迷いこんでくる人がいるなんて思ってなかったから……だから……」
「だから問答無用で殺しに掛かった……と?」彼はやっと口を開いた。
「プレイヤー同士なら何か対応してくるだろうし……それで……」
 鳴海は小さく溜息をつくと、スプーンを置いた。
「あの場所は、何なの?」
「場所、ですか?」
「そう、俺が迷い込んだあの場所だよ」
「知りたいんですか?」
「ああ知りたいね。どうして襲われたのかもそうだし、どうして自分があんな所に迷い込んだのかも気になる。あと白部律花さん、だっけ? 白部さんが一体あそこで何をしていたのか、何故ギターを振り回していたのかも気になるね。あとはーー」
 鳴海は人差し指で二回テーブルを叩き、その指先を彼女の胸元に向けた。
「昨日の夜とは随分と服装が違うのも気になるね」
 律花は自分の胸元に目を遣る。モスグリーンに白いラインの入ったセーラー服に、飾り気の無いセミロングの黒髪。プリーツの整ったスカートから覗く足はひざ下までグッと白いソックスが引き上げられ、よく磨かれたローファが光を受けて艶やかに燦めいている。
 再び彼女の顔に視線を戻す。赤く縁取られた眼鏡だってそうだ。あの時は掛けていなかったはずだ。
 全身を隈なく観察する鳴海に、律花は少し不愉快そうに目を細めると、自分の胸元を抱き留めるように両手で隠す。細くて白い手先が糊のきいた制服をくしゃりと歪める。
「……見ないでください」
「そんな痴漢でも見るような目を向けないでくれよ。俺は、ただ、こんな子があの夜俺を助けてくれたとはとても思えなくてさ」
「助けた?」律花はきょとんとする。
「だって君が来てくれなかったら、俺は今頃あの化け物達に……」
 目の前の少女は暫くじっと鳴海を見つめる。その瞳に敵意はまるで無くて、あの日見た獰猛さは見られない。そう、彼が見惚れた彼女とはどうしても思えないのだ。

「あ」

 暫く続いた無言は、彼女のたった一言で破られた。
「そうですよね、私が助けたんですよね! そう、危なかったんですよ! 私があの群衆に飛び込んでなかったら今頃――」
「そうだよな、俺も獲物だと思ってたんだもんな」
 ぐ、と言葉を詰まらせる彼女を見て、鳴海は深く溜息をついた。
「大漁の獲物がいる! ラッキー……なんて思いでやってきて、ついでに見たら楽器持ってる奴がいる。ついでに手応えありそうな敵まで出てきたからついでにやってやろう、と」
 ちらりと彼女の方を見ると、彼女は目を伏せて下唇をぎゅっと噛み締めていた。何も言い返せない、という悔しそうな表情を見て、鳴海はもう一度深く嘆息し、気分を変えようと水を口にする。
「まあいいさ、それは置いておくとしよう」
「水に流してくれるんですか?」
「楽器の弁償はちゃんとしてもらうけどな」
「……ケチ」
「ケチじゃない! 命を助けて貰えたところまでならありがとうで済んだんだ! 化け物に囲われてる時点でおかしいことに気づいても良かっただろう!」
「元はといえば貴方が……」
 律花の言葉が止まる。鳴海の言葉を切っ掛けに徹底抗戦に出ようと意気込んだ瞬間に突然彼女は表情を青くし、それから身なりを整えて椅子に座ると両手を膝に載せた。その姿を鳴海が不審がっていると、後ろの席から彼女の名前が聞こえてきた。
「こんにちは、白部さん」
 同じモスグリーンの制服に身を固めた少女達が次々にやってくると、席で縮こまる彼女に声をかけ始める。
 律花は眼鏡を両手で丁寧に直すと、首を傾いでにっこりと微笑み、そして先刻よりも二つ三つ高く可愛らしい声で、言った。
「あら、皆さんお揃いなのですね」
 鳴海の背筋に悪寒が走った。これが果たして昨夜自分の周辺を取り囲んでいた化け物をなぎ払い、打ち倒し、獰猛な笑みと共に暴れ回っていた少女なのだろうか。混在するイメージを纏め上げようとするがどうにも枠に収まりきらない。
「白部さん、この方は?」
 顔を顰め眉根を寄せている鳴海を一瞥してから、少女の一人がそう律花に囁く。律花はああ、と言葉を濁しながら鳴海に向けて目を細めると、髪に手をやり軽く梳かす。
「先日私の財布を拾ってくださった方でして、そのお礼がしたいと今日お呼びさせて戴いたんです。ほら、色々と大切な物が入ってるから、お食事位はと思って」
「お財布、ですか。それは困りますね」
「ええ、それでこの方に何かお礼を、と言ったところ、そんな大した事はしていないからと一度は遠慮されたのですが、それではこちらの気も済まない、と目についたここでお食事を……」
「白部さんがこんな所に珍しいと思っていましたが、成程そういった理由だったのですね。こういった場所に入るとご両親が五月蠅いと言ってましたからおや、とは思っていたんです」
「この件に関してはお父様やお母様にも伝えてありますし、皆さんがご心配なさる必要はありませんよ。でも、心配してくれてとても嬉しいです」
 全く流暢に嘘が出てくるものだ。鳴海が目を細めていると、その視線に気がついたのか、律花は少女たちの一瞬の隙をついて鋭い眼差しをこちらに見せ、それから再び笑みを浮かべる。
――口裏を合わせろ。
 成程彼女が裏表ある理由はどうやらそこにあるらしい。鳴海は無言のまま頷くと、生温い作り笑いを浮かべながら女子生徒達が過ぎ去るのをやり過ごすのに協力することにした。
 殺されては敵わない。


「それで、本題に入っても良いかな」
 即興で優等生を演じたのが随分疲れたのか、先程よりも律花の表情は窶れて見えた。相当な負担が掛かる事を毎日やっているのだとすれば、夜にあんな獰猛になることになんとなく納得もできた。
「本題?」
 机に突っ伏していた彼女はそう反芻した。どうやら言い返す気力も起こらないらしい。
「あの世界のことさ」
「あの世界って……【モッシュピット】の事?」
「モッシュピット?」随分と荒々しい名称だと鳴海は驚く。
「私も詳細は知らないけど、毎週金曜日の七時を過ぎると、あの空間が生まれるの。誰が付けたのか、意味も分からないけど、あの場所を知ってる人は皆【モッシュピット】って呼んでる」
「週に一度だけ?」
「月に四回だけランダムに発生して、零時になると消えていく。そのモッシュピットが生まれた空間は、どうやら別世界になっているみたい」
「元々そこにいた人は?」鳴海の問いに律花は首を振る。
「いない。本当にそっくりな別空間が生まれて、そこに特定の人間を引きずり込んでいるみたい」
「特定の人? 何か入る条件があるのか?」
 律花は頷くと、一呼吸置いてから、口を開く。
「怒り、悲しみ、不満とか、ネガティブな感情を強く抱く人は迷い込みやすいって聞いたわ」
 ネガティブ、か。鳴海は昨夜を思い出す。確かにあの日自分はネガティブな感情を抱いていたのかもしれない。自分自身の中に沈殿していた不安や不満で頭が一杯だった。
「その顔を見る限り、迷い込んだ理由に思い当たる節はあるみたいね」
「さっきから律花ちゃん、キャラがブレ過ぎじゃ……」言い終える前に彼女はテーブルに両手を叩きつける。顔が真っ赤だ。耳まで茹で蛸のようになっている。
「ちゃん付けしないでください! あとキャラも別に関係ないじゃないですか!」
「じゃあ白部さんで、御機嫌よう」
「律花で良いです! もう呼び捨てで統一してください!」
 一通り叫び終えて落ち着いたのか、彼女はグラスを手に取るとドリンクサーバーに向かう。
「飲んで大丈夫なの?」
「別に一から十まで親の言いなりになってるわけじゃ無いですから」
 そう言って、律花はグラスをぎゅっと握りしめる。
「……あの人達には、あの人達の望む私を見せていれば良いんです」
 小さくそう呟くと、ドリンクサーバーに彼女は向かう。鳴海は暫くその寂しげな後ろ姿を見ていたが、やがて居心地が悪くなると自分もグラスを手に取り、ドリンクサーバーの元へと向かう。
「それで、あの化け物の存在理由とかは分かってるの?」
 隣で氷を入れている鳴海を一瞥してから、律花は目を細めた。
「あれはオーディエンスって言うそうです。なんていうか、人のネガティブな感情に強く惹かれるらしいです」
「そっちの発生源もネガティブな感情、なのか」
「世の中で我慢してる人って沢山いるし、それを十分に発散できている人なんてごく少数に満たないじゃないですか。私個人の観点ではありますけど……。多分、そんなマイナスが形になったのがモッシュピットで、オーディエンスなんじゃないかと私は考えています」
「つまり無くすには人々の抱くマイナスを解消しなくてはいけない、と」
「そんなの無理でしょう? あと、私達がオーディエンスを解消していかないとどうやら発生箇所も増えるみたいなんです。これは私よりも長くあの場所を知っている人から聞いた話なんですけどね」
「増える?」ドリンクを入れ終えた二人は共に席に戻っていく。
「私達……プレイヤーって言うんですけど、一度大きなやり合いになってプレイヤーの数が相当減ったそうなんです。それで各所で発生していたモッシュピットの処理が追いつかなくなった結果、一度爆発的に増えた事があったらしくて……」
「ちなみに、迷い込んだ奴はどうなるんだ?」
「発狂します」
 その言葉に、鳴海は足を止めた。ニ、三歩歩いてから、律花も足を止め、振り返る。
「あの場でオーディエンスに捉えられても命はあります。ただ、人の形を成すまでに凝り固まったネガティブな感情を受けて、平気で居られる人はそうそういません。それは鬱であったり躁状態であったり……。あるいは粗暴な性格になったり、真逆の性格になったり……。他者から見れば化けてしまうんですよ。少なくともそれまでの人では無くなってしまう」
「自分が自分でいられなくなる、ってことか……」
 もしあの日捉えられていたら、あの手が届いていたなら、今自分はどうなっていたのだろうか。そう考えると、鳴海はあまりいい気分はしなかった。本当に彼女に命を救われていたという事が実感できる。
「だから、私達のやっていることは世界のリフレッシュみたいなものです。凝り固まったマイナスを吹き飛ばして、出来る限り現実に出さないようにする。私達は私達でちょっとした週末のゲームが出来る。プレイヤーもオーディエンスも、意外とうまく関係が成り立っているんです」
 そう言って微笑む彼女に、鳴海は複雑な顔を浮かべることしか出来なかった。
 再び向かい合うように席につくと、律花は入れてきたメロンソーダをストローで啜って、美味しそうに表情を和らげる。この姿だけ見ていれば普通の女子高生なのだが……。鳴海も同じようにコーラに口をつける。
「それで、君達プレイヤーの出現理由は?」
「貴方みたいな迷い込んだ人の成れの果てみたいなものです」
 ストローを指で弄びながら律花は言った。それくらいしか無いじゃないですか、と。
「大きなマイナスを抱えているからこそ、それを発散したいと考える人は多いですから。私だって、似たような感情があるし、だからこそあの場所では開放的になっているんです。だから、多分貴方、鳴海さんももしかしたら素質はあるのかもしれませんよ?」
 グラスからストローを抜き取ると、律花はそれを鳴海に向けた。先から零れ落ちた雫がメロンソーダーの表面に波紋を作ると、底に張り付いていた気泡達が一斉に湧き上がり、音を立てて外に飛び出していく。
「それが、あのギブソンSGなのか」
「SGってあのギターの事ですか?」
 鳴海が頷くと、律花は首を小さく傾げる。
「私はギターをやったことがありませんからよく分からないけど、なんとなくあの形や色は気に入っているんです。あの場所では必ず一人楽器が武器として出現するそうですけど、私は当たりだったのかもな、なんて」
「楽器に限られているのか?」
「ええ、中でもギターは多いですけど、色んな楽器があるみたいですよ」
 だから名称に音楽に関連したものが多いのか。鳴海は納得する。どこぞのバンドマンが勝手に付けた横文字がいつの間にか流行ったのだろう。
「その、プレイヤーになればあの場所で戦えるのか?」
「戦えますよ。週末の五時間だけですが」
「ちなみに、プレイヤー同士の戦闘は多いのか? 怪我はしないのか?」
「どこまでも入念な方ですね。鳴海さんは。私なんてここまでの大半を知らずにやってましたよ」
「慎重な性格なんだ」鳴海の返答に律花は溜息をつく。
「あの世界で人は傷付きません」ただ、と律花は言葉を続ける。「楽器を出すには体力と気を確かに持っている必要があるんです。攻撃を受ければ疲労感が溜まる、疲労感が溜まれば気力がブレる。集中力も無くなる。すると楽器は消えます。そうなったら負けです」
「命の危険は無いのか」
「その分負けた後の疲労感は酷いですけどね。状況に依っては丸々二日寝てしまうことだってあります。あとは、一週間は武器の具現も出来なくなる。つまり数少ないモッシュピットに行けるチャンスを逃すことにもなる」
「【ゲーム】として考えれば、相応のリスクは十分にある、と」
 鳴海の言葉に律花はその通り、と微笑みを浮かべた。
「気になるようでしたら来週来てみます? 楽器壊したこともありますし、実際にモッシュピットで見せてあげますよ」
 その時の微笑みは、まさに昨夜の獲物を求めるような、獰猛さを持ち合わせたものだった。鳴海は生唾を飲み込むと、小さく頷いてみせた。

5, 4

  



 金曜、午後七時。
 あの日と変わらない町並みの中で、鳴海の頭にはまたあの音が鳴り響いていた。高音から低音に掛けての重量を持った四本の弦の鳴り響く音。
「貴方にも聞こえてます?」
 目の前を歩く律花はそう言って振り向くと、静かに微笑んだ。ファミレスで会話をしていた先週末の彼女の姿はもう無い。キャップを目深に被り、黒い長袖にシャツを重ね着し、デニムのホットパンツとタイツ、そして恐らくギターの色に合わせたのだろうワインレッドのハイカットスニーカーを身に付けたそれは、いつかの鳴海を救ったヒーローだった。
「ああ」律花の言わんとする事を理解した鳴海は頷いた。恐らく彼女にも聞こえているのだ。この弦の音が。
「綺麗な音ですよね。ギターってこんなしゃらんって音が鳴るんですね」
「君はギターの音が聞こえるのか」
「鳴海さんは、何が聞こえるんです?」
 彼女は振り返ると自分のこめかみを指差す。鳴海は暫く考えて、それから言った。
「いつも通り。毎日聞いてた音だ」

――空気が変わった。

 二人の会話を境にして、街灯は頭を垂れるように光を弱め、道は静寂をたらふく喰らって膨らみ、建物はまるで怯えるように息を潜めた。
 一度経験していても、この感覚はどうにも慣れないものがある。まるで何もかもが息絶え、孤独に押し込められたみたいで気持ちが悪い。耳を澄ましても聞こえるのは無音だけ。飽和した空気が行き場を失ってのたうち回るような、そんな窮屈さに胸が引き締められる。
 からり、と音がして、鳴海は前に立つ律花の姿を再び目にした。ハイカットスニーカーと同色の、しかし月の光を孕んだそれは、とても楽器とは思えない凶暴さを内在している。
「化け物は、今日は居ないのか?」
「多分、もう狩られてます」振り向くこともせずに律花はそう口にした。
「狩られている?」
「以前から約束があったんですよ」
「……ブッキングってやつか?」
 理解が早くなりましたね。漸く振り向いた彼女の顔はそう言っていた。
 同時に、奥の方からからり、からり、と律花の手にするそれと似た音が聞こえ始める。音は次第に大きくなり、やがて街灯に人の影が視認できるようになる。建設物に囲まれ、一本道のこんな逃げ場も無い所でやるつもりなのだろうか。鳴海が不安に駆られた顔をしていると、律花は首を小さく傾げた。
「どうしたんです?」
「こんな道端で、良いのか?」
「いつもと変わりませんよ」
「もっと、隠れたりとか、地の利を活かしたりとか……そういうが出来た方が……」
 あはは、と律花は笑った。
 それから、ギターのボディを振り上げると自分の肩に担いでみせる。
「そんなチマチマしたことやってるの面倒くさいし、キモチヨクないじゃないですか。隠れられて時間稼がれるのも大っ嫌いだし」
「だからこんな逃げも隠れも出来ない場所で?」
「当たり前ですよ。私は相手をおもいっきりブチのめしたいだけなんだから」
 真っ直ぐなのか、獰猛なのか、それほど頭を使って現実で優等生を演じているのが苦痛なのか、ともかくこちらの白部律花の言葉を聞いて、鳴海の目が回る。最早ここまで来ると多重人格の疑いを抱いてしまう。あの清楚で賢そうな少女は一体どこへ行ったのか。
「待ちわびたよ、ムーンマーガレット」
 現れた男はそう口にすると、ギターを彼女と同じように担ぎあげてみせる。形状は彼女と同じギブソンSG。ただカラーリングは黒。ピックガードまで黒いので、夜に溶け込んでいるようだった。
「……ムーンマーガレットって呼ばれてるのか?」
「私が名乗ったつもりはないし……」キャップで纏めあげた髪の間から見える耳が赤いのを見て、成程事実なのだろうと鳴海は思った。
 街灯の下に現れた男の服装はスーツ。それも随分とくたびれている。空いた手に持っていた鞄を手にすると彼はネクタイを引き千切ろうとするみたいに強引に緩めてシャツのボタンを外す。
「君の噂はよく聞いてるよ。ボーイッシュな身なりをした少女がこの辺で暴れ回ってるとね。駈け出しだが随分と戦績も良いと聞く。一度やってみたいと思ってたんだよ」
「嬉しいねぇ……。漸く私にもファンが出来たってこと? アンタもわざわざ大切な休日ぶっ潰される為に来るとはいい趣味してるよ」
 鳴海は思わず目を見開く。律花の口調が、がらりと変わっている。
「俺もここでそれなりに活動してるからな、君みたいなのが暴れ回って仕事帰りの愉しみを横取りされるのも正直シャクなんだ」
「じゃあ守ってみろよ、私からさ」
 律花がギターを相手に向け、不敵に笑みを浮かべた。先手は譲ってやる。鳴海にはそう見えた。
「口が悪い女だなぁ……ったく!」
 男が跳んだ。
 道のど真ん中に傍若無人に立ち臨む律花に向けて真っ直ぐに跳んでいく。
 律花はギターを真正面に構えた。
 だが、男は律花と衝突直前に左足で地面を強く蹴ると律花の左に進路を強引に変え、そのまま壁に着地して即座に彼女の真横目掛けてギターを振った。律花はそれを右に飛ぶことで間一髪逃れ、後方に飛び去る直前彼のギターに自らのを打ち付けて男の体勢を崩しにかかる。
 着地と同時に開き切った男の懐目掛けて彼女は飛び込むと、左足を軸に飛び込んだ勢いを右足に込め回転、彼の脇腹に一撃を叩き込む。強烈な蹴りを受けて男は吹き飛んでいく――が、落下の寸前ギターを地面に向け思い切り叩き込むと、その衝撃で強引に身体を起こし、最後には両足でうまく着地することに成功する。
 微笑む律花と、脇腹を抑えて目を細める男。
 その間に挟まれた状態で、鳴海はこの戦闘が常人のものではないことを思い知っていた。
 先週襲われた時から感じていた事だが、どうやらこの空間【モッシュピット】ではプレイヤーと称する人間の身体能力も飛躍的に上昇しているらしい。でなければこんな細身の少女の一撃で成人男性が吹き飛ぶなんてそう無いし、何より彼の跳躍、強引な進路変更なんて芸当できるわけがない。
「来なさいよ。別に怪我してるわけじゃないでしょう?」
 帽子の下から不敵に微笑み余裕を見せる律花に、男は鋭い視線を向けている。何処かに慢心があったのだろう。女であることか、はたまた自身が狩場としているホームを利用しているからか、攻撃の寸前ついありもしない痛みを恐れてしまったか。何にせよ、今この状況はどうにも好ましくない。
 男は手にしていたギターを本来の【正しい】持ち方に直すと、いつ、どこから出したのか右手に握り締めたピックをコインを弾くみたいに宙高く弾くと、それを横薙ぐようにして再び手にする。
「殴り合いだけがブッキングじゃねえんだよ、小娘が」
 乱雑な言葉遣いと共に男はとうとうジャケットを脱ぎ捨てる。律花は一連の光景を面倒くさそうに見ながら、帽子の縁をそっと撫でる。
「それ、私大っ嫌い」
「お前の都合で何もかもが動いてるわけじゃないからな。そういうこともあるさ」
 男の言葉を断ち切るように律花はギターを地面に叩きつける。六本の弦が震える。それは調律すらまともになっていない音だった。あのままもしギターを【弾く】事になっていたら、随分と気持ちが悪い。
「私ね、思い通りにならないものをほっとけない質なのよ」
 律花は叩きつけたギターを両手で握り締める。不快そうな言葉を漏らしながら、帽子の奥の目が輝いているのを鳴海は見た。挑戦か、充実か、それとも自分の中で日々増長する不満の捌け口を見つけたのか。
 何故だろう、このゲームを鳴海は今日初めて見る筈だ。
 それなのに、どうにも律花が敗北する姿が思い浮かばない。男は恐らくこれから奥の手を出すのだろう。それも彼女が嫌うもので、恐らく男もそれを知った上で使うのだろう。
 律花は笑った。
「だから、そういうもんは全部……ねじ伏せて叩き壊してやる!」
 笑ってから、地面を思い切り蹴った。蹴って、蹴って蹴って蹴って蹴って蹴って蹴り進んで、獣のように低い姿勢のまま男目掛けて突き進んでいく。赤いボディが閃光のように鋭い線を描いていく。
 目指す場所はただ一つ。
 目の前の獲物を喰らうために。

「――――――」
 突如、音がした。鳴海にとっては日常的な六つの音。放たれたそれらに色彩を足すようにして、左の指が各フレットを押しこむ、赤い線を描きながら向かってくる少女に対し、男はその場に立ち臨んだままギターコードを抑えると、ピックを握る右手を天高く掲げると急降下、六本の鋼鉄の糸を引きちぎらんばかりにピックで引っ掻いてみせた。
 激しい音だった。力強くて、深く歪んだ音が男を発信源として広がっていく。アンプは恐らく彼自身だ。彼自身の中で増幅された感情がギターを介して音となって放たれている。
 赤い閃光が男を捉える寸前、鳴らされたギターの音によって生まれた「視認出来る壁」が彼女の目の前に発生すると、向かってきた彼女と接触、激しいノイズが生まれる。
「音の、壁……?」
 まるで他者の介入を防ぐように張られたその壁の中で、男は弦をかき鳴らしている。半径数十メートルのドーム状のそれに対し、律花はギターを突き立てて、必死にねじ込んでいる。
 恐らくこれも、このゲームの要素の一つなのだろう。鳴海は見ながら考える。ネックを握り締めてパンキッシュに叩きつけるのを直接的な打撃とするならば、音は壁、いやもしかしたらあれすら攻撃に転用できる可能性もあるのかもしれない。
「近距離は物理、遠距離やガードは……音?」
「なんだ、そろそろ決着か。今日はちょっと遅かったか」
 突然真横に現れた声に鳴海は驚き、後ずさる。青いジャケットを着た男は、黒スキニーのポケットに手を突っ込んだまま鳴海のことを不思議そうに見る。
「君も見に来たんだろう? あの子の事をさ」
「……貴方は?」
 青ジャケットは首に手を遣りながらにこりともせずに言った。
「俺はただの彼女の追っかけだよ。それより目を離さないほうがいいよ」
 彼は人差し指を律花達の方に向けた。
 鳴海が目を向けると同時に、音が破裂した。男を中心に描かれていたドームに裂け目が生じ、和音が砕け散って不協和音となって散らばっていく。ノイズを踏み倒し、散っていく不協和音を蹴散らして、裂け目を切っ掛けに律花のギターはその中を突き進んでいく。男は驚愕していた。恐らくこれはセオリー通りでは無いのだろう。
 強引に突き進んでいく律花を見る彼の目は、既に負けを悟り、恐怖すら覚えていた。その感情が彼の作っていた音にも生じたのか、無数の亀裂が走ると、次の瞬間にはドームは跡形もなく砕けて周囲に飛び散る。
 音の破片がステンドグラスのように光を孕んで輝いている。その中で、律花はギターを構えて男へと降下していく。
「毎回あれを見るのが愉しみなんだ」
 青ジャケットはぼそりと囁くように言った。
 返事こそしなかったが、鳴海もその言葉の意味を理解する。

 律花は笑っていた。
 帽子の下から現れた笑顔が、澄み切った瞳が、色白の肌が、月光を受けて輝き、その後ろ姿を音の破片がスパンコールのように燦めいて彼女を彩る。
 赤いギブソンSGを手に無邪気に笑うその姿に、怯えていた筈の男もまた、その姿に見惚れているように鳴海には見えた。
 引き伸ばされた数秒の中で、鳴海は心地よさを感じていた。夢みたいな光景だった。まさにこれはあの日憧れた景色そのものだった。
 コツさえ掴めば宇宙にだって行けるよ。その言葉を信じてやまなかったあの頃、屋根裏の偽リッケンバッカーは今、どうなっているだろう。
 つう、と頬を何かが伝うのを感じた。触れてみると、まだ暖かさの残る涙が一滴、指先を濡らした。鳴海は何も言わずそれを拭い去ると、拳を堅く握り締めた。それから戦闘を終え、地に伏す男を尻目にこちらに戻ってくる律花を強い眼差しで見つめる。いつの間にか青ジャケットは消えていたが、鳴海は気にしない。今彼に見えているのは彼女ただ一人だった。

――ぺけらん、ぺけらん。

「大勝利」
 そう言ってピースサインを作る律花に向けて、鳴海は口を開く。
 胸の奥に生まれた感情の数々を感情のままに口にし、彼女の手を取ると強く握りしめ、それから更に一言を口にする。
 律花はその言葉に驚き、それから帽子を取ると、目を細めて、そっと微笑んだ。

――ぺけらん、ぺけらん。

――からからからから。

――ぺけらかれけ、おろろろろろ……。

 エンジンの、掛かった音がした。

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